9.11テロ 犯人の心理分析

          (平成14年12月3日初出)

 

 世界に衝撃を与えたアメリカの9.11「同時多発テロ」。犠牲者やその家族・関係者の嘆き、やり場のない怒りはいかばかりか。哀悼の意とか、お悔やみという通り一遍の言葉を言えない気持ちである。

 しかしわれわれは悲しみや怒りを超えて、この事態を冷静に客観的に分析し、今後の対策に生かしていかなければならない。

 

はじめに

 

「報復」か「処罰」か

 まず、この犯罪に対処する方法としては、「報復」ではなく「処罰」でなければならない、ということを確認しておかなければならない。ブッシュ大統領も、「報復」という言葉は使っていない。テロのシステムそのものを根絶すべしと言っている。

 アメリカの対応が「報復」だという前提で議論していること自体がおかしいのだ。たしかにアメリカ民衆の中には「報復」だと思っている者も多くいるようである。しかしそのような意味づけを初めから認めたり、前提にして議論するのは、批判的な見方を提供するというジャーナリズムの使命に反する態度と言わなければならない。

 しかるに、マスコミはこぞって「報復だ、報復だ」と書き立て、すべての報道がその線でなされている。マスコミに登場する「識者」とやらも、したり顔で、良心ぶって(良識ぶって)「報復は報復を呼ぶからいけない」などと論じている。

 ではお聞きしたい、「報復ではなく処罰ならいいのですか」、「こちらが何もしなければ、向こうからテロをやめるような相手ですか」、「誰がそのようなことを保証してくれるのですか」と。

 「報復」という言葉をことさらに使うのは、「報復はいけない」「武力行使はいけない」という方向に世論を誘導しようとする一種の世論操作である。

 

犯人の動機は合理的か

 

 この場合、犯人が合理的な動機で動いているのかどうかが、最大の問題である。

 はっきり言うなら、犯人の動機の中に、どの程度狂気が含まれているかの判断が、今後のわれわれの対処方法を決める上で、もっとも重要な点として考えられなければならない。もし狂気が中心にあるとなれば、合理的・理性的な対応は無効となる。

「暴力に対するに暴力をもってしてはいけない」というような、ある種の宗教に特有の対応方法はまったく無力である。 

 そこで、犯人の心理分析が必要になる。犯人グループの中に狂気の度合いが強いとなれば、対応方法をそれなりに考えなければならないからである。

 もっとも心理分析と言っても、犯人に直接面接して精神鑑定をするわけにはいかない。しかし現象として現われた事実だけでも、相当のことは言える。とくに我々は歴史的事実として、ナチスやオウム真理教サリン事件を知っており、それらに対する多くの有益な心理分析の積み重ねを持っている。

 それらの事件と比較することによって、今回のテロ事件の現象がそれらの事件とどれくらい重なるかを確認することはできる。

 とくに今回のテロ犯罪には、いくつかの明確な特徴が見られる。それらをつなぎ合わせてみると、犯人の心理についてかなりはっきりしたことが言えると思う。

 

 一 歯止めなき犯罪

 

 この未曾有の犯罪は、日本のオウム真理教によるサリン無差別テロ犯罪以と非常に似通っている。それは憎しみの質という点である。

 オウムによる殺人事件のうち、弁護士殺害や松本サリン事件は、彼等の活動を妨害する者たちを抹殺するという明確な目的があった。しかし地下鉄サリン事件は目的なき殺人であり、殺人衝動と破壊衝動を満足させるための犯罪であり、いわゆる無目的殺人の範疇に入る。オウムの無差別無目的殺人は、精神障害からくる「憎しみ」と「破壊」の一人歩き、というより「憎しみ」と「破壊」が他の知能的意志的能力を駆使して、相手は誰でもいいから(正確に言うとオウムの場合はエリートや権力の象徴の人々に対して)「破壊」や「殺人」を実行するという特徴を持っている。

 今回の米テロ事件でも、この無目的の「憎しみ」の異常さは群を抜いている。これは単なる無差別テロではない。念の入った「憎しみ」の表現である。

 すなわち、乗っ取った飛行機の人質を道連れに自爆するというのは、大義も理性も人間性も、最後のひとかけらさえも捨て去った非情さの表現である。

 大義のためなら、悪の張本人を特定し(それが正しいか間違っているかは別として)、それに攻撃をかけるものだし、一般の民衆に責任があると認定することはありえない。人質に多少の犠牲が出ることは予想して「目をつぶる」ということはありえても、初めから殺してしまえという態度に出るものではない。

 人質を取るという方法それ自体が卑怯だとはいえ、自分から人質を殺すつもりを持っていたテロリストはいない。

 ただし正確に言うと、今回のテロリストたちには「人質」という意識はなかったかもしれない。彼らは「アメリカ人ならすべて犯罪人だ」という認識を持っていたとすると、乗客は人質ではなく、すべて犯罪者だと確信していたかもしれない。だとすると、そういう認識を持つこと自体がすでに狂っていると言える。

 今回のテロの特徴は、一般大衆を「道連れにしても構わない」というのではなく、一般大衆も権力者も区別なく「アメリカ人とユダヤ人はすべて悪者だ」と認識したときに、彼等は最後の一線を越えてしまったと言える。これは次には「アメリカに加担する者も同罪だ」という論理となるだろう。すでに「世界貿易センタービルにいる者は同類だ」という認識に立っていたことは明らかである。

 

二 合理的動機は存在するか ── 自らの心理を満足させるためのテロという可能性

 

 通常のテロには具体的主張が伴うものである。たとえば、独立を求めるとか、政治犯の釈放を求めるなど、自らの正義や大義を掲げているものである。しかしアメリカの施設を狙った一連の自爆テロにおいては、奇妙なことに「誰が何のためにやったか」という声明がない。

 正義を掲げるなら、外に向けて言い分を主張するはずである。しかし、理由も説明しないで、これだけの無差別大量殺戮をやったら、世界中を敵にまわして孤立することは必至である。だからこそ、いかに残酷で卑怯なテロという行為に出ても、正義や大義を掲げるかぎり、人質や一般民衆をなるべく殺さないように考えるし、少なくともそういうタテマエを取る。

 しかし今回のテロにおいては、そういう考慮はまったくなく、初めからその原則に反する作戦を意識的に取っている。このテロの特徴は正義を主張していない点にある。

 たしかに犯行声明を出せば犯人が特定され、反撃されるということを予想して、声明や主張を出さないのであろう。ということは、世界に対して自らの正義を主張するというよりも、味方に対して誇示するためか、自己満足のための犯行だということになる。

 少なくとも、意識的合理的な動機をもったテロとは言い難い。これこれの要求を実現するためにこれこれの手段をとる、というように、意識的理性的に考えられた戦略戦術とも言い難い。

 このことは、このテロが相手に対する要求を持ったテロではなく、自分たちの心理を満足させるためのテロなのだという可能性が高いことを示している。

 「自分の心理を満足させるため」ということは、言い換えれば無意識の動機にしたがっている可能性が高いということになる。

 無意識の動機が狂っている程度が高くなれば、それは狂気の作戦だということになる。

 

三 狂気としての憎しみ

 

 アメリカ人の乗客を、アメリカ人にぶっつけて、両方とも爆殺しようと冷徹に計画するという心理の背後には、底知れぬ憎しみがある。普通の程度の憎しみや復讐心をはるかに超えた、どろどろとした恐ろしい憎しみがある。

 このような憎しみは、どのようにして育まれたのであろうか。

 たしかに、誰もが指摘しているように、第一にはパレスチナの故郷を不当にも追われた人々とそれに同情するアラブの人たちの怒りがある。アメリカの横暴が怒りや憎しみを倍増しているという面もある。しかしそれだけで、今回のような一線を越えてしまったテロを計画させるものではない。そういう因果関係で今回の動機を考えるのはあまりに単純すぎる。

 同様に、アメリカの横暴や不公正が今回のテロの原因だという論法は大きな間違いを犯している。それはちょうど、社会が悪いから殺人が起きるのだという論法に似ている。社会の中で下積みの生活をしていても犯罪者にならないで真面目に努力している人の方が圧倒的に多い。同じように不当に故郷を追われてもテロリズムを否定して努力しているパレスチナ人も圧倒的に多い。アメリカが悪いからテロが起きたという論法は、「相手が悪いと思った人間はテロをやってもいい」と言っているようなものである。

 もちろんアメリカの態度に問題がないというのではない。たとえば、地球温暖化を防ぐための京都議定書に反対したアメリカの横暴と利己主義には、あきれはててしまった。イスラエルとパレスティナの紛争についても、アメリカは明らかにイスラエルよりである。このような身勝手や偏りに腹を立てている人は多い。

 しかし、今回のテロを計画実行させた中心人物の憎しみは、そのようなリーズナブルに理解可能な明確な動機から生まれた程度の、通常の憎しみではない。また普通考えられるような、宗教的な違いや、西欧文明に対する違和感に根を持った反発から生まれたものでもない(そういう違和感が背景にあることは確かだが)。それをはるかに超えた非合理的な、誤解を恐れずに言えば精神異常的な憎しみである。

 それはなにか具体的な動機や原因があって育った憎しみではなく(もちろんそういう側面もあるが)、まずなにか深層心理学的な理由で育まれた憎しみか破壊衝動があり、その憎しみが具体的な動機・理由・対象を探しあてたという種類のものである。

 この犯罪の中心にいる者の憎しみは、始めに対象があって起きたものではなく、始めに憎しみがあり、それが対象を次々と捜しているという可能性もある。

 では、最初にあった憎しみとは何か。 

 その憎しみはヒトラーや松本智津夫の憎しみと同じ質の憎しみ、すなわち人間や人間社会に対する憎しみ一般とでも言うべきものかもしれない。

 今回のテロ事件に見られる異常な憎しみを考えると、その中心には、ヒトラーや松本智津夫と同様に、そういう種類の憎しみを持った人物がいるとしか考えられないのである。

 

四 ヒトラー、松本智津夫との類似

 

 ここで、犯人の心理を認定するために、ヒトラーおよび松本智津夫の心理とどの程度似ているかを分析してみよう。

 

1 表面では(というより、内部の味方の中で、と言うべきか)大義をかかげて多くの支持者を参集させているが、本人の動機は病的・非合理的、すなわち度を超えた憎しみの表出が見られ、その意味で病的異常性を持っている。

 合理的な戦略・戦術を考えてやっているとは思えない。破壊、殺人、打撃を与えることに喜びを感ずる異常さを持っている。「意地」「意趣返し」「ざまーみろっ」という感情を満足させるためだけの犯罪。犠牲者が多ければ多いほど「ざまーみろっ」と喜ぶ狂気が感じられる。

 オウム真理教のサリン事件には、あきらかにそうした心理が感じられた。

表面的な目的としては、たとえば「操作を攪乱させるため」などと言っているが、深層にある本当の心理は人間社会一般に対する強く深い憎しみである。

 

2 中心に病的な心理を持った者がいて、それが大義や正義や神の意志を宣伝すると、それに洗脳された支持者が集まり、実行犯になるという構造。この構造もナチスやオウム真理教の犯罪に見られたものである。

 支持者の動機には「無理もない」ところがある。というより現代の病根が働いていることは確かである。背景にアラブ人やパレスティナ人の怒りがあることも確かである。

 しかし民衆や支持者の心理と、首謀者が持っている隠された心理的歪みとは区別して見る必要がある。

 ちょうどナチスの場合に、民衆の中にはユングがヴォータン元型と呼んだ心理が働いており、また現代文明の非人間性に対する危機感が働いていたように、アラブのイスラム教徒が現代資本主義文明に批判を持ち、その支配に対して危機感を持つことには理解できる面もある。

 しかしそれと、それを悪用して狂気のテロを組織することとは、はっきりと区別をしなければならない。もちろんヒトラーと彼を支持した大衆のあいだにも集団ヒステリーとユングが呼んだ共通の心理が働いていたように、テロの首謀者と大衆のあいだには共通の集合的心理が働いていることは十分に予想できる。しかしそれでも、ヒトラーの狂気がなければ世界大戦は起きなかったし、テロ首謀者の狂気がなければ今回の狂ったテロはおきなかっただろう。

 そして、テロの戦略戦術を決めるとき、最後に決め手となるのは、中心にいる首謀者の歪んだ心理だという場合も多い。今回のような「乗っ取った民間航空機をアメリカのシンボルに対して自爆させる」という発想には、完全に病的な狂った心理が認められる。

 

3 暴力行使のエスカレート

 もし、今までの一連のテロ(アメリカの施設への自爆テロ)と同一犯人によるものとすると、「暴力のエスカレート」という法則に則していることが指摘できる。

 たとえば、ナチスは最初は小さい暴力を積み重ね、次第に大きな暴力、そして最後は国家的規模の侵略と大戦争へと進んだ。

 オウム真理教も、最初は脱退しようとする信者への暴力、次には活動を批判したり妨害する者への暴力と殺人(坂本弁護士一家殺害など)、そして最後はサリンによる無差別テロへ。

 今回のテロも、今までのアメリカの施設への自爆テロの延長にあると考えると、同様の経過を辿っていることになる。

 

 以上の類似点の多さを考えると、今回のテロの中心には狂気があると推定せざるをえない。(なおナチスに対するユングの心理分析については、拙著『図説ユング』河出書房新社、p.87以下、および『ユング思想の真髄』朝日新聞社、p.142以下を参照されたい。)

 

五 洗脳教育の可能性

 

 しかし、もちろん一人の精神異常の人物だけで、このような大それた事件を引き起こすことは不可能である。自爆した実行犯だけでも最低19人だったというFBIの見方が発表されている。後方支援の人間も加えると、相当な数の犯人がいることになる。

 この者たちの心の中にも「アメリカ憎し」という感情があったことは確かであろう。アラブ諸国の一般民衆の中にも、「ざまーみろっ」とか「いい気味だ」と感ずる者もあっただろう。なにしろ日本の国会議員の中にも、社民党の原陽子・衆議院議員のように、自分のホームページで「『ざまーみろっ』って思っている国だってきっとある」と書いた者がいる(『産経新聞』9月15日付)くらいである。

 しかし、その憎しみから理性のかけらを奪い取り、「アメリカ人なら誰でも殺してしまえ」というところまで行くには、いくつもの歯止めを突破しなければならない。戦争で、相手を殺さないとこちらが殺されるという極限状況の中ではなく、まったく無抵抗・無攻撃の一般人を殺すことには、いろいろな心理的抵抗、逡巡、良心のうずき、迷いがあるはずである。

 たとえ心の中で「アメリカ人なら誰でも殺してしまえ」と思っても、じっさいに「アメリカ人なら誰でも殺す」を実行するところまでは、なかなか行けないものである。人間には人を殺すことへのためらいや恐怖といった感情が生得的に備わっている。その歯止めは完全ではないが、なかなか強烈に働くものである。その歯止めがはずれないと、人殺しはできない。

 たしかに人は瞬間的に怒りや恐怖にかられて、そのために歯止めがはずれて人を殺すことはありうるが、しかし長い年月をかけて周到に準備をして大量殺戮をするためには、その歯止めが完全にはずされていなければならない。その間に、ためらいや躊躇、迷い、良心、などが働くからである。

 殺人への歯止めを完全にはずすためには、周到な洗脳教育が必要になる。その殺人が正義のためだとか、神の意志にかなうものだとか、虐げられた民衆のためになるとか、悪を退治するためだとかいった正当化の理論を、狂信になるまでにたたきこまれる過程を必要としている。

 人質を巻き添えにしてでも自爆するという行為が「できる」ということの背後には、オウム真理教の松本智津夫のやった洗脳と同じ質の洗脳教育がなされているとしか考えられないのである。「ポア」の論理と、ジハードで戦死した者は天国に行かれるという論理とは、どこか似たところがある。

 ただし、その「洗脳」も、日本国内でのオウムがやったのとは異なる要素もある。外の世界とは隔離された密室で人工的に行われたオウムの洗脳と違って、イスラム教にはジハードという原理主義的要素があり、また現在のイスラム教徒全体に反アメリカ的な風潮がある。このような状況で過激な指導者が「アメリカ人を殺すことはジハードだ」と訴えれば、強く共感して参集する人間も少なくないであろう。そうした下地があるところに、同じ心理を持った者ばかりの密集したキャンプの中では、「洗脳」も「最後のだめ押し」といった感じで比較的容易になされる可能性がある。そういう意味では、この種のテロリストを醸成する敵意と憎悪をやわらげていく真の意味での和平策が根本的対策として必要になるだろう。

 

六 権威をめぐる歪んだ心理

 

 もう一つ重要なのが、この犯罪には「権威」をめぐる歪んだ心理が認められることである。この犯罪の中心にいる人物は、「父」を表わすシンボルに対する異常な帰依と反発というアンピヴァレントな心理を持っているようである。この場合には、おそらくアラーの神に対する無条件の帰依と、もう一つの「父」的なもののシンボルとしてのアメリカに対する憎しみとが、併存している。

 この人物の中では、実の父に対する感情と、アメリカに対する感情とが、重なっている可能性が高い。もしかすると彼の実の父は、資本主義社会の権化のような人物で、それに対する反発から父に反抗した前歴を持っているかもしれない。つまり「反権威主義的な心性」をもった、強い否定的なファーザーコンプレックスの持ち主かもしれない。

 フロムが『自由からの逃走』で解明したように、「反権威主義」とは、一方の権威に無条件に帰依し、別の権威に反抗するという心理を持っている。つまりオール・オア・ナッシングの心理になるのである。

 このような強烈なマイナスのファーザーコンプレックスを持つ者は、えてしてユング心理学で言う「父ウロボロス」の元型に憑かれてしまうことがある。「父ウロボロス」とは、否定的・暴力的・破壊的な性質を持ち、意識の産物である秩序や区別や認識・理性・良心を否定する傾向を持っている。つまり意識が産まれる以前のウロボロスの混沌へと逆戻りさせるような本質を持っているのである。

 今回のテロの首謀者には、この父ウロボロスの元型の働きが認められる。つまり「文明への挑戦」という言い方は、あながち大げさではない、むしろ事態を正確に言い当てているかもしれないのである。

 

結論

 結論として言えるのは、この犯罪は、精神は狂っているが知能は優秀で意志の強い人物またはグループを中心にした、「憎しみの自己表出」だということである。大量の犠牲者が出れば出るほど、また被害が大きければ大きいほど「ざまーみろっ」と感ずる者たちの未曾有の狂気による犯罪である。

 もし私の見方が正しいとすると、この犯罪に対処するには、できるだけ早く首謀者とその組織を壊滅させるしか手はない、ということになる。「報復はいけない」などという牧歌的・偽善的な議論をして時間を空費していること自体、第二、第三の犯罪を許すことになり、犯罪に加担していることになると思われる。

 ちょうどヒトラーが侵略を始めた初期に、断固として反対しないで「融和政策」をとったことが、むしろヒトラーのそれ以上の侵略戦争を許してしまったように、今回も「報復反対」を唱えることは、テロリストに有利に働くことは確かではなかろうか。

 もちろん、その場合、真の犯人を割り出して、正確に打撃を与えるのでなければならない。もし間違えたら、その報いと歴史的裁きが、アメリカに同調した全部の国と人間に下されるだろう。だからといって、これだけの犯罪を前にして、ただ手をこまねいているわけにもいかないであろう。

 日本としては国際社会の中で孤立を避けなければならないとしたら、アメリカに加担する以外の道は残されていない。しかしその中にあっても、アメリカが本当に真の犯人を割り出しているのかどうか、われわれとしてはその証拠を提出することを求め、慎重に吟味する権利がある。とは言っても、アメリカ以外ではイギリスなどの諜報大国以外は、アメリカの提出する「証拠」に反証する能力はないので、アメリカの犯人特定を信ずるよりないだろう。

 もし犯人がビン・ラディン氏以外だったらという危惧も感ずるが、そのときはまた最初からやり直す覚悟をしておかなければならない。またビン・ラディン氏とその組織を抹殺したとしても第二第三のラディンが出てくるという心配もあろう。しかし、彼ほどの資金力とカリスマをもった人物はそういるものではない。

 われわれとしては、アメリカ政府が、アメリカ大衆の中にある「報復」欲求に対して、どこまでも「犯人組織の壊滅」に限定するように、また民衆の犠牲をできるだけ少なくするように圧力をかけていかなければならない。そしてもっと大切なことは、アメリカの長期政策がイスラエルとアラブに対して本当に公平になるように、日本は独自の見識に立った外交戦略を持ってアメリカに働きかけ、イスラエルとアラブの真の和解に向けて働くことである。

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