soccer soccer サッカーW杯の誤審事件について

                (平成14年6月29日初出)

 

 スポーツは勝ち負けを争うものである。だから結果の勝ち負けが一番大切なものだと言ったら正しいであろうか。勝ち負けが一番だと言う人もいる。しかし私はそれは正しくないと思う。

 では最も大切なものは何であろうか。それはフェアプレーの精神、スポーツマンシップである。これがなければスポーツとは言えないというほどに大切なものであり、スポーツをする者は必ず最初に、また常にこのことを教わり、肝に銘じていなければならないものである。とくに審判が公正を失った場合には、何年も努力をしてきた選手はすべてが無駄になったような絶望を味わうし、観戦している者は興ざめてしまい、以後その競技への関心を失う場合さえある。

 それ以外にもう一つ大切なものがある。それは親善、コミュニケーション、人と人が仲良くなる友好である。しかしそれも公正・フェアプレーということがあって初めて達成される。公正がなければ、逆に不満や怒りや憎しみが残ってしまい、友好はだいなしになってしまう。

 スポーツにおいて最も大切なのは、公正を基本にした親善である。この観点から見ると、このたびのW杯の韓国の試合には強い疑問を感じないわけにはいかない。

 

確率論的にありえない「間違い」の偏り

 韓国戦の試合を二度見たが、最初に見た対ポルトガル戦のときに早くも疑問を感じた。韓国の選手は「これは格闘技だ」と言わんばかりに体当たりを繰り返し、私は「これはひどい」とつぶやき、どうしてファウルを取られないのかと疑問に思えるほどであった。しかし韓国の選手の体当たりに対しては、一度もといっていいほどにファウルもイエローカードも出されなかった。

 それでもポルトガルの選手は冷静さを失わないように耐えているように見えたが、しかし2、3の選手が挑発に乗ったかのように逆襲して果敢な体当たりをすると、即座にファウルを取られるかイエローカードが出され、これが繰り返されて、しまいには二人にレッドカードが出されて、ポルトガルは9人になってしまった。二人も少なくなっては勝てるわけがない。

 次は対イタリア戦。これは見なかったが、トッティの退場判定はFIFAも「誤審」と認めている。トッティ自身は「相手のファウルを審判が取らなかった」と言っている。同国総務相は「なんてスキャンダラスな審判」と怒ったという。

 次の対スペイン戦は最も多く疑問を感じた。スペインがゴールをするたびにファウルやオフサイドが宣告されノーゴール。オフサイドはテレビで見ていてもよく確認できないが、最後の右クロスから上げられたボールをきれいにヘディングでゴールしたと見えた瞬間に線審が旗を上げてボールがラインの外に出ていたと宣告した。この線審の判定は明らかに間違いである。素人目にもボールはラインを割っていなかったし、スロービデオで見ると明らかにボールはラインの内側であった。あんな明瞭な「間違い」を、プロの審判がするであろうか?

 今回の大会では審判の質が問題になっているそうで、しばしば誤審が話題になっている。しかし韓国戦の「不公平審」や「誤審」は多すぎるだけではない。単なる「間違い」が一試合にこれほど多く出るということも不自然だが、しかも韓国戦に限って三試合も、しかも韓国に有利な形ばかりだというのも、きわめて不自然であり、確率論的にまずありえないことである。

 ジーコはスペイン戦とイタリア戦の「誤審」について、「いずれも韓国が一番苦しい時間帯に退場になった。これはもう、偶然とは言えない。言っていいはずがない 」と述べている。韓国戦の度重なる誤審は「審判員も人の子、判断ミスもある」(FIFA審判委員長)という意味での通常の誤審とははっきり質の異なるものである。

 

『朝日新聞』の公正感覚欠如

 それなのに、『朝日新聞』はスペイン監督の「スペインで行われたなら、この試合はスキャンダルになっていただろう。もっと公平な審判がつくと思っていたのだが……」という感想に対して、「敗北を審判のせいにした」というコメントをつけている(6月23日付)。

 このコメントには悪意すら感じられる。「敗北を審判のせいにした」というのは、審判のせいにするのが不当な場合に言うべきことである。敗北が本当に審判の不当な判定のためだったとしたら、審判のせいにするのは正当な行為である。断固として抗議すべきであり、提訴すべきである。「審判のせいにしてはいけない」というのは、審判に不正がないという前提に立った場合にのみ言えることである。

 もっとひどいのは審判問題についての署名記事「レベル向上は必要 だが誤りもサッカーのうち」「やまぬ批判 後味悪く」である(6月24日付、編集委員 潮智史)。

 この記事は「審判の受難は、いまに始まったことではない」という書き出しで始まっている。明らかにいつもある問題の一つとして過小評価するという姿勢をとっている。「たしかに誤審はあった、ブラッター会長でさえ誤審を認めた」としながらも、「この手の審判批判を聞くと、やるせない気持ちになる」と書き、「審判も試合を成り立たせる『仲間』のはずだ。同じ仲間が身内を一方的に攻撃する。こんな悲しいことはない」と書いている。

 これは完全なすりかえと詭弁である。審判もサッカー仲間かもしれないが、役目が違う。審判とは試合を公正に保つという厳正な役目を任された存在である。それが公正さを欠いたら批判を受けるのは当然であり、むしろ厳しく批判しなければならない。批判を「身内への一方的な攻撃」と言い換えて「悲しい」と言うのは、公正の大切さをまったく無視したすりかえである。こういう身内擁護の体質が、どれほど多くの社会的不正を隠蔽し、見逃してきたであろうか。こういう屁理屈を読まされる読者こそ「悲しい」「後味が悪い」思いをさせられる。

 この記者は「不可解な誤審が続く」ことを「後味悪い」と言っているのではない。なんと審判批判が続くことに対して「後味が悪い」と言っているのである。あきれて開いた口がふさがらないとはこのことである。

 「受難」は審判ではなく、選手たち、そして一方的に不利な宣告を繰り返されたチーム、それと高度なプレーを楽しみにしていて不愉快にされた真のサッカーファンたちである。それを「審判の受難」とすりかえるのは、詭弁というよりない。というより、不正な判定をした審判を(ひいては不正な判定によって勝ったチームを)弁護したいという心理が働いているのであろう。

 この記者はビデオ判定についても、スピード感がなくなってしまうとして、「人間味を排除したサッカーなんて願いさげだ」と結論している。最後まで「公正」という観点を無視している。審判批判は公正という観点からなされているのに。

 ビデオ判定の導入によって、絶えず試合が中断されるわけではない。再現はただちにできるから、決してスピード感が犠牲になることはない。また抗議して間違っていたチームには一定のペナルティを課することにすれば、乱用は防げる。不正や誤りを防ぐことを「人間味がなくなる」という理屈で反対するのは、「公正」という原則が嫌いな人間の言うことである。

 いったい『朝日新聞』の上層部は、記事の内容をきちんとチェックしているのか。それとも記者個人に「丸投げ」で「委託」しているのか。なんとも「後味の悪い」、不可解な署名記事であった。

 

『読売新聞』も同様

 『読売新聞』6月25日付夕刊にも兵庫大教授、牛木素吉郎氏が「審判の目、ビデオの目」という題で「審判員はスロービデオを見て笛を吹くわけではないから、視聴者の批判にさらされるのは酷である。大観衆の前で地元有利の笛に傾くのも「騒ぎを起こしてはならない」という気持ちを考えれば無理もない」と書いている。

 これもスポーツにおける公正の大切さを百パーセント無視した発言である。厳正な審判の重要性をまったく否定するような意見である。こういう意見を平気で載せるというのは、『読売新聞』の見識を疑わざるをえない。

 こういうことを言える人間は、本気でスポーツをやったことがないか、本当にはスポーツを愛していないだろう。誤審をされた選手の気持ちなどまったく分かっていない。誤審でノーゴ−ルにされたスペインの選手は、「あのショックが頭にこびりついたままで、あこがれていたW杯に幻滅した」と涙ぐんだらしい。20歳。立ち直れるのだろうか。かわいそうに。こういう選手の気持ちをどう考えるのか。

 もっと恐ろしいのが、子どもたちに対する悪影響である。日ごろプレーはフェアにと教えられているのに、あれほどあからさまな間違いが訂正もされず、簡単に勝負が不正に入れ替わってしまうのを見て、いったい子どもたちはどう思うだろうか。

 

審判の選び方への疑問

 そもそも審判を誰がどのようにして選ぶのか、われわれ一般人には明らかにされていない。また彼らが買収されないという保証はない。しかしその問題についての一般の関心は低い。最も大切な問題なのに。

 オリンピックでも、かつての共産国への不可解な依怙贔屓の判定がつねに問題になってきた。先日の冬季オリンピックのフィギュア・スケートでもフランス人の審判がロシアに買収されていたという疑惑が報じられた。

 手段を選ばず勝つことを最優先にするお国柄だと、審判に目をつけるのは当然の「手段」となり、それが正当化される。共産圏の審判への「工作」は国家が行うから、買収の金も国家の秘密予算から支出されるので、多額の金額を投入できる。工作も組織的にできる。

 韓国は共産国ではないから、まさか国家が不正をすることはないと思うが、今回の韓国のサッカー試合に、買収問題が関係していなければ幸いである。ちなみに対ポルトガル戦の審判は、主審がアルゼンチン人、副審がサウジアラビア人とハンガリー人、対イタリア戦は主審がエクアドル人、副審がアルゼンチン人とハンガリー人、対スペイン戦は主審がエジプト人、副審がウガンダ人とトリニダードトバゴ人。

 今回の大会では、審判の選出は、どの参加国からも一名出すという方法だったために、質の点で大きな格差が生まれた。その点が問題だったことはFIFA自身も認めている。しかし審判の配分(どの試合にどの審判を使うか)を決めたのが誰なのか。まったく明らかにされていない。

 

「審判は絶対」は不正の温床になりうる

 サッカーでは「審判は絶対」とされる。この原則は一触即発の肉弾戦の中でトラブルを防ぐために必要なものなのであろう。しかしその原則は「絶対に不正がない」という前提で保たれる原則である。その原則を楯にとって不正をする者が現われるのを防ぐことができないなら、その原則はかえって不正を助長する温床になりかねないだろう。

 野球もそうだが、明かな誤審の場合には、ビデオによる判定の訂正を制度化すべきである。ビデオ判定を「人間味がなくなる」と批判する人間は、じつはビデオ判定が導入されたら、不正な審判によって得られる「うまみ」がなくなるのを残念に思っているのではないのか。「間違いがある方が人間味がある」というのは屁理屈であり、不当な「間違い」によって得をする側の論理である。不当に間違われる側は、「後味が悪い」どころではなく、明らかに不愉快な思いや怒りを感ずるのである。

 

ファンの気質も影響

 こういう不可解なことが起きるのは、ファン(サッカーの場合はサポーターと呼ぶ)の気質もおおいに関係している。

 韓国の対アメリカ戦で、アン・ジョンファンがゴールを決めた直後に、スケートの真似をした。すぐる冬季オリンピックのスケートのショートトラックの決勝で、韓国選手に不利な判定が出て、優勝を逃がした「恨み」を表現したのだそうである。その判定は非常に微妙で、明確に誤審とは言いきれないものであったが、韓国人は「アメリカひいきの審判に金メダルを一つ奪われた」と恨んでいるのだそうだ。

 その「恨み」を「江戸の仇を長崎で打つ」という形で、まったく関係のないサッカー試合で表現するのが適切かどうかは別として、そこまで公正な審判にこだわるのなら、今回の不可解な誤審で勝っても、そんなに喜べないはずである。それを手放しで喜ぶという態度は、どうにも共感できないのである。

 その態度を「理解」するためには、彼らが「公正さ」を求めているのではなく、ただ「勝つ」ことを求めており、同じ誤審にしても自国に不利な判定には怒り、有利な判定を喜ぶという、そういう国民であるとみなした場合だけである。

 韓国人に望みたいことは、目先の勝ち負けにこだわりすぎるという精神を捨てて、本当の友好とスポーツマンシップとは何かを考えることである。ちなみに24日の時点でのフェアプレー賞の中間発表では、韓国は最低点となっている。(日本はベルギー、スウェーデンについで3位である。)

 

韓国の名誉と信用を落としたのでは?

 スポーツには判定が付きものである。体操やスケートのように別々に演技して点数を競う種目はもちろん、対戦型の競技でも攻撃性をルールの中に収める必要があるからである。判定に依怙贔屓があれば、勝ち負けの結果に直接影響する。スポーツというものは判定の公正さがあって初めて成り立つ競技である。公正さが保証されないなら、長い目で見たらそのスポーツは魅力がなくなり、競技者やファンを減らす結果になるだろう。

 審判の公正をできるだけ確保するための努力は、スポーツにおいて最も重要視されなければならない。「人間にミスはつきもの」とか「誤りもサッカーのうち」などという下手な弁護論を言う人間は、真のスポーツファンとは言い難い。公正さに問題が出たことを嘆くべきであり、審判批判を嘆くのは公正さへの否定的精神の表われとさえ考えられる。

 韓国戦のジャッジに買収などの不正があったとは思いたくないが、少なくとも大きな疑問が感じられるかぎり、対戦したポルトガル、イタリア、スペイン三国の国民をはじめ、世界の人々に不信と怒りを与えたと言える。それによって韓国は長い目で見たら、勝ったプラスよりも百倍も大きなものを失ったのではなかろうか。

 誤審があったというだけで騒いだり、信用云々というのはおかしいという意見もあるだろう。しかし疑問を持たれないように細心の注意を払うのが、スポーツを愛する者同士のエチケットである。まさに「李下に冠」である。相手に対する尊敬と配慮がなければならない。その点、韓国のサポーターの態度は、ただ自国チームが勝ちさえすればよいという態度で、相手チームに対するホスト国としての暖かい配慮が欠けていたのではなかろうか。「デーハミングク!」の大合唱は、あまり多いと、遠路やってきたお客さんに失礼になることもある。対戦相手は敵ではない、大切なお客さんである。

 韓国の対戦国がPKする時に韓国人サポーターがブーイングをしたり、対ドイツ戦の時は「ヒトラーの息子たち帰れ!」などというプラカードまで登場したという。そういう品性のなさは、マナーが悪いというより、モラルがないと言うべきである。

 悪しきナショナリズムはスポーツには不似合いである。

 スポーツでは、試合をしたために相手と仲良くなるのが理想である。しかし今回の韓国は、試合をしたために相手に怒りと憎しみと不信を持たせてしまった。逆効果とはこのことである。スペイン・サッカー協会のビジャル会長は国際サッカー連盟(FIFA)のブラッター会長に公正を訴える抗議文を送った。イタリアのテレビ局は9億円の損害賠償を要求することを検討しているそうである。こんなトラブルが結果として出てきたということは、主催国として恥と思わなければならない。

 勝つこと最優先という態度はスポーツに相応しくない。

 

韓国を応援すべきとは誰が決めたのか

 それにしても不可解なのは、マスコミがこぞって「日本人は韓国に応援するに決まっている」かのような態度を取っていることである。他の国のチームを応援してはいけないような雰囲気がある。なぜ日本人は韓国を応援すると決まったのか。共同開催国だから? 同じアジアの国だから? 

 そして応援すると決めた瞬間から、韓国に有利になる「誤審」の繰り返しを屁理屈で正当化しようとする。

 同じアジア人だから応援すべきという態度だと、同じアジアの国が問題を起こした場合には、アジア人として連帯責任を取らされる危険もある、ということを考えたことがあるのだろうか。げんに欧米には「黄禍論」が出ているそうである。

 また、いかにも余裕のありそうな態度で(したり顔で)、「日本が勝ち進んで、韓国が負けるという図は最低だったが、日本が負けて韓国が勝ってよかった、これで両国関係は当分は平穏だ」と言う評論家もいる。まるで、だだをこねる末っ子をなだめるような態度である。韓国人を一段低く見るようなこうした態度は、韓国人に対して失礼ではないか。不審な点やマナー違反があれば正面から指摘するのが、むしろ対等に扱っていることになるのではないか。

 しかし「韓国に応援する人はいい人」「他の国に応援する人は変わった人」と言われそうで、怖い雰囲気だ。たかがサッカーといって済ませられる問題だろうか。

 

きれいな試合は見ていて気持ちがいい

 準決勝のブラジル-トルコ戦を見た。双方ともじつに「きれいな」サッカーをやっていた。トルコのパスワークは見事だった。しかしそれでもブラジルのゴール近くにはなかなか入らせてもらえない。ブラジル選手のドリブルの見事なこと。その瞬時に判断してボールを切り返す技の切れや、相手をかわして味方にシュートさせる位置に適格にパスを送るテクニックは、見ていて気持ちがいい。スポーツとは美技を競う競技である。見ている者を気持ち良くしてくれる試合になるように、選手も監督も審判も、主催者も、観客も、心してもらいたい。

 ドイツ-ブラジルの決勝戦は、今から胸がおどる。私はどっちのチームも好きだ。ドイツは無骨で不器用だ(パスをよく失敗する)が、高さを活かした怒濤のような攻めは迫力がある。ゴールキーパー、カーンの気迫と反射神経には感心する。ブラジルのテクニックには驚嘆させられる。ロナウド、リバウド、ロナウジーニョの3Rのテクニックと連携プレーにはうっとりする。三人が並んでドリブルで快速で上がっていくと、何が起こるかとわくわくする。

 勝った負けたではなく、そういう内容に拍手するファンが増えてほしいと思う。それがスポーツ観戦の醍醐味ではないか。

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