少年法 ──「青少年の凶悪化」をめぐって広田照幸氏を批判する

    (平成12年9月8日初出)

 

 少年法改正との関係で「曲学阿世」とも言うべき発言を最近つづけて目にしたので、そのごまかし論理と危険性を指摘しておきたい。

 (「曲学阿世」とは「曲学をもって権力や世俗におもねり人気を得ようとする」ことである。「曲学」とは「真理をまげる不正の学問」のことである。『朝日新聞』に掲載された「曲学阿世」の言説は権力や世俗におもねってはいない。そのかわりに、一定の党派やイデオロギーにおもねっている。)

 

 

「青少年の凶悪化」をめぐって

 まず学問を「言いくるめる」ために使っている例を挙げよう。『朝日新聞』8月25日(私は地方版で見たから、夕刊のある地域では前日の夕刊に掲載されたかもしれない)の文化欄に、広田照幸氏(東大助教授・教育社会学)の「メディアと『青少年凶悪化』幻想」という文が載った。

 その題名どおり、青少年の犯罪が凶悪化しているというのはメディアがふりまいている幻想であり、凶悪な犯罪は「ごく例外的に起きる」事件であり、「ごくまれにしか起きない例外的事件」「希有な事件」に目をうばわれて少年法の「保護主義的な枠組みの長所を失うのは、リスクが大きすぎる」と結論している。

 このように最近の凶悪な事件を「ごく例外的に起きる」「希有な事件」と見るのは正しいであろうか。凶悪事件を、それだけで単独に見て、その背景との関係で見ないような見方は、私は正しくないと思う。

 

統計操作は広田氏の方だ

 広田氏の文には「事実ゆがめる統計解釈」という見出しがついているが、「事実をゆがめる統計解釈」をしているのはむしろ広田氏の方である。

 広田氏の議論はきわめて曖昧な論拠に基づいている。そもそも「凶悪」という概念が曖昧である。何をもって「凶悪」と言うのか明瞭にしていない。「凶悪犯罪」を「殺人」という意味で使ったり、「殺人で検挙される割合」を論じたり、粗暴犯の中の少年の割合を挙げたりと、はっきりしていない。しかもこのごろは「共犯」が多いので、「被害者の数は激増しているわけではない」と、加害者の数の話が一転して被害者の増減の話にすりかえられている。

 統計上の「凶悪犯」とは「殺人、強盗、放火、強姦」だが、警察庁が発表した「少年非行等の概要」によれば、それは平成9年に、前年から60パーセントも増えて千人を超えて以来、連続して四年間も千人を超えている。

 「粗暴犯」とは「暴行、傷害、強迫、恐喝など」だが、これも前年より15.4パーセント増、平成に入っての最悪の数字である。

 また「覚醒剤乱用」も前年より増えたし、「ひったくり」も最悪だった前年につづいて千人を超えた。性犯罪は過去10年間で最悪である。

 さらに校内暴力は8月11日に発表された文部省調査によれば、三万件を超え、過去最高になった。

 

 こうした数字に対して、広田氏は「部分的で短期的な数字や解釈を、メディアが無批判にたれ流している」と批判している。そうであろうか。「部分的で短期的」だという言い方のほうが、事の重大性を覆い隠す操作ではないであろうか。

 ここ数年とか、今年の傾向というものは、過去のある時期に見られた単なる一般的な「部分」や「短期」ではなく、今の新しい傾向である。しかも子供たちをめぐるいろいろな徴候から見て、「未来から見たら単なる部分的な現象だった」ということにはなりそうにない、根の深い問題だと私には思われる。

 結論として、広田氏は「統計を検討し直して」みて、「全体として、青少年は決して凶悪化しているわけではない、という結論に至った」と書いている。

 広田氏は「全体として」とか「数十年間の統計」として見るという言い方で、最近数年間の趨勢を「全体」の中に埋もれさせる操作をしている。

 要するに彼は凶悪犯罪は増えていないと強弁したいにすぎない。

 

「凶悪化」を統計数字だけで論じていいか

 さらに考えてみるに、そもそも「凶悪化」という問題を、単に統計上の数字だけで論じてよいのかという問題がある。

 「凶悪化」という言葉は、「凶悪犯」や「粗暴犯」の数の変遷とか、検挙数の変遷がどうとかいう問題ではないもの、すなわちそれらにプラスした「あるもの」を我々が感じ取っているからこそ、出てきているのである。「あるもの」とは、たとえば単なる殺人という事実を超えて、殺人の背後にある「不気味な恐ろしいもの」である。「酒鬼薔薇」を名乗った少年の猟奇的な殺人事件にせよ、最近の多くの17歳少年の「無目的殺人」にせよ、統計上の殺人数の推移からは見えない「なにか」異常なものがあると感じられる。

 だからマスコミはその「背景」に敏感に反応し、「生育歴」や「家庭のあり方」に強い関心を寄せるのである。それを調べる方法や報道の姿勢に興味本位の部分も見られるが、しかしそれは単なる「のぞき趣味」だと簡単に否定できない、人々の真実への関心を根底にふまえているのである。

 広田氏は、「凶悪化」を単なる幻想だと言うが、しかし単に殺すのではない異常な殺し方について、何も感じないという人がいたら、その人は最近の凶悪犯罪について論ずる資格のない人だと思う。

 しかも、それらの異常な凶悪さが、決して孤立した現象ではなく、子供たちの日常のあり方とも繋がっているという問題がある。すなわち子供たちの「キレる」とか「自己チュー」という現象、また規範意識の低下は各種の調査で明らかだし、子供の窃盗・ひったくりなどが急激に増大し、いまや日本は外に出たら一瞬の油断もできないという国になるかもしれないという危機感を抱かされる状態にある。

 子供に注意したら殴られ、刺されるというこの国の状態の異常さ(恐ろしさ)と、凶悪犯の異常さ(恐ろしさ)とが、決して無関係だとは言えないところに、真の恐ろしさがあるのである。

 こういう現実を見ないで、「凶悪化」ということが幻想だと言う人間の神経を私は疑う。それは客観的な学問の名を借りた「言いくるめ」である。

 さらに広田氏は、「少年法を改正して成人並みの処遇をおこなうことは、更正不可能な若年成人を大量につくり出す危険性をはらんでいる」とか「厳罰化の方向に向かった米国では、自暴自棄になった大量の若者を生み出す結果になっている」などという、因果関係がけっして証明できない種類の断定をしている。

 アメリカに犯罪が多いのは、若者が自暴自棄になったからだというのは、あまりにも単純すぎる因果論である。アメリカ社会に特有の階層間格差とか、人種差別、家庭の崩壊など、他にも多くの原因が考えられる。「厳罰主義が原因だ」などというのは、「刑罰原理が悪い」と言いたいための、「ためにする議論」にすぎない。「刑罰主義」はむしろ犯罪多発の原因ではなく結果と見るべきである。

 しかもアメリカのいくつかの州では、「刑罰主義」を手直しして、犯罪者にカウンセリングの義務を科するところが出てきている。こういう流れを見ないで、アメリカを単純に「厳罰主義の国」だと描くのは、アメリカの現実を知らない人間の言うことである。

 要するに彼は少年法を改正させないための屁理屈をこねているにすぎない。こういうのをこそ「曲学阿世の徒」と言うのである。

 

「罰」そのものに反対する宗教的および思想的背景

 広田氏に代表される「少年法改正反対」論は、根底に「罰」というものは悪いことだという考えを持っている。そういう考えのもとになっているのは、じつはキリスト教とマルクス主義なのである。

 キリスト教は、罪を犯した者を罰したり、咎めたりしてはいけない、許すべきだという思想を持っている(宗教的信念の問題と、現実の政治や法律の問題の混同)。

 マルクス主義は犯罪を犯すのは社会が悪い、少年の場合だと大人社会が悪いのだから、犯罪者はむしろ被害者であり、被害者を罰するのは間違いだという思想を持っている。(犯罪を環境のせいにするなら、すべての犯罪を許さなければならなくなる。)

 こうしてキリスト教とマルクス主義は「適罰」を「厳罰」と言いくるめても、「罰」という原理そのものに反対するのである。キリスト教やマルクス主義の影響力の強い『朝日新聞』や『信濃毎日新聞』がとくに少年法を「厳罰主義」だと批判する記事や論説を載せるのは、決して偶然ではなく、そうした思想的背景によるものである。また日本弁護士会もこの二つの宗教ないし思想の支持者の多い団体であり、だからこそ少年法改正にことごとに反対するのである。

 もちろん、犯罪の原因をなくすように研究し、事態を改善する努力は最も大切である。しかしだからと言って、犯罪を許していいという理由にはならない。

 われわれは「曲学阿世の徒」にだまされることなく、必要な改正をしていかなくてはならない。

 

「家庭の教育力低下」をめぐって

 いま一つは犯罪抑止教育(しつけ)の低下という見方に対する、奇妙な過小評価である。

 『朝日新聞』9月5日付の「論壇」欄「10代の今」の中で、児玉亮子氏(横浜市立大学助教授・教育学)は「家族をめぐる根拠のない危機の言説が定式化されている」として、「世論調査で多くの人々が家庭の教育力が低下していると『思う』と答えたとしても、それが『家庭の教育力の低下』の根拠となるわけではない」と書いている。

 世論調査で多くの人々が「そう思う」と答えたという事実を児玉氏は「根拠」にはならないと言う。「根拠」とは何だろうか。なるほど非常に厳密に「科学的に」考えるならば、人々の多くが「そう思う」と考えていても、そうではない、ということはありうる。だから実証的な唯一の根拠と考えてはならない、ということは、ひとまず言える。

 しかし多くの人々が「そう思う」と考えているという事実を、私は非常に大切なこととして受けとめたい。「一般大衆」「国民大衆」「普通の人々」・・・なんと呼ぼうが、一般国民が「そうだ」と感じていることは、重く受けとめるのでなければならない。一般の人たちが「思う」ことを大切にしない人は、民主主義の根幹を否定しているも同然である。

 人々は電車に乗るときも、買い物に行ったときも、レストランに入ったときも、また周囲の友人や知り合いの親子関係を見ているなど、いろいろな場面で経験したことをもとに「思った」り「感じ」たりしている。「普通の人たち」の感受性を大切にする(その意見に賛成するか反対するかは別として)ことは、そしてそこから出発することは、学者にとっても政治家にとっても、最も大切なことである。

 多くの人が「そう思う」ということを、なんの根拠にもならないかのように言うのは、一種の思い上がりだと思う。それは「家庭の教育力の低下」を憂える人々を「定型化された」反応だと見なし、十分に考慮の中に入れなくさせてしまう危険をはらんでいる。

 

 そもそも「家庭の教育力の低下」は、統計数字には表われない部分もあり、いろいろな徴候から判断する以外にない種類の問題である。それは親の世代の意識とか、しつけの有無、子どもの行動から見て、そういう問題が浮かび上がってくるという種類の問題である。そういう認識は幼稚園・保育所から大学にまでいたる教育者、心理臨床家、児童相談の関係者、小児科医、社会学者、ジャーナリスト等々の意識調査・研究・経験を総合的に寄せ集めて認識されている結論である。多くの人が「思う」と言っただけの根拠で言われていることではない。児玉氏のようないい加減な認識で、「家庭の教育力の低下」が根拠のない言説であるかのように安易に言う「言説」こそ問題である。

 

 それにしても、『朝日新聞』はどうして、こうも偏ったおかしな言説ばかりを掲載するのであろうか。

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