少年法改正の理論的整理

     (平成12年9月8日初出)

 

 少年法の改正が、いよいよ現実のものになろうとしている。与党間の調整段階に入り、次の臨時国会で提出する構えである。

 私はこれまでも何度かこの問題で発言してきたが、このさい問題を理論的に整理しておきたいと思う。

 

一 厳罰主義か適罰主義か

 

 まず最大の問題点は「厳罰化」という言葉にある。いま少年法の改正を唱えている人々の中で、具体的な提案として「厳罰」を唱えている人はほとんど皆無だと思う。最大で「大人並」を唱えている人はいるが、たいていは「現行法よりは厳しく」と言っているにすぎない。

 刑罰という点では、現行少年法はないに等しいのであり、「それより厳しく」と言ったからといって、「厳罰を唱えている」と表現するのは、著しく客観性と公平を欠いている。それなのに、なぜか「今より厳しく」という主張はすべて「厳罰主義」と名づけられている。こういうムード的な言葉こそ、客観的で冷静な議論を妨げるものと言うべきである。

 少年に対しても、刑罰という観点が極小でいいのか、という議論がきちんとなされないままに、「少年に罰」という発想そのものが「悪」であるかのようなムードがただよっている。

 私はかねてより、たとえ幼児でも、その年齢にふさわしい「罰」という観点は必要だと主張してきた。もちろん「罰」という観点を中心にせよとか、優先させよと言っているのではない。教育や更正を優先させるべきなのは当然である。私は大人に対してさえ、罰よりは教育やカウンセリングや更正を優先すべきだと考えている。しかし、だからといって「罰」という観点が極小でよいのかと言うと、それはいけない、「適正な程度の罰」が必要だと言っているのである。

 これはいわば「適罰主義」と名づけるべき立場である。いま少年法改正を考えている人たちの大部分はじつは「適罰主義」である。それなのに、その人たちまでもが、自分たちの立場を自ら「厳罰主義」だと呼んだり、「厳罰主義」だと呼ばれて反論しないでいるから、ますますムード的に「厳罰化」という言葉が一人歩きして、感情論に道を開くことになっているのである。

 

 「現行よりも刑罰を重くする」という主張に対して、マスコミはこぞって「厳罰主義」とか「厳罰化」と名づけている。

 たとえば、『朝日新聞』(平成12年8月31日付)は「少年法・厳罰か理念尊重か」という題名を掲げて、与党三党の主張の違いを報道している。

 客観的に与党三党の主張を整理するための記事に、なぜ「厳罰か理念尊重か」というタイトル付けなければならないのだろうか。これは明らかに予断を持った、あるいは予断を誘導するようなタイトルである。「罰則強化」は必ずしも「厳罰化」ではない。しかるにマスコミは「現行よりも罰則を強化せよ」という主張をすべて「厳罰化」と呼んでいる。

 もう一つ例を挙げよう。9月7日付の『信濃毎日新聞』は「一時のムードに流されず」という題名の社説を掲げて、「厳罰化」に反対している。「厳罰化」という言葉自体がムード的だということには、いっこうに気づいていないようである。

 

二 適罰主義は保護主義と対立しない

 

 第二の問題点は、適罰主義を進めると保護主義が後退するかのような議論をする者が多い点である。「厳罰化」に反対する人々は、それによって「保護」と「更正」という少年法の理念がなくなってしまうかのような言い方をする。さきほどの『朝日新聞』の「厳罰か理念尊重か」という定式化もその代表である。「罰」の原理と「保護更正」の原理とは「あれかこれか」という「水と油」の関係ではなく、互いに協力し合う関係も可能である。「おしくらまんじゅう」ではあるまいし、一方が出れば他方が引っ込むかのように考えるのは、ムード的な発想でしかない。

 適罰主義になったからといって、更正の仕事に携わっている人たちが力を抜くわけでもないし、更正がしにくくなるというものではない。「罰」の原理と「更正」の原理は

対立し合うものではなく、車の両輪のように協力し合うことは可能であるし、またそうあるように工夫努力すべきものである。両者を協力関係に置くように工夫していくのが正しい考え方だと思う。

 とくに強調しておきたいことは、少年犯罪の非常に多くが心理学的な背景を持っていることである。つまり少年犯罪の予防や更正を考えるときに、家庭環境や社会環境の影響を強く認識した対策が必要だと言うことである。

 この点をないがしろにして、単に刑罰を強化するという発想しかないとしたら、それは反対論者が言うとおり、単なる「厳罰主義」になってしまう。ただし「適罰」を唱える人のうち、この「更正」が大切だという点を考えていない人はほとんどいないと私は理解している。

 

三 犯罪抑止効果論は筋違い

 

 第三の問題点は、「刑罰」が犯罪抑止力を持つか持たないかという発想で議論がなされている点である。

 しかし、そもそも「刑罰」というものは、犯罪を防止したり抑止したりするために存在しているのではない。また被害者の復讐のためでもない。「罪」に対する「罰」という原理によって存在しているものである。なにかの現実的な効果という「目的」のために科せられるものではないのである。

 犯罪を少なくする効果があれば罰を科してもよいとか、効果がなければ罰は無駄だとかいう功利的な発想は間違いである。「罰」というものは、社会がその罪を「悪」と宣言しているシンボルであり、その価値観の表明なのである。だからこそ、「適正な罰」という考え方が大切になってくるのである。

 たとえば、さきの『信濃毎日新聞』の社説は「子供たちの規範意識は、単に少年法を改めてどうこうなるものではあるまい」と言うが、少年法改正は「子供たちの規範意識を涵養する」という効果のためになされるのではない。「規範意識の涵養」は法律によってなされるのではなく、家庭や学校や社会での大人の働きかけによってなされるのである。

 

 そもそも少年法の改正は、子供といえども、罪を犯したら一定の罰を受けるのだという価値観を表明するためになされるのである。少年法改正を「保護主義の理念に反する」かのように感情的に反発する人たちがいるが、「少年」であるからこそ父性と母性のバランスのとれた対応を必要としている。いたずらに改正に反対するよりも、このバランスを回復するように、「よりよい改正」になるように努力する方が、よほど建設的ではなかろうか。

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