少年法改正の問題点

     (平成12年5月17日初出)

 このところ少年の凶悪事件が頻発するのをきっかけに、少年法改正論議がさかんになっている。

 8月16日に自民党法務部会は「少年法に関する小委員会」で、論点を整備した。重要な論点としては、第一は、18歳未満の刑事処分に「終身刑」を導入すること、第二はいままで14歳未満には刑事罰を適用しなかったのを、その年齢制限を引き下げること、などである。

 これらの論点の特徴は、これまで少年法の精神とされてきた「刑罰ではなく保護更正」という原則に反するところである。少年法に刑罰という原理を入れることには、日本弁護士会を中心に「厳罰主義」だとして反対する意見が強い。少年には刑罰を課してはいけないという考え方は、はたして正しいのであろうか。

 現行の少年法は、まだ未熟な少年を更生させるという基本的な理念によって制定されている。これはいわば「母性原理による対応」だと言うことができる。しかし、いかに少年といえども、母性原理だけで対応してよいものであろうか。父性原理による対応も必要なのではなかろうか。

 父性原理と母性原理の両方のバランスがとれた理念によって少年法の改正をすることが必要である。

 

「少年」の治外法権

 最近、少年たちの「治外法権」とでも言うべき現象によく出会うようになった。それも夜の盛り場などではなく、白昼の普通の街の中や電車の中においてである。

 たとえば、私がウィークデーの昼下がりに電車に乗っていると、男子の高校生の10人くらいのグループが乗りこんできた。全員茶髪にして、ズボンはズルズル、空いていた二、三の席に座った者は、大声で仲間と話をする。足を開いて通路の真ん中あたりまで伸ばして、よた者のような傍若無人な態度である。隣の中年の男性は眼を閉じて、関わりにならないという態度。まして他の女性客は無関心を装っている。他の生徒たちは出入り口付近に車座になって床に座り、通路をふさぐ。乗り降りする人たちは、そこを避けて他の口に回る。そのうち、一人が座席の上に靴のまま乗っかって、天井近くに貼ってある広告をはがして、持ち去った。私を含めて、誰一人注意する者はいない。皆見て見ぬふりである。

 完全な「治外法権」の出現である。法治国家において、こんなことが許されてよいのか、私は怒りがこみあげてくるのを抑えることができなかった。しかし10人もの屈強な高校生に対して、私はただ睨み付けるくらいしかできなかった。

 別の日、やはり電車の中で、高校生たちが、こんな会話を大声でしているのに出会ったこともある。「一人殺すのも、三人殺すのも同じだよなあ。今のうちなら死刑にならないからなあ」

 こういうことを「少年」に白昼堂々と言わせ、無法者の「治外法権」を生み出す「少年法」とは何なのか。

 今どきの悪いことをする少年たちは、決して無垢で純真などではなく、何をしてもたいした罰は受けないことをちゃんと計算してやっている場合が多いのである。

 そのように子どもたちに思わせる現行の少年法には何か重大な欠陥があるのではなかろうか。その欠陥とは何なのか。

 

母性原理優先の少年法

 現行の少年法の最大の欠陥は、その理念がほとんど母性原理のみで成り立っている点である。少年とはまだ判断力もない者なので、罪に対する罰という原理をなくして、更生させる、つまり教育するという理念が優先されている。

 更生させるという観点は大切であり、それがいらないと言うのではない。それは大人の犯罪に対しても必要な原理である。しかし大人の犯罪に対しては重んじられる「罰」という原理が、少年に対してはほとんどゼロに近いというところに問題はないであろうか。

 更生ということの中には、少年に大人の判断力を持たせるという意味も含まれているはずである。人間の世界では罪を犯したら罰を受けなければならない、ということも教えなければならない。そんな原理は幼稚園の児童でも教えれば分かることであり、中学生や高校生に分からないはずはないのである。

 現行の少年法は、少年と大人との区別の間に、あまりにも落差が大きすぎる。20歳まではまったくの無能力者、責任能力なしという扱い。罪を犯しても刑罰を受けなくてもよいという扱い。ところが20歳になったとたんに180度転換して、完全に大人扱い。つまり20歳以前は母性原理で扱っておいて、20歳になったとたんに父性原理で扱うという趣旨である。これはなんとしても不自然であり、落差が大きすぎる。

 

父性原理の導入を

 この落差の大きさを補正するためには、二つの原理の導入が必要である。

 第一は、少年に対しても父性原理による対応を適度に導入すべきである。つまり刑罰の原理を導入するのである。

 父性原理による対応とは、「悪いことをしたら罰を受ける」という理念をはっきりと掲げることである。もちろんその量刑の基準は大人と同じではなく、大人よりは少なくする、刑罰の質も軽くする、等の配慮は必要である。大切なのは善悪の観念をはっきりさせ、信賞必罰の理念を掲げて、それは子どもといえども例外ではないということを明確にすることである。

 この問題は、それによって子どもが更生するかどうかという効果の問題ではなく、社会の価値観をはっきりと示すという意味を持っている。それによって、子どもを育てる親への効果が期待できる。つまり親に対して、子どもが罪を犯さないように育てよというメッセージの意味を持つのである。

 この考え方は、さらに、少年の親の責任を明確にすることにつながる。罪を犯した少年の親には、育て方について問題があることは明白であるから、その親たちには子どもの育て方や対応の仕方についての一定の教育や講習を受けるという義務を課するようにしてはどうであろうか。交通違反者でさえ、講習を受ける義務を課されるのである。ましてや重大な罪を犯した子どもの親は、最低限そのくらいの責任と義務を負うのは当然だと思う。

 

中間期間の導入

 落差をうめる第二の原理としては、大人になる準備期間を設けることである。すなわち「少年」と「成人」の間に、中間の期間を設けて、その期間は両者の中間的な段階として、刑罰の原理を少年よりは強くし、教育の仕方も厳しくし、全体として父性原理をより多くするのである。もちろん成人よりは軽くする。

 これによって、もうすぐに大人になるのだという精神的な準備をさせるのである。

 具体的には、義務教育の間の14歳までは「少年」とし、15歳から17歳までを「準成人」として、18歳から上を「成人」とする。

 親は子どもが15歳になるまでには最低の善悪の判断をつけさせる義務と責任を持ち、18歳になったら完全に大人扱いをすることを明確に宣言するのである。

 

母性一辺倒はよくない

 読売新聞の97年7月22日付の「少年法改正」をめぐる「対立討論」の中で、弁護士の山田万里子氏は、「厳罰化イメージが強い今の改正論議は、感情論が先走っている」と懸念を表明している。たしかに厳罰を要求する人の中には感情的になっている人もいるかもしれないが、しかし刑罰の原理を少年にだけはゼロにせよというのは、決して理性的な議論ではなく、そちらの方がむしろ感情論ではないかと思える。刑罰の原理というのは父性原理であって決してやみくもに厳罰にせよというのではないし、決して感情論ではない。もちろん刑罰の量や形態については大人と同じでよいというのではなく、それよりも軽くするのは当然である。

 さらに山田氏は、少年は自分の犯罪「行為の深い意味とか、自分はどうなっていくのか、までわかっているだろうか」と述べている。しかし、それを言うなら、大人の犯罪者だって、自分の行為の深い意味を分かっていない者が大半だし、自分がどうなるのかまでよく考えて犯罪を犯すわけではないであろう。そんなことを言い出したら、大人に対しても刑罰を科するのはいけないということになりかねない。

 さらに山田氏は、今の少年は「実に幼い」と言って、「最近は20歳以上でも、自分の責任で行動できない未熟な子が多い」として、少年の年齢を18歳に引き下げるなんてとんでもないと言っている。しかし子どもたちを未熟にしているのに、母性原理一辺倒の少年法が一役買っているという面はないであろうか。

 子どもを、ただ未熟だとして、単に保護したり更生させる対象としか見ない、そうした議論の間違いは、母性原理でしか物事を考えていないところにある。同情も大切だし、思いやりも必要である。子どもの健全育成や社会復帰を優先させることも大切なことである。しかし、だからといって、父性原理をすべて否定してしまうのは偏りすぎていないであろうか。

 家庭の中にたとえれば、子どもが悪いことをしたら父親が叱る、母親は慰めたり励ましたりする、こういう分業やバランスが必要である。

 しかるに、父親が叱ったら、母親も一緒になって叱ったのでは、父親が二人いるようなもので、子どもには救いがなくなってしまう。反対に、子どもが悪いことをしたときに父親も母親も一緒になって守ったり慰めるだけだとしたら、母親が二人いるようなもので、適度な厳しさが失われてしまうだろう。

 

適度な厳しさが必要

 家庭教育においても適度な厳しさが必要なように、少年法のあり方としても適度な厳しさが必要である。それがない中で単に母性原理だけがあるという状況は、子どもたちを甘やかしたり、大人の世界をなめるという態度を助長することになってしまう。今の犯罪を犯す子どもたちの実情は、刑罰がないことにつけこんで、そのことを十分に意識している者が多い。今回のバスジャックの少年も、ネット上に少年法の保護を意識した書き込みをしていたそうである。

 子どもの教育においては、三歳の子どもに対してさえ、その年齢に即した適度な厳しさは必要である。少年法は一方で教育的な役目も果たさなければならないのであるから、教育におけるのと同じ程度の父性原理の働きもなければならない。

 よく「厳罰主義反対」という言い方がなされるが、誰も「厳しいほどよい」などとは言っていない。「適切な罰」が必要だと言っているのである。言うならば「適正罰主義」とでも言うべきである。

 今までの少年法の理念にかたくなにこだわって、新しい時代の現象や要求に目を閉ざしてはならない。文明や社会の質的な変化に対応するためには、単なる優しさだけではどうしようもないところに来ているのである。少年を保護することと同時に、悪質な少年から善良な市民を保護することも考えなければならない。

 昭和23年に制定された少年法が、現代の実情に合わなくなっているのは、誰の眼にも明らかである。それは単に検察官の立ち会いを認めるかどうかといった手続き上の問題ではなく、少年の定義や、少年を単に保護の対象とのみ考えるべきか、罰するという原理を導入すべきかという根本的なことも問題にしなければならない。早急に少年法改正に取り組まないと、いろいろな意味で歪みが生じてしまうだろう。

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