教育  

8 教育コラム

 

 以下は『産経新聞』教育面「解答乱麻」欄に掲載されたコラム の再掲です。

   目 次

 (1)ジェンダーフリーの害毒

 (2)母性重視は時代の要請

 (3)学校に節句を取り戻せ

 (4)服装の崩れは心の崩れ

 (5)「鬼もいる」と教えよう

 (6)子供本位の「両立」策を

 (7)勉強から「集団」排すな

 (8)子供に不正義教えるな

 (9)男女密着教育の危険

 (10)偽善通れば能力引っ込む

 (11)入試を洗脳手段にするな

 (12)男女混合名簿の落とし穴

 (13)道徳優先の性教育を

 (14)子供たちに日本神話を教えよう

 (15)教師に余裕を与えよう

 (16)監獄法改正案の再考必要

 (17)正しい教科書を選ぼう

 (18)「好きなこと」探しの罠

 (19)子供の暴力の原因は父性の欠如

 (20)師弟関係こわす授業評価

 (21)堀江流に対抗できる教育を

 (22)「情報麻薬」を規制せよ

 (23)生涯学習より家庭教育

 (24)母性重視こそ成熟国家 ──丸尾直美氏への反論 ( 1 )

 (25)保守的男女観の復権を ──丸尾直美氏への反論 ( 2 )

 (26)子を守るポスト重視を

 (27)卑怯を憎む心育てよう

 (28)子育て提言の弱点

 (29)道徳教育で何を教える ?

 (30)食育は精神面も大切に

 (31)他人の目を意識させよう

 (32)道徳は教えられる

 (33)身勝手殺人の裾野は広い

 

1 ジェンダーフリーの害毒(平成14年5月6日)(「教育」9と して註を付けて再掲)

 男女混合名簿が急速な広がりを見せている。県や市町村の教 育委員会が率先して指導している例も少なくない。

 ジェンダーチェックと称して、男女で区別することを、なんでも槍玉に挙 げる。体育着やランドセルを同じ色にせよ、体育の時間も男女混合にせよ、端午の節 句や雛祭りも差別だと主張される。

 こうした男女無区別主義は恐ろしい弊害を生む危険がある。男女の区別を しないと、子供たちのアイデンティティーが健全に作られない、つまり自我が正常に 発達しないからである。

 アイデンティティーとは、「自分が自分らしいと思えばよい」というよう な簡単なものではない。いくつもの層から成り立っている複雑なものである。

 たとえば、家族の一員だという帰属感。また自分は男なのか女なのか、ど ちらなのかという帰属感。そのほかにも日本人という帰属感。故郷や学校や会社への 帰属感など、多くの帰属感の累積によってアイデンティティーが形成される。もちろ んそれらの中心には、自分とはこういう人間だという確信があり、それも大切であ る。

 こういう同心円的な層をなす帰属感の集まりが、アイデンティティーの本 質である。

 中でも、自分は男または女だという自己意識はアイデンティティーの基礎 であり、たいへん重要である。

 これが揺らいで定まらないと、性同一性障害に陥るばかりでなく、自我そ のものが健全に形成されない恐れが出てくる。

 子供は三歳くらいから始まって思春期までには、自分が男または女の特性 を持っていることを意識的に確信し、それなりの行動基準が確立されていなければな らない。

 さもないと、価値観や考え方の面で自分に自信が持てず、無気力や閉じこ もりの原因になりかねない。さらに、異性との関係がうまく作れないとか、セックス がうまくできないとか、同性愛に傾くとか、要するに生物として子孫を残すために必 要な行動に支障が出るおそれがある。予想される障害は多岐にわたり、深刻である。

 このままジェンダーフリー教育が広まると、五年後十年後には青少年の心 の病が急増する恐れがある。

 それを防ぐためには、男女の区別を科学的に正しく教え、その上で両性の 分業と協力の正しいあり方について考えさせる教育が必要である。

 男女の区別を正しく意識させることはむしろ必要であり、混合名簿などの まぜこぜ教育はきわめて危険である。

 男らしさと女らしさは社会的・文化的に作られたものではなく、生まれつ きのものだということは、いまや脳科学によって証明済みである。

 この生まれつきの男らしさ・女らしさを自由に出すことが妨げられると、 心は不当なストレスにさらされる。必ず悪い影響が出るであろう。

 男女の違いを否定する教育は、子供たちの心に不自然なひずみを与える危 険な暴挙と言わざるをえない。

 ジェンダーフリー教育は、愚かを通り越して、子供たちの心の成長を阻害 する犯罪と言うべきである。

 

2 母性重視は時代の要請(平成14年6月24日)

 本誌「談話室」欄で「母性の重視は新時代に逆行」という意 見を見かけた。母性重視は「ジェンダーフリーの流れに逆らう、時代に逆行した考え だ」という趣旨である。

 この人は、母性が明治政府によって「女性の役割」として押しつけられた ものだと理解しているらしい。「母性などはたかだか百年の歴史しかない」「それ以 前には母性という言葉がなかったのだから、母性は存在しなかった」と主張する学者 もいる。

 明治以前に母性が存在しなかった(なぜなら母性という言葉がなかったから )というのはあまりにも乱暴な意見である。母性は人類が生まれたときから存在して きた。そうでなければ子供は育たず、人類は滅亡していただろう。

 それはともかく、いま改めて母性が見直されているのには、それなりの理 由がある。それはなにも男女平等に反する男性中心の考えから「女性を縛る」ためで はない。母性不足による子供への悪影響がふえているからである。

 たとえば、児童虐待。中でも実母による虐待が非常に多い。また犯罪を犯 した子供の家庭環境を調べてみると、母親の優しい愛情が不足していたというケース が圧倒的に多い。

 さらに少子化の遠因にもなっている。「子供がほしい」という母性的な気 持ちが、他のことをやりたいという気持ちより強くないことも、背景にある。

 同様の傾向として、「子供が可愛くない」「子供が憎らしい」と感ずる母 親が増えていることにも注目しなければならない。

 これらの社会現象の裏に母性崩壊があるという反省から、改めて母性の大 切さが見直されているのであり、それは時代に逆行するどころか、まさに時代の要請 と言わなければならない。

 誤解のないようにことわっておくが、母性を喪失しているからといって、 母親個人を責めているのではない。ましてや子供が生まれない(ために不妊治療を受 けている)母親を責めるはずもない。むしろ母性を破壊するような環境や要因をなく さなければならないと言っているのである。母親個人に責任を押しつけるのではな く、母親をサポートしなければならないのである。

 母性を強調すると、子供に愛情を持てないと悩む母親がふえるだけだとい う理屈を言う人がいるが、悩むことはいいことである。悩んだ上で、どうしたら子供 に愛情が持てるようになるかを勉強し努力すればいいのである。

 「子供を可愛くない人は、子供を預けて働きに出なさい」という人がいる が、それだと母親は楽になるかもしれないが、子供は救われない。

 母性を与えられないで育った人ほど、母性重視を「負担」「しがらみ」と 感じたり、男女平等に反すると感じる傾向が見られる。

 自分が持てなかったものを否定したい気持ちは分かるが、母性を否定して いる母親に育てられる子供は満たされない心で育つことになる。

 母性の大切さを素直に認め、母性回復の方法を考える方が母親自身も救わ れるし、なによりも子どもが幸せになれるだろう。

 

3 学校に節句を取り戻せ(平成14年9月2日)

 小学生のころ学校で七夕飾りをした記憶がある。私のクラス だけではなく、学校全体でしたのだろう。

 七夕は家族で楽しむのもよいが、学校で友達と一緒に短冊に願いごとを書 いて見せ合いながら、飾りつけるのは楽しい体験であり、よい思い出になっている。

 戦後かなり経ってから、給食が普及すると、雛祭りには菱餅が配られ、端 午の節句には柏餅が配られた学校もあった。当時は学校ごとに給食のおばさんがい て、独自に献立を工夫できたからであろう。

 そうした折にはもちろん先生が七夕なり節句なりの由来を話す。牽牛と彦 星の話や、雛祭りの由来についても説明された。

 楽しい体験をさせた上で、その文化的背景や由来を説明すれば、子供たち も興味をもって聞くだろう。そのようにすれば子供たちは日本人の心、日本文化を身 近に感じ深く味わうことができる。

 それらの行事が、運動会や遠足と同じように、学校行事の中に組み込まれ ていたころもあったのである。しかしその後、そうした授業はいつのまにかなくなっ てしまった。

 しかし雛祭り、端午の節句、節分などの、子供たち中心の日本古来の行事 を学校で行うことを、是非復活させたいと思う。こうした情操教育を学校教育の中に 組み込み、日本人の心と文化を受け継いでいく機会を増やすべきである。

 私は戦時中の国民学校も経験しているが、そのときの記憶で鮮明なのは新 嘗祭の行事である。

 秋に収穫した野菜や稲穂を供えて、朝礼のときに校長先生が神様とお百姓 さんへの感謝の気持ちをもつように話をされた。子供心に、農業の大切さを心に刻み こみ、厳粛な気持ちになったものである。

 新嘗祭は勤労感謝の日になった。お百姓さんだけでなく働く人全体に感謝 するという趣旨になって、より一般的になったように見える。もちろんどの職業も大 切だが、命のもとである食料をつくる農業はもっとも大切である。

 今の子供たちは、食べ物に対する厳粛な気持ちや感謝の気持ちを失ってい る。食べ物は誰かが苦労して作ったものとは知らず、店に行けば買えるものと思って いる。

 大人でも、食料の自給自足の大切さを身にしみて感じている人が少なくな っている。外国から安く輸入した方がいいと考えている人は多い。しかし農業を大切 にしないと、地球規模の気象変動のときには、たいへんな国難に遭うかもしれない。

 食物は命のもとであることを、子供たちに実感として教えなければならな い。「命を大切にしなさい」とお題目のように唱えても、命の大切さは実感できな い。

 私たちの世代は校庭を耕してサツマイモを作った。もちろん家庭でも畑仕 事をした。今の子供たちにも、畑仕事をさせる授業は必要ではないだろうか。苦労し て作り収穫する喜びを子どもたちに体験させたい。

 都会の学校でも、近郊農家に手伝いに行くとか、夏休みを利用して農作業 を体験させることは可能である。むしろ都会の学校ほど、そうした工夫をしてほし い。

 

4 服装の崩れは心の崩れ(平成14年11月4日)

 日本人の服装が崩れている。「乱れ」というより、「崩れ」 と言うべき現象である。シャツをズボンの外にだす。男子はわざとズボンをずり落と して、地面に引きずっている。女子は「チョウ」短いスカートにルーズソックス。

 崩れているのは服装だけではない。態度も崩れている。無気力、やる気の なさ、ふてくされた態度。ジベタリアン。ホームで車座になって、スカートのままあ ぐらをかいてタバコを吸う女子中学生の群。

 女の子の流行を真似した年配の女性たちも、シャツを上に出して来たり、 くるぶしまでとどくようなゾベっとした長いスカートに深い切れ目をつけて、バサバ サと歩いている。

 こうした「崩れ」の現象は、心の崩れを表わしている。最近では「心の 病」の類型が大きく変化し、「心がうまく働かない」というよりは、「心のエネルギ ーがない」という症状が増えている。

 たとえば、無気力、引きこもり、人格障害、自傷、麻薬、自殺など、私が 自害型と名づけた類型が急増している。まさに「崩れ」としか言いようのない現象で ある。

 これらはもちろん「特別な」現象ではなく、「普通の」人々のあいだにも 広がっている傾向の「先端現象」なのだ。

 服装の崩れは学校にまで及んでいる。講演のさいなどに学校を訪問して驚 くのは、先生たちの服装である。校長と教頭はスーツにネクタイを着用しているが、 その他の教員たちはジャージーと称する体育着を着ている。

 どうやら、そのほうが生徒たちの緊張を和らげ、気楽にさせ、親しみを感 じさせると思っているようだ。

 生徒たちも崩れた恰好をしている。制服があっても、シャツの裾をわざと 外に出して着ている者、ボタンをはずしている者、靴のかかとを踏みつぶしている 者。

 はたして学校という所は、気楽にくつろがせる所なのだろうか。緊張をさ せることはいけないことなのか。プレッシャーやストレスを与えないほうがよいの か。

 私は逆だと思う。プレッシャーやストレスを(もちろん適度に)与えるべき である。きちんとした服装、秩序正しいことの美しさ、すがすがしさ、気持ちよさ を、子供たちに体験させるべきである。

 家庭生活からも、学校生活からも、折り目正しさが失われている。それが 心のあり方にも影響を与えて、心が崩れている。

 たしかに服装を正せばただちに心が正されるという簡単なものではないだ ろう。しかし、大人たちがまず自分たちだけでも、きちんとした服装と改まった気持 ちで子供たちに向き合ってほしい。

 また学校の規則で服装について決められているなら、せめてそれを守らせ てほしい。規則がないなら、最低限守るべき規則を作ってほしい。

 親も自分の子供の服装にもっと関心を持ち、正しい意味での「干渉」をす べきである。その前にまず自分の服装から点検してもらいたい。

 まさしく服装の崩れは心の崩 れを表わしているからである。

 

5 「鬼もいる」と教えよう(平成15年1月13日)

 今年も節分の季節が近づいてきた。幼稚園・保育所や小学校 で節分の行事をするのは望ましいことだが、そのさい「鬼は外」を言わない幼稚園・ 保育所が増えている。鬼がかわいそうだし、将来のいじめにつながるからだという。

 同じような考えから、昔話の結末を勝手に変えてしまう出版社が増えてい るという(昨年十二月三十一日付本紙による)。猿蟹合戦、桃太郎、かちかち山の場 合、最後に悪者が退治され殺されるという結末が残酷すぎるからと、許してやったり 逃がしてやるという話に変えてしまっているそうだ。

 そういう大人の考えが、「いじめを見て見ぬふり」という態度の子供を(日 本だけが突出して多く)産み出している元凶なのである。

 いじめという卑怯なことをしたり、いじめに対して戦わない、批判をしな いのは、正義感が育っていないからである。

 正義感は善を愛し悪を憎む訓練を重ねることでしか育たない。わけもなく 人をいじめたり暴力をふるうのは悪だという観念、こういう単純な正義感をまず持た せなければならない。

 悪の象徴が鬼である。鬼は人を食ってしまうから「悪者」なのであり、そ れを退治するという物語は子供に善悪という区別を教え、自我を健全に育てるために 絶対に必要なことである。

 昔から伝わる伝統文化には、必ず大切な意味が隠されている。「鬼退治」 の話や行事は子供の自我を形成するための大切な仕掛けである。それを浅薄な考えで 勝手に変えると、重大な弊害が生ずるだろう。

 ところが訳知り顔の大人たちが、「正義を疑え」だの、「鬼は悪いとは限 らない」などと、しきりに主張している。それは大人の世界では真実なこともある。

 しかし正義への疑いの心を子供たちにまず教え、それで批判精神を教えた と思いこんでいる親や教師も少なくない。その結果、正義を唱えること自体が悪いこ とだと思いこむ子供も出てきている。

 正義や善悪がはっきりしている事例で、そもそも正義と善悪の区別は必要 だという単純な基本をまず教え、その基本が身についてから後に、具体的なケースで は真の正義を見分けることは難しいということを教える。これが本当の教育の順序と いうものである。

 さらに、世の中には鬼のように悪い人間も、恐ろしい人間もいるというこ とも教えておく必要がある。現に国家的規模の人さらいもいるではないか。居直って 人を殺す泥棒も増えている。世の中には鬼もいるのだということを教え、危険から身 を守る術を教える必要もあるのだ。

 「平和」「命は大切」とお題目のように唱えて育てれば、本当に平和を守 る国民になると思うのは、偽善か愚昧のどちらかである。

 相手が鬼のような人間の場合には、平和を守るために戦わなければならな い場合もあるのだ。平和教育が、どんな場合にも戦うことは悪いことだと教えてきた 結果、悪と戦えない人間が増えているとしたら、その方が恐ろしい。

 

6 子供本位の「両立」策を(平成15年3月17日)

 ベネッセ教育総研が「家族」について小学校高学年にアンケ ート調査したところ、四割の児童が母親は専業主婦であってほしいと望んでいること が分かった。「外で働くお母さんのほうがいい」と答えた子供は二割強で、「どちら でもいい」が36%だった(二月十七日付『産経新聞』教育面)。

 この数字は、フェミニストたちがいかに子供たちの気持ちから乖離してい るかを示している。

 働く女性たちはこの結果を見て「では、私たちは働くなってことなの!」 と怒りそうである。

 性別役割分担を否定し「男も女も仕事も家庭も」と唱えている人たちから 見たら、四割もの子供が母親に対して専業主婦であることを望んでいるとなると、困 ってしまうのではないであろうか。

 しかし私から見れば、この数字も子供たちの本当の気持ちを正直に表して はいないと思われる。子供たちの正直な気持ちは、100%に近く「お母さんは家にい てほしい」だろう。

 「どちらでもいい」とか「外で働くお母さんのほうがいい」と答えた子供 たちは、仕事をしたいと考えている母親とのあいだで板挟みにされているか、働く母 親に合わせ寄り添うしかなくて「働いているお母さん、カッコイイ」と言っているの である。

 けなげにと言うべきか、哀れにもと言うべきか、彼らは家に帰ったとき感 ずる寂しい感情を抑圧しているのである。

 その結果、思春期になって心の病の状態になった子供を私は数限りなく知 っている。母性過剰ももちろんあるが、母性不足の方が影響は深刻である。

 仕事優先の女性たちは子供の寂しい感情を無視し、それが心の発達にどう いう影響を与えるかという問題から目をそむけたり、エセ学問を使って「影響なし」 と強弁してきた。

 彼女たちは子供を保育所に預けて働くのを「仕事と育児の両立」と称する が、子供の心を考えると決して「両立」とは言い難い。

 本当の「両立」とは、子供の気持ちを大切にし、母を求める子供の心を満 たしながら働ける制度や政策を実現することではないか。母子の時間を増やすこと は、母にとっても子にとっても貴重な体験になるはずである。

 親たちの気持ちや生き方だけを優先するのではなく、子供の心を大切にす ることのできる働き方を模索する時期にきているのではないか。

 なにも「女性は一生専業主婦をやるべきだ」とか、「女性が働くことは悪 い」と言っているのではない。子供に寂しい思いをさせないで両立させる方法が現実 に可能なのである。

 夫婦の働き方をうまく組み合わせれば、子供が学校から帰ったときに親の どちらかが家にいることは可能である。げんにその方式を実現している国もある。

 そういう社会制度を作るように運動する方がはるかに生産的だし、不要な 摩擦を避けることもできるだろうに(そうした制度について拙著『家族の復権』で具 体的な政策提言を行っている)。

 

7 勉強から「集団」排すな(平成15年5月26日)

 「ゆとり」教育の弊害として学力の低下が問題にされ、文部 科学省も学力重視策へと方針を転換しつつある。

 学力を上げるための方策として、「習熟度別クラス」や「個別指導」とい う考え方が出てきている。いわゆる「個に即し能力に応じた教育」である。

 これはいわば合理的・能率的に生徒の学力を上げるという考え方である。

 この方針は、優秀な生徒の「足踏み」をなくし、理解の遅い生徒の「落ち こぼれ」をふせぐという、「学力」の観点からはたしかに有益な方法である。

 しかし「学力」を上げることだけを孤立させて追求し、それを最も能率的 に行おうとすると、将来は一斉授業をやめて、能力別・到達度別に、一人一人に個別 の学習プログラムを作成し、実行するところまで行き着くかもしれない。

 そうなれば、学校に行かなくても、一人一人のプログラムに応じて家庭で パソコンを使って勉強し、テストだけ受ければよいことになる。

 「学力」という観点だけから見たら、けっこうづくめの考え方である。

 しかし、こうした学習の個別化、孤立化による能率化によって、子供たち の精神にどういう変化が生ずるだろうか。

 この状態は、運動会の徒競走に喩えるならば、タイム別のグループに分け て走らせるやり方どころか、一人一人走らせてタイムを計る体力測定会にしたような ものである。

 それによって子供たちは、極端な個人主義(利己主義)に陥り、競い合うこ ともなければ、共同意識・連帯感を感ずる機会も失なわれる。ましてやリーダーシッ プなどは絶対に養われない。

 出来る子が待たされるとか、グループ学習やグループ作業では率先してや る子とやらない子で「損得」が生ずる……そういう「非合理的」な面が多すぎてはい けないが、少しはある方が、そしてそれをどう処理するかを考えさせる方が「教育」 として適切なのではないか。

 集団行動やその中で規則を作り守る訓練も必要である。そうした共同体の 中での公共心の涵養も大切な「教育」である。

 すでに今までも、学級の中の成績のよい子は委員などの役についたり、文 化祭に参加するのを嫌う傾向があった。かわってお笑い系の子供がリーダーの役をや り、集団のまとまりをだいなしにしてしまう例が増えている。

 勉強の出来る子はリーダーとしての訓練をしないまま一流大学を出て、い きなり国のリーダーの地位につき、重要な判断や役目をまかされる。

 学力の低下はもちろん由々しき事態であり、改善策を考えなければならな い。しかし人格の涵養、道徳教育、公共心やリーダーシップ育成などの総合的な教育 の一環として学力問題を考えないと、偏った人格の持ち主がテストでよい成績をと り、彼らが国のリーダー層になってしまう恐れがある。

 学力対策となったら、それだけを孤立して考えるという思考様式そのもの が、学力偏重で教育された「エリート」の弊害だと言ったら、皮肉がすぎようか。

 

8 子供に不正義教えるな(平成15年7月28日)

 このごろ、まじめで教育熱心な先生たちが、頭をかかえてい る。今までの常識が通用しない親たちが増えているからである。常識の方が間違って いたのか?

 たとえば、先生に「宿題を出さないでほしい」と要求する親。表向きは 「勉強は学校だけで教えるべきだ」と言うが、本音は「宿題を教えることができな い」とか「面倒だ」ということらしい。

 学力などつかなくてもいいという親がいる一方、「塾へいく時間がなくな るから」という親もいる。

 もっとひどくなると、怠けて学校に行かない子供に「学校になど行かなく てもいいよ」という親。学校でなくても勉強を習うところはあるという。

 しかし学校で自然と身に付く規律や集団生活、協調性、我慢することを教 えられるのか。

 もっと驚くのは、学校に納めるべき給食費などを払わない親が増えている ことである。生活保護家庭ではなく、普通に収入のある親がである。いくら督促して も梨のつぶて。

 給食制度に反対で、手作りの弁当を持たせているというなら、話は分か る。しかし子供は当然のように給食を食べている。これでは「無銭飲食」してもいい と子供に教えているようなものである。

 それに対して「子供に給食を食べさせない」という処置は、「子供の人権 に反する」「子供の心を傷つける」と批判されるので不可能。学校側は「強制取り立 てする権限もない」と、困りはてている。

 また、先生が悪いことをした子供を叱ると、親が「叱らないでくれ」と文 句を言うばかりか、校長や教育委員会に文句を言って、上から圧力をかける。

 これではまるで、「悪いことをしても咎められない」ということを子供に 学習させているようなものではなかろうか。それで規範意識を育てよという方が無理 である。

 「悪いことをしたら叱られる、罰を受ける」という原理が教育現場から も、家庭からも社会からも失われている。

 マナー違反やルール違反を注意した人を殴り殺してしまう事件が相次い だ。幼児期から二十歳になるまで、一度も注意されたことがなかったため、注意され て頭にきたのだそうである。

 他方で、犯罪少年たちは、隙をみて逃げようとする。小さいころから、 「みつからなかった」「逃げおおせた」という経験を積んできたのではないか。逃げ ようとした万引き少年が電車に引かれて死んだ事件は、大きな波紋をまきおこした。

 検挙率が60パーセントから20パーセントに落ちている。これもまた「逃げ おおせた悪人」の増加を意味している。学校だけでなく、日本全体が「悪いことをし ても咎められない」社会になりつつあるのか。そういう社会は、「悪いことをしても 罰せられない」「逃げればいい」ということを子供たちに学習させていることにな る。

 少年犯罪増加の背景には、こういう教育の歪みが働いているのである。教 師の叱る権利と、暴力的な子供に対する実力行使の権利を法律で認めるべきである。

 そのあたりから変えていかないと、教育の歪みは直せない。

 

9 男女密着教育の危険(平成15年9月29日)

 本紙9月18日付の「アピール」欄に中学校教諭、中田勝氏(新 潟県巻町)の「子供の人間関係構築、学校は熟慮を」という貴重な意見が載ってい る。

 中田氏は静岡県や山形県で明るみに出た小学校高学年の異性同室宿泊のほ かにも、「異性交流の適切な距離感を喪失せしめる教育現場での事例」が見られると して、小学校高学年の体育の授業で取り入れられた「人間椅子」を紹介している。

 「これは子供たちが椅子状に中腰になって、互いに膝の上にお尻を乗せ合 って集団で輪をつくるものだ。全身を密着させないとうまくできないのだが、これを 性別を問わずにやるケースが多い」そうである。

 男女同室宿泊にせよ、この「人間椅子」にせよ、はたまたセックスの方法 を教える即物的な性教育にせよ、すべてに共通しているのは「男女密着強制教育」で ある。家庭科の授業で、全裸の妊婦の水中出産のシーンを、男女高校生をまぜこぜに してビデオで見せた女性教師もいる。

 男女の区別や距離感をなくせばなくすほどよいという思想を前提としてい るのだから、これらは明らかに特定のイデオロギーによる偏向教育である。

 もちろん間違ったイデオロギーである。男女の関係、一般的に言って人間 同士の関係は、密着すればするほどよいというものではない。適切な距離をとれるの が、健全な人間関係というものである。

 このごろの若者の病理として目立つのが、甘えて近寄りすぎて嫌われる か、逆に対人恐怖など人との関係を結べないケースである。小さいころから親や家族 と密着する経験も、また距離をとって付き合う訓練もしないままで、思春期に突入す る。

 本来ならば、幼児期において密着を経験させ、思春期に入る前までに男女 の距離を適切に取ることを教えるべきなのに、思春期の子供に密着することを教えた ら、子供は混乱したり、フリーセックスへの歯止めをなくしてしまう。

 とくに女の子は、男子と密着することに対する本能的感覚的な恐れや嫌悪 感を持っている。これは哺乳動物のメスに共通の、望まない妊娠を避ける本能的仕組 みである。もちろん人間も動物の一種として、同じ心理的仕組みを持っている。

 これを無理矢理なくそうとする教育は、健全な感覚を狂わせ、せっかく生 得的に持っている防衛本能を消去する働きをする。

 最近の小学校高学年は、すでに思春期に入っているか、その入口にあると 考えなければならない。その時期には、男女が適度な距離をとることや、男女の付き 合いのルールを教えるべきである。まさにその時期にわざわざ密着教育をするのは、 逆の教育をやっていることになり、きわめて危険である。

 フェミニストはイデオロギーに導かれているので、そういう大切なことを 考えないで、ただ男女の区別をなくす有効な手段として、男女密着教育を考え出した のであろう。

 男女混合名簿に象徴される男女まぜこぜも、体育や家庭科の男女密着実践 も、同じイデオロギーから出ていることを、われわれはよく認識し、きちんと監視し ていかなければならない。

 

10 偽善通れば能力引っ込む(平成15年11月24日)

 毎年、春と秋に教育実習のために授業を休む学生が目立つ。平均三 週間休む。欠席扱いにはしないという慣習である。

 大学の授業というものは、そんなに軽いものなのかと、私はいつも疑問に 思っている。一回ごとの読み切り小説ではあるまいに、積み重ねていく内容の授業で は、三回も休んだら分からなくなってしまう。

 授業をないがしろにする制度で、まともな教師が育成できるのか。
 さらに疑問なのが、このごろ教育実習の中に、七日間の老人ホームや養護学校での 介護体験が法律で義務づけられていることである。

 その心は「弱者の視点に立った教育者の育成」というのであろう。たしか に弱者への思いやりは大切である。しかし、いくら介護体験をしても、次のようなケ ースには役に立たない。

 ケース1。クラスでいじめが起きた。被害者の親からの訴えで教師がいじめ の事実を知る。教師はいじめている児童に何の処置も取らない。被害者の親が問いた だすと、教師は「いじめている生徒も親の愛情が不足しているなどの可哀相な事情が あり、強く注意できない」と答えたそうである。

 いじめている方も「弱者」だというわけである。「弱者にやさしく」とい う視点だけだと、皆が弱者に見えてしまい、正義や規則を守らせるという視点が欠け てしまう。

 ケース2。ある小学校で、黒板にいたずら書きをした子供がいた。誰がやっ たのかと聞いても、誰も手を挙げない。そこで教師はクラス全員の指紋を採って調べ た。

 この教師は、規則を守らせることには熱心であった。しかし厳しさの緩急 も子供の心の機微も知らない。徹底的に叱らなければならない場合と、「こらっ」ぐ らいで済ませていい場合の違いが分からない。犯人を探さなければならない場合と、 全員に注意すればいい場合の違いも分からない。

 ケース3。高校のテストの日に、机の上にナイフを置いて「刺すぞ」と脅し た生徒に対して、担任の教師はそのナイフで生徒の首筋の毛を剃った。

 このような例を挙げていけばきりがない。これらの「どこかおかしな」教 師は、「特別へんな」教師であろうか。これらは目立った例だけれども、適切な生徒 指導や処置のできない若い教師は確実に増えている。

 介護体験などよりも、生徒の問題行動に対処する実習や、その親と話し合 う実習をする方が、よほど生徒指導には役立つだろう。

 「弱者を大切に」という言葉を出されると、誰も反対できない。そこで誰 かが言いだすと法律になってしまう。介護体験をやって、「とてもよい体験でした」 と感想を書けば教師になれる。教員養成制度を抜本的に見直す必要があるのではない か。

 この問題に限らず、学校には偽善が多すぎないか。「命を大切に」や「指 導でなく支援を」も同様。決まり言葉を言っていれば責任を逃れられるという風潮を なくさなければならない。

 教育改革の必要が叫ばれているが、偽善通れば無能のさばる、とならない ような教育改革をしなければなるまい。

 

11 入試を洗脳手段にするな(平成16年2月2日)

 今年のセンター入試には、イデオロギー的に偏向した出題が二つも 見つかった。

 一つは世界史Bの設問の中に、「第二次世界大戦中、日本への強制連行が行 なわれた」という文章を正解として選ばせる問題が出された。

 「強制連行」という言葉は、特定の国や勢力が反日宣伝のために作った造 語にすぎない。この用語の妥当性については、学会の定説もなければ、国民のあいだ でのコンセンサスもできていない。むしろ現在激しい論争の的になっている問題であ る。

 その対立する両者のうちの一方的な見方を「正解」として受験生に押しつ けるというのは、あまりにも公正中立を欠いた出題と言わなければならない。

 いま一つのイデオロギー的偏向出題は、「現代社会」の第一問である。そ の問題文の中には「女性の議員が多い国」を「先進国」とし、スウェーデンでは「外 国人にも参政権を認めている」「18歳で選挙権・被選挙権を認めている」として、そ れがよいこと、正しいこととして書かれている。

 言うまでもなく、これらの命題は国民のあいだで争点になっている問題で ある。ところが一方だけの考えが正しいという前提で問題文として出題されているの である。

 さらに設問の中には、「選択的夫婦別姓を求める動き」を「男女平等の社 会づくりを進める動き」と意味づけ、それを「正しいもの」として受験生に選ばせる ようになっている。

 また国会議員の中で女性が占める比率を示すグラフを出して、その国別の 順番を当てさせる設問もある。その順番では日本が最下位であり、日本が男女平等で 最も遅れているという偏見を受験生に刷り込むことになりかねない。

 当然ながら、入試問題の内容は完全に中立かつ公正なものでなければなら ない。ある特定の思想を表現するような偏った内容であってはならない。

 この原則が、これらの設問ではまったく守られていない。現在論争中の問 題を入試に出題し、一方的な見方を「正解」にするというのは、暴挙と言うべきであ る。

 これらの出題の偏りは、おそらく出題者の中に自虐史観を持った者やフェ ミニストが加わっており、その者たちが党派的に自分たちの思想を押しつけるために 入試を利用した結果であろう。

 高校生や受験生に対する思想的洗脳を行うのに、入試を悪用するとは言語 道断である。

 センター入試というのは、一つの大学の受験生に影響があるという規模で はなく、全国で約50万人の受験生が受ける大規模な試験である。

 そこに出題されれば、来年からはその系統の「正解」を学習することを強 制されるという効果を持つ。思想的洗脳をしたい者にとっては恰好の手段になる。

 出題者に選ばれたという特権を悪用して、党派的偏向的な内容を入試問題 の中に忍びこませるという行為は、卑怯であるばかりか、出題者としてのモラルを欠 いた犯罪と言いうるだろう。

 関係者の猛省を促したい。

 

12 男女混合名簿の落とし穴(平成16年4月26日)

 本欄に執筆するようになって早くも二年近くになるが、その最初の 表題は 「ジェンダーフリーの害毒」である(平成14年5月6日)。

 その趣旨は、性差をことさらに否定して育てられると、子供の自我の発達 に支障が起きる恐れがあるというものであった。

 文化的な性差(ジェンダー)には必要なものもあり、そのすべてを否定する のは大きな誤りである。「男らしさ」や「女らしさ」を目標にして努力するという姿 勢は、むしろ必要である。

 「男らしさ」を否定されて育つと男子は腑抜けになり、「女らしさ」を否 定して育てられると女子はふしだらになるというのが私の見方だが、この説が正しい ことは最近の世相を見れば明らかであろう。

 しかし、性差否定教育はますます蔓延し、数々の逸脱や行き過ぎがいたる ところで報告されている。

 じつはそうした性差否定教育の元凶でありシンボルとなっているのが、男 女混合名簿なのである。

 性差否定主義者らは、その尖兵として、また象徴として男女混合名簿を位 置づけ、これを前面に押し立てて性差否定教育を押し進めてきた。

 同じ「まぜこぜ」でも、抵抗感は程度によってさまざまである。制服を同 じ色や形にしたり、靴箱や朝礼の並び方を混合にすると、少し抵抗感が出てくる。

 棒倒しや騎馬戦のように、体を密着させるような種目を男女一緒にさせる となると、相当に違和感が強くなる。

 さらに、男女同部屋での宿泊とか、同部屋での着替えまでくると、多くの 人が弊害を感じ、本能的に危険を意識する。

 しかし名簿をまぜこぜにしたくらいでは、別に弊害は起こらないように思 えるので、心理的抵抗感も弱いし社会的な反発も起こらない。じつはそこに大きな落 とし穴がある。

 混合名簿には、男女の性差による区別を排除しようとする思想がはっきり と表明されている。その思想によって教師と子供たちや親たちを絶えず洗脳するとい う効果を持つ。

 最近の調査で明らかになった日本の高校生の「男らしさ」「女らしさ」意 識の極端な薄さも、学校でいかにまぜこぜ教育が成功してしまっているかを如実に示 している。

 まぜこぜ教育がこのまま続けば、その悪影響は計り知れないものがある。 性差否定(男女まぜこぜ)教育をなくすためには、全国に蔓延した男女混合名簿をでき るだけ早急に廃止させ、もとの男女別名簿に戻さなければならない。

 幸いなことに、性差否定に対する批判も強まり、是正の動きが各地で起き ている。男女共同参画条例の中に「性差を否定してはいけない」などの「歯止め条 項」を入れる自治体も出始めている。この動きをさらに活発にし、全国に広めて行か なければならない。

 

13 道徳優先の性教育を(平成16年6月20日)

 私のホームページにはいろいろな人からメールが届く。

 日本の女子高校生の「純潔」意識が他の国々と比べて極端に低いことを論 じたときには、16歳の男子高校生から、「純潔」という言葉を初めて聞いたというメ ールがきた。

 それを紹介したところ、26歳の女性から次のようなメールがきた。

 " 私は性交渉の知識を漠然としか持っていません でした。それが、高校2年の時に、保健体育と称して「性教育」の時間があり、突然 ヴィデオで各種の避妊の方法や、堕胎について、また性交渉の図解を生々しく見せら れて、ショックを受けました。一瞬頭の中が真っ白になったことをよく覚えていま す。

 その「性教育」の授業はヴィデオを見ただけで終わり、それについて考えた り、討論したりする時間などはありませんでした。

 高校時代から学生寮にいて親元を離れていた私は、結果的に性道徳という ものについて深く考える間もなく、いきなり避妊について学んでしまったことになり ます。

 それから10年が経ち、私には今婚約者がいますが、交際した男性は過去 にもう一人います。もう、その男性と別れてからのことですが、ある日突然、私は自 責の念にかられました。もっと性道徳について考えておけばよかった、と。

 自分なりに、きちんと結婚を前提に付き合いだすまでは交渉を拒否する、 などの「基準」を定めておけばよかった、と。自分に基準がなければ、相手側の意思 に簡単に左右されることになります。

 性交渉とは、相手との愛を確認し合うだけでなく、新しい命を作る営みで あるわけですから、・・・・今適当な言葉が浮かびませんが英語だとRespect(尊 重、というのも少し違いますが)するべきだと思うのです。そして、特に女性にとっ ては、心理的に少しでもしこりがあると、後になって私のように「後悔」するケース も少なくないのではないでしょうか。"

 この投書に典型的に見られるように、いま日本中の学校で、この例に似た りよったりの「保健」や「総合」の時間を使った、知識・技術偏重の性教育が行われ ている。

 知識を与えれば、エイズや性感染症を防げるとか、妊娠を防げると考える のは間違っている。結婚までは性交渉をやめるべきだという考え方を示す方がよほど 大切である。

 性交渉への道徳的歯止めを与えないで、知識だけ与えたのでは、性交への 興味ばかりかき立てて、むしろ性交の低年齢化に拍車をかける結果になっている。

 知識の前に、「命をつなぐ」という性交の崇高な意味を教え、そして結婚 を前提とし、家族を形成して子供を育てるという前提がある場合にのみ行うべきだと いうことを教える、道徳的な性教育を優先しなければならない。

 いまは、事実上、性教育は教師の勝手にまかされている。道徳を基礎にし た性教育のきちんとした方法論と基準を早急に確立すべきである。

 

14 子供たちに日本神話を教えよう(平成16年9月12日 )

 大学で私は「西洋精神史」という講義をしているが、「西洋精神 史」と言えばギリシアの思想・哲学から始めるのが普通である。しかし私はその前 に、ギリシア神話について話すことにしている。

 そのとき、日本との比較のために日本神話についても話す。スサノヲやオ ホクニヌシ、海幸・山幸の話など、かなり詳しく紹介する。学生たちは非常に強い興 味を示し てくれる。一年の講義のうち、一番面白かったと言う。

 ギリシア神話を読んだことのある者は半分くらいいるのに、ほとんどの学 生は日本神話について学んだことはおろか、読んだこともないという。

 教育熱心な母親が買い与えた本の中に、ギリシア神話はあったが日本神話 はなかったという。親の世代がすでに学校で日本神話について習ったこともなく、日 本神話へ の関心を失っているのである。つまり、子供の基本的教養として日本神話に親しむこ とが必要だとは考えていないのである。

 このように、大人も子供も自分の国の神話に関心のない状態は、国際的に 見るとかなり異常なことではないであろうか。自分の国の神話について、子供のころ に学校で 何も学ばないという国がどのくらいあるか知らない。しかし、日本ほど「禁止」され ているのではないかとさえ思われる国はそうはないだろう。それが戦後六十年も続い ているのである。

 欧米の文学や芸術の中には、ごく当たり前のように神話の題材や神の名が 出てくる。誰もが当然の教養として前提にして語られる。しかし日本で日本神話につ いて話そ うとしても、話の筋はおろか、神の名さえ知らないので、話題にしたくてもできない 有様である。

 私の小学生のころは、戦争中だったが、たしか国語か修身の教科書に「因 幡の素兎」(いなばのしろうさぎ)の話があった。鮫を騙したために皮をむかれたウサ ギが、八 十神(やそがみ)の「海水に浸って潮風に吹かれれば治るよ」という嘘を信じたため余 計痛くなって泣いていると、通りかかったオホクニヌシノミコトが「蒲(がま)の穂綿 (ほわた)にくるまる」ようにと教えた、という話であった(本当は蒲黄(がまのはな) だが、当時は「穂綿」と教えられた)。

 子供心にも、「他人を騙すと罰を受ける」という教訓と同時に、優しく傷 を治して改心させるという話には、かなり強い印象があったと見えて、六十年以上経 つのに未 だにはっきりと覚えているほどである。

 学校以外でも、家には子供用の神話の本もあり、父親も「スサノヲの八岐 大蛇(や またのおろち)退治」や「神武東征」の話などをしてくれた記憶がある。

 当時はただ面白い話として楽しんでいただけだが、子供の心に深く染み込 んでいたのであろう。お陰で、五十歳ころになって日本神話を改めて勉強してみよう という気 持ちになったとき、すんなりとその世界に入っていくことができた。

 日本人の精神の故郷(ふるさと)である神話の世界を、小中学生たちに教え ることを是非復活してほしいと思う。

 

15 教師に余裕を与えよう(平成16年11月14日)

  学校の先生たちと話していて、いつも話題になるのが、無茶苦茶 な忙しさである。

 もちろん、この場合の先生たちというのは、ときどき問題になる、欠陥教 師ではない。また組合活動を勤務時間中にやるというような不心得な教師でもない。 みな真面目で有能で熱心に教育に携わっている人たちである。

 今の先生たちには、苛酷なほどの仕事が課せられている。本来の子供の教 育に加えて、事務的な仕事が多すぎる。とくに「上」への報告書・書類作りがやたら と多い。「アンケート調査」などの各種の調査に対する協力要請が文科省や教育委員 会から来るし、大学の教授からも来る。なぜか、それらは断れないしきたりである。 その調査も、ただ生徒に書かせるだけではなくて、集計も「協力」させられる。

 それに放課後や休日に行われる部活の指導もあり、毎日帰宅は八時すぎに なるという。その上、日曜日も毎週指導している人もいる。

 だから、生徒たちの世話ばかりしていて、自分の子供の相手をしたことが ないという、皮肉な状態に置かれている例も少なくない。 

 マスコミには、おかしな教師の例が登場するが、じつは日本の教育は、こ うした実直で意欲的な大部分の先生たちによって担われているのである。

 しかし、日本ではこういう真面目な先生たちをどれだけ大切にしている か、やりやすい環境がどれだけ整えられているか、大いに疑問である。

 たとえば、昨年から、教師は夏休みも登校しろということになった。遊ん でいてはいけないから、仕事をし勉強をせよという趣旨らしい。

 たしかに夏休みを利用して、海外旅行にばかりうつつをぬかしている教師 たちもいる。少しは勉強させたいと私も思う。しかし休み中に登校させても、実態は 集まって雑談しているだけという場合が多いと聞く。

 海外旅行ばかりしたり、組合活動に精を出す教師を糺すことももちろん必 要である。しかし熱心に真面目にやっている先生たちを支援するという発想も必要で ある。

 本を読み勉強し、家族と接する時間的・精神的余裕が与えられなければな らない。これらは教師としてはもちろん、本来人間にとって必要な余裕である。こう した心の余裕なくして、本当に子供を可愛がり、上手に教える工夫をすることができ るだろうか。

 ただ暇を与えたのでは、勉強しない者が出てくるというのであれば、課題 や本を決めて勉強会をすればよい。大きな研修会や講演会もいいが、日常の場で、と くに夏休みに学校に集まって勉強会を開くなど、日常的な勉強の場を作る必要があ る。

 そのためには、事務を極力減らすこと。また部活の指導などは、地域の専 門家がボランティアで支援する体制を作ることは、充分可能なはずである。実際に実 行している場合もある。先生たちの負担を少なくし、教育に心の余裕をもって携われ るように工夫をしてもらいたい。

 

16 監獄法改正案の再考必要(平成17年2月13日)

 刑務所や少年院は、「罪に対する罰」を与える所であると同時 に、更正という教育を与える場でもある。そこにはある意味では厳しい教育の原理が 必要である。

 とくに犯罪を犯した者の多くは父性が不足しており、甘えや無規律の精神を持 っている者が圧倒的に多い。それに対しては相当に強い厳しさの原理が必要である。

 もちろん最低限の人権は保証されなければならないし、不当な虐待はもっての ほかである。しかし、むやみと待遇を改善したのでは、更正にとってむしろマイナス になりかねない。

 情状酌量の余地なく実刑に服している受刑者たちは、相当な「わる」であり、 その更正のためには、まず父性的な厳しさを与える必要がある。過保護な今の世の中 に残された数少ないしつけの厳しい施設が刑務所や少年院である。

 その中では、規則を守らせ、規律正しい生活をさせ、秩序を維持すること自体 が教育的な意味を持っている。学校の教員でも、ワルガキに対しては強面(こわもて )が必要であるが、刑務官はもっと強面が必要なのだ。

 そういう意味を理解しないで、「人権」をふりかざしてむやみと待遇をよくし たら、甘えを助長し、受刑者の自立する機会を奪うことにもなりかねない。

 一般的に言っても、昨今の教育に厳しさが不足しているが、とくに犯罪を犯し た受刑者には厳しさが必要である。

 このたび、法務省は監獄法を見直し、受刑者の待遇を改善する方針と発表され た。「受刑者の人権保証を十全なものとする」というのが趣旨である。相も変わらず 「人権」「人権」である。

 名古屋刑務所での受刑者死傷事件を受けての「見直し」だそうだが、不当な虐 待をなくすことと、待遇問題を混同してはならない。

 具体的な待遇改善策とは、刑務所内で子育てができるようにする、外泊できる ようにする、電話使用も緩める、医療も充実する、面会の機会も増やす、人権救済・ 不服申し立て制度も充実させる。なんとも、至れり尽くせりである。

 待遇よりももっと深刻なのが「人権、不服申し立ての充実」という項目。これ を盾に、人権派の弁護士がけしかけて、いちいち「人権侵害だ」「差別だ」と文句を つけ始めたら、いわゆる「しめし」がつかなくなり、刑務所内の秩序を維持すること はきわめて難しくなるだろう。刑務所や少年院では今でも受刑者が増えすぎて、刑務 官たちは過労になったり、神経がすり減っているという。

 条件つきとはいえ、「刑務所内で子育てができるようにする」「外泊できるよ うにする」「電話使用も緩める」「面会の機会も増やす」となっては、外部との悪意 ある連絡も易々とできることになる。所内の犯罪防止という観点からも危険である。

 間違った人権思想に基づいた監獄法改正案は、是非とも再考すべきである。

 

17 正しい教科書を選ぼう(平成17年4月25日)(字数の関係で元 の原稿から削除した部分を復活させてある)

 授業は教科書に従ってなされる。当たり前だと言われるかもしれ ないが、これはたいへん恐ろしいことである。

 私は、教科書に従って教えられてきた学生に教える立場にあった。そこで、び っくりするような体験をしてきた。

 私が教える教科の一つに「西洋精神史」という科目がある。その最後の方でマ ルクス主義について話す。

 私は単にマルクス主義の思想的特徴だけでなく、その結果についても述べる。 独裁・粛清・秘密警察・暗殺・強制収容所・経済の破綻・先軍思想・拉致・麻薬や武 器の密輸出などなど。

 また、「南京大虐殺」「慰安婦強制連行」「朝鮮人強制連行」「百人斬り」を 取り上げ、これらの事実は客観的に証明されていないし、多くの「証拠」とされた写 真等は捏造であること、中国共産党のデマ宣伝にすぎないと話す。

 これを偏った授業と批判する者もいたが、私は逆に教育の偏りを正すための授 業だと考えているから、誰がなんと言おうが、断固として話してきた。

 それらの歴史の捏造については、本紙の読者には常識であろうが、なんと学生 の百人のうち(平均・約)九五人は聞いたこともないというのである。南京大虐殺に疑 いを持っていたという者は五人しかいない。

 ある学生は、高校で南京大虐殺について習ったので、反対意見も調べてみるべ きだと思い、南京大虐殺はなかったという意見の本も読んでみたという。

 まるで逆さまである。教師が取るべき公正な態度を取らずに、学生が自主的に 正しい態度で調べたというのである。そして藤岡信勝氏の本を持っていって、「こう いう本もありますけど」と言ったら、その教師は「藤岡め!」と怒りをあらわにした という。

 しかし、こういう立派な学生はごく稀である。たいていは「日本は悪いことば かりしてきたと思いこんでいました ! 」と言うのである。私の授業は大ショックを 与えたことになる。

 そのうちの五人は南京大虐殺はあったと信じこんでいる。私が何を言おうと、 頭から信じない。彼女らは大学が実施する「授業評価のアンケート」の「自由表記」 の欄に「この教師は独断と偏見がすさまじい」と書きこむ。

 「南京大虐殺や慰安婦強制連行は事実として証明されていない」と言っただけ で、こういう反応が出てくる。

 「独断と偏見」を持っている側が、公正な見方をしている側を「独断と偏見」 だと非難する。これが日本の現状である。

 この種の学生は「だって教科書に書いてあるじゃないですか ! 」「国が検定し た教科書に間違いがあるって言うんですか ! 」と言う。教科書の威力はかくのごと し、である。

 ただし希望はある。教科書を信じこんでいた九五人のうち、九十人は「そうだ ったんですか」と認識を改めたのである。少なくとも「両方の本を読んでみます」と いうことになった。

 もちろん認識を改めさせることは、そんなに簡単ではない。自慢になるから言 いにくいが、九五人のうち九十人の誤解を解くことは、誰がやってもできるというも のではない。相手から信頼されていなければ不可能である。人数の多い少ないは別と して、私の教育実践は「教えられた嘘は崩れるものだ」ということを示している。

 一度だまされたあと、真実を知った者は、いわば免疫を持ったに等しい。次か らは騙されにくくなる。今まで騙してきた者に対して不信感や怒りを持つようにな る。

 今、中国の反日デモで暴れている若者も、真実を知らせれば、嘘を言ってきた 者に対する怒りへと転換する可能性が大きい。災い転じて福となる可能性もありう る。

 教科書の威力は絶大だが、嘘の教科書は無力になりうるし逆効果となりうる、 また逆効果にしなければならない。

 少なくとも、日本の青少年には真実を教えなければならない。そのためには、 真実が書いてある教科書を選ばなければならない。やはり教科書の威力は大きいので ある。

 

18 「好きなこと」探しの罠(平成17年7月4日)

 親が子供に言う言葉のうち、最も多いのが「お手伝いはいいか ら、勉強しなさい」と「好きなことを見つけなさい、一生打ち込める好きなことを」 である。

 確かに愛情から出た言葉であり、子供のために「よかれ」という思いは痛いほ ど分かる。

 好きなことに打ち込んで、それで食べていかれれば、それにこしたことはな い。一生打ち込める好きなことが見つかり、それに邁進できれば、そんな幸せなこと はない。

 しかし、こう言って育てると、多くの子供がダメになるのだから恐ろしい。

 そもそも、一生続けられる好きなことは、そんなに簡単に見つかるものではな い。好きなことで能力があるという幸せな人は、めったにいるものではない。高校生 くらいまでに、一生をかけるほどに好きなことが見つかる人の方が少ないのである。

 故小此木啓吾氏がモラトリアム(猶予期間)という言葉を言い始めてから半世紀 が経つが、モラトリアム人間はますます多くなり、その期間はますます長くなってい る。

 最近は大人になりたくない「永遠の少年」タイプも増えているが、大人になる ということは、「好き」でないことも我慢してやれるようになることである。

 たいていの人は、偶然や仕方ない事情で職業を選択し、それが一生の天職とな る場合の方が多い。「好き」でなくても、やらなければならないことはきちんとや る、という躾も大切である。

 好きなことが見つからないのに「一生打ち込める好きなことを見つけなさい」 と言われると、たいてい自信を喪失し劣等感を持つ。そればかり言われると、にっち もさっちもいかなくなり、引きこもりへと追いつめられてしまう場合もある。

 「好きなことを見つけなさい」は、自分のことだけ考えなさいと言っているに 等しい。その上、普通に生きることに価値がなく、何か特別な生き方だけに価値があ るという考えも、背後にあるような気がする。

 子供に自信をつけたかったら、「好きなことを見つけなさい」ではなく、「人 の役に立つことを見つけなさい」と言うべきである。

 人の役に立つためだったら、少々の能力で充分である。天賦の才など必要な い。人なみの体力と知力があれば、簡単に人の役に立つことができる。もし何か人よ り優れた能力を持っていて、それを人のために役立てれば、なおさらよい。

 人の役に立てば、人から喜ばれ、感謝され、好かれ、評価される。本人も気持 よくなり、自信も出てくる。人柄もよくなり、積極的に社会に出ていくようになる。 一生続けられる道も見つかるかもしれない。よいことづくめである。

 子供に自分のことばかり考えさせるのではなく、社会とのつながりを意識さ せ、他人のおかげで生きていること、そして他人の役に立てる人間になることを考え させるような教育を、親も学校も社会も心したいものである。

 

19 子供の暴力の原因は父性の欠如(平成17年10月3日 )

 文科省の発表によると、小学生の暴力が二年連続で増加し、とく に教師への暴力は三割も増えた。

 

 これは異常な事態であり、必ず原因がある。暴力というのは表面の現象であ り、その背後には子供たちの心の発達過程における深刻な問題が隠されている。それ を的確に突きとめ、対策を講じなければならない。

 いろいろな説がある中で、一番見当はずれなのがストレス原因論。詰め込み教 育に対するストレスが爆発したものだそうである。家では「いい子」を演じていて、 学校で発散しているという見方も同工異曲。これは現実を逆に見ている。今の子供た ちには、むしろ適切なストレスが欠けているのである。

 次にもっともらしいのが、親から暴力を受けている子は暴力的になる、という 説。これは一般論としては正しいのだが、ただしこういう子供は大人よりも子供(弱 者)に対して暴力を振るう傾向にある。先生に対する暴力が急増していることの説明 にはならない。

 私の見るところ、教師に暴力を振るう子供たちは、家庭と違う行動をしている わけではなく、むしろ家庭での行動を再現しているのではないか。

 このごろは、叱らない親、「友達親子」を理想にする親が増えている上に、 「叱ると子供が萎縮するから叱ってはいけない」という育児論が横行している。

 子供が甘えたりわがままを言って暴れるときにも、おろおろして叱れない。子 供は「あばれるとわがままを通してもらえる」ということを「学習」してしまう。

 学校でも教師の態度は親と同じで、子供が暴力を振るっても叱れないし、まし てやゴツンとゲンコツを喰らわすなんて、考えられもしない。そんなことをしたら、 それこそ大騒ぎになる。

 子供のわがままに対して毅然とできない親子関係が、そのまま学校にも持ち込 まれ、子供は先生が親と同じ態度を取ることを期待して行動する。

 家では一度も叱責されたことのない子供は、先生から自分の意思に反した「指 導」「指示」をされただけで、キレてしまう。

 こうした子供はコミュニケーションや感情のコントロールができないのだとい う説もあるが、むしろルールを守ることができないのである。

 本当の教育者なら、そこで子供の「期待」とは違う態度を取るべきなのだが、 「いかなる暴力もいけない」という風潮に逆らうことは難しい。

 問題の根本には、父性の欠如が横たわっている。家庭の中にきちんとした枠、 適切なルールが存在していないのである。

 親は家庭の中できちんとしたルールを設定しておいて、子供がそれから逸脱し たら厳しく「指導」しなければならない。

 こんな当たり前の常識が子育ての中に存在しなくなっていることが、子供のわ がまま暴力として現われているのである。

 

20 師弟関係こわす授業評価(平成17年12月5日)

 昨今の大学では、学生による授業評価が盛んである。授業の内 容をよくしたい、分かりやすくしてほしい、そのために教師に反省や刺激を与える必 要がある。そういう目的からなされている。

 誰が評価するのかと言えば、毎日授業を受けている学生以外にいないというの も理解できる。

 たしかに授業評価は、適切なやり方でなされるならば、建設的な作用をもたら すだろう。しかし、やり方によっては、教員の意欲をそいだり、師弟関係をこわす作 用をする場合もある。

 以下は東京女子大学の質問項目の例である(括弧内は私の註とつぶやき)。「教 員は休講をしましたか」(回数も聞く)「その補講をしましたか」、「この授業はシラ バス(授業計画)どおりに行われましたか」(「どおり」だと点数が高く、「どおりで ない」と点数が低くなる。予定変更は常に悪なのか?)、「授業の内容はよく理解でき ましたか」(受ける方の頭の程度や予習復習にもよるだろう)、「私語や遅刻に対する 対応を行っていましたか」(どうすれば「良い対応」とされるのか?)、「受講者の理 解の程度を点検・配慮していましたか」(大教室での講義では学生の顔を見て判断し ている、しかしその「配慮」は学生には分かるまい)、「質問の機会を適切に与えて いましたか」(いちいち「質問はありますか」と言わないと質問もできないのか!)。

 さて、ここまできめ細かに調べて、その評価の結果を教員に知らせて、それで 授業がよくなるだろうか。よくなったかどうかを、どのようにして点検・評価するの だろうか。本当に授業はよくなっているのか? 学生に媚びる教師が増えないか? い ろいろと疑問が浮かんでくる。

 そもそも「良い授業」とは何だろうか。そういう細かい項目でチェックして、 それをクリアすれば「良い授業になった」と言えるのか。

 授業の良し悪しは、どれだけの内容を与えるか、どれだけ啓発するか、どれだ け考える力をつけるか、によって評価されるべきである。

 したがって当然、そうした点を評価するような項目が設けられていなければな らない。私がいた大学では、それらしい項目は一つしかなかった。

 もう一点、「自由記述」という欄にも問題がある。この欄の本来の目的は、良 い点、悪い点、改善策の提案などを書くべき欄である。ところが、中には匿名を利用 して中傷を書く者もいる。そうなると、教師と学生相互の信頼関係を壊したり、対立 的な関係が作られたり、教師の意欲をそぐ危険もある。学生の側のモラルや目的意識 の高い低いによって、教員が納得できる評価になるかどうかが別れるのである。

 学生に評価をさせる、その要望に従って改善しますという態度は、下手をする と「お客様」に対する態度になってしまう。自分のことは棚に上げて、相手に要求ば かりする精神を育てることにもなりかねない。

 本当に良い授業を望むなら、学生自身が意欲をもって積極的に授業に参加する ことだ。また教師が良い授業をすれば、学生も熱心になる。そうした相互作用が真の 師弟関係というものではないか。

 

21 堀江流に対抗できる教育を(平成18年1月30日)

 インターネットが普及し、それに伴う利便性も増大したが、マ イナス面も巨大になった。ネットを利用した犯罪も多く生まれている。またネットを 巧妙に利用して金儲けにつなげる者もいる。

 その典型的な例が堀江貴文氏である。革新的なパーフォーマンスを繰り返すこ とで若者の人気を得る。すると、ライブドアの関連サイトにアクセスする者や、関連 会社の株に投資する者も増える。それを利用して違法な操作をすれば、巨万の富も獲 得できる。

 インターネットの世界は若者や子供に影響力が強い。とくに世間に対して反抗 的・革新的なポーズを取る者は人気を博す。堀江氏はまさにその典型であった。

 堀江語録「稼ぐが勝ち」「人の心はお金で買える」「ずるいといっても合法な ら許される」とは、社会道徳に対する挑戦である。ここにはむき出しの拝金主義だけ がのさばっている。法律さえ犯さなければ何をしてもいいと言わんばかりであった。

 堀江氏はまた、サッカーをしている自分の子供に「イエローカードを貰うこと を恐れるな」と言ったという人の話を紹介しながら、「経営にしても法律ギリギリの ラインを攻めて、差をつけるしかない」と述べたそうである。

 これもまた、「勝つ」ことを優先して、フェアプレーの精神を否定する発言で ある。スポーツマンシップなどという言葉は彼らの頭の中には存在しないのだろう。 きれいなプレーを目指してきたという中田英寿選手が、人生で初めてレッドカードを もらったと言って残念がっていたのとは、たいへんな違いである。

 道徳や法律に反しても金さえ儲ければ勝ち組だなどという、間違ったメッセー ジを子供たちが受け取らないかと、私は恐れている。

 堀江氏らの反道徳的なメッセージに対して、今の子供たちは、断固として「ノ ー」を言えるだろうか。「ノー」を言えるためには、家庭や学校において、きちんと した道徳教育を行い、正義や公正を、そしてルールや法律を守ることの大切さを、強 く教えておかなければならない。

 だが、高校生の六割が万引きを「悪い」とは思っていないという数字は、道徳 教育が成功しているとは決して言えない現状を物語っている。親の中には、子供に投 資の手ほどきをして、マネーゲームは面白いと教えている者もいるそうである。

 しかし、ライブドアに強制捜査の手が伸びて、どうやら法律も犯していた疑い が濃厚になった。粉飾をしたり、法律違反の操作をしたりと、世間と投資家をあざむ いてきたらしい。

 幸い、堀江氏と幹部たちが逮捕されたことは、子供たちに対するじつに大きな 実地教育になった。法を犯してまで金儲けをすれば、このように罰を受けるというこ とを知らしめたからである。

 道徳無視の拝金主義・出世主義が蔓延しそうな世相なだけに、それに毒されな いだけのしっかりとした人格を育てるための道徳教育と人格教育を、今こそ見直さな ければならない。

 

22 「情報麻薬」を規制せよ(平成18年4月3日)

 (茶色の箇所は、字数の関係で割愛したため新聞には載らなかっ た部分である。)

 最近話題になっている岡田尊司著『脳内汚染』(文藝春秋)を読 んで、是非とも紹介しなければならないと思った。この小欄ですべてを紹介すること はできないが、要点はこうである。

 いま青少年のあいだに広く深く浸透しているゲームが、脳を作り替えてしまう という恐ろしい弊害をもたらしている、と言うのである。

 弊害の第一は、殺人や暴力に対して人間が本能的に持っているタブー(動物ほ どに完全ではないが、なお強く残っている)を解除し、脳の行動プログラムを変え、 安全装置をはずす役割をしていることである。

 すなわち、ゲームの多くは敵を殺して目標に到達することをテーマにしている が、それを成し遂げていく過程で、敵を殺すことに対して躊躇をしないで反射的に引 き金を引く訓練をしていることになる。事実、アメリカで起きた大量殺人事件は、こ の脳の禁止プログラムが書き換えられた結果であることを示していた。

 この「殺人訓練」とはこうである。人間は相 手がたとえ「敵」であっても、銃の引き金を引くことに躊躇するものである。戦争の ときにも、また集団処刑のさいにも、実際に引き金を引いたのはたったの2割くらい だそうである。そういう本能的なタブーを打ち破るためにアメリカなどの軍隊がやっ ている射撃訓練とは、標的をただの丸としないで、人間の形をしたのをパッと立て る。その瞬間に引き金を引く訓練をするのだそうである。すると、いざというときに 引き金を引く割合が8割とか9割になる。イギリスとアルゼンチンのフォークランド紛 争のときに、イギリス軍の兵士は9割が引き金を引いたが、アルゼンチンの兵士は 10から15%しか引き金を引いていなかったという調査結果もあるそうである。イギリ ス軍は人の形にしたものを標的として使っていたのである。

 いま子供たちがゲームで日々訓練しているの は、この専門家の銃撃訓練と同じだということである。最近アメリカで頻発している 学校での銃撃・大量殺人事件では、犯人は躊躇なく容赦なく機械的に相手の頭を狙っ て撃っているそうである。ゲームで習熟した技術を反射的に使っているのである。そ ういうことが可能になったのは、脳の中で殺人への禁止プログラムが書き換えられて しまい、タブーが働かなくなったからである。ゲームは反射的な殺人の訓練をさせて いるのだということ、それも軍隊で使っている最新式の射撃訓練と同じ水準の訓練な のだということを、よくよく認識しないといけないのである。

 弊害の第二は、このゲームが快感物質ドーパミンを放出するように「叡智」の 限りを尽くして製作されていることである。つまり一度はまると、麻薬を投与された のと同じ状態、慢性中毒になり、やめられなくなる。

 一日三時間以上ゲームをやっている青少年に顕著に見られる症状は、現実と仮 想の区別がつかなくなり、むしろ仮想の方を大切だと感じるようになる。また感情が 鈍麻し、無感覚になる、コミュニケーションができなくなる、注意が散りやすく落ち 着きがなくなる、自己コントロールができなくなりキレやすくなる、等々である。

 一言で言えば、人間らしさの中心、判断中枢であり中央司令部である前頭前野 の発達を阻害し、または破壊する作用をしてしまうのである。最近の低年齢の凶悪事 件の大部分が、この禁止プログラムの破壊の結果だと著者は警告している。

   ゲームを長時間やる子供は自我の発達が 遅れ、6〜8歳の子供の特徴を示す。すなわち、

 1 現実と空想の区別がつかない、

 2 相手の立場、気持ちを考えおもいやる共 感能力が未発達、

 3 自分を客観的にみて反省することができ ない、

 4 正義と悪という単純な二分法にとらわれ やすく、単純な復讐や報復を正当化して、つっぱしる傾向が強い、等である。

  もちろん、ゲームをしている子供の誰もが 依存症になったり、中毒になるわけではない。なりやすいタイプがあり、例えば低年 齢ほどなりやすい(年上の兄弟がいると低年齢で始めるから危険)とか、過保護・愛情 不足・いじめを受ける等も危険因子である。また親の否定的養育態度と、そこからく る低い自己評価も危険因子である。

  よく「時間を守ってやれば大丈夫」と言わ れるが、これも危険。というのは、小学生のうちは時間を守っていても、中学生にな るとあるときから急にやめられなくなり、中毒症状を起こすという。つまり始めたと きから中毒になるまでにかなりの時間差があり、気がついたときにはやめられなくな っているのである。要するに麻薬中毒に非常に似ている上に、中毒を起こす原因が物 質のように目に見えるものではなく、「情報」という目に見えないものだけに、余計 に恐ろしいのである。

 このような重大な内容を知らされて、これにどう反応するかの方がむしろ重大 だと私には思われる。大きな危機感を持って受け止めるか、「眉唾(まゆつば)もの だ」と受け取るか。

 日本社会の特徴として、これらの警告をなるべく過小評価する傾向がある。水 俣病の原因をチッソが放出している有機水銀だと警告した医師や学者の発言は長いあ いだ取り上げられなかった。

 血友病の場合も同様である。非加熱製剤に対 する疑問があったのに、厚生省も医学会も製薬会社やボスの圧力に屈して、禁止しな かった。ために薬害エイズを防ぐことができなかった。BSE(恐牛病)のときもまった く同じ。肉骨粉が危険であることは分かっていたのに、政府・農林水産省は輸入を禁 止しなかった。それどころか、輸入した肉骨粉を破棄するために補助金まで与えたの である(泥棒に追い銭)。利害関係者の利益を優先させるために、後手後手にまわるの が日本社会と政治の特徴である。

 そうした場合に必ず言われるのが、「科学的根拠が十分でない」という論理で ある。科学的根拠が十分でないと禁止してはいけな いとされる。しかし、それは逆であろう。専門家から危険であるという相当な理由が 示され警告がなされた場合に、安全であるという科学的根拠が十分でないものは禁止 する、というのを原則としなければならない。

 薬が実際に使用許可になるまでには、慎重に研究と臨床試験がなされるのに、 有害物質よりももっと恐ろしい「有害情報」に対して、無知・無策でいることは許さ れない。「情報麻薬」に対しても、薬や麻薬と同じように、「疑わしきは禁止」とい う原則を確立すべきである。

 この問題で対策が取られないのは、

 第一に、大人社会がゲームというものに対し て無知だという事情がある。そもそも I T に対する知識や経験は大人ほど「遅れ て」いるが、中でもゲームの世界については(私もそうだが)触れたこともない者が多 い。クリスマスプレゼントにゲームを買い与える親がいまだにいるそうである。

 第二に、中毒になるまで、また害が現れるま でに、相当のタイムラグがあることである。アルコール依存症でも麻薬でも、最初か らすぐに依存症になるわけではない。ある時間が経過してから、気がついたらやめら れなくなっていたという経過をたどる。タイムラグのために因果関係が分かりにくく なる。初めのうちに害が現れないからこそ、恐ろしいのである。

 第三に、今やゲーム産業が巨大産業に成長 し、政治家や官僚に対して影響力をふるいうるし、また研究者に対しても研究資金の 供与によって口をふさぐことができるようになっている。平成13年でゲームの総出荷 量は1兆5千億円、映像メディアは7兆円を超える巨大産業になっている。マスコミ関 係者はゲームに批判的な記事を載せることにためらいを感ずると言われている。大切 な広告主を失うことになるからである。ビデオゲームの危険についての論文が海外で は盛んに発表されているが、日本の研究者の論文は非常に少ない。

 第四に、「ゲーム愛好者」という名の中毒者 がインターネットの世界などで匿名で弁護論を展開するという問題がある。人は自分 が愛好しているものが批判されると、自分が批判されたように感ずるものである。丁 度、タバコの中毒者が自分たちを「愛煙家」と名づけて、いろいろな理屈を言っては タバコを弁護するのに似ている。

 以上、要点だけを紹介したが、これだけでも ゲームというものの危険性、恐ろしさが浮き彫りになったことと思われる。

 情報の害毒からいかに国民を、とくに子供を守るかという観点を、すべての教 育関係者と政治家をはじめ国民が共有しなければならない。この問題に対して関係者 が早急に危機意識を持つよう、呼びかけたい。

 

資料 1 森昭雄『ゲーム脳の恐怖』(平成14年7月)

 岡田氏の著書に先んずること4年、すでに次のような先駆的研究が発表されていた。森昭雄『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版、生活人新書)である。これはゲームをやっている人の前頭前野の脳波(α波とβ波)を測定した研究である。それによると、ゲームをやっているときはβ波の水準が下がり、α波と同じ水準になっている。ゲームを止めると元に戻る人はいい方で、重症になると止めても元に戻らない。そういう人は脳の状態が痴呆症と同じになっているという。

 著者の実験によれば、幼児期あるいは小学校の低学年からテレビゲームをしていた人は、前頭前野のニューロン活動がひどく低下し、もの忘れが多く、時間感覚がなく、学業成績は悪く、学校を休みがちという「ゲーム人間」になる傾向が認められた。ゲーム中毒は幼児期に形成されるのである。

 この研究から著者は以下の結論を導き出している。すなわちゲームは、人間を人間たらしめている前頭前野の活動を停止せ、発達させない作用をする。集中力が低下し、もの忘れがひどくなる。その結果、激情を抑制できないキレやすい人間や、自分の頭で考えられない人間になってしまう。

 この研究は発表された当時はいろいろと批判を受けたが、今回の岡田氏の研究によって、基本的に正しかったことが証明されたと言える。

 

資料 2 ゲーム時間長いほど怒る・乱暴(平成18年5月15日)

 東京都教職員研修センターの「児童・生徒の心の発達とメディ ア環境との関連に関する研究」によると、テレビゲーム、インターネット、携帯電話 との接触時間の長さが、子供の道徳性や自尊感情の発達に悪影響を与えている可能性 が高いことが明らかになった。

 例えば、小学生のテレビゲームの使用時間との関係については、次のような結 果が報告されている。

 「ひどく怒ったり、乱暴してしまったりすることがある」かどうかの質問に対 して、

          はい    いいえ

 全くしない    45.7%   54.3%  

 1時間未満    48.6%   51.4%

 1時間以上    51.0%    49.0% 

 2時間以上    68.3%    31.7%

という結果が出た。

 また中学生のインターネットの使用時間との関係については、

 「自分が好き」かどうかの質問に対して、

          はい    いいえ

 1時間未満    48.4%   51.6%

 1時間以上    46.8%    53.3% 

 2時間以上    28.4%    71.6%

 注目すべきは、とくに使用時間が2時間以上になると、怒りっぽくなる割合が 急増し、「自分が好き」という感情が急減することである。

 その他、「自分の体を大切にしている」について「1時間未満」「1時間以上」 が80%前後だつたのに対して、「2時間以上」では63.3%だった。「生きていてよかっ たと感じることがない」「小さな虫や鳥の命を大切だと思わない」などとの関連も見 られたという。

 周囲の人間・生物の命を大切に感ずるとか、コミュニケーションを持つ能力の 発達にとって、対面しての人間同士のコミュニケーションがいかに大切かを示してい る。ゲーム時間が長くなれば、それだけ人間同士のコミュニケーションの時間が短く なるわけである。というより、家族や友人との一緒の時間が持てない子供ほどゲーム やインターネットの時間が長くなっているとも言える。

 

23 生涯学習より家庭教育(平成18年6月5日)

 いよいよ教育基本法改正についての国会審議が始まった。改正 案については言いたいことが山ほどあるが、最も大切な家庭教育の扱いについて疑問 がある。

 現行法には家庭教育について一言も述べられていないのに対して、政府案でも 民主党案でも、家庭教育及び幼児期の教育の重要性について明確に述べられている点 は一歩前進と言える。

 ただし、単に入っているというだけでは、決して十分とは言えない。むしろ重 要なのは、どの程度重んじているかという点である。最後の方に付け足しのように入 れられたのでは、大切ではないという受け取られ方をされかねないし、そうなっては マイナスの効果を持つこともありうるのである。

 実際にどういう扱いをされているかを見てみると、政府案と民主党案では、大 きく異なる扱いになっている。

 政府案では「第一条 教育の目的」「第二条 教育の目標」「第三条 生涯学 習」「第四条 教育の機会均等」が総論に当たる部分である。次いで第五条以下、 「義務教育」「学校教育」等と続き、ようやく第十条が「家庭教育」、第十一条が 「幼児期の教育」となっている。

 なぜ「家庭教育」が「義務教育」「学校教育」よりずっと後に出てくるのか、 私にはどうしても納得がいかない。

 今さら改めて言うまでもないが、家庭教育はすべての教育の基礎である。学校 教育も生涯教育も社会教育も、家庭教育において基礎的な人格が形成されていなけれ ば、成り立たないのである。

 このことが正しく認識されているならば、「家庭教育」の項目は総論の次、各 論の最初に置くのが正当な扱いである。あるいは総論の中に入れてもよいくらいであ る。

 ちなみに民主党案では、前文の冒頭に「心身ともに健やかな人間の育成は、教 育の原点である家庭と……によって達成される」と書かれている。家庭教育の重要性 を認識した書き出しである。

 もっとも、それにしては各論の中では、「第四条 学校教育」「第五条 教 員」の次に「第六条 幼児期の教育」が置かれ、第十条として「家庭教育」が置かれ ているのは、不可解な扱いと言うべきである。前文の正しい認識と首尾一貫するな ら、家庭教育がこんなに後ろの方にくるはずがないのだが。 政府案はもっと悪い。 「家庭教育」が置かれるべき位置に「生涯学習」が置かれている。確かに、学習は一 生続くのが望ましい。しかし学習というものは一生同じ質で行われるものではない。

 幼児期の躾や教育が正しくなされていれば、その後の教育もまたうまくいくの である。学校を出てからも、一生涯学習し続けるかどうかは、各人の自覚と必要性に よって決まるのであり、他人や国家が押しつけるべきものではない。

 「家庭教育」の大切さはますます認識されるようになっているが、その国民的 な認識は改正案に反映していないと言わざるをえない。政府案の「第三条」は「生涯 教育」ではなく、「家庭教育」とすべきである。

 

24 母性重視こそ成熟国家 ──丸尾直美氏への反論 ( 1 ) (平成 18年8月28日)

本紙8月16日付の「正論」欄で、丸尾直美氏が「女性就業が出生率 を下げる」というのは誤解であり、「成熟国家ではむしろ出生率は上昇する」と論じ ている。

 そして「成熟国家」とはスウェーデンなどの北欧国家のように男女の完全平等 が実現していて、男性の家事育児への参加や女性の政治行政への参加が多い国のこと だそうである。

 それに比べると「保守的福祉国家」と呼ばれる日本、ドイツ、韓国のような 「男女平等の真の意識変革が生じていない」国では、女性の就業が出生率の上昇につ ながっていない。従って「男性が遅れた意識を持っている」「男性がまだその意識変 化についていけない」これらの国では、一層の意識変革が必要だという趣旨である。

 「女性就業が出生率を下げるか上げるか」を決めるのは、その国が「成熟国 家」であるかどうかにかかっている、というのが丸尾氏の主張である。「女性就業率 を上げる」ことを絶対の前提にして、それでも出生率が上がる為には「男女の完全平 等意識変革」が必要だと言うのである。

 しかし、なにがなんでも女性の就業率を上げるという前提のもとで考えるので はなく、むしろM字型の就労形態を積極的に取り入れて、乳幼児の母親は働かなくて もよい社会にすれば、確実に出生率は増える。

 なぜなら、日本の若い女性たちの大部分は「家庭で自分の手で子供を育てた い」と思っているからである。こういう健全な意識を「遅れた意識」として否定し、 「変革」の対象にして否定するから、女性たちは子供を産めなくなってしまうのであ る。

 「子供を自分の手で育てたい」というごく自然で健全な女性たちが多くいる社 会こそ、真の「成熟国家」と言えるのではないか。その意味で、日本は世界一成熟し た国家だと言えるのである。

 フェミニストたちはいま躍起になって「男性の育児休業取得」を推進してい る。その体験者は判で押したように「人間性が高まった、豊になった」と言ってい る。

 しかし、大切なのは父親の人間性が豊かになることよりも、子供の人間性がは ぐくまれることである。

 子供の心が安定して発達するためには、乳幼児期の母親とのかかわりが決定的 に重要である。それを「母性神話」などと否定する社会が「成熟」しているとは到底 思えないのである。

 「子供にとって何が一番よいのか」という発想をしない国、男女の特性の違い やそれに基づく性別役割分担を否定し、なんでも男女半々主義という生硬な思想が支 配する国が、どうして成熟していると言えるのか。

 教条的なフェミニズム理論に合致していれば「成熟」と見なされるというので は、はじめから特定の価値観を正当化するための理論だと言われても仕方ないであろ う。

 文化や伝統の違いを無視して他国をまねするよりも、日本人の健全な意識に基 づいた男女平等のあり方をさぐっていくべきである。

 

25 保守的男女観の復権を ──丸尾直美氏への反論 ( 2 ) (平成18年10月23日)

 (茶色の箇所は、字数の関係で割愛したため新聞には載らなかった部分である。)

 8月28日付本欄で、丸尾直美氏の8月16日付「正論」欄の主張を批判したが、丸尾氏は10月14日付「正論」欄で、私の批判に答えるでもなく、前回と同じ主張を繰り返し述べている。すなわち、出生率低下の原因はカトリックや儒教の影響の強い国に見られる「保守的な男女の役割分担意識」にあり、保守的意識の変革こそ出生率上昇のために必要であるという意見である。

 こうした認識は、「女性の就業率が高いと出生率が高まる」という誤った因果認識による。女性の就業率が高い地域は丸尾氏の言うように経済的に豊かとは限らず、むしろ貧しい地域が多いのである。

 「保守的な男女観の国では少子化が進む」「女性の就業率が高いと出生率が高まる」という丸尾氏の因果認識は、日本についてもスウェーデンについても、事実として完全に破綻している。日本では、「保守的男女観」を持つ人はつねにほぼ半分を占めており、ほんの少しずつ減少傾向にある。その減少に比例して少子化が食い止められたという話は聞いたことがない。スウェーデンについて見ると、1990年代には完全に「進歩的男女観」になっていたのに、1995年から2000年初頭にかけて出生率は低下し続けた。丸尾氏の理論とは反対のことが起きていたのである。

 スウェーデンで出生率がちょっとだけ上がったのは、丸尾氏が挙げている別の因果関係のためである。すなわち一つは「次世代育成策への政府支出が高い」ということ、今一つは「経済も雇用も好調で」「希望に満ちた社会であること」。つまり男女観が保守的か進歩的かに関わりなく、スウェーデンでも経済が不調のときは出生率が低落し、経済が好調になり、政府が育児に大金を投入したこととあいまって、ほんの少しだけ出生率は上がったのである。日本でも最近、経済の好調と比例するように出生率が若干上向いている。

 さらに経済学者の丸尾氏に考えてもらいたいことだが、「保守的」男女観と「進歩的」男女観が支配している国では、賃金水準はどうなるかということである。経済学者でなくとも子供でも分かる理屈だが、一家のうちで夫だけが働く場合に比べると、夫婦両方が働く場合には、賃金水準はどんどん低くなるように圧迫を受ける。労働者数が増えれば、当然賃金は下がる。もちろん雇用の機会も少なくなる。長期的に見れば、二人が働くと家計が楽になるのではなく、むしろ苦しくなると同時に不安定になるのである。その上、家事はおろそかになり、家の中は「戦争のよう」になり殺伐としてくる。

 それに対して、夫だけが働いて妻が専業主婦の場合には、一人が働いて一家を養うだけの賃金が与えられ(正規雇用者数が増大し)、また雇用も安定する。この方がはるかに子供を産もうという気持ちが働くし、幸せも希望もある家庭生活が送れるのではなかろうか。

 私が繰り返し説いているように、保守的な男女観の国で出生率が低くなっているのは、保守的意識の故ではなく、その保守的意識を強烈に否定するイデオロギーやキャンペーンが蔓延しているからである。つまり保守的意識も強いが、それを否定するフェミニズムも強い国、要するに両者の葛藤が激しい国では、女性たちは混乱し、結婚も出産も差し控える傾向が出てきてしまう。これが根本的な問題点である。つまり少子化の原因の少なくとも一つは、日本の精神風土に合わないフェミニズム思想の蔓延にある。

 フェミニズムがいかに偏った思想であるかということを、フェミニズム丸写しのような丸尾氏の議論そのものが如実に示している。例えば、

 第一に丸尾氏は日本では男女の処遇格差が大きいと批判しているが、そのさい氏は働く女性の処遇のことしか念頭になく、専業主婦のことはまるで考えていないようである。氏の主張は副題にも現れているように、少子化克服のための鍵を握るのは「女性の社会的地位安定」だそうである。この場合の「女性」とは「働く女性」のことであろう。その反面、専業主婦の社会的評価の恐ろしいまでの低落、それによる専業主婦層の自信喪失、それが結婚・出産・育児にどれだけ悪影響を与えているかという、重大な問題については、丸尾氏はまったく関心を持っていない。

 第二に、氏は次世代育成政策への公的支出が日本は少ない(から少子化が進んでいる)と批判している。北欧と比較して多い少ないと言うのは単純すぎるが、少なすぎるとしても、その中でとくに家庭育児への公的支出はさらにさらに極めて少ないことには、なんの関心も持っていないらしい。

 こうした差別意識は、古いのか新しいのか、また保守的なのか進歩的なのか知らないが、今まで誰からも指摘されたことがないらしいことが不思議である。氏は「こう言えばこう反論されるだろう」というなんの恐れも迷いもなく(つまりは反対論へのなんの配慮もなく)、自信に満ちた態度で議論している。これで学者をやってきたというのだから、しかも各種の審議会委員や学問的地位を歴任してきたというのだから、不思議としか言いようがない。もっとも、フェミニストの女性学者たちは皆似たりよったりではあるが。

 丸尾氏は男女格差の小さい例として、スウェーデンで前副首相の自宅を訪ねたエピソードを冒頭に書いている。しかし、早く帰宅して夕食を用意したのは夫人。前副首相の夫は後から帰宅して、お茶やデザートをテーブルに運んだだけである。私には男女の役割分担がはっきりあるように見えるが、それはさておき、丸尾氏によれば、スウェーデンは社会的格差も男女格差も小さい「良い」国のようだ。

 一国の「良い」所だけをこれ見よがしに語るのを見せられると、かつて社会主義びいきのインテリや政治家が社会主義国を訪問して、「良い」所だけを見せられて賛美した、いまわしい歴史が思い出される。

 丸尾氏はスウェーデンの重税のことも、犯罪者や自殺者や離婚が多いことも語らない。女性の就業率が高いのは高い税金を払わなければならないからだということにも目をつむる。スウェーデン国民は福祉偏重の政策に疑問を持ち、最近政権が交代したことも丸尾氏は語らない。

 犯罪が多いのは、人の心が殺伐としているからであり、家庭の温かさや親子の絆が不足しているせいではないか。保守的な男女観の社会では、子供が幼いうちは母親がいつも家にいる。進歩的な男女観のスウェーデンでは違う。その違いの大きさ、それが子供の心に与える影響の大きさについては、経済学者の丸尾氏は思いをはせることができないのだろう。

 「保守的」役割分担は、子供の心の健全な発達にとって理想的である。家庭教育の重要性がつとに指摘されている今日において、改めて見直され、復活させなければならない意識である。

 いま日本では安倍新政権のもとで教育改革がスタートラインに立ち、家庭教育の重要性についても議論されるはずである。その中で「保守的」性別役割分担の「良い」面が見直されることを期待したい。

 

26 子を守るポスト重視を(平成19年1月15日)

 昨年は「いじめ自殺」「親による子の虐待」が多発した。それらは教師や児童相談所がしっかり対応していれば防げたものが大半である。

 「教師」と言ったのは、担任の一人の教師という意味ではない。学校全体の取り組み方、校長や教育委員会の指導力などを含めている。

 事件後にテレビに出てくる教育委員長、校長、児童相談所長の言いぐさにはまったく呆れてしまう。「対応が甘かったかもしれません」などとは、よくも言うものである。まるで他人事のようであり、無責任としか言いようがない。

 例えば児童相談所には大きな権限が与えられており、虐待の疑いが濃厚ならば、親が拒否しても家の中に踏み込んで調査したり子供を保護することができる。しかるに、虐待を疑う報告が保育園や病院などから寄せられていたのに、何もしないで、むざむざと子供の虐待死を許してしまったケースも多い。

 これらの例は明らかに職務不履行の罪であり、本来ならば罰則を設けて処罰すべきである。例えば警察がやるべきことをやらないで犯罪を許した場合には世間やマスコミが厳しく非難するが、まったく同様の児相の不履行に対しては、社会の反応があまりにも甘いと言わざるをえない。

 こういう無責任、無能な所長が存在するのは、人選がいい加減だからということに尽きる。教育委員長や児童相談所長はこれまで名誉職的な色彩が濃く、退職校長が天下り(天上り ? )したり、自治体の有力者のコネで採用される場合が多かった。当然、専門知識も指導力もやる気もない。なにか事が起きると、どうしていいか分からない。緊張感もなく、危機管理能力も乏しい。

 もちろん、そんなケースばかりではなく、有能で指導力のある所長のいる児童相談所では、管轄下で一件も虐待死が起きていない。そうした所長は、いじめや虐待があると見抜く判断力、思い切って踏み込む勇気を持っている。

 ときには教員や職員の中に特殊なイデオロギーをもって、故意にサボタージュをしたり、いじめる側を守るようなケースもある。そうした悪質な者たちとも戦わなければならない。事なかれ主義の優柔不断な人物ではとうてい務まらないのである。

 最近では職員には専門資格をもったカウンセラーが次第に多く採用されるようになっているようだが、昔ながらの名誉職であったり、コネ採用の弊害もまだまだ見られる。

 そうした弊害をなくすためには、自治体の長をはじめ、担当の課長などが、真に専門能力のある人材を選ぶための、ある程度の専門知識を持ち、良心的に人選をしなければならない。

 どんなに良い制度があっても、それを生かすも殺すも、結局は人間である。制度の中の地位についている人間が無能では、どんなに膨大な予算をつぎこんでも成果は上がらない。教育委員会と児童相談所の人選に、客観的な方法を導入することを考えるべき時である。

 

27 義を重んじ卑怯を憎む心育てよう(平成19年3月19日)

 いじめが原因で命を落とす子供が出ると、校長が児童生徒を集めて「命を大切に」という話をする、というのが定番である。しかし「命を大切に」というお題目を何百遍唱えても、いじめも自殺もなくならない。

 子供の心の中に「悪」と「攻撃」への歯止めをいかにして作るか、これが教育の重要な課題である。

 そもそも、ヒトには攻撃に対する歯止め本能が備わっていない。相手が弱い者だとか、降参の意思表示をしたときには、猛獣はもはやそれ以上の攻撃をストップする本能を持っている。しかしヒトの場合には、そうした本能は少なくとも完全ではない。文化装置や教育によって歯止めを植え付けないかぎり、歯止めなきいじめはなくならないのである。

 弱い者に集団で、しかも執拗にいじめるという行為は、卑怯・卑劣を憎む心があれば、ありえないことである。しかし、戦後の家庭でも学校でも、卑怯を憎む武士道は、戦争をもたらした過去の間違った道徳だとして教えられることがなかった。ここに、いじめ現象の淵源がある。

 昔は「卑怯 ! 」と非難されることは、最大の侮蔑であり屈辱であって、その行為をやめさせる大きな効果を持った。しかし昨今ではただせせら笑われるだけである。このごろは「卑怯」となじっても、誰もたじろがない。

 新渡戸稲造は「武士道」の徳目の第一に「義」を挙げている。「武士にとりて卑劣なる行為、曲りたる振舞ほど忌むべきものはない。」「義」の反対は卑怯・卑劣である。「義」を重んずるということは、卑怯・卑劣を憎むということである。

 新渡戸はまたこうも言っている。「戦闘におけるフェア・プレイ ! 」この中に「はなはだ豊かなる道徳の萌芽」がある。「これはあらゆる文武の徳の根本ではないか ? 」と。

 また「義と勇は双子の兄弟」であり、義を行うためには勇が必要だと述べている。「義を見てせざるは勇なきなり」「弱きを助け、強きをくじく」と言われるように、いじめを止めたり、大人に通報する行為は、勇気を必要としている。

 卑怯ないじめっ子は、大人に知られることがなによりも恐いので、通報することを「ちくる」と名付けて、最も卑怯なこととして憎み、また「お礼参り」の対象としている。「卑怯」の観念が逆転しているのである。この「卑怯の逆転現象」を是正しないかぎり、陰湿ないじめはなくならない。

 そんな逆転が起きるのも、常日頃「義」を重んじ「卑怯」を憎む心を育てていないからである。何が「義」であり、何が「卑怯」であるかの区別さえ定かでなくなっているのだ。

 中教審や教育再生会議でいろいろな議論がなされているようである。一口に教育といっても、さまざまな面がある。教育委員会のあり方や学力も大切だし、教員の質を向上させることも必要である。しかし根本的な人格を育てる家庭教育や道徳教育について、もっと議論をしてほしいものである。

 

28 子育て提言の弱点(平成19年5月23日)

 政府の教育再生会議は、子育てに関する保護者向けの緊急提言をする予定であったが、批判が多いので見送ることになった。

 政府・与党側からの批判としては、「家庭生活の内部まで踏み込むような印象を与え、感情的な反発を招きかねない」というものであり、伊吹文明文部科学相も「人を見下した訓示のようなことをするのは適当ではない」と発言している。

 また野党側からは、母乳育児やPTAへの父親参観といった提言に対して、「母乳が出ない人、したくてもできない人への配慮が欠けている」という声が出されている。

 この二つの批判はともに間違っている。一方の、親に命令するかのような印象を与えるという批判だが、山谷えり子首相補佐官が語っているように、「価値観を押しつけるものではない」し、親を見下したり命令したりするつもりのないことも明々白々である。

 他方、「○○が理想だ」と言うと「○○ができない人が可哀相」とか「出来ない人を追い詰めるから言ってはいけない」という、野党がよく使う屁理屈は、いい加減にやめるべきである。その論理を使ったら、およそ理想を主張することは不可能になってしまう。

 理想を言うことは、できない人を否定したり責めたりすることであるはずがないのである。その論理は「何でも反対する」ための、ためにする屁理屈と言うべきである。

 また左翼系の新聞雑誌は一斉に、「国が家庭の中にまで口だしするのはけしからん」といった反対論を展開している。問題になっているのは、子供のしつけもできなくなっている親が増えているということ、そういう親をどうしたら再教育できるかという点である。もちろん誰も強制できるなどとは思っていない。しかし、最低限、そうした親に問題点を提示することくらいはしたいという願いが込められているのである。その趣旨に反対するものたちには、「では君たちは今のままでいいと思っているのか、思っていないなら対案を示したまえ」と質問しなければならない。

 このように、反対はいずれも的はずれだが、しかし的はずれでもそうした反対をもっともらしく見せる「弱点」が提言の中にあることもまた事実なのである。

 「弱点」とは、家庭で行うべき具体的行為をいきなり列挙している点である。これでは、「これこれのことをやりなさい」と命令または訓示されていると感じられるのも無理はないし、「母乳が出ないなどの人はどうすればよいのか」という的はずれな批判を誘発してしまうのである。

 具体的内容を示す方が国民の理解を得やすいと考えたのかもしれない。しかし、いきなり具体的内容を示すという方法は、かえって理解を妨げるのである。なぜなら、そうした具体的行為がなぜ必要なのかについて説明がない(少なくとも説明が後回しになる)からである。

 正しい提言の順序は、まず大切な原理を示し、それがなぜ必要かを説明した上で、その原理を実現するためには例えばこれこれの具体的行動をすることが有効ですよと提案するというものでなければならない。

 例えば、母子のコミュニケーションはのちのち人間関係を形成する上で基礎となる大切なものだという原理をまず打ち出し、そのためには母乳育児、子守歌、読み聞かせ、親子の会話をふやすなどが有効です、というように、具体例はあくまでも例として出すのが正しいやり方である。

 ところが「これこれの具体的行動をとれば家庭教育はうまくいく」という形で出すと、「母乳が出ない人をどうしてくれる」と抗議されることになり、「そういう人は強く抱きしめる」という項目を新たに付け加えるということになる。あまりにバカバカしくて笑ってしまった。具体的行動を金科玉条のように考えていると、それが駄目なら別のことを付け加えるという発想しか出てこないのであろう。原理をまず打ち出せば、「母乳育児」は母子のコミュニケーションをはかるいろいろある手段の一つにすぎず、一つの手段ができないからといって騒ぐのは馬鹿らしいということが理解されるだろう。(誤解のないよう断っておくが、母乳は母子のコミュニケーションをはかるという意味だけを持っているわけではない。)

 つまり、実際に予定されていたという提言は、批判を受けやすいからいけないという以前に、方法論的に間違っており、そのために余計に批判を受けやすくなってしまったのである。

 その「弱点」が露呈してしまうのは、委員の中に家庭教育の専門家と言えるほどの人材が入っていないので、家庭教育とは何かが分かっていないためである。

 委員の多くは、ここに出されているような「具体的提言」をテレビ、雑誌、講演などで「訓示」している。それらをそのまま列挙しただけである。「偉そうな押しつけ」と感じられるのも無理もないのである。

 左翼も同様に「専門家がいない」と批判している。左翼の言う専門家が本当の専門家かどうか、問題はある。しかし専門家が入っていないという批判は当たっている。素人集団の素人提案という感じである。

 分科会は専門家を呼んでヒアリングをしたそうである。委員たちは本来専門家のはずではないのか。それがなぜ専門家を呼んで教えてもらわなければならないのか。初めから専門家が入っていれば、そんなことは必要ないはずではないか。教育再生会議が出来たときに私は委員の人選に問題があると指摘したが、それがここにきて大きなつまずきのもとになっているのである。

 提言は与野党の両方から「押しつけはいけない」と批判されているが、イデオロギーや押しつけとは関係ないところで、家庭教育として行うべきことについて提言することは可能である。その場合、専門的学術的な根拠をふまえて、家庭教育にとって欠かせない原理をまず示すことが必要になる。

 家庭教育や親学は是非とも必要なものである。しかし、強制できないので、納得されなければ実行されない。それだけに、多くの国民に納得される形で提案されなければ意味がないのである。なんでも国がすることにはとりあえず反対するという左翼は別としても、普通の国民に「もっともだ」と感じられるような内容を説得的な形で提案するのでなければならない。

 (なお、「教育18 家庭教育で何をなすべきか」において、家庭教育においてなされるべきことについて、理論的かつ具体的に論じている。参考にしていただきたい。)

 

29 道徳教育で何を教える ? (平成19年7月18日)

 私のまわりの誰に聞いても、と言っても決して大げさではないくらいに、「道徳教育」と「親学」は是非とも必要だと力説する。

 非常識なモンスター・ペアレントのことが新聞などで細かく報道されると、ますます「道徳教育」派が多くなる。

 給食費や保育料を払わない保護者や、保護者会や授業参観での絶え間ない私語、はては運動会での酒盛りまで報告されて、「親」を教育し直すべしという強硬意見まで飛び出している。

 親を教育することは不可能なら、せめて子供をきちんとしつけしなければならないということになる。普通の神経を持っていれば、そうなるはずである。政府の教育再生会議も、その点では「普通」の神経を持って、「徳育」と「親学」の必要性を提言した。ところが、強力な反対意見が現れて、腰砕けになり、取り下げてしまった。

 まず反対したのが伊吹文明文部科学相であり、「人を見下したような訓示は適当ではない」と苦言を呈した。これは直接には「親学」に対して述べられたものだが、「徳育」に対しても同様の疑問を含んでいる。

 さらに「道徳教育は必要ない」とか「学校で教えるのは無理だ」と講演で述べた人がいる。なんと中央教育審議会会長・山崎正和氏である。一応「個人の意見」だと断っているが、タイミングを見ると、「教育再生会議」への批判を意味する発言としか思えない。

 両氏とも政府の教育に関する最高の責任者である。それが共に「道徳教育」を否定するかのような発言をしたのである。

 他方で、「道徳教育は必要」という立場から、現場で苦労し工夫して道徳教育を実践している報告と提言が本欄、六月二〇日付の長野藤夫氏および七月一八日付の漆紫穂子氏によってなされている。「必要ない」とか「無理だ」と言われている中での実践の報告はたいへん重みがあった。

 その中で長野氏が述べているように、道徳教育は「やる」か「やらない」かであり、「やる」ことが大切なのだ。しかし政府が「やれ」と指令を発することができるためには、「道徳教育とは何をどう教えるべきものか」という点について、よほどしっかりした定見と方法論を提示することが必要になる。

 例えば、ごく普通の常識と礼儀と公共の精神とをまず最低限教えることに限るのか。さらに進んで、自分を見つめ、自分の感情をコントロールすること、さらに進めば偉大な歴史上の人物から理想を学ぶこと等々、学年によって次第に高度化していく課題までを扱うのか。

 これらを含めて、「道徳教育」とは何をどう教える教科なのかについて、早急に指針を打ち出し、その上で社会の大部分のコンセンサスを得るための努力をしなければならない。「親学」も「徳育」も必要だと提言したら、どんな批判が出ようが簡単に引っ込めるべきではない。むしろ、より充実した内容をもって提言し直すべきである。

 

30 食育は精神面も大切に (平成19年10月3日)

 一時間目から居眠りする学生が目立ち始めたのは10年以上前からである。しばらくして、そういう学生が朝食を食べていないことに気づいた。

 小中学生も高校生も、朝食を食べない子、スナック菓子ばかり食べている子と、子供たちの食が崩れたり、歪んだりしていることが問題にされるようになった。食育ということが見直されるようになったのはたいへん結構なことである。

 しかし、食事を大切にするということは、三度三度食べる、栄養のバランスを考える、ということだけでは不十分である。

 食べるということが人間にとっての基本であるということに留まらず、食べることにどれだけ手をかけるか、どれだけ美しくしつらえるか、どれだけ味わえるか、どれだけ楽しい雰囲気にするかといった、文化的な面や精神的な面も大切ではないであろうか。でないとサプリメントや栄養剤でいいということになりかねない。さらに欲を言えば、ただ美しく、楽しくあればいいというものでもないと思う。食に関する礼儀作法も大切にしたいものである。

 例えば、「いただきます」「ごちそうさま」といった挨拶一つとっても、子供たちに必ず言うようにしつけている家庭はどれくらいあるだろうか。学校ではどうしているのだろうか。幸いなことに、たいていの学校では給食のときに、この挨拶をさせているようである。

 しかし、なぜそういう挨拶をするのかを教えている学校はとなると、どれくらいあるのか心許ない。

 私の子供のころには、学校でこう習った。作物を作るのを助けてくれる神様に対して、つぎには作物を作るお百姓さんに対して、そして料理を作ってくれた人に対して、感謝の気持ちをこめて「いただきます」「ごちそうさま」と言うのだと。また「米」という字は八十八と書くが、それは八十八人もの人の手が加わっているからだよと。

 しかし、こういう感覚は、農業が産業化し、水耕栽培が出現し、出来合いのおかずを電子レンジでチンするという時代には、なかなかピンと来なくなった。食べ物が天与のものであるという意識や感覚は、どんどん失われている。

 しかし、どんなに機械化の時代になっても、そういう知識や感覚を、今の子供たちにもよく教える必要がある。食べ物が口に入るまでに多くの人のお世話になっているということを、知識で教えると同時に日常の感覚的なところで感じ取らせる必要がある。

 そのためにも、「いただきます」「ごちそうさま」のしつけは基礎的なものとして家庭でも学校でも徹底する必要があると思われる。

 このごろは、「給食費を払っているのだから」、給食のときに「いただきます」「ごちそうさま」を言わせないでください、と学校に申し入れた母親が現れて話題になったそうである。

 母親の世代がすでに、食べ物はお金を出せば手に入るものという感覚になっているのである。親の世代から教育し直さなければならないとは、困った時代になったものである。学校の先生方には、親を説得するくらいの気構えと力量を持ってもらいたいと思うが、過当な要求であろうか。

 

31 他人の目を意識させよう(平成19年12月12日)

 かねてより私は、幼少期に美的感覚と恥の感覚を身に付けさせる必要を提唱してきた(例えば『正論』本年8月号掲載論文参照)。この基礎的な感覚が身に付いていないと、家庭での躾はもちろん、その後にいかに良質の情操教育や道徳教育が施されても、なかなか十分な成果が上がらないからである。

 美的感覚と恥の感覚は、「感覚」と呼んでいるとおり、無意識のうちに身に付いてしまうものである。大人になってから自覚的に記憶させるというものではない。幼少時のあいだに知らず識らずのうちに刷り込んでしまう以外に、身に付けさせることは不可能である。

 まず美的感覚であるが、これは身近な者が美しいものに感動したり、醜いものを嫌ったりする感情に同調することによって発達する。決して生まれながらのものではないのである。その上に、他人からどう見られるかという関心が発達する。「他人の目」を意識すればするほど、「自分の美しさ」についての関心が高まるのである。

 「恥」の感覚については、このことが一層あてはまる。「恥」とは百パーセント「他人に見られている」ことを前提にしている。「他人の目」と深く関わっているのである。

 これを道徳の基礎にすることについては、「見られていなければ規制力が弱くなるから、効果が少ない」と異論がでるかもしれない。しかし、これは無意識の感覚であるから、実際に見られているかどうかではなく、知らないうちに行動を規制してしまうのである。

 この「無意識の感覚」は、例えば「お天道様が見ているよ」「そんなことをしたらご先祖様に申し訳ないよ」という言葉として表現されている。これはつまり、実際の「他人」に見られているというよりも、「見られているという感覚」を表現したものである。

 たとえ成人して「お天道様」や「神としての先祖」を否定するようになったとしても、他者の目で見られているという感覚そのものは残るのである。幼少期に刷り込まれた感覚は消えないものである。

 では、この「見られている」という感覚は、どうしたら身に付くものであろうか。これは身近な人たちが常に「そんなことをすると人に見られたら恥ずかしいよ」と注意を促すことによって涵養される。日常生活の中で、家族や近所の人、地域の人たちが不断に「他者の目」を意識させることによってしか、身に付かせることはできないのである。

 ところが残念なことに、戦後教育の中で「個性」「個人」が重んじられるほど、「他人の目」は否定的な評価を受けるようになり、「気にしなくてもよいもの」となった。

 かわって「人のことは気にしない」「恥ずかしいとか言っていないで、自分の個性を出すことが大切だ」と言われるようになった。「はしたない」や「行儀悪い」「つつましやか」などという言葉は死語になってしまった。ここから、美的感覚や恥の感覚が急速に失われていった。

 いまやこの感覚を是非とも取り戻さなければならない。家庭を中心にした幼児教育の中で、「他人の目」を意識させる工夫を取り入れてほしいものである。

 

32 道徳は教えられる(平成20年2月27日)

 教育再生会議の最終報告が提出され、「徳育」を重視すべきことと、その「教科化」が提言された。また新しい「学習指導要領」が発表され、週一時間とはいえ「道徳」の時間が設けられている。世論もまた道徳教育の必要なことを強く支持している。

 しかし、抵抗も根強いものがある。なにしろ中教審の会長が「道徳は教えられない」と発言したり、また必要性を認める人でも「強制はいけない」といって「教科化」には反対する人が少なくない。

 道徳を教えるためには、人格的感化力が必要だが、そんな立派な教師は少ないから、学校で道徳を教えることは不可能だ、という理屈は説得力がありそうに思える。しかし道徳を教えるのに、特別に立派な教師は必要ないのである。立派な人のことを紹介する教科書を読ませるだけで、子供は感動し感化されるからである。

 自分の体験を持ちだして恐縮だが、私は不幸なことに高校までに尊敬できる立派な先生に出会ったことがなかった。しかし国民学校の「修身」の時間に二宮金次郎の話を読んで感動した覚えがある。青年になってもその商人版ともいえる石田梅岩の教えを読んで、これも感動した。教科書には野口英世やパストゥールの話、ジョージ・ワシントンの「正直」の話やリンカーンの奴隷解放のことも載っていた。子供心に、そういう立派な人になりたいと思った。

 私だけではない。このごろ同級会で会ってみると、小・中・高いずれの同級生も、それぞれに学歴も違うし人生も違ったが、みな立派な人生観と志をもって生きてきたと感じられる。子供のころに高い志と目標を与えられたせいではないかと思われる。

 教える先生は普通の人でよいのだ。教科書の話自体が感動を与えるのである。私が特別に素直で真面目だったのではない。子供はみな素直で真面目なのだ。とくに低学年ほどそうである。

 大人(親)がわざと反抗心を煽ったり、価値を貶めるようなことをいって、子供の心をよごそうとするのがいけないのである。とはいえ、そういう大人(親)はいくらでもいるから、それに抗して強い動機付けを与えるような感動的な教科書を作る必要がある。

 教科書に金太郎を登場させるという案もあるそうだが、ただ昔のものを復活させればよいというものではない。どういう意味でその話が必要なのかについて、目的を明確にし、社会のコンセンサスを得る努力が必要になる。

 道徳教育などしなくても、大人が立派に振る舞ってみせればよいという意見もあるが、立派でない大人はたくさんいる。だからこそ、それを批判できるだけの判断力をもたせる道徳教育が必要になるのである。

 道徳教育を単に規範意識や協調精神を教えたりすることに(それももちろん必要だが)限ってはならない。崇高な志を持たせることをこそ目標にすべきである。

 みんなのためになる人間になりたい、弱きを助ける勇気のある人間になりたい、研究や的確な判断力で多くの人を救った人のようになりたい、こういう気持にさせるような「道徳」の時間を実現したいものである。

 

33 身勝手殺人の裾野は広い(平成20年4月30日)

 「氷山の一角」という言葉がある。滅多に起きない例外的な事件だと思われるケースも、極端な形で現れただけで、そういうことをやりたい心理は広く存在している。つまり裾野は広いのである。

 前橋市でチューリップの花が切られた。代わりにと寄付されたチューリップがまた切られた。小学校のガラスが割られる事件もときどき起きる。

 少し前には、死刑になりたいと言って、関係のない人を殺す事件が二件たてつづけに起きた。マスコミは「身勝手殺人」と名付けた。最近では十九歳の自衛官が「人を殺して死刑になりたい」と言って、タクシー運転手を殺害した。

 花を切り落とすのと、人を殺すのは、まるで違うと思われるかもしれないが、その心理や動機に注目してみると、共通点を見出すのはさほど難しいことではない。

 共通している心理とは「恨み、つらみ」「自暴自棄」「うっぷん晴らし」「破壊衝動」「うまくいかないのを他人のせいにする」「他人の幸せをねたむ」といった心理である。これらすべての根底にあるのが「甘え」と「弱さ」である。

 最近の「身勝手殺人」のうち、土浦市の8人殺傷事件も、岡山市の突き落とし事件でも、また19歳の自衛官の場合も、犯人の真の「動機」は「人生をゲームセットにしたい」というものである。

 つまり自殺したいのだが、自殺には多大なエネルギーとある種の「強さ」が必要なのに、この二人の犯人には、それだけの「強さ」もなかったということである。集団自殺がはやるのも同じ理由からである。

 だから殺人を犯して刑務所に入れられたり、死刑になることで、「この世」から「おさらば」したかったのである。ついでに普通に幸せに暮らしている人に「恨み」をはらしてから自滅しようというわけである。

 このような心理は日常の場でも、子供たちの世界でも、いくらでも存在している。例えば、自分の不満を「いじめ」という行動に出ることによって晴らすという心理と原理的には同じである。

 問題は、(いかに困難を背負っていたとはいえ)人生を捨てて「この世」から去りたいと思うほどに、しかしそうかといって自殺もできないくらいに、ひ弱な人格にどうして育ってしまったのかというところにある。

 詳述する余裕はないが、いろいろな情報を総合してみるに、この犯人たちの父親には父性が決定的に欠けていたと判断せざるをえない。「身勝手殺人」の真の原因は、父性の欠如である。

 拙著『父性の復権』以来、子供を強く育てる、鍛えるという父性への認識は大いに進んだとは言える。しかし家庭という子育ての現場までは十分に浸透していないと言わざるをえない。親学など、家庭教育に対するいっそうの啓蒙活動が必要である。