教育

7 学校における父性の役割

(『父性で育てよ!』PHP研究所、平成10年、第二章)

 

学校はなぜ荒れるのか

 

暴力化する教室風景

 学校が暴力化している。平成9年暮れに発表された文部省の調査によると、生徒が暴力をふるう、いわゆる「校内暴力」の件数が平成8年は過去最大を記録し、新聞は「新しい荒れ」と表現した。少年犯罪も増加しているだけでなく、低年齢化し、かつ短絡的で残虐になっている。こちらも「戦後第四のピーク」を迎えたという。両方の現象が同根であることは、誰がみても明らかである。

 他方、教師の体罰も増えており、平成8年度に処分や戒告を受けた公立学校教師は過去最多の393人にのぼった。こちらは生徒の暴力化に比例しており、なんらかの相関関係にあることが想像される。もちろん生徒が暴力化しなくても、暴力をふるう教師がいることも事実であるが、生徒の暴力に対抗している部分もあるだろう。

 要するに、全国的に生徒も教師も暴力化しており、今の学校では誰もが暴力と隣り合わせで生活しているようなものである。たとえ生徒が直接に暴力をふるわなくても、たとえば今どきの小学校では、子どもたちが騒いでいて、静かにさせるだけでも先生はたいへんなエネルギーを使わなければならない。静かに勉強するという雰囲気が保たれている教室や学校は、どんどん少なくなっているのである。学校が安心して勉強できる雰囲気でないというのは異常な事態であり、その原因の究明と対策が急がれることは、誰も異論のないところであろう。

 

父性という視点の必要性

 この問題の解明と解決に、「父性」という視点がどの程度役に立つであろうか。私はもちろん「父性という視点」を持ち込めば何もかも解明されるとか、「父性を復権」すれば何もかも解決するなどという、極端なことを言うつもりはない。しかし、これまで教育問題を考えるときに、あまりにも「父性」という観点が欠けていたことを思うと、「父性」という視点から何が言えるのかを考えてみるのも、意味のあることと思われる。

 結論を先に言えば、子どもたちの暴力化、それも突発的で「ムカつき」を爆発させる衝動的な暴力化は、自分をコントロールできないタイプであり、それは家庭の育て方や、社会全体の対応において父性が欠けているために形成されやすい性格なのである。

 今の子どもたちの「荒れ」方は、歪んだ父性(たとえば権威主義的で暴力的な父親、あるいは管理主義的な先生)に対する反抗としての暴力行為ではない。逆に父性の欠如した放任型の躾(勉強以外は放任、あるいは大人が「受験がたいへん」といって甘やかす)の結果として、自分の生活や社会生活を営んでいくのに必要な人格ができ上がっていないために起こっている現象である。

 ここで、「父性」という言葉について、あまりよく考えたことのない人に対して注釈しておくと、「父性」とは、「権威主義と力で管理する」方式とは対立する概念である。むしろ徳によって人格を形成させるような働きを意味している。父親が権力を持つべきだという「父権」の復活ではないので、よくよく注意していただきたい。

 

子どもの「心」にビクビクするな

 生徒の暴力事件が起こると、新聞や雑誌は必ず「子どもに聞く」という特集を組む。そして「俺たちはムカついているんだ」とか、「大人への不信を持っている」「ストレスがある」という言葉をしく書きたてる。また大人は異口同音に「今の子どもは何を考えているのか分からない」と言う。

 子どもに考えを聞いて、何かが分かると思うのが間違いなのである。子ども自身も何も分かってはいないし、彼らから何かを聞き出せると思うのが幻想なのだ。子ども自身に聞いても「ムカついている」程度の答えしか返ってこない。それなのに、あいも変わらず、子どもに「あなたたちの心を教えてちょうだい」とペコペコし、子どもの「心」を傷つけてはいけない、そうすればますます凶悪な事件を起こすかもしれないと、ビクビクしているのが今の大人たちの態度である。

 子どもの「心」は、そう複雑怪奇なものではない。「ムカつき」「キレる」子どもというのは、ただ単純に人格が未熟なだけである。なにも心理学者や教育学者を集めて研究会を開かなければ分からないような、たいへん複雑な心理などではないのだ。「分からない、分からない」と騒ぎたてるから、子どもたちは「ムカつき、キレる」ことが許されるかのような気分になるのである。

 子どもが「分からない」からといって、子どもに対してチヤホヤしたり、ハレものにさわるような態度を取るのが一番よくない。分からなくても、いけないことは「いけない」と断固として言うのでなければならない。もちろん子どものことを分からなくてよいと言うのではない。分かろうとする態度は大切である。子どもの不可解と思える行動は、どこから来ているのであろうか。

 

人格の基本部分ができていない

 問題の一番の根っこはどこにあるかと言えば、本来家庭で形成されているべき人格のもっとも基本的な部分が、すっぽりと抜け落ちている子どもが多くなっている事にある。基本的な部分とは、秩序感覚と現実感覚であり、さらに年齢にふさわしい精神的な強さ(耐える力)と善悪の判断力である。

 秩序感覚とは、たとえば規則正しい生活習慣に従うと、心身ともに状態がよいという感覚であり、この世の中には必要な秩序やルールがあるという感覚である。これは理屈ではなく、感覚的な次元の問題であり、幼児のときに植え付けられる感覚である。

 この感覚ができていない子どもが増えている。前章でも述べたが、あるアンケート調査によれば、今の2歳児の半分以上が10時までに寝ない。子どもには大人とは異なる生活習慣が必要だと考えている親が半分以下だということを意味している。保育園の先生に聞くと、9時開園なのに、10時、11時に子どもをつれてくる親が何人もいる。ひどいのになると、「私は午後から勤めなので、午後からあずかってくれればいい」と、午後になってからつれてくる親もいる。それでは子どもはいろいろな行事になじめないし、最低限のきまりも身につかない。先生も困るし、子どもも皆の中にとけこめない。このように親が自分の都合だけ考えているのでは、子どもも同様の人格になるのは当然であろう。

 幼稚園ではこのごろ、先生の呼び掛けにも無関心で、皆と一緒のことに興味を持たないで、自分だけ勝手なことをしている子どもが増えている。こういうのは、親が子どもを「個性的」に育てている結果なのだそうだ。つまり自分の好きなことだけしていればよい、いやなこと、嫌いなことはしなくてもいい、という育て方をされている子どもである。これが学校に行くころになると、掃除もしないような子どもになる。およそ我慢するということができない人格になってしまう。そして「なんで我慢しなきゃいけないの?」と言う。他人を傷つけないために、他人に迷惑をかけないために、我慢することを教わらなかった子どもたちである。

 次に、現実感覚とは、文字どおり現実に対する健全な感覚であり、それは人間に対する感覚や、人間関係に対する感覚も含む。簡単に言えば、草や虫や動物にふれたことがあるとか、人間はぶたれると痛い、刺せば血が出て死ぬという感覚である。人間が持っているべき、現実に対する基本的な感覚である。これが欠けている子どもが、どんどん増えている。

 このタイプは、親が過保護にして、勉強さえしていればよいという態度、生活の経験は何もさせない、掃除も食事の支度も後片付けも、お使いも、何もさせない、というふうにして育った者が多い。テレビゲームばかりしていて、人間関係をほとんど経験していない。親との付き合いも希薄である。人間とどう付き合ったらいいのか、感覚的次元で分からなくなっている。

 要するに、その年齢に必要な人格的な力がされていないのである。だから、すぐに「キレて」しまったり、「ムカついて」あばれたり、衝動的に暴力をふるう。その典型的な例が、知り合いになった男性の家に小遣いをせびりに行って、くれないからといって、なぐったり蹴ったりして殺してしまった女子中学生である。まるでオモチャを買ってくれと路上にひっくりかえって暴れる幼児のような精神状態だが、暴れる体力だけは大人並みだから始末が悪い。

 こういう子どもたちを、先生たちは「非行ではなく、奇行」「宇宙人のよう」「アメーバのよう」「まるでむずかっている」と表現しているそうである。「奇行」とか「宇宙人のよう」と見えるのは、今まで見たこともないという意味であって、そういう現象は決して不可解なものではなく、一言で言えば、ただ単純に人間らしい人格が育っていないということにすぎない。

 

父性欠如の症状 ─ 感覚的次元の生活習慣病

 家庭の中に父性があるということは、家庭の中に規則正しい生活習慣があり、全体を見渡して子どもに多様な生活経験をさせるような配慮があり、家族の皆が仕事を分担して協力し合っている、また心が通じ合っているということである。また家族の中に何かしっかりした原理・原則があって、それを中心に皆がまとまっているという感覚が育っているということである。自分だけが勝手なことをすることは許されないことを知っているということである。勉強以外に、人間として何か大切なことがある、ということをしっかりと教えていくということでもある。また人間同士が暮らしていく上で大切なきまりというもの、ルールというものがあるという感覚を作るという仕事でもある。そういうことを身につけさせるのが父性である。要するに人間としての基本的な躾をするということである。

 この基本的な秩序感覚ができていない子どもは、ちょっとしたルールや規則でも、ひどく窮屈に思ったり、負担に感じてしまうのである。原理原則にしたがって自分の生活を自己管理する能力がまったく育っていないからである。こういう子どもは、好きなときに寝て、好きなときに起きて、好きなときに食べる、という無秩序・無規律な生活をしている者が多い。父性のない家庭で育っている子どもたちである。

 すぐに「キレて」しまったり、衝動的に爆発する子どもには、そういう基本的な人格が育っていないことは明らかであろう。この人格は幼児期に形成される感覚的な次元を基礎にしており、長いあいだの生活習慣によって身につくものなので、中学生くらいになってからでは、急には身につかないという特性を持っている。高校生くらいになってからでは、決定的に遅い。いくら理屈で必要だと説明しても、感覚的次元で理解できないからである。いわば生活習慣病と同じで、日常の生活習慣から改めさせないと、なかなか対策は難しいのである。

 誤解を恐れずに言えば、こういう子どもは、一定期間どこかに収容して合宿をさせ、規則正しい生活を経験させることが必要なのである。あの戸塚ヨットスクールのやり方は、暴力的なところをのぞけば、ある重大な教訓を含んでいたとも言える。もちろん、子どもが抱えている問題は、それだけではないし、そういう処置によってすべてが解決するなどと言っているのではない。しかしこの例はある種の真理を含んでいる。実際問題として、教護院や少年院のような施設で、生活の自己管理の仕方を教える、つまり「育て直し」をする必要のある少年少女は多いのである。親が躾をできない子どもに対しては、誰かがする必要がある。

 このように言うと、すぐに「管理はいけない」とか「押しつけはいけない」という批判が聞こえてきそうである。しかし子どもに基本的な自己管理能力をつけさせるということは、管理とか価値観という以前の、人間であるためのごく初歩的な躾の部類に属している。それを強制と言ったのでは、そもそも学校に子どもを集めて教育すること自体が悪いということになってしまう。

 

耐える力がない

 今の学校には、人間としての基本的な躾がなされていない生徒が半分入ってくる。半分というのは量的に言っているのではなく、カテゴリーとしての半分という意味である。量的には半分以上の場合も多い。実際に暴れたり、暴力をふるう生徒は一部でも、その背後には規則や授業を受けること自体に我慢の限界を感じている非常に多くの生徒がいるのである。

 たしかに「分からない授業」をじっと座って聞いていなければならないのは苦痛である。教師が「つまらない授業」をしているのは怠慢と言わなければならない。しかし「分からない」ということや、その「分からなさ」とどう付き合うかは、単純に教師の側だけの問題ではない。子どもの側の人格とも関係しているのである。

 たとえば私は娘が小学校4年生のときに、なんの準備もなしに、ドイツにつれていき、地元の学校に入れた。もちろん彼女はドイツ語がまったくできないので、最初のうちは「一日中我慢会のようだ」と言い、ストレスも相当のようだった。しかし子どもはその状態に半年間耐えた。耐えることができたのは、一つには家に帰れば優しい父と母がいて、暖かく迎えてくれる、気分転換をはかり、励ましてくれる。それがあったからだと思う。もう一つは、彼女に得意なものがあったからである。音楽と体育と算数が得意であった彼女は、ドイツ語ができなくても力を発揮できる教科の時間は、皆から称賛され、他の教科も頑張っていこうという気持ちになることができた。

 このごろの子どもたちは、音楽や体育ができても、先生や親からあまり評価されない。誉めてももらえない。運動会で一等賞をとっても、誉めてもらえないどころか、一等二等を決めることさえいけないことだと教えられる。徒競走そのものが廃止される。これでは算数、国語、理科、社会のできない子どもは救われない。授業が分からなくなっても、頑張って分かるようになろうという気持ちになりようがない。

 その上、もともと家庭の躾の中から「強い精神を鍛える」という観点が抜け落ちているので、一度分からなくなると、ただ「ムカつく」ことしかできない子どもになってしまうのである。

 

ストレス原因論の間違い

 学校で殺人などの事件が起こると、評論家やカウンセラーという人たちが、必ずストレスが原因だという発言をする。いわく「学校にはストレスが多すぎる」「テストだ部活だと生徒の尻を叩きすぎる」「規則でがんじがらめにしている」ことが生徒を追い詰めていると。「管理教育がいけない、もっとゆとりを」と。たしかに一方には、今の親たちが学歴社会の中で、「勉強、勉強」とあせっており、子どもたちに不当な圧迫を与えている状況がある。一部の学校では、「生徒は必ず部活をせよ」と強制して、それによって不良化を防止しようという本末転倒の指導をする学校もある。しかし、そういう客観的な環境にばかり眼を奪われて、子どもたちの主体的な心の状態から眼をそらしてはならない。

 カウンセラーという人たちは、今までの母性的受容理論によって、相談にくる子どもたちの話をそのまま受け入れるという態度で聞く。すると子どもたちは「ストレスを受けて、我慢ばかりしている」と話すので、それが子どもたちの客観的状態だと思いこんでしまう。カウンセラーたちは、父性的な観点を持っていないので、子どもたちの我慢する能力の不足については思いが到らない。だからやたらと不当なストレスが与えられているという側面ばかりが印象づけられる。そこで彼(彼女)たちは、公の場で発言するとなると、「世の中がストレスを与えすぎる」と憤慨して話すということになる。いかにも現場で子どもの話をじかに聞いた人間の話だということで、世間が重んじる。こうしてストレス原因論ができ上がるのである。

 誤解のないように断っておくが、私は決して不当なストレスがないと言っているのではない。今の教育制度に問題がないと言っているのでもない。問題は相対的な見方を必要としている。つまり、たとえかなりのストレスがあったとしても、人を衝動的に刺し殺すほどに自分をコントロールできなくなるということは、どういうことかを考えなければならない、と言っているのである。たとえどんなにストレスがあっても、そこから人を殺す行動までには、かなりの距離がある。その間の距離がなくなり、いくつかのあるべき歯止めを乗り越えてしまうのには、何が足らないのかを考えてみなければならない。

 そうすれば、足らないものが自己制御の能力であり、その能力が父性によって与えられるべきものだということは明瞭である。もちろん問題がそれだけだと言ってしまっては、解決策がただ子どもに我慢の能力をつければよいということになってしまい、かえって子どもたちに不当なストレスを与えることにもなりかねない。しかしストレスに耐えられない人格にも問題があるということをも、きちんと見ておかないで、ただ「ストレスがありすぎる」ことだけを強調すると、これも一面的になってしまう。

 問題は、根本的には、学歴競争社会の行きすぎをいかにして改めるかだが、その行きすぎはともかくとして、能力による競争原理そのものを否定することはできない。少なくとも我々の今の社会はそういう原理で成り立っている。その原理を否定した社会主義社会は、競争原理に立つ自由主義体制に負けて崩壊してしまった。当分は全世界は競争原理で行くことになろう。我々は子どもを、ある程度の競争に耐えられる人格にしておかなければならないのである。それは基本的には家庭の役目ではあるが、しかし現実にはそういう躾のできていない子どもが半分学校に入ってくることをふまえて、学校教育を考えなければならない時代になっているのである。あまりにも未熟な人格しか与えられてこなかった子どもたちに対して、学校と先生が何をすることができるかを考えなければならない。

 

教師原因論の間違い

 もう一つ、「なんにも分かっちゃいない」とイライラさせられるのが、昔ながらの「教師原因論」「大人の扱い方が悪い論」である。その典型が平成10年4月2日に放映されたNHKの「クローズアップ現代・荒れる教室」である。この番組は徹頭徹尾「学級が荒れるのは先生の態度・視点・子どもへの評価の仕方に問題がある」という観点から作られていた。

 ある学芸大学の教育学の教授の処方箋が示される。それによれば、学級が荒れるのは、従来の評価の仕方が一方的な「よい子」基準によっているので、それにはずれた子どもが反発するからだと考えられている。だから処方箋は「子どもに対する評価の基準を変えよ」ということになる。

 たとえば次の図で、従来は「協調性」と「まじめ」を「よい」こととして評価していた。すると教室で暴れたりして問題を起こす子どもは左下の最も評価されない子どもになる。しかし視点を変えて、「積極性」「ゆとり」という基準で見ると、この子どもは右上の評価の高い子どもになる。このようにして、多様な視点から子どもを見て、どこか評価できるところを探して評価してやれば、荒れる教室でなくなる、と言われる。つまり「何かで評価してもらえると子どもが変わる」というのである。

 

       まじめ

        │ 

        │  

非協調性 ───│─── 協調性

        │ 

        │  

      いい加減

 

 

       ゆとり

        │ 

        │ 

非積極的 ───│─── 積極的

        │

        │ 

       余裕ない

 

 

 この診断と処方箋の一番の問題点は、「荒れる子どもは、先生に評価してもらえないから」だという認識である。そういう見方こそ、単線的な見方ではないのか。もちろん、そういう問題が皆無だなどと言うのではない。「荒れる」原因の中にそういう要素もないとは言わない。しかしそれは言わば古い原因であり、今の激しい荒れの原因はまったく新しい問題から出てきているという認識がないところが問題なのである。

 荒れる子どもは、先生の扱い方が悪いからではなく、子ども自身に問題がある。すなわち端的に言えば、きちんとした態度で勉強したくないという、ただのわがままから、もっともらしい理由を付けて暴れている者が多いのである。ところが「子ども性善説」から見ると、子ども自身にではなく、必ず子どもの外に原因があると思いこむことになるので、本当の原因を見誤ってしまう。

 こうした子どもは敏感でずる賢いところがあるので、どう言えば大人がオロオロするか見抜いていて、「大人原因論」「先生責任論」に合わせて、「先生が悪い」というような「証言」をする。するとマスコミが「なるほど、なるほど」と取り上げる。だから「大人原因論」は何度でも再生産されていく。すると「荒れる子ども」は、それにつけこんで、ますます自信をもって暴れる、ということになる。最初に原因を間違ってとらえたら、その間違いはどこまでも再生産されていき、しかも荒れをなくすことができないという結果になる。

 その番組の結論は「荒れる子どもは生命力の現われだ」というものであった。開いた口がふさがらないとは、このことだと私は思った。無能さを隠す子ども賛美論にすぎない。そんな結論で事態が改善されるのなら、誰にでもできるだろう。生命力は誰にでもある、その表し方が問題なのだ。生命力をわがままとしてしか表せなくなっているのはなぜか、ということこそ、解明しなければならない問題ではないのか。

「荒れる子ども」の中には、ただ授業がいやだというわがままな者が多くなっている。右の結論は、そういうわがままな子どもを増長させることにしかならない。父性的な毅然とした対応が必要なときに、母性的な対応をして、「ああ、お母さんが悪かったわね」と、わがままな子どもに謝っているようなものである。そういう態度では、暴れる子どもをますます増長させるだけである。

 大人に問題があるということは、そういう未熟な子どもに育ててしまった親にこそ問題があるという意味でなら正しい。その親の間違った育て方から、どう子どもを育て直すかが学校の課題なのだ。それなのに「キレるのは子どもの魂の叫び」だなどという、子ども性善説に立った「理解ある態度」が、あいも変わらずマスコミの主流になっていることが一番の問題である。本来は家庭で済ませているべき基本的な人格・躾ができていない子どもが、大量に学校に入ってきているというのが、最大の問題点なのである。

 

規律か個性か

 このごろの学校が荒れるという現象の背後には、大きな問題として「個性」を重んじるという風潮がある。今は文部省が幼稚園においてさえ「個性的な教育」を勧める時代である。「個性を重んじた」と称している家庭の子どもに限って、学級崩壊の先頭に立っている場合が多い。本来「個性」とは、秩序を乱したり、ルールを破ったりするものではないはずである。それが「個性」と「無秩序」とが同じになっているということは、「個性」についての理解のどこかが間違っているからではないであろうか。つまり、個性を重んじることが悪いのではなく、間違った個性の理解にしたがって個性を重んじることが悪いのである。

 個性的教育を唱える人の中で、本当に個性とは何かということについて、深く考えたことのある人が、どれだけいるであろうか。「個性」について、どれだけ本気に考えているかを試そうと思ったら、「個性と規律」の関係について質問してみるとよい。「個性と規律は相反するものですか?」「個性と規律はどういう関係にあるのですか?」と。

 私の答えはこうである。「個性を伸ばすためには、きちんとした人格的な基礎ができていなければならない。その基礎とは、自分をコントロールできる能力、最低限必要な秩序感覚、他人と協調するために集団規律を守ること、最低限の善悪の判断力である」。これができていない人間が「個性的に」なろうとすると、他人に迷惑をかけるだけの、ただのわがままになってしまう。

 個性とは、単に他と違っていることではなく、何か価値を主張できるものでなければならない。他と違った価値を持っていること、他よりぬきんでた特徴のある価値を持っていることである。そういう特徴は、良識のある人格的な基礎の上に成り立つものである。このことが分かっていない者は、「規律に従うと個性的でなくなる」と思いこんでいる。だから規律を破る「自由」をいちばん価値のあることだと勘違いする。他人と違う行動をするだけで個性的になれたと勘違いしている者たちである。たとえば髪の色を自由にすることが、個性的教育だと勘違いしている。髪の色だのポルノの表現などというくだらないことのために、「自由」という大切なことを浪費しないでもらいたいものである。「自由」というものは、本当に人間の尊厳を守るといった、大切なことのために使うようにしたいものである。

 本当の個性的な教育というものは、「自由」という名の自分勝手な行動をコントロールし、しっかりとした常識とモラル感覚を持った人格の上に成り立つものである。個性とはルールを守らないことではない。ルールをきちんと守らせるという教育の基礎の上にのみ、個性的教育が成り立つのである。

 

 

教師は何ができるか

 

なぜルールが必要かを説明する

 基本的な躾ができていない児童生徒たちに対して、教師はいったい何ができるのであろうか。

 第一に絶対にしなければならないことは、断固たる態度で、ルールを守らせるということである。世の中には守らなければならないルールというものがあるのだということを、きちんと教えなければならない。譲ってはならないところは、絶対に譲らない態度が必要である。

 その上で、とくに強調したいことは、そのルールの必要性を根気よく説明するということである。生徒たちの半分は、そのルールがなぜ必要かという説明を聞いたことがないのである。これは恐るべきことであるが、今の子どもたちというのは、ルールの必要性について、親からなんの説明も聞いていないのである。そして学校でも先生から、そうした説明を聞いている子どもは非常に少ないという印象を私は受けている。

 たとえば、授業中に飲み食いをする、遅れる、あくびをする、居眠りをする、といった行為が「なぜ悪い」のか、納得のいく説明を聞いたことのある学生は非常に少ない。「悪い」と思っていない者はもちろん、自分では「悪い」と思っている者でも、なぜ「悪い」かをきちんと説明できる者は少ないのである。たいていは、「他人に迷惑をかける行為は悪い」としか教わっていないので、右記の行為は「悪くない」方に入っている。それが他人に対して「礼儀に反している」という説明を聞いたことのない学生が大半である。私の経験では、「なぜ悪いか」という説明をするだけで、「悪い」行動をしていた者の半分以上が、その「悪い」行動を自主的に止める。

 たとえば、すでに例に出したように、私の研究室の建物の玄関の前が学生の自転車で一杯になってしまい、入口が塞がれてしまったことがある。多いときは百台くらいの自転車に占領されて、出入りができないほどである。そのことに対して、私は初めは個別的に直接に叱りつけるという行動に出た。大学生にもなって、「悪い」ことを承知のはずだから、そういう悪質な者に対しては、怒鳴るぐらいのことをしないと効果がないと思ったからである。しかし、この方法はまったく効果がなかった。学生たちは、何も悪いと思っていないので、叱られても行動を変えようとはしなかったのである。

 そこで作戦を変えて、ビラを配ってみた。そのビラには、「自分の都合だけ考えて行動すると、入口が塞がれてしまう。自分一人だけなら邪魔にならないと思っても、皆が行動すれば、結果は皆が困ることになる。だから自分の便利だけ考えるな」という意味のことを書いておいた。ごく常識的な、当たり前のことで、なにを今さら大学生に対して言わなければならないのか、馬鹿馬鹿しいと思うようなことである。この程度のことで、どのくらいの効果があるかと思っていたところ、なんとそれだけで、約三分の二の学生が行動を変えて、所定の駐輪場に置いて、校内は歩くというルールを守るようになったのである。これは私にとっては意外な結果であった。

 このケースを経験して、私は現代の若者に対する見方を変える必要を感じた。私は叱っても行動を変えない者たちに対して、相当に悪質な者たちだと思っていたのだが、しかし彼らは確信犯として故意にルールを破っているのではなく、単純に「なぜ悪いか」を教わっていないというだけの理由で、ルールを破っていたのである。だから、ことをわけて説明すれば、半分かそれ以上の者は、簡単に行動を変えたのである。

 それ以来、私は授業の初めに、「これこれの行為はなぜ悪いのか」という説明を丁寧にすることにしている。「小学生にするような説明で、馬鹿馬鹿しい」とは思うが、それをやっておけば、その後、そういう行為をした学生を叱った場合、非常に効果がある。少なくとも、他の学生たちは、「叱られて当たり前」という態度を取っている。これが大きいと思う。

 この話は、中学生や高校生を相手にしている先生たちに、一つの教訓を与えてくれるエピソードではないかと思う。今の子どもたちは「なぜ悪いのか」という説明を聞いたことがないのである。だから、ただやみくもに叱っても効果がない。説明することが効果をもたらすコツである。「なぜ悪いか」を皆が理解していれば、「悪い」子どもを叱ったときの皆の態度が違う。叱る先生を「ひどい」とか「行きすぎだ」とは思わない。ましてや「人権を傷つけた」などという見当違いの批判を受けなくてもすむ。

 もちろん、それでも行動を変えない者が約三分の一いた。この者たちは、何度ビラを配っても、決して行動を変えようとはしなかった。この部分は、利己的であって、理性に訴えても効果のない者たちである。そこで試しに「実力行使をするぞ」というビラをまいてみた。するとほとんどの自転車がなくなった。この部分は「実力行使がなされる」という情報を与えるだけで、「悪い」ことを止める部分である。しかし10台くらいは、それでも置いたままになっていた。この部分は実際に実力行使によってしか排除できない部分である。

 十分に説明した上で、規則を破る者を実力で規制することは絶対に必要である。なぜなら「ルールを破る者が得する」という結果になっては、ルールを守っている者が納得できなくなるからである。最終的には実力行使をしなければならない時もある。それに対して「実力行使は教育的でない」と言って反対する人が必ずいるものだが、しかし「法律違反をしたら罰を受ける」ということが世の中の常識だということを教えるのも大切な教育である。

 説明するという行為は、もう一つよい効果を期待できる。それは校則やルールを先生自身が見直すきっかけになるということである。その必要性を説明するためには、自分自身が納得していなければならない。自信をもって「これこれの理由で必要だ」ということを言えなければならない。ただ「規則にあるから」という強制が通用しなくなるのである。先生自身が主体的に規則について考えなければならなくなる。こういう姿勢は教育する側にとって非常に大切なことである。

 

叱る必要、叱り方を研究する必要

 基本的な生活習慣ができていない、また基本的な躾ができていない子どもに対して、躾をし直すためには、逸脱行動に対して「叱る」という行為が絶対に必要になる。

 たとえば入学したての新一年生に対しては、これまでは優しい母性的な態度で接していればよいと考えられてきたが、今は授業中に走り回ったり、人の机の上を渡り歩いたりする子どもがいる。そういう行為を初めに認めてしまうと、クラス全員がルール感覚を持てなくなってしまう。学校で学ぶ最低限のルールを身につけさせなければならない。そうした父性的な躾は、一年生だからこそ必要なのである。そのためには逸脱行動に対して「叱る」という父性的な対応が必要になる。「叱る」ということなしに教育が成り立つというような牧歌的な考えでいては、教育者としてはやっていけない。そんなことはいつの時代でも言えることだが、今は家庭での躾がないがしろにされてルール感覚のない子どもが増えている時代なので、「叱る」という行為がとくに大切になっているのである。

 その場合に、「叱り方」が決定的に重要になってくる。正しい叱り方をしないで下手な叱り方をしたのでは、かえって逆効果になる。たとえば、家で一度も叱られたことのない子どもに対して、いきなり怒鳴ったり、大声でガミガミ叱りつけたのでは、子どもはパニックを起こして、キレてしまい、叱られた内容は頭に残らない。そういう場合には、最初は静かに、しかし威厳をもって、「悪い」ことだという態度を示す。ともかく悪い行為を止めさせたのちに、丁寧に「なぜ悪いか」を説明する。しかし断固として、たとえ実力行使でもするぞという覚悟を示すことが大切である。

 逆に、大声で、全身で、気迫をもって怒鳴らなければならないときもある。それはすでに「悪いこと」だということを十分に説明してある事柄、あるいは説明の必要もないほど明瞭な悪いことについて、子どもが逸脱行為をしたときである。そういうときは間髪を入れず、ビシッと叱らなければならない。

 総じて今の先生は叱り方が下手である。叱らなければならないときがある、という意識を持った教育の訓練を経てきていないからである。先生を教育する教育学の教授たちが、叱り方について研究し教える必要性を意識してこなかった。叱り方について教育学の専門家が本を書いているというような話はあまり聞かない。それはとりもなおさず、父性的な教育に対する認識が乏しかったことを意味している。

 しかし、今ほど叱ることが要求される時はないと言ってもいいと思う。叱る必要があるほどに基本的な躾ができていない子どもが激増しているのに、彼らは叱られたことがないからである。正しい上手な叱り方について我々はもっともっと関心を持たなければならないのではなかろうか。

 叱り方について基本的なことを述べておくと、第一は予め「なぜ悪いか」ということをよくよく説明しておくことである。とくに「非常に悪い」ことは、「非常に悪い」のだということを、日頃からよく言っていることが大切である。第二は「非常に悪い」ことをした場合の罰を予め決めておくことが大切である。たとえばカンニングをしたら試験を受ける権利をなくす、または0点にするなどと決めておく。この場合も、原理原則をはっきりさせておくことが必要になる。

 

体罰は無条件に悪いか

 さて、中学や高校では、どんなにことをわけて説明しても、ルールを破り、授業妨害などの行為を止めない者がいる。その者たちに対しては、実力行使をしなければならない。反抗してくれば、体罰も必要になる。手にあまる場合には警察を呼ぶことも必要になる。教師は「非暴力、無抵抗」を貫くことはできない。というより、「非暴力、無抵抗」であってはならないのである。学校内の秩序を保ち、他の生徒が安心して勉強できる環境を作るのも、教師の義務である。家庭の中で暴力をふるう子どもを制止しなければ、暴力はどんどんエスカレートするのと同様に、学校でも最初から無法な暴力を絶対に許さないという態度が必要である。

 父性の立場から言えば、教師は正しい権威と威厳をもって、人格の力で導く、というのが理想である。その場合、理想を言えば、体罰はよくない。今暴力をふるっている子どもに関して言えば、体罰によって人格を変えることはほとんど不可能であるし、決して教育にはならない。あくまでも教師の側に人格の力、自然ににじみでる権威があれば、生徒の暴力も封じられるはずである。それが父性による教育の理想の姿である。教師はだれであれ、そういう立場を基本的には持っていなければならない。決して安易に体罰に頼ってはならないのである。

 しかし、その理想に従って教育を実践することは、今どきの現実を前にしては、よほどの並はずれた器量を持った人物でないと無理であろう。なにしろ生徒の年齢が上がるにつれて、子どもの性格はでき上がってしまっているので、生活を共にする以外に、簡単には変えられないからである。家庭で必要な感覚を身につけていない生活習慣病のような子どもに、生活指導をするのは至難の業である。その点では、小学校の先生と中学校の先生とでは、何ができるかという点で、の差がある。中学校になると、「徳によって教育する」などと、気取ったことを言っていられないのが現実である。

 まず暴力を制圧しなければならない。それからやっと、本当の教育を始めることができる。つまり実力行使をすること自体もまた教育の一環、大切な教育であるということを自覚しないといけない。それは人間として最も基本的な躾、秩序感覚を教えるための前提なのである。

 

教師に実力行使の権限を与えよ

 この場合、「暴力は絶対無条件にいけない」という立場だと、ちょうど中学生の子どもの家庭内暴力に無抵抗を貫こうとして、最後は金属バットで殴殺してしまった父親と同じことになってしまう。つまり、暴力をふるう子どもは、ただのわがまま、コントロールのきかない人格の場合が多いので、家庭内暴力と同じで、初期の段階できちんと制止しないと、どこまでもエスカレートするのである。

 教師は、教室の秩序を維持する義務があるが、その義務にふさわしい権限は与えられていない。法的には保証されていないし、世論によっても支持されているとは言いがたい。それどころか、実力行使をすると、すぐに親が警察に訴えたり、いわゆる人権派がただちに抗議行動を起こすので、なかなか実力行使ができない。そうこうするうちに、生徒の暴力がひどくなり、いよいよ実力行使をする段になると、そうとうに強い暴力を必要とする。というより、手加減する余裕さえなくなっている。下手をすると、こちらが命の危険にさらされるからである。

 さらに教師も人の子、さんざん我慢した上での実力行使となると、ついやりすぎるということにもなる。その結果、ひどい怪我をさせるということにもなりかねない。むしろ、初めから正当な実力行使の権限を与えておく方が、いろいろな意味でベターなのである。とくに、さきほどの自転車置場の例が示していたように、どんなに理性的に言っていても絶対にきかなかった者たちも、「実力行使をするぞ」と言ったとたんに止めたように、教師に実力行使の権限が与えられていると知っているだけで、暴力的な振舞いは少なくなるであろう。なるほど学校ではなくなるが、校外ではなくならないと言う人がいるかもしれないが、それはまた別問題である。とにかく暴力的な妨害で授業がきちんとできないという状態はなくなるはずである。

 もちろん教師の実力行使が、すべてそのように必要があってのことだと弁護しようというのではない。中には必要もないのに、自分の機嫌が悪いとか、気に入らない生徒を標的にするとか、およそ許されないような暴力教師がいることも確かである。

 一方には、無法に暴れる生徒がいるし、他方には正当な理由なく生徒に暴力をふるう教師がいる。こういう中で、ただ一方的に「体罰絶対反対」を唱えるのも現実的でないし、単純に「体罰の全面肯定」を唱えるのも危険である。対策は両面的でなければならない。つまり暴力生徒も、暴力教師も、両方を規制できるのでなければならない。

 

教師の実力行使を認めた上で、厳しい規制を

 体罰問題についての理性的で現実的な方策は、要するに学校から不当な暴力をなくすものでなければならない。そのためには、一方で無法な生徒の暴力を制圧する実力行使の権限を教師に認めることが必要である。これを認めないから、いい気になって暴れる生徒があとを絶たない。生徒は「やるならやってみろ、お前はだぞ」と向かってくる。先生に実力行使の権限を与えただけで、生徒のこういう無法な態度も、暴力の多くもなくなるだろう。暴力行為に対しては容赦なく実力行使で制圧する、というのが、父性を持った対処の方法である。

 その上で、先生の実力行使の仕方について、そうとうに厳しい制限を課する必要がある。公正というモラルと、自己抑制の精神の徹底、武道の心得について、また手加減の仕方についての講習会も必要になろう。自己抑制を持つことができるというのも、父性の大切な特徴である。

 場合によっては、教師の実力行使についての免許制度も考えるべきかもしれない。これは決して笑い話ではなく、真面目な話である。免許というのは、人の命に関わるとか、重大な権力や人権に関わる場合に必要とされるものである。そうとすれば、教師の実力行使(体罰)は、まさにそういう重大な権限である。免許制度を考えて、少しもおかしくない。

 学校に何人か、そういう免許を持った先生がいて、自分の手で制圧できる場合には、自分の手でする。それは家庭で父親が暴力をふるう子どもを制圧するのと、原理的には同じである。家庭でいちいち子どもの暴力に警察を呼ばないのと同じである。もちろん手におえない場合は、どんどん警察に頼んだらよい。

 教師の側は、もし権限として認められても、実力行使に頼るのを恥と思う感覚を失わないように、できるだけ体罰には頼らないという心がけを持つことが大切であろう。最後は人格による教育しかないという考え、そして実力行使をしたあとの、その子の面倒をどこまでも見るという覚悟が必要なことは言うまでもない。

 

先生も体罰を体験?

 今どきの生徒の現状を知っていれば、体罰を無条件に悪いと言うことなどできないはずなのに、あまりにも現状認識ができていない例が、立川市の教育委員会が試みた「教師に体罰を体験させる」という研修会である。同市教委は、小中学校の生活指導と教務の主任、計60人を集めた研修会において、体罰をする側とされる側の役割を定めて、体罰をされる体験をさせたという(『読売新聞』平成10年2月3日付)。

 これは問答無用で「体罰は悪い」という考えがなければできないことである。子どもだけが被害者で、先生はつねに加害者だという発想しかないことを示している。いわゆる人権派の思想からくる発想である。彼らは、子どもは弱い立場に置かれており、教師は権力者だと言う。だから力をふるってはならない、と言う。しかし実力行使を禁止された教師はまったくの無力であり、生徒の方が権力者になりうる、いやすでになっている、という事実を見ようとしていない。

 もし、こうした試みが、教師の体罰の権限を認めるために、すなわち行きすぎを諌めるために行なわれたのならば、一定の意義を持ちうる。しかし体罰を全面的に禁止するために行なわれたのなら、ますます先生たちを無力にし、教室を荒廃させるようにしか作用しないであろう。

 

対策は後手に回るな

 子どもたちの暴力化、凶器の強力化は、さらにエスカレートすることが予想される。今は刃物による事件が起きている段階だが、すでにエアガンが実際に教師に向けて発射された事件が数件報告されている。そのうちに凶器が銃にまでエスカレートすることは十分に予想できる。げんに、警官を襲ってナイフで切り付け、銃を奪おうとした少年がいる。彼は銃を奪って「飾っておこうとした」と言っているようだが、それは信用できない。事実ナイフで人を殺そうとしたのだし、より強力な武器への憧れは、容易に「使いたい」という心理へと移行するものである。そのうち学校などでの銃の乱射という事件が起こるかもしれない。日本という国は、何かが起こらないと対策がなされないところがある。そうならないためには、起こりうる事態を予想して、事前に対策を講ずることが必要になる。対策は後手に回ってはならないのである。

 生徒の人権だけでなく、先生の人権も守られなければならない。言葉だけで、また真心だけでは通用しない子どもが現われていることを直視しなければならない。「抜き打ちの持ち物検査や、教師の実力行使の権限」を早急に認めないと、とんでもないことになりかねない。

 アメリカでは学校警察官が常駐している学校があったり、監視カメラや持ち物検査は常識になっている。イギリスでは教師に「制裁権」が認められている。生徒の無法に対しては「物理的な制裁」を加えてもよいとされている。それは画期的なことではあるが、その内容を見ると問題もある。教師に許される手段としては、ただ「押さえる」「押す」「引く」ことしかできなくて、「腕をねじりあげる」「足払い」「髪をひっぱる」などは禁止されている。生徒の暴力、とくに「キレた」生徒の暴力は、「押す」「引く」程度で制止できるはずもなく、「腕をねじりあげる」「足払い」「殴る」「組み伏せる」くらいのことは必要である。そうでなければ、無茶苦茶に暴れる力まかせの暴力に対抗することはできない。

 イギリスの場合のように、細かい禁止事項を作るよりも、相手の暴力に応じて適切な対応の権限を与えるようにしないと、かえって教師に不利になってしまい、なんの効果もなくなりかねない。

 対策というものは、何が起こりうるのかを考えて、先手を打つことが肝要である。

 

学校カウンセラーは無力

 最近の学校内の暴力化に対して、文部省は「学校カウンセラー」を学校に配置するという方策をすすめている。この方策は対症療法としても下策であると私は思う。カウンセラーでなんとかなるのは、子どもたちが母性不足の場合である。しかし今の子どもたちに不足しているのは父性である。

 荒れている生徒たちは、大人に理解してもらえないからでも、言い分を聞いてもらえないからでも、面倒を見てもらえないからでもない。今までに述べてきたように、単純に躾ができていないだけの場合が多いのである。「もっと子どもの心に寄り添う」という母性的な面が必要な場合なら、母性的なカウンセリングが効果を持つだろう。しかし心理療法の世界でも、これまでの母性的な受容の原理による方法では、治らない心の病が増えているのである。もちろん母性不足の子どもも大勢いるので、カウンセラーの配置がまったく無駄だなどと言うのではない。しかし暴力的な子どもに対しては、ほとんど効果がないと言うべきである。

 むしろ、彼らの言い分を「聞いてあげる」という態度では、わがままな生徒たちを「いい気に」させる恐れさえある。『読売新聞』平成10年2月16日付によると、学習研究社の学習雑誌『中学コース』で読者の声を集めたところ、いじめの動機の中で、「ムカつく」からというのが一番多かったそうである。8割が「毎日の生活の中でムカつくことがある」と答えた。4割が「いじめをやめられないのはムカつく気持ちが抑えられないから」と答えた。そんなことは今さら調べてみなくても、分かりきったことである。「ムカつく」ことが原因だと分かって、だからどうなんだ、ということこそ問題にすべきである。

 自分をコントロールすることは、幼いときからの躾によって初めてできるようになる。中学生ころになって、急に持たせようとしても、そういう能力はすぐには持たせることはできない。そこで、どうしたらよいかが、問題になるのである。

 私はそのことで、二つの提案をしたいと思う。一つは、いくらムカつくからといって、人を傷つける行為に対しては、断固として叱る、ということである。もう一つは、授業を面白くする、できれば感動を与えるような授業をするということである。

 

校長・教育委員会は「叱る先生」を守れ

 まず先生は、生徒の無法な行為、逸脱行為を断固として叱るのでなければならない。そのことは、その生徒に無法は悪いことだということを示すためにも、また真面目な生徒の人権や学習の権利を守るためにも、絶対に必要なことである。

 ただし、無法をする生徒はただ口で言っただけではきかないことが多い。その場合には当然実力行使や体罰が必要になる。問題は教師が実力行使をした場合の、校長や教育委員会の態度である。校長や教育委員会がその教師を断固として支持してくれないと、「叱る教師」は不利になってしまう。ところが、今の日本では、たとえ生徒が悪くても、実力行使をした教師は世間から非難されることが多い。そういうとき、校長や教育委員会はむしろ世間に媚びて、教師に謝らせたり、自ら謝ってしまうことがある。それは絶対に間違いである。生徒が悪くて教師が実力行使した場合には、学校側は絶対に謝ってはならないのだ。

 たとえば、『読売新聞』の平成10年2月4日付は、次のような事件を報じている。「1月30日に大分県中津市の市立中学校で、数学のテスト中に、友達にプリントを見せていた男子生徒に注意したところ、その男子生徒は『先生、そんなことをしたら刺されるよ』と反発した。それを聞いた前席の生徒が面白半分に、筆箱からカッターナイフを取出し、男子生徒の机に置いたので、教諭が取り上げ、そのナイフで、うなじの左側生え際の産毛を少しそり落とした。けがはなかった」。

 こんな態度を取る生徒に対しては、私は場合によっては殴ってもいいと思う。教師の制裁権というものがあるはずだし、カンニングを注意して従わない生徒に対しては、体罰くらいは教師の当然の権利である。悪いのは生徒の側だということを、はっきりさせなければならない。「うなじを剃った」というのは、ちょっと変わった罰の仕方だとは思うが、おそらくは殴るのを我慢して、それよりは穏便な処置のつもりが、そういう対処の仕方になったのであろう。なんでも体罰を禁止するから、そういうへんな処置しかできなくなるのである。

 さて問題は、この事件に対する学校側の態度、教育委員会の態度であるが、それが信じられないほどの弱腰である。「校長らがその日のうちに保護者に謝罪、翌日、3年生全員に事情説明と謝罪を行い、教諭は市教委の判断で自宅謹慎中」。

 こういうことだから、悪い生徒らが「それ見ろ」と勢いづくのである。この場合、校長や教育委員会は謝るべきではなかったし、教諭を謹慎処分などにすべきではなかった。生徒にこそ謝らせるべきであった。処置がまるで逆さまである。

 こういう逆さまなことが起こるのも、教師の体罰を単純に全面禁止と考えるからである。この事件は教師に体罰の権利を認める必要性をはっきりと示している。

 

先生は感動を与えよ

 悪い生徒には断固とした態度を取らなければならないけれども、じつは先生にはもっと大切に考えてほしいことがある。それは悪いことを叱るばかりでなく、もっと積極的に生徒に「何か」を与えてほしいということである。「何か」とは、なによりも授業を面白くすること、感動を与える授業をしてほしいということである。

 学校生活はなんといっても、授業時間が大部分なのである。その時間が退屈であったり、分からなかったり、つまらなかったら、生徒はなんのために学校に行っているのか分からなくなるだろう。先生というものは、授業を面白く、分かりやすく工夫するのが、最大の仕事なのである。

 私の思い出の中にも、そういう感動を与えてくれた先生がいる。たとえば高校のときの国語の先生は、アララギ派の歌人だそうで、教科書の説明は簡単にして、毎回のように短歌を朗々と読み上げては、それがいかにすばらしいかをと説いて飽くことがないという授業であった。当時の我々がそれをすべて理解できたとは思わないが、先生があんなに惚れ込んでいるのだから、とにかくすばらしいものなのだろうと思って聞いた。おかげで40年以上も経った今でも、島木赤彦の「湖の氷は解けてなお寒し、三日月の影波にうつろう」とか「春の鳥ななきそ鳴きそ、赤々と外のもの草に陽のいる夕べ」とか、斎藤茂吉の「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」などという歌が自然と口をついて出るほどである。その先生は夏休みの宿題に短歌や俳句を作らせたが、先生が読み上げた優秀作品の中で、女子生徒の「晴れ着着て、一九の春が身に重し」というのが、今でも記憶しているほど印象的であった。

 漢文の先生は、読み方の指導は簡単にして、いろいろな面白いエピソードを語ってくれた。その中には、たとえば孟嘗君が戦に敗れて函谷関の関所まで逃れてきたが、関所は夜明けでないと開かない、そのとき食客三千人の中の一人が鶏の鳴き真似をして門を開かせた話とか、臥薪嘗胆 (がしんしょうたん) の由来話などをしてくれた。その先生はあるとき「諸君、梁上 (りょうじょう) の君子とは何だか分かるか」と言って、「それは泥棒のことだよ」と、さも愉快そうに笑った。生徒もつられて皆笑った。楽しい授業であった。

 楽しいとか、感動を与えるとか、とにかくすばらしい授業というものが、今の学校には少なくなっていないだろうか。文部省の決めた教科課程とかカリキュラムにこだわって、生徒の心にくいこむような生きた授業が少なくなってはいないか。教師の個性のにじみでた、迫力や魅力のある授業をそれぞれの教師が工夫していかなければならないと思う。とにかく我々は一人一人の努力によって、学校を魅力あるものにしていかなければならない。

 

先生は生徒と遊べ

 このごろの先生は生徒と遊ぶという感覚がなくなってしまっている。今の先生はやたらと忙しい上に、先生とは勉強を教えるものだという意識が強いようである。それは大きな間違いだと私は思う。昔は「よく学び、よく遊べ」と言われたが、今は「よく学び、よく学べ」になってしまっている。小学校や中学校の先生は、勉強は半分、あとの半分は子どもと遊ばなくてはいけない。半分というのは大げさにしても、そういう心がけでいてほしいと思う。

 私の体験を言えば、小学校のときも、中学校のときも、遊んでくれる先生がいた。といって、そんなにたいしたことをしたわけではない。昼休みに、縄跳びをしている子どもたちの中に入って、一緒に跳ぶだけである。二人の子どもが縄をまわす。すると先頭に跳んだ子が、できるだけ遠くの何かにタッチして帰ってくる。それだけの遊びであり、初めは数人の子どもがしていただけだったが、先生が加わっているというだけで、クラスの全員が加わって楽しそうに、しかも毎日毎日同じことをしていた。それだけで、子どもは先生を好きになってしまう。

 夏休みなどには、皆で先生の家に遊びにいく。大勢でワーッと遊ぶ。先生も一緒なのは言うまでもない。それでいっぺんに先生と打ち解けた関係ができてしまったものである。先生の方でも、一人一人の子どものことが、普段教室でかしこまっているのとは違った、生の姿がよく掴める。もっとも、今の住宅事情では、そんなことは不可能になっている。

 私の中学校の先生の一人は、たまに一時間つぶして学校の裏山に散歩につれ出してくれた。といって、とくに何かをするわけではない。ただブラブラと歩いて、おしゃべりをする程度のことである。子どもたちが勉強がいやになったと見てとると、臨機応変に散歩をさせてくれたのだと思う。理屈を言えば、うまく気分転換をしてくれたとも言える。しかしそれだけで、子どもたちは、その先生がとても好きになってしまった。そしてその先生の言うことをよく聞くようにもなった。今どきそんなことをしたら、とたんに父母のあいだから「勉強時間をへらした」と言って苦情が出そうである。第一、都会では、そんな場所を見つけるのが至難である。

 じつは、生徒を散歩させることを時間割りの中に組み込んであるのが、ドイツの学校である。それをシュール・シュパツィーアガングSchulspaziergangと言って、直訳すると「学校散歩」である。一時間か二時間かけて、裏山か町はずれの森の中を歩くのである。ドイツ人は歩くということを非常に大切にしていて、日曜日などは散歩コースを大勢の人がゾロゾロと歩いている。それで、学校でも歩く楽しさを味わわせるのであろう。森の中を散歩していると、よく生徒たちのグループに出会うことがある。私の中学校のときの先生はそれを自然にやっていたことになる。

 都会の中の学校で無理に散歩をせよということではない。遊びとか、息抜きが必要だという原理を取り入れて、具体的にはそれぞれの条件の中で工夫をしてほしいと思う。

 小学生に対しても中学生に対しても、先生は遊び方も教えてほしいと思うほどである。今の子どもたちは、本当の意味で、いい遊びを知らない。体も使い、頭も使い、心が躍るような楽しい遊びを知らない。テレビゲームのように不健康な遊びしか知らないから、ゲームセンターなどにたむろして、よからぬことに染まっていくのである。

 先生が無理なら、地域のボランティアを頼んで、健全な遊びの楽しさを教えてもらうことを考えたらいい。それを課外活動などと言わずに、思い切って正課の中に入れたらどうであろうか。

 じつは私は、「林メソッド囲碁普及団」を結成して、親子を対象に囲碁入門のボランティア活動をしている。囲碁は健全で面白く上品な遊びであり、遊びと言う以上に文化と言えるほどに、高度な知的営みである。今までは入門がむずかしいと言われてきたが、私が開発した独特の方法によって、非常に簡単に入門できるようになった。沖縄の県立真和志高校では、平成10年から囲碁が正課に取り入れられた。じつは私も大学で囲碁を正課の中で教えている。小学校や中学校で、囲碁を正課の中に入れてもよいのではなかろうか。

 昔は職員室に碁盤があり、放課後の職員室や宿直室で先生が碁をやっているというのは普通の風景であった。今の職員室からは碁盤は消えてしまった。たぶん放課後といえども、碁などをやっていたら、白い眼で見られるのであろう。碁がなくなったことは一つの例にすぎないが、全体として教育の世界から余裕というものがなくなっていることは確かである。

 

忙しすぎる先生たち

「先生は子どもと遊んで下さい」と言っても、じつはあまり現実味がない。当の先生たちからしたら、空々しく聞こえると思う。というのは、今の先生たちというのは、やたらと忙しい、やたらと仕事がありすぎるのである。真面目にやっている先生というのは、帰宅が8時、9時というのは当たり前、下手をすると10時、11時になるという。

「どうして、そんなに忙しいのですか」と聞いてみると、課外活動がすんで生徒たちが帰るのが午後7時。それから明日の授業や行事の準備や、そのための会議があったりする。その上、上から(行政の側から)いろいろなアンケート調査を指示される。その集計も現場の先生の仕事である。そして、ちょっと何か事件や事故があると、その報告書作りにたいへんな時間を取られる。今の先生というのは、しょっちゅう何か書類を作っているのだそうな。ある先生は「教師に残業手当があったら、給料が二倍になりますよ」と言って苦笑していた。

 その上、生徒が万引きをしたというと、警察から学校に連絡がくる。どうして親にではなくて、学校に連絡がくるのか。学校の外でのことは、先生の責任ではなくて、親の責任である。それまで先生が処理しなければならない。先生にどれだけ時間があっても足りっこないのである。こうして先生は自分の生徒のために取っておくべき時間もほとんどなくなってしまう。

 こんなに「雑用」があっては、先生が子どもと「触れ合う」ことが大切だと言っても、そんな余裕や時間がないのは当然である。書類や報告書を重視するのは、要するに現場の先生を信用していないからではないのか。教育評論家は口を開けば「管理教育は悪い」と言うけれども、先生たちもまたがんじがらめに管理されているのである。そのために先生たちは、生徒たちとゆっくりした時間を持つこともできなくなっている。そして自分の栄養になる勉強などなかなかできない。読書の時間もない。これでよい教育をせよという方が無理ではなかろうか。

 小さな事故があっても、そんなことは校長の段階で責任をもって処理すればよいことである。いちいち報告書など必要ないはずである。保護者も小さいことで、いちいち言っていくべきではない。それも学校や先生というものに信用がなくなっているということなのであろう。保護者や世間は先生というものを信用しないといけない。また学校や先生も信用されるに足るようにならないといけない。

 時間的余裕、給料、負担の軽減、あらゆる意味で教師の待遇をよくすべきである。教育が国の未来を決めるのである。先生に対するこんな悪待遇を続けているのでは、この国の将来は真っ暗だと思う。世論も評論家も政治家も、なにか先生を悪者として批判していればよいという風潮がある。もっと先生の立場に立ち、その現状を理解した上で、教育の改善を考えるべきであろう。