教育

6 家庭における父性の役割

(『父性で育てよ!』PHP研究所、平成10年、第一章)

   ( [ ] 内は加筆部分 )

 

 このごろ恐ろしい事件が相次いでいまして、とくに中学校の生徒が荒れていて、学校における暴力事件があとを絶たない状況です。このあいだは、とうとう中学校の女性の先生が刺し殺されるという事件まで起きました。

 子どもたちの暴力行為の動機が以前とははっきりと変わってきて、「ムカつくから」とか「キレたから」という、非常に感覚的な次元が前面に出てきています。つまり我慢ということができない、「こらえ性のない」人間が大量に育っているという印象を受けます。一口に言えば「わがまま」ということで、自分の感情をコントロールできないのです。こういう人格になぜなってしまうのかと言いますと、それは家庭の中に父性が足らないからです。

 [その後、子どもたちの規範意識が音を立てて崩れていることが判明し、子どもたちのあいだで「小さい」窃盗が急増していることが明らかになっている。いわゆる「自己チュー」と名づけられた自己中心的な子どもも増えている。]

 それでは、なぜ父性が足らないと、そうなってしまうのでしょうか、そうならないために父親は具体的に何ができるのでしょうか。

 父性とは何かということについては、私の『父性の復権』(中公新書)で詳しく述べてありますが、簡単に言えば要するに「きちんと躾をする」ということです。子どもをきちんとした人格の人間にするために、親が持っていなければならない性質のことです。

 拙著を読んだ読者から、あるいは講演会などで一番質問されるのは、父親が具体的に何をしたらいいのかということです。そこで今日はできるだけ具体的に父親や母親が、父性という観点から何をしたらいいのかを話したいと思います。

 もちろん父性というのは、父親だけが持っていればいいというものではありません。母親にも祖父母にもなければなりません。要するに家庭の中になければならない性質です。

 しかし「父性」というからには、父親がとくに大切だという意味もこめられています。ですから今日はとくに父親が何をしたらいいのかを話したいと思います。

 

 

躾とは何か

 

 躾とは、人間として一人前の人格にすることです。一人前の人格とは、自分の欲望をコントロールして、自分のすることに責任を持ち、社会規範の中で他人と協力し合って、自分の目標を実現していくことのできる人間的な能力のことです。このような人格を作りあげることは、社会の価値観が安定しているときには、わりあい簡単なことです。子どもたちは大人たちの決まった価値観の中で、当然のように一定の基準にそった人格を形成していきます。

 しかし社会の中に決まった価値観がなくて、価値が多様化していて、どれを取ってもいいよと言われるような状態の中では、子どもたちは具体的にどういうふうに自我を作ったらよいのか、自分では分かりません。模範が確固としていないので、どの模範に従ったらいいのかも分かりません。

 

ちょっとしたストレスに耐えられない

 こうした中で、人格が未熟な人間が大量に作りだされています。人格崩壊型の症状が社会のいたるところで見られるようになっています。心の病の分野では境界例と呼ばれる症状が一般化しています。これはエネルギーがなくて、無気力で、はっきりした分裂病のような症状ではないが、しかしいろいろな心身症や神経症のような症状が見られます。生活習慣は無茶苦茶になっていて、たいてい昼夜逆転しています。ただ何もしないで家にいたり、本を読むか、ぶらぶら歩くくらいのことしかできません。

 少年犯罪のタイプも同じ傾向を示しています。昔は反抗型で、集団で権威に反抗することを目的にしていました。今の少年犯罪は、刹那的で発作的です。一見ふつうの少年が、突然キレて、あばれだしたり、暴力的になったりします。大人に注意されたというだけで、カッとなって暴力をふるいます。栃木県の黒磯北中学校で、授業に遅れたことを注意した女の先生をナイフで刺し殺してしまった中学一年生のような犯行は、その典型的なパターンです。

 彼らに特徴的なのは、人格的に未熟だということです。およそ我慢ということができない。自制する、自分を抑制するということができないのです。これはストレスがかけられすぎているから起きる現象ではなくて、ストレスを経験しないできたために、ちょっとしたストレスに耐えられないという現象なのです。それを間違えて逆の診断をして、ストレスが多すぎるから、もっとストレスをなくしてあげましょう、などという教育をしたら、子どもたちの人格未熟はますます進み、暴力行為はますます増えます。

 家庭内暴力と同じで、わがままな暴力を許したら、ますますエスカレートするばかりです。栃木県の女性教師殺害事件のあとで、ある教育評論家が、「先生は注意するんではなくて、もっと話合いをしてあげましょう」なんていうことを言っていましたが、授業を休んだり、怠けていたら、注意するとか、少なくとも理由をきくのは当然のことです。人格崩壊型の子どもは、やさしく話を聞いてあげるというような対処方法では、通用しません。まずきちんとした枠を提示して、その枠をしっかり守った上で愛情をかけるという態度が必要です。

 

ごまかし、屁理屈、逆恨み、こらえ性のない若者たち

 最近、子どもや若者の中に、屁理屈を言う者が目立っています。何か悪いことをしているのを咎められると、すりかえや屁理屈を言って言い逃れようとします。

 たとえば私は自分の大学の中でも、このごろこんな経験をしています。私の大学は都内の大学の中ではおそらく最も美しいキャンパスを誇っています。専門の庭師さんが数人いて、いつも手入れをしているので、自然の草木がたくさんあり、四季おりおりに美しい花が咲いています。正門を入った中庭には、きれいな芝生が広がっています。

 この芝生をいためないようにと、縦横にコンクリートで通路が作られています。今までは、そのコンクリートの道を歩いて、誰も芝生の上を歩く者はいませんでした。ところが、皆で大切にしてきた芝生が、このところ踏み荒らされることが多くなりました。

 仕方なしに「芝生の通り抜け禁止」という立て札を立てました。しかし中で固まっておしゃべりしている者たちがいる。ひどいのになると寝そべってタバコを吸っている者もいます。もちろん、私の大学の名誉のために言っておきますと、そんなひどい者はごくごく少数です。私が咎めると「立ち入り禁止とは書いてありません」「通り抜けがいけないんでしょ」などと言います。私は思わず「一休さんのトンチ問答ではないんだぞ!」と怒鳴ってしまいました。

 またこのごろの学生は歩くことがおっくうな者が増えて、自転車に乗る者が多いんです。歩く者だけでも混雑しているのに、自転車を乗り回しては危ないし邪魔なので、正門近くに駐輪場を作ってあります。そこに自転車を置いて、構内は歩くというルールになっています。しかし奥の方の建物まで乗り付ける者がたくさんいます。建物の入口が自転車で塞がれて、人が通れなくなるほどです。私は入口を塞いでいるたちの悪い自転車を持ってきてしまい、自分の部屋の前に置いておきました。

 取りにきた学生はたいていは恐れいって「すみません」と言いますが、中にはいろんな屁理屈を言う者もいます。「私が置いたときには、まだ人が通れました!」などという勝手な理屈を言う者、「ここも駐輪してよいというルールにして下さい」と自分の都合しか考えない者もいます。一番ひどかったのは「先生はルールを守れ守れとおっしゃいますが、先生は世の中のルールを一から十まですべて守っているんですか!」とくってかかる勇ましい者もいました。私が「それはすりかえだ、人の邪魔な所に置いてよいという理由にはならない」と言いますと、彼女は「すりかえとは失礼じゃないですか」と切り返しました。私は「すりかえでないのを、すりかえだと言ったら失礼だが、すりかえをすりかえと言ってどこが失礼だ」と、まあ、こんな問答を大学生相手にしなければならないのです。

 大学というところは、なるべく強制を避けようとするところがあります。ルールを破る者がいても、なるべく強制しないで、説得しようとします。つまり大学生は納得しないとルールを守りません。これはある意味ではいいことだと思います。納得しないと守らないので、ルールを守らせるためには、ちゃんと論争をして納得させなければならない。学生に下手に注意すると、それをやらなければならないので、エネルギーがたいへんだから他の先生たちはやらないで、「ああ、またあの物好きな林がやっとるわい」と言って、ドン・キホーテでも見るような顔をして見るんです。私はドン・キホーテにされちゃってる。でもねえ、「悪いことを放っておいて、どうして教育なんですか」と言って私は頑張って注意しているんです。

 

咎めると逆恨みをする

 それはともかく、このごろの若者は、言い逃れやすりかえをして、自分が悪いことを絶対に認めようとしない。行儀が悪くなっただけではなく、咎められるとすりかえや屁理屈を言うのが、このごろの若者の特徴です。それは親がそういう屁理屈を咎めないで、簡単に負かされてしまうからです。家庭の中に父親がドンとしっかりしていて、言い逃れなど「許さんぞ」という態度を取れば、そういう人格は育ちません。

 友達のような親が理想とされるので、親子の仲が悪くなるような「咎める」という行為を親が差し控える。その場しのぎの嘘やごまかしを、たとえ見抜いていても、咎めない親が増えているのです。それどころか、親自身もそういうすりかえ論理を使うから、子どもの方は簡単に口先でちょろまかせると思うような人格が育ってしまうのです。

 それが大規模になると、大きな犯罪を犯しているのに、記者会見かなにかして、「ああいえばこういう」と平気で嘘をつき、自分の方が被害者だとうそぶく者もいましたね。

 もう一つ、若者のあいだに顕著に見られる特徴として、逆恨み (さかうらみ) という現象があります。悪いことをして注意されると、逆に恨んで、睨んだり、仕返ししたりします。それは彼らが何も悪いことをしているつもりがないのに、注意されたと思うからでしょう。他人に注意すること自体を悪いことだと考える風潮も広がっています。「そんなこと、俺の自由だろう」と言いたいのでしょう。彼らはすぐに「いらんお節介だ」と言います。マナーの悪い者や、モラルに反している者を注意するのも、このごろは命がけになってきました。中学生の多くが刃物を持っているのです。

 私は性分なので、電車の中などで、迷惑行為やマナーの悪い者によく注意します。このあいだそのことを妻と娘に話しましたら、娘が「お父さん、そういうことは止めなさい」と言うのです。「このごろは中学生でも刃物を持っているし、女の子は男子に頼んで仕返しをするから」と言うのです。「ああ、私は家族に愛されているなあ」と思いましたが、本当に怖い世の中になりました。

 この間の黒磯北中学校での女性教師刺殺事件も、逆恨みの典型的なケースです。注意されるということに我慢できない、というのは、恐ろしくわがままな精神です。というより自分勝手なことをしていたい、それを咎められるとカッとなるというのは、こらえ性のない人格になってしまっているということです。

 ところで、こういうこらえ性のない、自分をコントロールできない、わがままな子どもにならないようにするには、どうしたらよいのでしょうか。

 

 

なぜ、幼児期で決まるのか ─ 感覚的次元の躾が大切

 

 よく日本の大人にありがちな考えですが、子どもの躾は中学生くらいになってからやればいい、小さいうちは元気にのびのびと育てればいいと思っている人が多いようです。しかしそれは決定的に間違っています。子どもの躾は三歳まで、遅くとも五〜六歳までがとても大切なのです。なぜ幼児期が大切かと言いますと、じつは躾の基本は感覚的次元にあるからです。

 

1 秩序感覚の大切さ ─ 正しい習慣・モラルを守る

 

 人間には秩序感覚というものが備わっています。自分にとって一番よい習慣を持って、それを守ろうとする性質です。これはどうやら生まれつき持っているものらしく、何かをするときにでも、決まった手続きやプロセスでする傾向にあります。私はこれを秩序指向と呼んでいます。

 秩序指向は人間が文化的な存在になるために絶対に必要なものでして、これがなかったら我々は自分一人が生きていくこともできないし、社会をなして生活していくこともできません。人間は生得的な秩序指向を持っていますが、しかし具体的にどのような秩序を選択するかは、その人が生まれついた文化的環境によって決まります。たとえば日本人は家の中には履物を脱いで入るという感覚、また外ではあまり裸を見せないという感覚を持っていました。こういう感覚は小さいときからの日常生活の中で自然と身につくもので、理屈で教えられるものではありません。

 秩序感覚とは、秩序正しい生活をしていると心と体の状態がよい、心地よいという感覚ですが、さらに人間の生活には秩序やルールというものが必要なんだという感覚です。

 なぜ感覚かと言いますと、これは理屈でなく、毎日毎日の生活の中で自然に身につくような感覚的な次元のことだからです。

 寝る時間、起きる時間が決まっている。食事の時間もだいたい決まっている。間食も一回と決まっている。一日のスケジュールも決まっていて、一日がリズミカルに動いている。こういう生活感覚は、とくに育ちざかりの子どもの心身の健康のためにはたいへん大切なことです。

 

間違った自由放任の教育観

 この感覚は、3歳くらいまでに、すでにでき上がってきます。遅くとも五歳くらいまでには固まってきます。つまり小学校に入るまでには、秩序感覚の大部分ができ上がると言っても決して言い過ぎではないのです。「三つ子の魂、百まで」と言うとおり、家庭の中に規則正しい生活習慣をする雰囲気がありますと、子どもは自然に規則正しいリズムで生活するようになって、その感覚は死ぬまで続きます。

 秩序感覚を身につけさせることは、子どもが幼児のときには、ごく簡単にできます。親が「こうするものですよ」「寝る時間よ」と言えば、子どもは簡単に従います。しかし高校生になってから、急に「何時には寝ろよ」と言っても、きくものではありません。

 ところが、恐ろしいことに、最近のあるアンケート調査によると、2歳児の親で、子どもを10時までに寝かせる者は半分以下だそうです。10時でも遅すぎると思いますが、それはともかく、この事実は「子どもには親とは違う生活のリズムが必要だ」とか「親より早く寝かせる(長い睡眠時間が必要だ)」という観点を持っている親が日本中で半分以下だということを示しています。これはものすごく恐ろしいことだと思います。どう恐ろしい結果につながるかは、あとで詳しくお話します。

 このごろの若い親の中には、「好きなときに好きなことをするのが、一番いいのだ」という考え方を持った人が増えています。自由放任の教育観ですね。「好きなことをやらせておくのが、その子の個性を伸ばす一番よい方法だ」と思っています。ひどい人になると、「食べたいときに食べるのが、一番栄養になるのだ」と言う人もいます。こういう親に育てられると、幼稚園に入っても、先生が「さあお歌の時間よ」と言っても、「私は歌なんか歌いたくない」と言って、トコトコと外に出ていって遊んでいる、という子になってしまいます。自分の「やりたいこと」を最優先する子ども、人と協調できない、人の働きかけに応じられない、最低限のルールを守れない、という子どもになってしまいます。

 このごろの小学校の先生は、授業中に子どもたちがベチャクチャおしゃべりをするのを、止めさせるだけでエネルギーの大半を使ってしまうそうです。子どもたちはおしゃべりしたければ、授業中であろうが、いつであろうが、勝手におしゃべりしていいと思っているのです。だから大学生になっても、その習慣は続いていて、講義中にも私語が絶えません。教師が黙っていると、飲み食いはするわ、あくびはするわ、居眠りはするわ、内職はするわと、「なんでもあり」になってしまいます。これは私の大学ではありませんが、なめられている先生の講義のとき、大教室ですが、うしろで逆立ちをする学生がいたそうです。どうもヨーガをやっていたらしい。ヨーガをしながら講義を聞けば、一石二鳥で、時間の節約になるということらしいです。通勤電車で化粧するOLと同じ感覚ですね。

 これは秩序感覚が目茶苦茶になっていることを示しています。秩序感覚がなくなってしまうのは、家庭に父性がなく、けじめがないからです。

 

マナーやモラルに対する感覚の欠如

 この秩序感覚のあるなしが、その後の躾に決定的な影響を与えます。第一はマナーやモラルを教えるときに、秩序感覚のある子どもは、簡単にその必要性を理解し、守ることができます。しかし秩序感覚のない子どもに、いくら説明しても、命令しても、マナーを身につけることができないのです。マナーとかモラルというものは、じつは感覚的な次元の健全な感覚をもとにして、初めて身につくものだからです。ですから秩序感覚のない人間に、いくらマナーを守りなさいと言っても効果がないのです。

 たとえば私は電車の中で悪いマナーの若者に注意します。電車の一番端の棚のところに缶ジュースを置いて飲んでいる女子高校生に「もし電車がゆれて、その缶が倒れて、人にかかったらどうするんだね」と注意しますと、彼女は缶を手でしっかりと持ちました。それでも私がジロッと見ますと、全部一気に飲んでしまいました。人にかからなければいいだろう、という態度です。そこで私が重ねて「人前で飲み食いすることは行儀が悪いよ、マナーとかエチケットということも考えなさい」と言いますと、彼女は怒りと憎しみをこめて、ジッと睨みつけるのです。

 子どもだけではありません。その前に、親が同じ態度なのです。やはり電車の中で、私の前に立った中学生くらいの女の子とその母親がいました。その子は私の目の前でしきりにセキをします。私はたまりかねて、「人の前でセキをするときには、口に手を当てるくらいのことはしなさい」と注意しました。二人は黙っています。しかし反発した様子ではなく、注意されても仕方ないという態度でした。ところが私がさらに母親に「マナーやエチケットくらい教えておきなさい」と言ったところ、その母親は私をジッと睨みつけて、しかもずっと長いあいだそうしていたのです。

 私は今度の女性教師刺殺事件が起きたとき、すぐに、注意した者から睨みつけられたときのことを思い出しました。私も危なかったのだと、今さらのようにゾッとしました。

 彼らはなぜ睨みつけるのでしょうか。具体的に迷惑があると注意するのに対しては、それほど反発をしません。しかし、抽象的なマナーとかモラルを持ち出すと、とたんに強い反発が返ってきます。それは彼らが、マナーとかモラルなどというものは、聞いたこともなければ、守るべきものとも思っていないし、また守ろうと思ってもできないからではないでしょうか。「できもしないこと」を、やれと言われると、無性に腹が立つらしいのです。

 秩序感覚のない人間から見ると、最低限の秩序が必要だと言っただけで、「できもしないことを、お説教している」と受け取られるらしいのです。秩序感覚がないと、マナーなどは絶対に身につかないし、マナーを守れとか、授業に遅れるなと注意されるだけで、いやそもそも人から注意されるというそのこと自体が、やたらと腹が立つという人格になってしまいます。

 

「構成力」を持てるか持てないか

 秩序感覚を持っていない者には、私が「構成力」と名づけたものが発達しません。

 構成力とは、「異なった諸要素を組み合わせて、意味のある全体を作りあげる能力」です。これはたとえば何人かの人が協力し合って、何かの目的をなしとげるというようなときには、絶対に必要な能力です。いろいろな性格や能力の人々を、まとめあげたり、適材適所に配置したりする能力です。この能力はリーダーだけが持っていればよいというものではありません。皆が適材適所に関心を持っていて、誰それさんは何が得意だからこういう役割がよいと考える習慣を持っていることが大切です。

 こういう能力は家庭の中によい秩序がある場合に、培われる傾向があります。なぜかと言うと、家庭の中でお互いが協力し合っている家族ですと、自然に各人が能力に合った仕事を分担していることを経験しているからです。たとえばお兄ちゃんは外の掃除、お姉ちゃんはお風呂の掃除、お父さんは食事のあとかたづけ、などというように役割が決まっていて、もちろん役割は交替してもいいのですが、協力し合っている家族ですと、いろいろ違う人間がいて、しかも協力し合うということが、自然に身につきます。

 こういう能力は、他人と協力する場合だけでなく、自分が生きていく上でも必要な能力です。つまり自分の人生の目標を立てて、そのためにどんな勉強をしたらいいか、どんな訓練をしたらいいかを考えて、それを実践する力量だとも言えます。この大切な構成力の基礎になっているのが秩序感覚なのです。

 

2 現実感覚の大切さ ─ 人を殴ると痛いことを教えよ

 

 次に父親は子どもに現実感覚を持たせる上で、非常に大切な役割をします。

 現実感覚というのは、たとえば人を殴ると痛いとか、刺せば血が出て死ぬとかです。そういうことはもちろん理屈では知っているはずなんですが、感覚的に分からない子どもが増えています。あの酒鬼薔薇少年も「人間はどうすると死ぬのだろうか、どのくらいもろいものか試してみたかった」などと言ったそうです。そんなことは試してみなくても、誰でも分かっていそうなことですが、ある種の人間には感覚的に分からないのです。

 小さいときから、自然の中で葉っぱにふれてみると手がきれることもあるとか、虫をつかむと刺されることがあるとか、裸足(はだし)で土の上に立つと気持ちがいいとか、鳥小屋や牛小屋は臭いとか、そういうことを一度も経験していない子どもたちです。自分の部屋の中でテレビを見たり、テレビゲームをしているだけという子どもたちです。

 もし父親が子どもを外につれ出して、一緒に山に行ったり、公園に行ったり、スポーツをしたり、いろいろな経験をさせていたら、そんなに現実感覚のない子どもになるわけがありません。子どもは父親と何かを一緒にやることを、とても喜びます。ふざけて、取っ組み合いをしても、相撲をしても、体と体が触れ合うだけでも、現実感覚ができていきます。

 現実感覚の中で大切なのが生活感覚です。たとえば家の中の手伝いをしない子、掃除をしたことのない子、料理を作ったことのない子が増えています。親が子どもに勉強だけしていることを要求して、その他のことは時間の無駄だという態度をとる。だから学校でも掃除をしない、というよりできない生徒が増えています。

 このあいだ新聞に、学校で飼っている兎が赤ちゃんを産んだが、どうしていいか分からないので、学校の庭に穴を掘って埋めてしまった若い先生の記事が載っていました。この先生は、小さいときから動物を育てたことがないどころか、兎を見たことさえなかったのかもしれません。現実感覚のないことが、どんなことになるか、恐ろしい例です。

 現実感覚と言っても、このように物を対象にした感覚ばかりではありません。もっと重要なのが、対人関係の現実感覚です。家族の中での人間関係がまったくなくて育つと、人間関係に対する現実感覚がなくなってしまいます。「おたく族」と言われた、少女誘拐殺人の宮崎勤は、この典型でしょう。

『父性の復権』にも書きましたが、ある学生から「先生、家族とは何ですか?」「夫婦とは何ですか?」と質問されました。この学生には、父も母もいるのです。しかし夫婦とか家族というものを「経験」していないのです。親との人間関係が、すべての人間関係のモデルになります。この学生は、親との人間関係によって養われる「人間関係の現実感覚」というものがないので、他人とも適切な人間関係を結ぶことができなくて苦しんでいました。

 こういう人は、結婚をしても、夫婦でどういう会話をしたらいいのか、どういう人間関係を結んだらいいのか、感覚的な次元で分からないのです。だから知識でイメージを持っていたり、勝手に自分でイメージを持っていますが、しかし現実は違いますから、簡単にうまくいかなくなったり幻滅して、たいてい離婚することになります。適切な人間関係を持てないのです。

 では、こういう大切な現実感覚を子どもに持たせるには、どうしたらいいでしょうか。それはお父さんが、その気になりさえすれば、わりあいに簡単なことです。どうすればいいかと言うと、子どもと遊べばいいのです。できるだけ子どもと遊ぶ。何をしてもいい、自分の好きな囲碁を教えてもいいし、スポーツを教えてもいい、山や川に一緒に遊びに行ってもいい。この章の最後でも紹介しますが、「おやじの会」の人たちは、皆で一緒にキャンプに行ったり、運動会をしたり、いろいろなことをやっているそうです。そういうふれあいを通じて、子どもは現実にふれたり、父親の人格にふれる機会が増えるわけです。

 ただし、一つ大切なことを付け加えておきますと、ドライブに行くとか、たまに何かイベントをやることは、子どもと触れ合うためには役に立ちません。むしろ日常の生活の中で、しょっちゅう触れ合うことの方が、子どもに対して大きな影響を与えます。

 

3 美的感覚の大切さ ─ 人前でのあくびは失礼だ

 

 感覚のうちでも、とくに理屈で教えられないのが美的感覚です。たとえばマナーやエチケットといったことは、秩序感覚がもとになっていると言いましたが、美的感覚も基礎になっています。

 たとえば私の講義の時間はマナーに厳しいんです。遅れてもいけない、物を飲み食いするなどはもってのほか、あくびもいけない、居眠りも許しません。学生があくびをするので注意しますと、少し前の学生はポカンとした顔をして、「なぜあくびをしてはいけないの?」という顔をしました。このごろの学生は心外だという顔をして睨みつけます。最近は睨みつける若者が増えましたね。その顔には「他人に迷惑をかけてもいないのに、いらんお節介だ」と書いてあります。

 そこで私は「なぜあくびはいけないか」を説明しなければならないという気持ちにさせられます。私はまず「あくびをするのは、話している人に失礼だ」と言います。しかし「失礼」とか「礼儀」という抽象的なことが理解できないのですから、話になりません。

 そこで作戦を変えまして、「君は毎朝お化粧をするだろう」と言います。「そのときに鏡の前で、大きな口をあけて、あくびをしてごらん」と言います。「どんなに醜い顔になるか分かるだろう」と言っても、美的感覚がすでに狂っているので、醜いとは感じないのです。だから美的感覚に訴えるという方法もうまくいきません。

 そこでまた作戦を変えて、「君は恋人がいるか」と言うと「いる」と言うので、「君はデートしているときに恋人の前で大口をあけてあくびをするか?」と聞くと、ニヤニヤ笑って「それはしないなあ」という顔をします。とうとう説得したぞと思ったのですが、駄目でした。先生は恋人ではないと思うのか、それからも平気で私の前であくびをします。笑いごとではありません。

 この話は、あくびのような、「みっともない」とか「恥ずかしい」とか「醜い」という美的感覚が基礎になっていることは、理屈では納得させることができないということを示しています。幼いころからの感覚的な基礎ができていないと、礼儀とかマナーとか美しいということは、理屈では教えることができないのです。そういう躾をしていないから、このごろ電車の中で飲み食いしたり、床に座る若者が増えているのです。いかに幼児期からの秩序感覚や美的感覚の躾が大切か分かりますね。

 このごろ恥の感覚がなくなっている者が増えていますが、それは幼児期からの感覚的な次元の躾がなされていないからなのです。

 

 

自我の形成に必要な模範(モデル)

 

 さて次に、父親の存在は、子どもが自我を形成するときに、決定的な役割をします。「自我」というのは、その人の価値体系です。その人が「これは大切だ」と思っていることを中心にして、価値の体系を作っていて、それを基準にして判断して生きているという、そういうものです。ですから、それがないと、場面場面で判断できないので、行動することができない、生きていかれない、というほどに大切なものです。心理学者はアイデンティティーという言葉を使います。

 自我は、お父さんやお母さんや、きょうだいや友達とか、社会とか、いろいろな影響を受けて、作られていきます。その中で、お父さんの果たす役割が非常に大きいのです。一番大きいと言ってもいいでしょう。なぜ大きいかと言うと、自我ができ上がるときに絶対に必要なものがあります。それは模範なのです。子どもが自我を作るときに、「あれはすばらしいなあ」とか「ああいうふうになりたいなあ」と思って真似をします。自分の自我、価値体系を作るときに、真空の中で自分だけで作るということは絶対にありえません。どんなに天才的な優れた人でも、何もお手本のないところで、まったく自分だけで創造することはできません。何かお手本や材料があって、それらを取捨選択したり、少し変えたりして取り入れていきながら、自分なりのものを作り上げていくのです。その証拠には、狼に育てられた人間は、狼の行動様式を取るようにしかなりません。決して人間的な行動を取るようにはなりません。養老孟司氏が『朝日新聞』紙上で「教育は父親がなくてもできます。お手本はない方がよい」と言っていましたが、それは大きな間違いです。ああいう有名な学者が、そんなとんでもない間違ったことを言うのは困ったものです。

 

子どもはお父さんを尊敬している

 小さい子どもから見ると、お父さんはものすごく偉く見えるものです。体も大きいし、力もあるし、何でもできるように見えます。5歳くらいの子どもから見たら、お父さんというのは、巨人かスーパーマンに見えるわけです。だから5歳くらいの子どもは、ほとんど百パーセントお父さんを尊敬しています。すごく偉いと思っているから、なんでも真似をします。身振りから口調まで真似します。

 もちろん、だんだん大きくなってきますと、お父さんだけの真似をしているのではなくて、まわりのいろいろな人の真似をするようになります。20歳になっても父親の真似しかしないというのでは困りますが、よくしたもので、大きくなるにつれて、お父さんはたいして偉くないや、もっと偉い人を見つけたということになります。お父さんよりも、もっと偉い人を見つけて、そちらに乗り換えるんですね。それは学校の先生である場合もあるし、歴史上の人物とか、小説の登場人物とか、学校やサークルの先輩とか、宗教的な指導者といった、自分で偉いと思う人を見つけて、尊敬して、それを真似しようとします。なるべく立派な人を尊敬すればするほど、その子は立派な人になれると言えます。

 そういうふうに模範となる人がだんだん乗り換えられていきますが、しかし最初のお父さんのイメージというものは、非常に大切です。乗り換えられていく人物も、どこか最初のお父さんに似たところがあります。お父さんが立派な人だと、立派な人を尊敬するようになります。もちろん女の子だとお母さんを尊敬して、女性を模範にして自我を形成していきますが、しかし女の子でも模範としての父親の存在は大きいのです。

 

権威と権威主義は違う

 このように、お父さんが尊敬されているということが、父親の権威なのです。「権威」という言葉を聞くと、このごろではほとんど百パーセントの人が悪いものだと思っているようです。私が学生にアンケートして、「権威」に対して「よいイメージ」か「悪いイメージ」かと聞きますと、百パーセントの学生が「悪いもの」というイメージだと言うのです。

 しかしそれは「権威」と「権威主義」とを混同しているんですね。「権威」と聞くと、皆が「権威主義」のことを思い出すんです。「権威主義」というのは、ある地位にいるというだけで、能力があることになってしまう、ひどくなると威張っていいとか、どんな命令をしてもいいということになってしまいます。戦前の日本では、戸主は父親ですから、この人の言うことは権力によって正当化されていまして、父親の言うことはどんなひどい命令でも聞かなければならなかった。こういうのは悪い意味の権威主義ですね。

 しかし本当の正しい権威というものは、その人の人柄が立派だとか、実力や能力があるというので、自然に周囲の人たちがその人を好きになったり、尊敬しているという状態です。だから、いざというときには、その人の言うことに従うとか、その人が言ったら納得する、というようになります。それが本当の意味での権威、私が「健全な権威」と言っているものです。

 こういう権威をお父さんでもお母さんでも持っていれば、子どもの躾など簡単にできます。親が「そういうことは悪いことだよ、やめましょうね」と言えば、子どもは素直に「はい」と言って、やめます。いい意味での権威があったら、理屈を言う必要がありません。親が「そういうのは嫌いだな」と言えば、子どもは悪いことはしません。そしていつの間にかよい感覚が身についていきます。

 

好きプラス尊敬が必要

 この場合に、親の権威というのは、ただ子どもから尊敬されているというだけでは不十分なんです。そこに「好き」という感情が加わらないといけません。好かれていて、しかも尊敬されているという、この両方が混じっていないと駄目なんです。尊敬されているだけじゃ、怖いとか、親しみがないということになってしまいます。その反対に、ただ好かれているというだけだと、好きだが軽蔑しているということになってしまいます。

 大学でも、すごく人気のある先生と人気のない先生がいますが、人気のある先生も二つに分かれていて、人気があって軽蔑されている先生と、人気があって尊敬されている先生の二種類があります。最初の授業のときには大教室に受講生があふれていますが、しばらく経つと十分の一に減ってしまう先生がいます。その先生の講義は、聞いていても得るものがなくて、馬鹿馬鹿しいから誰も出席しなくなります。しかも試験のときには、その先生の書いた本を持っていって写せばいいというのです。こういう先生は単位を取るには便利だから人気はありますが、誰も尊敬していません。それでは、学生によい影響を与えるとか、教育するということはできません。

 お父さんの場合でも、子どもの言うことを何でも聞いてやる、子どものほしがるものを何でも買ってやる、何をやっても自由に放っておく、というふうだと、たしかに子どもにとっては便利ですから、子どもは「お父さん好き」と言いますが、子どもはお父さんを決して尊敬していません。いざというときには、お父さんの言うことを聞きません。お小遣いをもらうために表面は言うことを聞きますが、陰では破っています。面従腹背になります。

 もう一つ、好かれも尊敬もされないのが、金力や権力をカサに着て、父親の体面や権威を保とうという態度です。「誰のお陰で大きくなったのだ」とか「俺が稼いでいるお陰で食べていかれるのだぞ」などと恩に着せる態度です。そういう圧迫をいつもかけられている子どもは、概して権威に対して適切な態度を取れないようになり、過度に反抗的か、ニセモノの権威に簡単にだまされるような人格になりがちです。

 

父の体罰は絶対にいけない

 お父さんが子どもから好かれ、尊敬されていたら、体罰などの実力行使をする必要はまったくありません。講演のときに、「子どもは何歳から叩いてもいいですか」と質問されたことがあります。もちろん父親がどんなに子どもから尊敬されていても、小さい子どもがわがままを言う場合もありますし、子どもが決められたルールを破るときもあります。そのルールが大切なことであればあるほど、その大切さを教えようとして、親は子どもを叩いてでも、大切さを教えたいと思うものです。

 しかし叩いてはいけません。叩くことによっては、「大切なのだ」というメッセージは伝わりません。小さい子なら、なおさらです。子どもはただ恐ろしいか、悔しいという感情を覚えているだけで、なんのために叩かれたのかは、絶対に理解しないし、覚えていないものです。恨みだけが残りがちです。

 暴力によって躾をしようとするのは、本当の躾になっていません。子どもは怖いから言うことを聞くだけで、心から納得していないので、陰で悪いことをするようになります。暴力に訴える父親は、真の意味での父性や権威のない、劣等な父親と言うべきです。

 大切なことを教えるためには、その場だけで、その瞬間だけで教えようとしてはいけません。一度だけで、何かを教えこもうとするから、叩くといった「強い」方法が必要だと思ってしまうのです。やさしく、何度も言ってきかせることによって、習慣化させることを考えて下さい。親を好きで尊敬している子どもには、優しく言うのが一番効果があります。

 もちろん私は、すでに父性がなく育ってしまった生徒に対しては、学校の先生の体罰を肯定しています。その場合には、体罰というよりは、実力行使と言った方が適当でしょう(次章参照)。しかし小さい子どもに対しては、決して手を上げてはいけません。またその必要もないのです。

 

父の権威はゆっくり落ちるのがよい

 さて話を戻しまして、もう一度、父の権威について考えてみたいと思います。父の権威が権力や金力に基づいたものであってはならないことは、もう十分に理解していただいたと思います。父の権威というものは、初めは必ずあるものです。そのうちに、子どもが成長するにつれて、だんだん落ちていくのが自然です。子どもが幼いころの、スーパーマンのような父のイメージは、いつまでも続くものではありません。いつまでも続いていたら、気持ち悪いですね。子どもが成長すると、父のイメージはだんだん小さくなっていきます。「オヤジもたいしたことねぇや」とか「オヤジにも悪いとこや、馬鹿なところがあるじゃないか」とか、能力の上でも父親を越える場合があります。

 そのように父のイメージがだんだん下がるというのは自然なことです。それに下手に抵抗してはいけません。虚勢をはってはいけません。落ちるのは仕方ないことです。しかし大切なのは、その落ち方が徐々にいくということです。いっぺんにドカーンと落ちるのは、子どもに悪い影響を与えます。信じていたものが一挙に崩れると、人間は自分が築いてきた自我に自信が持てなくなります。目標にしてきたものが一挙に崩れると、人間は幻滅して、鬱の状態や無気力になる恐れさえあります。そこまで行かなくても、世の中を皮肉に見たり、価値あるものを信じられなくなったりします。

 ですから、父イメージというものは、子どもが10歳くらいから徐々に落ちていくのが理想です。それはお父さんにとっては辛いことで、今まで無条件で尊敬されていたのに、だんだん尊敬しなくなってきたなあ、だんだん生意気になって可愛くなくなってきたなあと感じます。しかしそれは間違いで、生意気になったのは成長したからですから、子どもの成長を喜ぶ余裕を持たないといけません。しかし、そうはいっても、実際には自分を越えようとしている息子の姿を見るのは、父親としては複雑なものです。

 息子に負けないようにと、頑張りすぎるお父さんがいます。もちろん簡単に負けるようなだらしない父親ではいけません。しかしあんまりむきになって頑張るのも疑問です。

 一般的に言えることは、父親は偉いというイメージをなるべく長く維持した方がいいということです。あまり早く「俺はこの程度だぞ」と「ありのまま」を見せるのは、よくありません。子どもは父親を尊敬していたいものなのです。父親が自分の方から「俺はこんなに低いのだぞ」とさらけだすのは、子どもの向上心をなくしているようなものです。子どもが成長して自然に批判力がついてきて、父のイメージが自然に落ちていくのがよいのです。

 今までは、父は「ありのままを見せるのがいい」のだという父親論が多くありました。いかにも謙虚そうだし、子どもの人格を重んじているようで、人間的に聞こえます。「人間なんてそんなに立派なものじゃないのだから、見せかけよりもありのままを見せた方が幻滅させないだけいいじゃないですか」などと言われます。しかしそれは根本的なところで間違いを犯しています。どこが間違っているかと言いますと、子どもの自我が形成されるときに模範が必要だということを見逃している点です。模範という意味では、父親はできるだけ長く子どもの尊敬を得ている方がいいのです。自分の方から「俺はこんな程度だよ」と落として見せるのは、よくありません。もちろん、実際に立派でもないのに、立派そうに見せかけろと言っているのではありません。子どもをだませと言っているのではありません。実際にも立派になるように努力しなければなりませんよ。

 

父親(先生)の権威を落とす悪口を言うな

 このことで、とくにお母さん方に申し上げたいことは、お母さんの中に、わざとお父さんをこきおろす人がいます。このごろでは女性は自立しなければならないと言われるので、夫を愛しているとか、尊敬しているなどと言うと、夫に従属していると思われて格好悪いと思うのか、夫の悪口を言う人が増えてきました。夫の悪口を言う方が自立しているような錯覚を持つんでしょうか。挨拶がわりに亭主の悪口を言い合う女性もいます。まあ身内の悪口を言うのは一種の謙遜か社交辞令ですから、そんなに目くじらを立てるほどでもないかもしれません。ただしそれを子どものいるところでやることだけは、やめてほしいと思います。子どもはお父さんを尊敬していたり好きなのに、「あれっ、お父さんはそんなに悪い人だったのかな」と不自然な断層ができてしまいます。この断層があまり大きいと、子どもが精神病になることさえあります。

 たとえば、私が心理療法をした女子学生ですが、この子は分裂病に近くなっていました。とくにひどい対人恐怖症になっていました。なぜそんなふうになってしまったのかと言いますと、小さいときからお母さんがお父さんに不満で不満で、その不満をその子に言いつづけたんだそうです。子どもが3歳のころから、子どもに愚痴を言って、泣いていたそうです。それでその子はお父さんってすごーく悪い人だと、ずーっと思いつづけてきたそうです。そして高校生くらいから鬱病と対人恐怖症が出てきました。自分なりに持っていた父イメージと、母親の描く父イメージとの間が、あまりにかけ離れているので、心が葛藤を起こして、壊れてしまったのです。

 だから本当に悪いか悪くないかは別として、小さいときからお父さんの悪口をいつも聞かされているというのは、ものすごく悪い影響を与えますね。とくにそんなに悪い父親ではないのに悪口を聞かされつづけると、子どもはそんなに悪いお父さんではないと思っている場合には、そのあいだの葛藤に苦しんで、ひどい場合には精神病になってしまいます。もちろん、その逆も、つまり父親が母親の悪口を言うのもよくないですが、しかし実際には子どもはたいてい母親と一緒ですから、母親が父親の悪口を言い聞かせる場合の方が圧倒的に多いのです。

 同じことですが、親が先生の悪口を言うのも、非常に大きな弊害があります。親はもし先生に不満や批判があるのならば、先生に直接に言うか、しかるべき所に言うようにすべきです。子どもに言っても、何も改善されないばかりか、子どもが先生を馬鹿にして、尊敬できなくなってしまいます。それは陰口をきくという一番卑怯なやり方ですから、子どもに対して最も悪い作用をします。とくに問題のない普通の先生でも、子どもが先生の悪口をふきこまれていたら、子どもとのあいだにいい関係を結ぶことは絶対にできません。このごろの世の中の雰囲気として、先生の批判を大っぴらにする風潮が見られます。大っぴらと言っても、正々堂々と相手に言うのではなく、大っぴらに陰口を言っているだけです。悪い先生の批判をするなということではなく、批判は正々堂々と、相手に届くように、効果のある仕方でしないといけません。子どもの前では絶対にしてはいけません。

 もちろん、反対の場合もあります。悪い父親なのに、母親が「お父さんは偉い偉い」と吹き込んでいると、今度は逆の弊害が出てきます。本当は偉くなかったということがバレてしまうと、子どもは何も信じられないということになってしまいます。ものごとには限度というものがありますから、なんでも父親を立てればよいというものではありません。結局、原理的には子どもの判断力にまかせるという態度が正しいということになると思います。あまり人工的に無理をしない方がいいということです。

 以上で、お父さん(先生)が子どもから尊敬されていることが大切だということを述べてきましたが、それでは、お父さんが子どもに好かれて、しかも尊敬されるには、どうしたらいいでしょうか。

 

 

父親は何をしたらいいのか

 

 それには、まず子どもと遊ぶことが大切です。私は子どもが小さいときには、暇さえあれば子どもと遊んでいました。子どもの友達が遊びにきても、一緒になって遊びました。子どもと遊ぶと、子どものことはすべて分かります。どの程度の能力があるか、どんな性格か、どこに問題があるか、指導するときに何に注意したらいいか。

 子どもの方でも、人間というものは、こういうことをするとこんな反応をするものか、ずるいことをすると怒るものなんだなとか、こういうことをすると喜んでもらえるのかとか、分かります。また外に行って遊べば現実感覚が育ちます。私の本を誤解している人がいまして、子どもと遊ぶとルールを教えることができるからいいのだと林が言っているが、それでは遊んでいても面白くないだろうと言う人がいます。私はそんな道学者みたいな理由だけで、子どもと遊びなさいと言っているのではありません。子どもと楽しくふれあうことが、なによりも大切なのです。

 

どんな遊びをしたらよいのか

 遊んでくれるお父さんというのを、子どもは無条件で好きになります。そういうお父さんの言うことは、たいていのことなら、子どもは素直に聞くものです。

 子どもに趣味やスポーツ、武道などを教えることができれば、もっといいでしょう。父親が何も趣味がないという人なら、子どもと一緒に学んだらいい。私は楽器が何もできなかったので、子どもと一緒にヴァイオリンを習ったこともあります。そのほかにテニスと囲碁を教えました。

 だいたい父親というものは、本能的に教え魔だと私は思います。父親というものは、自分の得意なこと、好きなことを、自分の子どもに教えたがるものではないでしょうか。ところが戦後50年のあいだ、日本の父親はそういう本能を忘れてしまって、外に出て働くことばかりやってきました。子どもとふれあう楽しさを、どこかに忘れて、仕事にばかり楽しさを見付けようとしてきたのです。仕事に精出すことはよいことです。しかし何事もあまりに偏るとよくないですね。

 このことを少し難しく言うと、父親というものは子どもに文化を伝えたいと思うものなんです。江戸時代でも明治時代でも、戦前までは日本の父親たちは、子どもに家業のノウハウでも、技術のコツでも、人との付き合いの仕方でも、礼儀作法でも、一生懸命に伝えようとしていました。そういう伝えるということが、今の日本社会から消えてしまっています。

 何でもいいから、自分の得意なことを一生懸命子どもに教えて下さい。そうすれば子どもは得意なことを持つようになります。人間が生きていくときに、得意なことがあるということは、素晴らしいことです。そうなれば運動会でビリになったって、なんともありません。勉強でビリになったって劣等感を持ったりはしません。そうしたら学校がいやになって不登校になるなんていうこともありません。だから子どもには何か一つでいいから、得意なことを与えて下さい。

 親子で共通の趣味があれば、話題に事欠くことはありません。よく世間には、子どもが思春期になったから、さあ親子の対話をしましょう、ところで何を話題にしますか、なんていう感じで面と向かい合ったところが、さて何も話題が見つからないという人がいます。子どもが十五歳になるまで何も一緒にやったことがないのに、共通の話題も何もあるはずがありません。

 

共通の体験から敬愛の心が育つ

 親子のコミュニケーションにせよ、会話にせよ、ふれあいのもとは子どもと共通の体験を増やすことです。外へ散歩に行くだけでもいい、水泳に行ってもいいし、山登りに行ってもいい。共通の体験を通じて、子どもはお父さんを好きになります。何かを一緒にしてくれるお父さんを子どもは無条件で好きになります。そしてこういう好きのなり方は、必ず尊敬を伴っています。キャンプをしたら、頼もしくテントを張ってくれるお父さん、火をおこしてご飯を炊いてくれるお父さん、こういうお父さんを体験すると、子どもは誇らしい気持ちになります。

 もしテントも張れない、火もおこせないというお父さんがいたとしても、がっかりすることはありません。家族は「うちのお父さんは不器用だ」ということは十分に知っています。そのお父さんが、一生懸命に不得意なことをやって、「できた!」と言うときには、初めからできるお父さんよりも、もっと大きな尊敬をかち得ることができます。

 

子どもの心に感動を与えよ

 次にお父さんは子どもに感動を与えてほしいと思います。父親から感動を与えられた経験を持つ子どもは、高いものを目指すようになります。無気力になったり、ケチないじめや、品性のないことに一生懸命になったりはしません。自分を高くしようとするし、自分を大切にするし、世の中には高いものがあるということを思うようになります。

 では、感動を与えるには、どうしたらいいのでしょうか。子どもが小さいころはゴキブリを退治しただけでも感動してくれるから楽なんですが、中学生や高校生になると、なかなか感動を与えることは難しくなります。よく世間では「子どもは父親の背中を見て育つ」と言いますが、それも一つの感動のあり方です。「お父さんはよく働くなあ、一生懸命やっているなあ、偉いなあ」というのも、たしかに感動です。しかし父の後ろ姿を見ているだけの感動では、私は不十分だと思います。

 やはり、面と向かってお父さんと付き合ってみたり、その体験談を聞いてみたり、あるいは何かを一緒にしたり学んだり、そういうことを通じて与えられる感動の方が、の感動として印象深いと思います。

 父親だけでなく、先生も生徒に感動を与えてほしいと思います。このごろの先生は感動を語ることが少なくなっているのではないでしょうか。休みがあけたら、この夏休みに私はこんなすばらしい人に出会ったとか、こんな美しい所に行ってきたとか、こんなすごい体験をしたとか、自分が体験した感動を語ってもらいたいですね。

 もちろんそういう感動を語ったり、また子どもたちと一緒に経験するためには、自分自身が感動する心を持っていなければなりません。自分の心がひからびていてはどうしようもありません。親も先生もロマンチストでなければならないと思います。

 ともかく今の時代のように、子どもたちが面白いことにしか関心を示さないという状況は異常だと思います。もっと子どもの心に躍動するものを与えたいですね。

 

父から与えられた感動

 私の父は、年齢ごとに、私に感動を与えてくれました。そのうちの二、三の例を紹介してみたいと思います。

 私が覚えている人生最初の感動は、私が5歳くらいのときのことです。そのころは戦前ですから、私の家のまわりは一面の桑畑でした。真夏の朝早く、まだ暗いうちに父親にたたき起こされました。父は「ついてこい」と言って裏の桑畑の中に入っていきます。そして蝉の幼虫を二、三匹つかまえてきて、ネズミ取りの中にとまらせて、「見ておれよ」と言って、どこかに行ってしまいました。

 私は「見ておれ」と言われたので、仕方なしにじっと見ていました。すると虫の背中が割れて、中から何か出てきました。これには驚きました。そして背中についているシワクチャだったものが、自動的に伸びていきます。そして、それはそれはきれいな緑色になりました。もう息を飲むほどの美しさでした。それがだんだん茶色になり、最後は焦茶色になると、なんといつも見慣れていた油蝉になったのです。「油蝉はこうして生まれるのか!」と、すごい感動でした。これが私の人生最初の感動です。もちろんそのときは自覚していなかったのですが、父親に対する信頼とか尊敬の感情は、たぶんそうした体験を与えてくれたことから来ていたように思われます。

 もう一つ、今でもよく覚えているのは、小学校二年生のころに、父が毎晩お話をしてくれたことです。そのころは太平洋戦争が末期になり、今思うと、父はいつ兵隊に取られるか分からないという状況でした。いつ死ぬかもしれない、という中で、何かを与えておきたいという思いがこめられていたのだと思います。父は自分が読んだ小説などから、面白そうなものを、子どもむけに自分流に勝手に変えたりしながら、かなり創作や勝手なアレンジが入っていましたが、楽しく話してくれました。話すこと自体を自分が楽しんでいたと思います。

 軍国主義たけなわのころなのに、そして父親自身も軍国主義者だったはずなのに、どういうわけか軍隊の話とか、勇敢な兵士が手柄を立てた話をされた記憶がなくて、一番印象に残っているのが、ジャンバルジャンの『ああ、無情!』でした。どういうつもりで父親が『ああ、無情!』の話をしたのか、残念ながら聞かないままになってしまいました。あの小説はじつに手に汗を握る場面とか、感動的な場面がたくさん出てくるでしょう。

 ジャンバルジャンは貧乏で食べるものもなくて、最初はただパンを一個盗んだだけですが、監獄に入れられて、脱獄するので、だんだん罪が重くなっていきます。しかし立派な人になって、人々から慕われて、ある町の市長さんになっている。ある大雨の日に、馬車が横倒しになって、女性が下敷きになってしまう。その馬車を起こすことができるのは、力持ちのジャンバルジャンしかいない。でもそれをしたらジャンバルジャンだということが分かってしまう。取り巻いている群衆の中には、彼をしつこく付け狙うジャベール警部が見ている。迷ったすえに彼は決断をして、馬車の下に入り、馬車を起こします。しかしジャンバルジャンであることが分かってしまい、また逃亡生活に入らざるをえない。

 彼はコゼットという可哀相な娘を助け出して、かくまっている。その隠れ家がジャベール警部にかぎつけられてしまう。ジャベールがドアの把手に手をかけた! というところで、父が「今日はこれまで、また明日」となる。次の日になると、「ジャベールが部屋の中に踏み込むと、中はもぬけの殻で、窓の外に縄ばしごが揺れていた」というので、子どもたちは「なあんだ」とホッとする、という毎日でした。

 私の父親は、山の上でご来光を見せてくれたり、初めて海につれていってくれたり、いろんな形で感動を与えてくれました。学校の校長として、さっそうとしており、先生や生徒たちから慕われていました。私はそういう父の姿を誇らしく思って少年時代を過ごしたと言えます。

 父を尊敬していたり、父から感動を与えられた子どもは、「ああいうふうになりたい」とか「ああいう生き方がすばらしい」というように、子どもなりに目標ができます。心の中に高いもののイメージができます。「世の中にはすばらしいものがありうるのだ」ということを知ることができます。そういう子どもは決して無気力少年にはならないものです。

 

勉強を前もって教えるな

 感動を与えるということで、一つ大切なことを言っておきたいと思います。それは子どもに勉強を教えるときに、前もって教えるな、ということです。

 昔の親は子どもが小学校にあがるときには、「先生のおっしゃることをよく聞くのですよ」と言いました。そして着ること、トイレに行くことなど、自分のことは自分でできるというようにすることが、学校にあげるための準備として必ず親が子どもにしたことです。ところがこのごろの親は、なによりもまず子どもに勉強を教えます。算数や国語を教えるのです。それは人より遅れないように、あるいは他の子どもよりできるようにしてやりたいという、よく言えば親心、悪く言えば競争に勝ちなさいということです。

 それをやるから、子どもから感動を奪ってしまうのです。私も家内も、娘が学校にあがる前に、まったく何も教えませんでした。でも字はいつのまにか自然に覚えてしまいましたが、その他のことはまったく教えませんでした。

 そうしたら、なにかのときに担任の先生が家内にこうおっしゃったそうです。「林さんは、たいへん教えがいがあります。私が説明することは、ほとんどの子どもが知っていて、そんなことは知っているという顔をして聞いているのに、林さんは『そんなことは初めて聞く』という顔をして、目を輝かせて一生懸命聞いてくれます。林さんのようなお子さんばかりだと、私も教えがいがあるのですけれどもね」。先生の教える意欲を奪っているのは、先まわりして教えている親なのではないでしょうか。

 たしかに就学前に読み書きや計算を教えておけば、テストの点はよくなります。しかし知らないことを初めて教わるという感動を味わうことはできなくなります。本当に勉強の面白さを教えるには、どちらの方がいいかは言うまでもありません。ただ「勉強しろ、勉強しろ」と言われつづけて、大学生になると、全員が勉強を嫌いになっています。日本中が寄ってたかって勉強嫌いにさせておいて、大学で学問の楽しさ、面白さを教えて下さいと言われても、どうしようもないのです。多くの学生が大学に入ったとたんに勉強をしなくなります。彼らは遊ぶか、そのための費用稼ぎにアルバイトをするか、どちらかになっています。

 私は娘に「勉強しろ」とは一度も言いませんでした。高校生になるときに、こう言いました。「せっかくの青春の貴重な三年間を、ただ受験勉強にだけ明け暮れるのはもったいない。三年間好きなことをして、青春を謳歌しなさい。勉強なんかしなくてもいい。そのかわり、一年だけ浪人してもよろしい。一年間必死に勉強して、入れる大学に入ればよい」。そうしたら、娘は自堕落な高校生活を送るようなことはなく、囲碁部とテニス部の両方に入り、両方のキャプテンになって、毎日遅くまでどちらかの練習、土日はどちらかの試合に出掛けていきました。そうした中で、努力の大切さ、苦しさに耐える根性、チームワークのすばらしさ、貴重な友人、優勝の感激など、人生を歩む上での豊かな財産を得たようです。

 成績はたいへん悪かったと思います。成績表は三年間に一度も見たことがありません。彼女は勉強というものが嫌いになっていなかったので、大学に入ると、勉強が面白くて、成績は一番になるし、結局学問の道に進むことになりました。

 皆さん、目の前のテストによい成績を取るなどということは、なにほどのこともありません。よい大学に入るということも、長い人生から見たら、なにほどのこともありません。ちょっと上のランクの大学に入るために、大切なことをたくさん失っているのではないでしょうか。ましてや、受験だけに価値を置いていて、それが失敗したときには、子どもはものすごい傷を受けます。例の「酒鬼薔薇」少年も、中学受験に失敗した経験があるそうです。

 そういう単一の価値観から距離を置いて、他の大切なこともあるよ、と言ってやることも、父性の大切な役割なのです。

 

いじめには断固として戦う姿勢を見せる

 さて、このごろの親が一番心配するのは、子どもがいじめに遭わないかということです。自分の子どもがいじめる側にならないかという心配は、あまりしません。もっぱらいじめられることを心配します。本当はいじめられることばかりでなく、いじめることも心配しないといけません。

 いじめることも、いじめられることも、じつはそんなに心配することはないのです。父性と母性を十分に与えられて育った子どもは、そんなひどいいじめや、いじめられに遭うことはないからです。

 父性を与えられた子どもは、決していじめるようなことはしません。弱い者いじめのような卑怯なことをしてはいけないというのが父性の教えです。

 では、いじめられることはないでしょうか。いじめる子どもの大半は、弱い者をいじめて日頃のうっぷんを晴らすというタイプです。相手の子どもが断固として反撃したり、抵抗をする場合には、面白くないので、いじめの動機そのものが失われてしまいます。また、それ以上にいじめるとなると、暴力的になったりして、問題が顕在化しますから、陰湿ないじめは不可能になります。はっきりした身体的ないじめ(暴力)なら、いくらでも対処の仕方はあります。陰険な心理的ないじめは、本人がしっかりしていれば、そんなに被害は大きくなりません。しっかりした友達が二、三人いるだけで、陰険ないじめは不可能になります。

 たとえば「シカト」といって、皆で無視して、口をきかないといういじめがありますが、やられる者が平気な顔をしていれば、面白くないので、やる意味がなくなります。一番いじめていて愉快なのは、すぐにメソメソしたり、見るからにダメージを受けて、しおれてしまう子どもです。

 大切なのは、親がいじめとは断固として戦うという姿勢を見せることです。日頃から「いじめは絶対に悪いことだ」ということを言ってきかせ、もしいじめられたら必ず親に言うように、よく言っておくことが必要です。もちろん、いくらそう言いきかせておいても、子どもはなかなか言いません。子どもなりのプライドがあって、自分がいじめられているという、格好悪いことを親に話すのはいやなものです。また子どもの世界には「チクル」といういやな言葉があって、親や先生に「いいつける」ことは卑怯な悪だとされています。この観念を日頃から打ち破っておかないといけません。「いいつける」ことは卑怯なことではなくて、いじめられている子どもを見たら大人に通報することは「よいこと」「必要なこと」だということを、親も先生もいつも言っていなくてはいけません。もちろん自分がいじめられていることを話すことも、とても大切なことだといつも言いきかせている必要があります。親がいじめに重大な関心を持っていて、見守っているということは、しっかりと伝えておかないといけません。

 

思春期になってからでは遅い

 いじめにも遭わなくてほっとしたころに、あるいはいじめ問題と並行して、思春期がやってきます。すると次の悩みが出てきます。思春期の親の悩みは、「子どもが何を考えているのか分からない」というものです。なにしろ口をきかなくなるし、話しかけても親と話すのをいやがるし、急に親のことを嫌いになったかのように見えます。「子どもが口をきかないのですが、どうしたらよいでしょうか」という質問をよく受けます。

 子どもが口をきかなくなるのには、それ相応の理由があるのです。そのことを理解していれば、そんなに心配したりあわてたりする必要はありません。子どもが口をきかなくなるのは、子どもの心の中で自我が形成されている最中だからです。自分なりの自我が形成されているときには、それはまだはっきりしないし、自信もないので、他人から干渉されたくないものです。中学や高校時代の子どもが親の干渉をとくに嫌うのは、こういうもっともな理由があるからです。たとえば「持ち物検査」にひどく反発する子どもがいますが、プライバシーにこだわるのも、そういう背景があるからです。

 だから、親はそういう子どもの心の発達段階を承知していて、そっとしておいてやるのが大切です。だからといって、親としてはどんな自我ができ上がるか心配なものです。しかし、そのときになって心配しても遅いのです。それまでにしっかりとした母性と父性を持って育てていれば、親は自信を持って見守っていることができます。家庭の中にしっかりとした価値観があれば、子どもはそれからそんなに外れた自我を作るはずはありません。

 それでも心配ならば、子どもに話しかけるのではなく、食卓をともに囲んでいるときに、夫婦で会話をしたらいいでしょう。世の中の出来事について、政治について、このごろの風潮について、テレビのニュースについて、夫婦で批評しあいながら、話をはずませます。思春期の子どもはたいてい黙って聞いているものですが、それでいいのです。それだけで、親の考えは十分に伝わっているものです。ときには子どもの方から口をはさんだり、意見を言いますが、たとえそれが親の考えとひどくかけ離れていても、あまりむきになって喧嘩をしてはいけません。もちろんあまりに妥当でない意見を言ったときには、きちんと反論しなくてはいけません。しかし思春期の子どもは心理的に複雑ですから、本心でなくて、わざと反対のことを言うこともあります。だから全部むきになって反論しなくてもいいのです。本心からか、わざと本心の反対のことを言って親を試しているのか、冷静に見てとることが必要です。

 ともかく、このころの子どもは大人になる準備をしているのですから、その心の中身を尊重してやることが大切です。ある程度対等に重んじてやることによって、子どもは大人としての自覚と、精神のあり方を持とうとします。子ども扱いするのが一番いけません。

 

父親と母親の役割分担について

 最後に大切なことを言っておきたいと思います。それは父親と母親の役割分担についてです。

 このごろのフェミニストたちは、性別役割分担は悪だということで全員一致しているようです。夫婦で役割分担することはいけない、父親と母親の役割分担もいけない、父性と母性という言葉もいけない、と言います。これは大きな間違いだと思います。

 父親と母親が役割分担することは、私はたいへんいいことだと思います。異なる個性や性格や雰囲気の二人が、役柄や雰囲気や態度を分担して、協力し合っていくのは、すばらしいことです。もちろんどういう分担にするかは、それぞれの夫婦の個性に従って決めればいいでしょう。一般的には父親はどっしりしていて、家庭の方針や原理・原則を示す役割、そして社会のルールを示したり、鍛えたりする、ダイナミックに遊んでやったりする役割、母親はやさしい心遣いや思いやりを教えたり、温かい雰囲気をかもしだして、やさしく包み込んだり、慰めたり、励ましたり、子どもの心を安定させる役割がいいでしょう。しかし、しっかり者のお母さんとやさしいお父さんという組合せだったら、逆の役割分担をしてもいいと思います。大切なのは、家の中に父性と母性の組合せがあるということです。

 このごろの一部のメディアに登場する女性たちの間で、理想の男性とは家事を半分分担してくれて、男女の区別をなくしてしまう男性だというキャンペーンがなされています。自分の夫はこんなに家事をしてくれるというのを自慢にしている女性のエッセイが新聞や雑誌によく掲載されます。それを読むとうらやましくなる女性は多いのではないでしょうか。しかし家事を半分してくれるのが理想の男性だなどというのは、なんと情けないではありませんか。志が低いと思います。男性の役割とか父親としての仕事は、もっと独自の大切なものがあるはずです。男性にせよ、女性にせよ、子どもに対して何を与えられるかという観点から考えてほしいものです。そうしたら、ただ家事をしてくれる男性が理想だなどということは出てこないはずです。もっと人格的な性質を理想にしてもらいたいですね。

 もちろん誤解のないように言っておきますが、私は男性がなるべく家事をすべきだと思っています。しかし半分でなくてもいい、補助的でいいと思います。大切なのは家事の価値を認めて参加することです。家の中では母親が取り仕切っていていいと思います。そう言うと、フェミニストは、そんなのは古くさい家父長的な固定した役割分担の観念だと言うでしょうね。しかし「多様な家族形態」を認めよと言う人たちなんですから、そういう「古い」形態だって認めるべきですね。女性が家事を分担しているというだけで、また女性が主になって家の中のことをするというだけで、家父長主義的だとレッテルを貼るのは、それこそ差別です。そんなフェミニズムにだまされないで、家事に関してはお母さんが堂々と中心にいてもらいたいと思います。

 子どもから見たら、お父さんとお母さんがまったく同じことをしているよりも、違う人間どうしが、違うことをしながらも仲良く協力し合っている姿を見る方が、人格の成長のためになるし、男女平等の教育にもなると思います。本当の男女平等とは、男女が同じになることではなく、違う者どうしが対等に協力し合うことだからです。

 

フェミニズムにだまされるな!

 私もけっこう長く人生を生きてきましたし、心理療法の中でいろいろな夫婦関係や子どもを見てきました。その中でつくづく感じていることは、お父さんらしいなあという父親と、お母さんらしいなあという母親とに育てられた子どもは、性格もいいし、人間的でいい子になっているということです。やはりお父さんの性格、お母さんの性格がはっきりしている方が、子どもにはいいんでしょうね。

 そう言うと、父か母がいない子どもに対する差別だと言う人がいます。父も母も両方必要だと言うと、片親の子が可哀相だと言う人がいます。負けん気の強い人は、片親でも子どもは立派に育つなどと言います。両親がいても駄目な子が育つことだってあると言います。しかしそれは強がりというものです。よいお父さんとよいお母さんが両方いる方がいいに決まっています。止むを得ず離婚したり、どちらかが亡くなったりして、お父さんだけとかお母さんだけの場合には、両方の役割をしなければならないから、たいへんなのですが、できないとか駄目だとは言いません。しかし不十分だということを自覚していることが大切ですね。自覚して育てれば、まだ弊害が少ないのです。ところが両親ともいる必要などない、と言って開き直るから、かえって子どもが駄目になるのです。ですから片親だからすべて駄目というのではないですが、なるべく離婚しないようにしてほしいですね。

 家の中では夫婦が中心にいることが大切ですね。私の本には父親が中心だと書いてあるので誤解を受けるんですが、それは価値観を提示する中心という意味でして、権力の中心という意味ではありません。同様に母親も中心なのです。母親は家政の中心であり、家のマネージメントの中心なのです。それを「古い性別分担の観念」だと言うのは、それこそ古い観念的な画一的な批判です。

 家庭の価値観は夫婦が対等に協力し合って作るべきです。だから中心は夫婦でなければいけません。夫婦が喧嘩したり、互いに悪口を言っていてはいけません。

 中心にお父さんとお母さんがいれば円ができます。その円の中に子どもたちが入っているのが理想ですね。お父さんとお母さんがちょっと離れると楕円になります。楕円ならまだいいんですが、もっと離れると円が二つになってしまって、子どもはどっちに行ったらいいのか、分からなくなってしまい、うろうろしますから、それは困ります。

 夫婦が仲良く協力し合っていて、子どもを可愛がっている家庭の子は、「夫婦って何ですか」などという質問をするわけがないのです。異なった性質が分業して協力する方が、子どもは豊かに育ちます。父親と母親の分担は必要ですし、あった方がいいのです。やみくもに性別役割分業を否定するフェミニズムにだまされてはいけません。もちろん夫婦はお互いに精神的に自立していなければなりません。一方が他方に依存したり、寄り掛かったり、甘えたりしてはいけません。しかし、自立しただけでは十分ではありません。互いに支え合ったり、立て合ったりすることは必要です。支え合うことを依存と混同する人がいますが、夫婦は自立した上で仲良く協力し合うことが、正しいあり方だと思います。ごく平凡な結論になりましたが、どうか夫婦仲良く協力し合って子どもを育てて下さい。

 

地域で活動する父親たち

 最後に家庭の外の、地域社会の中で父親が何をできるかについて、述べておきたいと思います。

 子育てに関わることが大切だと気づいた父親たちは、家庭の中で自分の子どもだけに関わるのではなく、当然、家の外での子どもたちのあり方にも関心を持つようになります。

 うれしいことに、このごろ、家の外でのいろいろな活動に参加する父親たちが増えています。今まではPTAに母親だけしか見られなかったのに対して、最近では父親の数が増え、PTAの中に父親たちの会ができたり、また各地に「おやじの会」ができて、いろいろな活動をしています。

 たとえば東京都江戸川区第二葛西小学校の父親たちは、もう10年も前から「おやじの会」を作って活動しており、キャンプを催したり、運動会の力仕事を手伝ったり、夜間のパトロールなどをしてきました。いずれも男性でなければできない活動であり、「さすがお父さん!」と、母親たちからも、地域の人たちからも、高く評価されているそうです。

 平成9年秋に神奈川県第一回青少年問題シンポジウム「家庭・地域における父親の“居がい”」が催され、私も基調講演をさせていただきましたが、その後のパネルディスカッションでは、「川崎おやじの会『いたか』」世話人の大下勝巳氏や「すぎのこ『おやじの会』」世話人の関義武氏から、父親たちの会の意義や具体的な活動の話など、有益な話がたくさん聞かれました。「いたか」というユニークな名前は、朝7時に出ていって、夜11時にならないと帰ってこない「セブンイレブンおやじ」が、たまに日曜日にいると「あっ、お父さん、いたか」と言ってびっくりされたことから名づけたとのことです。

 その話の中で印象的だったのは、今まで職業人としての自分、仕事だけの自分だったのに、「おやじの会」に参加して、「非常に楽しい仲間が一杯できて」「市民であったり、ボランティアであったり、父親であったり、そういう職業人以外の自分を開発することができた」という発言でした。また男性がただの仕事人間から脱却して、いろいろな自分を発見したことで、夫婦の仲がよくなったとか、会話が増えたという話も聞くことができました。

 アメリカでも「麻薬や社会問題、地域崩壊と対決する男たちの会」(マッド・ダッズ)が発足から10年足らずで、14州、53支部、4万5千人の組織になり、ナイトパトロールをしたり、ユースセンターを開発して、崩壊した家庭の子どもたちが過ごせる場所を提供しているということです。(『朝日新聞』平成10年6月2日付夕刊「アメリカ・男たちの変身」5)

 こうした父親たちの組織が、家庭や学校での教育と手をたずさえて、子どもたちが健全に遊び楽しめる場所を提供すると同時に、市民としてのモラルとマナーを教える役割を担っていくことが期待されます。