教育

2 教育の忘れ物

(『関西経協』関西経営者協会発行、連載エッセイ)

 

幼稚な母親たち(平成13年3月号)

 

 相変わらず幼児虐待のニュースが後を絶たず、このごろでは毎日のように報道されている。子どもを虐待する大人のうち、約半分は実の母親である。

 その中でも、「わがまま型」「人格未熟型」がますます多くなっている。赤ちゃんが泣き止まないのでカーッとなって踏んづけたとか、おむつを替えたとたんにウンチをしたので一晩そのままにしておいたとか、苦労して作った離乳食を吐き出したので自分を否定しているように感じて叩きつづけたという具合である。

 一歳そこそこの赤ちゃんが大人なみの意志を持っているかのように扱う。というよりも、自分のほうが大人なみの意志を持っておらず、感情のコントロールもできない。「がまん」ということがまったくできない上に、冷静に対応するという訓練も受けたことがない。

 子どもが生まれるまでは、「自由に」遊ぶだけの気ままな生活だった。それなのに「子どもが生まれたら、何にもできない」と文句を言う。

 私が幼稚園で講演するときに「子どもをよく叩く人は手を挙げてください」と言うと、半分以上の人が手を挙げる。そして「どういうときに叩くの?」と聞くと、驚くことに、ほとんどの母親が「感情的になって」と答える。今の幼児の母親の世代、すなわち二十代後半から三十代前半の女性たちは、感情をコントロールすることを学んできていないのである。

 この年代の親の世代はほぼ五十代である。父親は仕事人間で家にいなかった。しつけに加わっていない。母親は子どものことよりも「自分を大切に」とか「母親であるまえに一人の女として生きたい」「おばあちゃんと呼ばないで」などといって、真っ赤な服を着て、真っ赤な口紅をつけて顔をまっ白にぬり、若いつもりのその恰好で孫をつれて歩いている姿は化け物である。年相応の服装とか、年相応に枯れていくということに、無駄な抵抗をしている姿は、ただ醜いとしか言いようがない。

 こういう親に育てられたら、人格の陶冶だの、克己だのということとは無縁な人格に育つに決まっている。他人に尽くすとか、家族のために我慢するとか、慎しみ深いとか、しとやか、身だしなみといった言葉は死語どころか、「女性を縛る言葉」として攻撃や軽蔑を受ける。そういう風潮がはびこる中で、日本人はなにか大切な心を失ってしまった。

 そういう親に育てられた子どもの世代が、いま子どもを育てるのにたいへんな困難を感じている。子どもを育てることは、「我」を捨てなければできない仕事である。ところが「自由に」「自主的に生きなさい」と言われて、好きなことだけしてきた人間が、思うとおりにならない赤ん坊と対立してしまうのは当然の結果である。子育てという営みは、「我」を捨てる訓練をしてこなかった人間にはしょせん無理な仕事なのである。

 人間をしつけるということは、お辞儀の仕方とか、挨拶の言葉、箸の持ち方といったことを教えることではない。一番大切なのは、自分をコントロールする能力をつけさせることである。その最も大切なことを身につけなかった者に、赤ん坊を育てることなどできるはずもないのである。

 日本人は礼節、克己といった大切なものを失いつつある。一度失ったものを取り戻すのは至難の技である。まだ完全に失われたわけではない今が瀬戸際だと、われわれは心得るべきではなかろうか。

 (このシリーズは、今回をもって終わりになります。ご愛読ありがとうございました。)

 

 

強制か自主性か(平成13年2月号)

 

 教育は危機にある、教育のあり方を改革しなければならない、と誰もが思っている。「教育改革国民会議」や「中央教育審議会」も相次いで答申案を出した。

 教育をどうすべきか、いろいろと対策が考えられているが、どうも根本のところで「教育とは何をすることなのか」というコンセンサスが成り立っていないようである。二つの考えが真っ向から対立しているように見うけられる。

 一方の人たちが「教育は自主性を育てることだ」と言えば、他方の人たちは「教育とはある意味では強制だ」と言う。一方が「ゆとりが必要だ」と言えば、他方は「基礎学力を落とすな」と言う。一方が「自己決定力を持たせよ」と言えば、他方は「規範意識を持たせよ」と言う。

 これらの二つの立場は、本来とくに対立するはずのないものである。たとえば、「自主性」「個性」「自己決定力」を育むことは大切である。しかしその力は、基礎となる人格的な力や善悪の判断力がある場合にのみ可能となる。正しい規範意識のない者が「自主的に自己決定」したのでは、どんな判断をし、どんな行動に出るか、わかったものではない。

 学力についても、まず読み書きや九九といった基礎学力がついていることを前提にして、自主的にテーマを選んだり、自発的な研究をすることができる。基礎の力をつけるためには、ある意味で強制が必要になる。九九を覚えるのは苦痛である。しかし九九がどれほど便利なものかは、九九のできない外国の人々の計算能力と比較してみるとよく分かる。

 基礎の力をつけるには一種の強制と反復が必要である。しかしそれをいつまでもやっていては本当の教育にはならない。また基礎をないがしろにして初めから自主性にまかせることもできない。物事には順序というものがある。

 「個性」や「自己決定力」を育てるためには、相当な強制力をもって基礎を鍛えないといけないのだという認識もないままに、初めから「個性」や「自主性」「自己決定」をしなさいと言っても、子どもは何をしてよいかさえも分からない。下手をすると、ただの我が儘を助長するだけになってしまう。

 強制と自主性をどのように組み合わせるかを問題にしなければならない。

 「自分で勉強したいことを自分で決めさせる」などということは、よほど基礎力がしっかりし、人格がしっかりした者についてのみ言えることである。その基礎学力や基礎人格を養うためには、適度な反復練習や強制が必要になる。人格を鍛えるためには、適度なストレスを与えることは必要なことである。なんでもストレスが悪であり、ゆとりが善であるという考えがはびこりすぎていないだろうか。

 地道に漢字を覚えて、読む能力をつけていないのに、好きなテーマで研究したいなどと言うから、実際にやらせてみると、必要な参考書を読み通す力さえない者がいるのは、その辺を間違えているからである。

 「個性」「自主性」「子どもの参加」「教えから学びへ」などという、きれいな決まり文句ばかりが唱えられているうちは、本当の教育改革は進まないと思われる。

 

 

女教師の割合(平成13年1月号)

 

 我が国の小学校における、男性教師と女性教師の割合について、皆さんはどのくらい関心をお持ちであろうか。

 現状がどういう割合になっているかを知らされない状態で考えていただきたい。

 まず、男女平等という建前から考えたら、どうなるのであろうか。完全に半々にすべきだということになるのか、それとも男性教師に教わろうが女性教師に教わろうが変わりないのだから、どっちだっていいじゃないかと考えるのか。

 政治家の数を男女半々にせよとか、大学教授の数を男女半々にせよと要求しているフェミニストたちならば、小学校の教師も男女半々にすることを要求するはずである。

 ところが、フェミニストたちは小学校の教師についてだけは、男女半々にすることを要求しない。なぜか。理由は簡単。小学校の教師の場合、女性の割合が圧倒的に多いからである。

 すなわち全国どこの県でも、たいていは女性教師が8割を占めている。ただ一つ長野県だけ、約半々。この事実を皆さんはどうお考えになるか。

 次に男女教師の割合が子ども、とくに男子に与える影響について考えてみたい。

 学校の中で女教師が8割となると、学年に男性教師が一人もいないというケースが多くなる。また6年間一度も男性教師の担任を経験しない子どもたちも出てくる。その間、フェミニスト女教師から男女無差別思想を叩きこまれる。

 男子が男性としてのアイデンティティーを確立することができるためには、モデルが必要になる。彼が男らしい父親を持っている場合には、男性教師に教わらなくても、男性としてのアイデンティティーを確立することができる。しかし、もし不幸にして男らしい父親を持っていない場合には、彼はモデルをどこで得たらいいのであろうか。今は昔のように地域に兄貴分のリーダーやガキ大将がいないし、「若衆宿」や「青年団」もなくなっている。

 思春期が始まるまでに、男子が男性としての性同一性を確立できないと、彼は心理的に去勢された状態になり、男性としての自信を持つことができず、事に当たって果敢に行動したり、自主的に決断したりできなくなってしまう。

 最近多くなっている不登校、引きこもりの背景には、こうした男子の性同一性確立の困難さという大問題が横たわっているのである。

 じつはこうした問題は、アメリカではかねてより重要視されていろいろと議論がなされているが、我が国ではまったくタブー視されて、誰も取り上げようとしない。

 日本の教育は、道徳の崩壊、学力の崩壊という由々しき問題に加えて、こうした問題も抱えているのである。この問題について、議論もできないというのは、少なくともきわめて不健全な状態ではないであろうか。

 

訂正

 読者の一人から、次のような間違いの指摘がありました。つつしんで訂正いたします。

 H12年では、女性教員の割合は62.3%。

 子供達を担任する「教諭」だけをとっても65.1%です。

 さらに、たしかに長野県が半々というのは事実ですが、

 北海道はむしろ、男性教員の方が多いです。 

 他にも鹿児島県で男性教員の方が多いです。

 女性教員の割合が高いのは沖縄県72%、東京都66%など。

 詳しくは文部省のHP「学校基本調査」をご覧下さい。

 

お手伝い(平成12年12月号)

 

 教育改革国民会議の答申案の中に「生徒に奉仕活動を義務づける」という提言があり、論議を呼んだ。このごろの公共心のない子どもたちや、他人のことなど構わない子どもたちに、他人のために働くことを体験させ、そのことについて考える機会を与えることは結構だと思う。

 ただし、真の奉仕の精神や公共心を培(つちか)うために最も大切なのは、じつは家庭のなかでの日常生活の場で仕事をさせることである。つまり俗に言う「お手伝い」をきちんとさせることである。

 一般的に言って、躾をしたり社会性を身につけさせるためには、何かイベントをするよりも、毎日の生活において家の決まりを作り、それをきちんと守らせることの方が、よほど大切である。日常生活において決まりを守り、互いに助け合うという経験こそが、最大のしつけなのである。

 「お手伝い」というと、親を助ける仕事のような響きがあるが、自分も一員である家族のために働くのであり、純粋に他人のための奉仕とは違うと理屈をいう人がいるかもしれない。

 しかし「他人のため」であろうが、「自分も含まれる家族のため」であろうが、「自分のためだけでない」「みんなのため」に働くという体験だという点では、どちらも同じような意味を持っている。

 そして「お手伝い」は毎日のことであり、子どもの感覚的な次元において習慣になるという意味では、たまにやるイベントとしての「奉仕活動」よりも、人間の本質的な感覚的次元に深く刷り込まれる。したがってそれは付け焼き刃でなく、人格の基底部に強い影響を与えるのである。

 このように大切な意味をもった「お手伝い」を、このごろの親はさせたがらない。子どもがしたがらないのではなく、親がやらせないのである。

 なぜかと言うと「勉強に差し支えるから」だと言う。ちょっと教育熱心な母親が、口癖のように子どもに言うせりふは、「お手伝いはいいから、勉強しなさい」である。

 そうやって子どもを勉強部屋に追いやると、子どもは勉強ができるようになるかと言うと、決してそうはならない。勉強は頭でやるものではなく、人格でやるものだからである。

 他人から「やりなさい」と言われても、やる気にならなければやれないのが、勉強である。人格がしっかりしてきて人生の目的が出てくれば、また精神的な強さが出てくれば、努力ということができるようになる。そのとき初めて勉強ができるようになるのである。

 急がば回れで、家のお手伝いをさせた方が、勉強もできるようになる。もちろん「お手伝い」は、勉強をできるようにするための手段ではない。勉強ができるようになるのは、副産物にすぎない。「お手伝い」の最大のメリットは、みんなのための仕事をみんなで分担してやるという感覚を育てることである。そういう感覚が人格を形成し、一人前の社会人を育てるのに役立つのである。

 このごろの教育の乱れの背後には、意外にも「お手伝い」の軽視に見られる日常生活の軽視(食生活も含めて)が関係しているのである。

 

ジェンダー過敏症(平成12年11月号)

 

 いまフェミニストを中心に「ジェンダーフリー教育」が推進されている。

 

 ジェンダーフリーの教育は、「ジェンダー・センシティブ」な人間を作り出すのが目的である。「ジェンダー・センシティブ」とは、ジェンダーの違いに敏感なという意味である。敏感な心で、あらゆるジェンダー区別を探り出すことを「ジェンダー・チェック」と言うが、そのチェックによって男女区別をなくしていこうという発想である。

 

 「ジェンダー・センシティブ」という発想でチェックを進めるとどういうことになるか、具体例をお目にかけよう。

 

 「学校をジェンダーフリーにするために」、以下のことをチェックするように提案されている。

 出勤簿「男女別のインデックスがついていないか」

 児童名簿「男女混合か」

 保険関係の書類「名簿は男女混合か、保険カードは男女色分けになっていないか」

 児童ゴム印「色別になっていないか」

 指導要録・住所録「保護者欄に男親だけ書いてないか」

 就学時名簿「男女別になっていないか」

 遠足、社会見学などの出欠確認表「男女別に集計していないか」

 体操服「男女別の形か」(ブルマーや短パンはやめて、ハーフパンツに統一する)

 上履き「色別になっていないか」(同じ色にする)

 整列順「男女別になっていないか」(男女混合、背の順にする)

 ロッカー「上の段が男、下の段が女になっていないか」(男女混合名簿順にする)

 靴箱「上の段が男、下の段が女になっていないか」(男女混合、背の順などにする)

 教材「男女2色の色分けになっていないか」(一色にするか、何色も用意する)

 業者テスト「出題問題に登場する男女比は偏っていないか」(男女が同じ比率で登場するものを選ぶ)

 運動会の徒競走「男女別になっていないか」(男女混合タイム順などにする)

 

 こういうチェックをして、男女をまぜこぜにせよと主張しているのがジェンダーフリーである。

 

 これを見て私は、秘密警察のブラックリストや検閲を連想した。これだけきめ細かにチェックして、あるイデオロギーを強制するのは、それこそ全体主義ではないか。

 

 これは「センシティブ」(敏感)というより「過敏」なイデオロギー支配と言うべき、恐ろしい発想である。細やかに、細大漏らさずチェックがなされる。これでは子どもたちの自主性は窒息させられ、男の子は確実に去勢されていく。

 

 男女の違いは、子どもたちのアイデンティティー成立にとっても大切な働きをしている。そうでなくても、最近では男性教師に接する機会が一度もないまま小学校を終える子どももいるほどに女性教師の割合が増えているのである。女性教師が八割という数字は異常である。それを誰も問題にしようとしない。日本の教育は異常だらけである。勇気をもって本当のことを言う人が一人でも増えていかないと、日本の教育は崩壊してしまう。

 

 

親離れ・子離れ(平成12年10月号)

 夏のあいだは長野県の軽井沢で過ごしているので、地元の「信濃毎日新聞」も読んでいる。八月三一日付の「くらし・家庭」欄に、「私の声」の投稿者や読者のつどい「今、子育てを考える」が長野市で開かれたという記事が出ていた。

 

 そこに「私は子育てに失敗した」という人の話が紹介されている。こうである。

 

 「小さいころから『男の子は自立させなくては』と考え、突き放した育て方をした。中学になって不登校になったが、三歳までに親がいかにたくさん子どもに語りかけるかが大切だったと思う。そうすれば親子の信頼関係が築けた」

 

 ここに述べられているのは、典型的な「自立神話」の犠牲者の、痛恨の反省である。フェミニズムの自立神話は、女性に対するプレッシャーになっているばかりでなく、子どもに対する「早すぎる自立の強制」となって、子どもの心に不当な圧迫をかけている。幼児から見たら、「自立」を促す母親の「突き放し」は、母からの愛情拒絶の信号と受けとられかねない。

 

 この母親は、子どもが不登校になった原因の一端を「三歳までの語りかけの不足」に見ている。これはまったく正しい反省である。

 

 このごろとくに「親離れ・子離れ」という言葉がはやり、そういう題名の本も出されている。そういう風潮の中にあって、子の自立は早いほどよいと誤解する親が増えているのである。それに対して、この母親の反省は、「自立神話」に毒されている多くの母親たちに警告を発している貴重な証言である。

 

 ところが、この素直な反省を素直に受けとめない人たちがいる。たとえば、「誰にとっての失敗なのだろうか」という疑問が出されたそうである。「親の見方では『失敗』になるかもしれないが、あまり使いたくない言葉」「子育てに無駄な時間なんてない」という声があがったそうである。

 

 どうして素直な反省に対して、こういう屁理屈を言わなければならないのか。ここには「自立神話」からくる、「失敗」を認めたくない心理が働いている。

 

 また「愛情を注ぐ」ことは大切だと認めながら、しかし愛情は「家族がどういう生き方を見せるのか、という形でしか示せない」という意見も出たそうである。

 

 しかし、愛情は親子が向かい合い、暖かいコミュニケーションを通じて感じられるものであり、背中を見せて「生き方を見せる」だけでは伝わらないものである。

 

 そういう言い方は、愛情を与える心も時間もない人たちの言い訳でしかない。その思想によって、今までどれだけの子どもたちが愛情不足の状態に放置されたことか。

 

 この会のような「つどい」が日本中で持たれ、間違ったイデオロギーによる育児論がマインド・コントロールまがいに、まき散らされている。

 

 そこでは、素直な失敗の反省が生かされないどころか、なにか間違った反省、すべきでない反省であるかのように扱われ、捨てられてしまう。これは一種の言論統制、いや思想統制である。

 

 

アリは害虫?(平成12年9月号)

 昨夏『朝日新聞』の生活面に「害虫を退治する方法」という特集が載り、ダニやゴキブリとともに、アリの退治方法が書かれていた。

 

 専門家が勧める方法とは、お酒を飲むおチョコなどに砂糖を入れておき、アリがむらがったところに熱湯をかけるという方法である。

 

 「なんという残酷な!」と私は絶句してしまった。早速、編集部宛に抗議の手紙を送ったが、なんの返答もなかった。

 

 このごろでは、庭のアリの巣ごと全滅させるために、アリの巣に薬を注入する方法というのがテレビのコマーシャルで流されている。恐ろしいことを考えるものである。

 

 そこまでしなければならないほどにアリは害を与えているのだろうか。衛生上悪いとか、伝染病を運ぶとか、そんなことはまずないはずである。

 

 私たちが子どものころは、アリは友達みたいなもので、庭のどこにもいて、「可愛い」生き物という感じであった。庭のアリの行列を飽きずに眺めていたものである。

 

 私の子どもが幼かったころでも、「アリさんとアリさんがごっつんこ、あっち向いてちょんちょん、こっち向いてちょんちょん」という童謡を唱っていた。

 

 こうした親しみやすい昆虫が、どうして「害虫」と認定されるようになったのか。

 

 若い女性を中心に、アリが気持ち悪いという感覚が広まっているのである。高層住宅で育つと、アリを見たこともなく過ごすのだろう。戸建ての家に住むようになると、アリが家の中を歩き回るのが「気持ち悪い」と感じ、ましてやアリが行列を作ってしまうと、もうパニックになる。なんとしても「除去」しなければと思ってしまう。そこで「退治する方法」を求めることになる。

 

 地面と親しんだ経験のないまま大人になってしまう。土にふれるといっても公園の砂場といった人工的な土しか知らないで、アリだのバッタだのという普通にいる昆虫や生物のいる地面や原っぱを知らない。だから、虫に対する感覚的な拒否反応しか出てこないのだろう。

 

 しかし、いくらアリが「気持ち悪い」といっても、殺してしまうというのは、見ている子どもの情操教育のためにも、最悪の方法である。

 

 アリというものは、世界中どこでも歩きまわって餌を探している。当然、家の中にも入ってきて歩いている。しかし餌がなければ、「ない」と報告するので、それ以上多く入ってくることはない。家の中がいつもきれいで、砂糖とかパンのくずが落ちているという状態でなければ、アリが必要以上に多くうろうろすることはない。

 

 そういうことを教えてやれば済むことなのに、いきなり熱湯をかけて全滅させる方法を教えるとは、どこが「専門家」なのであろうか。それでは害虫対策の専門家ではなくて、「殺しの専門家」と言うべきであろう。

 

 本当に命を大切にする教育が必要だというのなら、アリを殺すという発想だけはやめにしてほしいものである。

 

 

サアサア言葉(平成12年8月号)

 電車に乗ってウトウトしていると、けたたましい女性たちのオシャベリの声で目を覚まされた。しかしまだ目を開けないで聞いていると、「それでサア、なになにでサア」「〜ジャーン」という話し方をしている。いま流行の「サアサア言葉」「ジャンジャン言葉」である。おまけに「語尾上げ」まで入っている。てっきり若い女の子の一団が話しているのかと思った。

 

 目を開けて見ると、なんと四〇代の(正確にはわからない、女性は「作って」いるから)、どう見ても小中学生くらいの子どものある「オバサン」たちである。それが「〜でサア」「〜ジャン」という語尾を使っている。若い子の真似をすると若く見てもらえるとでも思っているのであろうか。しかし「〜でサア」は下品な感じだし、「〜ジャン」は若いどころか幼稚な感じがする。

 

 ついこの間までは、女性は「〜ネ」とか「〜ヨ」という優しい感じの語尾をつけたものである。しかし今どきの女性たちは、「ネ」とか「ヨ」という「女らしい」語尾は、「男の美的感覚に縛られた従属した女性の印だから、恥ずかしくて使えない」と感ずるようである。

 

 「女らしい」とか「おしとやか」が敵視される世の中である。「女性だけに要求する」ことは「差別だ」と攻撃されるので、「男女共通語」に誰も文句を言わない。

 

 それどころか、「ジェンダー・チェック」といって、男女を区別することさえチェックされる世の中である。「区別は差別なり」すなわち「区別そのものが悪い」というのが、「男女差別撤廃条約」の認識である。それを錦の御旗にして、「男らしさ」「女らしさ」を「撤廃」させようとやっきになっている人たちがいる。

 

 しかし「女らしい」とか「おしとやか」というのは、男性が押しつけた価値観であろうか。昔の女性というのは男性から命令されて従属していただけの、そんな主体性のない、いじけた存在だったのか。それは違う。フェミニストたちの研究によっても、昔の女性たちは判断力も行動力もあり、かなり自立もしていたのであり、男の言いなりになっていた哀れな存在ではなかった。

 

 当然、美意識の面でも、独自の見識を持っていた。独特の女性文化を創りだしていたのであり、独特の美意識も持っていた。「女らしさ」や「おしとやか」というのは、なにも男性が押しつけたものでも、従属を表わすものでもない。独自の文化なのである。もちろんそこに「男性の目」も働いていたのであるから、女性的な美しさという感覚は、男女が協力し合って作り出した貴重な日本人の美意識なのである。

 

 そういう文化を捨てて、女性ががさつになったり下品になることが女性解放、男女平等だと思うのは、大きな勘違いというものである。

 

 このごろは、いままでの文化や伝統を壊して、新しい流行を真似すればカッコイイという感覚になっている。そういう風潮に流されることなく、日本女性は日本女性らしい美しさを大切にしてほしいと思う。

 

家庭を破壊する家庭面(平成12年7月号)

 いま若い母親の中に、「子どもが可愛いくない」とか「子どもが分からない」「どう育ててよいか分からない」と訴える者が急増している。女子学生の中にも、「もし母親になっても、子どもが育てられるか自信がありません」と言う者が増えている。女性の中にある自然な母性感覚が急速に失われているかのように感じられる。

 

 また子どもを立派に育てることが次代の日本を作ることだという使命感もなくなっている。子育てが人間としての生きがいでもなくなり、子どもを立派に育てることは誇りではなくなりつつある。

 

 母性本能も消えてしまい、母性を持っているという誇りもなくなれば、子育ては苦痛以外のなにものでもなくなるだろう。そんな面倒なことは他人(専門家)に任せて、自分は働きに出る方が楽である。

 

 それについて、各新聞の家庭欄を占領したフェミニスト記者たちは、母性を修復する方法を考えるのではなく、「母性は本能でない」「母性など持たなくてもいい」「母性愛神話が母親を圧迫して虐待に走らせるのだ」と日々宣伝している。

 

 最近、ある保守系をもって任ずる新聞の「生活」面に、「母性愛神話」説(母性愛否定論)を繰り返している有名な女性心理学者の著書と訳書を一面全部を使って紹介していた。首脳陣に指摘したところ、気がつかないでいたらしい。「わが社の考えとは違います」と驚いていた。フェミニスト女性記者がゲリラのように記事を出してしまったらしい。

 

 いまほとんど全ての新聞の家庭面がフェミニストたちに占領されている。その紙面を通じて毎日のように、専業主婦は非生産的だ、子育てはストレスのもとだから保育所に預けて働く方がいいと宣伝し、家庭が牢屋だという感覚へと洗脳するために紙面を作っているかのようである。各新聞の家庭欄・生活欄は、まるで家族破壊に血道をあげているという印象を受ける。家庭欄が家庭を破壊するような記事ばかりを載せるのは、どう見ても異常だと言わざるをえない。

 

 国の道徳水準の源は家族である。というのは、道徳は理屈ではなく、挨拶、立ち居振る舞い、長幼の順、規則正しい生活習慣といった、幼児から自然に身に付いた感覚が基礎になっているからである。そうした良い感覚を作ることは、生活をともにしている家族にしかできない大切な仕事である。

 

 日本が世界に誇ってきた、治安の良さ、礼儀正しく親切な国民性、誠実な心は、じつは家族という基盤がしっかりしていて、初めて維持していくことができるのである。

 

 その大切な家族を崩壊させようというフェミニズムが、今ますます勢いを増しつつある。彼女(彼)らは、夫婦別姓にせよ、家族単位をやめて個人単位にせよ、介護を社会化して家族介護への現金支給をなくせと、あの手この手で家族単位を否定しようとやっきになっている。

 

 家族の絆を断ち切るような言説ばかりが目立つこのごろである。しかし子どもを育てるという観点からは、個人単位説が誤りであることは明白である。家族の意味について、このへんでしっかりした理論を確立しなければならない。

 

 

五千万円恐喝少年の心(平成12年6月号)   

 中学生が五千万円も恐喝したという事実には驚かされた。それだけの多額の金額になるまで見過ごされていたという点があまりにも異常である。しかも周囲の大人が感づいていたにもかかわらず、防げなかったということに、家庭や社会の機能が低下していることを思わずにはいられない。

 

 被害者のがわに立って考えると、父の不在という事実が重く感じられる。父の果断な決断や行動力がないのを補おうとして、母親は学校や警察に相談した。この場合、学校や警察が父性の役目をきちんと果たしていたなら、いじめの被害はもっと小さくて済んだだろう。父性の役目をしたのは、少年が暴力をふるわれて怪我をして入院していたときに、一緒に入院していた男性であった。この男性が少年の被害に気づき、加害少年を一喝して追い払い、被害を聞き出して一覧表に書かせ、警察に話させた。

 

 学校も警察も、少年が話してくれない、被害届けを出してくれないので、手の打ちようがなかったと言っているが、あまりにも無能だと言わざるをえない。被害少年は必ず仕返しを恐れているので、「頼りになる」と信頼しなければ打ち明けないものである。信頼を得るためにどんな努力をしたのだろうか。

 

 つぎに、加害者の側に目を転ずるなら、父性も母性も問題があったと言わざるをえない。父親は「厳しかった」というが、その厳しさとは「木刀をもって追いかけまわし、玄関でひどく殴った」という厳しさであった。そういう恐怖を与える厳しさでは、子どもの心を硬化させ悪化させるだけである。

 

 また父親は「子どものため、家族のために働いて、お金を稼ぐのが家族の幸せにつながると考えてきた」と語っている。この拝金主義が、子どもの金銭へのこだわりを生んだのかもしれない。

 

 他方、母親は少年のネコが車にはねられて死んだとき、少年が「お前はいなきやならないときにいない。なんで今ごろ帰ってくるんだ」となじったときに、「そんなことを言われたって、お母さん、仕事だったんだから」と答えた。「仕事」という錦の御旗を口実にされることが、子どもにとってはどんなに腹立たしいかということが分かっていない。子どもから見たら、母親を「仕事」に取られたようなものである。母親は子どもと心を通わせるべきときに、子どもを突き放したようなものである。

 

 こうしてこの少年は金を脅し取っては、遊興に使うという日々を過ごすようになった。「お金」と「仕事」が少年の心を荒れさせたとも言える。父親は「お金」のために働き、母親は「仕事」のために働く。その谷間で子どもは寂しい心で孤独の日々を送る。これはいま日本中の家族の中で起きていることである。ということは、程度の差はあれ、この加害少年の予備軍が山ほどいるということを意味している。

 

 この事件の背後には、日本人の拝金主義とフェミニズムの「働け」イデオロギーとが、色濃く影を落としていると言える。父親の働きすぎと、母親の「働け」イデオロギーを反省し、もっと子どもの心と向き合うことを大切にしなければならない。でないと、この種の事件は決して後を絶たないだろう。

 

 

のびのび育てる?(平成12年5月号)

 私は土曜・日曜には、なるべくなら電車に乗りたくない。なぜかというと、土日や祭日には家族づれが多い。日本の社会はなぜか家族づれが一番マナーが悪い。とくに小さい子どもをつれている家族が最悪である。

 

 子どもが電車の中で騒いだり、走り回って人にぶつかっても、注意する親は少ない。知らん顔である。私はそういう場合に他人の子であろうが、どんどん注意することにしている。

 ところが、困ったことに、注意をして丸くおさまったことがない。子どもは注意してもきかないし、親も恐縮して子どもに注意するでもないし、しかたなく声を大きくすると、かえって親がくってかかる場合さえある。

 

 「子どもに注意しないでくれ」とか、ひどいのになると「お前が注意することがうるさい」などと、さかねじをくらわされる。どうやら彼らは、本気で「子どもに注意することは悪いこと」と思っているらしいことに気づいた。子どもの行動を規制したり、止めたりすることは、子どもにとって悪いことと信じきっているのである。

 

 どうしてそんな信念が生まれたのだろうかと不思議に思っていたら、ある時、「誰々先生の本に、子どもを叱ってはいけないと書いてある」、「あれはいけない、これはやめなさいと言うのは、子どもを萎縮させるのでよくないと書いてある」と反撃された。道理で、子どもに注意しない親が自信をもち、注意する者にくってかかるはずである。

 

 うかつにも知らなかったが、どうもサヨクとか人権派の教育論には、子どもをのびのび育てるためには、子どもを規制したり、叱ってはいけないと書かれているらしい。

 

 そのせいもあるのか、このごろ、子どもに「嘘を言ってはいけない」といつも注意をする親は、日本ではたったの三割しかいないそうである。他の国を見ると、アメリカであろうがイギリスであろうが、中国や韓国であろうが、どこでも「子どもに嘘を言ってはいけない」といつも言っている親は七〜八割である。

 

 それで納得がいったが、世界一治安のいいはずの日本で、いまは鍵をかけないで自転車を置いておくと、誰かが勝手に乗っていってしまう。喫茶店などで入り口に傘を置いてちょっと油断しているとなくなっている。大学の寮で共用の冷蔵庫に自分のお菓子を入れておくと、なくなってしまう。ひどい例だと、寮の廊下で電気炊飯器でご飯をたいていて、炊けたころだなと思って行ってみると、中のご飯だけがなくなっていたという。

 

 こういう子どもを育てた親の世代が、いま警察や官僚の世界で腐敗堕落した姿をさらしているのではないのか。親子ともども腐っているとしか言いようがない。というより、日本中が腐ってきたと言うべきか。

 

 「嘘はいけない」「人のものを取ってはいけない」「人に迷惑をかけてはいけない」などという躾は、いつも一緒にいる家庭でしかできない躾である。それなのに、「注意してはいけない」「叱ってはいけない」という教育論や育児論がはびこっては、この国のモラルは落ちていくばかりである。このままでは、日本は遠からずモラル三流国となるだろう。

 

 

母性と自己実現(平成12年4月号)

 このところ、親による幼児虐待が頻発している。とくに母親による虐待が多い。わが子が可愛くないという母親が増えている。

 

 子どもが邪魔だとか、憎らしくなるという母親に、「どうして憎らしくなるの?」と聞いてみると、二つのタイプの答えが返ってくる。

 

 一つは「わがまま」タイプ。これはたとえば、「小さい子がいると、自分の好きなことが何もできない」「誰とも会えない」「半径20メートル以内の生活に耐えられない」などと言う。

 

 このタイプの母親は、子どもが生まれるまでは好き勝手に遊べたのに、赤ちゃんができたら「こんなに大変とは思わなかった」と言う。「自由を制限する赤ちゃんがだんだん憎らしくなってくる」とも言う。

 

 このタイプを私は「人格未熟型」とも名づけている。大人に必要な責任や義務というものを知らない人たちである。このタイプの女性でも、赤ちゃんが生まれたら「可愛い!」と思えて、育児がそんなに苦痛でなくなる場合はいいが、可愛く感じられない場合には虐待などの悲劇につながることがある。

 

 もう一つのタイプは「自己実現型」である。「自分を豊かにしたい」「向上したい」という欲求を持っている、意欲的な努力型の人たちである。この人たちは「わがまま」タイプよりはましであるが、困ったケースも出てくる。

 

 それは、赤ちゃんを育てることが自分の自己実現と対立すると感じる人たちである。たとえば、自己実現とは仕事を通じてなされると考えている人は、赤ちゃんが生まれたときに退職して専業主婦になったことを後悔したり、「社会から取り残される」と思ってイライラしたりする。たとえ仕事をやめなかった人でも、子どもが仕事の邪魔になるとイライラする人もいる。

 

 こういう人たちは、赤ちゃんを育てるという営みは、自己実現の営みとは関係ないと思いこんでいるらしい。でもそういう考え方は、自己実現というものを狭く考えすぎてはいないだろうか。

 

 自分を豊かにするとか、向上させるということは、何をしていても、何を通じてもできるはずである。とくに子どもを育てるという営みほどに、感動を与えてくれるもの、楽しく面白いもの、いろいろと学ばせてくれるものはないと思う。

 

 こんなにすばらしいものを捨てておいて、その他のところで自己実現をやろうと思うのは、あまりにもったいない、というものである。自己実現は、子どもを育てながらでも、というより子どもを育てる中でこそ、立派になしとげられていくことができる。子どもが自己実現の邪魔だという感覚でいると、本当の自己実現をするための障害になってしまうと思う。子育てという、自己実現のためのすばらしい機会を逸している女性が多いのは、もったいない事ではないであろうか。

 

 子どもが小さいときには子どもに集中する、そのあとで別のことに集中する、という柔軟な形で、母親が自己実現を考えてくれたら、子どもたちはどれだけ幸せになれることだろうか。

 

 

英語を公用語に?(平成12年3月号)

 小渕恵三首相の私的諮問機関「21世紀日本の構想」懇談会(座長・河合隼雄氏)が1月18日に最終報告書を首相に提出した。いろいろと問題のある報告書だが、とくに教育に関して看過できない重大な問題を含んでいる。

 

 中でも驚いたのが、英語を第二公用語にせよという提案である。その目的は「国際対話能力」(グローバル・リテラシー)を確立するためだという。その手始めに日本人全員に実用英語を習得させるのだそうだ。

 

 世界の共通語への道を、英語が断然トップで走っていることは事実である。しかし、そのような環境の中で、非英語国民がそれぞれにどのような対応をすべきかは、そう簡単に結論できる問題ではない。その事態に全面的に順応していくか、それともできるかぎり抵抗した方がいいのかは、難しい問題である。

 

 実用英語という言葉自身が曖昧な言葉で、どの程度の英語力を考えているのか分からないが、たとえば取引など仕事に必要な英語とか、他国に住んでいる日本人がその国の人と付き合うときに必要な語学力、また観光に行くときに必要な英語などが考えられる。そういう程度の英語なら、とくに国民全員に習得させなくても、必要に応じて習う程度で事は済む。

 

 国際対話能力、とくに討論に必要な英語となると、これはよほどの語学の天才か、よほど長く英米に住んでいる人でないと、原理的に不可能と言える。とくに英米の人と論争するなどということは、英語では不可能であり、下手をすれば相手の価値観を押しつけられるか、相手に勝ったという優越感を与えるだけである。とくに国益のかかった論争は、自国語で(ということは優秀な通訳を通じて)やるべきである。あるいは優秀な外交官などの専門家に任せるのが最良の策である。対話能力などというものは、国民全員が持つ必要など、さらさらないのである。

 

 それよりもはるかに大切なのは、日本人が日本の文化に理解を深め、愛着を持ち、それを守っていこうという気持ちを起こさせるような教育を考えることではなかろうか。その問題をぬきにして英語力ばかり高めても、欧米の価値観を日本に流入させるのに力を貸す結果にしかならない。

 

 それにつけても思い出すのは、かつて教え子の英文科の学生が、こういう体験談を話してくれたことである。彼女はアメリカ人を案内していたときに、たくさんの手を持った観音様を前に「どうしてたくさんの手を持っているのか?」と質問された。彼女は「千手観音」という名前はもちろん、なぜたくさんの手を持っているかという理由も知らなかった。しかし「知らない」と答えるのも悔しいので、「たくさん物をもらえるためだ」と答えたという。そのアメリカ人が「日本人は欲張りな神様を信仰しているものだ」と言ったかどうかは聞きそびれた。

 

 いくら英語力をつけても、決して「国際対話力」をつけたことにならないということが、このエピソードから理解されよう。まず日本文化を徹底的に学ばせる、日本人特有の礼儀の感覚と日本語をきちんと身につけさせる。そういう日本人としての基本を教えることが、国際対話力の基礎になければならない。それなしには、いくら対話をしても、軽蔑される結果になりかねない。対話をしてみたら尊敬されるようになった、という国民に教育することの方が先決問題である。

 

 

技芸の心(平成12年2月号)

 いま放映されているNHKの朝の連続テレビドラマ「あすか」は、近頃のテレビでは滅多にお目にかかれない、すがすがしいドラマである。

 

 主人公の明日香は京都の菓子職人の娘として生まれ、父の技の見事さに感動して、菓子職人の道にとびこむという筋である。厳父慈母のもと、すくすくと成長していく主人公の姿は、見ていて気持ちがいい。女人禁制の職場に女性が入りこんでいくという今はやりの設定であるが、それがいやみなく、気負いもなく、明るく自然に描かれている。

 

 しかし、じつはこうした職人の技に対する尊敬心は、いま急速に失われている。たとえば、喜入克氏の『高校が崩壊する』(草思社)によれば、少し前の高校生は、進学校と言われる高校以外の生徒も、けっこう生き生きとしていて、自動車の好きな生徒は自動車整備工になろう、料理の好きな生徒は料理人になろう、ファッションの好きな生徒は美容師やデザイナーになろうと、それぞれに張り切っていた。しかし今の高校生は、どんなに勉強が嫌いで不得意な生徒も、すべて大学に進学して、サラリーマンになりたいと思っているそうである。実業を嫌い、手仕事を厭う風潮はそこまで行っている。

 

 彼らの感覚は、スーツを着て机の上でする仕事は高級で、実際に手を汚し服を汚す仕事は低級だという感覚になっている。職人の技とか、職人芸というものに対する尊敬心が、いま大人から子どもまで、急速に失われていきつつある。ドラマ「あすか」は、そうした趨勢に対して、精一杯の抵抗を示しているとも言える。

 

 このような、技や芸を低く見るという傾向の背後には、人間の生活感覚の希薄化という問題があるように思われる。

 

 このごろの家庭では、母親の決まり言葉が「お手伝いはいいから、勉強しなさい」である。子どもには掃除も食事の支度や後片づけも、洗濯も、何もやらせない。ただ机に向かって勉強していれば、親は安心している。こうして育った子どもたちは、学校で掃除を絶対にしない生徒になっていく。とくに手を汚す「拭き掃除」をいやがる生徒が圧倒的に多い。

 

 実際の生活体験が不足しているので、自分の手を使い体を使ってする仕事を嫌ったり、低く見るようになる。ひいては、手の技、舌の感覚、目の確かさ、肌ざわりといった、技芸を支える人間の基本的な感覚が、希薄になり狂ってしまうのである。

 

 さらに悪いことには、情報がパソコンを通じて簡単に手に入るようになっている。部屋の中にいながらにして、知識が手に入る。今までなら、外に出て、足で歩き、手で触って知り得たことが、バーチャルリアリティーとかで、簡単に手に入る(かのように錯覚される)。

 

 子どもたちだけでなく、学校の先生までが、そうした感覚になってしまっている。ある小学校の若い先生は、クラスで飼っていた兎が子どもを産んだが、どうしてよいか分からないといって、校庭を掘って埋めてしまった。感覚的な次元が狂っているとしか言いようのない事件である。 

 

 現実感覚、生活感覚が希薄になると、職人芸を重んずる心もなくなっていく。職人の技は、最高度の精密機械を作るさいにも、威力を発揮するそうである。とぎすまされた目や手の勘に勝る機械はまだ作られていない。そういう伝統を絶やさないためには、技芸に対する国民的な尊敬心を育て守っていく以外にないであろう。

 

 

人格未熟(平成12年1月号)

 暗澹たる事件が連発する。通り魔事件が起きたり、実母が幼児を虐待して殺す事件が頻発しているし、今度は他人の2歳の子どもを絞め殺す母親まで現われた。

 

 東京都文京区音羽幼稚園で、若山春奈ちゃんが、兄の通う同じ幼稚園に子どもを通わせていた母親に殺された。誰もが一様に「何故?」と思う。

 

 逮捕された山田容疑者は殺害の動機について「春奈ちゃんの母親と心のぶつかりあいがあった。前から殺そうと思っていた」と供述しているという(『産経新聞』平成11年11月26日付)。はじめ両家は仲が良く、行き来していたが、それぞれの子どもが有名私立幼稚園に合格する合格しないの違いが出てきて、仲が悪くなったという。

 

 本当は両者のあいだに何があったかは分からないが、容疑者が相手を憎むようになったことは確かである。人間どうし、何かのはずみで憎み合うようになることは珍しくない。「殺してやりたいほど憎らしい」と思ったり、言ったりすることもある。しかし「殺したい」と思うことと、それを実際に実行することとの距離は大きいはずである。今までは大きかった。それがこのごろでは、距離が小さくなっている人たちが増えているところに問題がある。

 

 人間だから嫉妬もあろうし、憎しみもあろう。それがこうじて殺したくなるときもあろう。しかしだからといって、いきなり相手の最も大切な宝である子どもを殺してしまうというのは、たいへんな飛躍である。しかしそれが飛躍でない者が増えているのである。

 

 子どもたちのあいだでは、しばらく前から「キレる」という言葉が流行している。これは怒りや失望などで、正常な判断力を失ってしまう状態を指す言葉である。「キレて」しまうと、「殺したいと思う」ことと「実際に殺す」こととの距離がなくなってしまう。そうして教師を刺し殺してしまった例もある。このキレるという状態に、このごろでは、大人までが陥るらしい。子どもの場合は、瞬間的に殺しに至るが、大人の「キレ」は計画的に殺人を犯す。それも憎らしい相手を殺すのではなく、相手が一番大切にしているものを奪うという形をとる。

 

 「殺したいと思う」ことと「実際に殺す」こととの距離がなくなるのは、人格が未熟だからである。自分の感情をコントロールできないのである。このごろの幼児虐待も、この人格未熟型が増えている(拙著『母性崩壊』PHP研究所、を参照されたい)。子どもが自分の思いどおりに動かないと、子どもが憎らしくなってきたり、子どもに当たりちらしたりするのである。

 

 こういう未熟型の母親は、赤ちゃんがちょっと面倒をかけると「キレて」暴力をふるう。子どもが生まれると「どこにも行けない」「誰とも会えない」「なんにもできない」と不満を言う。わがままなだけで、我慢ということをそもそもできない人格になっているのである。

 

 戦後50年、我慢を教え、精神を鍛えることをおろそかにしてきたツケが、こういう形で回ってきているのである。ストレスを与えないことばかりを考えている教育を根本的に考え直さなければならないのではなかろうか。

 

 

家族の食卓(平成11年12月号)

 福井県の知人が、自分の田圃で取れたコシヒカリの新米を送ってくださった。コシヒカリは新潟が有名だが、しかし最初にコシヒカリを作りだしたのは福井県だそうである。あまりに美味いので、娘夫婦を呼んで、しばらくぶりに共に食卓を囲んだ。福井コシヒカリが家族の絆を再確認させてくれたようで、知人の好意がうれしく身にしみた。コシヒカリの半分は、娘に持っていかれてしまった。

 

 共に食事をするというのは、家族の原点であり、家族の絆のシンボルである。人類は古来、家族単位で食事をしてきたし、文明以前の人類もどうやら家族単位で食事をしていたらしい。乏しい食料を分けあって食べるというのが、家族の印なのである。家族がなくなったら、人類は人類でなくなってしまうし、人間の再生産も途絶えてしまうであろう。

 

 社会主義思想によると、人類が進歩するほど、食事も育児も社会化されるとのことだったが、しかしソ連、中国をはじめ社会主義国では、結局「社会化」方式は挫折してしまった。家族を大切にしない社会は、ダメになるのである。

 

 フェミニストは育児も介護も社会化せよと言っているが、それは社会主義失敗の教訓に学ばない逆行である。家庭育児や家族介護を大切にして、それを社会が支援するという方式を大切にしていかなければならない。食事も同じことで、フェミニストの中には、「近い将来、家庭で食事を作ることはなくなり、すべて産業化するだろう」と予測する人もいるが、それはよい家族を持たない人間の貧しい想像力の産物にすぎない。どんなに社会化の時代になろうが、また逆にどんなに個の時代になろうが、家族の絆が壊れることはありえないのである。

 

 私は若いころより早寝早起きで、家に帰るのも早く、よほどのことがないかぎり、夕食は家族そろって食べてきた。

 

 よく家族のコミュニケーションとか、親子の対話が大切だと言われるが、食事のとき以外に、父親と話す機会はそうないものである。食事のときに楽しい会話ができると、子どもたちは親と一緒に食事をするのが、楽しいとか、当たり前だと感ずるようになる。

 

 明るい楽しい家族は、食事の場が楽しく明るいものである。しかしうまくいっていない家族の食事は、皆がそろっていても、いやそろっているほど、暗く不愉快なものである。よく「父親は家族とともに食事を」と言われるが、食事をするときに、「説教するいい機会だ」とばかりに小言ばかり言っていては、食事がまずいばかりでなく、「家族で食卓を囲む」こと自体がうとましくなってしまい、子どもは一人で食べるようになる。いわゆる「個食」である。「個食」は家族がバラバラのホテル家族の象徴である。

 

 父親がいないと、どうしても子どもが別々に一人で食べるようになるし、母親も皆で一緒にとは言わなくなるようである。テレビでも、勝手に一人一人食べている姿を映していたし、子どもに食事の絵を描かせると、父親がいないとか、一人で食べている姿を描く子どもが多くなっている。父親の役割というものは、自分が意識している以上に大きいのである。父親がいると、自然に家族が集まってくるような、そういう父親になってほしいものである。

 

 

学力崩壊(平成11年11月号)

 外国に住んでびっくりするのが、計算を間違える者の多いことである。あるヨーロッパの先進国で2年間すごしたときに、驚いたのが、郵便局の局員が必ず計算を間違えることであった。それもたいてい正しい額より多く言う。いい加減だけれども、自分が損をするようには間違えない。おそらく、少なく間違えると自分で弁償しなければならないから、少し多めに言うのであろう。日本では、お釣りを間違えられることは滅多にない。

 

 ところが、この誇ってもよい状態が、このごろでは怪しくなっているのである。日本の子どもたちの学力低下は目に余るものがある。このまま行くと、10年たったら日本の知的水準は三流国になり、さらに10年たつと国力も三流国になりかねない。

 

 経済活動も技術水準も行政も軍事も、すべて国民の知的水準を基礎にしている。この場合の「知的」の意味は、なにも高い教養をもって高度な判断力ができるといった、たいそうなことではなく、普通の仕事ができるという当たり前の能力のことである。その当たり前のことができない若者が、やたらとふえている。礼儀も知らないが、仕事もできない。困った国になったものである。

 

 大学生でも、知的緊張がない、知的努力をしない。課題ができなくても、教師が教えてくれると思っている。もし、教えてくれなくても、そのままで、困ったとも思わない。

 

 小学校のころから、分からないと先生が特別に教えてくれた。熱心な先生は、居残り勉強に付き合ってくれて、特別に教えてくれた。大学生になっても、そうしてくれると心のどこかで期待しているらしい。彼らは分からないのは先生の責任であると思っている。

 

 その上、受験戦争などというものはなくなってしまった。今は高校や大学の方で、あの手この手で誘う時代である。高望みしなければ、そこそこの大学には入れる。勉強などという、しんどいことをする必要がないのである。

 

 その上、学歴社会に対する批判がちまたにあふれていて、「よい大学」をめざすこと自体が「悪」であるかのような雰囲気がある。「東大出のエリート」が汚職をして罪に問われたりする事件が頻発する。勉強に対する動機づけの乏しい社会になっているのである。大学生は、教科書にすると言わなければ本を買わないし、宿題にしなければ本を読まない。「参考書」として挙げても、買う者はごくわずかである。

 

 こうした学力低下は、近い将来の国力低下につながるゆゆしき問題であるのに、なんの対策も立てられていない。それどころか、学力を積極的に低下させるという政策を文部省が打ち出しているのだから、手の打ちようがないのである。

 

 すなわち学級崩壊の原因は「勉強が分からないからだ」「そのためのストレスが多いからだ」という一部の教育評論家の見当外れの診断を鵜呑みにして、「ゆとり」「ゆとり」と言って、教育程度を下げればよいと考えたのが、間違いのもとなのである。

 

 学校教育というのは、全員を集めて、一定の水準にまで学力(および道徳力)をもっていくことを目的にしている。それが崩れそうになっているのは、そういう集団生活に子どもたちの精神力がついていけなくなっているからである。そういう精神力はいらないという考え方でいくのか、必要だというのなら、どうしたらよいのかを考えなければならない時にきているのではなかろうか。

 

 

いらんお節介(平成11年10月月号)

 雨の降る日に電車に乗るのは気が重い。濡れた傘をくっつけられるのはいやなものである。たいていの人は、傘を他人にふれないように気を使っている。

 

 座っている人が、どのように傘を持っているかというと、男性は楽である。開いた両足のあいだに持てばよいから。女性は足を開いて、その間に置くわけにいかないから不利である。その点、ビニールの袋を用意しておけば、横に立てていても、隣の人に触れても安心である。

 

 困るのは、こちらが座っているときに、前に立った人のマナーが悪いときである。新聞や雑誌を読んでいる人の場合が、いちばん始末に悪い。そういう人は必ず片方の腕でつり輪をつかみ、もう片方の腕に傘をかけてブラブラさせながら、その手で本を持って読んでいる。

 

 本人はうまく処理をしたつもりかもしれないが、前にいる者にとっては、はなはだ迷惑である。傘の先がブラブラして、こちらの膝のあたりに触れる。すると水がついて冷たくなってくる。不愉快この上ない。

 

 このブラブラを、このあいだ、満員の通勤電車の中でやられた。若い男である。私は思いあまって注意した。「きみ、きみ、傘の持ち方が反対だよ」。彼はけげんな顔をしている。「傘の先をこちらに向けないで、自分の方に向けなさい」。それでも彼は知らんぷりをしているので、私はブラブラしている彼の傘をはずして、逆の向きに掛けてやった。彼は睨みつけている。今にも殴りつけそうな勢いであったが、さすがに満員電車の中なので、彼の方が自制した。しかし数十分のあいだ、彼は私を睨みつけたままであった。

 

 私は電車の中で、よく注意する方である。以前に、やはり電車で座っているときに、前に立った娘さんが、しきりに咳をする。手も当てない。横に母親がいるのに、なんの注意もしない。そこで私は「人前で咳をするときは、手を当てるものだよ」と言った。その娘さんは、意外に素直らしく、「はい」とは言わなかったが、ちょっと恥ずかしい素振りを見せた。とくに反抗的でもない。

 

 そこでやめておけばよいのに、私は隣の母親に向かって、こう言ってしまった。「そのくらいのことは親がちゃんと教えておくものだよ」。するとその母親はキッと私を睨みつけた。そのまま三つぐらい先の駅で降りるまで、私を睨みつけていた。

 

 このごろ注意をすると睨みつけられることが多くなった。私の注意の仕方がストレートで、反感を買うということもあろう。しかし今までは、注意をしたために睨みつけられるという経験はまずなかった。大の大人だけでなく、少女が睨みつけるのである。

 

 これは全社会的に、「そんなことで注意する方が悪い」という価値観が浸透しているためだとしか考えられないのである。「いらんお節介だ」と口で言う勇気もないので、黙って睨みつけるのであろう。

 

 ちなみに、私は「いらんお節介だ」と言われたときには、こう言うことにしている。「「いらんお節介とは、私が君のために言っているのに、君の方はいらないというときに言う言葉だ。私は君のためなどに言っているのではない。日本を美しくするために言っているのだ」と。

 

 

ジベタリアン(平成11年9月号)

 道端でも電車の中でも、地べたにべったりと座る若者が大増殖している。ひどいのになると、駅のホームで女子中学生がミニスカートであぐらをかいて、車座になってタバコを吸っている。大人はまったく声をかけない。もっとも声をかけても、「自由じゃん」とか「楽だから」と言って、少しも動じない。もし、やめさせようとすれば、ブンなぐるか、けっとばさなければならない。私も本心はけっとばしたいが、まさか他人様の子どもをけっとばすわけにもいかない。

 

 一度、車座になって座ってタバコを吸っている一団に、「地べたに座るのは汚いなあ」と声をかけたら、「疲れているから」「楽だから」という答えがかえってきた。「それで電車の座席に座るんだろう」と言うと、「うるせーなー、座らなきゃいいんだろう」と声を荒げた。当方はそれ以上言う言葉がない。

 

 「立っていると疲れるから」というのは言い訳にすぎない。今の若者は肉体的に弱くなったからだというのは、間違った診断である。いくら疲れても、今までの日本人はめったに地べたには座らなかった。長い時間待つ必要がある場合には、新聞紙を敷くとか、何かを敷いて座ったものである。

 

 別の一団に「タバコはやめた方がいいよ」と声をかけたら、反抗的な態度で黙っている。再度声をかけると「やめられないんですよ」と言う。「やめる方法を教えてあげるよ」と言うと、急に態度がとげとげしくなって、きつい調子で「やめられないんですよ」と言う。そう言えば大人はあきらめて退散するという経験を積み重ねてきたのであろうか。

 

 平気で地べたに座る者には、精神の緊張感がない。「楽がいちばん」という価値観にしたがって、他の基準を捨てているのである。他の基準とは「美しいか美しくないか」「恥ずかしくないか」「その場にふさわしいか」など、つまりは他人の眼を気にするという生き方である。行き着くところは「自分だけ楽ならばよい」という生き方になる。「他人にどう思われてもよい」という生き方をつきつめていくと、精神の「張り」というものが失われてしまう。

 

 じつは、この地べたに座る、タバコを吸うという二つの現象は、青少年の人格が崩れていく二大兆候なのである。幼いころから、生活習慣を規律正しく維持して、折り目正しい秩序感覚を培ってきたものは、美的感覚も恥の感覚も育っているので、地べたに座ることには、かなりの抵抗があるものである。とくに日本人は、家の中と外の違いの感覚が強い。外にいても、地べたと座席の区別には鋭い感覚を持っていたはずである。地べたに座って汚れたズボンで座席に座る者などめったにいなかった。そういう日本人の感覚を捨てたのが、ジベタリアンである。

 

 ジベタリアンの姿は、大人が子どもの躾を放棄した結果である。とくに家庭における規則正しい生活習慣をつけてこなかった結果、「心の生活習慣病」ともいうべき状態になり、それがこうじて「だらしない精神状態」になったものである。子どもたちの精神に対するその悪影響は、はかり知れない。たかが一時の流行とたかをくくっているべきではなく、大人がそろって声をかけ、早くに撲滅しないといけない。

ゲンダイネットにも関連記事掲載)

 

 

幼児虐待(平成11年8月号)

 母によるわが子の虐待がいま異常に増えている。昨年10月から今年4月までに、実母の虐待によって死んだ子が11人もいる。5月には信じられないような事件が起きた。夫が出張に行った夜、母親が2歳の長男と4カ月の幼児を置いて家を出て、男友達と買い物などして、なんと翌々日の昼ごろに帰宅したところ、幼児は死んでいた。さらに6月18日には、30歳の母親が1カ月の女児を浴槽につけて殺している。

 

 これらの虐待死は、単純に殴る蹴るの結果はずみで死んでしまったというのではなく、そうすれば確実に死ぬと分かっているやり方で殺してしまう。たとえば靴下をかぶせ座布団で窒息させた例、包丁で刺し殺した例、浴槽に沈めて殺した例、これらは明らかに殺意が働いていたと言える。

 

 このように死に至る場合は衝撃的であるが、しかし「事件」として報道されるのはほんの氷山の一角であり、「事件」にならない虐待は相当な数になると思われる。そして身体的な虐待にまで至らなくても、子どもを可愛く思えなくてヒステリックに怒鳴ったり、暴言をあびせたり、いじわるをする母親の数は膨大な数に及ぶだろう。子どもを品物のように扱う場合もあり、たとえば赤ちゃんをコインロッカーに入れて買い物をしていた親が現われて世間を驚かせた。高温の車の中に幼児を放置してパチンコに熱中していて、子どもが脱水症状になって死んだ例もあった。

 

 これらの例を見ると、「母性が壊れている」としか言いようがない。壊れた母性によって育てられた子どもは、一方では心を病んでさまざまな精神病や神経症になるし、他方では攻撃的になって犯罪を犯す確率が非常に高くなる。しかも自分が母親になったときに子どもを可愛く思えなかったり虐待するケースも非常に多い。

 

 母性が壊れるという現象は、いったいどうしてこれほどまでに進んでしまったのだろうか。その最大の原因は、可愛がって育てられなかった世代が、いま母親になっているという事情がある。「手塩にかけて育てる」という言葉が死語になったころに育てられた世代である。彼女らの親の世代から「自由放任」の子育てが始まった。しかもその世代から「若者文化」が始まり、「大人にならなくてもよい」という風潮がはびこった。その子どもの世代は当然のように、大人になるつもりはない。大人になるつもりもないのに子どもができてしまっては、「子どもが邪魔」だと感ずるのは当然である。

 

 かてて加えて、このごろではフェミニストが「母としてよりも女として生きよ」と扇動する。あるテレビで子どもを虐待死させたコギャルママ10人にインタービューしていたが、10人が10人とも口をそろえて「母としてよりも女として生きたい」と言っていたのには驚いた。フェミニズムの害毒はここまで浸透しているのである。

 

 フェミニズムは母性本能を「母性神話」だといって否定し、母親は母性を持っていなくてもいいと言い、父親でも誰でも子どもを育てられると言っている。しかし今、母性不足の子どもたちが大量に心の病いに犯され、犯罪に走っている。母性不足で育った子どもが母親になると、また母性不足で子どもを育てる。まさに悪循環である。母性を否定する罪は大きい。

 

 

「指導するな」という指導(平成11年7月号)

 この連載の初回に私は「病気を治すには正しい診断が必要である。診断を間違えると、正しい治療はできない」と書いた。今の日本には間違った診断がはびこっている。それも影響力のある文部省の指導者や教育学者・評論家たちのあいだに強力に蔓延している。

 

 このあいだ、ある地方の教員総会で講演したあと、30歳の青年教師を名乗る人から手紙をもらった。私は「しつけ」の必要性、秩序感覚や権威の必要性について話したのだが、その先生は私の現場のとらえ方がまだまだ甘いと書いていた。

 

 私は「近いうちに地方でも学級崩壊が始まるだろう」と言ったが、彼は「いなかでも、すでにある」と書いている。もうひとつは「先生がおっしゃられた『権威はいけないもの』『教え導くことは悪いこと』というように考えている教師が、先生の想像を越えて多いことです」と。

 

 この先生は、教師が授業をする行為を「指導」と考えてきたが、教員研修会などで「指導」という言葉を使うと、指導者(教育学者や教育評論家)から「指導」ではなく「支援」と言いなさいと注意を受けるそうである。上司からも「そういう言い方は間違っている」と指摘される。今では文部省も、教師の仕事は「指導」ではなく「援助」だと考えていて、教師とは生徒を「指導する」のではなくて、「援助する」だけだと、教師に「指導」している。

 

 授業することが子どもへの援助だという考えの背後には、授業が上から教えこむ行為ではなく、生徒の自主的に学ぶ力を引き出し、自発的な学びの方向に向けて援助することだという理論があるのであろう。

 

 そういう意味の「援助」ならば、「指導」の中に必ず含まれているものであるし、また「指導」という要素のまったくない「援助」もありえない。百パーセント生徒の自主性にまかせて自由放任にしておいても、決して生徒の自主性は出てこない。なんらかの方向性を与えることは必要である。それを「指導」と呼ぼうが、「援助」と呼ぼうが、どうでもよいことである。そういう言葉のお遊びをして、「指導」と「援助」を対立するもののように理解し、「指導」だけを否定したから、学校崩壊がどんどん進んでしまったのである。文部省や教育関係者の診断と対策はまったく逆さまである。

 

 いま新聞などで学級崩壊を特集すると、必ず意見を聞かれる人[芹沢俊介氏]がいて、その人はこういう理屈を述べている。「議論を子どものしつけという問題に矮小化してはいけない」「おしゃべりをしたい子、教室から出たい子と、授業を受けたい子を、学級という場にどうまとめ、折り合いをつけるのか」を考えよ、と(朝日新聞、平成11年5月11日付)。

 

 授業を受けたくない子と受けたい子とを対等に扱い、折り合いをつけるなどということができるわけがない。そんな空論を、しつけという問題よりも大切にせよとでも言うのであろうか。しつけという問題は矮小な問題であろうか。しつけとは、敬語を教えるとか、礼の仕方を教えるとか、遅刻をしないように指導するというような矮小なことではなく、人格的な基礎を作ることであり、たいへん大きな問題、大切な問題である。そういう人格的な意味のしつけを怠ったから、学級崩壊がおきているのである。

 

 

保育所神話(平成11年6月号)

 4月の統一地方選挙の都知事選挙は多くの有力候補が立候補して盛り上がりを見せた。その経過や結果には、東京だけでなく日本中から注目が集まった。結果は石原慎太郎氏が当選したが、選挙戦を見ていて気がついたのは、石原氏と他の候補全員が対立するという項目がいくつもあったという点である。

 

 中で私が注目したのは、保育所に対する態度であった。有力と言われた他の候補者全員が政策として「保育所の拡充」を掲げ、「駅前保育所の増設」「24時間保育の実現」を唱えたのに対して、石原氏は保育所については何も言わなかった。

 

 「保育所の拡充」を掲げた他の候補者たちは、「保育所拡充」が善政であるという前提に立って、それを掲げれば女性の支持を得られると計算したのであろう。しかし「保育所拡充」は「自分の手で子どもを育てたい」と思っている女性の利益になどならないし、ましてや子どものためにはなっていないのである。「保育所拡充」はただ「女性は子どもが生まれても働き続けるべきだ」と考えている一部の女性の利益にしかならない政策なのである。

 

 女性が働くことにのみ価値を置く「働け」イデオロギーのとりこになった女性たちは、必死になって保育所を美化し、弁護している。いわく「保育所には複数の専門家がいる」「保育所では子どもの友達ができる」「躾をしてもらえる」等々。

 

 ところが実際に保育所で起きていることは、保母の手が回らない、目が行きとどかないために、弱肉強食(いじめ)になっていたり、シラミに集団感染していたり、母親を恋しがって泣いてばかりいる子がいたり、相当に無理が露呈している状態である。

 

 「母親の愛情が足らなくなる」という批判に対しては、「家に帰ってから密度濃く可愛がればよい」と弁護するが、家に帰るころには子どもは疲れて眠くなり、風呂にも入れられず寝てしまう。保育所で躾をしてもらえると言うけれども、家庭で基本的な躾をしていない子どもは、保育所でも躾をできないのである。

 

 このごろ、子どもを育てるさいに「母の手」がどんなに大切かということが、言われなくなり忘れられつつあるばかりではなく、それを言うこと自体が間違いだと言わんばかりの言説がまかり通っている。とくにフェミニストたちは「母性」という言葉そのものを否定し、「育児性」とか「次世代育成力」と言うべきだなどと、主張している。

 

 フェミニストは「3歳までは母の手で」という命題を「3歳児神話」だと批判するが、乳幼児期に母親の愛情を十分に受けることは、子どもの心の発達にとって非常に大切なことであり、そのことについては科学的実証的な研究がたくさん積み重ねられている。昨年度の厚生白書には「3歳児神話には合理的根拠はない」などと書かれているが、無知と不勉強を天下にさらしたようなものである。

 

 保育所を増設したり、夜間保育を増やすことが善政だという感覚は、子どもの心の健全な発達という観点から見ると、きわめて危険である。フェミニズムは「乳幼児の母親も働ける社会」を理想としているが、それは大きな間違いである。正しくは「乳幼児の母親は働かなくてもよい社会に」を理想としなければいけないのだ。

 

 

秩序感覚(平成11年5月号)

 たしか2年くらい前に、パン屋さんの全国組織の集まりで「父性」についての講演を頼まれたときに、一人の経営者が「このごろの若い従業員には困ったものです。無断で遅れたり、欠勤したりする者に、どういうふうに言ったらいいんでしょう」と質問された。こういうルール感覚、マナー感覚が著しく欠けた若者に困っている経営者は多い。

 

 私の大学でも、私がドアを空けると、向こうにいた学生が、私の目の前をすましてサッサッと通っていく。「私はドアマンじゃないぞ」と言いたくなる。廊下を歩いていても、3人並んで歩いてきて、ぶつかるまでよけない者がいる。「狭い廊下で、私はどこを歩けというのか」と怒りたくなる。

 

 こういう若者は、単に礼儀を知らないとか、マナーを教えられていない、というだけではない、もっと根本的な欠陥を示している。すなわち「必要な秩序感覚」が欠けているのである。戦前までの社会では、大人になり、社会人になるということは、一定の秩序の中に入ることを意味していた。その秩序がよいか悪いか、甘いか厳しいかにかかわりなく、当然のようにして、秩序の中に入った。だから、なんらかの秩序が必要だという感覚が自然に身についていた。

 

 ところが、戦後の社会になったら、なるべく秩序を壊す方がよいという感覚が蔓延してしまった。その結果、「世の中には最低限の必要なルールやモラルや礼儀がある」という感覚そのものが、消えていきつつある。

 

 あるとき私が学生に「ルールを守りなさい」と注意したら、「先生は世の中のルールを一から百まで全部守っていますか」と反撃されて、グッとつまってしまったことがある。たしかにルールを全部守っていては生きていかれない。しかし、私が「守りなさい」と言うルールとは「必要なルール」という意味である。

 

 必要であろうがなかろうが、そもそもルールというもの、いや権威というものをすべて壊したいという人々がいる。この人たちは、反権威主義者で、決まりを崩すことに熱意を持っている。戦後はこの反権威主義がどんどんはびこって、若者に悪影響を与えるものだから、必要なルールやマナーでさえ、守れない者が増えている。学級崩壊の根底には、勉強が面白くないとか、ストレスがあるなどという表面的な原因よりも、もっと根底的な感覚的な次元での欠陥がひそんでいるのである。

 

 秩序感覚や美的感覚が育つかどうかは、3歳まで、遅くとも小学校に入る前までに決まってしまう。昔から言われてきた「三つ児の魂百まで」という言葉には、真実が含まれているのである。3歳までに獲得された感覚は、一生のあいだほとんど変わらない。味覚も3歳くらいまでで決まってしまうという説もある。

 

 感覚的な躾は、いつも一緒にいる家庭で、親がする以外に手がない。家庭で、規則正しい生活をさせ、美的感覚を養う躾をする必要は、いまどきますます高まっていると思われる。

 

 

学級崩壊(平成11年4月号) 

 病気を治すには正しい診断が必要である。診断を間違えると、正しい治療はできない。教育の病気に対しても、原因に対する診断を間違えると、いくら努力しても、ますます悪くなるばかりである。

 

 授業中に生徒が騒いだりして、授業ができなくなるという「学級崩壊」が増えている。この原因に対する診断を間違えている人が多すぎる。

 

 たとえばNHKで放映された「学級崩壊」の例では、1年生のクラスで、授業中に徘徊したり、はてはみんなの机の上を渡り歩いたりする子どもに対して、担任の女の先生はなんら注意しない。ではどうしたらいいかと職員会で話し合った結果、皆で応援に行こうということになった。応援に行った先生は、その子を抱いて立っているだけ。

 

 その結果どうなったか。他の子どもたちも、騒いでも叱られないどころか、抱っこしてもらえるというので、皆が授業を受けないで、騒ぐようになってしまい、学級崩壊に拍車がかかってしまった。笑い話のような、本当の話である。

 

 秩序を乱す子どもというのは、家庭で植え付けられているべき秩序感覚ができあがっていない。世の中には守らなければならないルールがあり、規律があるということを教えられていないのである。

 

 こういう子どもに対しては、1年生に入った瞬間が大切で、そこで学校には守らなければならない規律があるということを、きちんと教えなければならない。そのためには「叱る」ということも必要になる。ただ「優しい」だけでは、教育はできない。

 

 「学級崩壊」の原因を文部省は「授業が面白くない」ためだと診断して、「分かりやすい授業を」とか「勉強の程度を落としてもよい」などという方針を打ち出している。まるで分かっていないと言わざるをえない。勉強が面白いかどうかという以前に、勉強が妨害されてできなくなっているのだ。そういう見当外れなことを言っているから、いつまでたっても有効な対応ができないのである。

 

 今の学校の先生は、まじめな先生ほど、「教員をやめたくなりました」などと言う。悪いことをする生徒を叱ることさえできない。暴力をふるう生徒に対して、無抵抗のままで、実力行使は許されない。教師は学校の中では秩序維持のための、いわば警察の役目もしなければならないのだから、先生に実力行使の権限を持たせるべきなのである。

 

 学習のための秩序があって初めて、その次に「授業が分かるか」「授業が面白いか」が問題になる。だいたい授業などたいてい面白くないものである。面白くなくても、学ばなければならないこともあるのだ。子どもにペコペコしていては、教育など成り立つはずがないのである。

 

 教える内容を少なくしたり、程度を落とせば生徒の不満が少なくなり、問題が解決するなどという安易な考えでは、国民の教育程度がどんどん低くなっていき、将来の国力まで心配しなければならなくなるかもしれない。