教育 18

この論文は「日本の教育改革」有識者懇談会(民間教育臨調)編の『なぜいま教育基本法改正か』の第二部第三章として発表されたもの(の前半)である。丁度いま政府の「教育再生会議」で家庭教育がクローズアップされ、提言が作成されている時期である。ところが「寸評」でも取り上げたように、その提言には重大な欠陥がある。家庭教育とは何をすべきなのかについて、正しい認識に立っているとはとうてい言えない。

 この論文は、家庭教育において何をなすべきかについて丁度論じており、とくに「感覚」的次元でのしつけの重要性について述べているところは、他にはないオリジナルな部分である。改めてここに収録して、参考に供したい。なお、さらに詳しい研究が『家庭教育の再生』(学事出版)においてなされている。これは家庭教育についての専門的・網羅的な研究書であり、非常に価値の高いものである。是非とも読んでいただきたい。(平成19年5月23日)

 

家庭教育で何をなすべきか

 

一 教育の基本は家庭にあり

 家庭教育はすべての教育の基礎であり前提である。学校教育であれ社会教育であれ、その後においていかに良質の教育が提供されても、それを受け取る人格的基礎が形成されていないならば、すべては画餅に帰する。人格の基礎をつくる家庭教育は何にもまして重要視されなければならない。

 家庭は最初の教育の場であり、親は最初の教育者である。子供の人格はまず、起居を共にする家庭においてその基礎が作られ、子供の全生涯にわたって強い影響を持ち続ける。

 人格の基礎とは、人間に対する基本的信頼感がある、情緒が安定している、自己コントロールができる、秩序感覚・現実感覚・美的感覚等の人格の基礎感覚を持っている、自分の事を自分でできる、ルールを守ることができる、他人との意思疎通および協力ができる、学んだり鍛えたりするために必要な精神的な強さを持っている、等である。(これらの発達程度はもちろん年齢によって異なる。)

 これらの人格的基礎は幼少期に家庭の中で最も適切に涵養される。これらの要素は、基本的生活習慣や母国語習得を例に取るまでもなく、常に起居をともにし、手取り足取りの繰り返しの中で、文字通り手塩にかける育児によってこそ身に付けさせることができる。たとえば、箸の持ち方、ボタンのかけ方、言葉の習得、挨拶と言った基本的な躾は、一対一で、愛情を持って繰り返し根気よく教えなければならない。そうしたきめ細かな教育は、愛情に支えられた家庭の中でこそ最も有効になされる。

 家庭教育は全人格発達の基礎である。この認識からすべての施策を出発させなければならない。

 

二 家庭の教育力の低下

 昨今、家庭教育の欠如が原因と見られる子供の問題行動が増大している。犯罪者の家庭状況を調べてみると、必ずといっていいほど家庭に問題があり、母性も父性も欠如していたことが明らかとなっている。また心の病になった者の生育歴を調べてみると、母性か父性に問題があったことが明らかになる場合が圧倒的に多い。

 父性の欠如とは、つまるところ躾の欠如である。服装・言葉や礼節の乱れは言うに及ばず、不登校や閉じこもり、フリーターの氾濫も同様に父性の欠如に原因がある。万引きや窃盗、ひったくりなどの日常の場における青少年犯罪急増の背景には、単に「友達」のようであればいいとして善悪のけじめを教えなかった「物分かりのいい」父親たちが見え隠れしている。

 他方、子供たちの過度の攻撃性は母性的な慈愛の欠如に原因がある。アメリカでは、保育所に長時間預けられた子は攻撃的になるという研究も発表されている。日本の保育関係者のあいだでも、延長保育や夜間保育のために家庭での母子の接触が極端に少なくなっているという弊害を指摘する人が少なくない。

 他方で子供に対する虐待や養育放棄も多くなっている。それらは親が子供のときに虐待を受けたなど、適切な育児を受けられなかったことが原因になっている場合が多い。こうしたケースをなくすためには、社会が介入して、どこかで悪循環を断ち切る必要がある。

 以上述べたように、子供および大人の問題行動が家庭教育の欠陥から生じている場合が多い。いま家庭教育の質を高めないと、近い将来、日本社会の道徳的水準、ひいては人間の質そのものが著しく低下するであろう。

 家庭の教育力が著しく低下していることは日常の経験からもうかがわれるが、客観的な調査の結果からも明かである。たとえば、親がいつも「嘘を言ってはいけない」と言っている割合についての国際比較調査によれば、他の国々(アメリカ、韓国、中国、イギリス等々)ではすべて七割から八割なのに対して、日本はたったの三割程度である。また二歳児を夜の十時以後に寝かせる家庭が半分以上という調査もある。大学生にマナーやルール違反について注意をすると、はじめて注意されたと驚く者が多くなっている。注意されてキレて殺人にまでおよんだケースが何度もニュースとなった。

 家庭教育がなされなくなった原因としてまず考えられるのは、親が子供だったときにすでに何の躾も受けなかったという者が多くなっているという事実がある。そうした親には、子供を躾なければならないという意識が初めからない。たとえば、PTAの会合で遅刻や私語が絶えないとか、人前に飛び出してビデオカメラを廻し続ける等の「親のマナー違反」については、すでに語り尽くされている。最近では運動会の会場で喫煙する・酒盛りをする等の信じられないような親の逸脱行為が報告されている。親自身が家庭教育を受けていないし、家庭教育とは何をするものかについてまったく関心がないのである。

 次に家庭教育を妨げているものとして、社会の「しつけ」への反感がある。躾を「押しつけ」だとか強制だとして否定したり、また親や教師の権威をことさらに否定する風潮が一部には根強く存在している。さらに学校での道徳や家庭科の授業においても、家族のあり方について「長幼の順の否定」「完全平等」など不適切な教え方をしている場合も多くなっている。

 このように、家庭の教育力の低下と言われている現象は、親が家庭で何かを教えなければならないという意識を持っていない上に、何を教えなければならないかについて社会のコンセンサスがなくなっていることに起因している。それどころか、家庭での教育は親の責任だから、どう育てようと親の自由であり口出し無用だなどという暴論をはく識者もいる始末である。

 こうした現状を鑑みるに、早急にそもそも家庭で何を教えるべきなのかについて社会のコンセンサスを作り出し、各家庭に働きかける必要がある。

 

三 人格発達の基礎は家庭教育にあり

 家庭教育の基本は人格発達の基礎を作ることにあり、加えて後々の教育を受ける力を養うことにある。

 この基礎として大切な要素は次の二つである。一つは「人間と人間関係への信頼感」の形成、第二は人格の感覚的基礎の涵養である。この二つの要素が欠けては、後にいかに良質の教育が提供されても、それを受け入れる器がないに等しい。

 

人間と人間関係への信頼

 教師や友達などの周囲の人間から良い影響を受けるためには、そもそも人間一般への信頼感や、人間関係への好意的な姿勢、さらにはコミュニケーション能力が備わっていなければならない。この信頼感は、最初の人間関係である母子関係によって基本が培われる。母子関係が人間関係の基礎と言われる所以である。

 このごろ母子密着育児の弊害が叫ばれているが、むしろ逆であって、「密着できない病」とでも言うべき現象の方がより深刻なのである。一口に言えば「子供が可愛くない」「分からない」という母親が増えている。それに対して「子供を預けて働けば解決する」というアドバイスをする者もいるが、それでは母子関係はますます希薄になるし、母が母として育つ機会をますます奪うことになっている。

 母性を破壊する要因をなくし、母親が子供とすごす時間を増やし、子供とうまくコミュニケーションを取れるようなアドバイスや援助をしていかなくてはならない。

 母性の重要性を説く学説を「母性神話」と名付けて「子供は母だけでなくいろいろな人によって育てられるのがよい」と説く人がいるが、乳幼児にとって母親が特別に重要な意味を持っていることは、多くの実証的研究によって明らかにされている。母親と母親以外の人間の影響を同列に論じ、それによって母性の重要性を否定する結果になっているのは、大きな弊害をもたらしていると言わざるをえない。

 母の慈愛によって人間への基本的信頼感が養われるのであるから、人生の最初期において母の慈愛を充分に受けることが、その後の教育を稔りあるものとする基本の要素であるという認識を、社会の共通のコンセンサスとしていかなければならない。

 

人格の基礎としての三つの感覚

 次に家庭において必ずなされなければならないのが、基礎的な感覚を育てることである。基礎となる感覚とは、秩序感覚、現実感覚、美的感覚の三つである。この感覚的な基礎の上に、初めて健全な人格が発達することができる。この感覚が育っていないと、以後いくら躾や教育を与えようとしても、受け付けないような人格になってしまう。

 

1 秩序感覚

 人間には生まれつき秩序感覚というものが備わっている。自分にとって一番よい習慣を持って、それを守ろうとする性質である。

 秩序感覚とは、秩序正しい生活をしていると心と体の状態が心地よいという感覚であり、さらに人間の生活には秩序やルールというものが必要だという感覚である。秩序感覚は人間が文化的な存在になるために絶対に必要なものであり、これがなかったら我々は自分一人が生きていくこともできないし、社会をなして生活していくこともできないであろう。

 この感覚を養うことは幼児期ほどよい、というのは、これは理屈ではなく、毎日毎日の生活の中で自然に身につくような感覚だからである。

 たとえば、寝る時間、起きる時間、食事の時間など、一日のスケジュールが決まっていて、一日がリズミカルに動いている。こういう基本的な生活習慣をつけることによって、秩序感覚が発達するのである。

 秩序感覚が育っていないと、道徳やマナーを教えても身に付かないし、そもそも人から注意されるということ自体に、やたらと腹が立つという人格になってしまう。

 さらに重要なことに、この秩序感覚が育っていないと、人格のコントロールセンターである自我が育たない恐れがある。この総合司令室にも喩えられる働きは、最近の脳科学の成果によって八歳までに完成することが分かってきた。

 このコントロールという機能はそもそも秩序感覚を基礎にしている。つまりより良い秩序を作り出す働きであるから、そもそも秩序感覚がない者には発達しようがないのである。

 この秩序感覚は家庭の中によい秩序があることによって培われる。たとえば、家庭の中でお互いが協力し合っている家族の場合には、自然に各人が能力に合った仕事を分担することが経験され、自ずと良質の秩序を経験していることになる。家族の役割分担が決まっていて協力し合っている家族では、いろいろ違う人間がいて、しかも協力し合うという秩序感覚が自然に身につくのである。

 

2 現実感覚

 次に家庭において養われるのが現実感覚である。

 現実感覚とは、たとえば人を殴ると怪我をするとか、刺せば血が出て死ぬという感覚である。もっと簡単な例を挙げると、虫に触って刺された感覚とか、葉っぱに触ったら手が切れて痛かったという感覚である。あるいは裸足(はだし)で土の上に立つと気持ちがいいとか、鳥小屋や牛小屋は臭いとか、犬や猫に対して、どうすると怒るかどうすると仲良くできるかということを、感覚的に知っているということである。

 さらにこの感覚は「生活感覚」とも言い換えることができる。掃除もしたことがない、料理もしたことがない、自分の身の回りのことも自分でできないという子供が増えている。彼らはテレビゲームのようなバーチャルな世界しか知らないで、現実感覚が希薄になっている。

 この現実感覚は子供を自立に向けて教育していく場合に必要になる感覚である。しかるにこのごろの家庭では、親が子どもに勉強だけしていることを要求して、その他のことは時間の無駄だという態度をとる場合が多い。大学の大教室の授業で「お手伝いはいいから、勉強しなさい」と母親から言われた人は手を挙げてと言ったところ、大半の学生が手を挙げたのには驚かされた。

 現実感覚と言っても、このように物を対象にした感覚ばかりではなく、もっと重要なのが、対人関係の現実感覚である。すなわち人間同士の触れ合いやコミュニケーションの場合に、相手との距離を適切に取ることができる感覚である。家族の中での人間関係がまったくなくて育つと、人間関係に対する現実感覚がなくなってしまう。その上、このごろでは、昔あった子供集団、すなわち異年齢の子供たちが一緒に遊んだり行事をする慣習や機会がなくなっており、人間関係を訓練する場が失われている。

 子供が自立して他人とのあいだに適切な人間関係を築くことができるためには、まず親との適切な人間関係を持てるようにする必要がある。家庭の中で互いにコミュニケーションを持ち、仕事を分担して協力し合う関係を経験させることが必要になる。

 

3 美的感覚と恥の感覚

 感覚のうちでも、とくに理屈で教えられないのが美的感覚である。美醜の感覚は、理屈ぬきで幼いころから感覚的な次元で刷り込んでしまう必要がある。このごろ電車の中で化粧や飲み食いをしたり、床に座る若者が増えているのは、幼児期からの秩序感覚や美的感覚の躾が欠けた結果である。

 何かを恐ろしいとか美しいと感ずるのは、乳幼児期に母親などが「こわい!」とか「きれいね!」という反応をしたことが刷り込まれた結果である。その場合に、言葉よりも顔の表情や声の抑揚など、感情的な情報の方が影響力がある。味の感覚も乳幼児期にできてしまうそうだが、美醜の感覚もまた乳幼児期に出来上がり、あとからではなかなか修正がきかない。

 礼儀やマナーは美しいことが基本であるから、当然美的感覚を基礎にしている。また他人にとって気持ちのよいようにということであるから、当然「他人の立場」を前提にしている。この「他人の立場」を理解するという感覚もまた、その基礎は家族同士の豊かな人間関係の中で最も強く養われる。

 美的感覚はまた恥の感覚の基礎でもある。というのも、どちらも「他人の目」を前提にした感覚だからである。他人から見られているという感覚、他人から見られて美しいように、また軽蔑されないように、非難されないように等の感覚は、密接な人間関係である家族の中で絶えず他人の目を気にするという習慣をつけていくことによって最も強く涵養することができる。

 

 これらの基本的な感覚は、人間が人間らしくなるための基礎であり、また価値観や道徳感情を健全な方向へと導く土台の役割をしている。これらの感覚の涵養はかつての日本社会では無意識のうちに大部分の大人が子供に対して行っていたのであるが、それが急速に失われている今、改めて意識的に復活させなければならない。

 

四 家庭で行うべき躾と教育

 次に、以上の基本的感覚を基礎にして家庭で行われるべき基礎教育を概観しておきたい。

 

1 家族との一体感と帰属感の確立

 人間が生きていくためには、自分自身の存在に対する安定した自信を持たなければならない。青年期において社会的役割を獲得していく中で、自分の内的自信と社会的役割とが整合的に感じられる必要があるが、そのためにはまず幼少期において、アイデンティティーの中核となる帰属感が確立していなければならない。その帰属感の中でも、とくに次の二つが重要である。

 第一は家族との一体感である。自分の家族に属し、包まれ保護されているという感覚は、自己への自信と安心感のもとであり、ひいては故郷や自国を愛する気持ちのもとになる。これは父母に愛されているという感覚や、家族の共通の姓を意識することなどを通じて意識化されていく。

 第二は性別への帰属意識である。自分が男であるか女であるかという自覚を持ち、それぞれの「らしさ」を涵養していくことは、アイデンティティー確立のための大切な要素となる。性差を際だたせ洗練させるための文化的な装置(たとえばひな祭り、端午の節句)はその意味できわめて大切なものであり、文化的性差をなくそうというジェンダーフリー教育は帰属感の確立を妨害するきわめて有害な試みである。

 この二つの帰属感がしっかりと確立している場合には、青年期になって社会的役割とのあいだに葛藤が起きたり、新しいアイデンティティーを再構築しようとするときに、揺るぎない基礎を提供することになる。したがって家庭において基礎的な帰属感を築いておくことは最も大切である。

 

2 構成力(前頭前野)の発達

 人間が生きていくためにきわめて重要な能力として、異なった諸要素を総合的に組み合わせて使いこなす能力がある。これを構成力と呼ぶことにする。構成力とは「異なった諸要素を組み合わせて意味ある全体を構成する能力」である。

 この能力は個人が自分のさまざまな能力を組み合わせて使う場合にも必要になるが、多くの人々が協力して仕事をする場合、すなわち人間が社会をなして生きていくためにも不可欠である。

 この総合する能力はほぼ八歳から十歳ころまでに完成する。それまでに完成しないと、以後は涵養することが次第に困難になる。

 これは脳の部位で言うと、大脳皮質の中の前頭前野(前頭連合野)が司っている機能であり、これはいわば自我の司令室に当たる。たとえば、全体の情報を総合的に判断し、諸要素を組み立て、新しい意味を見出したり、未来への方針を打ち出すなどである。

 この能力を育てるためには、二つの要件が必要になる。

 第一には秩序感覚。これは秩序のあることをよいと感ずる感性であり、よい秩序を作り出そうとする性向である。構成力はいろいろな要素を総合してよりよい秩序を作り出すことであるから、その基礎として秩序感覚を必要としている。

 健全な秩序感覚を作るためには、乳幼児期および学童期に規則正しい生活をさせる必要がある。生活習慣が乱れていては、秩序感覚も構成力も育たない。寝る時間、起きる時間、食事の時間、門限、遊びの時間、勉強の時間等を決めておくことは、家庭教育における必要最低限の躾でなければならない。

 第二は性質の異なった多くの刺激を与えることである。父と母の影響がそれぞれ異なるとか、祖父母やきょうだいや友達からの働きかけが多くあるという条件は、構成力の涵養に有利な条件である。とくに父親からの刺激は、子供を鍛えたり、自立を促したりする効果に加えて、この構成力を高める働きをするので、幼児期および学童期に父親が家族の行事に参加したりして、子供と一緒の時間を作ることはきわめて重要である。

 

3 心身のバランスよい発達と自己コントロール

 体の発達も基礎は家庭において与えられる。生命体にとって最も基礎になる食事については、家庭において最大の関心を払い、バランスのとれた食事を与えるように気を付けなくてはならない。

 「健全な精神は健全な身体に宿る」と言われるように、健康な体を作ることは、すべての人生の土台である。最近、食がないがしろにされ、栄養さえ取れていればよいとする風潮が広がっているが、家庭料理として定着している民族特有の食文化が子供の身体ばかりか、情操や美的感覚にもたらす影響力にも注目する必要がある。

 次に子供の心の発達にとって最も基本となるのは健全な情緒の発達である。好ましい情緒が育ち、それが安定している場合にはじめて、身体も順調に発達し、よい意志が現われ、知的成長も可能になる。

 美しい情緒が発達するためには、なによりもまず乳幼児期における母子の(ひいては家族間の)良い感情のやり取りが基本になる。人を喜ばせる、また人から喜びや幸せをもらうことの快さを味わわせることが肝要である。

 伝統文化の美しさやそこに表わされている情緒を折りにふれて感じ取る機会をふやすことも、情操教育にとって必要な環境と言わなければならない。その意味では家庭で節句などの季節ごとの行事を行い、そこに表わされている情緒を心に染み込ませることが豊かな情操を育む基礎である。

 節句や祭りといった日本独特の伝統行事の中には、とくに家族の縦のつながりや横のつながり、すなわち先祖とのつながり、子孫とのつながり、共同体とのつながり、などを実感させるものが豊富である。こうした経験を通じて家族への愛情を体験した子供は、やがて健全な愛国心をも感じ取るようになるであろう。

 また家庭における母国語習得は、単に子供のコミュニケーション能力(言語)の発達にとって必要なばかりでなく、親や祖父母との暖かい人間関係を感じ取る場である。その意味では、テレビゲームをやめさせ、代わりに童話や神話、伝記などを読み聞かせ、読ませることが望ましい。

 さらに、人間を超えた存在を感じ取り、その存在に対する尊敬や畏怖の念を感じ取る場を多く作る工夫が必要である。たとえば、大自然の大きさと畏怖を感じさせる機会を作れば、そこから人間の小ささを感じ取り、謙虚さを学ぶことができる。

 

4 自立への準備

 教育の最終目標は自立した個人へと成長させることにあるが、家庭教育の目標も同様である。自立のためには、安定した人格を涵養し、さまざまな能力を伸ばし、かつそれらの能力を組み合わせて使いこなす力量を育み、衝動をコントロールし、状況を適切に判断し、公共の規律を守り、他人と協力しつつ共同体を構成することができなくてはならない。

 これらの自立のための人格の基礎は家庭において作られる。親は子供の人格の成長に見合った「自由裁量」を徐々に子供に与えなければならない。身の回りのことを自分でする習慣、生活習慣に関する時間配分、小遣いの量と使い道、交友範囲や行動半径、将来の設計と進路決定、などについて、年齢に応じて規制をゆるめ、子供が自分の判断で成功と失敗を繰り返す中で、独立して生きていく力を身につけさせなければならない。

 とくに思春期は精神が不安定になると同時に、他方では自立への強い意志が出てくるときであるから、親はいたずらに規制を強化するのではなく、自立への意志を尊重しつつ、安全管理教育を充分にした上で、慎重に規制をはずしていく方向で考えなければならない。

 この場合、どの時期にどの程度の範囲で規制をゆるめてもいいか判断するのが親の重要な役目である。必要な注意を与えつつ、ある程度の冒険をさせることも有益である。子供の判断力と力量について適切な判断ができるように、日ごろから子供の成長ぶりについてよく知っておく必要がある。

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