教育 17

( この論文は『諸君 ! 』の本年7月号に発表したものであるが、丁度現在の国会において「教育基本法改正」が最重要課題として審議されており、その問題点はすべてここに論じられている。改めてここに収録して、参考に供したい。平成18年11月8日)

 

理念なき「教育基本法改正案」は破棄せよ

          (『諸君 ! 』2006年7月号掲載 )

 

 およそ「基本法」と名の付くものは、理念を高く掲げ、理想を謳い上げるものである。教育の基本を定める理念法であるならば、格調高く重厚で、しかも美しい文章をもって、国家の教育の揺るがぬ北辰を指し示すものでなければならない。

 しかるに「教育基本法政府案」なるものを一読して、私は当惑と落胆を禁じえなかった。これが国家の教育の基本理念を謳い上げたものとは到底思えないからである。

 まず悪文である。もたもた、こねこねと、いじくり回した結果の、意味不明な文章の羅列、寄せ集めである。よく理解しようと考えながら読めば読むほど、いっそう訳が分からなくなる。

 それもむべなるかな、この悪文は、自民と公明という根本的に対立する思想を持った二つの政党が、無理を重ねて妥協を図った産物だからである。したがって、深刻な対立をもたらす諸原理が無邪気に併記されている。

 以下、政府改正案が少しも「改正」になっていないという所以を、「前文」から順を追って分析していこう。

 

「公」と「私」の無原則な並列

 まず、前文で「個人の尊厳を重んじ」と言いながら、すぐに「真理と正義を希求し、公共の精神を尊び」とくる。「公共の精神」と「個人の尊厳」は対立することもありうる、真に「真理と正義を希求し」ようとすれば「個人」を犠牲にしなければならない場合もある、という問題はまるで自覚されていない。そうした深刻な対立をどう考え、どう表現したらいいのか、どちらをより重んずるべきなのか、それとも両方を重んずることは可能なのか。そうした両者の関係を語ることは恐ろしく難しいことだという問題意識すら存在していない。

 現行の日本国憲法にも教育基本法にも、「個人の尊厳」「個人の尊重」「個人の価値」という言葉が使われている。「個人」を重視している証拠である。しかし、教育の目的はまず「個人を大切にして」「自分のために学ぶ」を第一の理想として掲げるべきものであろうか。

 そもそも教育基本法を改正しなければならない理由の一つとして、現基本法が個人の価値を強調しすぎているため、個人主義・利己主義がはびこってしまったという認識があったはずである。その誤り是正するために、「個人の尊厳」と並べて「公共の精神」を書いておくというのは、単に「公」と「私」を並列したにすぎない。「公」と「私」の関係をどう理解すべきかという見識が見られないのである。

 もちろん個人の人間としての価値は大切である。また個人が各々の能力を向上させ身を立てるための教育を受ける権利を否定するものではない。しかしそれは国家が行う教育の目的として最初に掲げるべき理想であろうか。

 教育の目的としては、まず「個人を大切に」ではなく、「人格を磨き、社会・国家・人類に貢献する人間に育てること」を掲げるべきではないのか。個人(自分)のために教育があるかのような思想を冒頭に掲げるのは、教育の基本を謳う場にふさわしくないと言うべきである。

 

伝統と創造の無邪気な並列

 もう一つ例を挙げよう。同じく前文で「伝統を継承し」と言いながら、続いて「新しい文化の創造を目指す教育」と書かれている。これでは和洋折衷ならぬ新旧折衷である。

 なるほど「伝統を継承し」ながら、その上に新しいものを付け加えていくことは、理論的には可能である。しかし、伝統というのは単なる外見的な形ではない。精神のこもった内実である。そうおいそれと「新しい」ものと融合できるものではない。伝統を守るためには、むしろ新しいものを拒否することも必要な場合がある。そういう根本的な対立をはらんだ両方の原理が、いとも安易に併記されているのである。

 そもそも教育とは、「新しい文化の創造」を目的とするものであろうか。むしろ第一義的には、伝統的な日本文化を継承し守ることを教えるべきであり、「新しい文化」はその上で必要があり必然性があれば自ずと生まれてくるものである。わざわざ「新しい」ものを作れと督促するものではない。

 「新しい文化の創造」を謳う背景には、「新しい」というだけで価値があるという思想がある。その価値観は進歩史観に根ざしており、伝統的文化を尊重する精神とは水と油の関係にある。この両者は精神的にはまるで正反対の心理的構えを必要としており、そう簡単には両立・並列できるものではないのである。

 

密室の「ボス交」で決まった

 このような、相容れない両論を併記するという、キメラのような折衷案が出来上がったのは、自民党と公明党の代表者による「教育基本法に関する検討会」においてである。

 この「与党検討会」は非公開であり、内部の議論は秘密とされ、そこに提出された文書もすべて回収するという徹底ぶりであったそうである。

 こういうのを「ボス交」と言う。この方式は、「万機公論に決する」という民主主義の原則に反するやり方であり、公開の討論を排除して、密室での「ボス同士の妥協」によって決められることを意味している。

 ただし、この「妥協」は、決して対等な両極の「中間」に落ち着くという性質のものではなかった。なぜなら、キャスティングボートを握る側が、「これを飲まなければ反対するぞ」「通さないぞ」と脅せば、相手は飲まざるを得ないからである。

 キャスティングボートを握った公明党がからむと、いつでもこの構図になる。「通さないぞ」と脅されれば、公明党の出してくる条件を結局は飲まざるをえないのである。私自身が会長として生々しく体験した荒川区の「男女共同参画社会懇談会」の場合も同様だった。

 さんざん討論し、苦心して作り上げた懇談会の「報告書」は、男女の違いを前提とした協力を謳い、家庭の尊重と家庭育児への支援を盛り込み、性差否定教育・性別役割分担の否定・過激な性教育の防止・数値目標は慎重になど、適切な歯止めのための「乱用防止規定」を設けるといった、画期的なものであった。

 ところが、この報告書は、そんな権限のあるはずもない区役所の中の役職者の会議において、別物と言えるようなものに変えられてしまった。「それでは何のための報告書か」と、我々の報告書を重んずるように要求したが、最終的に「これこれは譲れない」「これを飲まなければ公明党がうんと言わない」といって、結局は譲歩させられ、区の条例案なるものが作られた。その中では例えば「乱用防止」規定のほとんどが消えてしまい、抽象的な「男女の区別を差別と見誤って否定の対象にしない」というものだけになってしまった。しかし、公明党の修正案を飲んで妥協案が出来上がったにもかかわらず、最終的に公明党の区議団がその条例案に反対する態度を明らかにし、そのため区長は男女共同参画社会条例案を撤回せざるをえなくなったのである。

 この例に見られたように、公明党に頼っているかぎりは、肝心の最も大切な内容において、公明党の言いなりにならざるをえないのは明瞭である。与党の中の少数派のはずの公明党に、重要な論点において常に譲らなければならないという構図が常態化している。

 たしかに多数派の横暴もよくない。多数派ならば何をしてもよいとは言わない。民主主義を安易な多数決にしてしまうのも問題である。しかし、少数派が事実上の権力を持ち、少数派の言うなりにならなければならないというのは、どう考えても不健全である。

 形式上、手続き上も問題だが、公明党がどうしても譲れないとしているいくつかの原則は、内容的にみて、さらに大きな問題をはらんでいる。それらは戦後の日本のイデオロギー状況を如実に映し出す、典型的な論点にかかわっているからである。

 この政府案なるものは、単に哲学のない意味不明の悪文だという点に根本的な問題があるのではない。最大の問題点は、戦後左翼の中核思想が随所に盛り込まれているところにある。その例をいくつか示してみよう。

 

「憲法の精神にのっとり」

 まず前文に「憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し」とある。「憲法の精神に則り」という文言自体は現行基本法にも明記されている。しかし、じつはよく考えてみると「憲法の精神にのっとり」というこの言葉は、何を意味しているのかよく分からない、つまり意味不明なのである(なぜ「則り」の漢字を平仮名に直したのかも分からない)。

 一口に憲法といっても、いろいろな内容を含んでいる。「憲法の精神にのっとり」と言う場合に、いったい憲法のいかなる「精神」を指して「のっとり」と言っているのか曖昧である。このように書かれていれば、誰かが憲法のどこかを取ってきて、「これこれの教育政策は憲法の精神に則っていない」と文句をつけることが可能である。例えば「愛国心」を教えることに対して、「愛国心は軍国主義への道であり、憲法第九条の精神に反する」と異を唱えることも可能である。

 そもそも現行憲法には、例えば前文や九条には、日本を軍事的に強化しないという意図が込められている。周辺隣国、具体的には中国と朝鮮半島にとって、都合のよい条項である。国際共産主義の手先である左翼が、金科玉条にしてきた部分である。

 一般論としても、「憲法の精神にのっとり」という文言は曖昧で問題であるが、とくに現在の情勢の中では、さらに疑問が出てくる。というのは、現在という時点は、憲法を改正しなければならないという機運が高まっている時である。そのときに、改正しなければならない非現実的な内容をもつ憲法を、無条件に基礎にすることには疑問が残る。状況次第では一般論は一般論でなくなるのである。

 そもそも新しい法律の条文というものは、単に抽象的・一般論的にのみ評価できるものではない。そのときどきの情勢の中で、特殊な意味を持つことがあるからである。この場合にも、憲法改正が日程に上っているときに、「憲法の精神にのっとり」という文言は特殊にイデオロギー的、党派的な意味を持ちうるのである。戦後の左翼が拠り所にしてきた、そして「護る」ことを標榜している「憲法」に無条件に「則る」ことを謳うのは疑問である。

 

「家族条項」を欠いた憲法

 この点に関して、もう一つの大きな問題点を指摘しておこう。日本国憲法には、じつはいわゆる「家族」条項が欠けている。すなわち「家族は社会・国の基本単位である」という項目がないのである。

 それに対して、「家族は社会の基本単位である」とか「国家は家族を保護しなければならない」といった内容を持つ憲法は、ドイツ、イタリア、韓国、フィリピン、ロシア、中国など、たくさんある。国連の「世界人権宣言」にも、「家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位であって、社会および国の保護を受ける権利を有する」(第一六条第三項)と書かれている。(これらの国々の憲法の中の具体的な家族条項については、拙著『家族の復権』中公新書、「おわりに──憲法に家族条項を」を参照)

 私はかねてより憲法改正の一環として「家族」条項を入れることを提案しているが、現実に「家族」条項がない現憲法を前提にして「憲法の精神にのっとり」と言ったのでは、「家族は社会の基本単位」だということを教えることができなくなっしまうのではないか。

 政府案の中には、教育の中で「家族」をどう捉え、どう教えるのかという問題意識はまったく見られない。「家族」に対する正しい理解をぬきにして、単に「個人の価値」「個人の尊厳」だけを強調したのでは、すでにその弊害が現れている悪しき個人主義を一層助長することにもなりかねない。

 以上、代表的な例を挙げたが、こうした問題点を含んでいる憲法を前提にして、無邪気に「憲法の精神にのっとり」と言えるはずがないのである。いったい、その「憲法」とは現行憲法を指しているのか、改正されるべき憲法を見越しているのか。「憲法」を錦の御旗に掲げるのは、現憲法至上主義に通ずる、危険な態度と言わなければならない。

 

誤った思想は順位に表われる

 さて、前文を見ただけでも、この法案が矛盾に満ちたものであることが分かるが、さらに内容を見ると、あまりに問題が多いことに驚かされる。具体的な内容の吟味に入る前に、それぞれの内容をどの位置に持ってくるかに、起草者の思想が表われているという、重要な点について注意を促しておきたい。

 政府案の構成は、「前文」「第一条 教育の目的」「第二条 教育の目標」「第三条 生涯学習の理念」「第四条 教育の機会均等」となっており、ここまでが総論に当たる。

 以下「第五条 義務教育」「第六条 学校教育」「第七条 大学」「第八条 私立学校」「第九条 教員」「第十条 家庭教育」「第十一条 幼児期の教育」「第十二条 社会教育」「第十三条 学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」「第十四条 政治教育」「第十五条 宗教教育」「第十六条 教育行政」「第十七条 教育振興基本計画」「第十八条 補則」となっている。

 この順位を見て、とくに目を引くのは、第三条「生涯学習」が総論の中に位置しており、「教育の目的」「教育の目標」のすぐ次に置かれ、きわめて重要視されている点である。また現行の法律には存在していない「家庭教育」「幼児期の教育」が新設されているとはいえ、学校教育に先立つ重要性を持ったものとして認識されていないことをうかがわせる。(この二つの特徴については後述する。)

 さらに「第二条 教育の目標」の具体的内容として五項目が挙げられているが、その内容と順番が重要なので、しっかりと吟味しなければならない。五項目は以下のとおりである。

 「一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養う」は、健全な人格の発達が主題になっている。

 「二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、……勤労を重んずる態度を養う」は、個人の能力を増進することを主題にしている。

 「三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養う」は、男女共同参画を主題にしており、フェミニズムが色濃く反映されている。

 「四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養う」は、生命・自然・環境を大切にという主題を表現している。

 「五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」は、苦しい言い回しながら「愛国心」のことを言っているなと分かる。

 この順番には異議のある人が多いのではなかろうか。単純化すると問題点がよく分かる。すなわち、第一と第二は個人の資質の涵養を掲げている。第三は男女共同参画である。第四が生命と自然を大切にであり、第五が愛国心である。

 第一と第二の項目がはらむ問題点、すなわち「個人の価値」「個人の尊厳」を第一に掲げる現教育基本法の問題点についてはすでに述べた。それに対して、愛国心は最後に置かれている。男女共同参画はそれより上位の第三番目である。

 愛国心も公共の精神も家庭教育も、今まで入っていなかった内容が入ったというだけで満足していいというものではない。重要性のランクが下のものとして入れられたのでは、かえって「重要性が低い」というメッセージが込められてしまう。重要なものは重要だという位置に入れなければならないのである。

 以下、それぞれの内容について吟味してみよう。

 

「男女の平等」「社会参画」の罠

 「第二条 教育の目標」の「三」の中に、「男女の平等」という言葉が唐突に登場する。現行の法律の中には存在しない言葉である。

 この第三項はきわめて危険な思想を隠し持っている。この項目の趣旨は、「正義と責任」「男女の平等」「自他の敬愛と協力」「公共の精神」をもって「主体的に社会に参画する態度を養う」というものである。キーワードは「社会参画」である。つまり言いたいことの中心はフェミニズム独特の「男女の区別を否定する」「男女共同参画」であり、それを露骨に出さないために、他の「正義と責任」「公共の精神」などの美辞麗句で薄めたものである。

 この項目は現行法よりも数歩も後退した内容である。すなわち政府案では、男女の関係に関する正しい記述を含んでいる現行第五条の「男女共学」が削除され、その代わりにこの項目が入れられたのである。

 現行の第五条に書かれている、削除されてはならない大切な文章とは、「男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであって」という文言である。このことを「教育の目標」として掲げることは大切であり必要なことである。「男女の平等」ということより先に、まず「男女の違いを認め合いつつ、尊敬し合い、協力し合う」ということを謳わなければならない。男女が互いに尊敬し合い、協力し合うならば、わざわざ「平等」などということを言わなくとも、自然に男女の対等は実現するのである。

 男女の特性や違いをやみくもに否定する弊害が目立つ昨今、わざわざ男女の違いを否定しかねない「男女の平等」という言葉を新しく入れるということの背後には、間違ったフェミニズム思想がうごめいているとしか考えられないのである。超党派議員連盟の「改正促進委員会案」では、この部分は「男女は、互いにその特性を生かし、相互に協力し合って家庭、社会、国家を共に担う責務があることを、教育上重視するものとする」となっていることを見れば明らかなように、政府案のこの部分は公明党の圧力で入れられたと思われる。公明党はことあるごとにフェミニズム的主張を唱え、政策に盛り込んできたことは周知の事実である。

 さらに、「男女の平等」という言葉には、男女同型論を前提にして、「社会進出」のみを「社会参画」と考えるフェミニズム教条主義が前提されている。「男女共同参画社会」という言葉は専業主婦を否定し、女性も一生フルタイムで働くことを理想としており、職業を持つことのみが「主体的に社会に参画することだ」という理解のもとに男女共同参画政策が進められているのである。「主体的に社会の形成に参画し」という、なんでもない言葉の中に、じつは「専業主婦は主体的に社会に参画していない」という含意が込められているのである。

 一見当たり前だと見える命題の中に、特殊な意味を込め、具体化させていくのがフェミニストのやり口である。「男女共同参画社会基本法」がその典型であった。「教育基本法」においても、男女の区別を否定しかねない「男女平等」を入れ込もうとしている。むしろ現行の「男女は、互に敬重し、協力し合う」という趣旨を尊重しつつ、「促進委員会案」のように改正すべきである。それを「男女平等」の「社会参画」に変えてしまったのは明らかに改悪であり、大きな誤りである。

 

「愛国心」

 さて次は、さんざん議論されている「愛国心」である。「愛国心」という言葉を使わないように、もって回った修飾語をつけて、「我が国と郷土を愛する態度」と書かれている。なぜ単純明快に「愛国心」でいけないのか。

 公明党が「愛国心」という言葉に抵抗するのは、「軍国主義の時代を思い出すから」だそうである。左翼は「日の丸」「君が代」も同じ理由で拒否している。「侵略のシンボルとして使われたから」という理由である。「侵略され植民地支配されたアジアの民衆の感情に配慮する」ためだそうである。敵対心と反日意識を煽り立てておいて、それを盾に譲歩を迫り、利を追求する隣国に媚びた物言いである。

 「愛国心」そのものが悪いのではなく、反日に代表されるような偏狭な排外主義が悪いのである。日本人がスポーツの世界で示しているような自然で健全なナショナリズムには、危険な排外主義などみじんもない。「愛国心」という言葉にアレルギーを起こしているようでは、健全な政党とは言えないであろう。

 大切なのは、正しい愛国心と間違った愛国心を区別する論議である。公明党は「必要な愛国心」というものは存在しないという考え方なのか。もし「健全な愛国心は必要だ」という考え方をしているのならば、公明党は間違った愛国心とはどういうものであるかを明確にし、それを批判する議論をすればよい。やみくもに愛国心一般を否定する議論は、今や笑いものにしかならないだろう。

 「愛国心」という言葉を入れるか入れないか、その代わりにどういう表現にするかという、言葉にこだわっているうちに、そもそも「愛国心とは何か」という重要な議論がお留守になっているのではないか。左翼は「愛国心とは他人に強制されるものではない」とか「愛することができるためような国にすることが先決だ」と、理屈としては正しいことを言っている。この程度の理屈にも明確に反論できないで、どうして法案の中に「愛国心」を盛り込むことを主張できようか。公明党との妥協を図るために言葉をこねくりまわしている間に、肝心の「愛国心」の正当性を主張することがおろそかになっていないか。

 

自国も他国も尊重 ?

 ここでも、冒頭で論じた無原則的な両論併記の例が見られる。  「……我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」(第二条の五)

 これも訳の分からない両論併記の典型である。我が国を愛することと、他国を尊重することは、両立するかもしれないが、対立するかもしれない。相手の国にもよることであり、そう無邪気に並べることのできない二つの原理である。

 だいいち、「他国を尊重する」とはどういうことなのか。他国の言うことを、その国がどういう国か吟味しないままに、無条件で尊重してもいいのか。そういう安易な「態度を養う」ことを教育の目的としていいのか。早い話が、今しきりに問題になっているような、他国からの介入や横やりがあった場合に、「他国を尊重せよ」「他国の国民の感情を尊重せよ」と教えられた子供たちはどう考えたらいいのか、分からなくなるだろう。

 そもそも愛国心を謳う項目の中に、なぜ他国との関係を入れなければならないのか。愛国心は純粋に愛国心の問題として扱うべきであり、他国との関係については別の項目で扱うべきである。愛国心について語る者は、いそいで「他国とも仲良く」と言わなければならないかのようである。それは愛国心を排外主義と混同する者の発想である。愛国心を常に悪い現れ方をすると考える者は、自国を愛するとともに「他国をも愛する」と言わないと安心できないのであろう。

 もし他国との関係について述べるのならば、無限定・無定見な「他国を尊重する」などという文章を入れるのではなく、「平和と民主主義と人権を愛する国々との友好と協調を重んずる精神を養う」という文章を入れるべきである。そうすれば、先軍主義を掲げ、軍備拡張に血眼になっている隣の独裁国と、そう簡単に「仲良く」できないこと、仲良くするには相手もまた平和と民主主義と人権を重んずる国でなければならないことを明らかにできるというものである。

 いくつか例を挙げたが、いずれを取っても、哲学もなければ魂もこもっていない、何度読み返しても意味不明と結論せざるをえないような、教育の名を汚す草案である。このような無教養な駄文が教育の根幹となる基本法の中に随所に見られるとなったら、日本は世界に恥をさらすことになろう。

 これらの意味不明な文章が書かれたのは、両方の原理を併記しておけば、どちらからも文句が出ないだろうという、安易な妥協の産物だからである。政治的な妥協によって教育の根本理念を定めるのが、そもそも間違っているのである。

 

「国」をなくした民主党案

 ちなみに民主党案では「愛国心」に当たる部分は「前文」に入れてあり、こうなっている。

 「同時に、日本を愛する心を涵養し、……」

 「同時に、」と付け足しのように書かれていることも問題だが、肝心の「日本を愛する」という表現は、よく考えてみると不可解である。「国」という言葉を避けるために、故意に曖昧にしてあるとも考えられる。

 しかし、いくら「国」という言葉を避けても、「日本」というのは国の号であるから、「日本を愛する」と言えば「日本の国を愛する」と同じ意味になるはずである。わざわざ「国」を削除して「日本を愛する」とするのは不自然である。単純明快に「愛国心」でなぜいけないのか。

 民主党の意図としては「国」という言葉は統治機構を意味したり、軍国主義を思いだすから避けた、ということなのであろう。しかし「日本を愛する」は「日本国を愛する」という意味以外にはならないはずである。わざわざ「国」という言葉を避けるところに、左翼に特有の「国」アレルギーが現れている。「国」を否定したり、その言葉を避けるような政党に、「国」を任せるわけにはいかないのである。

 民主党は政権を取ることを何にもまして目標にしている。政権とは国の権力である。「国」という言葉にアレルギーを持つ者たちが権力を取ったら、その権力をどのように使うのか、適切に使えるとは思えないのである。

 

「生涯学習」の偏重

 項目の順位には重要性についての評価が表われていることを指摘した。その順位について、異様としか思えないことがある。

 それは「第一条 教育の目的」「第二条 教育の目標」の次に「第三条 生涯学習」が置かれていることである。「生涯学習」に対する、この偏重はいったい何なのか。

 教育の中で最も大切な基礎となるなのは家庭教育であり幼児教育である。その基礎があって初めて学校教育が成り立つ。社会教育や生涯学習はその後のことである。

 なぜ唐突に、家庭教育や学校教育に先立って「生涯学習」が謳われなければならないのか。まったくもって不可解な扱いと言わなければならない。

 起草者の思いを忖度するならば、「生涯学習」とは生まれてから死ぬまでの一生学び続けるという理想を表明したものであるから、「総論」に当たる部分の中に入れてあると言うのであろう。確かに、学習は一生続くのが望ましい。しかし学習というものは一生同じ質で行われるものではない。

 今さら言うまでもないが、人格の基礎が形成されるのは家庭教育においてである。子供の感性を育み躾をするなど家庭環境は子供のその後の精神的発達に決定的な影響を及ぼす。さんざん言い古されてきたように、学級崩壊などの学校教育の問題は、すべて家庭教育の崩壊が根本的な原因なのである。

 教育の基礎でもあり最も重要な「家庭教育」「幼児教育」が、なぜ「学校教育」や「生涯学習」のあとの十位と十一位に置かれているのか。これを誰も不思議に思わないのか。誰からも異論が出ないということは、この国の教育関係者と政治家が次世代の育成を真剣に考えていないとしか言いようがないではないか。

 ちみなに民主党案では、前文の冒頭に「心身ともに健やかな人間の育成は、教育の原点である家庭と……によって達成される」と書かれている。家庭教育の重要性を認識した書き出しである。さらに具体的順位としては「学校教育」「教員」の次に「幼児期の教育」が置かれている。「家庭における教育」が第十条なのがやや不満だが、それでも第十二条「生涯学習・社会教育」よりは前である。この点に関しては民主党案の方が(まだ不十分だとはいえ)よほど良識的である。

 それに比べて、政府案の「生涯学習」の優遇ぶりは奇妙と言わざるをえない。「生涯学習」とは、理論上は生まれたときから死ぬまでを含むとはいえ、事実上は大人を対象にするものである。つまり学校教育を終えて、自主的に学習する意欲と能力がある(はず)の大人に学習の機会を提供するものである。最も基礎的で大切な子供の教育とは異なる次元のもの、子供の教育がうまくいっていれば、大人になった後には、国がお膳立てしなくとも、自発的に行うことができるものである。「あらゆる機会に、あらゆる場所において」勉強しなさいと、国が奨励したり、保護したり、手取り足取りするものではなかろう。

 

「生涯学習」は左翼学習の温床

 それだけではない。むしろ「生涯学習」の名のもとで、実際に行われてきたことの方が重大な意味を持っている。じつは公民館や市民センターの多くは、マルクス主義思想とフェミニズムを教え込み、宣伝するために、戦後一貫して利用されてきたのである。

 公民館や市民センターの少人数の教室を利用して、左翼やフェミニストを講師としての学習会が全国的に展開され、マルクス主義やフェミニズムの公式で武装した活動家を養成してきた。例えば、小学生が国旗掲揚に反対して校長に土下座を要求したり、男女混合名簿使用の尖兵になった東京都国立市においては、それに先だって何十年にもわたって公民館でフェミニズム的な講座が開かれ続けてきたのである。

 そうした三十年にも四十年にもわたる思想的宣伝とアクティブ養成の積み重ねを背景にして、国民の意識の改変が進み、九〇年代に「男女共同参画社会基本法」をはじめフェミニスト諸立法が成立し、二十一世紀に入ってから地方自治体での条例化が進んでいる。「生涯学習」というきれい事のタテマエの陰で、実際には日本の底辺の左翼化とフェミニズム化が進行してきたのである。

 「生涯学習」の理念を教育の中心にすべきだと主張する人の中には、「幼稚園・学校教育」中心主義は間違いだと批判する者さえいる。しかし、幼稚園や学校を教育の中心に据えることは、正しいばかりか絶対に必要なことである。

 子供の教育と大人の学習とを同列に論じたり、後者を上に置くなどは本末転倒である。「教育」とは子供を立派な大人にするための教育であり、それが済んでいれば、大人は自由に自発的に学習できるはずである。もちろんそのための便宜を図ることを謳ってもよい。しかし、三番目(実質的には最初)に持ってくるほど優先しなければならないものではない。「生涯学習」は今までどおり「社会教育」の中でふれればよい。

 「生涯学習」を「学校教育」よりも上位に置く思想は、「個人の価値」「個人の尊厳」を強調することに通じている。「集団」で「一律」に行われる義務教育よりも、主体的・自律的な成人教育の方が上だという思想である。しかし、そういう思想の中には、子供に対する一律の集団教育を一段低いものと見て、大人が自発的に学習することを上に見る、教育というものに対する間違った思想が見られる。幼児期や子供の教育には一種の強制が必要だということが理解されていないのである。

 結論を言えば、「生涯学習」の置かれている位置に「家庭教育」をもってきて、「生涯学習」は「社会教育」の中に入れるべきである。

 

否定された宗教的情操教育

 道徳心が大切だとは書かれているが、しかしその道徳心や公共の精神のもとになる「宗教的情操」は否定されてしまった。公明党の言い分によると、「宗教的情操は、一つの宗教に入って修業しないと分からない」ものだからだそうである。

 しかし、「宗教的情操」とはそのような特殊なことではない。この言葉が意味しているのは「人間を超えた存在を感じとり、それによって人間が謙虚になる」ことである。民間教育臨調の「第三部会」(家庭教育部会)の報告書である『家庭教育の再生』(西澤潤一監修・林道義編著、学事出版、二〇〇五年九月)には、こう書かれている。

 「子供の心身の発達にとって最も基本となるのは健全な情緒の発達である。好ましい情緒が育ち、それが安定している場合にはじめて、身体も順調に発達し、よい意志が現われ、知的成長も可能になる。

 美しい情緒が発達するためには、なによりもまず乳幼児期における母子の(ひいては家族間の)良い感情のやり取りが基本になる。人を喜ばせる、また人から喜びや幸せをもらうことの快さを味わわせることが肝要である。

 伝統文化の美しさやそこに表わされている情緒を折りにふれて感じ取る機会をふやすことも、情操教育にとって必要な環境と言わなければならない。その意味では家庭で節句などの季節ごとの行事を行い、そこに表わされている情緒を心に染み込ませることが豊かな情操を育む基礎である。

 節句や祭りといった日本独特の伝統行事の中には、とくに家族の縦のつながりや横のつながり、すなわち先祖とのつながり、子孫とのつながり、共同体とのつながり、などを実感させるものが豊富である。こうした経験を通じて家族への愛情を体験した子供は、やがて健全な愛国心をも感じ取るようになるであろう。」

 「さらに、人間を超えた存在を感じ取り、その存在に対する尊敬や畏怖の念を感じ取る場を多く作る工夫が必要である。たとえば、大自然の大きさと畏怖を感じさせる機会を作れば、そこから人間の小ささを感じ取り、謙虚さを学ぶことができる。」(二四〜二六頁)

 「情操教育」とか「宗教的情操教育」という場合に、きわめて常識的には以上のようなことを念頭に置いているのが普通である。なにか特殊な宗教集団に所属し、修業して体得しなければならないような精神状態は考えられていない。具体的な宗教団体に加入している人もいない人も、普遍的に持ちうるものである。宗教的情操は創価学会にでも入会しないと理解できるようにならないかのような物言いは不遜であり、また世の中一般の常識からひどくかけ離れていると言わざるをえない。

 

「不当な支配に服することなく」

 現行法の第十条「教育行政」には「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」とあるが、政府案はこのうち「不当な支配に服することなく」を踏襲し、ただ「国民全体に対し直接に責任を負って」を削除して、代わりに「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべき」としている。

 「国民全体に直接に責任を負う」という直接民主主義を思わせる文言が削られたのはいいとして、また法律に則って行われるのは当然のことであるとしても、冒頭に「不当な支配に服することなく」が入っていることは大きな問題である。

 確かに現行法が制定された当時においては、いまだ軍国主義によって教育が蹂躙された記憶が生々しい中で、こうした文言が入れられたことは理解できる。しかし、今や日本はれっきとした民主主義国であり、独裁者や軍国主義者による「不当な支配」は考えられない情勢である。

 むしろ逆に、この文言は戦後の教育界において、とくに日教組が政府の教育行政に対抗して横車を押し混乱させるための根拠に使われてきたのである。彼らは国家と教育者を「権力対反権力」という階級的対立関係で見ており、まさに典型的なマルクス主義的階級闘争史観に立ってこの文言を政治活動に利用してきた。

 このような特殊なイデオロギーに利用される可能性のある言葉は不要であり、ただ「法律の定めるところにより、公正かつ適正に行われなければならない」とすれば十分である。ちなみに民主党案には、この文言は見当たらない。

 

仕切り直しが必要では

 以上見てきたように、政府案の中に見られる不当・不要かつ不可解な内容のうち、非常に多くの部分が公明党の圧力によって入れられていると推測することができる。公明党の政策は、愛国心という言葉を使ってはいけないとか、外国人参政権の問題、夫婦別姓などフェミニズム関係の政策など、きわめて左翼的で、他の野党とあまり変わらない。

 そのように思想や政策において水と油のような自民党と公明党が妥協し合って法案を作るということ自体に無理があると言うべきである。せっかく改正の機運が盛り上がってきたところだが、実際に出てきた法案は切り貼りしたまぜこぜの内容であり、格調高いものとは言いかねる。

 相容れない思想を持った政党にキャスティングボートを握られているという実情の中で、無理に改正法案を通すことにこだわらない方がよいのではないか。なにも今日明日に急いで改正する緊急の課題というわけではないのである。

 教育基本法の改正は、十分に納得のいく内容が実現できるようになってからでも遅くはない。左翼思想を随所に入れこんだ法律に変えても、改正の名に反するばかりか、教育のあり方を改善するためになるかどうか疑問である。公明党に頼らざるをえない中での改正は、かえって改悪になりかねない。改正を求めて努力してきた人たちにとっては残念なことだが、ここは我慢をして、他日を期する方がよいのではなかろうか。

 確固とした信念に基づいた国家百年の計に値すべき法律の誕生のために、戦略を根本的に練り直すなど、今一度の再考を促したいと思う。

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