教育 16  

騙されるな! 「民主的」教育論が子供をダメにする

 

        (『正論』平成16年4月号掲載)

 現在、教育基本法改正への動きが停滞しているが、改正に抵抗している勢力は、ただ改正に反対しているだけではない。改正案そのものの中に、改正の精神とは相反する思想を忍び込ませる画策をしているのである。
 もし基本的性格に関する部分に、改正の精神に反する思想が盛り込まれるなら、「愛国心・公共心は大切」「家庭教育も大切」という言葉は並んでいても、根本の間違った思想は元のままだという結果になりかねない。そうした危険は中教審答申の中にも充分に現われている。
 与党の中にも、たとえば通信傍受法を極端に使いにくくさせて換骨奪胎してしまったとか、自衛隊の武器使用にできるだけの足枷をつけようとか、あるいはさまざまな場面で個人思想やジェンダーフリー思想を忍び込ませようという勢力がつねに存在している。こうした勢力に対抗するためには、良識を持っている人々の理論武装を早急に図り、してはならない譲歩をしないように歯止めをかける必要があろう。
 以下、とくに家庭教育の問題を中心にして、教育基本法改正案の中に潜む危険思想を明らかにし、これらの誤った思想を早急に克服することを提案したい。

一 家庭教育の崩壊と立て直し

 家庭の教育力が著しく低下していることは日常の経験から誰もが感じているところだが、客観的な調査の結果からも明かである。たとえば、親がいつも「嘘を言ってはいけない」と言っている割合についての国際比較調査によれば、他の国々(アメリカ、韓国、中国、イギリス等々)ではすべて七割から八割なのに対して、日本はたったの三割程度である。また二歳児を夜の十時以後に寝かせる家庭が半分以上という調査が複数ある。つまり子供には大人とは異なる生活のリズムを習慣づけなければならないという意識を持っている親が、今や半数以下になっているという事実がある。
 躾をしなければならないという意識を持っている親が減っており、叱ることはいかなる場合にも悪いことだと信じている親も増えている。大学生にマナーやルール違反について注意すると、はじめて注意されたと驚く者が多くなっており、そのことにこちらが驚く有様である。注意されてキレて殺人にまでおよんだケースが何度もニュースとなった。
 そもそも親自身が子供だったときに何の躾も受けなかったという者が多くなっている。たとえば、PTAの会合で遅刻や私語が絶えないとか、発表会で人前に飛び出してビデオカメラを廻し続ける、果ては運動会の会場で喫煙や酒盛りをする保護者が出現するに至っている。私の大学でも、いま受験生が教室の下見に訪れるが、付き添ってくる母親が歩きながらパックのジュースを飲んでいる姿を見た。
 「親のマナー違反」については、すでに語り尽くされている。親自身が家庭教育を受けていないし、家庭教育とは何をするものかについてまったく関心がなく、子供を躾なければならないという意識もない。
 そもそも家庭・家族が崩壊していたり、躾の機能を失っている場合も増えている。大阪の弁護士会の調査によれば、凶悪犯の家庭は事実上崩壊しているなど、必ず深刻な問題があった。私の調査によれば、凶悪少年犯罪の場合には、必ず母性が欠けており、父性も不足していた(『母性崩壊』参照)。
 このように、家庭の教育力の低下と言われている現象は、根本的には親が家庭で何かを教えなければならないという意識を持っていないために、家庭が躾の機能を失っているところに起因している。さらに困ったことには、家庭での躾を大切だと考える人たちの中でも、家庭で何を教えなければならないかについて社会的なコンセンサスがなくなっている。
 したがって、家庭の教育力を高めるためには、家族と家庭こそが子供を育てるための基本単位であるということを社会全体で確認し合うことと、その家庭で何を教えるべきかについて早急に社会のコンセンサスを確立または復活させることが必要となる。


二 憲法と教育基本法を改正すべき理由

 家庭教育について国民の意思をまとめていくためには、家庭教育の重要性について憲法と教育基本法の中で明確に唱うことがまず必要となる。

まず理念を高く掲げよ
 家庭教育が人格形成の大切な基礎であるという認識は、すでに国民の非常に多くが共有しており、中教審の答申などにも明記されている。
 たとえば、平成八年七月の中央教育審議会は『二十一世紀を展望した我が国の教育のあり方について』第一次答申において、家庭教育が「すべての教育の出発点」であり、「子供の教育や人格形成に最終的な責任を負うのは家庭」であるとして、家庭の役割を重要視する見方を明確に打ち出している。しかも家庭教育への支援策として、
 1 家庭教育に関する学習機会の充実
 2 子育て支援ネットワークづくりの推進
 3 親子の共同体験の機会の充実
 4 父親の家庭教育参加の支援・促進
を提言した。
 さらには、平成十四年七月には、「今後の家庭教育支援の充実についての懇談会」が報告書を提出したが、この報告書にも「家庭教育がすべての教育の出発点」であるという前提から、子供との接し方や教育の仕方が分からない親の増加という事態に対して、「家庭における子育てや教育を社会全体で応援し支えていく」必要を訴えている。
 これらの例に見られるように、有識者からなる政府の審議会や懇談会で繰り返し家庭教育が基本であることが確認され、家庭教育を支えるための政策の必要性が提言されているにもかかわらず、実際には家庭教育の強化につながる施策が一向に実現しないのはなぜであろうか。
 それは法律による強制力が働いていないからである。もともと日本人には、道徳や教育のような自発性の原理に基づくものは、法律による強制になじまないという考えが根強い。それゆえ教育、とくに家庭教育について法律が口出しすることに対する抵抗感は相当に根強い。これが家庭教育を立て直す上で見過ごすことのできない障害になっている。
 しかし男女共同参画社会基本法に見られるように、国民の意識や観念に関することでさえ、法律によって強制し、各自治体のレベルで条例を定めて強力に推進しようとすれば、望ましくない意識改革や文化革命でさえ進んでしまう。それを思えば、望ましい教育改革を法律で定めて推進することに躊躇する理由はないと言うべきである。
 そもそも法律には理念を掲げる法と、強制力をもった法があり、憲法や教育基本法は理念を掲げる法律であり、直接の強制力を持たない。強制力を持たせるためには、具体的政策を進めるための方法を定めたり、違反に対して処罰の方法を定めた具体的な法律を必要とする。法律の体系としては、まず理念を掲げる基本法があり、次にそれを実行するための具体的な法律や政策を定めなければならない。
 具体的な法律や政策は理念法を土台として作られる。その意味では基本の理念法が最も大切だということになる。家庭教育に関しては、この基本が我が国の憲法と教育基本法に欠けているのであるから、家庭教育が崩壊するのをくい止める手だてを行ないようがないのである。したがって、教育改革を実効性あるものとするためには、早急に憲法と教育基本法の欠陥を是正する改正を実現しなくてはならない。

日本国憲法の欠陥
 憲法と教育基本法の欠陥はどこにあるのか。
 まず憲法の欠陥。家庭教育に関して言うなら、日本国憲法の最大の欠陥は、家族が国の最も大切な単位だということを唱っていない点にある。
 憲法の中で婚姻や家族について書かれているのは第二四条においてであるが、そこには「家族は大切である」とか「家族は社会の基本単位である」とは書かれていない。ただ「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない」と書かれているにすぎない。
 ここには「個人の尊厳」「法の下の平等」「両性の本質的平等」については書かれているが、しかし家族が子供を育てる基礎単位であるという視点はまったく見られない。
 もし育児や家庭教育の基本単位だという視点を欠いたまま、単に「個人の尊厳と平等」だけを唱うならば、子供を躾るために必要かつ適切な上下関係までも否定されかねない。そうなると、「子どもの人権」を楯に、未成年者が成人と同等の人権や発言権を持つことにされてしまう。それでは子供の教育や躾は不可能になってしまうであろう。子供の人権や自主性だけを強調する「民主的」教育論がいかに教育を毒しているかについては、後ほど詳しく論ずる。
 ここで参考までに、憲法に家族が基本単位だということを書いてない国々と、明確な「家族」保護規定を持っている国々とを比較し、家族や家庭教育をめぐる状況がどう違っているかを簡単に見ておこう。
 憲法に家族条項がない国々、たとえばアメリカ合衆国、フランス、スウェーデン、デンマークなどでは、離婚率と犯罪率が高く、基本家族の形態が少なくなっているのである。
 それに対して、離婚率が比較的少なく、基本家族の形態が比較的よく残っているドイツ、イタリア、フィリピンといった国々には、明確な「家族」保護規定が存在している。(それらの国々の家族条項の条文は拙著『家族の復権』のp.178に紹介してある。)
 この法則的とも言える違いは決して偶然ではないであろう。憲法に家族条項があれば国の意志、政治家や官僚の意識、国民の意識にも影響を与え、家族や家庭教育を大切にする行動や政策を生み出す原動力になるであろう。
 この法則に唯一と言っていいほどに反しているのが日本である。日本人はなによりも家族を最も大切だと思っているし(『家族の復権』序章)、家庭教育も大切だと思っている。それなのに憲法や教育基本法に家族条項がないというのは、かなり異様なことと言わざるをえない。早急に家族条項を入れて正常化しなければならない。

教育基本法の欠陥
 教育基本法においては、家庭教育が教育の最も大切な基礎だということは唱われていない。
 家庭教育については、第七条(社会教育)の中に、「社会教育」の一部という認識のもとに、次のように述べられているにすぎない。
 「家庭教育および勤労の場所その他社会において行われる教育は、国および地方公共団体によって奨励されなければならない。」
 「A国および地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。」
 要するに、家庭教育を社会教育の一環として国と自治体が奨励すべしということと、そのために施設を設置し利用しやすいように努めると述べられているだけである。つまりは、家庭教育は学校教育「以外」として分類されていると言っても過言ではない扱いである。家庭教育が学校教育等のすべての教育の基礎だという理解は皆無だと言っていい。これは決定的な認識不足または欠陥だと言うべきである。
 さらに重大な欠陥は、家庭教育において、誰が誰を教育するのかまったく不明瞭なままにされている点である。
 所詮、教育とは、誰がいつ誰をどのように教育するかという問題に帰する。これを明らかにしないでは、教育論としてはまったく無意味になってしまう。
 具体的に問題点を示そう。
 学校教育に関してはこの点は明瞭に定められている。
 教育基本法の第六条(学校教育)には、学校は公の性質を持つとされており、それを受けて学校教育法第二十二条と第三十九条には「就学義務」が定められ、保護者は子供に小学校と中学校の義務教育を受けさせる義務を負うことが明記されている。これによって、義務教育は公としての国や地方公共団体が与えるものであり、保護者はその教育を受けさせる義務を負うことが明記されている。学校教育については、「誰がいつ誰を教育する」という与え手と受け手は明かである。
 しかるに家庭教育については、「誰が誰を」教育するのか、まったく書かれていない。恐らく家庭教育について、誰が誰を教育するのかという問題意識そのものを起草者が明瞭に意識していなかったのではないか。だからこそ、家庭教育を「社会教育」という項目に入れて、何の疑問も生じなかったのであろう。教育の与え手、受け手を明瞭に意識していたなら、家庭教育を「社会教育」の項目の中に入れて平然としている神経にはなれなかったろう。両者は与え手と受け手において、まったく異なるものだからである。
 社会教育の場合には、受け手は成人が想定されており老若男女さまざまである。与え手も個人あり団体あり、またその資格もさまざまであり、内容も千差万別、職業教育から教養教育、趣味やスポーツなど多岐にわたっている。ついでに言えば「生涯教育」という場合に幼児から高齢者までを含むのか、成人を対象に考えているのか必ずしも明確ではない。「生涯教育」を重視するというのであれば、教育の与え手と受け手を明確にしないと、議論が宙に浮いてしまうだろう。
 家庭教育の与え手は親権者であるということ、親権者は子供に躾を施す責任と義務があることを、明記するのでなければならない。

土台としての教育勅語の廃止
 教育基本法の中に、家庭教育の重要性について明記されていないのは、なぜであろうか。じつは教育基本法が制定されたときには、その前提となるものが存在していたからである。それは教育勅語である。教育基本法は教育勅語の存在を前提にしていたのである。
 教育勅語には、家庭教育に当たる内容が次のように記されていた。「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ……」
 後半になると家庭のみでなく学校や社会で教えられることも含まれるが、家庭での訓育によって涵養されるべき徳目が網羅されている。こうした格調高い文章によって教育の基本が宣言されており、それを受ける形で教育基本法が制定されたのである。
 ところがその後、教育勅語は廃止されてしまった。いわば土台があるからと安心してその上に家を建てたところが、土台だけ壊されたようなものである。以来日本人はとくに家庭教育に関して土台のない家に住んできたようなものであり、土台のない家が崩壊するのは当然と言えば当然である。
 すでに遅すぎたとはいえ、早急に土台を作る作業に取りかからなければならない。土台とは、憲法の中に家族が社会の基本単位であるという規定を入れ、教育基本法の中に家庭教育が基礎であるという条項を入れることである。


三 今回の中教審答申の疑問点

 その方向性は、今やすでに大部分の国民の共通の了解となっており、また数次の中教審の答申によって確認されている。それは政府の方針としてはっきりと確認されていると言ってよい。
 念のため、この点が今回の中教審の答申ではどうなっているかを見てみよう。さすがに家庭教育の重要性は充分に意識されており、「家庭教育」が独立の項目となって「社会教育」からはっきりと区別されている。
 「家庭は教育の原点であり、すべての教育の出発点である。親(保護者)は、人生最初の教師として、特に、豊かな情操や基本的な生活習慣、家族や他人に対する思いやり、善悪の判断などの基本的倫理観、社会的なマナー、自制心や自立心を養う上で、重要な役割を担っている。」
 まったく正しい認識であり、これまで何度かまとめられてきた答申の延長線上に、さらに明確に正しい方向が示されていると言える。あとはこの方針に沿って、まず教育基本法を改正し、教育改革を実践していくだけである。
 ただし、その実践の方法を考えるときに、看過すべきでない重大な疑問点が混入している箇所に注目しなければならない。
 答申は「新たな規定」が必要だとして、次のように述べている。
 「家庭教育の現状を考えると、それぞれの家庭(保護者)が子どもの教育に対する責任を自覚し、自らの役割について改めて認識を深めることがまず重要であるとの観点から、子どもに基本的な生活習慣を身に付けさせることや、豊かな情操をはぐくむことなど、家庭の果たすべき役割や責任について新たに規定することが適当である。」
 家庭教育において教えられる内容についてはまったく異論はないし、親(保護者)の責任について言及しているのも賛成である。だが「責任」についてだけ言及し、「義務」については何も語らないのは、どういうことであろうか。「責任」があれば当然「義務」が生ずるはずである。しかしその当然生ずるはずの「義務」についてはまったくふれられていない。
 「義務」の伴わない「責任」とはどういうものかと疑問に思いながら、次を読んで、驚いた。「責任」の概念の理解が、答申を書いた人たちと私とでは、まったく逆だったのである。
 答申には、続いてこう書かれている。
 「なお、その際には、家庭が子どもの教育に第一義的な責任を持っているという観点に充分留意し、最小限の範囲で規定することが適当である。」
 新たな規定が必要だと言っておきながら、その規定は「最小限でなければならない」というのは、不可解である。「必要」なものならば、最大限に強調すべきではないのか。じつはそう思うのは、「責任」という言葉を私と同じ意味に取っている人なのである。私は「責任」という言葉を積極的な意味で理解し、たとえば「責任をもって何々を行う」「したがって結果を出す責任を負う」「だからその行為は当然義務となる」と理解していたのである。
 「責任」という言葉をこのように理解している者から見ると、「責任がある」といいながら、急転直下「最小限の規定にせよ」と言われると、「矛盾ではないか」と言いたくなってしまうであろう。
 よく読んでみると、答申を書いた人たちの意識においては、「責任」という言葉は逆の意味で、つまり他人の介入は無用だという意味で理解されているのである。すなわち親が「第一義的な責任を負っている」のだから、他人は口出しすべきではない、口出しするとしても最小限に限るべきだ、という理解なのである。こうなると、「第一義的な責任」という言葉は「他人の口出しを排除する治外法権」という意味に限りなく近づいてしまう。
 となると、最後に書かれた「最小限」にとどめよという表現によって、それまで書かれていた「責任」という言葉が、すべて親の専断事項のように解釈され、他人の介入を拒む根拠にされかねない。
 それどころか、家庭での教育は親の責任であり、どう育てようと親の自由だから口出し無用だなどという暴論に道を開くことにもなりかねない。そういう主張が勢いを持ってしまうと、いくら家庭教育の重要性を叫んでも、実際には国や自治体や有志等の働きかけはまったく不可能になってしまうであろう。
 児童虐待や家庭内暴力については、「家庭の中への不介入」という原則が問題の解決にどれだけ障害になってきたか、今ではよく知られている。もちろん暴力に対する対処と、自発的な親による子供の躾とを同列に論じろと言うのではない。家庭教育の現場に踏み込んで直接指導せよなどという乱暴なことを言いたいのでもない。
 しかし、少なくとも、子供に最低限の教育・躾を行うことが親の「義務」であるということだけは、堂々と唱うことができるのでなければならない。
 「最低限の範囲で」という言葉を付け加えなければならないと考えた委員たちは、「人権」だの「主体性」だのという幽霊に恐れをなして腰が引けていると言わざるをえない。家庭教育の重要性を唱うのならば、家庭教育に対する親の義務について、はっきりと打ち出す気構えがなくてはならない。答申のような腰の引けた弱腰の姿勢では、教育改革の難事業は到底なしえないであろう。


四 改正を阻む「民主的」教育論の害毒

 じつはこうした腰の引けた家庭教育論の背後には、家庭での躾に否定的な発言を繰り返している、「人権」派の「民主的」教育論者たちの群れがいる。彼らこそ、家庭教育を基礎にすべき教育基本法改正にとっての最大の障害と言わなければならない。
 その中から、とくにメディアによく登場し著書も多い二人の教育評論家の教育論を取り上げて、その欺瞞性と危険性を明らかにしておきたい。
 一人は広田照幸氏(東大助教授・教育社会学)である。氏は著書『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)の中で、「昔は家庭のしつけがしっかりしていた」「このごろ家庭の教育力が低下した」(しつけの衰退が青少年事件の原因である)という見方は事実に反しているとして、日本人は昔から家庭でのしつけをしてこなかった、「家族のしつけは衰えるどころか、以前よりもはるかに熱心になされるようになってきている」(一九八頁)という認識を示している。さらに氏は、しつけをできるだけ過小評価しようとして、次のような詭弁を弄している。
 「『もっと子供のしつけに熱心になれ』と言われてもそれどころではない、多忙な親や不和の夫婦もあるだろう。いくら親が注意を払ってしつけをしていっても、思いがけない、とんでもないことをしでかしてしまう子供に育ってしまう可能性もゼロにはならない。しつけや教育というものは、しょせんその程度のものでしかない。」(一九九頁)

 まったく論理的でない文章である。躾をできない親がいるからといって、躾をしなくていいということにはならないし、いくら躾をしようとしても「とんでもない」子供に育つ場合もあるからといって、躾が無駄だということにはならない。
 「家庭のしつけにさまざまな問題の原因を求める議論は、すべての親に『完璧な両親』になることを求めるのだが、そんな時代はくるはずがないし、それがもし実現したらずいぶん気持ちの悪い社会になるはずである。人間の生き方は多様だし、親はそもそも子供のためだけに生きているわけではないのだ。」(一九九〜二〇〇頁)
 「家庭のしつけ」や「家庭教育」が大切だと言うと、どうして「完璧な両親」を求めることになるのか、まったく分からない。「親はそもそも子供のためだけに生きているわけではない」ということが、どうして躾をしなくていいということになるのか、分からない。なんともお粗末な非論理的文章である。
 こうした詭弁によって、彼は何を言いたいのであろうか。要するに躾や家庭教育の衰退が青少年の問題行動の原因ではないと言いたいのである。彼の隠された動機は、なんとかして家庭教育の重要性を否定したいのである。
 広田氏は学問や言論を「言いくるめ」のために使うことが多い。たとえば、『朝日新聞』平成12年8月25日(私は地方版で見たから、夕刊のある地域では前日の夕刊に掲載されたかもしれない)の文化欄に、広田氏の「メディアと『青少年凶悪化』幻想」という文が載った。
 趣旨は、青少年の犯罪が凶悪化しているというのはメディアがふりまいている幻想であり、凶悪な犯罪は「ごく例外的に起きる」事件であり、「ごくまれにしか起きない例外的事件」「希有な事件」に目をうばわれて少年法の「保護主義的な枠組みの長所を失うのは、リスクが大きすぎる」というものである。
 前掲著書でも、青少年の犯罪は増えていないだとか、「非行の大半は、万引きや自転車・オートバイ泥棒のような、『ちんけな』逸脱で占められている」と、ことさらに過小評価しようとしている。もちろんそれらの「ちんけな」犯罪は決して過小評価されるべきではなく、重大な犯罪への入口になっている。また青少年の犯罪は一般の犯罪と同様に一九九六年ころから急に増えており、現在も増え続けている。(統計を恣意的にすりかえて、検挙数は増えていないと言い張る者もいるが、検挙率が減っているので、発生件数は増えても検挙数は横ばいになる。こうした詭弁による少年犯罪の過小評価は、すでに前田雅英『少年犯罪 統計から見たその実像』東大出版会、同『日本の治安は再生できるか』ちくま新書、によって完全に反論されている。)
 こうしたすりかえ、ごまかしを使いたくなるのは、家庭教育に対する一種の拒否反応があるからだろう。躾はある種の強制であり、押しつけであるという面のあることは否定できない。意識や行動様式を習慣化するのが躾であり、社会人となるために必要な躾は繰り返し教えこまなければ身に付かないものである。自分で自主的に学びなさいと言っていては不可能である。しかるにこの手の自主性尊重論者たちは、自分が躾を押しつけられたくないという感覚から、躾を軽視したり、家庭の教育力の低下が犯罪の原因だという見方を執拗に否定したがるのである。
 
 もう一人、家庭教育の大切さを否定する意見を執拗に繰り返しているのが尾木直樹氏である。
 氏は著書『子どもの危機をどう見るか』(岩波新書、二〇〇〇年)の中で、二〇〇〇年に出された「教育改革国民会議」(首相の私的諮問機関・江崎玲於奈会長)のアピール案の中にある「道徳の時間の中で、悪いことをしたら相応の罰が子供に対して与えられることを教える」「家庭が自分の子供の行動に責任を持つ」ことを、「今日の典型的な子ども観」だとして、否定している。
 すなわちその間違った「子ども観」とは、「子どもは大人への発展途上人であり、未熟な人間である、したがって、成熟した大人には何が正しいかを子どもに教え込む義務があるのであり、そのためには罰を与える必要がある。しかも、そうした教育活動は、一にも二にもまずは家庭で行われなければならない、という考え方です。」(一四二〜三頁)
 この子供観がのどこがいけないのか、私にはさっぱり分からない。子供は大人になりつつある存在であるということや、子供は未熟な人間であるということ、また善悪の基本を教えること、それらはまず家庭で最初に教えるべきこと、これらはあまりにも当然な常識ではないであろうか。
 こういうあまりにも当然の教育観を否定した上で、どういう教育が望ましいというのであろうか。その点について尾木氏の考えはこうである。
 現代は「保護される子ども」がなくなり、その意味での「子ども期」がなくなりつつある時代である。だから子供も大人も(対等の立場で)「共生」する「質の高い民主主義」を実現しなければならない。「個々が違いを認め合い尊重し合いながら、家庭や地域や学校や社会を作り出していくこと、そのプロセスに子どもが主体的に参加してゆくこと、その中で子どもの自己決定権を育んでいくこと」(一七六頁)が理想とされる。
 たとえば、学校では「スクール・デモクラシー」が必要だとされる。「スクール・デモクラシーとは、一人ひとりの子どもが自分らしく生きることができるように成長・発達を支援する徹底した参加中心の民主主義と、その表裏関係にある自己責任能力を身につけさせる学校理念のこと」であり、これが実現されれば、今日発生している諸問題は「創造的な解決へと進む」そうである。
 なんとも極楽とんぼのような楽観論、どこかで聞いたような「地上の楽園」のから約束だが、氏の現実認識は真実とはまったく逆であると言うしかない。
 今日の子供の問題は、子供たちが自己責任能力はおろか、自己コントロール能力も自主性も個性もなにもないことを示している。そういう子供に大人と同じ権利と責任を持たせることができるというのは、幻想であり空論であると言うほかない。これがいま日本で最も多くメディアに登場している教育評論家のご託宣なのである。
 氏の教育論は、すでに破綻した「ストレス原因論」であり、子供を競争させ管理しているからいけないので、「もっとゆとりを」与え、自由に自主的に「学ぶのを支援」すれば、子供はのびのびと育つ、という子供観と教育観を前提にしている。その方針で寺脇研氏を中心に進めた教育改革によって、ますます子供の犯罪化が進み、学力崩壊が進んだことをまったく反省しないまま、氏は依然として「子どものストレスを減らそう」(『読売新聞』平成一五年九月二二日付「論点」)と同じ歌を歌い続けている。しかも氏は革新派だけでなく、保守派からも珍重され、テレビ・新聞はじめメディアに最も多く意見やコメントを発表している。こういう偽善的な空理空論がもてはやされるようでは、日本の本当の教育改革は実現しないであろう。


五 忍び込む個人単位思想

 しかし、これらの「民主的」教育論の理論的間違いを指摘するだけではまだ不十分であろう。その背後に、社会の白アリとしての個人単位思想が隠されていることを暴かなくてはならない。
 個人単位思想とは、個人をつねに自立し正しい判断力を持った完成した単位と考え、その個人が集まって社会や国家を作り、意思決定をすれば理想の社会が出来上がると考える思想である。
 この思想の信奉者にとっては、その自立した個人なるものが、どのようにして出来上がるのかは関心の外である。個人はどこからか自動的に現われて主体となる。彼らの想定する個人は、社会によって作られるのではなく、いきなり現われて社会の前提となる。いわば抽象的な思考の産物であり、それを基にして社会が作られるべきだとされる。
 この思想のひな形はホッブスやルソーやロックの社会契約説である。性悪説に立って個人は邪悪だから一斉に権利を放棄して国家に預けるべしと考えるか、性善説に立って個人は善であるから予定調和的によい国家を作ることができると考えるかの違いはあっても、初めに社会とは無関係に個人が出来上がっていて、それを前提にして社会が形成されると捉えていることに変わりがない。
 しかし、個人が社会を構成する単位となるためには、その個人はしっかりとした自我を持っていなくてはならない。ところが当然ながら個人の自我は社会と無関係に形成されるのではない。家族や社会からさまざまな影響を受け、価値観を継承しながら、それらを組み合わせて自我が形成される。したがって自我というものは初めから個性的であるというよりは、時代や社会の枠の中でかなり画一的な性質を持つのである。その画一性というものは、一概に悪いものではなく、基本的なところではある程度以上に画一的でないと社会は成り立っていかないのである。要するに家族や社会の前に個人の自我があるのではなく、家族や社会によって自我が形成されるのである。(自我形成と社会の価値観との関係については、拙著『無意識への扉をひらく ユング心理学入門1』PHP新書、第三話「自我とコンプレックス」を参照されたい)
 それゆえ、子供の自我形成にあたって、まず前提になるのが家族や社会であり、その文化的な伝統であることは、理の当然と言わなければならない。それらの中にある望ましい価値をしっかりと子供に吸収させることが自我形成の基本とならなければならない。
 つまり「初めに個人ありき」ではなく、個人が形成される前提として家族や社会があるという現実をしっかりと認識し、その家族や社会の影響をできるだけよくすることに腐心するのが教育の課題である。
 個人単位思想においては、この順番が逆になっている。彼らは、どこでどう人格形成されたのか分からない、どこからか突然現われた出自不明の個人が社会を形成すると考えているが、それは自我形成のなんたるかを知らない空理空論と言わざるをえない。
 ただしこの理論は単なる愚かな空理空論ではない。個人単位思想を唱える者たちが公言しているように、最高位に置かれた「個人の自己決定権」とは「システムを空洞化し腐蝕させる」(つまりは家族や社会を崩し破壊する)ための戦略として明確に位置づけられているのである(上野千鶴子)。(この点については拙著『家族の復権』中公新書、第四章の四「家族を破壊する個人単位思想」を参照されたい)
 この「社会の白アリ」としての個人単位思想が、今回の中教審の答申の中に忍び込んでいるところに、日本の病根の深さが現われているのである。
 親の「責任」という言葉が、個人単位思想を基にして使われるなら、それは「個人の勝手」「親の治外法権」を認めることになり、事実上の親の無責任を助長してしまうであろう。親の責任とは、共同体の文化的価値意識を子供に継承させ、社会規範を教え、それにそって自己をコントロールする能力をつけさせる義務を意味するのでなければならない。
 このような意味での家庭教育の方向性を国民のコンセンサスにすることをこそ、教育基本法改正は目指さなければならない。幸い民間教育臨調では、正しい教育基本法改正の方向性を示すために報告書を作成する作業を進めており、全体の方向性を指し示す本についで、家庭教育部会の報告書もほぼ出来上がり、引き続いて公刊する目処がついている。この内容は委員各位のご努力によって非常に充実したものになっており、家庭教育の指針として申し分のないものである。続いて教育理念部会、学校教育部会、教育制度部会の報告書も完成するはずである。これらの成果を、日本の教育の立て直しに十二分に活用していただきたい。