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14 教育基本法改正の理念──木村治美氏の見当はずれ

 平成15年9月6日付の『産経新聞』「正論」欄に木村治美氏の「基本法は生涯学習の理念忘れずに──学校教育中心主義から脱却せよ」という文章が掲載された。

 教育基本法改正の方向を打ち出した中央教育審議会(中教審)の最終答申について、木村氏は「説得力を欠く」として、その原因は15年前の「臨時教育審議会」(臨教審)の答申の中にあった大切な原理が忘れられているからだとしている。

 

 教育基本法の改正に賛成する者は多いが、必要なしの根強い反論に対して、説得力を欠くのはなぜか。

 それは、教育界の未曾有の構造改革と言える「生涯学習社会」という枠組みが当事者によって充分に意識されていないからである。

 伝統文化の尊重や宗教的情操、愛国心、公共心の涵養などの項目は出そろっている。家庭教育重視、地域社会の教育力への期待なども、遺漏なく織り込まれ済みである。

 しかし、これらはいわば各論である。もっと本質的なものが不用意にも見過ごされている。

 (中略)

 それは生涯学習社会の実現である。明治以来、学校教育中心であった日本の後発国的教育体制を、先進国にふさわしく、また時代の要請でもある生涯学習社会に変えていこうとするものだ。

 (中略)

 (15年前の)臨教審は、学校教育、家庭教育、地域社会の教育、すべてを包み込むものとして、生涯学習社会を構想した。

 このような新しい構造の中で、人々は、ときに教育される者として、ときに自ら学習する者として、また他人の教育に関わる者としての主体的な生涯を歩むはずである。

 (中略)

 (今回の中教審の)答申に参画した審議会の委員が、各論にこだわるあまり、生涯学習社会が真に意味するものに問題意識をもたなかったのは、まことに残念である。

 

 困ったものである。現在の教育問題の本質がまるで分かっていない。見当はずれの評論と言うべきだ。

 木村氏の言っていることは、「生涯学習社会」という原理は、各論に対する総論ないしは理念の地位にあるべきだ」または「生涯学習社会という原理が実現すれば、現在の教育問題は解決する」ということである。

 生涯学習社会という考え方には私も大賛成である。個人が生涯のどの時期においても、また社会のどの部分においても、学びつづけるということは、必要だし大切なことである。

 しかし、その考え方が、教育論の「総論」または「根本理念」としての地位を要求するという点になると、首をかしげざるをえない。

 教育の基本理念とは、青少年の人格と能力を発達させ、社会(国家)の構成員としてふさわしい者にすることでなければならない。子供の人格を正しく発達させるということこそ、教育の基本である。教育とは子供の人格教育の謂いでなければならない。

 この総論に当たる理念については、今回の中教審の最終答申は、きわめて明確に述べている。すなわち第一章「教育の課題と今後の教育の基本的方向について」の「[2] 21世紀の教育が目指すもの」の冒頭には

 

 教育には、人格の完成、個人の能力伸張、自立した人間育成という使命と、国家や社会の形成者たる国民を育成するという使命がある。

 

と明瞭に述べられている。くだいて言えば、子供をきちんとした人格をもった大人にするのが教育の根本だと言っているのである。

 だとすれば、家庭教育と学校教育が中心にならなければならないことは火を見るより明らかである。「学校教育中心が後発国的」だとか、「先進国にふさわしくない」などという言い方は、見識を欠いた妄言と言うべきである。後進国であろうが先進国であろうが、国民国家であるかぎり学校教育はいつでも中心でなければならない。それに加えて、現在の日本ではとくに家庭教育の重要性が増大している。したがって家庭教育と学校教育は教育の車の両輪と言うべきである。

 今日の教育の荒廃は、「子供自らが学習の主体」だとして、「指導」や「教える」ことを放棄させてきた、「主体的学習」という幻想ないしは偽善によるところが大きいのだ。

 しかるに木村氏は、生涯学習社会では「人々は、ときに教育される者として、ときに自ら学習する者として、また他人の教育に関わる者としての主体的な生涯を歩むはずである」と脳天気な理想を説いている。こういう理念から、「子供が主体的に自ら学ぶ」のを「教師はただ見守るだけ」に徹しよという極端な「子供主体」論が、さらには「ゆとりさえ与えれば子供は学ぶ気を出して自ら学習していく」という机上の空論が出てきて、今日の教育の混乱や学力低下をまねいたのだ。

 今回の中教審の答申は、15年前の臨教審以来急速に進んだ教育の荒廃に対する反省から出発しているのである。それを15年前の認識に戻そうとするのは、現実に対する診断と処方を間違っているとしか言いようがない。

 木村治美氏は、せっかくいい方向が出てきたところに、水を差す役目を担っている。先には、せっかくジェンダーフリー批判が大きな流れになりそうになった矢先に、「男女の違いをミニマムにせよ」と要求するラディカルフェミニズムと同じ発想に立って、男女区別への反感を述べたてて、ジェンダーフリー批判に水を差そうとした。(「母性とフェミニズム」27参照)

 今回も同様である。せっかく伝統文化の尊重や宗教的情操、愛国心、公共心の涵養、家庭教育の重要性が盛り込まれたのに、それらを単なる「各論」へと貶め、「生涯学習」という「もっと本質的なものが不用意にも見過ごされている」とする。不用意に見過ごしたのではない。木村氏が「各論」だと言ったものの方が「生涯学習」よりももっと大切だと考えたのである。なぜなら、それらを涵養することが子供の教育にとって最も大切だと考えられたからである。そしてそれらの項目を統括する原理が人格教育だと、はっきりと捉えられている。

 今回の中教審の考え方は、フェミニズムへの過度の譲歩を別とすれば、基本的には正しい観点に立っているのである。木村氏は自らが委員として参加した15年前の臨教審にこだわるあまり、教育の真の問題点を見誤ったと言うべきである。