教育

1 教育における父性の役割

(学士会・夕食会講演 平成11年4月)              

(学士会『午餐会・夕食会 講演特集号』 平成11年11月)              

 

 教育には家庭教育、学校教育、社会教育といろいろあります。教育における父性といいましても、本日のお話は、家庭教育に限らないということで聞いていただければと思います。ご存じの通り、学級崩壊、学校崩壊まで起きて、この頃ずいぶん学校が荒れております。その原因については、諸説粉々ですが、病気を治すには正しい診断が必要なように、間違った診断をしていたのでは、いくら努力をしても、症状は改善されません。どこが病んでいるのか、正しい診断をすることが大切です。教育の専門家、また文部省辺りでも、「子どもたちが『学校の勉強が面白くない』と言っている。授業を面白くしないからいけない」、「半分以上の子どもが『勉強が分からない』と言っている。勉強が難しすぎるから、もっと誰でも分かるように、やさしくすべきである」といった診断と対処がいちばん勢いのある意見です。

 しかし、ここにいらっしゃる方々のように勉強ができる方は知識を得る楽しさが分かるし、勉強が面白かったかもしれませんが、昔から大部分の子は勉強なんて分からないし、面白くなかったのです。どうして以前は荒れなかったのに、いまだけ荒れるのか、その説明がつかないとなれば、その診断はおかしいということになります。勉強が難しいなら、やさしくすればいいという意見もありますが、やさしくしたら日本の国力が落ちるばかりです。

 もし本当に勉強を分かりやすくするため、面白くするためだったら、能力別クラスにすべきです。そうすれば、日本全体の学力を落とすことなく、勉強を分かりやすく、面白くすることができます。いまや教師の学力、指導力そのものが落ちているのに、できる子もできない子も一緒にして、両方に分かるようにしかも面白くせよということが無理な要求なのです。そんな無理なことをやろうとするから、程度を落とすしかなくなってしまうのです。

 では、もし能力別クラスにしたら、学級崩壊がなくなるかというと、私は絶対になくならないと思います。なぜかというと、勉強が分からないから崩壊が起きているという診断が間違っているからです。

 では、私の診断はどうなのかと言えば、今日の演題どおり、「父性が足らないから」ということです。では父性とは何か。父性について説明するためには定義から始めると分かりやすいと思われるかもしれませんが、じつは定義を言っても分かるようにはなりません。定義を話す前に、私が父性について注目するようになった事情からお話してみる方が分かりやすいと思います。

 

新しいタイプの心の病

 私は、法学部を出てから経済学を学び、哲学もやり、結局、いま研究しているのが深層心理学、あるいは臨床心理学という分野です。臨床心理学というのは心理相談にのったり、カウンセリングをしますが、15年くらい前から、子どもたちの様子がいままでとまったく違っていることに気づきました。これはいまでは大勢の方が指摘していますが、当時そのことに気がついた人はあまりおらず、私が最初とは言いませんが、非常に早くその現象に気がついたほうだと思います。

 それまで問題をかかえた子どもたちは、一言で言えば母性が足らない、やさしさが足らない、育てられる過程で親の配慮が足らない子どもであり、攻撃性を増して教室で暴れたり、いわゆる不良になって、暴走族のように徒党を組んで騒音をまきちらして走り回ったりする。こういうケースを私は「他害的」とか「他虐的」と名づけました。犯罪に至る場合は、人を脅して金品を奪う、いじめる、学校で暴れるといったタイプの犯罪になります。それまでの問題児は大体そういうタイプが多かったのです。

 ところが15年前くらいから、心の病や犯罪のタイプとして、まったくそれまでとは違う新しいものが出てきました。心の病の型としては、エネルギーがない、無気力で何もする気になれない。要するに無気力症といわれる状態で、専門用語でアパシーといいます。鬱病とはちょっと違うのですが、鬱的な状態になります。それまでの心の病は、周囲の人間にとってはいろいろ困ったことは起こすものの、エネルギーはあったので、カウンセリングや心理療法によってエネルギーの方向を修正すれば、非常に素晴らしい人生を歩むようになります。相談にのって、いろいろ話をしているうちに、要するにエネルギーの出し方が下手なのだということが分かってくる。うまくエネルギーを出すようになると非常に素晴らしい人生を歩むようになって、心理療法をやっているほうもやりがいがあります。

 ところが、新しいタイプはエネルギーそのものがない。無気力で、何もやる気がしない、何かやりたいこともない。たいてい、昼と夜が逆の生活になり、家の人が皆寝静まってから起き出して本を読んだり、パソコンをやったり、電話をしたり、その程度のことしかやれない。あまり外は出歩けない。こういうケースは心理療法をしていても、押しても引いても手応えがないのです。

 犯罪のタイプもまるっきり違ってきました。いままでは他人を傷つけていたのが、自分を傷つけます。シンナーを吸ったり、覚醒剤を飲んだり、はては自殺を図ったり、自分を痛めつけていき、人格崩壊にまで至る例もあります。これを私は「自害的」または「自虐的」と名づけました。

 いま学級崩壊といわれている現象は、じつはこの自害型の子どもたちによって引き起こされていることが分かります。つまり暴力をふるって暴れたり、ものを壊したりするというよりも、自ら崩れていく感じなのです。この特徴を正しくつかまないと、対策を正しく立てることはできません。

 この自害的、自虐的なタイプが犯罪においても、心の病においても、まったく同じように見られたので、どういう原因でこういうタイプの子どもたちが現れてくるのだろうかと考え、いろいろ調べるうちに、こういう子どもたちに一様に見受けられるある特徴が浮かんできました。それは父親がだらしなかったり、父親自身も無気力であったり、自由放任という名の下に子どもと何の関係も持たないとか、父親の存在感が希薄であるという特徴です。そこで、この新しいタイプの問題は父親に関係があるのではないかという仮説を立てて研究していくうちに、人間が育っていくうえで母性だけでは充分ではなくて、父性というものも非常に大切なのだという考えに至ったわけです。

 この無気力な青少年たちの親は団塊の世代の前後に当たり、団塊の世代が育てた子どもに無気力症状が多いようです。そして、原理原則に則って行動できない、いわゆるマニュアル人間、指示待ち人間が多い。団塊の世代を育てた親の世代は、日本が戦争に負けたときに価値観を喪失してしまった人たちで、自分はきちんとした生きかたをしているけれども、子どもには自分の価値観を押しつけず、信念をもって人間としてのモラル、礼儀作法を教えなかった。あるいは教えようとしても子どものほうが「そんな古臭い考えは聞きたくない」と聞く耳を持たなかった。そういう親子の断絶があった世代です。非常に運命的なものだと思いますが、結局、日本中が戦争直後に自信を失ってしまい、それまでの価値観が全部揺らいで、確かなものがなくなってしまった。特殊なイデオロギーは教えてはいけないと自戒する思いが昂じて、人間として最低限身につけるべき人格やモラルさえも教えてはいけないような雰囲気があったように思います。その連鎖が親から子へ、子から孫へと続いている。それが今日の日本の不幸ではないかと感じられます。

 戦後、上の者に盾突いたり、権威を否定すればよいという風潮がありました。もちろん、ただ地位が上だというだけで威張るような権威主義は否定されて然るべきでしょうが、権威・権力は全部悪いものだと決めつける反権威主義の風潮や、既成のものを崩すことがよいことだという思想が蔓延しました。私はそれを「崩しの思想」と呼んでいます。もっとよいものを建設するために壊すのなら結構なことで、悪いものを壊し、よりよいものをつくるという感覚があればよいのですが、ただ壊すだけ、否定すればするほどよいという全共闘運動が広まったのも、ちょうど団塊の世代でした。

 10年ほど前、私は雑誌で小此木啓吾先生と「日本の父性について」という対談をしたり、学術論文を出したりしたのですが、誰も相手にしてくれませんでした。学術論文はあまり大勢の人の目には触れませんが、専門家なら注目してもよさそうなものなのに、何の反応もありませんでした。10年経って、ようやく私の説が受け入れられるようになり、中公新書から出しました『父性の復権』(1996年刊)は、ありがたいことにベストセラーになり、たくさんの方に読んでいただきました。

 

父性とは何か

 ここで父性とはどういうことか、私の定義を申します。要するに、父性というのはリーダーシップを発揮して家族をまとめ、理念を掲げ、社会規範を教え、文化を伝えたりすることで、言葉でいうと簡単ですが、父親の役目というのはなかなか大変なものだと思います。皆さんも多分、子どもを育てるのに父親は何もしなくていいと思っていた方が大部分ではないかと思います。私の本の影響もあるのでしょう、「子育てをしない男は父とは呼ばない」という厚生省のポスターが話題になったり、最近になって俄かに、父親も子育てに参加すべきだと言い出しました。実は、あのポスターの「子育て」という言葉は「保育」というニュアンスを含んでいますが、私は保育をせよとは言っておりません。父親もなるべく子どもと接したほうがいいには違いないのですが、やはり3歳までの保育は母親が中心にならなくてはいけません。お母さんにとって、保育というのはいちばん大切な役目なのです。母と子の心がしっかり結びつくことによって子どもの心は安定し、発達する基盤ができます。今日は父性の話なので、母性については言及いたしません。近いうちに『母性の復権』(中公新書)という本を出しますから、それをお読みいただければと思います。

 保育はしなくてもいいが育児はしなくてはいけないとは、父親には保育以外にもっと大事な役目があるという意味です。子どもが3歳ぐらいから少年時代、思春期にかけて、父親には、世の中のルールをきちんと教える、心身を鍛える、人間同士の付き合い方のルールを教えるという大事な役目をきちんと果たすべきなのです。

 私が父性について考えるようになった、もう一つのきっかけをちょっとお話します。私はもう30年ほど大学で講義をしておりますが、ここ10年ぐらい、学生のマナーの低下は目に余るものがあります。授業中の私語がうるさいというのは、だいぶ前から言われておりますが、3回ぐらい怒鳴らないと静かにしない。

 学生たちが何をするかは分かっていますから、私は新学期が始まりますと、最初の時間に、授業中にしてはいけないことを全部並べます。居眠りはいけない。欠伸はいけない。遅刻はいけない。内職はいけない。飲み食いはいけない。こういうことを全部並べないとやめない。

 実は、これらは全部「礼儀を重んじなさい」と言えば一言で足りることです。先生の話を聞いているのに居眠りをしたり、欠伸をするのは礼儀に反していると思うのですが、いまの学生は、小学校、中学校、高校と学校生活を通して、欠伸を注意された経験のある学生は一割しかいません。私が注意しますと、なぜ欠伸を注意するのだろう、と怪訝な顔をする。なぜ欠伸はいけないのか、いろいろ説明を試みましたが、結局、「要するに礼儀に反しているのだ」と言うことにしました。遅刻も、居眠りも、内職も、私に対する礼儀に反しているのだと説明します。では、次の新学期に「礼儀を重んじなさい」と言えば事足りるかというと、そうはいきません。礼儀とは何かを知らないので、その行為が礼儀に反しているかどうか分からない。「礼儀を重んじなさい」と注意をしても効果はないのです。

 こういう精神構造は一体何なのだろうと私は考えました。抽象的な原理原則を言っても理解できない頭になっているので、具体的に個々の指令を出さないと行動できない、いわゆる「マニュアル人間」、「指示待ち人間」になってしまいます。

 彼らはいちいち具体的に個別的に指示をしないと行動しない。原理原則を与えても、自分の判断でどうやっていいか分からないのです。なぜこういう子どもが育つかと言いますと、母親だけで子どものしつけをやると、往々にしてガミガミと注意して、「ほら、片付けなさい」、「ほら、歯を磨きなさい」、「お風呂に入りなさい」、「手を洗いなさい」という調子で、個々の具体的な命令ばかりしがちです。規則正しい生活をするという原理を与えてそのとおりにさせるとか、家の中はきちんときれいにしておくという原則を与えてその応用を教えるという教育をしていない。だから個々の命令を受けたらやればよい、怒鳴られたらおしゃべりをやめればよいと、原理原則が身についていないのです。

 この原理原則を一体どうやって教えるか、原理原則がきちんと頭の中にあって、それにしたがって自分で応用して行動するという資質を育成するのも、父性に関わっているのではないかと私は思います。

 無気力な人たちの心の病を改善するのに、いちばんよい方法は、実は規則正しい生活をさせることです。犯罪に至ったり、更生保護に携わっている自害的な子どもも、まずきちんと規則正しい生活をさせることから始めるのがいちばん効果的だということが分かってきました。原理原則の応用という観点から、父性が必要と括ったのは非常によいアイディアだということがだんだん分かってまいりました。

 学級崩壊の原因になっている子どもたちはクラスに数人います。1人、2人なら学級崩壊にはなりません。4、5人いるともう学級全体がムチャクチャになります。この4、5人の子どもたちがどういう特徴を持っているかを調べますと、明白な特徴が幼稚園のときにすでに現れている。先生が「さあ、お歌の時間ですよ」とオルガンを弾けば、子どもたちが一緒に歌うというのが当たり前の風景でした。「折り紙の時間ですよ」とか「紙芝居を見ましょうね」と先生が言えば、子どもたちは注目し、先生の言葉に従う。それがわれわれの知っている普通の子どもでした。ところがいま、先生のいうことをきかない子どもが増えて保育園の保母さんや幼稚園の先生たちが大変困っているそうです。全体から見るとまだ少ないのですが、「歌なんて歌いたくないよ」と勝手に外に行って遊んだり、「折り紙なんかしたくない」と自分の好きなことをやっているような、いままで存在しなかったタイプが出てきました。皆と一緒に行動しない、先生の言うことにも従わない、協調性に欠ける子どもがどんどん増えて、最近では幼稚園の学級崩壊も存在するようになってきました。

 こういった園児は小学校に入学しても同じ行動をします。まず40分くらいの授業中、実質的には30分ぐらいの間、机に座って先生の勉強の説明を聞くことができない。先日NHKで学級崩壊の現実の場面を放映していましたが、1年生の授業で女の先生が黒板に向かって「2+2=4ですよ」と説明しているのに、1人の子どもがみんなの座っている机の上を裸足で渡り歩いている。この映像を見て、私はびっくりしましたが、もっとショックを受けたのは、その児童を先生が放任し、注意もせずに、ただ「2+2=4ですよ」と説明をしている。先生は何のためにいるのかと、信じられない光景でした。

 机の上を渡り歩くのは極端としても、授業中に席を離れて歩きまわる子が何人も出てきて、先生は注意しないし、困ったというので職員会議で問題になり、応援の先生が行くことになりました。席を離れている子どもに対して応援の先生がどうしたと思いますか。その子をだっこして教室の真ん中や後ろをよしよしと赤ちゃんをあやすようにして歩いていた。そうすれば子どもたちの勉強を邪魔しないと思ったのでしょうが、子どもたちが静かに勉強するようになったかといえば、皆騒ぎ出して、歩きだした。あんな勝手なことをしても叱られないどころか、だっこしてもらえるとなれば、皆、授業を聞かずに騒いで、「私もだっこして」となった。

 授業中にちゃんと席についている子どもは「学校に行ったらちゃんと先生の言うことを聞いて、勉強するんですよ」と親から言われたことを守って、我慢して座っているわけです。でも、勝手なことをしても叱られないとなれば、皆勝手なことをやり始めます。

 

秩序感覚の育成

 ルールを守れない子どもは、「秩序感覚」が欠けています。秩序感覚とは秩序に関する感覚で、「ルール感覚」とも呼びます。世の中には必ず秩序というものがあり、ルールというものがあって、それは必要だということを、頭で理解する以前に感覚的な次元で、どこかできちんと植えつけられているものなのです。具体的に必要でないルール、あるいは人間生活の邪魔になっているような、もう古くなって必要でないルールもありますから、杓子定規にルールを全部守っていると生きていかれないかもしれませんが、個々のルールが必要か必要でないかという問題ではなくて、「世の中にはルールというものがある、それが必要だ」という感覚、これが実は、人間社会を形成していく上で非常に大切なものなのです。

 このルール感覚はどこでどういうふうに培われるのでしょうか。私の研究によりますと秩序感覚はだいたい3歳まで、遅くとも5、6歳ぐらい、小学校へ上がる前までにほとんど決まってしまいます。家庭のなかによい秩序があり、規則正しい生活のなかで育ちますと自然と秩序感覚が植えつけられます。植えつけられるという言い方は実は学問的に正確ではありません。人間は白紙で生まれてきて、そのあといろいろなことが植えつけられるという学説もありますが、何もないところにまったく白紙で生まれてくるわけではなく、人間は最初から持って生まれたいろいろなイメージを持っています。ある秩序を与えられれば、それをずっと守っていこうという性質、秩序志向というものも人間は生まれながらに持っています。これは赤ちゃんを育てたことのある人なら分かると思いますが、赤ちゃんに一定の規則正しい生活習慣を与えますと、それをずっと続けようとする、それを破ると赤ちゃんは機嫌が悪くなったり、泣いたりします。

 最初に規則正しい習慣を与えれば、そのままずっと続いていきますが、規則的な感覚を与えられなかった子どもは、秩序のなか、つまりある一定のルールのなかで生活をしていくことが苦痛になります。よい生活習慣のなかで育った子は秩序を乱すほうが苦痛になり、生活が乱れているなかで育った子は、秩序そのものが苦痛になったり不愉快になるような人格に育ってしまいます。

 これを私は「心の生活習慣病」と言っています。生活習慣病というのは、昔は成人病といわれた糖尿病とか動脈硬化、高血圧といった身体の病気で、これは生活習慣が原因であることが分かってきました。生活習慣が大事であるというのは身体だけではありません。心に対する影響力も大きく、きちんとした生活習慣をしておりませんと、基本的なところで秩序感覚が存在しなくなり、一定の規律とか一定のリズムで生活するのが苦痛になってしまいます。小学校へ上がったら40分とか50分勉強して、10分間休みますよ、という規則正しいやり方に対応できず、多少いやでも勉強するときは勉強し、休み時間に遊ぶという、決められたとおりにできない人格になってしまいます。

 これはスイスでの体験ですが、散歩道でよく犬の散歩に行き合います。犬は鎖を付けずに主人の前をまっすぐ前を向いて歩き、非常に厳しくしつけられていますから、絶対に他人のほうへは寄っていきません。厳しいから可愛がっていないかというと、しつけを厳しくすることと、可愛がることが両立しています。日本の犬の散歩は綱を引いていても、すぐ人のほうへ寄っていきます。これは犬だけでなく、人間に対してもまったく同じことが言えると思います。親として子どものしつけをきちんとする、その一方ではうんと可愛がるというように、子どもにはきびしいしつけと深い愛情の両方が必要なのに、日本の親は両方とも不足しがちです。母性と父性と両方が惜しみなくたくさんあるといいのですが、母性も父性も足らない。「母性とか父性というのは性別役割分担だからいけない」という人たちがいます。性別役割分担にはよくないものもあるかもしれませんが、基本的には男女の違いがあって、その違いに応じて役割分担をしてもいいはずです。特に母性と父性という役割分担は非常に大切だと思います。それを全部いらない、「親性」でいいとか、「人間性」だけでいいとかいう人たちがいるので、混乱してくるし、母性と父性の大事さが認識されないのは問題だと私は思います。

 父性は父親だけが持つものではなく、家庭の中に父性が足りない場合は母親が父性を発揮してしつけにあたってもよいし、祖父が代わりを務めることもできます。父性という性質を担う存在が必要なのです。

 学校崩壊の原因になる、秩序を乱してしまう子どもは、小さいときに秩序感覚が育てられていない子どもだといえます。秩序感覚が育つうえでいちばんの要因が、私が「父性」と呼んでいる概念です。これが秩序感覚を生むために非常に大切な要因となります。父性が培うものは秩序感覚だけではありません。人間が生きていく上で非常に大切な「現実感覚」を育むのも父性と関わりがあります。これは別の言葉で「生活感覚」といってもよろしいかと思います。

 

現実感覚の欠如

 この頃の子どもは生活感覚というものがまったくない、生活の匂いがしない、と学校の先生たちがよく言います。たとえば、家で子どもに掃除をさせる家庭はいま1割くらいしかいません。高校のPTAで講演をしたときに手を挙げてもらいますと、掃除でも、食事の後片付けでも、子どもに家の手伝いをちょっとでもさせる人は1割もいない。あとの9割以上の人は掃除すらもさせてない。いまの家庭の状況は、受験勉強だけやっていればよい子であり、お母さんが娘に言う言葉は「お手伝いなんかしなくていいから勉強しなさい」となる。こう言われて育った子が非常に多いのです。

 いまの大学生に「君たちは、どのくらいお手伝いをしてきたか」と聞きますと「していません。そんなことするより勉強しなさいと言われました」と答えます。学生の半分ぐらいは親元を離れて地方から来ています。寮に入ると掃除当番はありますが、食事は自分で作らなくてもいい。しかしアパート住まいだと自炊しなくてはいけないわけですが、料理ができないので、カップラーメンですませている。最近の女子学生は栄養という観点が驚くほど欠けています。栄養は敵だ、栄養やカロリーは摂らなければ摂らないほどいいと思っている。3大栄養素とビタミンやミネラルが必要ですよと一応は教わるのに聞いていない。私ぐらいの年配は飢えた経験がありますから、栄養は大事だと誰でも思い、一生懸命に摂るほうに姿勢が向いていました。いまの若い女性はなるべく痩せようと思っていますから、子どもができても「子どもには栄養が必要だ」という観点がないのです。いまの赤ちゃんはろくなものを食べさせられていないのではないでしょうか。いまに国民的に健康がおかしくなってくるのではないかと私は危惧しております。

 要するに生活感覚がない、掃除をしたことも、ペットを飼ったことも、動物や虫に手を触れたこともない、植物に手を触れたことすらない。虫には刺される虫と何もしない虫とがあることも知らないので、大学の寮で合宿中などに、虫が入って来たら「キャーッ」と大騒ぎで、バシン、バシンと叩く。ともかく自然というものに触れたことがない。勉強ばかりして、自然観が歪んでいるのです。

 赤ちゃんが生まれても、どうやって触っていいか、どうやっておっぱいをあげていいか、どう抱いていいか分からない母親になる。生まれてすぐ1日中おっぱいを飲まなかった赤ちゃんの親は「うちの子はおっぱいを飲むのが下手で、うまく吸いつけません」と言う。赤ちゃんは母親の緊張とか、扱い方とか、全部を敏感に察知します。「赤ちゃんが下手なのではなくて、あなたが下手なのです」と言うのですが、下手というよりも母性本能が壊れているような母親が非常に多いのです。母性は本能ではないという人たちもいますが、それは本能という言葉を誤解しているのです。母性本能は赤ちゃんが生まれたときに自動的にパッと出てくるものではありません。本能というのはコンラート・ローレンツなどの動物行動学者が明らかにしたように、リリーサーという解き放つ条件と、妨害する条件とがあって、その解き放つ条件が揃って、しかも妨害する条件が働かないというよい条件が整ったときに必要に応じていろいろな本能が出てくるものなのです。

 本能というのは条件がそろわなければ出てこないもので、オランウータンやゴリラだって動物園に連れてくると赤ちゃんを育てなくなります。赤ちゃんの育て方が分からないような母親が増えているのも、現実感覚の乏しさの一つの現れです。子どものころに犬や猫を育てたことがあれば、動物が赤ちゃんを生んだらどうやって育てるかを見るでしょう。人間の赤ちゃんを育てているところを見ればもっといいのですが、核家族だから周りに赤ちゃんがいない。いまの女子大生で、赤ちゃんを抱いた経験のある人は本当に少ないし、赤ちゃんを見たことすらないという学生もいます。大学でアンケート調査をして、赤ちゃんのイメージを書いてもらったところ、女子大生の赤ちゃんに対するイメージは「うるさい、泣いてばかりいる、手間がかかる、面倒臭い、大変だ」と、マイナスイメージばかりでした。そういうイメージを持っている学生は赤ちゃんを見たことがない。見たことがなくても、「薔薇色で、素晴らしく可愛くて」と、プラスのイメージを持っていてもよさそうなものなのに、赤ちゃんを見たことのない学生は皆マイナスイメージなのです。

 ある人が女子学生をゼロ歳児検診に連れていって実際に赤ちゃんをダッコさせたり、世話させたりしてお手伝いをさせたところ、たったそれだけの経験で赤ちゃんに対するイメージが俄然違ってきて、それまで「泣いてばかりいる」とかマイナスイメージばかりだったのが、ちょっと接しただけで、「ニコニコしている、かわいい、元気がある」というイメージに変わりました。現実感覚がないという一例として紹介してみました。

 いま、たいていの市立中学校では廊下を歩くと埃が舞っているそうです。掃除の時間に先生がやれと言っても、誰もやらない。昔だったら殴ってでもやらせたのでしょうが、いまは殴ってはいけない、強制できないのです。先生が模範を示せばやるかなと一生懸命にやっていたら、先生がやっているからいいやと誰もやらなかったそうです。どうやって掃除をしたらいいか分からない。箒の使い方も分からないし、ましてや汚い水に手を突っ込んで雑巾を洗って拭くなんて汚くていやだ。食器の後片付けも、もちろんいやだし、汚いことは絶対にいやだという子どもが多い。ばい菌とか、汚いものを嫌う精神ばかり異常に発達し、抗菌グッズが流行るというのも、現実感覚のなさの裏返しの現れでしょう。現実感覚というのは、適当に汚いことにも、いやなことも我慢できるということです。

 

威厳をもって叱る

 要するに、自分がいやなことは一切我慢しなくてもよい、好きなことだけやっていればよい、それが個性であると履き違えている親が多いために、自分の好きなことをやるのが個性だと教えられている子どもが非常に多いのです。幼稚園でも小学校でも、先生の言うとおりにしなくてもいい、好きなことをやることがいちばんいいことだと言われてきた子は、「僕はそんなことはしたくない」、「歌なんか歌いたくない」と勝手なことをして、それがよいことだと思っているから、始末に負えません。そういう子は怒られるとギャーッと叫んで切れたりするので、先生は叱れない。叱るのはいけないことだと教わっていますから、叱れなくなっています。先生たちの集会に行って、「先生は叱るということを、もっと研究しなくてはいけませんよ」と私はよく言います。この頃は先生だけでなく、親も、子どもを叱るということが下手になっている。叱られたことのない子どももいる。

 悪いことをしても叱らずに、話し合いをしましょうという、叱らない親や教師は物分かりがよいように思われがちですが、子どもにもいろいろな子がいますから、そんな生温いことではだめな場合もあるのです。叱るべきときは、叱る。威厳が感じられないと、子どもは舐めてかかります。もちろん愛情を注ぎ、可愛がることが基本です。

 基本的に可愛がられている子どもは、叱らなくてもだいたい大丈夫で、親が「そんなことはよくないよ」と言えばやりません。可愛がられて育った子どもは、ちゃんと大人の言うことを聞く。でも、可愛がられていない子どももいます。親に暴力をふるわれ、虐待されている子もいます。殴るという行為は、もちろんよくないのですが、こういう子どもは殴らないと言うことを聞きません。しかし先生は絶対殴っていけないことになっていますから、実力行使はできない。イギリスの学校では制止はしてもいい、どのくらい強い力で、どのくらい掴んでいいかとか、細かい規定まであるそうですが、日本では制止するための実力行使の権利さえ認められていません。下手に実力行使をすると、すぐ暴力だと訴えらるので、暴れている子どもに対して、何もできない。「じゃ、みんなで暴れようぜ」ということになる。

 小学校1年生に入ったときがいちばん大事で、秩序を乱す子どもがいたら、よい秩序のなかに入れるように努めるべきでしょう。先生の器量によって「こらッ」と言っただけで威厳があって、きちんとする場合もあります。女の先生はそういう場面では迫力がないし、子どもは舐めて言うことを聞かないことが多いので、1年生の担任は男の先生にしたほうがいいのですが、1年生はやさしく受け入れましょうという理論があるので、東京都の小学校の場合、1年生に限って9割以上は女の先生を当てています。やさしい女の先生が受け持ちになっても、叱るべきときには叱らなくてはだめなのですが、叱らない。叱ると言っても、やたらに怒鳴ったり、ガミガミと怒ったり、暴力的にやれという意味ではありません。ルールを教えるための叱り方を研究しなければいけないのですが、小学校の先生方の教育研究集会に叱り方部会なんてありません。もっと叱り方の研究をするべきでしょう。

 各家庭で秩序感覚が身に付いていれば問題ないのです。50代以上の真面目な先生に限って「もう、教員なんてやめたくなりました」と言う。かつては悪戯する生徒も、ルールを破る生徒もいましたが、先生に「こらッ」と怒られれば、なぜ悪いか分かっていました。ところが、いまの子どもは「こらッ」と叱っても、なぜ叱られているのか分からない。悪いことをしているという気が全然ないので、叱っても通じない。感覚的な次元で壊れてしまっているというか、身に付いていない秩序感覚をどうやったら、身に付けさせられるかというのが、いま学校教育に課せられている重要な問題となっています。しかし、それに対する問題意識も方法論もないというのが、いまの教育界の現状なのです。

 子どもの声を聞いてみると「学校はつまらない」と言う。これは自己弁護しているだけです。もちろん先生も工夫をして授業を面白くした方がいいでしょうが、どんなに面白く工夫して勉強を教えようと思っても、その前に授業が成り立たないのです。皆、暴れたり、フラフラ歩きまわったり、授業を聞かないのですから、授業を面白くする以前の問題があるということを、もっと認識すべきでしょう。

 いちばん大事なのは家庭教育ですが、家庭でのしつけをやらない人がいますから、それをどうやったらきちんと学校で補えるか、そこに学校教育の意味があるわけです。秩序を乱す生徒の相手ばかりしていたら、ほかの子どもたちは何も勉強を教えてもらえません。いま学級崩壊になっている学校で、いちばん怒っているのは真面目な生徒たちの親です。暴れる子の面倒をみるのも大事でしょうが、授業も受けられない、勉強も教えてもらえない状態になって、真面目に授業を受けようと思っている子どもはどうなるのか。

 では、どうすればいいのか。「暴れる子と真面目に授業を受ける子と別にする」というと、それは差別だという。勉強が分からないといっても、学力が一様ではないわけですから、全員に分からせるなんてことは不可能です。「学力別にしよう」というと、それは差別だ、低いほうに入れられた子がかわいそうだと言う。できる子もできない子も一緒にしても、クラスの中でいつもできない子ははっきりしているので、惨めなことに変わりはないでしょう。同じ学力の子どもを集めて、勉強を分かるように教えたほうがよほど子どもたちのためになるのではないかと、昔から大勢の方が言っていますが、実現しません。だから、診断と治療が間違っているというのが、私の結論です。

 学級崩壊の原因については甲論乙駁の状態で、いろいろな意見が出ていますが、私は単純に父性の不足、言い換えれば「しつけ」の不足だと思います。ところが、「しつけ」の問題だというと、「しつけの問題に狭隘化すべきでない」という批判を受けます。しかし「しつけ」の問題だという捉え方は決して「狭隘」な捉え方ではありません。「しつけ」というと単に挨拶をできるようにするとか、礼儀を教えることだと狭い意味で捉える人がいますが、「しつけ」とは人格的な基盤を作るということでして、人間形成の大切な基礎を作ることを意味しています。

 ところが、学級崩壊の原因は授業が面白くないとか、難しすぎるからだという捉え方だと、いま文部省が打ち出しているように、カリキュラムを楽にせよという対策しか出てきません。そんなことをしたら、日本の国力は20年で確実に三流国になります。産業も、技術も、官僚体制も、教育も、すべてが教育の水準によって高度に保たれているのですから、日本全体の知的水準が低くなったら、日本は必ず三流国になります。

 義務教育というものは、なかば強制的に子どもを学校に集めて教育することによって成り立つものです。それに耐えられるだけの人格的な基礎を作るのが、家庭教育の役割です。ところが戦後の自由放任の雰囲気や、「友達のような父親」を理想とする時代精神によって秩序感覚が崩されてきたのが、学級崩壊の最大の原因です。「しつけ」の問題を「狭隘化」だと批判する人たちは、たとえば「勉強をしたい子と教室を出ていきたい子とを、どうして一緒に折り合いをつけていくかという、新しい共同性の原理を探していかなければならない」などといいますが、「勉強したい子と教室を出ていきたい子」の折り合いなどつくはずがありません。そういう言い方こそ机上の空論であり、言葉の遊戯というものです。

 幼児期からの感覚的な次元での人格的な基盤をしっかりと作る体制を、家庭においても学校においても、もう一度立て直すことが、学校崩壊、学力崩壊に対する最も根本的で緊急の対策でなければなりません。これが私の提案したい診断と対策です。

 時間となりましたので、これで終わらせていただきたいと思います。

 ご清聴ありがとうございました。