皇室典範有識者会議とフェミニズムの共振波動が日本を揺るがす 

    (『正論』平成18年2月号掲載 )

      (初出 平成18年2月2日)

 

女系天皇を必要としているのは誰か

 天皇制が根底的に変えられようとしている。この根底的変更は、一度女系にしたら男系は永遠に消滅してしまうという、不可逆な変更である。天皇制が天皇制でなくなるほどの革命がなされようとしているのだ。

 なのに、この慌ただしさは何なのか。一体誰が何のために急いでいるのか。なるほど皇統が途絶える危険が予想される事態は重大である。しかし、それは一年や二年で対策を考えなければならないような、差し迫った問題ではない。皇位継承の危機と大げさに騒いでいるが、ことは現皇太子が即位してのちの、その次の世代の話である。なのに危機感を煽り「今がこの時」とばかりに一挙に押しきろうとしているのは何故か。

 推進派が今こそ好機と考えていることだけは確かである。なにしろフェミニズムの喧伝によって、機械的な男女平等意識が浸透し、今や女帝容認 が世論の大半だという。加えて選挙で大勝した小泉首相が最も積極的であり、この会議の諮問者である。これ以上の好機はないだろう。

 しかし、小泉首相やフェミニストだけが推進しているわけではない。むしろ彼らの背後に真の黒幕がいるのではないのか。女系天皇推進の真の立 役者は何者なのか、その「動機は」「目的は」そして「なぜ今」なのか、これらを見定めないと、今回の改正案の本質を見抜くことはできない。女系天皇を誰が必要としているのか、という視点からこの改正騒ぎを見てみると、改正案の本質が見えてくるはずである。

 

変える理由はすべて「こじつけ」

 天皇制の根源的な変革を策すは何のためであろうか。

 その理由はいろいろと言われているが、それらはすべて「初めに結論ありき」の「こじつけ」である。本当の理由が隠されている。それをあぶり 出さなければならない。

 ただし、真の動機を論ずる前に、順序として、表面で言われている理由が真の理由ではないということを、まず明らかにしておかなければならな い。この点については、すでに多くの論者が詳細に論じているので、簡潔に問題点を整理すれば十分であろう。

 1 「男系にこだわると継承者がいなくなる可能性が大きい。」「少子化の趨勢の中で男子が生まれる可能性は時間が経つにつれてますます少なくなる。」

 このような事態に対しては、旧皇室典範においては、二つの安全装置があった。側室の子と、皇族からの皇位継承である。このうち、「側室制度は現代の国民意識からみてほとんど不可能である。また皇族は戦後60年も前に臣籍降下しており完全に民間人になっているので、皇籍復帰も現実的でない。」こう改正推進派は主張している。

 このうち側室制度が現実的でないというのは理解できるが、元皇族の皇籍復帰が現実的でないというのは間違いである。

 2 元皇族の皇籍復帰が現実的でない理由を推進派はこう説明している。

 「途中から決めたのでは国民に親しみが湧かない、理解が得られない、帝王学が学べない、長いあいだ民間人として生活してきているので皇室の 習慣になじめないであろう。」これらはいずれも根拠薄弱である。

 「途中から」と言うが、初めから原理原則が決まっているのだから、次の継承者は誰と前々から分かっている。その時点で国民に紹介され次第に 親しまれるようになるわけだし、帝王教育もできる。長いあいだ民間人として生活してきているといっても、生活感覚や習慣、意識は皇室の伝統を受け継ぎ、元皇族としての誇りも、いざというときの覚悟もお持ちであろう。

 3 「長子優先と初めから決めておけば、ご本人にとっても、周囲の者や国民にとっても安定的、かつ分かりやすい。」

 不安定要因があろうが多少分かりにくい点があろうが、譲れない原則というものがある。二千年の伝統を一挙に不可逆的に消滅させる理由として は、「安定的」で「分かりやすい」などというのはあまりにも軽薄な根拠と言うべきである。

 4 「男子男系優先というのは男女平等という国民意識にそぐわない。」

 この理由は、その時その時の国民意識に合わせてその都度皇室のあり方を変えてもいいという前提に立っている。男女の機械的な平等意識を根拠 にして、二千年の歴史を持つ文化や制度を簡単に変えようとするのは犯罪的な思い上がりである。

 そもそも皇室祭祀は男性によってのみ執り行われるしきたりであるが、それは決して男尊女卑や女性差別の産物ではない。神聖な儀式は異性原理を断ち精進潔斎して執り行うのが世界の宗教に広く見られる原則である。この伝統を単純な男女平等主義によって安易に変化させてはならない。

 5 「男子男系という原則は明治の旧典範で明文化されたもので、永遠不変なものではなく、歴史的なものである。時代に合わせて柔軟に変化さ せてもよい」という論理も間違いである。江戸時代までに発生発展し、明治時代に法制化された制度はいくつもある。たとえば、夫婦同姓もそうである(夫婦同姓成立の歴史的必然性については拙著『家族の復権』中公新書を参照されたい)。

 皇室典範の男子男系の原則にしても夫婦同姓にしても、明治政府が理論的にのみ考えて無から創造したものではない。長い歴史の中から次第に形になってきた現実をふまえて、それを明文化したものである。歴史的に成立してきたということの必然性が重要な意味を持つのである。その歴史的方向性は理由のある必然性によって成立してきたのであって、何か無法な力が働いて無理に作られたものではないのである。

 6 このほか、有識者会議は重要な問題について考察を避けている。歴史や伝統の問題・女性天皇の配偶者の問題など、「女系容認」の結論に都合の悪い問題を持ち出されると、座長の吉川弘之氏は「使命の外」「国会で議論してくれ」とひどく無責任な言い逃れをしている。しかし、これらの問題は最も重大であり、それを排除しては到底国民を納得させることはできない。

 

女系天皇の深刻なマイナス面

 女系天皇が必要だという理由がすべて決定的なものでないことを明らかにした。その反面、女系天皇の輩出が予想される「女系容認、長子優先」の皇位継承制のもとでは数々の根本的な困難や不都合が生じるのである。

 第一に、女帝の場合、祭祀の執行に支障がでる。宮中祭祀(大嘗祭など一部の例外を除く)は男子が執り行う伝統と慣習があり、これは宗教的な観念を前提にしているので、簡単に男女同権を持ち込むことはできない。男子によって行われる祭祀を女子が行っては、カリスマ的な意味が失われるからである。したがって、これまでも女性が皇位についたときには祭祀を一時中断するか、男性の代理を立てて執行した。その場合は一時的な「つなぎ」の女性天皇だったから「例外」として許されたが、女系になると天皇自身による祭祀の中止は致命的な意味を持つ。それは天皇の存在意義(レーゾン・デートル)に関わる重大な欠陥となる。女系天皇制は天皇制としての自己矛盾であると言わなければならない。

 第二に、女帝であることを利用する者がむらがる恐れがある。フェミニストはさっそく名乗りを上げて、露骨に期待感を表明し、国民の意識を変えるために利用しようとしているが、その他にもさまざまな形で、女帝であることから利益を引きだそうとする者たちが出現するであろう。女帝に影響力を持つ周囲の者たちもそのターゲットになりうる。

 第三に、女性天皇の配偶者選びは困難をきわめるであろう。皇太子妃でさえなかなか決まらなかった。ましてや女性天皇の配偶者選びは難航する ことが十分に予想される。もし幸いにして夫君が決まったにしても、夫君が個人的にプライドと存在意義を一生のあいだ感じ続けることは至難の業であろう。

 第四は、家族像と関係する問題である。現在、皇室は日本の家族像の模範として、国民から敬愛されている。父親を中心にまとまり、互いに愛し合う家族の姿は、日本の家族が世界の中で珍しいほど健全な姿を保っていることの一つの重要な基盤とも言える。しかし、それは「平等な家族像」ではなく、明らかに父系制に基づく、父を中心とした家族像である。

 これまで機会あるごとに述べてきたように、家族は父親を大黒柱とし中心としてまとまりを持つことが必要である。家族の模範像だと受け取られてきた天皇家において女性がトップとなることによって、フェミニズム思想が日本人の家族像に悪しき影響を与える危険性もまた増大する。(この問題については最後に詳しく述べる。)

 以上、女系天皇制のマイナス面を述べた。こうして列挙してみると、推進派が強調するプラス面に比べて、マイナス面は深刻な問題が多いことが分かる。天皇制存続のためと公式には言われている女系天皇制だが、じつは天皇制存続を危うくする要素の方が多いのである。

 この疑問点の多い女系天皇制を、一体誰が積極的に進めようとしているのであろうか。

 

勝負に出たフェミニスト

 まずフェミニズムがその尖兵であることは、誰の目にも明かである。フェミニストたちはさっそく喜びと支持の声を上げている。「有識者会議報告書」が発表された翌日には、フェミニズム機関紙とも言える新聞に、判で押したようなフェミニストの談話が載った。

 たとえば、『日本経済新聞』十一月二十五日付において、NPO法人代表・金谷千慧子氏は「女性天皇の誕生は、働く女性にとって間違いなく励みになる」と、ノンフィクション作家・吉永みち子氏は「天皇家が示してきたのは平等な家族像であり、女性が皇位を継承しても夫婦、親子の結びつきようが変わることはない」と語っている。

 また『共同通信』の配信を受けた北海道新聞、中国新聞、熊本日日新聞などの地方紙の十一月二十五日付には、坂東真理子前内閣府男女共同参画局長(現昭和女子大副学長)のコメントが載った。「戦後六十年を過ぎても一般の家庭にもまだ、『跡取りは息子』『女の子にはあまり教育は必要ない』と考えるような『家制度』の残滓がある。皇室が変わることで、こうした意識にもよい変化が出ることを期待する」

 女帝・女系の実現はフェミニズムの最終勝利を完全に保障するものである。それは単に「働く女性の励みになる」とか「国民の意識がフェミニズムに都合のよい方向に変わる」というだけに留まらない。その効果はそのように部分的なものではなく、もっと包括的全面的である。それは女性支配の完全な正当性の獲得であり、まさしくフェミニズムにとって錦の御旗の奪取なのである。

 フェミニストたちは今が彼女・彼らにとっての天王山であることを敏感に感じ取っているのであろう。フェミニズムは「バックラッシユ」に遭遇して行き詰まりを見せ、世間の目も厳しく不利になっている。たとえば、「日本人の幸福感」についての最近のアンケート調査によれば、「最も幸せな日本人像」は「三十代、都会暮らし、専業主婦」である(大阪大学社会経済学研究所筒井義郎教授が行った、『産経新聞』平成十七年十一月十八日付)。

 これだけ専業主婦攻撃をし、「働け」イデオロギーを宣伝してもなおこの結果である。それどころか今や全国的に嫌フェミ現象が現われるている。すでにフェミニズムの後退・凋落傾向が始まっている。この凋落に歯止めをかけるために、絶対的な錦の御旗である女帝・女系天皇を実現しようという作戦である。

 危機にあるフェミニズムにとっては、巻き返しの絶好の機会、これを全面的に利用しない手はないとばかりに、進んで一翼を担っているのであろう。男女共同参画社会基本法に加えて女系天皇制が実現すれば、フェミニズムのクーデターが成功し、長期独裁政権に等しいフェミニズム支配が定着してしまうだろう。

 じつは有識者会議の座長の吉川弘之氏は、かねてよりフェミニズムと密接な関係にあった。「日本学術会議の会長」だったときに、「学術会議叢書 3」として『男女共同参画社会 キーワードはジェンダー』(2001年2月発行)を刊行している。「はじめに」を吉川氏が書き、以下「第一部 ジェンダー」「第二部 新しい社会の男と女」「第三部 男女共同参画社会に向けて」の執筆者には原ひろ子、上野千鶴子、名取はにわ等のフェミニストが並んでいる。

 ロボット工学の専門家である吉川氏は「独立行政法人 産業技術総合研究所理事長」でもある。当然産業界とも関係があるだろうし、フェミニズムを利用した経済界の女性労働力化政策についても賛成していることだろう。この吉川氏を座長とし、フェミニストの重鎮である岩尾寿美子氏や緒方貞子氏を委員に据えた有識者会議は、完全にフェミニズムの主導権の下にあると言わなければならない。

 

フェミニズムが捏造した「国民の支持」

 その証拠が「報告書」の中の「女子や女系の皇族に皇位継承資格を拡大する」理由の「イ 国民の理解と支持」である。これはほとんど全面的にフェミニズムに依拠して書かれている。曰く

 「現行典範が制定された昭和22年以降、我が国では、家族観や社会における男女の役割分担などをめぐって、国民の意識や制度に様々な変化が生じてきていることも考慮する必要がある。」

 「女性の社会進出も進み、性別による固定的な役割分担意識が弱まる傾向にあることは各種の世論調査等の示すとおりである。」 

 「最近の世論調査で、多数の国民が女性天皇を支持する結果となっていることの背景には、このような国民の意識や制度の変化も存在すると考えられる。」

 「象徴天皇の制度にあっては、国民の価値意識に沿った制度であることが、重要な条件となることも忘れてはならない。」

 「国民のあいだでは、女子や女系の皇族も皇位継承資格を有することとする方向を積極的に受け入れ、支持する素地が形成されているものと考えられる。」

 これを見ると、「国民の意識」を金科玉条にして、それを女帝・女系推進の根拠にしていることが分かる。しかし、この「国民の意識」なるもの は長期にわたるフェミニスト一派の意識操作によって作り出されたものである。また、その根拠としている「各種世論調査」なるものも、狡猾に仕組まれた質問の仕方や統計のごまかしによるものが多いことは拙著『家族を蔑む人々──フェミニズムへの理論的批判』(PHP研究所)において詳しく暴露している。

 百歩譲って、性別役割分担意識が若い人々のあいだで少なくなっているとしても、その傾向が今後も続くということは少しも証明されていない。逆に若い女性のあいだでの専業主婦志向は繰り返しマスコミの話題になっている。

 報告書はフェミニズムが「国民の意識」とイコールだという間違った前提に立って、こう結論づけている。

 「今日、重要な意味を持つのは、男女の別や男系・女系の別ではなく、むしろ、皇族として生まれたことや皇室の中で成長されたことであると考えられる。」

 このように、男女の区別をなくし、機械的に男女の区別なく皇位につける制度にするのが、フェミニストの戦略目標である。女帝への「国民の支持」を誘導してきたのは、男女の性差をなくそうとしてきたフェミニストの活動であった。有識者会議を終始リードしてきたのがフェミニズムの思想と理論であったことは明白である。

 

天皇制反対派が女帝・女系容認派に

 だが、それだけであろうか。女帝・女系天皇はフェミニズムにとって有利なだけではない。もっと広範な反体制的・反日的な勢力にとってもまた、格好の温床と武器になりうるのである。いやフェミニズムの中にもそうした勢力が浸透しており、フェミニズムを隠れ蓑にしているのである。次のように考えると、その勢力のおおよその輪郭が明らかになる。

 女帝・女系容認派の中には、「天皇制」に反対していた者たちが入っている。女帝を認めるか否かという世論調査の場合に、「天皇制」に賛成か 反対かを質問していないので割合は分からないが、女帝容認派の中には「天皇制」反対論者が大量に入りこんでいることは想像に難くない。

 つまり「天皇制」反対派が大挙して女性天皇・女系天皇賛成派になだれ込んで、男女無差別が「今や時代の流れだ」と主張しているのである。このことの意味は大きい。すなわち天皇制反対派にとっては、女帝・女系は都合がよいということを意味しているからである。

 では、彼らにとって女系天皇はどういう意味で都合がいいのか。女系天皇になると天皇の権威が落ちて、皇室の在りようが崩れていくからか。答えはノーである。彼らはそんな悠長なことを考えているのではない。女系への移行の仕方にこそ秘密がある。つまり議論の仕方そのものに罠が仕組まれているのである。

 有識者会議は「国民の支持・理解」をなによりも重んじている。まるで絶対的な大義名分であるかのような扱いである。たとえば、元皇族の皇籍復帰は「国民の理解が得られない」の一言で片づけられてしまう。

 しかし、皇室典範第一章「皇位継承」の部分を民主主義的な議論の対象にしたとたんに、天皇・皇室は存続の危機に立たされる。女系容認に移行することが危機であるという以前に、男系にすべきか女系にすべきかを国民が論議の対象にすること自体が、皇室の危機なのである。

 ここはきわめて重要なところなので、詳しく考察しておこう。

 

「天皇制」は国民が決める ?

 そもそも皇室典範第一章「皇位継承」は、原理的に変えることは不可能、かつ変えてはならない部分なのである。

 もちろん法律上、手続き上は変更可能である。皇室典範は憲法と違って一般の法律並みの扱いであるから、国会の過半数の賛成で変えることは可能である。しかし、ここで言っているのは、手続き上可能かどうかではない。そうした「民主主義的な」手続きで変えてもよいかどうかを問題にしているのである。

 天皇とは、原理的に民主主義とは相反する存在である。国家の最高権威であり国民統合の象徴と定められた存在が、世襲であり、血統を重んずる原理で決められるということは、国民の意思(投票や選挙)で物事を決定する民主主義の原理とはまったく別の原理によって存在していることを意味している。

 現皇室典範は、形式的な法手続きの問題として見れば、国会での過半数の賛成で改訂することができる。昭和二十二年に制定された内容は、旧皇室典範を大筋において受け継いだものであるが、その成立は「民主的な」手続きによって出来たものである。

 しかし男系によって継承されるという原理には、「民主的」なアメリカも変更を加えなかった。それは理屈以前の厳然たる事実であり歴史的伝統であって、これに変更を加えることのできる正当な論理もなければ、いかなる者にもその権利はない。個人としての天皇にも皇族にも、この原理を変える権利はないのである。ましてや首相にも国会にも国民にもあるはずがないのである。

 すなわち皇室や政府や国民のその時々の意思によっては左右されない、かつ民主主義的な手続きからは超然としている存在が天皇であり、皇室なのである。

 したがって、この制度を民主主義的な手続きの対象とすること自体が間違いなのである。それはまるで、首相を選ぶように天皇を選ぶことに通ずるような、民主主義的思想によって事実上皇室を否定することも可能にするような考え方なのである。一口で言えば、天皇、皇室とはもともと民主主義とは違う原理で存続しているのに、それを民主主義的な手続きで変えようとする矛盾を犯している。したがって「皇室典範有識者会議」などというものを作ること自体、天皇と皇室の原理を否定するものである。

 特に、その根幹に位置する皇室典範第一章「皇位継承」は、民主主義的な手続きによって手を付けてはならない部分である。もしこの部分が民主主義的な手続きで変更可能ならば、天皇・皇室そのものも民主主義的な手続きによって廃止可能だということになる。つまりこの部分に国民の代表たる国会が手を付けたが最後、ゆくゆくは天皇・皇室そのものもまた国民の意思で変更ないしは廃止することが可能だということを宣言したことになる。

 

アメリカによる天皇制への縛り

 その意味では、天皇制の議論が「民意」に委ねられたとき、すでに日本中が罠にはまったと言わざるをえない。この罠はじつはアメリカによる占領政策の中にすでに仕掛けられていたのである。

 敗戦日本に対してアメリカは天皇制を残したが、じつは内実を大きく変えた。アメリカは天皇制の外形だけは残して、内容的には重要な「縛り」を入れ込んだのである。

 その縛りとは、天皇制を民主主義の枠の中に入れたことである。アメリカは天皇制を民主憲法の枠の中に入れて、国民の支持によって成り立つべ き存在へと決定的に変化させた。これによって「国民に親しまれる皇室」が至上命令となり、「国民に支持されること」が皇室存在の必要条件とされるようになった。皇室は「国民の支持」を基盤とすることになり、民主主義の枠内に限定されたのである。すなわちアメリカ産の憲法にこそ、今日の皇室典範改正という発想を産み出す原点があった。新憲法制定の時にすでに皇室典範は「国民」の手の中に握られていたのである。

 今回の「皇室典範有識者会議報告書」もまたこのアメリカ産の憲法を基に発想されている。その「基本的な視点」に「@国民の理解と支持が得られるものであること」という項目がある。すなわち皇室の存在もそれに関する変更も、国民の支持によって成り立つという思想が基礎になっている。つまり「国民の意識が変わった」ら、「国民が政府を変える」のと同じように天皇制を変えてよいことになる。この思想は天皇の上に国民を置く思想である。この思想を前提にするかぎり、国民の考えが変わればそれに合わせて皇室も変わらなければならないし、原理的には天皇を国民の投票で決めるというところまで行きつくであろう。

 つまり現憲法がアメリカによって与えられたものだから改正が必要だという立場に立つ自民党ならば、皇室典範の「民主的な」扱いもまたアメリカ産だからという理由で拒否しなければならないはずである。しかし小泉首相はアメリカによって与えられた「天皇制民主化」をそのまま受け入れて、それをさらに推し進めようとしているのである。

 こういう重大かつ恐ろしいことを、小泉首相以下、皇室典範改正推進派の人々は進めているのである。いったいこの人々は、そうした重大なことを進めているという自覚と覚悟があってのことなのか。自覚のない者もいるだろうが、中には自覚と覚悟をもって推進している確信犯がいるのではないか。その者たちは何を狙っているのか。

 

真の推進者は誰か

 皇室典範改正騒ぎは、六十年前にアメリカによって与えられた基本的枠組みの中で起きている。しかしこの騒ぎの直接の仕掛け人は、アメリカであろうか。アメリカは六十年前に大きな縛りを掛けていて、それで一応満足しているはずである。今いそいで改正を迫らなければならない動機を持っているとは思えない。

 では現在の仕掛け人は何者か。それは天皇制を存続させたくない者たちである。彼らが自分たちの破壊思想を実現する道具として、女帝・女系天皇制を利用しているのである。日本の公序良俗を破壊し、家制度を否定し、国民統合の象徴を消滅させたい、こういう者たちが、女帝・女系天皇を最も積極的に推進しているのである。

 このような日本破壊の動機を持っている者と言えば、ただちに思い起こされるのが、近隣の敵対諸国である。そしてこれら敵対国の日本国内における提携勢力である。

 この外国敵対勢力と日本国内で相呼応している勢力のうち重要な役割を果たしているのが、左翼諸政党、クリスチャン左派、フェミニスト、親中国派(およびフェミニズムを利用している)経済人であり、これらは相互に重なり合っている。

 この重なり合いの構図は、たとえば北朝鮮の拉致はないと強弁してきたのが、この連合体の者たちであったことを思い起こせば十分であろう。彼らは北朝鮮への見返りなき食料支援にも熱心であったし、首相の靖国神社参拝にも共同して反対してきた。こうした重なり合いの構図は有識者会議の中にも見られる。それらの勢力が重層的に女帝・女系天皇への移行をきわめて精力的に画策していることだけは確かである。

 女系天皇の推進勢力について述べてきたが、最後に最も重要な役割を果たしている主役について述べなければならない。皇室典範改正の中心にいる主役はもちろん小泉首相その人である。首相が私的諮問機関である「有識者会議」を作らなかったならば、何事も起きなかった。小泉首相が鍵を握っている中心人物であることは間違いない。小泉首相にはもちろん女性を労働力として使おうとする経済界やフェミニスト等から強い圧力がかけられていることは想像に難くない。しかし小泉首相は黒子に操られている単なる傀儡ではないであろう。

 小泉改革の総決算として彼は憲法改正と皇室典範改正を仕上げ、改革宰相として歴史に名を残したいのであろう。しかし改革が成功したと歴史的に評価されるためには高潔な理念と哲学に裏打ちされていなくてはならない。皇室典範に関しては伝統に対する理解においても、天皇制の歴史をめぐる見解においても、小泉氏に一国の宰相としての見識はまったく見られない。小泉氏は政治家としての最後の仕事で、手をつけてはならない聖域に最悪の形で踏み込んでしまった。まだ遅くはない。今のうちに誤りに気づいて、撤回することを心から薦めたい。

 

天皇は父性原理の体現者なり

 天皇制は男子男系でなければならない。なぜなら天皇とは父性原理の体現者でなければならないからである。

 歴史によって形成されてきた天皇の性質やイメージは、権力に対して正当性を与える権威者である。どんな実権を持った武士政権といえども、天皇から正当性を与えられることによって、初めて名実ともに権力者になることができた。

 天皇という存在にとって大切なのは、可愛いとか親しみを持たれることではなく、厳かな祭祀の実行者であり、権威の持ち主であるという性質である。つまり父性の持ち主でなければならない。天皇は立派な父親像の体現者でなければならないのである。

 今でも日本においては、一家の大黒柱は男性でなければならないという意識は非常に強く、父親は権威を持っていなければならないという意識も強い。たとえば、二〇〇二年にNHK教育テレビが父親に関する番組を放映した(私も出演した)が、そのときに実施したアンケート調査によると、「父親は権威を持っていなければならない」に賛成した者の割合は、「父親が八割」「母親も八割」「子供も八割」という驚くべき結果を示したのである。

 最近では、『読売新聞』の「父親像に関する全国世論調査」(平成十七年十二月五日付)によると、「理想的な父親像」としては「必要なときには子供をきちんとしかる」がトップで74%を占めた。それに対して「友達のように接する」は13%、「子供に干渉しない」は4%だった。またその理想に照らして「父親のしつけが不十分」だと見ている人もきわめて多い。すなわち「あなたは、最近、世の中のきまりなどを、子供にきちんと教えられない父親が増えていると思いますか」という質問に「そう思う」四五・〇%、「どちらかと言えばそう思う」三四・七%、合わせるとほぼ八〇%が父親の厳しさを必要だと考えていることが分かったのである。

 権威を持った父親が子供をしつけ、家族をまとめていくことは、家族のあり方の理想像として日本人の間では依然として根強いどころか、近年ますます再認識され始めている。女系天皇容認派は男女平等意識が高まったと宣伝し、こうした重要な父性意識の高まりについては完全に無視している。

 国民の意識を基に考えるというのであるならば、約八割が「父親は権威を持つべき」「しつけをきちんとすべき」と答えた事実を重んずるべきであろう。家族においても国家においても統合の象徴は「父」でなければならない。日本国の統合の象徴は父親像でなければならないのである。

 日本はもともと母性社会の性質がかなり強い。天皇が女性になったら、母性的である日本が、さらに母性社会に傾斜し、父性原理が大きく後退することになるだろう。

 母性が優越した国家になるか、父性が優越した国家になるかの違いは巨大である。日本がこれ以上母性社会の性質を強めていけば、甘えの精神が蔓延し、ますます規範意識は崩れ、社会の秩序も折り目正しさも、公序良俗も音を立てて崩れ、ニートなど無気力な子供が増大するだろう。

 天皇とは国父であり、父性の象徴であり、したがって絶対に男子男系でなければならないのである。

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