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2 夫婦別姓

 

(8) 姑息な小手先細工「家裁許可制」案

 

 7月24日付の『産経新聞』と『朝日新聞』の報道によると、別姓推進派は、またぞろ姑息な案を新しく画策しているそうである。

 その案とは「例外的別姓」案に、例外を認めるには「家庭裁判所の許可を必要とする」という要件を付け加えたものである。

 だから何が変わるというのか。どこが違うというのか。

 

本質は何も変わらない ──笑止千万な小手先細工

 許可の要件は「職業生活上の事情」と「祖先の祭祀の主宰」のみを認めて、「今の姓が好きだから」「改姓によって自分らしさが失われる」といった理由は認められないそうである。

 馬鹿馬鹿しい小手先細工である。「要件を厳しくした」という外観を装ったつもりだろう。だが「職業生活上の事情」と「祖先の祭祀の主宰」などという理由は客観的に証明しようがなく、申請されれば裁判所はそのまま認めるより他ない。「許可」などというのは名ばかりで、事実上のフリーパスでにするより仕方ないだろう。

 だいいち、「職業生活上の事情」は「通称使用法」で充分にカバーできるし、「祖先の祭祀」は姓が同じでろうが変わろうが、本人たちの意志次第ではなかろうか。いずれも理由になっていないのである。

 もう一つ「厳しく」した点は、既に結婚している夫婦が同姓から別姓に変更することを認めないので、別姓にしたい夫婦は一旦離婚手続きをしてから、改めて結婚手続きをしなければならない点である。

 これも不可解な制度である。別姓が正しいから認めるというのなら、どうしてそのまま別姓に変えることを認めないのか。姓が変わるのは手続きが面倒だから嫌だと言っていた者たちが、どうしてそんな面倒な手続きをしなければならないような法律を作るのか。まったく理屈が通らない。この連中はどういう頭の構造をしているのか。

 このように「厳しくした」という体裁を整えれば、反対者が態度を和らげて賛成に回るとでも考えたのだろうか。なんとも人をなめた話である。

 

「困っている人」は困ってなどいない

 こういう姑息な小手先細工をしてまで、どうして別姓を通さなければならないのか。

 その表向きの理由は「別姓が認められないので、結婚できなくて困っている人たちがいる」「別姓が認められるまで結婚を待っている人たちがいる」からという。

 しかし、別姓法案が通らないと「結婚できない」とか「それまで待っている」というのは、「いやがらせ」か作戦の匂いがする。法案を通させるための一種の実力行使であり、民主主義の原則から逸脱している。

 民主主義の原理に従うなら、民主主義的な手続きを経て別姓が認められるようになるまでは、同姓制度に則って結婚しているべきである。別姓制度ができるまでは結婚しないでいるのは勝手だが、「そのために困っているから制度化を急げ」というのは、本末転倒である。そういう理屈を言ったのでは、どんな我が儘な要求でも、法律で認めなければならなくなる。

 「持つ」のなら、同姓で届け出て、待っていればよいではないか。それも嫌だという人は、結婚したいという気持ちよりも姓にこだわる気持ちの方が強い人たちであり、たいして愛が強くないか、一緒になりたいという気持ちよりもイデオロギーが強い人たちであろう。結婚によって姓を変える人に抵抗感があるのは分かるが、我慢できないような問題ではない。

 「待っている」という人たちの、もう一つの理由としては、今の案では一旦結婚したら別姓に変えることは認められないから、別姓法案が通ったら別姓で結婚しようとして結婚を待っているという理屈なのだろう。しかし既に結婚している別姓論者が「この別姓法案が通ったらペーパー離婚して別姓で結婚し直す」と言っているくらいだから、「待つ」のなら結婚して待っていればよい。一度結婚したら姓を変えられないからといって「困る」わけがないのである。

 「家裁許可制」案の本当の動機は、法務大臣と法務官僚の面子ではないのか。なりふりかまわず、この法案を通さないと、面子がつぶれる。まさに「恥も外聞もなく」無理矢理通そうという姿勢がすけて見える。だから別姓賛成者からも、首尾一貫していないとか、「当事者の選択に任せるべき」という趣旨に反しているという批判が出る始末である。

 

姓名は「わたくしごと」ではない

 別姓を推進する者たちや、戸籍制度を否定する者たちは、姓名は「わたくしごと」だから、自分で勝手に名乗ってよいことにすべきだと主張している。

 その主張は根本的に間違っている。

 姓名は決して「わたくしごと」ではない。姓名とは人間を類別するためのシステムであり、一定の原則にしたがって決められるべきものである。それによって国が国民を管理することができる。管理上必要なシステムなのである。

 「国民を管理する」というと、すぐに反発する人がいるが、「管理」がすべて悪いのではない。独裁者が国民を支配するために管理する場合と、民主的な政府が管理するのとではまったく意味が違う。

 姓名が一定のシステムで付けられていないと、問題を起こした子どもの親が誰で、誰に連絡していいかも簡単には分からない。迷子になった子どもの親を見つけるのにも苦労する。誰がどれだけの税金を納め、保険料を納めてきたかが簡単に分かるシステムになっていないと、年金を支給するのも簡単にはいかない。

 姓名とは、個人を類別して特定するシステムであり、一つの国では単一のシステムでないと、いろいろと不便を生ずるのである。家族の名前にしても、別姓か同姓かで統一していないと、誰がどの家族の一員かはっきりしない。はっきりしないと、経済活動にも支障が起きる可能性がある。相続関係がはっきりしているかどうかによって、信用の度合いにも関わってくるからである。

 要するに、行政のためにも、治安のためにも、経済活動のためにも、姓名の付け方は単一原理でなければならないのである。 

 もちろんそのシステムの中では、各人は自由に(公序良俗を乱さない程度に)自分の名前を選ぶことができる。そういう意味では姓名は「わたくしごと」である。しかしそれは一定のシステムの中で言えることであり、システムそのものは「わたくしごと」ではないのである。ここを混同して、「姓名はわたくしごとだから、戸籍制度を廃止せよ」と言うのは、プライベートな次元とパブリックな次元とを混同している間違いである。

 

 以上で明瞭なように、夫婦別姓を要求している人たちは、個人の自由を要求しているようで、じつはシステムそのものを変更しようとしているのである。それもシステム全体を「別の原理に変えよ」と要求するなら首尾一貫しているのだが、一部だけ例外を認めよと言うのは、システムを崩そうとしているのであり、最も危険な「崩し」の思想だと言わざるをえない。

 その危険性については、昨日アップした「母性とフェミニズム」の「6 フェミニズムの陰謀」の(6)「男女平等に隠された革命戦略」で詳しく論じているので、是非読んでいただきたい。

 

 なお25日の『産経新聞』によれば、24日の自民法務部会では「慎重派から異論が相次ぎ、議論は平行線をたどった」そうである。

 『朝日新聞』は24日の記事で「長らく続いた膠着状態に変化が起きるのではないか。そんな予感が広がった」と中立であるはずの報道に主観的希望的な観測を忍び込ませていたが、24日の自民法務部会での議論が今までと同様に並行線をたどったことは報じていない。またその記事には別姓を望む女性の意見しか取り上げていない。相変わらずの偏った紙面作りである。