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2 夫婦別姓

 

 

(7) 「反対」する権利を封殺する

 

 『朝日新聞』のファシズム的「社説」

 

 『朝日新聞』が仰天するような「社説」を出した。

 公器たる新聞の中立も公正も投げ捨てるような、非論理的・感情的な論説である。

 昨日、すなわち2002年(平成14年)4月18日の社説である。

 題名は「夫婦別姓」「寛容さに欠ける反対論」である。

 結論は

 

別姓反対を叫ぶ人たちには、他人への寛容さが欠けている。それは、自分なりの生き方を選ぶ少数者に対する差別や偏見にさえつながりかねない。

 

である。

 まず「叫ぶ人たち」という表現は穏当を欠いている。たとえば、私は別姓反対を唱えたり、主張しているが、叫んだことは一度もない。ほとんどの人たちは叫んでなどいないだろう。こういう感情的な言葉遣いからは、理性的な議論は始まらない。

 

民主主義的議論の否定

 そんなことより、大問題なのは、

 少数者の言い分に反対する人に対して、「寛容さが欠けており、差別につながる」と決め付けているところである。そう言われてしまうと、誰も少数者の言うことに反対できなくなってしまうのではないか。こういう言い方は議論を圧殺する暴言としか言いようがない。民主主義と言論の自由に対する重大な攻撃である。

 別姓反対を批判したいのなら、反対論のどこが間違いだと思うのかを、具体的理論的に指摘すべきである。それが理性的な議論の仕方というものである。

 それを一足飛びに「寛容さのあるなし」を問題にするのでは、議論の飛躍を通りこして、不当な決め付けであり、民主主義的な議論の否定と言うべきである。

 「自分なりの生き方を選びたい」と言うけれども、その生き方が他人や社会にどういう影響を与えるかを考えなくていいわけがあるまい。反対論はそこのところを問題にしているのだ。たとえば、離婚が増えるのではないか、家族の崩壊に拍車がかかるのではないか、子どもへの影響はどうか、等々である。こういう疑問に誠実に答えることをしないで、反対論を「不寛容」と決め付けても、反対論はなくならないであろう。

 たとえば、この社説の中には、

 

別姓には、対等なパートナーとして認め合おうという意思があると思う。なぜ、それが子どもたちに「好ましくない影響」を与えるのだろうか。

 

と書かれているが、誰も「対等なパートナーとして認め合う」ことが子どもに悪影響を与えるなどとは言っていない。家族同士で名前が違うことが子どもの心を混乱させないかどうかを問題にしているのである。相手の論点に正確に合わせて反論すべきである。

 

「精神的苦痛」とは何だ ! ?

 この社説は、反対論には「飛躍」があると言っている。すなわち

 

 この社会がさまざまな悩みを抱えていることは事実だし、家族のきずなは確かに大事だ。しかし夫婦別姓の問題がそれと直結するというのは、飛躍がある。法務省の案は、同姓を強制されることに精神的な苦痛を感じたり、不利益を受けたりしている人たちを助けようというものだろう。

 

 誰も「直結する」などとは言っていない。別姓になったら、とたんに家族の絆が壊れるなどと言っていない。じわじわと影響が出るのではないかと心配しているのである。それが杞憂だというのなら、杞憂だという根拠をきちんと示すのが、反対論への説得というものではないのか。高飛車に「不寛容」だと責めても、なんの説得力もないのである。

 別姓が必要なのは、「精神的苦痛」と「不利益」をなくすためだと言う。「精神的苦痛」とは大げさな言葉を使うものである。どんな「苦痛」か、具体的に示してもらいたい。どれだけの説得力のある「苦痛」なのか示してもらいたい。

 「不便」の方は、通称使用を導入すれば、充分対処できる。わざわざ民法を変える必要などないのである。

 

「寛容」という言葉の意味が分かっているのか

 「寛容」になれと言うが、「寛容」とは何でも許すということではあるまい。「自由放任」「何でもあり」を許せば「寛容」なのであろうか。

 この筆者は「寛容」ということを、価値の多様化を認めることだと考えているらしい。しかもその多様な内容とは、「結婚届を出さない事実婚を実践するカップル、未婚のまま子供を育てるシングルマザー、同性愛のカップル」などを指している。こういう形態をすべて、正式の異性婚と同等に認め、同等の権利を認めるというのが、「寛容」ということの意味らしい。

 私はそういう形態は望ましくないと思っている。正規の婚姻と同等の権利を与えるべきでないと考えている。しかしそう言うと、すぐに「差別」だと攻撃される。恐ろしくて、そういう意見はなかなか言えない。

 「望ましくない」と思ったものを堂々と「望ましくない」と言える社会が、私は望ましいと思うが、そういう意見の表明に対しては「寛容」でないのが、多様論者たちの特徴である。

 語るに落ちたと言うべきだが、別姓賛成論者の多くは、そうした変則的な形態を実践しやすくするために、別姓を唱えているのである。つまり、はっきり言えば、別姓はそれらの変則的な結婚をしやすくするためのものなのだ。あるいは離婚をしやすくするためのものなのだ。それらの変則的形態に対して「寛容」を要求しているのだ。

 別姓に反対する人たちの多くは、そうした形態は望ましくないと考えている。そのへんに根本的な違いが横たわっているのである。

 問題は「寛容」かそうでないかの違いではない。何に対して寛容か寛容でないかの違いである。

 反対する人たちを「不寛容」だと決め付けることこそ、不寛容ではないか。反対することへの不寛容は許されるとでも言うのか。

 

封建的なのはどっちだ、飛躍はどっちだ

 こんな主張もされている。

 

 同姓を家族のあり方と結びつけて強調したり、「家族崩壊」などと、ことさらに不安をあおったりする主張からは、封建的な家制度への郷愁さえうかがえる。

 

 どうして「家族崩壊」を心配することが、「封建的な家制度への郷愁」と結びつくのか。こういう言い方こそ「飛躍」と言うのではないか。

 人のことを「飛躍」「飛躍」と批判しておきながら、こういう無茶苦茶な飛躍をして平気という神経は理解を超えている。

 しかもこの筆者は、その前段でこうも言っているのである。

 

 長男と長女同士の結婚の際に、双方の親が自分の姓を名乗ってほしいと望むこともあり、結婚の支障になっているという悩みも聞く。法改正を望んでいる中には、そんな人たちもいるのである。

 

 「双方の親が自分の姓を名乗ってほしいと望む」ことには、「封建的な家制度への郷愁」は「うかがえ」ないのであろうか。家名にこだわったり、長男・長女にこだわることの中には、封建的な家観念の名残りはないのであろうか。

 法改正を望む人に封建的な郷愁が出ていても寛大に認めるのに、反対論の中に「うかがえる」となると槍玉に挙げる。なんとも不公正な議論の仕方であることか。

 

社説なのか個人の意見なのか

 総じて、この社説は、高飛車な調子と、押しつけがましい論調が目立つ。

反対派を非難する決めつけには、ファシズム的な権柄づくの議論弾圧の匂いさえする。「寛容でない」「差別につながる」という非難の仕方は、感情に訴えるヒステリックなやり方であると同時に、問答無用で反対派を圧殺しようという姿勢につながる危険な兆候である。

 この論説は、何人かで慎重に議論した結果書かれたものとはといてい思えないほどに、個人的な特徴が出過ぎた杜撰なものである。

 一体、『朝日新聞』では社説はどのようにして作られるのか。責任者の名前を公表すべきではないのか。匿名に隠れて、低俗な議論が社説の名のもとに出されるのは、新聞社の堕落以外のなにものでもない。

 『朝日新聞』の猛省を促したい。