家族 2 夫婦別姓  

 

(2) 屁理屈で固めた夫婦別姓論

 

 フェミニストどものやり口が汚いことは何度も経験してきた。介護保険法のときは非公開の審議会で審議し、家族介護の取り扱いについて激論があったにもかかわらず、国民には知らせないで家族介護を否定する結論を出し、国会に提出して通してしまった。

 今回の夫婦別姓法案にしても、テロ問題、自衛隊海外派遣問題、行政改革問題、景気対策問題など、どれをとっても緊急の重要案件が目白押しの状態の中、どさくさまぎれのようにして、野党議員は法案を提出し、また法務省提案の形を取ろうとやっきになっている。山崎自民党幹事長や福田内閣官房長官/男女共同参画担当大臣ははっきりと別姓法案を進めるという発言をしている。自民党が党として別姓賛成の態度を決めてしまっては、事態は危機的となる。

 別姓問題については、本HPでも再三にわたって取り上げ、別姓論者の世論調査のウソや、別姓必要論のゴマカシを明らかにしてきた。別姓論者たちは、一つの屁理屈を論破すると、つぎつぎに屁理屈を出してくる。

 今回は新たに出されている二つの論点をめぐって、別姓論の誤りを明らかにしたい。

 

 一 姓は「単なる形式」ではない、家族統合の象徴である

 

 同姓制度が家族の一体感を強める(別姓は家族の一体感を弱める)という我々の主張に対して、同姓は「単なる形式」であり一体感とは関係ないと反論する人々がいる。

 たとえば、政府の男女共同参画会議の基本問題専門調査会は「家族の一体感にとって大切なのは、同姓という形式ではなく、愛情や思いやりといった実質である」という見解を発表した。

 この主張の間違いは、「形式」と「実質」を機械的に分け、しかも「同姓」を「単なる形式」だと理解しているところにある。

 まず強調しなければならないのは、世の中に「単なる形式」などというものは存在しないということである。形式は内容を補強し、内容は形式を必要としている。形式と実質は不即不離の関係にある。堕落や腐敗した場合にだけ形式と内容が乖離するにすぎない。

 夫婦同姓は決して「単なる形式」ではない。それは家族統合のための大切な象徴であり、また日本文化の基本の型である。

 どんな集団や組織にも必ず統合のための象徴があり、たとえば学校や会社には記章があるし、どの国家にも象徴としての国旗と国歌がある。宗教も神社や卍(まんじ)や十字架といった象徴を持っている。それらは同じ集団に属するという意識を高め、きずなを強める働きをしている。

 象徴が人間に対して強い力を持っていることは、ユング心理学がつとに研究してきたことである。発達した精神は美しい象徴を作り出すし、人間は象徴によって強く影響を受ける。個人においても心が大きく変化するときには、必ず心の中の象徴も大きく転換する。

 集団が持つ記号や象徴は「単なる形式」などではなく、心理的な結合を強めるために人間だけが持っている高度な精神的営みである。

 

 家族においても同様に姓が家族を統合する象徴の役割を果たしている。家族が同姓だということは、とくに子供に対しては大きな意味を持っている。子供の感覚や心は敏感で影響を受けやすいので、幼少時のしつけが大切なのであるが、それと同じ働きが姓の同一性についても言える。幼少時から家族が同一姓だということは、心の深いところに家族の一体感を浸透させる強い影響を与えていると考えられる。

 象徴というものは強い影響力を持っているので、たとえば家族の統合のための象徴を正しく選ぶことが大切になる。家族の象徴が分裂したり、複数あるという「親の別姓」状態は決して健全な心を育てないであろう。

 もちろん象徴が悪用される危険性はある。日本は日の丸を先頭にして他国を攻撃した過去を持つ。しかし今では日の丸は平和愛好国日本の象徴となっており、国民から愛される象徴となっている。

 家族の姓は他者を攻撃するための象徴として悪用されるはずもなく、家族のまとまりの象徴として機能している。それを「まとまりの象徴」とは感じられないという人は、象徴という大切な働きを軽蔑しているために、感受性がなくなった人たちである。

 

 

 二 野田聖子議員の愚かな屁理屈 

        ──記号や象徴は下等動物の印か

 

 象徴の大切な意味を理解できなくなった典型が、自民党の野田聖子議員である。野田氏は『東京新聞』平成十三年十一月十一日付けの夫婦別姓に関するインタビューの中で次のように語っている。

 

 質問 依然として「家族の一体感がなくなる」などの反対論も、自民党内では強い。

 野田 何それって感じですよね。家族の一体感を作るのは「氏の統一」ではなく、それぞれの気持ち。同じ記号だから仲良くなるという下等動物じゃないでしょ、人間って。家族のつながりは、それぞれが相手を支えようという意欲とか、意識とか、協力の中でつくられるものだと私は信じている。

 

 この発言はじつに重大な問題を含んでいる。

 野田氏は「記号を使って仲良くなる」ことを「下等」だと言っているが、同じ記号や象徴を使うことによって一体感を高めることがどうして「下等」なのであろうか。むしろそれは人間に特有の高度な精神活動であり、動物には萌芽的にしか見られない。それは集団や組織を作って協力し合って生きなければならない人間に与えられた、大切な心理的働きである。

 たとえば、国旗とか国歌(国によっては国王、元首、天皇、大統領などの個人)が国民の統合の象徴になるという現象は、人間心理の自然なありようである。そういうことを下等だと言うなら、国旗・国家を持っている世界中の人間は下等だということになる。

 だいいち日本国憲法の第一条には「天皇は日本国民統合の象徴である」と書かれている。天皇という象徴をもつことよって国民がまとまり仲良くしようという憲法を野田氏は「下等」だと言うのであろうか。それは日本国民と日本国憲法に対する侮辱である。

 国や国民に統合の象徴が必要なように、家族にも統合の象徴は必要である。氏姓というものはそうした統合の象徴の意味を持っている。

 もちろん愛情は家族のきずなを強める大切な働きをしている。しかし同一の姓という象徴もまた心理学的なきずなを強める重要な働きをしているのである。まったく異なる範疇の愛情と象徴を比較して、どちらが重要かという議論をするのはナンセンスである。

 氏姓を「単なる形式」「単なる記号」だと考えるのは、型や記号が持っている重要な働きについての教養のなさを自ら露呈していると言わざるをえない。

 

 三 別姓は封建社会の特徴、同姓は近代化の産物

 

 別姓論者たちは、中世の北条政子や日野富子などの例を出して、「昔は別姓だった」「同姓制度などはつい最近出てきたことで、日本では本来は別姓だった」と言っている。中世の武士社会ではなぜ別姓だったのか、それが同姓になったことにはどういう意味があるのか考えてもみないで、ただ過去にあったということを持ち出すのは、歴史の意味を知らない無教養人のすることである。

 中世社会では、妻は出身の家族とのつながりが強く(母系制の名残)、所領をもとの家族からもらっており、初期においてはそれを娘に相続させることもできた。つまり出身の家族との縦のつながりが強く、現在の夫との横のつながりは相対的に弱かった。(出身の家の家名にこだわる野田議員の意識は、封建社会の家名意識と同じレベルと言わざるをえない。)

 それに対して、現在一緒に住んでいる家族のつながりの方を重視し、同姓にしたのが近代化の一つの成果である。人間は小家族になるにつれて、出自とは関係なく現在ともに住む家族のつながりを重視するようになり、同姓制度を採用したのである。それが近代的な精神にマッチした自然な変化だったのだ。つまり同姓制度は近代化の所産、歴史上の進歩的要素だと言うことができる。

 明治における同姓の採用に関しては、それを明治政府が国民の慣習に反して強制したかのように言う者がいるが、事実はむしろ反対である。

 すなわち、当初政府は「婦女たる者は他家に入嫁の後と雖(いえど)も生家の姓を称すべきは古来よりの成例」だとして、むしろ夫婦別姓を指導したが、国民のあいだには夫婦別姓に対する抵抗感が強く、「婚家の姓を称するは地方一般の慣行」という批判が強まり、ついに政府も夫婦同氏制へと転換したという経緯がある。

 この経緯は、日本においては国民のあいだの「下からの」近代化が政府の意識よりも進んでおり、夫婦同姓意識がすでに強く存在していたことを示している。つまり制度ができる以前から、国民の意識や感情の中では夫婦同姓の方がむしろ当然のこととして感じられていたのである。同姓制度は政府の法律によってあるとき唐突に導入されたものではない。家族の近代化の進展ともに、家族成員の下からの意識変化として生まれたものである。

 

 もちろん夫婦同姓が歴史上の進歩だと言っても、それが家父長制度と一体になって進められたこと軽視しようというのではない。明治以来の同姓による一体感は父権制度による妻の権利の縮小や被支配とともにもたらされた。しかしその家父長制度も戦後は廃止され、夫婦はどちらの姓を名乗ってもいいという形で、同権となった。つまり夫婦同姓と家父長制度とは必ずしも結びつく必然性はないのである。事実、戦後の民法では、家父長制度は否定され、夫婦は完全に平等と宣言されている。

 歴史は確実に進歩しているのである。あとは実質的に夫婦が男性の姓を選ぼうが女性の姓を選ぼうが、誰も気にしないというように、社会的な意識を変えていくように運動するのが、健全な社会変革の考え方である。ウソやゴマカシを使って圧倒的な少数派を多数派のように見せかけ、クーデターまがいの法改悪をたくらむのは、どう見ても健全な民主主義国家の姿ではない。

 現行の同姓制度の進歩的な要素を評価しないで、歴史を逆にまわして、別姓を復活させれば男女同権が進むと考えるのは、歴史の進歩とは何かを知らない浅はかな考えである。

 

 四 日本文化の基本型を守れ

 

 別姓論者は同姓になったのは「たった百年前」だと言うが、ある観念が社会に定着するには百年は十分すぎる長さである。世代にして四世代、場合によっては五世代も経過している。それだけの時間がたった今、同姓制度は日本人の心にしっかりと定着して、文化の基本型となっている。

 「文化の型」とは、誰もが当たり前だと感じており、ふだんはあまり意識していないが、深いところで人々の意識や行動を決定しているものである。

 たとえば、日本人の家屋は高床式になっていて、外から帰ると玄関で履き物を脱いでから家に上がる。この習慣は日本人の美意識のもとになっている「最も日本的なるもの」である。

 この「当たり前だが、日本人の感覚的な基礎になっている文化的な型」というものは、日本人のアイデンティティーのもとであり、それがなくなると日本人としての統一性が崩れてしまうという性質のものである。

 夫婦同姓こそは、この大切な「文化の型」の一つである。これは今や日本人の意識の中に確固として根づいており、日本人の家庭を支える精神として、家族の絆を維持する基盤の役割を果たしている。

 今や家族同姓は日本人の意識の一部となり、家族のアイデンティティーのシンボルになっている。それは決して「単なる形式」ではなく、愛情のあり方にも当然影響を与える。同姓か別姓かは心のあり方と無関係ではないのである。それを壊すのは日本文化の型を崩す暴挙と言わなければならない。

 日本文化を破壊しようとするフェミニストの戦略は、別姓制度導入を突破口にして、婚姻制度そのものを崩すという方向に向いている。「事実婚を追認し、安易に結婚と離婚ができるようにする」「正規の婚姻によらないで子供を産むことを容易にする」「非嫡出子にも嫡出子と同じ権利を与える」「同性愛者のカップルを法律上の夫婦と認めさせ、法律上の権利を与える」等々。それらはすべて家族制度と婚姻制度のなし崩し的な破壊へと通じている。

 夫婦別姓は家庭のまとまりを崩し、家庭の教育力を確実に落とすだろう。別姓論者たちは「同姓でも家族破壊が進んでいる」と言うが、だからこそそれを加速させる別姓を実現させてはならないのだ。

 スウェーデンでは個人単位思想に立って夫婦別姓を導入し、そのために離婚は増大し、犯罪は急増した。スウェーデンと同じ破綻への道を辿らないためにも、夫婦別姓は断固として葬り去らなければならない。