家族

 

 1 フェミニスト家族論の批判

 

(4) 非嫡出子の区別は正当なり

 非嫡出子を嫡出子と区別して戸籍に記載するのは差別だとして、区別しないように求める要求がフェミニストを中心に加速している。
 平成16年3月2日には、東京地裁で「区別記載」を「必要な限度を超えたプライバシー権の侵害」と認定した判決があった。
 それを受けて、『読売新聞』は早速、解説部の記者の署名記事「戸籍の続き柄で嫡出子と差別、再考を」を掲載した(平成16年3月3日)。
 また『朝日新聞』(平成16年3月7日)も社説で「婚外子差別はやめよう」を掲載した。
 続いて法務省も8日に戸籍表記の婚外子の区別を撤廃する方針を明らかにした。
 さらにそれを受ける形で、『朝日新聞』は10日の家庭面の半分以上を使って、上記訴訟の原告の「婚外子差別の全廃を」という言葉を大きく見出しに使って、特集記事を載せた。
 これら一連の動きは、この判決を期に、婚外子区別の廃止をフェミニスト運動の中軸にしていこうという戦略的意図から出たものであろう。

 この東京地裁判決は戸籍の記載を巡る初の司法判断で、今後への影響が大きく、見逃すことのできない重要性を持っている。
 判決は「違法」とまでは言えないとしているが、この判決によって非嫡出子区別撤廃の運動が加速されるであろう。
 非嫡出子を嫡出子と区別することは、はたして理由のない差別なのか、それとも正当な理由のあることなのか。

一 裁判の概要

 訴訟を起こしたのは、公務員の福喜多(ふくきた)昇さん(56)と同、田中須美子さん(56)夫妻と娘(18)の3人。夫妻は事実婚だったため、戸籍で娘は「女」と記載され、99年に提訴した。
 すなわち、戸籍で子供の続き柄を示す続柄欄に非嫡出子と分かるよう記載されたのは違法として、国と東京都中野区に記載差し止めと400万円の賠償を求めた。
 東京地裁(柴田寛之裁判長)は、請求は退けたが、プライバシー権の侵害を認め、「非嫡出子であることをあえて明示する合理性は乏しく、記載は限度を超えている」と述べた。
 その理由として、「非嫡出子という事実は他人に知られたくない情報で法的保護の対象」だとして、「選択の余地がない属性によって就学、就職、結婚などで不利益な扱いを受けているのだから、戸籍の記載は必要最小限にすべきだ」と述べた。

二 判決の事実認定の間違い

 年齢から見て、この夫婦は全共闘世代であり、全共闘運動から思想的影響を受け、戸籍制度を否定して婚姻届を出さなかったのであろう。その後の言動を見ても、いわゆる確信犯と思われる。
 とすれば、非嫡出子という「属性」は、子供にとっても、運命的に選択の余地なく与えられた「属性」とは言い切れない。親の選択の結果として子供が受ける結果は、子供もまたある程度背負っていかなければならない。親の選択とはまったく無関係な「属性」だとは考えにくいのである。
 その意味では、判決が「選択の余地がない属性によって就学、就職、結婚などで不利益な扱いを受けているのだから、戸籍の記載は必要最小限にすべきだ」と述べているのは、はじめから認識の間違いがあると言わざるをえない。届け出を拒否しているいわゆる「事実婚」という確信犯の場合には、とくに子供がそれを肯定している場合には、明確に選択がなされているのである。
 はじめから隠すつもりもない確信犯の場合、プライバシーだの「他人に知られたくない情報」だのというのは矛盾している。周りの人はみな知っていることだろうし、就職や進学のときに親の氏名を書けば、夫婦の性が違っていることは、わざわざ戸籍を調べなくても、分かってしまうことである。戸籍に記載されているからプライバシーが侵されるというのは「いいがかり」というものである。
 またはじめから不利益を受けることを覚悟で選択をしたはずなのに、「不利益」を理由に訴訟を起こすというのは、戸籍制度を否定し、法律婚主義を崩そうという意図から出た行動であることを証明している。プライバシー保護だの、少数者保護だのという問題ではなく、社会の秩序を崩そうという思想運動だということを見抜かないといけないのである。

三 戸籍制度と法律婚主義が必要な理由

 ここで、戸籍制度と法律婚主義がなぜ必要かという理由を述べておく。その点に関して、拙著『家族の復権』においてすでに次のように述べている。
 人類は大きく見ると夫婦のペアで子育てをするというペア型に属していることを述べた上で、

 いずれにしてもこの型の特徴は、夫婦がペアを組んで子育てに携わる点である。夫婦が力や特性に応じて分業し、協力して子育てに当たるという前提で人類という種が成り立っているのである。したがって片方が欠けると、子育てに不利となるという特徴を持っている。
 そこで、不心得者が勝手にペアを解消して子育てを放棄しないように、婚姻関係を固定させ一定の縛りを与えるために、制度化という方法が考え出されたのである。こうしてペアが分裂して子育てに不利になるような事態を避けるために、人類は古来さまざまな婚姻制度を発達させてきた。子どもを産んだ(または産むべき)カップルには、一定の持続性と責任を課する[さらに一定の優遇を与える]という考え方である。
 この考え方に立てば、婚姻外の出産や子育てに一定の不利を科するのは当然の処置である。その制度には、個人の人権や差別という問題とは別の、人類全体の運命がかかっているのである。この問題は、単に人権や個人の自由という視点からのみ考えていたのでは、不十分であるということを自覚しなければならない。
 戸籍制度は以上のような婚姻制度を補完する意味の他に、社会の治安を維持するためという意味も兼ね備えている。治安の維持のためには、なんらかの「登録」や「管理」が必要である。その「登録」を個人単位でするか、家族単位でするかの違いがあるだけで、「登録」や「管理」が必要でない社会というものはありえない。
 日本の戸籍制度は、国家が個人を直接管理するのではなく、家族単位で管理するという原理に立ったものであり、日本人の家族重視の観念を前提にしたものである。したがって戸籍制度を捨てるということは、家族重視の制度を捨てることを意味している。つまり戸籍制度をなくせと言っている人たちの心の中には、家族を軽視する心が隠れているのである。
 戸籍制度を批判する人たちは、姓名とは「わたくしごと」であり、「人格の一部」だから、国家が管理してはならないし、戸籍制度も不合理なものだから廃止せよと主張している。しかし、姓名とは個体を分類するシステムであり、決して「わたくしごと」ではないし、個体だけの所有物ではない。とくに姓は社会全体のつながりの中で類別的な機能を果たしているものであり、家族と同様に、個人にとってはその中に産まれついてくる運命的なものである。したがって、よほどの不都合や不便・不利がないかぎりは、勝手に変えてはならないものである。名前は姓と違って、自由に決めてよいという性格が強くなるが、それでも一端決めたら簡単に変えると管理上・分類上いろいろな不便や不都合が生ずるので、変えるにはそれなりの手続きが必要な仕組みにしているのである。つまり変えることを不便にすることには、それなりの理由があるのである。
 婚姻制度や戸籍制度を、単なる個人単位思想の観点からのみ見て不要と断ずるのは、人類が社会的動物であるという視点を欠いた、一面的な見方である。(『家族の復権』p.126〜128)


 以上によって明かなように、「社会状況の変化は著しく、婚姻という外形をとったかどうかで差異を設けることに合理性を見出すのは困難」という昨年3月の最高裁判決の少数意見が、いかに間違っているか明かであろう。
 「婚姻」が単なる「外形」だという理解も間違っているし、法律上の「婚姻」とそうでない事実婚とに差異を設けることには、「合理的」かどうかは別として、正当な根拠があるのである。
 
四 差別でなく価値観の表明

 以上のような戸籍制度の存在理由を充分に理解するなら、非嫡出子(婚外子)を相続上不利にしている民法や戸籍上の表記に区別を設けてきた処置は正当性を持っていると言わなければならない。正規の婚姻によって生まれた子供を優遇し、婚外子を不利にするというのは、決して不当な差別ではなく、処遇に有利不利を課するのは正当な対応と言うべきである。
 差別とは、ゆえなくして不当に低い待遇を与えることである。
 『新明解国語辞典』(三省堂)には、「優越感を味わおうとの偏見に基づいて、自分より弱い立場にある人や何らかの不利な条件を負っている人に、不当に低い待遇を強いる(侮蔑的な扱いをする)こと」と定義されている。
 このように「不当に」という言葉がきちんと入っている。「低い待遇を与えること」それ自体が差別ではないのである。極端な例を挙げると分かりやすいので、犯罪者に懲役を科する場合を考えてみよう。この場合に犯罪者に不利な扱いを与えるが、それは決して不当に低い待遇を与えているわけではないので、誰もそれを差別とは言わない。正当な理由があるときは、低い待遇を与えてもいいのである。
 したがって、待遇に違いがあるからといって、それだけで差別だと言い立てるのは間違いである。その違いにどれだけの正当な理由があるのかを慎重に吟味してみるのでなければならない。
 このような観点からもう一度、非嫡出子の「差別」と言われている問題を見てみると、それを区別だてし嫡出子とのあいだに優劣の違いを設けているのには、婚姻制度(法律婚および戸籍制度)を守るためという正当な理由があることが分かる。決して不当な差別ではないのである。
 戸籍に、法律婚の場合には「長男」「長女」等と書き、非法律婚の場合に単に「男」「女」と書くというのは、法律婚を守るべきだという価値観を表明しているのであり、夫婦と家族で子育てをするという最も人類らしい体制を守ろうという意思を表わしているのである。
 そういう大切な意味のある差異づけに対して、「差別」だと言われれば廃止するという弱腰の態度では、正しい家族のあり方を守っていくことは不可能になるであろう。

五 非論理的な差別撤廃論者の主張

 非嫡出子差別に反対している人々の主張を吟味してみると、少しも正当性がなく、ごまかしや矛盾が目立つ。以下、差別撤廃論者の論理の矛盾を明らかにする。
 非嫡出子の区別に反対している人々の論理を典型的に示している署名記事が『読売新聞』に掲載された。平成16年2月4日付けの「解説部 長峰好美」という署名のある「非嫡出子 結婚観や社会状況も多様化 戸籍の続き柄で嫡出子と差別、再考を」という文章である。
 この文章には、非嫡出子差別反対の理屈が整理されていて、どういう理由で非嫡出子区別に反対しているかが一目で分かる。以下、それらの理由がいかに非論理的であり、全然理由になっていないかを少し丁寧に論じてみたいと思う。理由とされているものは、以下の三つに整理できる。

1 価値観や家族が多様化しているという理由

 まず挙げられているのが、社会状況が変わったという理由である。地裁の判決では「個人の価値観の多様化や家族形態の変化に伴い、事実婚が増加し、国民の意識も変遷している」と述べている。
 長峰氏も昨年3月の最高裁判決の少数意見に「社会状況の変化は著しく、婚姻という外形をとったかどうかで差異を設けることに合理性を見出すのは困難」と書かれているのを引用し、「未婚の母や、婚姻という形にこだわらない夫婦が増え、家族のあり方が多様化する中、嫡出子と非嫡出子を区別する合理性は急速に失われつつある」と結論している。 
 この論理は、「多様化したものはすべて認めよ」という「何でもあり」の論理である。新しく生まれるものは何でも認めよという論理を認めてしまうと、何が出てきても「多様化」という言葉で正当化されてしまい、反対する者は「差別」だという殺し文句で圧殺されてしまう。その意味でそれはファッショ的な論理だと言わなければならない。

2 差別につながるという理由

 第二に、プライバシーが知られることで、差別につながる危険があるという点が、理由として上げられる。東京地裁の判決でも、「続き柄欄の記載で属性が判明し、差別が助長されることもある」「プライバシー保護の観点から、非嫡出子であることが強調されないようにすべき」とし、
「非嫡出子であることをあえて明示する合理性は乏しく、記載は限度を超えており、プライバシー権の侵害」だと指摘した。
 「差別」「差別」とわめくと何でも認められるということになれば、「何でもあり」の世の中になってしまう。上で述べたように「差別」という言葉は慎重に使わなければならない。黄門様の印籠ではあるまいに、この言葉を出せば皆が平伏するという状況はきわめて不健全である。
 差別につながる「危険がある」とか「可能性がある」というだけの理由で、きわめて重要な制度を変えていいものであろうか。いわれなき差別をなくすことは必要である。親がどんな関係で結びついていようが、子供に罪はない。子供への差別は絶対になくさなければならない。しかし、もし差別が生じたなら、その場に応じて解決すべきであり、別の意味で必要な制度を変えることによって差別をなくそうというのは、間違った発想である。
 その発想はちょうど同性愛者に対する差別をなくそうとして、性差そのものを否定するという方法を取るのに似ている。一部の者を救おうとして、全体として必要な制度を換骨奪胎するような愚を犯してはならないのである。
 長峰氏は「いかなる家族の形を選んでも、社会的に不利益を受けないような法改正を望みたい」としているが、「いかなる家族の形を選んでも」というところには断固として反対せざるをえない。婚姻制度に反対する形態を選んだ人々は、不利益を蒙ることに我慢をしてもらわなければならない。またそれを選ぶ場合には不利益を承知で選ぶべきである。社会に重大な不利益を生ずる畏れのある形態を選んでおいて、不利益だけはいやだというのは、勝手がすぎるというものである。

3 世界の流れだという理由

 長峰氏はついで、「世界に目を転じると、欧米各国では、1960年代後半から、非嫡出子を差別してきた法律を改正、撤廃する動きが相次いだ」として、英独仏とスウェーデンを例に挙げている。「世界」とか「欧米」「相次いだ」と大げさに言うわりには、ヨーロッパの四カ国しか例が挙げられていない。
 そのヨーロッパの一部の国々の方が、じつは異常なのである。そちらの方が進歩的だと言うが、じつは悪い方に「進み」すぎたとも言える。
 英独仏とスウェーデンでは出生率がわずかだが改善されたと言うが、スウェーデンのように経済が破綻するほどに高福祉に予算を使い、婚姻によらない子供を優遇した結果が、たった0コンマ1程度の改善では、対費用効率から言ったら決して「成功」とは言えない数字である。国の経済が破綻し家庭やモラルが崩壊して(スウェーデンの突出した犯罪王国ぶりを思いおこせ)、たった0.1程度の改善を見ても、国民全体のモラルの低下と不幸につながった結果は「失敗」と言うべきである。われわれは決して英独仏とスウェーデンを模範にすべきではない。せっかく家族のつながりが強いという日本のよき伝統があるのに、「多様化」の名のもとにそれを崩すような制度改悪に対して、断固として歯止めをかけなければならない。
 長峰氏は「欧米」と言いながら、恐らく意識的にであろう、アメリカについて言及していない。すでにアメリカでは家族崩壊が反省され、家族の修復が焦眉の急として政治的課題となり、そのために多額の予算がつけられている。「世界の流れ」という言葉を安易に、自分に都合のいいように使うべきではない。

4 国連は中立でも良識的でもない

 フェミニストの例に漏れず、長峰氏も「国連」を持ち出している。いわく国際人権規約や子供の権利条約を持ち出し、国連の人権関連の委員会からも非嫡出子の差別是正を再三勧告されている、と。
 しかし「国連」の、とくに「人権」を扱う部門はヨーロッパの急進的フェミニストに占領されており、決して良識的でもなければ、世界の常識を反映してもいない。きわめて偏った狂信的な人権思想とフェミニズム思想の巣窟にすぎない。
 ところが、日本人の中ではとくに「国連」幻想が強く、国連は良識的で中立だと思い込んでいる人が多い。その幻想を利用して、フェミニストは二言目には「国連」を持ち出して錦の御旗にする。日本人はぼつぼつ「国連幻想」から脱却しなければならない。
 
5 「合理性」という言葉の詐術

 長峰氏の文章の中に「合理性」という言葉が何度も出てくる。

 「未婚の母や、婚姻という形にこだわらない夫婦が増え、家族のあり方が多様化する中、嫡出子と非嫡出子を区別する合理性は急速に失われつつある。」

 ここでは「合理性」という言葉が、あまりにも安易にご都合主義的に使われている。自分の主張を正しいと見せかけ、相手の主張を根拠がないかのように見せかけるために利用されている。卑劣な論法と言うべきである。
 物事の論拠としては、合理的でなくても、正当で説得力のある場合もある。根拠を「合理性」だけに絞り、その上で相手を合理的でないと否定するのは、すりかえであり、卑怯な論法である。
 もし「合理性」という言葉が、単に「理由を説明せよ」とせまるよりも「合理的理由を説明せよ」とせまる方が相手が困るだろうという戦術的な意味で使われているとしたら、汚い戦術だと言わざるをえない。

 『朝日新聞』平成16年3月7日付社説「婚外子差別はやめよう」も、同様の論理を展開している。非嫡出子区別は「いわれなき差別を生む原因」だとした上で、こう述べている。

 「だが、両親の結びつきがどんな形であろうと、生まれた子どもに責任はない。本人がいくら努力しても非嫡出子であることを変えることはできない。明治以来の相続の差別が、非嫡出子への差別を温存してきたとも言える。」

 たしかに子供には責任も罪もない。また本人がいくら努力しても非嫡出子であることを変えることができないことは充分に同情に値する。しかしその点だけを強調して、短絡的に戸籍制度の改悪へと直結させるのは、単なるセンチメンタリズムにしかならないし、同情心を戸籍制度改悪のために利用しているとしたら、悪質な戦略だと言わなければならない。
 たしかに非嫡出子のハンディをなくすための、なんらかの方法は必要である。しかしその方法として、相続の区別などの非嫡出子区別を全廃せよというのは、何度も言ってきているように、必要な制度までもなくしてしまおうというオールオアナッシングの発想であり、とうてい是認することのできない発想である。

嫡出子と非嫡出子の区別は必要
 嫡出子と非嫡出子の基本的な区別は必要である。それによって非嫡出子が不利になるとしたら、制度が悪いのではなく、親が悪いのである。非嫡出子は制度を批判する前に、まず親のイデオロギーの是非を吟味してみるべきだ。
 と言い切るには、じつは私自身の体験がある。若いころ、まだ純粋に理論的に考え、また国家や戸籍制度が必要だという観点を持っていなかったころ、私たち夫婦は事実婚で、届け出をしていなかった。愛情がすべてで、形式は必要ないと考えたからである。しかし子供が生まれるとなったとき、届け出をした。イデオロギーに忠実であるよりは、子供の幸せを大切にする方を選んだのである。親のイデオロギーによって子供の運命を変えてはいけないと考えたからである。
 もし子供の運命よりもイデオロギーの方を選んだ親の子に生まれたなら、親のイデオロギーによって決められた人生に耐えるか、親を批判するか、どちらかにすべきである。必要な制度を壊すことによって、マイナスをなくそうという態度を、私は許せない。
 もう一つ許せないのは、原告の中に18歳の子供を入れていることである。子供を親のイデオロギーの巻き添えにしている典型と言えよう。
 制度は社会のあるべき姿を体現するものである。だから、いわゆる「妾」はよくないことで、それを制限するためにも「妾の子」を「正妻の子」と区別しているのである。相続に区別を設けているのも、正規の法律婚による子を優遇するという意味からである。シングルマザーの子に対する区別も同じ意味を持つ。シングルマザーという形態は家族の形態として望ましくないという社会の価値観の表明なのである。
 「差別撤廃」論者たちは、ゆくゆくは相続の完全平等を目指して民法の改悪を狙っているようだが、非嫡出子の相続権はゼロではない。半分の権利を認められているのであり、そのくらいが妥当なところであろう。それは決して「いわれなき差別」ではないのである。
 3月9日には、法務省が電光石火、お役所としては異例の速さで、非嫡出子の戸籍表記を「男から長男」に「女から長女」に変えるように「戸籍法施行規則」を改正すると発表した。法務省のフェミニズム偏向は夫婦別姓問題でも突出していたが、またまたフェミニズム人権派に媚びた処置だけは素早く行動するという悪しき体質を露呈した。そんな愚かな改悪は、断固として阻止しなければならない。

平成16年10月15日(寸評)

単純平等主義の間違い ──社会全体が危険になる恐れ

 「非嫡出子の相続分が嫡出子の半分なのは憲法違反だ」。この考えはフェミ系や人権派の主張として、耳にたこができるくらい聞かされている。困ったことに、執拗に繰り返し言っていると、だんだん広まっていく。ついに最高裁の判事のあいだでも、5人に2人が「違憲」と言い出している。この考えがいつ多数派にならないとも言えない状況である。昨年3月にも同小法廷が同じような訴訟を扱って、同じ3対2で「合憲」の判断をくだした。

 「違憲だ」という意見の二人の判事の論拠は「自分の意思ではどうにもならない出生による差別だ」。個人と個人を単純に比較して、その運命や生まれつきの特性の違いをすべて「差別」だとして平準化しようとすれば、社会は悪平等になってしまう。

 単一の価値観でしか物事を考えない人たちが社会を支配したら、かつての共産圏の諸国のように、社会は停滞し、疲弊していくだろう。教育界ではたとえば徒競走の廃止や「お手々つないでゴール」原理の流行に見られるように、すでに長いあいだ弊害が広まっている。

 とくに嫡出子と非嫡出子の「区別」撤廃は、直接的に家族のあり方に影響を与えるだろう。この区別は、一夫一婦制による「基本家族」(父母子)の形態を守ろうという価値観によって決められている。もし非嫡出子と嫡出子に同じ権利を与えたなら、基本家族を崩す方向に働くのは当然である。

 そういう問題点をどう考えるのか、単純にすべてを平準化しようとしたとき、どういう問題が出てくるのか。こういう問題意識を国民が共有し、もっと討論する必要がある。ただ個人間の平等だけを考え、「差別反対」という叫び声ばかりが大きくなっていくと、社会的な視点が失われ、社会全体としておかしな方向にいく危険がある。

 日本の家族制度はいま、制度や法律の面から攻撃を受け、崩壊寸前にある。家事等の外注化(介護保険法)、夫婦別姓、非嫡出子・同性結婚・未婚の母に「平等の権利を」という思想運動等、どれをとっても基本家族を空洞化し解体させるものばかりである。それが「家族の多様性を認めよ」という「単純平等」意識によって正当化されている。

 結局、諸悪の根源は「単純平等=悪平等」主義にある。その弊害の一つの典型が「非嫡出子への差別反対」である。

 父親の名前も教えてもらえないような未婚の母の子供、父親がいくつもの家族を持っていて、自分は「二次的」な家族の一員と思わざるをえない子供。子供が幸せに育つ権利を奪うような形態までも、「多様な家族」の名のもとに肯定する考え方は、断固として退けなければならない。