家族 1 フェミニスト家族論の批判  

 

(3)「構造改革」議論に潜む家族破壊の罠

   ──八代尚宏氏の「人間を忘れた経済学」を批判する

                 ( 『正論』平成14年5月号掲載)

 

 小泉首相の「構造改革」路線に便乗して、「暮らしの構造改革」を唱え、マスコミや政府の各種審議委員会を通じて活躍しているのが、八代尚宏氏である。八代氏は上智大学教授を経て、現在は日本経済研究センター理事長である。石橋湛山賞受賞者でもあり、政府の各諮問委員会等の委員を務めており、かなりの影響力を持っていると考えられる。

 氏の理論は「フェミニズム原理主義」と名づけたいほどにフェミニズム理論そのものであり、フェミニズムに媚びることでマスコミに頻繁に登場している。氏は希代の悪法「男女共同参画社会基本法」の用語と思想をそのまま使って自らの理論を構築している。たとえば、家族にまつわる「旧い制度や慣行」をなくし、夫婦は「仕事も家事も」半分ずつこなし、別姓にして、子供は保育所に預ける。これを可能にするのが氏の経済学の目指す所である。

 つまり氏の「暮らしの構造改革」とは、フェミニズムの理論に従って暮らしを変えていくことを意味しており、その理論のままに政策が決められると、家族も生活もフェミニズム理論にそって変えられてしまう。

 フェミニズムはいまや家族破壊理論となっており、それにそって政府の経済政策や労働政策が決められると、我が国の家族は崩壊の危機に瀕するであろう。氏の経済学はその意味できわめて危険な要素をはらんでいると言わざるをえない。以下、具体的に氏の経済学がいかに危険かを明らかにしたい。

 

一 少子化を利用するフェミニズムの我田引水

 

 八代氏の経済学がいかにフェミニズムに毒されているかを明らかにするためには、フェミニズムの害毒について簡単におさらいをしておかなければならない。

 フェミニズムが歪んだ最大の原因として、かねてより私はフェミニズムの「族議員」化を指摘してきた。すなわち「働け」イデオロギーに毒され、なにがあっても「働きつづける」ことだけを最大の価値と考える女性たちの利害だけを代弁するイデオロギーと化していることが、昨今のフェミニズムを偏狭で生硬なものにしている最大の理由である。

 このイデオロギーから見ると、すべての社会現象が「女性が働くことを妨げている」「女性抑圧」から来ていると映り、働く女性に有利な改革をすればすべてが解決すると主張される。

 この「働け」イデオロギーを正当化するためにあらゆる現象を利用するのがフェミニズムである。その典型が少子化問題であった。フェミニストたちは少子化の危機感に便乗して、「働く女性を支援すれば少子化はなくなる」と宣伝した。

 曰く「働く女性が子どもを産むと、女性だけに負担がかかる。保育所が足らないとか、子育てに対する国や社会の支援が不足しているから、女性は子どもを産むと仕事をやめるか、仕事をやめないとすれば子どもを産むのを断念しなければならない。女性に子どもを産んでほしかったら、保育所など働く女性への支援をもって増やせ。」

 要するに、少子化は働く女性への支援が少なかったために起きた現象だというのだが、これほど強引な我田引水は見たことがない。

 この主張は、少子化の原因を物質的な条件の悪さに求めているところに問題がある。真の原因はもっと根深いところに、あえて単純化して言えばもっと深い本能的心理的次元で母性が崩れているところにあるということを、私はすでに一九九八年の時点で指摘した(『This is 読売』九月号、『フェミニズムの害毒』『母性崩壊』)。

 もし物理的理由で少子化が進行しているのなら、専業主婦は子供をより多く産むはずである。だから少子化対策としては、「働く女性」にだけでなく、家庭で子供を育てている専業主婦に対しても補助金など支援を手厚くすれば、子供の数は増えるはずである。

 専業主婦を選んでいる女性たちのうち、豊かなのはほんの一部であり、多くの専業主婦は貧しくとも子供を自分の手で育てたいと専業主婦を選んでいる。この形態を選んだ夫婦に援助をすれば、子供の数は確実に増えるはずである。

 しかし「働く女性」の利益団体化したフェミニストたちは、「家で子供を育てている女性を支援せよ」とは言わない。少子化問題をもっぱら自らの主張のために利用することしか考えていないからである。

 じつは、保育所にどんなに金をかけようが、子供の数は増えないのである。たとえば、山口県の岩国市では約二〇年も前から保育所を増やし、働く母親の便宜をはかってきたが、子供の数はまったく増えなかった。

 フェミニストたちは保育所を増やし、働く女性に有利な施策をほどこしてきた北欧諸国では少子化に歯止めがかかっていると言うが、そのためには莫大な予算が必要になる。たとえば、スウェーデンでは、福祉、保険、年金などの国民負担率は七〇パーセントを超えている(消費税は二五パーセント!)。公的部門は肥大化し、総労働人口四一〇万人のうち公的部門の労働人口は一七〇万人を占めている(武田龍夫『福祉国家の闘い』中公新書)。もちろん施設の建設費も莫大である。これが経済を圧迫し、スウェーデン経済は破綻してしまった。

 巨費をかければ少子化の速度が一時的に落ちることは当然である。しかしそのためにスウェーデンの経済は停滞してしまった。高福祉=高負担を長く続けることは不可能なのである。福祉国家は費用拡大の自律運動をやめないので、高福祉政策を続けるためには経済の高度成長が必要になる。しかし高福祉は経済を圧迫し、高度成長は必ず不可能になる。

 このごろではフェミニストたちは、ぱたりとスウェーデンのことを言わなくなった。「スウェーデンはどうなったのかね」と試しに聞いてみると、「外国のことは問題でない、問題は日本のことだ」と言う。「外国のこと」をさんざん言っていたのは君たちの方ではないのか、と言いたいところである。彼らの無責任とご都合主義にはあきれるばかりである。

 働く女性をいかに優遇しても、少子化は絶対に解消しない。少子化の原因は高度文明とか、豊かな生活とか、個人主義とか、母性の崩壊とか、いろいろな要素がからんでおり、フェミニストの理論に合わせて動くような単純な問題ではないのである。国家の政策を考える人たちも、ぼつぼつフェミニズムの嘘から目を覚ましてもらいたいものである。

 しかし、少子化を利用したフェミニズムなど、かわいいものである。そのフェミニズムを利用するという、もっと大きな、したたかな戦略が進んでいるからである。

 

二 フェミニズムを利用する労働政策の危険

 

 少子化を最も深刻に受け止めたのは、言うまでもなく経済界である。少子化がこのまま続けば、遠からずして労働力は不足する。それに対する対策として考えられるのは、移民を積極的に受け入れるという方法と、これまで労働力市場に参入する度合いが低かった階層を引き入れる方法である。

 移民の受け入れと実力主義の導入という、いわば「アメリカ化」の方向は、小渕元首相の私的懇談会「21世紀懇」が提言したところであったが、それは日本の経済界には不評であった。移民に頼った労働政策は、すでに先輩であるヨーロッパ諸国において失敗していたからである。

 イギリス、フランス、ドイツではすでに一九七〇年代から、他のヨーロッパ諸国や、とくにアジア・アフリカから大量の移民や出稼ぎを受け入れたが、人種差別問題に頭を悩ますことになったり、移民にダーティワークをさせるのかという道徳的批判が出てきたり、また不況になると失業問題や治安問題が深刻さを増していた。移民労働力はリスクが多すぎるのである。

 こういう先例を研究したはずの経済界は、この方法よりも手っ取り早く、差別問題や治安問題の起こりにくい(または解決しやすい)女性労働力の活用に目をつけた。時あたかもフェミニズムの火が燃えさかり「働け」イデオロギーは最高潮であった。

 『日本経済新聞』の家庭欄は九〇年代に入るとフェミニズム主導の記事を繰り返し載せ、女性が働くことを当然の前提のごとくにキャンペーンをはった。ある新聞の家庭欄の記者は私に、家庭欄の記者たちのあいだでは『日経』の家庭欄が模範と考えられていると語ったことがある。

 女性を労働力として働かせ、それをもって少子化対策にするという戦略は、まさにフェミニズムを利用するという形で進行してきたのである。

 しかしこの戦略は、家族を崩壊させるリスクを伴う、きわめて危険な賭けである。ふたたびスウェーデンの家族をめぐる実状を引き合いにだせば、かの国では離婚が二組に一組。片親の子供が約三〇万人。そのうち約二〇パーセントは完全に父親の顔を見たことがないと言われている。生まれてくる子供の約半数が外婚子。子供の多くは母とともに住む。したがってやたらと母子家庭が多い。

 このようにフェミニズムを利用して女性労働力を便利に使うという戦略は、家族の破壊につながる非常に危険な政策と言わざるをえないのである。

 この戦略とフェミニズムを結びつけ、それに理論的根拠を与えているのが八代尚宏氏の経済学である。八代氏は政府のいろいろな審議会に参加し、そこでフェミニズムにのっとった労働政策・経済政策を進言し、フェミニストと政権とを結びつける役割を果たしている。

 

三 人間を忘れた経済学

 

物質主義的・合理主義的な見方

 八代氏は少子化の原因として、フェミニストと同じことを言っている。すなわち

 こうした出生率の低下の背景には、経済社会環境の変化に対応しない企業内の旧い働き方や、保育サービスの貧困さが、女性の就労と結婚・子育てとの両立を妨げていることの大きな要因としてあげられる。(『中央公論』2000年12月号、のちに川本敏編『論争・少子化日本』中公新書ラクレ所収)

 この見方は、女性が生涯にわたって働き続けるという前提に立って、少子化対策なり労働政策なりを考えようという立場を示している。氏は別のところでは「働き方の多様化」を提言しているが、実際には女性の働き方についてはフェミニストが考えている形態しか前提にしていない。

 氏の経済学なり労働政策学は、そのように「働く女性」のみを前提にして出来上がっている。そのせいか、氏の経済学の前提である「人間」は、必ず「合理的な」損得判断に従って、「合理的に」行動するものと前提されている。

 たとえば氏はこう述べる。

 経済発展に比例して出生率が低下することの要因は、所得の増加以上に、「子育てのコスト」が高まるためと考えられる。先進国の間での出生率の違いは、この子育てのコストが社会の仕組みの違いによって大きく異なるためである。少子化は、経済社会の制約条件に対応した、個人の立場からすれば「合理的」な行動の結果であるが、それが社会的問題を引き起こしている点では「市場の失敗」のひとつのケースである。このため、市場機能を回復させるような制度改革によって、子育てのコストを引き下げることができれば、もともと奢侈財である子供への需要は回復する・・・(『少子・高齢化の経済学』東洋経済新報社、17-18ページ)(以下『少子』と略記) (太字は筆者)

 

 高い賃金職種への女性の進出は、それだけ結婚や子育てにより、就業継続の機会を失うという「費用」を高める要因となる。このため、家事・子育ては女性の主たる仕事であるという日本の伝統的な家族観を前提とすれば、結婚や出産退職にともなう生涯賃金の喪失という犠牲に見合うだけの稼ぎのよい男性と出会うまで結婚しないことが、女性にとっての合理的な行動となる。(『中央公論』2000年12月号、121ページ、『論争・少子化日本』97ページ)(以下『論争』と略記)

 

 先進国の女性たちの晩婚や未婚が、「結婚や出産退職にともなう生涯賃金の喪失という犠牲に見合うだけの稼ぎのよい男性と出会うまで結婚しない」という損得勘定によるものばかりであろうか。そういう「勘定高い」動機の他に、単に「気の合う男性」と出会わないというだけの理由で結婚しないでいる女性も多いのではないか。さらに、「稼ぎのよい男性」でなくても、「好きな男性」と結婚して暖かい家庭を作っている女性も多くいる。その割合がそれぞれどのくらいかを実証的に明らかにしないで、「女性はみな損得勘定で結婚するかしないかを判断する」と決め付けるのは、科学的な議論とは言えないであろう。

 八代氏のような合理主義的な見方に立つと、次のような計算が大きな意味を持つことになる。

 学卒後に就職し、結婚・出産退職で、子育て後にパートタイムで再就職する典型的な場合の女性の生涯所得を、正社員のままで勤務する場合と比較すると、その逸失所得の金額は四四〇〇万円(平成九年度国民生活白書)と、子育ての金銭的な費用を大きく上回り、児童手当のような補助金で対応できる限度をはるかに超える額となる。(同、123ページ)(『論争』100ページ)

 この計算はフェミニストたちが喜んで持ち出すものだし、だいいち経済企画庁が出した「平成九年度国民生活白書」なるものがそもそもフェミニストのイデオロギー主導によって書かれた札付きの白書なのだ。

 この計算自体が、現在の賃金体系のまま、現在の水準で進むということを前提にしているという問題点を持っていることは別としても、女性たちの何割がこんな計算を(たとえ無意識のうちにせよ)した上で、仕事と結婚を天秤にかけているのであろうか。

 フェミニストは「機会費用」という言葉をよく使う。それはたとえば仕事を辞めて結婚し家庭に入った場合に、収入を得る機会を失った分のことである。八代氏は「逸失所得」という言い方をするが、これも同じ思想から来た言葉である。これは人間というものがつねに物質的な動機で行動するという前提に立っていることを示している。

 

 子育てのコストを引き下げることができれば、もともと奢侈財である子供への需要は回復する。

 

 子供を「奢侈財」と平然と言える神経には恐れ入るが、それはともかく、人間の行動に対してこれほど単純に「コストと需要の関係」という経済合理主義的な概念を適用することができるのであろうか。ここには本来非合理的である人間の感情や心に対する考慮はみじんも見られない。

 そこから出てくるのは、経済政策や労働政策は、そうした合理的に行動する「進んだ」(時計の針の進み方に合ったと彼らが考える)人間だけを対象にすればよいという、じつに偏った考え方が出てくる。それからはずれた「遅れた」人間については、「時計の針を昔に戻す」ことになるから、考慮しなくてもよいとされる。

 たとえば、こう言われている。豊かな社会では、就業継続を結婚に優先させる傾向が強まり、それが出生率の低下をもたらしている。これを女性の家庭復帰など時計の針を昔に戻すことではなく、就業継続と子育てが両立できるような新しいシステムに変えることが必要となる。(『少子』10ページ)その新しいシステムとしては、じつに単純に保育所を増やすことしか考えられていない。

 いったい豊かな社会とは何か。本当に欧米や日本は「豊かな社会」と言えるのか、という問題意識は皆無である。幼い子供を持った母親まで含めて、全員が働く社会が「進んだ」「豊かな」社会なのか。逆なのではないか。乳幼児を持つ母親は働かなくてもよい社会の方が、はるかに「豊かな」社会なのではないか。

 「豊かな社会」という言葉の意味を、「物質的に豊かな」という意味に限定したとしても、本当に「豊かな社会」では「就業継続を結婚に優先させる傾向が強まる」のであろうか。そんなに単純ではないことを、八代氏は、次の例によって、半分だけ明らかにしている。

 

「女性の地位が低いと出生率が低い」という嘘

 氏は、先進国のあいだでも出生率の水準に多少の格差が見られる、という事実を取り上げる。すなわち日本とドイツ、イタリア、スペイン等の「旧枢軸国」では、他の先進国よりも低い水準にある。その理由は、

 他の先進国と比べ女性の社会的地位が相対的に低いことである。女性の経済的地位の向上に対応できない、企業や家庭における伝統的な制度や慣行が根強い国ほど、子育てを担う家族の機能の低下が著しく、出生率の低下の度合いは大きい。(『少子』14ページ)

 「伝統的な制度や慣行」という言葉遣いと、それを悪者視する態度は「男女共同参画社会基本法」と同じ、フェミニストそのままである。それは氏がいかにフェミニズムに同調しているかを示している。

 それはともかく、旧枢軸国は女性の地位が低いから、仕事と子育ての両立がうまくいかず、したがって出生率が低いという因果的見方は、まったく間違っている。

 間違いの第一は、日本、ドイツ、イタリアでは女性の地位が低いという評価である。いったい何を根拠に、日本、ドイツ、イタリアが、他のたとえば、アメリカ、フランス、イギリス、スウェーデン等と比べて女性の地位が低いと言えるのか。

 たとえば、欧米人に「日本人の家庭では、妻が財産を管理していて、夫は妻から小遣いをもらう」と言うと、信ずる人はまずいない。「日本は男尊女卑」だという宣伝が行き届いているからである。

 政治家や管理職の中の女性のパーセントで女性の地位の高さを測れたと思うような、欧米型の個人主義的な基準に照らして、「女性の地位の高低」を言ってみたところで、家庭を単位にしている人々の思考や行動を測ることはできない。そもそも性別役割分担をしているから「不平等」で「遅れている」という見方が、評価を誤るもとなのだ。

 「旧枢軸国」は女性の地位が低いから出生率が低いのでは、断じてない。

 間違いの第二は、「旧枢軸国」での出生率の低さが、共働き形態と「旧い制度・慣行」との矛盾の結果と捉えられている点である。

 じつはこの二つのグループの大きな違いが、もう一つあるのをフェミニストたちは見落としているか、意図的に無視している。それは日本、ドイツ、イタリアでは、アメリカ、フランス、イギリス、スウェーデンに比べて家族がまだまだ健全に保たれているという事実である。社会を個人単位に構成し直そうとしているために、離婚率の上昇など、家族が壊れつつある後者のグループに対して、前者のグループの国々では、子育てなどの家族機能をできるだけ保持しようとしている人々が相対的に多いのである。

 そういう人々の多い国では、乳幼児の母親までも働かそうという外圧に対して、子供の数を減らすことで抵抗しているのである。たしかにそこには矛盾と対立が露呈している。しかし、その矛盾とは、決して「働き続けたい」人々が「遅れた」「制度・慣行」に悩んでいる、という性格のものではない。むしろ葛藤は「家庭で自分の手で子供を育てたい」という母親たちの正しい願いに対して、「働き続ける」ことを強要する圧力が強いから生じているのである。矛盾は家庭育児の考え方と「働け」イデオロギーとの間に生じているのである。

 「進んだ」欧米社会が矛盾が少なく出生率が若干高いのは、「社会による育児」という間違った方向に進みすぎたために、家庭育児をしたいという母親が減り、「働け」イデオロギーを持つ女性たちが大部分になって、対立が少なくなっているというだけの話なのだ。

 逆にドイツ、日本、イタリアといった、家族がまだまだ健全に保たれている国々で摩擦が大きくなっているのは、共働きが進んでいくことに対する、家庭育児をしたいという正しい考えによる抵抗が強いからである。このために出生率が下がっているのである。したがって、この正しい考えを持っている母親、女性たちの考えに合ったシステムが導入されれば、出生率は必ず回復するであろう。

 では、その「自分の手で子供を育てたい」という「母親たちの願い」とマッチした、新しい制度とはどのようなものであろうか。

 

「多様な働き方」と「就業継続」の矛盾

 八代氏の処方は、フェミニズムそのままの、次のようなものである。

 新しい時代に不適応を生じている過去の制度・慣行が、家族にとって出生行動を妨げている社会・経済的な要因になっているとすれば、それらを取り除くための政策は、家族にとっても社会にとっても望ましいはずである。(『少子』15ページ) (太字は筆者)

 ここでは、家庭育児への希望(性別役割分担)が「過去の制度・慣行」とされて否定されている。その希望を排除することが、家族にとっても社会にとっても望ましいと言われている。つまり、具体的に言えば、性別役割分担をなくし、女性は母親であることをやめて、子供を預けて働きに出れば矛盾はなくなる、と考えられている。ここには「それで子供はどうなるの?」という視点は皆無である。

 その子育て「外注」思想は、子育てを大切に思っている女性たちと、ますますはげしく対立する道である。そのように一方的なイデオロギーを押しつける政策が歴史上成功したためしはない。社会主義の崩壊が、そのことを何よりも雄弁に物語っている。イデオロギー支配の政策は単に失敗するだけでなく、社会に多くの混乱と損失をもたらすだろう。八代氏は「内なる社会主義」と闘えなどと言っているが(『少子』11ページ)、氏の発想そのものが「イデオロギー主導型」であり「社会による子育て」であり、これらは完全に社会主義的である。

 氏は表向きは「多様な働き方」という言葉を使っているが、具体的にはただ「女性は就業継続」すべしという単純な思想を唱えているだけである。たとえば、『雇用改革の時代』(中公新書)においては、「雇用機会の平等は、家族内の役割分担の改革と結びつかなければ、その実効性は確保できない」として、育児休業中と復帰後の配慮を唱えている(159-160ページ)。

 しかし、「多様な」というからには、一年間の育児休業だけを前提に考えるのではなく、子育ての間は一時退職するというM字型の働き方も、自宅での仕事も、また短時間労働(もちろん正社員と同等の時間給)を夫婦で組み合わせる方法も、すべてを認めることを意味しているはずである。しかし氏の推奨する働き方は、明らかに「なにがあっても就業継続」である。

 もし本当に「働き方の多様性」を認めるのであれば、「固定的役割分担」とやらも、「旧い制度や慣行」も同等に認めるのでなければならないはずである。それらを対等に認めるのでなければ、「多様な」というかけ声は嘘だということになる。

 こういう矛盾が生じてしまうのも、じつは女性の幸せを本当に考えていないからである。八代氏は本心では女性や子供のためを考えていない。彼の理論の核心は、女性を労働力としていかに効率よく使うかである。

 

本音は「女性の労働力化」

 その証拠に、氏はこう述べている。ここには氏の理論の根本動機が隠されている。

 もっとも、女性の社会進出が少子化の直接的な原因であることは、「女性を家庭に戻す」といった、時計の針を戻すような思想を正当化するものではない。今後の労働力減少社会では、就業継続と子育てが両立できるような新たな社会的システムに変えることが不可欠となる。女性の就業率の高まりという社会的変化を抑制するのではなく、就業と結婚・子育てが両立できるように、既存の社会的制度・慣行を変えていくことが、少子化社会への基本的戦略となる。(同、125ページ)(『論争』105-6ページ)(『少子』28ページ) (太字は筆者)

 「日本の出生率回復のための家族政策の基本は、子供を持つことを単に個人や家族の私的な責任としてではなく、社会的に扶養する制度を確立することである。」(『少子』26ページ)

 もって回った言い方をしているが、要するに、これからは労働力が不足するから、女性を働かせなければならない、そのためには子育ては「社会」がせよ、「母親が自分ではするな」と主張しているのである。

 

四 家族を壊す八代理論

 

 このような「丸ごとフェミニズム」の理論が、いかに社会を荒廃させ、子供をスポイルしているかを、私はこれまで機会あるごとに声を大にして訴えてきた(末尾の拙著参照)。そういった家庭や子供の危機的現状に対して、八代氏はまったく認識を持たないで、教条的なフェミニズム理論を繰り返している。

 いま問題になっている夫婦別姓についても、氏は『朝日新聞』平成一三年一一月三日付の「私の視点」欄で、「選択制夫婦別姓導入は構造改革だ」という題名で、こう述べている。

 専業主婦世帯や自営業が大勢を占めていた時代では、夫婦が経済活動の単位であった。しかし、サービス経済化や女性の社会進出が強まっている今、主流は個人としての経済活動だ。晩婚化が進むなか、結婚による改姓を強制することで結婚前のキャリアの継続に支障をきたす男女は、今後ますます増えるであろう。

 そもそも少数派であるために多大な不都合をこうむったり、やむを得ず事実婚を選択している人々に犠牲を強い続けるほど同姓強制は重要な意味をもつのか。逆に選択的夫婦別姓制を導入した場合、夫婦同姓を選択する多くの人々にはどれだけの不都合が生じるというのか。

 八代氏にとっては、家族制度の問題は、単に個人にとって便利か不都合かという問題でしかないようだ。それが家族のあり方にどういう影響を与えるか、社会全体にとってどういう効果を持つかという観点は、どこかに消えている。

 氏の発想は、物事をただ個人単位でしか見ることのできない、精神の貧しさを示している。この人の頭の中には、家族単位の大切さの認識などまるで存在しない。家族が子供に与える重要な心の糧など、まったく眼中にない。姓をはじめすべては夫婦なり個人なりの選択に任せればよいという発想である。それでは単なる自由放任でしかない。「個人の自由でしょ」というのでは、「覚醒剤も個人の自由だから、お好きなようにどうぞ」と言うのと、原理的に変わらない。

 氏の理論どおりの社会になったなら、確実に家族は壊されていくだろう。氏が目標にしている「進んだ」先進国では、軒並み家族が崩壊の危機に瀕しており、離婚率は高まり、子供の非行と犯罪率は増えている。たとえばスウェーデンの刑事犯はアメリカの四倍、日本の七倍、強姦は人口比で日本の二〇倍、強盗はなんと一〇〇倍である。この数字を見せられても、氏はまだ「女性の地位が高い」というスウェーデン等の「フェミニズムの進んだ」国を理想として掲げ続け、家庭が相対的にしっかりしている「旧枢軸国」を軽蔑し続けるのであろうか。経済学者である氏は、スウェーデンの経済が破綻している現状をご存知ないのであろうか。高福祉・高負担の悪循環は必ず経済を圧迫し、家庭を破壊するのである。

 八代尚宏氏のフェミニズムに毒された経済理論は、家族を破壊し国を亡ぼすエセ学問だと言わざるをえない。

 経済界にとっては、若い女性を労働力化するという戦略は、当面の利益という観点からは魅力的に見えよう。しかし大局的な国家的観点から見ると、それは家庭の崩壊に道を開き、子育てにも悪い影響を与えるという意味で、非常に危険な道である。

 少子化対策としても、将来の労働力の不足を補う意味でも、単に量的な人口増大が大切なのではなく、質の確保の方がより重要だということを肝に銘じて承知しておく必要がある。人格的基礎の涵養、ルール感覚の発達、人間関係の作り方の訓練、情操教育等、家庭でなければできない基礎訓練の部分を無視して、単なる量的な少子化対策だけを考えていたのでは、完全に的はずれになるであろう。

 小泉首相の唱える「構造改革」が、不自然に歪んだ赤字財政構造や、行政機構の改革を意味しているかぎりは、基本的に支持することができる。しかし「暮らしの構造改革」という言葉を使い、それが具体的には家族別姓を推進したり、家庭育児を否定する方向に向いているとすると、それは「構造改革」ではなく「家族の構造破壊」だと言わざるをえない。八代氏のように、夫婦別姓までも「構造改革」の一環として位置づけるのは、きわめて危険な考え方である。