家族  1 フェミニスト家族論の批判  

 

(2) 落合恵美子氏の家族変動論の欺瞞

        (『フェミニズムの害毒』草思社、第三章より)

             (平成15年5月13日初出)

 

 落合恵美子氏は『二一世紀家族へ[新版]』(有斐閣)において、人口変動論を使って日本の「近代家族」の成立と変動を論じ、その崩壊を予言し、二一世紀には「家族の時代は終わり、個人を単位とした社会へと変わっていくであろう」と結論している。それはいかにも客観的学問による説明であり、予言であるかのような仮面をつけているが、その社会学たるや、方法論的に大きな疑問をいくつもはらんだものである。客観的研究によっているのだと見せかけながら、主観的願望をひそかに滑りこませるという手口を使っている。以下、落合氏の家族変動論のどこがごまかしかを明らかにする。

 

人口変動論による「近代家族」の相対化

 

 落合氏は人口変動論の視点から、戦後の日本の家族は基本的に「二〇世紀近代家族」という性質を持っており、その特徴は次の三点にまとめることができると言う。

 第一は女性の主婦化。女性は皆が結婚すると専業主婦になるのが当たり前となり、そして子どもを二、三人生んで、たっぷり愛情をそそいで可愛がって育てる、それが家族だという観念が成立した。

 第二は再生産平等主義。なぜか「子どもは二人」という観念が全社会的に普及し、画一的な規範にさえなった。どの夫婦も子どもを二、三人持つということは、歴史的に見ると非常に特殊なことであり、それには経済的な理由よりも、なにか規範の力が働いたのだろうと推測する。この子どもへの専一的関心は、「愛の名における管理」を生み出し、母親たちは権力の出先機関となって子どもたちを管理していた。

 第三は人口学的移行期世代が担い手だという特徴。移行期世代とは、一九二五年から五〇年生まれ、すなわち昭和ヒトケタから団塊の世代まで。この世代が「家族の戦後体制」を作った。この世代の特徴は人口が突出して多いということである。きょうだいが多くて、みんな育ち上がった。この世代はまた都市化が進んで故郷から都会に出て核家族になった。それでも子どもを育てるのに困らなかったのは、近所にきょうだいが多くて助け合ったからである。

 

結論は「家族から個人へ」

 

 戦後に成立し、全社会に広まった家族像は、じつは特殊歴史的な産物であり、歴史的な産物の例にもれず、当然、次の時代には崩壊の運命が待っている。それが一九七〇代以降の「家族崩壊」と騒がれた時代である。

 家族の戦後体制を崩壊させている立て役者がウーマンリブやフェミニズムである。そのことはウーマンリブの批判の対象が主に「主婦役割」「母役割」といった「近代家族における女性の役割」であったことを見れば明らかである。

 いまや家族は崩壊しつつあるが、それは家族の特殊な一つの形態の崩壊にすぎず、そのあとには、新しい家族像が生まれるであろう。

 旧版はここまでの分析で終わっていたが、新版において加えられた十章において、きわめて重大な内容が付け加えられた。

 すなわち「七〇年代以降の欧米と日本において社会を根底から変える変化が起こっている」(二三六頁)として、以上の近代家族の崩壊が向かう先は、「個人を単位とする社会である」という見方が示されている。「画一的な家族の時代が終わり」「個人へ」「これが現在起きている変化の筋書きとして浮かび上がってきました。」(二四一頁)

 近代家族の支配する社会は「標準家族」からはずれた人々を「罰する」社会であるが、「標準」から逸脱している人がどんどん多くなっているのに、これだけ多くの人々を「罰しつづける社会が、長続きするわけがないでしょう」というのが、落合氏が「家族の戦後体制」崩壊を予言する理由である。「すべての人が属する社会的単位はもはやないのだとすると、社会の基本単位となりうるものは個人以外にはありえません」というのが彼女の結論である。

 この結論は、いかにも唐突に付け加えられたという印象を受ける。本書の内容から必然的に出てきた結論ではないようだ。むしろ本書の学問的な内容の直接的演繹ではなく、なんらかの直観によってイメージが見えてきたかのようである。そのイメージとは「誰もが家族に属するいうことはなくなり、『個人』よりも大きい社会単位はなくなるという社会のイメージである。」(エ頁)

 このイメージに学問的な根拠づけをしたのが、新版第十章である。その学問的根拠とは、当然のように人口学的な粉飾の形をとっている。しかしそれは人口学的な外見を取っているが、しかし人口学では説明できないことを強引に人口学で説明するという手法を取っている。

 

方法論的ごまかし

 

 落合氏が家族の時代から個人単位社会に変わると予言する学問的根拠は、「離婚、同棲、婚外子出生、出生率の低下」などという「第二の人口転換」である。つまり人口変動のあり方が、家族のあり方に影響を与えるという見方である。

 人口の変動から社会や家族のあり方の変化を説明するというこの方法は、過去の傾向を説明するときには、その方法論的問題点をあまり露呈しなくてもすむ。人口変動と家族変動が同時に進んだという事実を示せば、「なるほど」「目から鱗が落ちた「などと感心してもらえる。どちらが原因でどちらが結果なのだ、などという疑問を投げかける人はあまりいない。

 落合氏自身もその点をあまり深刻に考えてはいないようだ。彼女は日本の「近代家族」は「人口転換と随伴して起こった」(二五四頁)と言いながら、その二行あとでは「人口転換の直接の帰結でもある」と述べている。「随伴」と「帰結」の違いは方法論的には巨大な違いである。その違いを詮索するのは、決して言葉の挙げ足とりではない。過去を説明するときにも厳密に言えば大きな問題なのだが、とくに未来を予測するとなると、原因なのか結果なのか同時進行なのかという認識は決定的な違いを生ずるからである。人口変化が原因ならば、人口転換が起きているという事実を指摘すれば、近い未来において社会や家族の変動が起こるであろうという予言には十分な根拠があるということになる。しかし原因ではなくて、単に同時に起こったのだとか、むしろ人口変動の方が家族に関する心性の結果なのだとすると、彼女の予言は根拠のない願望を述べただけのものだということになる。

 

人口変動は原因か

 

 落合氏は「第二の人口転換」は「社会を根底から変える変化」を引き起こしたのだと言っている。そのために「システム」(?)が「否応なく」(!)「個人を単位とする方向へ変わりつつある」(二四二頁)、だから家族中心の体制も崩れていくだろうと予言する。この場合には、彼女は明らかに「人口変動原因説」に立って物を言っている。

 彼女の予言が正当性を持つためには、二つの前提が正しくなければならない。すなわち第一に「人口転換が家族変動の唯一の、または主要な原因である」ということ、第二に「第二の人口転換」と言われている事実が、本当に「人口転換」であるということ。じつは、この二つとも間違いなのである。

 落合氏が日本の家族の戦後体制と呼ぶもの、専業主婦がいて子どもを大切に育て、家族や子どもへの愛情を重んじるという家族形態は、人口が多くなり、都市化によって核家族になったから生じた形態なのであろうか。そういう人口変動の特徴は、「近代家族」が生まれるための都合のいい条件ではあったが、決して「原因」ではない。「原因」をそういう客観的なものに求める見方を素朴唯物論と言う。素朴唯物論的なマルクス主義は社会や意識の変動の原因を経済的基盤に求めたが、落合氏は人口変動に求める。

 そもそも社会変動を原因‐結果の連鎖として見ること自体が方法論的に問題なのである。その方法のもとをたどると恐らくアメリカのプラグマティズムとマルクス主義にまで至るのであろうが、そこまで議論を拡大すると、一冊の本を書かなければならない。その問題はマルクス‐ウェーバー問題として、かつてさんざん議論された方法論的問題である。問題点だけを指摘すると、経済的社会的な特徴と、精神的‐心理的な特徴とが、どのような関係にあるかという問題である。それは単純な原因‐結果の関係ではなく、複雑な対応の関係にある、というのが、戦後の方法論論争の結論である。

 家族の問題に即して言えば、家族形態の変動を資本主義の性格の変化とか人口変動から説明するのか、人々の心理的な性質の変化から説明するのか、それとも両者の絡り合いから説明するのかという違いである。

 家族愛、子どもへの愛を重んずるという心性が、全社会を画一化するほどに強かったということが、戦後の近代家族を成立させた大きな要因である。少なくとも、そういう心性がなかったならば、戦後の近代家族は成立しなかった。その点を抜きにして、人口変化が原因であるかのように言うのは、大きな間違いを生み出しかねない。というより、じっさいに落合氏は、大きなすりかえをすることになる。

 人間の客観的な動きに注目するか、主体的心理的な傾向に注目するかで、世の中の動きの読み取り方に、はっきりとした違いが生じてくる。

 落合氏が依拠している人口変動論は客観的な動きから見るという立場に立っている。そういう方法自体は決して間違いではないし、それなりの正当性を持っていると私も思う。(それだけではなく、人間の心理面にも同時に注目した方がベターだが。)ただし、その方法を取るのなら、その方法に撤しなければいけない。あるいは両方を考慮に入れると言うのであれば、その関係について述べなければならない。客観的方法だと言いながら、主観的方法をすべりこませるのは、学問的良心に反した行為である。

 落合氏は「第二の人口転換」という呼び方には慎重でありたいと言っている。しかしその呼び方についての保留は、「第一の」転換と比べて「第二の」とまで言えるほどに大きなものかどうかという点についてであり、それが「人口転換」であることについてではない。むしろ最近の人口転換は「欧米と日本において社会を根底から変えるような変化」であると認識している(二三六頁)。大きな意味をもった大きな人口転換が、いま進行中であるという認識が、家族という単位崩壊の根拠とされている。

 しかし彼女の挙げている現象は、本当に「人口転換」と言えるようなものであろうか。彼女が挙げる「離婚、同棲、婚外子出生、出生率の低下」のうち、厳密に「人口転換」と言えるものは、「出生率の低下」だけである。あとの現象は、「人口転換」と言うよりは、むしろ(人口転換をもたらす可能性のある)「意識または心性の変化」と言うべき現象である。落合氏は「心性の変化」を「人口転換」と呼んで、それを家族変化の原因と目している。ということは、実際には、彼女は本当の原因が心性の変化だと言っているに等しい。

 そういうすりかえは、彼女が自分の予言に客観的根拠があるように見せかけるための恣意的な操作である。「人口転換」という「否応のない」過程が進んでおり、個人単位化は不可逆の過程なのだと思いこませようというのである。

 

変化は一方向的ではない

 

 落合氏は、家族が「どう変わるのか」について「べき論や希望的観測でない答え」を「現在得られるあらゆる手がかりから」手に入れ、「二一世紀家族」の方向を占うことができると言う(二二八頁)。

 しかし、彼女が変化の原因として挙げる現象が、のっぴきならない客観的過程などではなく、人々の意識しだいで短期的にも変化しうる、人間の主観的心理的な動機に属するものだとなると、それは動かしがたい絶対の条件などではなくなる。「離婚、同棲、婚外子」増大は、人間の心の関係しない客観的過程などではなく(人口変動でさえ心のあり方の原因でもあり結果でもある)、時代の心理や意識によって強く影響される現象である。たとえば戦時中の「産めよ殖やせよ」というかけ声によって、どの親たちも五、六人の子どを産んだ。

 家族形態の変化が心の変化の現われだとすると、それは「絶対に不可逆な」「おそらくもう元に戻ることはないであろう」(二五六頁)転換とは限らなくなる。心性の変化というものは、永遠に一方向的だというものはなく、一時的なものもあるし、揺り戻しや反動もある。

 落合氏の「個人単位化」の予言は、心性の変化(それも社会の大勢となったわけではない)を、「人口転換」と呼んでのっぴきならない一方向的なものとして描き出すことによって正当化されている。これは主観的願望を学問的結論のように言いくるめるという意味で、学問の名をかたる詐欺だと言うべきである。

 

抜け落ちた「心性」の視点

 

 落合氏は、「希望的観測でない」と言いながら、希望的観測をひそかにすべりこませていた。そうするために、彼女は戦後家族の客観的分析のさいには使っていた方法を、未来を予言するときにはひそかに捨てているのである。それは「心性」という観点である。「あらゆる手がかり」と言いながら、「心性」という大切な手がかりを捨てる。これは欺瞞である。

 落合氏は前著『近代家族とフェミニズム』では、近代家族の成立のさいに、大きな心性の変化があったことを、アリエスやバダンテールを援用して詳しく論じていた。同じ視点は、『二一世紀家族へ』で日本の家族の戦後体制成立を説明するさいにも使われていた。ところが、新版で未来を予言する段になると、彼女は「心性」という視点をきれいに捨ててしまい、「心性」に属する現象までも「人口転換」の概念でくくっている。

 彼女が肝腎のところで貴重な視点である「心性」という視点を捨てたのは、彼女が本当に言いたい「個人単位化」の傾向を、「心性」の変化から説明したのでは、十分に説得力がないという無意識の判断が働いたのであろう。たしかに「客観的な過程だ」と言った方が、「そういうものか」と思わせる、その方向に世の中をもっていこうとするためには有効かもしれない。いずれにしても、落合氏の予言は、原因とすべきでないことを原因とみなしているという意味で、根拠を失ったと言うべきである。

 

「個人化」の二つの意味

 

 もっとも、「心性」という視点を失ったと言われると、落合氏もこう反論したくなるであろう。「私は心性という視点を捨てたわけではない。家族崩壊と言われる現象は、すべて個人化という心性の変化によって引き起こされていると言っているのだ」と。

 もしそうなら、彼女は「人口変動原因論」から「心性原因論」へと転向したことになる。たしかに彼女の方法は御都合主義である。自分の言いたいことに都合のよい方法を使い分ける。よろしい。では個人化の方向が心性の問題だとして、その心性の中身を吟味してみよう。

 落合氏が問題にしている離婚や婚外子出生やシングルマザーの現象は、たしかに個人主義化の傾向を示している。ただし、その「個人化」と言われているものが、いったいどういう内実の心性なのかという問題を考えてみなければならない。「家族の多様化」と言われている現象を生み出している「個人化」とは、いったいどういう心性なのであろうか。

 「個人が単位でありたい」という心理は、大きく二つに分けて見る必要がある。一つは、精神的に自立した個人が、自分の判断で生きていきたいと思うとき。その場合には、その個人は社会や周囲の他人に責任を持ち、社会に対する義務を果たし、社会的な連帯と協力の中で生きていくという選択をするであろう。彼(彼女)は「個人が単位」だと言うと同時に、「社会や家族も単位だ」と言うであろう。本当に精神的に自立した個人にとっては、「個人が単位」ということと、「家族が単位」ということとは、矛盾しないし対立もしない。「個人が単位」だからといって、「家族が単位」であることを少しも否定する必要がないのである。

 第二は、わがままな人間たちの個人主義からの「個人化」の要求である。「個人の自由」を最高価値に置き、したいように「自分らしく生きたい」と思う者たちは、家族単位とか社会単位で行動しなければならない場面に遭遇すると、「窮屈」だとか「縛られる」と感じて反発する。社会の中で生きていくには、なんらかの社会的単位の中で行動する場面も、多かれ少なかれ避けることはできない。こういう「個人」にとっては、「個人単位」を貫くためには、家族などの社会的単位を否定しなければならない。彼らにとっては、「家族単位」は「個人単位」と対立すると感じられるのである。

 我々は「個人単位」という場合に、その「個人」とはどういう個人なのかを抜きにして議論してはならない。前提とされている「個人」が悪い意味での個人主義的な個人だとすると、「個人単位」論は社会に害毒を流すことになる。なぜなら、それは社会をバラバラに解体し、自分勝手な人間ばかりを作り出すからである。現代の日本社会には、悪しき個人主義がはびこっているので、安易に「個人単位」を主張することはきわめて危険なのである。ましてや、「家族」を否定する代案として「個人」を持ち出すのは、取り返しのつかない大きな誤りを犯すことになろう。

 いま「家族崩壊」の危険を感じさせる現象と言われている「離婚の増大」「シングルマザーの出現」などの背後にある心性とは、どちらの個人主義であろうか。この問題を客観的に実証するのはなかなか難しいが、私の見るところによれば、かなりの程度に「わがままな心性」によるところが大きいと思われる。

 ただし「わがまま」とだけ言うのは少し酷かもしれない。というのは、近代家族にノーを言っている人たちは、近代家族の要求するパターンに適応できない人々だからである。すなわち「標準家族を持てない人々」「家事や育児が不得意で専業主婦はいやだと言う女性たち」「家族愛を持てない人々」である。この人々は近代家族の理念についていけなかった遅れた人々であり、とくに「働け」イデオロギーという近代に特有の心性にこだわるあまり、他の「愛情」や「ゆとり」といった歴史的に進歩的な近代家族の特徴に適応できなかった「近代から落ちこぼれた」者たちである。この者たちは自分たちを「近代を超える進歩的な者」だと錯覚しているが、じつは歴史を逆に戻そうとしている、最も反動的な者たちなのである。

 

二一世紀は家族の見直しの時代

 

 本当に男女平等の上に立った家族形態を考えていくためには、「近代家族」をやみくもに否定するのではなく、まず「近代家族」の枠の中で、「近代家族」を最大限に「よりよいもの」にする必要がある。

 歴史的な先行形態を直接的に解体させても、次の「よりよいもの」は実現しない。先行形態の中に萌芽的に現われている「よりよいもの」を構成要素にして、新しい形態を構想することが必要である。それが実現していけば、歴史的に古いものは必要なくなって、崩壊する。「まず解体ではなく、まず建設が」、そしてそのための構想が必要である。

 近代は中世を単純に解体することで成立したのではない。中世の中に現われていた「自由(都市)」の原理とか、人権とか、自由市場とか、公正な裁判への指向といった、多くの進歩的な要素を構成し直して、近代の原理が出来上がったのである。

 現代の家族についても同じことが言える。「近代家族」をまるごと否定したのでは、よりよい家族像は出てこない。「近代家族」の中のどの要素が歴史的に進歩的なのかを、正しく見抜くことが必要である。

 今の家族を崩そうとしている傾向は、悪しき意味での個人主義の作用によるところがかなり大きい。それに対して、「近代家族」のよいところである「余裕」と「愛情」と「男女平等」の原理を、もっと全家族と全家族構成員にまで及ぼすことを考える必要がある。これは「近代家族」のもともとの理念を、さらに現実に近づけようという考え方である。「近代家族」の理念は、つねに歴史がそうであるように、次の時代になってようやく本当に現実のものになる。そういう意味でも、近代の中での近代の理念の実現に努力することは、必要だし可能だし、意味のあることなのである。

 二一世紀は、絶対に「家族から個人へ」という時代にはならないであろうし、またしてはならない。二一世紀は「人間を育て生かす家族のあり方」がますます進み、そういう方向で家族が改めて見直される時代になるに違いない。専業主婦を差別し貶しめて、「近代家族」を解体させようとするフェミニズムの目論みは失敗するであろう。これは単なる希望的観測として言っているのではない。すでにアメリカでは現実にそうした方向で歴史が動いているのである。

 フェミニストたちは、自分の理論に都合のいい現象については「アメリカではこうなっている」と大声で宣伝するが、いまアメリカで女性が大挙して家庭に帰っているという現象については、百も承知なのに、黙して語らず、隠しつづけている。今まではアメリカに学びつづけてきたフェミニズムは、今回の家庭回帰現象がなぜ起きたのか、絶対にアメリカに学ぼうとはしない。アメリカの女性の家庭回帰は、女性たちがフェミニズムの行きすぎの「働け」イデオロギーを反省したからである。しかしそういう本や論文は日本に翻訳されたり紹介されたりしない。

 

まとめ 時代遅れのフェミニズム

 

 落合氏に典型的に見られるような、近代主義的な「働け」イデオロギーに基盤を置き、専業主婦をただ遅れたものとして否定するようなフェミニズムのタイプは、二一世紀には時代遅れとして急速に衰退していくであろう。

 落合氏が得意とする心性の流れを見るならば、「働け」イデオロギーは先進国ではもはや捨てられつつある心性である。現代における心性の先進国であるアメリカでは、日本のフェミニストたちが必死に無視しようとしているにもかかわらず、フェミニズムの心理の基盤であった女性の「働け」イデオロギーは、社会的には完全に捨てられ、働く女性たちが口にするのは「家庭にいたいけど、働かなければならないわ」である。有能な女性たちは一斉に家庭に回帰している。これは日本のフェミニストに影響された女性たちの合い言葉が「働きたいけど、家庭にいなければならないわ」であるのと、まさに正反対である。

 「働け」イデオロギーに基づくフェミニズムは、二一世紀の早い時期に、「前世紀の遺物」と言われるようになるであろう。落合氏は自著『二一世紀家族』で「二一世紀の家族は個人を基準にしたものになる」と予言しているが、その予言が大きな間違いだったことが、二一世紀になれば間もなく証明されるであろう。