家族  1 フェミニスト家族論の批判  

 

(1) 近代家族をどう評価すべきか

  (『フェミニズムの害毒』草思社、第三章より)

 

 フェミニズムの第一の害毒は母性を否定するところにある。

 フェミニズムの第二の害毒は、健全な家族を否定ないし相対化し、不健全な個人主義を振りまくことである。

 フェミニズムは近代家族を全面的に否定する。それは近代家族を差別と抑圧の機構と捉えるからである。しかし歴史的に見るならば、近代家族の中には積極的・肯定的な要素が発見できる。それは「余裕」と「愛情」と「男女平等」の原理である。この原理を実現していくことによって、近代家族を超えた、よりよい家族形態の展望が見えてくるであろう。

 しかるに、フェミニズムは近代家族を否定するあまり、家族そのものの原理を否定し、二十一世紀は個人の時代であり、個人単位の社会になると主張している。とくに落合恵美子、伊田広行、斎藤学の個人単位思想は、背後にアナーキズムをひそませた危険な考え方である。以下それらの誤りを批判しつつ、家族単位の必要性を明らかにしていきたい。

 

「近代家族」批判の背後にある思想

 

 フェミニズム系統の家族論は、そのほとんどが「近代家族」批判である。曰く「われわれが家族の特徴だと思っていることは、みな近代家族の特徴にすぎない」。たとえば「保護し教育すべき<子ども>という概念は近代の産物だ」「母親が専門に子どもを育てるという母性観念も近代の産物だ」「家庭の温かさや一家団欒、性別役割分担も、近代の産物だ」「温かい料理とか家事ということ自体が専業主婦が生まれてから可能になった近代の産物だ」といった具合である。フェミニストたちの家族論は判で押したように、同じ「近代家族」批判を繰り返している。

 このような「近代家族」の相対化は、なにを意図してのものであろうか。

「近代家族」が絶対的なものではなく、歴史の中の相対的なものにすぎないことなど、歴史的な見方をする者にとっては当たり前のことであり、いまさら事新しく騒ぎたてるほどのことではない。それを鬼の首でも取ったように言いたてるのは、「近代家族」が女性を抑圧するものだという認識に基づいている。だから「近代家族」を相対化することでその価値を低下させ、そうすることで「近代家族」を解体することがフェミニストたちの目標となるのである。

 

「近代家族」を歴史的に正しく評価せよ

  「近代家族」が「家族」そのものではなく歴史的な産物にすぎないことを、フェミニストたちが強調するのは、なぜであろうか。すべての意識やイデオロギー、すべての慣行や社会制度は歴史的な産物であり、歴史的に見られなければならない。「近代家族」も当然そういう見方を必要としている。こんな当たり前のことを必死に強調しなければならない、その理由はなにか。彼女(彼)らはその理由として、「近代家族」が普遍的な「家族」そのものと見られることによって、女性が抑圧支配されてきたからだと主張している。

 しかし実際には「近代家族」はかならずしも女性を差別したり、抑圧しているわけではない。逆に「近代家族」は近代的な男女平等を理念としており、その理念はますます現実のものとなりつつある。現在の「近代家族」の中の専業主婦たちは、大半は男女平等がまがりなりにも実現しつつあると感じており、「専業主婦でよかった」と感じているのである。さきに紹介した『朝日新聞』の「専業主婦の憂うつ」という特集においても、これは一種の誘導尋問であるから、「憂うつ」だという意見ばかりが集まるかと思ったら、そういう見方に反して「専業主婦で幸せだ」という投書も殺到し、結果的にはほぼ半数ずつになったのである。

 そうした「誘導尋問」によらないで、具体的に「専業主婦でよかった」「いやだった」と思っている割合を調査したデータがないのが残念だが、私が講演のさいなどに挙手してもらうと、「よかった」が半数、「悪かった」が数パーセント、あとは

「どっちとも言えない」である(6章の、田中喜美子が同じ質問をした場面を参照されたい ─ 本HPの「母性とフェミニズム」の「7 林-田中論争」の「資料1 主婦を惑わすカルト的勧誘」)。家庭の中で抑圧されている女性は、むしろ少数派になりつつあるのである。

「女性を抑圧する本質をもっているから近代家族は悪い」という反対理由は、じつは嘘の理由である。そんな嘘の理由の裏に、本当の動機が隠されているのである。その動機とはなにか。

 

背後仮説は「働け」イデオロギー

 

 明言されているか否かにかかわらず、フェミニストの「近代家族」批判の裏には、じつはある動機が隠されている。

「近代家族」を目の敵にするフェミニズムの「暗黙の前提」「隠された動機」「背後仮説」とはなにか。それは「働け」イデオロギーである。フェミニストのすべての言説の裏にはこのイデオロギーが隠されている。

「近代家族」は「働け」イデオロギーをもつ者にとっては不合理な制度に思われる。なぜなら「近代家族」とは「公=職場」と「私=家庭」を区別し、男性は「公」の「仕事」、女性は「私」の「家事・育児」という「性別役割分担」を押しつけ、女性を「母性に閉じこめ」、仕事から締めだしている制度だからと言うのである。

「働け」イデオロギーに侵されているフェミニストたちは、それゆえに「専業主婦」に対して「家畜だ」「慰安婦だ」という差別的な罵詈雑言を浴びせる。「専業主婦」こそはフェミニズムの不倶戴天の敵なのである。

 すべての判断基準は、女性が働くことにとって有利か不利かという一点に絞られている。家族のあり方も、子どもの育て方も、年金や保険の制度のあり方も、政治も法律も経済のあり方も、すべてのことに対する評価は、あげて「働け」イデオロギーから演繹される。

 では、「女性が働く」ということは、そんなにすばらしいことなのであろうか。

 

「働け」イデオロギーは典型的な近代思想

 

「働く」ことをすばらしいこととして推奨するのは、じつは典型的な近代思想なのである。この「働け」イデオロギーによってこそ、資本主義社会が準備され、成立し、存続することができているのである。

 近代以前においては、働く人自身が「働く」ことをすばらしいなどと考えたことはなかった。働く人はみな、いやいや働いていたのである。生きていくために、あるいは強制されて、しかたなく働いていた。もっとも支配階級や特権階級の者たちは違っていた。彼らは、働けば働くほど財産が増えるし、名誉は得られるし、成果や名が残るというので、喜んで仕事をした。しかしそれは「人に使われる労働」とは異なる仕事だと考えられていた。つまり支配階級と被支配階級とでは、「働く」ことの意味がまるで正反対であった。

 ところが近代になると、どんな仕事であろうと、「働く」ことそれ自体に価値があるというイデオロギーが生まれてきた。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』でみごとに明らかにしたように、この世で働いて産をなすことが軽蔑されることではなく、倫理的な営みであるというイデオロギーが成立したのである。このイデオロギーはとくにプロテスタンティズムを背景にもつ必要はない。たとえば日本でも、二宮尊徳のような「働け」イデオロギーが成立したし、アメリカではプロテスタンティズムから派生したものとはいえ、宗教色をなくしたベンジャミン・フランクリンのような純粋「働け」イデオロギーも生まれた。またソ連・中国型の社会主義が資本主義成立のための本源的蓄積という役目を果たしたとすれば、そこでも「働く」ことはそれ自体で価値があるという社会主義イデオロギーが、資本主義の成立に一役買ったことが明らかである。資本家の労働も労働者の労働も、すべて「働く」ことに価値ありという思想こそ、資本主義のイデオロギーなのである。

 つまり、「働く」ことがそれ自体として価値があるという考え方は、まさしく近代の産物なのである。それは、多くの労働力を作りだして、労働力の値段を安くしたいという資本家の利益にも合致したイデオロギーである。

「働け」イデオロギーは資本主義の繁栄と存続に貢献している。その「働け」イデオロギーを女性にまで拡張しろと主張しているのがフェミニズムなのだ。

 それはまた近代特有の男女同型論に基づいている、という意味でもすぐれて近代的なイデオロギーである。それは近代の理想を女性にまで広げよという要求にすぎない。フェミニズムはしょせん近代の理想を実現しようとしているにすぎないのである。近代を超えようとしながら、結局は近代というお釈迦さまの掌の中で踊っていたというわけだ。

 

フェミニズムは時代錯誤の思想だ

 

 フェミニズムの最大の動機である「働け」イデオロギーは、実際にはフェミニズムが否定したがっている近代に特有の思想であるというのは皮肉な話である。フェミニズムは人間を近代の枠の中に閉じこめるはたらきをするという意味で、もっとも遅れた時代錯誤の思想である。

 もし本当に近代を超えたいのであれば、「近代家族」だけではなく、「働く」ことだけに最大の価値をおく近代思想それ自体も相対化すべきである。もちろん私は「働く」ことそれ自体を否定しろと言っているのではない。人間はいまのところ働かないでは生きていかれない。また働くことそれ自体の中に価値がないとは言わない。もしかしたら人間は働かなければ生きていくことができないように作られている生物なのかもしれない。もしそうだとしても、しかし「働く」ことの他にも、「子育て」や「遊び」や「芸術」や「学習」など、いろいろなことに価値を見いだして、いろいろな営みのあいだでバランスをとることを考えた方がいい。

 しかるに、すべてのことを相対化したがるフェミニズムも、「女性が働く」ことに関してだけは絶対に価値の相対化をしようとはしない。フェミニズムはお得意の「価値の多様化」を、「働く」ことも含めて考えないのであろうか。専業主婦の価値だけは認めようとしないのはなぜか。

 フェミニズムは近代イデオロギーに毒された「働け」イデオロギーに最高価値をおいたために、「近代家族」(専業主婦)を否定しなければならなくなった。しかしフェミニストが否定したいのは、たんに「近代家族」だけであろうか。彼女(彼)らはじつは「家族」そのものを否定したいのではないであろうか。

 

「多様な家族」論のごまかしと危険性

 

 フェミニストたちは、「家族はたえず変動する」「近代家族も崩れつつある」と言う。その証拠は「多様な家族」の出現だという。たとえば離婚した「一人親の家族」、はじめから父親のいないシングル・マザーの家族、離婚した親同士が結婚した「複合家族」、ゲイのカップル、事実婚のカップル、子どもが大人になっても結婚しないで親の家にいる「大人家族」、等々。独身者にまで「一人家族」という名をつけて家族の一種だと強弁する者さえいる。これらは「新しい」家族の出現であり、「家族の変動」「家族の多様化」を示すものだとされる。いまや「家族」の定義を変えなければならないときだと言われる。

 あるフェミニストは、犬も家族の一員とみなす者にとっては、「家族」の概念を拡大しなければならないと述べている。ならば、ノミやダニは人間とのあいだに「血のつながり」があるから、犬以上にもっと家族らしい家族だと主張する者が出てくるかもしれない。

 

「近代家族」の変種を新種と誤認

 

 冗談はさておいて、はたしてそういう「新種」が出てきたことによって、家族の定義を変えなければならないであろうか。じつは、いま挙げた「新しい」家族の形態は、すべて「近代家族」の変種にすぎない。「近代家族」が父母子を中核にして、その愛情的な絆によって成り立つものと定義すれば、離婚家族もシングル・マザーも大人家族も、「近代家族」のいずれかの要素(父か母か子)が欠けた変種であることがわかる。またゲイや事実婚のカップルは、「愛情によって結ばれる平等なカップル」という原理を純粋に追求した結果であり、「近代家族」の理念の一側面を具象化したものにすぎない。

 それらはけっして「近代家族」とは別の新しい形態、新しい原理ではなく、「近代家族」の枠の中での変種にすぎないものである。フェミニストは変種を新種と誤認しているにすぎないのだ。

 問題は、それらの変種が「近代家族」に期待されている機能を果たす能力をもっているか否かである。

「近代家族」に期待されている機能とは、子どもを愛情をもって健全に育てるという機能である。もちろん子どもを育てることは家族にだけ委ねられているのではない。子どもの養育・教育は家族、親族、地域共同体、学校、社会全体などの多くの同心円の重なりによってなされることが期待されている。しかし家族はその多くの同心円の中の中核であり、子どもの人格の基礎は家族の中での父性と母性の協力による、理屈以前の感覚的な次元の感化(とくに秩序感覚・現実感覚・美的感覚の涵養――拙著『父性で育てよ!』〔PHP研究所〕を参照)によって基本的に決定される。

 そのような理念は、いままでのところ日本ではあまり充分には実現されていない。父親も母親も、子育てを上手にやっているとは限らない。しかしだからといって、その理念そのものが間違いだということにはならないだろう。

 

歴史的進歩性があるか否か

 

 フェミニストたちは、多様な家族ならすべて歓迎したいようだ。なぜなら、「近代家族」は「悪」であり、それを崩すものはすべて「善」とみなされるからである。しかし「多様な家族」がすべて未来の形態の予兆であると考えるのは浅はかである。

 もし「新しい」家族形態が本当の意味で歴史的に進歩的であるためには、その中になにかプラスの価値とみなされる特徴が含まれていなければならない。そうでなければ、それはたんなる欠損形態にすぎない。

 その意味では、夫婦の実質的な愛情を重視する事実婚や離婚者同士の結婚には、未来に向けての積極的な要因が見られる。しかしそれが本当に積極的だと言えるかどうかは、夫婦にとってだけでなく、子どもに対する配慮がどのような形で、どの程度なされるかにかかっている。ゲイのカップルや、事実婚のカップルを認めろと言っているフェミニストには、「子ども」という視点が欠けているように見受けられる。

「近代家族」からはみだすものとして挙げられている形態は、事実婚の理念を除けば、すべて家族としての大切な要素(父か母か子ども)に欠けるところのあるバリエーションにすぎない。それらの変種は人間の再生産に支障をきたしかねない要素を含んでいる。すなわちそれらは「近代家族」だけではなく、「人間の再生産」のための組織としての「家族」そのものの否定につながる。それを未来の先取りであるかのように言うのは、すりかえであり、ごまかしである。それは断じて望ましい未来の予兆などではなく、たんなる崩しにすぎない。

 

アメリカ・イギリスで進む家族の修復

 

 現在の崩れが「近代家族」の枠の中で修復可能かどうかを判断するときに、参考になるのがアメリカで進んでいる「家族の見直し」である。離婚率がもっとも高い国の一つであるアメリカでは、いま家族の価値が見直され、離婚や家庭内暴力によって破壊された家族をどう修復するかに、いろいろと知恵がしぼられている。もっとも注目すべきなのは、「心の修復」という観点が導入されている点である。離婚によって母性や父性を経験できなかった子どもが、親になったときのために、男性ならば父親としての役割を体験したり、女性ならば母親としての役割を学んだりする機会が、ボランティア活動を中心に数多く提供されている。また家庭内暴力をふるってしまう親に対しては、法律によってカウンセリングを受ける義務を課している州もある。

 働く女性たちが家庭回帰現象を起こしていることはすでに周知のことである。たとえば数年前に、「マーサ現象」と呼ばれたブームを全米に起こしたマーサ・スチュアートは、主婦が家庭をいかに美しく上手に運営するかをテレビや雑誌で説いて、大人気を博した。これはいまアメリカの女性たちが家庭の価値を再認識しはじめた証拠であろう。また、イギリスでも働く女性の家庭回帰がブームになっているという(『婦人公論』一九九九年三月七日号)。それもとくに高学歴の人にその傾向が見られる。彼女たちは「チルドレン・カム・ファースト(子供が第一)」を唱え、「外で働くことだけが“進歩”と捉えてきた考え方」に根本的な疑問を突きつけているという。

 男性たちを家庭に返すという運動もさかんで、フェミニストから「保守反動」「アンチフェミニズム」の悪玉だと批判されているアメリカのプロミスキーパーズは、じつは家庭の中での父親の役割を見直せという運動であり、「高潔な男性」を目指す真面目な宗教運動なのである。これも家庭を見直し重視する動きの一つと見ることができる。

 

近代家族の修復の必要性

 

 アメリカで現われてきているような「近代家族」の修復の動きは、それ自体としても大切であるが、それだけではない。「近代家族」を超える、もっとよい家族形態を生みだすためにも、価値ある動きなのである。

 ちょっと考えると、「近代家族」よりもよい家族形態を生みだすためには、まず「近代家族」が否定されなければならないように思えるかもしれない。それがフェミニズムのとる立場であるが、しかしそれは浅はかな考えであり、真に歴史的な見方ではない。

「近代家族」を堕落させたり崩壊させたりすれば、自動的に新しいよりよい家族が出現すると思うのは大間違いである。一つの特殊な家族形態を批判しているつもりが、家族そのものを崩壊させ解体させ、その結果、新しいよりよい家族の出現をも妨げているのがフェミニズムである。「近代家族」を超える、もっとよい家族形態が生まれるためには、「近代家族」をできるだけよいものにすることが必要である。なぜなら、歴史というものは、前の形態のよい性質を受けつぎながら発展していくものだからである。その意味では、フェミニズムのやっている「近代家族批判」の大合唱は、非常に危険なものを含んでいると言わざるをえない。それは「近代家族」のプラス面という赤子を産湯とともに流しかねないからである。

 いずれにせよ、はっきりと言えることは、「愛情によって子どもを育てる」とか「温かい家庭」とか「余裕あるライフスタイル」といった、「近代家族」の中でますます明瞭に見えてきた「家族」そのものの新しい機能は、今後けっして消滅してしまわないで、次の形態にも受けつがれていくということである。それこそは温かい健全な心をもった人間を育てる上で、もっとも大切な家族の機能である。

 その場合にわれわれが慎まなければならないことは、「近代家族」を批判するあまり、「家族の絆」そのものの否定にまで進んでしまうことである。われわれは「家族」の大切な意味をきちんと認識し、家族単位思想をあくまでも保持しなければならない。

 その意味では、家族単位思想を否定し、個人単位思想を説く理論はきわめて危険な「崩しの思想」であると言わざるをえない。個人単位思想の持ち主はかならず「多様な家族」を賛美するが、それは個人単位思想から見ると、父・母・子がそろった「標準家族」を崩すことによって自由な個人を作りだす方向に進んでいると思えるからである。

 われわれはこのアナーキズム的な個人単位思想を意識的に批判の対象にしていかなければならない。中でももっとも危険なのが、落合恵美子と伊田広行である。個人単位思想を、落合は客観的な社会科学の結論であるという粉飾のもとに美化しているし、伊田は個人単位思想だとすべてがうまくいくという主張を巧妙なフェ理屈によって正当化している。この両者のごまかしをとくに明らかにしておく必要がある。

 ただしあらかじめ断っておくが、私は個人単位で考えることをすべて否定するのではない。個人単位だけをすべての上に(とくに家族の上に)おく思想を否定しているのである。場合によっては個人単位で考えるべき事柄もある。たとえば信仰の問題、政治信条にかかわる問題など、総じて個人の価値観にかかわるときには、家族単位で決めろと言われたら誰でも反対するであろう。個人単位でなければならない場合もある。しかしそのことは家族単位が大切だということと少しも矛盾しない。しかし矛盾すると言いはるのがフェミニストたちである。なぜなら「家族とは抑圧の機構だから」だそうだ。こういう公式主義的な発想によってすべてを切って捨ててしまう悪弊は、かつてのマルクス主義だけで終わりにしてほしかった。しかしマルクス主義への根本的な反省を経ないままで、あいも変わらず同じ公式主義を振りまわす者たちがいる。以下、そういう公式主義のごまかしを具体的に批判しておきたい。

 

((2)へ続く)