フェミニズム批判

 

4 フェミニズムの陰謀

 (2) 介護保険法に隠されたもくろみ

        (『正論』平成12年1月号掲載に加筆)

 

1 『朝日新聞』社説のファッショ的発想

 平成11年10月26日の『朝日新聞』社説「介護保険・いまさら、なにを」を読んで、私は開いた口がふさがらなかったが、次第に恐ろしくなってきた。その論調が民主主義に反する全体主義的な匂いを発散しているからである。

 「いまさら、何を言い出すのか」と批判されているのは亀井静香・自民党政調会長である。亀井氏が介護保険の「抜本的見直しを言い出した」ことが、けしからんと強い調子で批判されている。「いまさら」見直しを言い出すのは、「二階をつくって、はしごを外すような行為ではないか」「政党や国会の責任をどう考えているのだろう」と書かれている。社説にしては珍しく感情的な調子である。

 たしかに一度決めたことを、その決定に参加していた代議士が覆そうというのは、形式的な手続き論で言えば、おかしいと言える。しかし、一度決めたという、その決め方自体に問題があるということを、『朝日新聞』の社説はまったく問題にしていない。

 決め方に問題があったときには、『朝日新聞』はこれまでいつも批判的な態度をとるのが常であった。「もっと議論を尽くせ」というのが『朝日新聞』の決まり文句であった。ところが今回に限って、「いったん決まったことに今更文句を言うとはなにごとか」と言わんばかりの、高飛車な調子で「見直し」を否定している。これが公平な批判精神を売り物にしてきた『朝日新聞』の社説なのかと私は目を疑った。

 本当に公平な批判精神があるのなら、なぜ見直し論にこうも賛成者が多く、大きな問題になるのかを考えてみるべきではなかろうか。

 根本的に考えるなら、「見直し」ということ自体は、いつでも常にし続けるべきであり、「一度決まったら、二度と見直しはいけない」ということはない。一度決まったことであろうが、なかろうが、問題があれば何度でも見直すことは必要である。それが現場の混乱を招くというリスクはあるが、そういうリスクは民主主義にはつきものである。「一度決まったことに反対してはいけない」などという言い方は、横暴なファッショ的論理である。

 ただし、見直し論が次第に枝葉末節な問題に矮小化されて、財源の問題や年間十万円のお涙金の問題にすりかえられてしまったのは残念なことである。亀井氏の見直し論のそもそもの動機は、家族介護を大切にという、もっと根本的なところにあったはずである。その大切な論点を見失ってはならない。

 

2 ファッショ的な見切り発車が原因

 そもそも、亀井氏の見直し論をきっかけに、これほどの大騒ぎになったり、議論が蒸し返される根本的な原因は、法案の審議の過程において、家族介護について国民的な規模での十分な論議を尽くさず、見切り発車をしたことにある。

 他の問題については、「議論を尽くせ」という主張をしてきた『朝日新聞』が、この問題についてだけは「もう議論は終わった、決まってしまったことだ」式の主張をするのは、自己矛盾である。これまで十分に議論が尽くされていないからこそ、問題が吹き出したのである。

 亀井氏たちの見直し論に対して、「選挙目当ての行動だ」という批判がなされている。『朝日新聞』のこの社説でも同じ趣旨の批判が繰り返されている。

 民主主義の社会では、選挙に勝たなければならないから、選挙のことを考えるのは当然のことである。そのことを言うのなら、法案を作った側も、選挙のことを考えていたはずであり、それは賛成、反対を問わず言えることである。どちらにも言えることを一方にだけ言うのは、公正な社説とは言い難い。

 だいいち、この問題は、単に誰かが選挙目当てに言い出したから論議が沸騰しているのではない。審議会の審議の段階では家族介護をめぐって激しい対立があったのに多数決で押し切られ、国民には十分に問題点が浸透しないうちに実行段階に突入してしまったところに、根本的な問題がある。

 

国民の気持ちとのズレ

 介護保険法の一番の問題点は、家族介護をめぐって、国民の気持ちとのあいだに大きなズレがあることである。より正確に言えば、家族介護を大切にしたいという人々の気持ちとズレているところに大きな問題をかかえているのである。もっとはっきり言うならば、家族介護を中心にしたいと思っている人々が不利になり、不公平になるように作られているからである。

 そのことは問題になっている野田市の場合をみると明らかになるであろう。野田市の根本崇市長は家族介護に対する現金給付を提案してフェミニストたちの猛反対を受けたが、その市長の反論を見ると、市長がいかに住民の気持ちを代弁しているかが明らかになる。根本氏は、「家族介護に現金給付する理由」をこう述べている。

 「市内各地で実施した説明会で出された意見の多くは、家族に現金給付を認めてほしいというものだった。ある会場では、その意見に拍手が鳴りやまなかった。」「『親は子供に面倒を見てもらいたい。子供が親の世話をしたい。家族は助け合って生きていくべきだ』『業者まかせにしたくない』という、ごく普通の家族が持つ素朴な感情をたくさんの方たちから聞いた。『自分たちで家族を介護する素直な行為を、国はなぜ評価しないのか』という声も帰ってきた。」「私自身、親を大切にし、できる限り自分が世話をしたいという市民の考えは、ごく常識的なものだと思う。その考えを一概に否定するのではなく、一定の評価を与えるべきではないだろうか。」(『朝日新聞』平成11年9月9日付、根本崇「論壇・家族介護に現金給付する理由」)

 そもそも「介護は家族が中心になるべきだ」という考えは、国民の圧倒的な多数の意見であったし、今もそうである。たとえば、平成7年に総理府が実施した「高齢者介護に関する世論調査」によれば、次の介護形態のうちどれが望ましいかという問いに対して、こういう結果が出ているのである。

  家族だけの介護 25%

  家族を中心にヘルパーなど外部の者も利用 43%

  ヘルパーなどを中心に家族の介護も 22%

  外部の者だけの介護 3%

 つまり、「家族介護を主体に」と考えている人は68%、「社会的介護を中心に」と考えている人は25%である。しかるに実際に決められたのは、家族介護を不利にするような内容の法律であった。なぜ、そのようなズレが生じたのか。

 

非公開の審議会によるゴーサイン

 介護保険法の根拠になった厚生省老人福祉審議会は、平成7年から8年にかけて、非公開で行われた。その中で、家族介護への現金給付について賛否両論が激しく対立したそうである。結果は家族への現金給付は否決され、現行法ができあがった。

 この過程は、国民の大部分の意思とは反対の決定をさせるための、クーデターまがいのやり方と言わざるをえない。クーデターとは、少数の者が武力で権力を取ることを言う。介護保健法成立までの過程を見ると、少数派による、合法的な外見をまとった事実上のクーデターである。非公開の会議で、国民の気持ちとは正反対の法律のもとが作られている。この情報公開の時代に、なぜ非公開にしなければならなかったのか、理解に苦しむ。

 しかも審議会の構成などというものは、担当官庁の(この場合は厚生省の)意思によっていくらでも操作することができる。フェミニストとほとんど同じ思想を持つに至っている厚生省の意思によって、あらかじめ「介護の社会化」派を過半数にすることは可能である。この審議会が組織されたときから、国民の大多数の希望に反する法律を作ろうというフェミニストたちのクーデターは始まっていたと言える。

 非公開という形で国民的な議論を封じておいて、できたものを見て国民が疑問を提出し、見直しを提案すると、「いったんできてしまった法律を見直せとは、いまさら何を言うか」と恫喝するのは、まさにファッショ的な態度と言うべきである。見直し論の背後にある圧倒的な世論を見失ってはならない。形式論ではなく、国民の気持ちを尊重した本当の見直しがなされなければならないのである。

 残念ながら、実際の見直し策は、本来の見直し論とは関係のない、戯画的なものになってしまった。すなわち保険料徴収の凍結と、年間(!)十万円の慰労金(それも外部の介護サービスを受けないという条件で!)というものである。この妥協策の背後には、はっきりとした意思が認められる。すなわち現金給付を認める場合には、現金給付をもらう人たちをできる限り不利にしようと意思が働いているのである。

 それは現金給付が「介護の社会化」を妨害するものだと、フェミニストたちが認識しているからである。フェミニストたちがそれほどまでにこだわる「介護の社会化」とは、いったい何ものなのであろうか。

 

3 破綻した社会主義思想に基づく

 そもそも「社会化」という言葉は、大きく分けて二つの思想から出てきたものである。一つは社会改良主義から出た言葉であり、いま一つは社会主義から出た言葉である。この二つの系譜はしばしば入り交じっているが、本来は根本的に異なる思想である。すなわち前者は資本主義社会における個人の自由な競争を前提にして、自由競争の中で適応できない弱者を救済するという考え方であり、これは社会福祉政策として現実化されている。後者は社会主義思想にもとづいており、人間の営みをできるかぎり「社会化」しようという考え方である。

 社会主義においては、すべての人間的営みが国家の管理下に置かれる。生産も分配も消費も、すべて国家の統制を受ける。国家の計画的統制の中で、すべての国民を労働者化し、家庭での育児や家事も非能率なものとして否定して、育児はゼロ歳児から保育所で行い、料理なども給食センターで作るとか、共同の食堂を作ってそこで食べるというイメージで考えられている。いわゆる「育児の社会化」「家事の社会化」である。実際には「家事の社会化」までは実現しなかったが、思想としては「すべての人間活動の社会化」を目標にしているのである。

 いま問題になっている「介護の社会化」という言葉の中には、この両方の意味が入りこんでいるので、議論が混乱している。というより、フェミニストたちの戦略が、第一の意味の「福祉としての社会化」を前面に出して自らを正当化することによって、それに賛成する勢力を味方につけながら、内実は家族介護を不利にする内容にしてしまったところに、今回の介護保険法の本質がある。

 はっきりと見抜いておかなければならないのは、フェミニストたちが狙っているのが、社会福祉としての「介護の社会化」ではなくて、社会主義思想からくる「社会化」政策だという点である。この思想は「家族が主体だ」ということを否定する方向に傾いていくのを特徴としている。事実、いま施行されようとしている介護保険法は、家族介護をしにくくさせ、不便にさせ、不利にさせることを目指しているのである。

「介護の社会化」は「育児の社会化」「家事の社会化」と同じ、フェミニズムの社会主義的な思想と戦略の一環である。そもそも「介護保険の社会化」という言葉そのものが、形容矛盾なのである。保険とは、もともと任意参加による民間の営みであり、国家が統制し、参加を強制するものではない。それを一定の年齢以上の国民全員に参加を強制するというのは、社会主義思想による国家統制思想以外のなにものでもない。国家の統制と計画化という社会主義的な原理は、必ず腐敗と停滞をもたらす。社会主義の実験がとうに破綻したのは、歴史が示すとおりである。

 フェミニストたちは、すでに破綻した社会主義的な「社会化」という発想を基盤にしているが、この思想は他の形態を否定するという意味できわめてファッショ的な性格を持っている。

 この系統の「社会化」思想は、個人のプライバシーや個人的感情を無視して、一律に「外部の手」を家庭の中に導入しようとしている。しかし国民の圧倒的な多数が求めていることは、個人の感情を大切にできる制度であり、家族の愛情を生かすことのできる制度である。社会の大勢は「家族の愛情を大切にする方向」を指し示しており、さきほど野田市長が引用していた市民の声が代表しているように「おむつを家族の手でかえてもらいたい」「他人の手でさわられるのはいやだ」「プライバシーを守ってほしい」「恥ずかしいという感情もある」という気持ちである。すべからく法律や制度というものは、こういう個人の感情に応えられるような制度でなければならないはずである。

 そういう意味では、現行の法律は決定的に後ろ向きだと言わざるをえない。個人の感情や家族の愛情を大切にしたい人々を支援する形になっていないどころか、そういう人たちを不利にしようとしているようなものだからである。

 野田市長根本氏の次のような批判は、介護法の根幹に関わる正当な意見である。「現金給付に反対の論拠として、『老老介護』の悲惨さや老人虐待の恐れを指摘されるが、一部の例をもって一般化することはおかしい。介護する側の大変さを強調するあまり、デリケートなお年寄りの体調を考慮したケアの確保という観点が欠けているのではないか。」(『読売新聞』平成11年10月10日付)

 介護保険法は「親を介護したい」子どもの気持ちも、「家族に介護されたい」お年寄りの気持ちも、どちらも考慮に入れていない無神経な法律である。それは社会主義的な「社会化」思想にいつも付きまとっていた決定的な欠陥である。人間の感情を理解しなかったという、その無神経さが、社会主義の失敗の一つの大きな原因だったのである。社会主義国の「社会化」政策の挫折に学ばないまま、またもや「介護の社会化」というファシズム的な政策をゴリ押しするとは、なんという愚かな人たちであろうか。

 フェミニストの家族破壊の意図は一時、夫婦別姓の主張となって現れたが、それは国民的な反対に遭って挫折した。しかし家族介護の価値をおとしめる介護保険法は成立してしまった。この問題点を根本的に見直さないと、日本は社会主義国の失敗の二の舞を演じることになりかねないであろう。社会主義挫折の大きな原因の一つは、家族をないがしろにしたことにある。家族を軽視し否定する国は必ずダメになる。家族は国民の道徳感情の源泉だからである。

 

4 フェミニストの欺瞞的戦略

 以上明らかにしたように、介護保険法の本質は、フェミニストたちの主導のもとに、社会福祉的な理論によって正当化しつつ、内実は社会主義的な「社会化」になっているところにある。

 そうした本質を隠蔽しているのが、フェミニストたちが使っている巧妙で欺瞞的な論法(フェ理屈)である。

 フェミニストたちの欺瞞を見抜くには、「介護保険法」を正当化する表向きの理由づけと、「介護保険法」の実際とが乖離していることを見れば明瞭になる。

 

フェミニストの屁理屈

 フェミニストを中心にした介護保険法推進派は、表向きは「家族の負担を軽くするため」だと言っているが、本当は家族介護そのものをなくすことが目的ではないのか。その証拠に、今回の妥協の産物である「十万円の慰労金」の性格も、「それをもらうなら外部のサービスをすべて捨てよ」という条件をつけた点に現われている。年間たった十万円のために「すべてのサービスをしない」と脅している、あるいは意地悪をしているようなものである。

 また資格をもったヘルパーでも、自分の家族を介護するときは、他人の介護を自分の家族以上にしないと、認められない。ということは、家族の介護のためだけに資格を取るということを否定していることになる。家族介護に対する報酬の支給を受けるためには、講習を受け、専門的な訓練を受けることを条件にすることは必要である。しかし他人の介護もしなければならないという条件を付けるのは、意地悪でしかない。

 本気で「家族の負担を軽くするため」を考えるのなら、外部のサービスを使いやすくするとか、ショートステイなどのサービスを充実させれば足りることである。意地悪をして家族介護をやりにくくすることが、本当に家族の負担を減らしながら介護の質をよくすることにつながるとはとうてい思えない。

 そのほかに、現金給付に反対する理屈としては、「虐待していても分からない」「質が悪くなっていても分からない」というのがある。しかしそれも「外部の目」を入れることは可能である。たとえば、ヘルパーが定期的か抜き打ち的かは別として、ときどき回っていくようにするなどの対策を立てることは可能である(そのほうが費用ははるかに安くつく)。

 また現金給付をすると、家族が「横取り」や「猫ばば」するという弊害が生ずると言う人もいる。こういう下品な言葉を使ってマイナス面だけを強調するのが、フェミニストの得意とするところである。しかしそういう論理を使うなら、失業手当を不当にもらっている人もいるし、離婚した女性が別の男性と事実上結婚していても子どもへの手当をもらっているとか、一般に福祉への補助を不正に「猫ばば」する人もいるから、福祉そのものをなくせと主張しなければならないことになる。

 

「一万人市民委員会」のすりかえ論理

 個々の悪い例があるから「家族介護は質が低い」という論法は、すりかえ論理である。悪の原因になりうることを一律に否定する制度を作ってしまえば、確かに簡単である。しかしそれでは別のプラスを否定してしまうことになる。

 このすりかえ論理を使っているのが、野田市の現金給付に反対した「介護の社会化を進める一万人市民委員会」(代表・樋口恵子氏、堀田力氏)の「野田市の現金給付制度についての見解」である。この「見解」は、こう言っている。介護の中の虐待を防ぐためには「家族介護に外部の風を入れることである。家族の苛酷な負担を社会が肩代わりし、家庭にほほえみといたわりを取り戻す。それが、介護保険の第一の目的といってよい。」その点はまったく賛成である。しかし、このような誰もが賛成することを前面に出しながら、そのためと称して現金給付に反対するのは、すりかえ論理である。

 家族で介護をしている人たちの中には、家族皆の手で介護しているので、虐待に走らず、過労にもならず、適切なケアをしている人たちもいる。このごろでは、定年になった夫が痴呆になった妻をすべての時間や労力を使って介護している例もある。そういう人たちが外部のサービスや現物支給をいらないと言い、そのかわりに現金支給を望んだといって非難することができるだろうか。「見解」は「愛情は金に換算できるのだろうか」と言うが、現金給付は愛情を金に換算しようというのではない。保険というものは、必要になったときに、いかなる形であろうが、誰でも自分たちが望む形で公平に給付を受ける権利があるのではなかろうか。

 また「見解」は「いくつかの調査は、施設におけるプロの職員による介護に比べると、家族による介護がその量、質ともに下回ることが示されている」と述べているが、これもまた一方的な決めつけである。そもそもフェミニストが根拠にする調査なるものはたいてい杜撰なものであったり、方法論的に疑問なものが多い(この点に対する詳しい批判は拙著『フェミニズムの害毒』草思社および『母性崩壊』PHP研究所、においてなされている)。その「いくつかの調査」なるものの場合にも、「質」の中に「愛情」や「心のケア」という観点は入っていないであろう。愛情を数字にして調査することはできないのである。しかし「質」の中に愛情を入れないで、「質」を比較することはできないであろう。

 百歩ゆずってその調査なるものが「愛情」以外の項目について科学的に公平になされたものだと仮定しても、その結論は平均による比較にすぎない。平均的にはどちらが上か下かはともかく、平均的な施設よりも質量ともに上回る介護をしている家族がいることは確かである。技術的には下手でも、愛情がなによりだと、介護されるお年寄りの声が聞こえてきそうである。家族介護のすべてが質が悪いような印象を与えて、現金給付そのものに反対するのは、すりかえ論理である。

 推進派は「家族介護の悲惨さ」をしきりに宣伝して、「家族への現金給付は家族を介護に縛りつける」「虐待が行われていても分からない」という理由を挙げている。これは一部の問題を一般化するというフェミニスト特有の詭弁である。それを言うのなら、施設においても虐待はあるし、痴呆のお年寄りが縛られ、鍵のついた服を着せられていることも同様に問題にすべきである。「施設におけるプロの職員」やヘルパーならマイナスがないと言うのは、ごまかしである。

 家族介護の中で起こりうる質の低下や不正取得をなくすことは、現金給付を一律に排除するという方法によらなくても、先にも述べたように外部の目を入れるとか、研修を受けさせるなどの方法によって可能になる。家族介護のマイナス面と、施設介護のプラス面だけを宣伝するのは、ある意図をもったフェ理屈というものである。ある意図とは、家族介護の美風を崩そうというものである。

 

「美風」は存在しないか

 フェミニストたちは「家族介護の美風」など存在したこともないし、今も存在しないと言っている。本当に「家族介護の美風」は存在しないのであろうか。

 まずフェミニストたちは過去には「介護」という「言葉」はなかったので、「介護という事実もなかった」と言っている。さきに引用した『朝日新聞』の社説も同じような趣旨の主張をしている。この「言葉がなければ事実もない」という命題は、フェミニストがよく使う論法であるが、それがいかに間違っているかについて、拙著『母性の復権』(中公新書)で論じている(102〜105頁)ので参照されたい。

 言葉はそのことが意識されたときに発生するので、事実があっても意識化されなければ、言葉はないのである。私の子どものころには、近所や親戚には中風などで寝たきりになった人がよくいたが、家族はちゃんと面倒を見ていた。介護という言葉はなかったが、介護の事実はあったのである。もちろんその質は決して十分と言えるものではなかった。というのも、全体の生活水準が低かったから、介護の質だけがよいというわけにはいかなかったからである。

 今でももちろん質は千差万別だけれども、家族介護の「美風」は存在している。それが世間体を気にした外見だけの場合もあるが、本当に愛情から一生懸命に介護している家族もいる。そういう人たちは大騒ぎをして宣伝したりしないので、目立たないだけである。「家族介護の美風」は、日本の全家庭にあるというものではないが、あるところにはあるのである。日本だけでなく、世界中にあるはずである。そういう「心から愛情をもって介護している」家族に対する支援の形態は、家族が望む方式を尊重して、外部サービスと現金支援を組み合わせて行うのが望ましい。

 現金給付を「古い」という人は、ドイツのような介護先進国の現金給付制度までも「古い」と言うのであろうか。「ドイツの例は、家族制度の異なる日本には当てはまらない」と言う人がいる。その人たちは、日本では「嫁が介護すべきだ」という古い家族制度や観念があるので、現金をもらうとますます「嫁だけ」介護を押しつけられることになる、と主張している。しかし「嫁」意識と、「嫁」だけに介護を押しつける意識を、女性自らも社会も変えていくようにすべきである。その「古い」意識をそのままにして、「介護の社会化」によって「嫁だけ介護」を強引にやめさせようというやり方では、別の不公平や弊害が出てきてしまう。介護保健法は「嫁」の立場にある人だけを救い、他の人たちのことは考えなくてもよいという法律ではないはずである。

 フェミニストとして主張したり運動する場合には、「嫁」の立場に立ってもよいし、プレッシャーグループを形成してもよい。しかし法律を作るときには、「嫁」の立場だけを優先するのは間違いであり、他の立場や全体のバランスをも考えるのでなければならない。

 

野田市長と市民への誹謗と侮辱

 家族介護を有利にしようという考えは、決して「古い」思想ではなく、むしろ新しい思想である。家族介護を大切に思う人はみな古い人間であると非難するのは、不当な誹謗である。

 たとえば、沖藤典子氏は野田市長根本氏を「古い介護観で新しい制度に横やりを入れる」とか「古い住民意識にこびている」と非難している(『読売新聞』平成11年10月10日付)。自分と反対の考え方を「古い」と決めつけて葬り去ろうとするのはファッショ的な論理であり、野田市の市長と市民に対しても失礼きわまりない暴言である。家族の気持ちを重んずることは「古い」とか「新しい」という問題ではない。もし「古い」「新しい」を言うのなら、「古い」(前近代的な)社会主義的「社会化」をもとにしている介護法の本質こそ古いと言うべきであり、家族の愛情を重んずる考え方のほうが近代の特徴であり「新しい」のである(この点については拙著『フェミニズムの害毒』の第三章を参照されたい)。

 さらに沖藤氏は、野田市の市民の声を「ごく一部のこと」と言っている(『読売新聞』同右)が、家族介護を主体にしたいという意見は、平成7年の世論調査を見れば分かるように、非常に多くの国民の願いである。また氏は野田市の現金給付の試みについて「真剣に取り組む姿勢を疑いたくなる」と言っている(『読売新聞』同右)。これは根本市長をはじめ野田市に対する重大な侮辱である。根本氏は真剣に取り組んでいるからこそ、市民の声に耳を傾け、その気持ちに応えようとしたのである。根本氏のやっている取り組みや意見を見て、誰がその真剣さを疑うだろうか。沖藤氏のように、「真剣に取り組んでいない」から自分とは異なる意見になるのではないかと考えるのは、自分の考えを絶対に正しいと考える思い上がりであるし、相手の考えの中のもっともな点を理解しようとしない偏狭さである。

 たしかに沖藤氏らが、家族介護が陥りがちな悲惨さを訴え、それをなくすように努力してきたことは、立派なことであり、高く評価されなければならないと思う。しかし封建的な観念が根強いという「古い」面のみを見て、それに対する対策ばかりを優先させるのに急なあまり、家族を愛し家族で介護したいと思っている人たちに不利になるような制度を作ったことは、まことに残念なことである。それは産湯を捨てようとして赤子を流してしまったようなものである。

 

5 家族介護を有利にせよ

 介護保険は家族を大切にしている人たちを支援できる制度にすべきである。「家族で」しかも「良質の」介護をしたいと思っている家族を支援することができないのならば、それは家族を崩壊させるのに手を貸すことになりかねない。

 家族の必要に応じて、外部サービスと現金給付を組み合わせて支援するように、制度を見直すことが、緊急に必要である。

 もちろん、その場合に、家族のない人とある人を公平にする必要がある。たとえば、一人暮らしの人は、全部外部のサービスに頼るだろう。それに対して、家族の介護を受けられる人は、家族に一部頼り、他は外部のサービスと現金給付の一定の割合を選択したいと思うであろう。家族だけで十分だから、保険からの給付は現金でもらいたいという人もいるだろう。

 質を確保するためには、現金給付の対象になる家族介護については研修を受けるようにするか、外出が困難な人のためには専門家が出向いて指導するようにすればよい。さらに財源の問題は、現金給付の量を、「ヘルパーを頼む場合を超えない」とすれば足りることである。いずれの問題も家族介護をよりよい形でできるように支援することに対して、決して障害になることではない。

 国民の圧倒的な気持ちを無視した制度を強引に作っても、それは長続きするはずがないのである。フェミニストたちは、現金給付によって「制度の根幹が崩れる」と言うが、その根幹が間違っているのだから、根本的に作り直す以外に多くの国民を納得させる道はないであろう。

 ドイツの介護保険に詳しい本沢巳代子・大阪府立大教授はこう語っている。「ドイツのように、家庭内労働は外での労働と等価値と認め、介護する家族のために介護期間に応じた年金の上乗せや労災の適用を検討してほしい。」「ドイツのようにサービスの現物支給と現金支給を自由に組み合わせて使えるようにすべきだ。家族で介護していても、いざという時に手厚いサービスを受けられる保障は必要だ。」(『朝日新聞』平成11年10月26日付)

 ドイツでなされていることが、どうして日本でできないのかと問えば、フェミニストは「家族の中での嫁(女性)の立場が違う」「嫁(女性)が犠牲になるという問題が解決されない」と答えるのであろう。しかしそれでは、古い観念を前提にした制度を作ることになってしまう。古い観念と戦うのがフェミニズムの使命であろう。それとも、「家族への現金支給に反対するという形で戦っているのだ」とでも答えるのであろうか。それでは「嫁の介護」はなくなっても、家族介護という(あえて言う)美風をなくしてしまうという矛盾が生じてしまう。それを矛盾と感ずる心をフェミニズムは失ってしまったのであろうか。

 そうだとしたら、フェミニズムはファシズムになってしまったということである。もちろん、家族介護の名のもとに女性だけが介護するという悪しき風潮は廃棄しなければならない。しかしそのために家族介護という美風を犠牲にしないで、本当の家族全体での介護をかちとるという道を困難でも追求すべきである。そうしてこそ、介護保険法は国民的な支持を得られるのではなかろうか。今のフェミニズムは、今までの国民的な支持をよいことに、安易な道を選択して、介護保健法を歪めてしまった。それはやがてフェミニズム全体の凋落へと道を開くであろう。


 

資料1

 『朝日新聞』平成11年12月20日付に掲載された介護保険をめぐる手塚和彰氏(千葉大学教授)と樋口恵子氏の対談の中の手塚氏の発言は大切な論点を含んでいると思うので、ここに資料として引用する。

 樋口氏が「日本の高齢化は世界に例を見ないスピードで進んだ」ので「介護保険制度について議論を急いだのは仕方ない」(日本の高齢化は予想を超えて急に進んだわけではない、秘密裏に議論を急いだ本当の意図については、上の本文で述べた)と言うのを受けて、手塚氏はこう述べている。

 手塚「その議論に20年かけたドイツの介護保険は見事に考えられていて、95年1月に所得の1%を保険料にあてる形でスタートして、4月から在宅介護を始めた。そして翌年の7月に施設介護に入るという段階を踏んだ。在宅介護を優先し、さらに総コストが安い現金給付を選択できるようにしたことで、予想を超えて黒字になった。ヨーロッパが全体にそうだが、個人ができないことを家族がやる。家族ができないことを隣人やコミュニティー、職業集団がやる。企業、組合も参加する。最後に州や連邦がやる。日本には中間がなくて、個人ができないことはすべて国がやれという。そういう発想では高齢化社会は支えきれない。

 手塚「『慰労金』は論外だ。だが、現金給付はメニューとして別の形で位置づけるべきだと思う。介護保険は、等しく被保険者に介護サービスを提供しなければならない。現実に老夫婦が連れ合いをみたり、地方などで子が親を介護したりする場合、収入が少ない家庭が多い。家族が介護しても外部のサービスを受けないケースに給付なしでいいのか。

 手塚「介護される本人にとっては、現金給付をはじめ、外からのデイサービスやヘルパーを受け入れるとか、施設に行くなど複合的に受けられる仕組みが望ましい。そこに自己決定権が生まれる。」(下線−林)


資料2

 『朝日新聞』平成11年8月23日付「くらしのあした」

 「子どもを産み、育てる。家族の介護をする。家庭の中で、女性がほとんど無償で担ってきた働きを、ドイツでは『労働』と評価して、年金額に反映させています。」

 「ドイツでは、生後3年の育児期間は、年5万3000マルク(約330万円)の平均賃金の90%の収入があると見なして、保険料を払わなくても、年金の期間に数えられる。」

 「ドイツでは伝統的に家族が重視され、憲法に当たる基本法で『特別の保護』がうたわれている。3歳までは母親が育てるのがよい、との考え方も根強い。算入は育児手当や育児休業制度とともに始まっており、こうした家族政策の側面も強い。」

 以上の内容について、田中耕太郎・山口県立大学教授はこう語っている。

 「年金制度は世代間の連帯が順送りに続くことが大前提で、将来の年金を支える子育てには重大な関わりがある。日本ではこれまで、働く女性の育児についてだけ考えられてきた。少子高齢化社会を支えるためにも、仕事の有無にかかわらず、育児や介護を年金や手当、税制できちんと経済的に評価する議論をすべきときだ。

 フェミニスト主導の介護保険制度では、「働く女性」の「都合」ばかりが優先され、専業主婦の育児や介護は評価されない。ドイツの制度や田中耕太郎教授の意見はいつになったら生かされるのか。