C・G・ユング研究

8 資格制度を考える

  (この論文はチューリッヒユング研究所の分析家資格制度と日本の臨床心理士資格制度の中に出鱈目で信用できない部分のあることを暴露したものである。『ユング研究』9号、1994年11月に発表したものであるが、ここで取り上げた日本の臨床心理士資格制度とチューリッヒユング研究所の制度はその後、本質的には変わっていない。)

 

一 資格制度はなぜ必要か

二 良い資格制度の条件

三 資格制度の影

四 分析家の資格

    ── チューリッヒ・ユング研究所の場合

五 日本における「臨床心理士」の資格制度

 

 1988年に「日本臨床心理士資格認定協会」が成立し、翌 年から「臨床心理士」が誕生し始め、一年で約二千人が登録され、現在は約四千人が 資格を持っている。この資格制度に対して、私は当初から疑問を抱いていたが、以来 6年の間、事態を観察していて、最初の疑問がいっそう強まっていると言わざるをえ ない。

 そもそもこの制度の成立にあたって、資格制度のマイナス面についての議 論はほとんどないままに、その必要性が一方的に強調されて実現が急がれたので、ど のようなマイナスがありうるか、それを防ぐ制度をいかにして盛り込むかという議論 はほとんどなされなかった。その欠陥が今になって露呈してきていると思うのである 。

 この時にあたって、資格制度とはいかなる意味で必要なのか、良い資格制 度とはどのような条件を満たしているべきものなのか、また資格制度に本質的に伴う 影とは何か、といった問題を公開の場で十分に議論してみるのでなければならない。

 以下、資格制度の問題点を最初に原理的理論的に論じ、次に具体例として チューリッヒのユング研究所の「分析家」の資格制度と日本の「臨床心理士」の資格 制度について、その問題点を検討してみたい。

 

一 資格制度はなぜ必要か

 

 一般に資格制度が必要とされるのは、その資格者によつて営 まれる活動が、その活動の対象となる人々の生命や人格の尊厳に関わる場合、また社 会的に重大な影響を持つ場合である。現在世界的に見て資格が必要とされている職業 を見ると、たとえぱ医師や薬剤師、弁護士、教員、公務員、パイロット、自動車教習員など、いずれもそうした重大な責任の伴う職業である。

 資格制度を必要とするもう一つの理由は、それらの職業が高度の能力や熟 練を必要としているということである。それらは誰にでも簡単に習得できるという単 純労働ではなく、また単なる知識の暗記でもなく、複雑な内容に対する高度な理解と 修練とを必要とする仕事であり、コツとか熟練といったものを要するという点で共通 している。

 そういう意味では、心理療法という仕事も、まさに資格制度の対象とされ るべき分野に属していると言わなければならない。それは一方では対象とする人々の 生命に関わる場合もあり、また他方では重大な心の秘密や人格の尊厳に関わらざるを えない。そういう意味では大きな道徳的責任の伴う職業であると言わなければならな い。そして他方では、心理療法は人間の心を扱うという意味で非常に複雑で高度な熟 練を必要としており、それゆえ自分自身の心のコントロールを含めた、人格的な面で の厳しい陶冶を要求するものである。

 このような非常に難しい内容を持ち、かつ重大な責任を伴う仕事に対して、きわめて厳しい資格制度が必要であることは論を待たないであろう。資格制度はぜひとも必要であるが、しかしそれが適切で厳しいものであることもまた絶対の条件とされなけれぱならない。もしその資格制度に欠陥があったり、抜け道があったりすれば、資格制度そのものの否定につながりかねないし、資格制度のないときよりもむしろ大きな弊害が出てくることにもなりかねないからである。

 その意味では、単に資格制度が必要であるということだけでなく、資格制 度の内容を具体的に問題にするのでなければならない。すなわち、良い資格制度とは どのような要件を満たしており、悪い資格制度はどのような欠陥を持っているのかと いう点をしっかりと確認することが必要である。以下、良い資格制度の条件と、資格 制度の陥りやすい弊害について述べ、最後に実際の資格制度について問題点を指摘し てみたいと思う。

 

二 良い資格制度の条件

 

 良い資格制度の条件は、一口で言えばきわめて簡単であって 、それは良い教育制度と良い認定制度を備えていることだと言うことができる。

 資格制度がうまく機能するためには、独自の良質な教育制度を備えている ことが是非とも必要である。医師や薬剤師になるためには、大学の医学部で教育を受け、試験に合格しなければならない。弁護士や教師もそれなりの教育を受け、試験に合格しなければならない。同様にその他の資格についても、その社会的影響の重大性に応じて、それぞれの専門教育を受け、資格試験に合格しなけれぱならないようになっている。どれだけの良質の教育が提供され、公正な試験が課されるかによって、その資格制度の質が決まってくると言っても過言ではないであろう。心理分析家や心理療法を養成する場合には、 その教育と言っても、当然ながら単に講義を聞いて知識を得るというだけではなく、 実地の訓練を必要としている。そして実地の訓練の中には、一方では自分の心の動き を見つめる訓練と、じっさいに患者さんを相手にした訓練の両方が、相互に組み合わ されてなされる必要がある。

 またあまりに当然のことであるが、教育制度には、その教育の達成度を試 験する制度というものが付属しているはずである。これがないと教育制度はほとんど 有名無実と言つべきであって、実際にはただ出席しているだけで何も学んでいない人 でも、教育を受けたことになってしまう。つまり実質的に教育する制度が必要であっ て、名ぱかりの教育制度なら、ないほうがましである。

 教育制度にもまして大切なのが、認定制度である。これが適正公平に行わ れないと、資格制度そのものが有名無実になるどころか、逆に弊害をもたらすものと なってしまう。公正な認定制度にとって必要な要件として、

1 受験資格

2 試験制度

3 試験者(認定者)

の三点を挙げることができる。

 まず受験資格の問題であるが、受験への門戸が平等に開かれていて、人材 を広く集めることができるようにすべきである。その受験資格者を、一定の教育を受 け、その試験に合格した者に限るべきことも当然のことである。

 次に(認定)試験制度が良い教育制度とうまく組み合わされており、適切に 定められており、公正に実施されることは、絶対に必要な要件である。試験制度は当 該の事柄に関する能力を適切に判定することができるように工夫されていなければな らない。

 最後に試験者(認定者)が人格高潔で、依怙贔屓や利害打算に動かされるこ となく試験を公正に行なうということも、絶対不可欠の必要条件である。とかく問題 作成者や採点者は、情実や利害に動かされることがありがちであるが、そういう欠陥 のない者を選ぶメカニズムを備えているかどうかが、たいへん重要になってくるであ ろう。

 

三 資格制度の影

 

 資格制度においては、必ず弊害の部分が増えていくものであ る。その品質悪化はエントロピーの法則のように確実な傾向であって、それは恐らく 人間性に根ざす法則的なものであろう。つまりどんな制度でも、初めは理想を掲げ、 創立者はカリスマ(天才的な力量)を持ち、高度な理想を実現しようと最大限の力を 発揮して一つの制度を作る。しかし制度化したときがウェーバーの言う「カリスマの 日常化」の始まりであり、堕落の始まりなのである。

 日常化・制度化と同時に堕落が始まるのは、制度化を推進した理想の背後 にひそんでいた「影」の部分が、制度化とともに現実化してくるからである。資格制 度の背後にひそんでいる「影」に光を当ててみよう。

 資格制度の対象となるソーシャル・ワーカー、心理療法家、精神科医とい った「援助専門家」の影に注目したのが、グッゲンビュール・クレイグ氏の著書『援 助者の危険としての力』(邦訳名『心理療法の光と影』)である。これは援助する者と される者との間に働くさまざまな影について考察したものである。その影の多くは分 析家と被分析者、精神科医や心理療法家とその患者といった、力を持つ者と持たない 者、権威を持つ者と持たない者、との間に生ずるもので、こうした「持つ者」と「持 たざる者」との間の影とは、もちろん第一次的には「持つ者」の側から生ずるもので ある。すなわちそれはまず支配欲や権力欲として現われ、また権威を持ちたいとか感 謝されたい

という名誉欲としても現われる。そして最後に端的に物質的な利益を追求す る金銭欲としても現われる。これらが援助専門家の得る利益であり、この作用によっ て援助の仕事が、力づくで治そうとして患者の自ら治ろうとする力を奪ってしまった り、患者のおもねりや甘えなどという心的操作に左右されたり、良い援助者を演技し て形式主義に陥ったりという、かずかずの弊害に襲われることになる。

 グッゲンビュール氏が指摘している、援助専門家が陥りやすいこうした影 は、資格を与える者と与えられる者との問にも、まったく同じように働くであろう。 すなわち資格を与える者は、権威、名誉や権力を持ち、さまざまな利権を手にする可 能性を持っている。そしてそれが、彼らに対する、取りいり、へつらい、追従といっ た資格希望者の影を誘発するのである。すなわち、資格制度成立以前には、援助を与 える者と受ける者との問にあった階層的な断絶が、資格制度ができると今度は援助者 の内部にも生じ、資格を与える者と与えられる者との間にも階層的な断絶が生まれる ことになる。グッゲンビュール氏が指摘している援助者の影は、資格制度の中では、 資格を与

える者の影としてまったく同様に発生しうるのである。

 そもそも資格制度を作って、自分たちがその中心になろうとする動機の中 には、明らかに支配欲や権力欲がひそんでいるものである。この動機が強い場合には 、制度を作ること自体にエネルギーがそそがれて、その制度をよりよいものにするた めにはあまりエネルギーがさかれないことになる。つまり実質的に本当に良い心理療 法家を育て選抜するために工夫した制度を作るというよりは、権威や利権を利用した 形式主義的な制度を作ることになってしまうのである。

 そのような支配欲や権力欲が主たる動機でない場合でさえも、資格制度は 資格を与える側と与えられる側との階層分化を促し、それを制度として固定化せざる をえない。そしてその制度を守るためには、資格を与える者は、与えるに値する者だ という権威を必要とする。与えられる資格に権威の裏付けがなくては、資格制度は成 り立たないからである。そして支配欲が背後にある場合には、資格制度を本当に公正 に運営することによって維持しようとするよりは、形式的な権威に頼ろうとするよう になる。

 そうなると資格を与える側は一種のギルドを形成するようになり、権威と 利権とを一手に集中するようになる。中世ヨーロッパのギルドが堕落したのは、一方 では既得権者の権威と利権の守り手となったからであり、他方ではその組織が「自己 選抜」の原理に立っていたからである。

 「自己選抜」の原理とは、その組織の成員を選ぶときに、成員以外の人々 によって選ぶのではなく、成員が自分たちで選ぶという方法のことである。たとえば 、国会議員に欠員が生じたときに、国民の選挙によって選ぶのは「他者選抜」の原理 であるが、議員たちが自分たちで勝手に選んで補充をするのが「自己選抜」の原理で ある。

 「自己選抜」の原理は容易に馴れ合いや情実の入りこむ余地があり、不正 や堕落に陥りやすい制度である。この制度によって、歴史上どれだけの組織が堕落し たか測り知れないのである。

 資格制度がこの「自己選抜」の原理から免れることはきわめて難しい。な ぜなら、資格を必要としている高度に専門的な仕事は、専門外の人々の介入を容易に は許さない性格をもっいるから、どうしても「自己選抜」の枠を破ることが難しいか らである。

 そしてそれがつねに堕落への道を準備してしまうのである。だから資格制 度はそれ自体の本質の中に堕落への可能性をはらんでいると言うことができる。

 

 次に、階層分化の固定化は、下の階層となった人々にも、影を生しさせる 。それは資格を得るために、与える人々の思想や理論に追随し、おもねり、少なくと も無批判にその基準に従い、その基準を満たすことによってできるだけ容易に資格を 得ようとするようになる。もちろん彼らの中にも公平への要求は存在しているが、し かし実質的な公平は分かりにくいので、どうしても分かりやすい形式的な公平を要求 する方に傾いていく。指導者の側も、実質的な公平を実現しようとすると膨大なエネ ルギーを必要とするので、どうしても安易な形式的な平等を重んずる方に傾いていく ことになる。

こうして、一方に支配欲・名誉欲があり、他方に利益取得への動機があると 、その資格制度はますます形式主義の方向に流れていく結果となろう。つまり実質的 に実力をつけよることによって資格を得ようとするよりは、形式的な要件を満たすこ とによって資格を得ようとする風潮が蔓延していくことになるのである。

 

 これが一般的に言って資格制度につきものの影である。何らかの資格制度 を作ろうとする人々は、このような影の存在について十分に意識化し、検討した上で 、それをどこまで少なくすることができるのか、工夫に工夫を重ねる努力をしなけれ ぱならないのである。そういう努力がどの程度なされているのか、どの程度実効性を 持っているのか、次に具体的な例をとって検討してみたいと思う。

 

四 分析家の資格

    ── チューリッヒ・ユング研究所の場合

 

1 客観的仕組み

 

 まずチューリッヒ・ユング研究所の資格制度の客観的な仕組 みを明らかにしておこう。それを表にすると以下のようになる。(この制度は私が留 学していた一九九〇年ころのもの。なお当時の為替レートは一スイスフランが八○円 ないし百円であった)

 

チューリッヒ・ユング研究所の分析家養成

および試験システム

 

1入学試験

受験資格 修士号を持っていること。50時間以上の分析を受けていること。

 

試験委員 Selection Comittee(選抜委員会)が三人の委員を任命。

 一人の委員と一時間ずつ二回の面接。

 

受験費用 一回につき100Fr.計600Fr.

 入学を許可されると、1ゼミナール(半年)につき1.600Fr.

 分析の料金は一時間についてたいてい100〜150Fr.

 

 講義はたくさん置かれているが、出席は義務ではない。

 

2 Propedeutikum(基礎試験)

受験資格 150間以上の分析を受けていること。

 

試験科目 ユング心理学の基礎、精神病理学、夢の心理学、おとぎ話の心理 学、民俗学、比較宗教学、神経症学、発達心理学の八科目。

(および連想実験についてのレポートが義務づけられている。)

 

試験委員は三人。主任試験委員は受験者が選ぶことができる。試験委員と相 談してテーマやテキストを決める。それについて質問される。面接時間は30分。ただ し人によっては25〜40分になる場合もある。

 

受験費用 600Fr.

 

3 最終試験

受験資格 300時間以上の分析を受けている。350時間以上のコントロールつ き臨床経験。(ただし少なくとも2ケースは各70時間以上でなければならない。5ケー ス以上が必要。)

 

臨床ゼミに30時限出席が義務。ケース発表も義務。

 

レポート(3ケースは各20枚以上、あとは各45枚)

 

試験科目 おとぎ話の解釈、夢の解釈、精神医学、個性化課程、絵の解釈、 ケースディスカッションの六科目。

ただし「おとぎ話の解釈」と「夢の解釈」の少なくとも一つは筆記試験(筆 記試験は六時間)。口述試験は二人の委員で40分。ただしケースディスカッションは 三人の委員で一時間半。

「夢の解釈」は30分前に夢が与えられる。

「絵の解釈」は一時間前に7〜8枚の絵が与えられる。

試験委員 一人は自分で選ぶ。一人は委員会が決める。(分析者は委員にな れない。ただしコントローラーはなれる。)評点は二人ないし三人の平均。

 

論文審査

面接試験 試験委員は三人。

受験費用 700Fr.

 

 この表を見て、読者はどう感ずるであろうか。ものすごく厳しい制度であ る。まず試験科目の多くて多彩なこと。この一つ一つについて何冊か原書(日本人の 場合は英語かドイツ語)を読まねばならないのだそうな。そして試験の形式がほとん どすべて口述試問。これは内向型の人には恐怖である。とくに語学の不得意な日本人 にとっては不利であり、そのストレスと緊張が重くのしかかる。そして300時間の分 析。一口に300時間というが、一年に50時間受けるのでさえ、たいへんなことである 。分析家が休みを取ることが多いので、一年に受けられるのは35週ぐらい。毎週二回 づつ勤勉に

受けても、一年に70時問程度にしかならない。毎週二回と簡単に言うが、週 二回の分析を真面目にやったら、そうそう長く続くものではない。それでも300時間 に達するには、単純計算で四年以上かかることになる。短期問で資格を取りたいと思 えば、二人の分析家につくことになるが、そうすると週三回とか四回受けることにな る。これは殺人的である。ただし真面目にやればの話。

 さて、この上に基礎試験を受かると、患者を取って実習をするが、患者を 探すだけでもたいへん。もし幸い患者がついてくれても、毎週五人の患者についての レポートをまとめて報告しなければならない。もちろん英語かドイツ語で。その上に 最後に論文を書く。論文を書くのが不得意な人には難行である。

 そしてそのために必要な費用は、授業料・分析料・受験料しめて六五十万 円から七〇〇万円になる。もちろん生活費は別である。

 

 この内容を聞いて、資格を取るというのはたいへんなとなのだなあ、と思 う人は真面目な人である。たいていの人はそう思うであろう。じつは私もそう思った 。私はとうていこんな厳しい試験に合格することはできないだろう、というのが正直 な感想であった。

 しかしその実体を知るにつれて、私たちが一つの落し穴に陥っていること に気づかされた。落し穴とは、私たちはいつのまにかこの制度が理想的に運用されて いるという前提に立っているということである。ユングを尊敬しているあまりに、な んとはなしにユング研究所とい、ところもすべて立派なのだという錯覚に陥っていた のである。

 それにしては不思議だと私が思ったのは、たいした実力がないと思える人 でも、ちゃんと試験に合格している人もいるし、中には分析家としてはまったく不適 格だと思えるような人でも、入学試験と基礎試験に合格して立派にやっている人がい るかと思うと、それらの人たちよりは少なくとも決して劣っていないのに入学試験に さえ通らない人もいる。当たりさわりのあることを承知で、あえて正直に言えば、日 本に限らずアメリカ人であれ何人であれ、たいした人は来ていないのである。むしろ 、あれで分析家になどなってもらっては困るという人もいる。それでいて、そういう 人もけっこう資格を取っていくのである。見かけは厳しいが、実体は易しいのではな いか、ど

こかに抜け道があるのではないか、というのが私が持った疑いであった。

 実体を調べてみると、私の疑いは正しいことが分かった。どこに問題があ るかを、以下で明らかにしてみよう。

 

2 問題点

 

 まず第一に問題なのは、判定の客観的基準がないということ である。すべては試験官の主観的判断にまかされているのである。しかも筆記試験で はなく、口述試問であるから、反応がすばやく、しかもパターン化している人に有利 である。こう質問されたら、こう答えれぱよいと分かっていても、本当は違うのでは ないかなどと思って、一瞬逮巡して、理解していないと判断されたら、一巻の終わり である。ということは、外向型の人に有利ということになる。うまく相手の意図を察 して、それにうまく合わせて答えられる人は、たいした実力がなくても、受かるチャ ンス(?)がある。

 もちろん口述試問というのは直接に会って話してみるのだから、試験官に 人を見る目があれば、よく判断できる可能性を持っているとも言える。しかし一時間 だけで、どれだけ人間を判断できるものであろうか。よほどの慧眼と豊かな人生経験 を持っていても、相手が意識的に隠そうとしたら、なかなか見抜けないものである。 要するにこの問題は、深層心理に関わることを短時間の試験で判定しようとするとい う事柄自体に無理があるという問題である。

 しかも、一般論として難しいというだけでなく、私の分析家のヤコービィ 氏がつくづく述懐していたように、彼らにとっては「日本人は判断しにくい」という ことがある。言葉ができないから答えられないのか、内容を理解していないのか、な かなか判断できないし、それにもちろんメンタリティーの違いということもある。へ たに西洋的な心の部分を少し持っていたりすると、かえって不利になるということも ある。彼らのアンテナにひっかかって、それでいて程度が低いと評価されてしまうか らである。むしろ「日本的な内気」に撤しているほうが、高く評価されかねない。へ たになまじっかの実力を持っているより、あまり実力はなくても、適当にぼかしてお く方が通るということもありそうである。

 要するに試験官の質、見抜く力というのが決定的であるが、これが年々低 下しているようなのである。教育分析家の若年化がこのところ目立っている。経験の 豊かな大家たちは、そんな面倒な試験官にはなるべくなりたくないので、敬遠する。 しかし若い人にとっては名誉なことなので喜んで引き受ける。というわけで、受験生 の大量化と比例して、選抜委員会selection comitteeのメンバーも大量化し若年化し ている。

 研究所の水準を維持しようと日夜がんばっているし立派な人もいる。しか しいかんせん大衆化と水準低下の波にどこまで抗することができるか問題である。

 その上に老大家と言われる人たちにも問題がないわけではない。私も学問 の世界でいやというほど経験してきたが、老大家になると、急にえこひいきが強くな る人がいるものである。自分の可愛がっている弟子に、露骨なえこひいきをするので ある。権威と信用のある人だけに始末が悪い。こういう傾向もたしかに見られた。人 間が人間を公平に判定するということは難しいものである。選ぶ側、判定する側の水 準低下、これが第二の問題である。

 

 第三の問題は、受ける側から見た抜け道の有無である。たとえば、受験者 によっては、予めどんなことを聞いてくるか、いくつかのパターンを調べておいて、 答えを用意していく人もいる。というより、多かれ少なかれ、皆そういう受験対策を しているのである。そして質問する事柄は、そういろいろなことがあるわけがないか ら、そういう対策はけっこう役に立つのである。

 また、面白いことに、というより驚いたことに、受験生は試験官を選ぶこ とができるのである。受験生が試験官を指定できるなどというのは、史上希有の試験 制度というべきであろう。それでどうして公正な試験が保証できるというのであろう か。思うにこの制度は、よほどの楽観的人間観を持った人々によって作られたのであ ろう。

 試験官になる人は、ということは分析家というものは、すべて立派な人で 、公正無私で、客観的な判断のできる人だという前提に立っているのであろう。もっ とももう一人ないし二人の試験官は研究所が決めるのだから、それでバランスを取ろ うという意図なのであろう。だとすると、それほどに楽観的人間観に立っているわけ でもなさそうである。いずれにしても受験生が試験官を選ぶという制度は、ユニーク と言えばユニークだが、この制度の創立者は馴れ合いが生ずる危険をどうして防ぐつ もりだったのであろうか。

 それから、これはすでに述べたので簡単に指摘するに止めるが、受けなけ れぱならない分析時間がべらぼうに多いので、どうしても中身が薄くなってしまう。 多く受けさせれば、厳しいとは限らないのである。分析というものは、時問が多けれ ば多いほどよいというものでは決してない。まして義務としていくら多く受ても、た いしたプラスにはならないものである。これは、次の費用の問題とも関係してくる。

 ところで、この分析時間のノルマも絶対ではないらしい。ある候補生の話 では、有力な分析家についていると、かならずしも三〇〇時間受けなくても、分析家 が「この人は実力があるから」と言ってくれると、分析時間のノルマを少なくしても らうことができるというのである。こうなると、最高委員会のメンバーである有力な 人についていると有利ということになってしまう。もっともそういう人は分析料は高 い。安い人は一万円、高い人は一万五千円だから、三〇〇時間受けると、一五〇万円 も違うことになる。しかし三〇〇時問を二〇〇時間にまけてもらうと、同じ費用にな ってしまう。(実際そういう扱いを受けた人がいる)

 さて問題の第四は、あまりにコストがかかりすぎることである純粋な費用 だけで約七百万円、その上に外国人はヨーロッパ有数の物価と住宅難(高い家賃)を 誇るチューリッヒでは最低三年を過ごさなければならない。経済的にも時間的にもよ ほどの特権身分の人でないと、分析家の資格は取れないのである。お金に余裕のない 人が取ろうとすると、皿洗いのアルバイトをしながらとか、ベッドもないので、三年 間床にマットレスを敷いて寝ていたとかいう話が語り草になっていたりする。この話 はチューリッヒの日本人だけでなく、むしろスイス人のあいだで有名で、私もチュー リッヒに言ってグッゲンビュールさんに会ったとたんに聞かされたほどである。別の 人はお金がないので、一番安い女性の分析家に受けて、車も持たないで、坂の上の家 に住んで自転車だけで買物をしてがんばり、ついに資格を取ったという人の話も聞か された。

 こうして苦労して資格を取った人は、立志伝中の人という感じで、それだ けで偉い人のように思えてしまう。しかし、よく考えてみると、どこででも寝られて 、刻苦精励がんばることのできる強い人ばかりが分析家になるというのも、どうであ ろうか。そういう人は、ちょっと環境が変わると寝られなくなるような人間──心理 療法を受ける人は皆そういうところを持った人である──のことを本当に理解できる であろうか。

 こういうことを考えていて、私は日頃、日本の音楽家の養成について感じ ている疑問を思い出してしまった。日本ではピアノでもヴァイオリンでも、小さいと きから必死に親がやらせた人が、はやくも技術的に頭角を表わして、コンクールなど で上位を占めてしまう。しかしそういう人が本当に情緒豊かな音楽性を持っていると は限らない。本当に豊かな情感と音楽的才能を持っている人でも、遅く始めた人は、 技術的に下手なので、認められないで、結局専門家になることを諦めてしまう。専門 家になるのは、とてつもなく高いレッスン料を払えて、しかもものすごく頑張ること のできる強い人ばかりということになってしまう。こういう人にかぎってえてして繊 細さとか

情感という点では疑問な人が多いものである。こういう人がまた音楽の先生 になると、ピアノはガンガン大きな音で弾かなくてはだめよ、などという教え方をす るのである。こういうことが、分析家についても起こっては困ると私は思うのである 。

 河合氏の弟子と話していたら、相談所に努めているこの人が「面接時間が 多すぎる」と苦情を言ったら、河合氏から「自分は毎週二〇人と会っている」と言わ れて、もう何も言えなかったと語っていた。河合氏は昔私に「寝る時間がないから、 新幹線の中で寝ていくんだ」と自慢していた。しかし私にはそんな芸当はできないし 、どこでも寝られるということには程遠い上に、何かあるとすぐに寝られなくなる人 間なので、そういう人間の眼から見ると、分析家は強いぱかりが能ではないと思うの である。

 いずれにしても、あまりお金がかかりすぎるというのも、いろいろな弊害 を産み出すもとになる。少なくとも、できるだけ内面的な内容が選択基準になるとい う原則から遠ざかる要因になってしまうであろう。

 以上、要するに、チューリッヒのユング研究所の制度は、量的にものすご くタフな人間を前提に作られており、心身ともに強い人問でないと合格できない仕組 みになっていると言うことができる。

 ただし抜け道があって、一つはカウント主義。訓練生の問では日常用語に なっていたが、この言葉は私にとってはショックであった。つまり形式的に量を稼い でいくと、合格するチャンスがあるという点。

 第二は、経済的に豊かな人の場合には、ゆっくりと時間さえかければ、結 局は資格が取れるという点。研究所としても、また審査員たちも、何年も外国に滞在 して膨大な費用を使った人を落第にはできないということがある。

 

 こういう弊害をなくすためには、分析家の資格は、もっと徹底したエリー ト主義を貫く必要がある。つまり能力主義を基本にして、課せられる分析時間や訓練 を少なくして、そのかわりに徹底して実力による評価を課する。そのためには分析家 の大量生産をやめなけれぱならない。つまりカリスマ的原理をどこまで貫くことがで きるかが課題である。

 

3 カリスマの日常化

 

 チューリッヒのユング研究所はいま「カリスマの日常化」と戦っていると ころである。カリスマとはマックス・ウェーバーの用語で、超人的な能力や人格を意 味している。ユングは一種のカリスマであった。そう言うとユングを神格化している と言われるかもしれないが、決してそうではない。カリスマという言葉は価値中立的 な言葉であって、決して偉いとか立派だとかいうプラスの価値は込められていない。 イエス・キリストでも仏陀でも、レーニンでもヒットラーでもカリスマである。カリ スマとはユング心理学の用語で言えぱ元型に近い。カリスマ的人物とは、元型的な人 生を生きた人と言ってもいいであろう。

 カリスマ的な人物の周りに信奉者や弟子が集まって一つの集団を作り、一 つの価値を掲げて革命をなしとげる。ところがこのカリスマ的指導者が死ぬと、この 団体はウェーバーが「カリスマの日常化」と名づけた過程を辿ることになる。

 ユング心理学はユングが生きているときから、この「カリスマの日常化」 を歩み始めた。すなわちユング研究所を作って、カリスマを制度化し、本来はカリス マ的な営みであるはずの分析を資格化し、ある程度の能力と金と暇があれば誰にでも 取得可能なものにした。

 一種の家元制度である。ヨーロッパだから一種のギルドだと言ってもよい 。ただギルドと違うのは、ギルドが一定の人数以上には成員をふやさなかったのに対 して、ユング研究所は一定の基準に達すれば資格を与えなけれぱならないから、資格 取得者はどんどん増えることになる。しかもその基準があいまいなのである。一方に は膨大な量的基準がある。他方には分析とか臨床の研修という評価しにくい主観的基 準がある。そして後者の基準は分析家の主観にまかされていて、他人はなかなか介入 しにくい。

 だからその主観的基準が甘くなれぱ、あとは量的なノルマをこなすことの できるがんばり屋に有利ということになる。どの分析家が甘いかとか、誰が日本人び いきかということは、すぐに伝わる。日本人は皆その分析家のところに行って楽をす ることになる。一般的に言って、甘い分析家が一人でもいると、皆がそこへ行くので 、どうしても他の分析家もだんだん甘くせざるをえなくなる。下手をすると分析を受 けることが、なにかの趣味のお稽古ごとのようになってくる。これが「カリスマの日 常化」の弊害である。

 チューリッヒのユング研究所がそうなりきってしまったと言うのではない 。何人かの立派な人たちが一生懸命に水準を維持しようと頑張っている。しかし正直 言って、水準の低下、家元制度化の傾向は否めないと思う。それは誰それの努力とは 関係なく進む歴史的な法則である。

 「カリスマの日常化」によって実質的な水準は当然低下する。大衆化する と言ってもよい。その中で日本人の資格取得者の実質的水準が一番低下しやすいので ある。なぜならチューリッヒの分析家たちが口をそろえて「日本人は判断できない」 と言っているからである。ということは、日本人の候補生のばあい、外的な基準を達 成していれば、つまりカウントさえ稼いでいれば、資格を取ることも可能だというこ とを意味しているのである。

 

五 日本における「臨床心理士」の資格制度

 

1 資格審査の客観的仕組み

 

 日本における「臨床心理士」の資格審査には、A審査とB審査 の二種類がある。

 A審査は通常の審査、B審査は過度的な審査である。すなわちA審査とは、まったく新しく臨床心理士になる人を対象にした審査、B審査とは今まで臨床に携わってきた人を対象にする審査である。

 A審査は筆記・口述試験による審査であり、その受験資格は

1 心理学専攻の大学院修士課程終了後、一年以上の心理臨床経験を有する者 。

2 心理学隣接諸科学を専攻する大学院修士課程終了後、二年以上の心理臨床 経験を有する者。

3 医師免許取得者で、取得後二年以上の心理臨床経験を有する者。

4 四年制大学学部で心理学または心理学隣接諸科学を専攻し、卒業後五年以 上の心理臨床経験を有する者。

 

 A審査の筆記・口述試験はぺーパーテストとレポートから成っている。

 ペーパーテストは「臨床心理査定(診断)」「臨床心理面接(療法)」「臨床 心理学的地域援助」「研究・調査法」の四種の内容に関する百題前後の設問に答える もの。

 レポートは心理臨床に関する三種類のテーマの中から一題を任意に選択し て論ずるもの。

 口述試験は、このレポートを話題の中心にして行なわれる。

 

 次にB審査とは、これまでにすでに心理臨床に携わってきた人々を対象にす るもので、これは書類審査のみによってなされる。

 その申請資格は上のA審査のそれに準じており、ただ卒業ないし終了後の臨 床経験の年数が少しずつ違うにすぎない。たとえば大学院修士課程の心理学および心 理学隣接諸科学専攻の者は、終了後一年の経験でよいとされている。大学卒業者は四 年以上、医師免許取得者は二年以上、以下それに準じた基準が示されている。

 B審査の大きな特徴は書類審査のみによる点である。すなわち学歴および履 修単位証明書、職歴・職務内容証明書、研修証明書、スーパーヴィジョン証明書を提 出するだけでよい。まったく形式的な審査である。

 

 次に更新制度について。更新は五年ごとに行なわれる。更新希望者は、五 年の間に一定の基準を満たさなければならない。基準は点数制になっていて、五年の 間に15ポイント以上を獲得しなければならない。点数は次の六群の中から三群以上に わたって得たものでなければならない。すなわち

(1)資格認定協会が主催する研修会への参加、

(2)日本臨床心理士会が主催する全国大会や研修会への参加、

(3)本協会が認める関連学会での諸活動への参加、

(4)本協会が認める臨床心理学に関するワークショップまたは研修会への参加 。

 以上の参加は、口頭発表は4P(ポイント)、講師参加は4P、発表者は4P、受 講者は2Pなどと決められている。

 ただし年六会以上開催の研修会への二年以上の継続参加者は6P。また研究 誌、機関誌への研究論文の発表は原著は10P、小論文は6P。

(5)スーパーヴァイジー経験(開始と終了時に報告書提出)は3P。

(6)本協会が認める臨床心理学関係の著書の出版は12Pとなっている。

(以上は『平成6年度版・臨床心理士関係例規集(財団法人・日本臨床心理士資 格認定協会)』による)

 

2 問題点

 

 臨床心理士資格制度は以上のような試験制度に加えて、『心 理臨床学研究』9-特別号において「臨床心理士の基本技術」なる基準を発表し、また 同じく『心理臨床学研究』11-特別号において「臨床心理士養成のための大学学部.大 学院カリキュラム」を示して、客観的な形式を着々と整えつつある。 しかし大切な 問題は、いかに形式を整えても、それが実質的な内容をどれだけ保証することができ るかである。すなわち、問題は、以上の制度が本当に臨床心理士の実力を公正に選抜 し、かつ高めることができるかにある。

 その点について私は残念ながらいくつかの疑問を提出せ

ざるをえない。

 第一の疑問点は、指導・教育や試験が、どれだけ公正に、かつ高い水準を 維持しつつ行なわれるかという点である。たとえばスーパーヴィジョンにおける評価 にしても、スーパーバイザーが情実や依怙贔屓に流れないという保障は何もない。と くにスーパーバイザーや審査委員が自分で臨床心理の教室や講座を経営している場合 には、そうした危険は増大する。しかしこの制度には、自分の弟子の審査委員にはな らないといった規定は存在していない。もし存在していたとしても、審査委員の中に 友人がいれば、裏で頼むことは可能である。

 日本の臨床心理の世界はかなり日本的であり、情実やコネが顔をきかす可 能性は大きい。

 

 第二の疑問点は、この制度の形式主義である。一定年数の臨床経験を前提 としているが、経験は質と量にかかわるのであって、年数ではない。形式主義は大学 や大学院の心理学専攻をあまりに重視している点にも現われている。他の専門分野と 違って、臨床心理という仕事は人格的な幅と深みを必要とする仕事であり、専門知識 ももちろん大切ではあるが、それ以上に人間的な器量を必要としている。学部や大学 院で心理学を専攻した者でなくても、人間的な幅を持ち、その後心理学を学んだ者も いるはずであるから、心理学科を卒業しているかどうかではなく、理解を客観的に試 験するようにすべきである。もちろん心理学科で学んだ者はそれなりの理解を持って いるとみな

して、ある程度の優遇をすることは認めることができる。しかし心理学およ び心理学隣接諸科学以外を専攻した者には申請資格がないとして機械的に締め出すと いうのは、あまりに大きな差別である。

 

 第三の疑問点は、研修についてである。資格を取得しても、五年ごとに更 新しなければならないが、更新するためにはその間に前記の点数を取らなければなら ない。これは相当に厳しい義務であるが、一旦資格があると認められた者に、どうし てそれだけのハードな義務を課さねばならないのか理解できない。現状の研修制度は 有資格者にとって大きな負担になっており、通常の仕事を圧迫している。またその費 用も決して少ないものではない。

 臨床心理士としての実力は、そう簡単にはなくなるものではないので、こ の厳しい制度は恐らく資格制度への批判をかわすために、これだけ厳しくやっている のだということを示すためのものであろう。そうでなければ、本当に厳正に試験をし て認めた資格者に対して、こうまで厳しい研修義務を課さねばならないのはおかしい のではないか。本当に実力があり、多くの臨床に携わっている者には大きすぎる負担 である。

 この更新制度の点数制の中には、形式主義の弊害がはっきりと見られる。 論文を発表したから何点、研修に参加したから何点というように加算されていく点数 (ポイント)が問題であり、論文の質や、参加して何を得たかについては問われない。 これはあまりにも安易な点数主義であり、形式主義である。

 しかもその点数を稼ぐには相当なエネルギーを必要とする。それはますま す点数だけを稼ぐに汲々として中身がお留守になるという悪循環を生むであろう。出 席して時間数を稼ぐことに一生懸命で、本当に内容を学ぶことがどこまで実質的にな されているか疑問である。またその学んだ成果をテストする制度もない。形式だけ厳 しくて、内実が伴わないというのが、よくある

腐敗への第一歩である。この点についてはすでに会員の中からも疑問の声を よく耳にするようになっている。

 

 第四の疑問点は経過措置についてである。この審査は完全に形式的なもの であり、実力はまったく問われない。すなわちこれまで臨床をしていた人を、何の実 質的審査もなく、形式的な書類審査だけで資格を与えてしまったのである。しかもそ の数は約三千人にも上っている。これは資格制度の自殺行為と言わざるをえない。な ぜなら、そもそもこの制度を作った最大の動機が、実力のない人がいい加減に心理療 法をやっているのは困るから、資格制度を作ろうということだったからである。しか るに、今までやっていた人を一括して資格ありと認めてしまっては、そのいい加減な 人たちをも資格ありと認めたことになり、能力のない人に権威を与えたことになった のである。

これでは当初の目的を最初に否定してしまったことになる。

 さらに、経験年数の計算にしても、公的な機関に勤めていた人は、その所 属長の証明書を提出するが、個人開業の人は自分で自分を証明すればよいとされる。 これでは事実上基準がないに等しい。ただでさえ形式主義の弊害が生じやすいのに、 こういう抜け道が公然と認められているのでは、規定はあってないに等しいと言わね ばならない。しかしそうかといって個人開業の人には証明のしようがないという問題 もある。ということは、このように形式的な審査そのものに問題があるということな のである。実質的な審査をすれば、そうした矛盾は起きなかったはずである。

 

 第五の疑問点は、組織のギルド化という問題である。すなわち構成員の利 益を守ることを主目的にした組織となってしまい、クライエントのためという点がお 留守となっていく危険である。もし上記の形式主義が高じてくると、臨床心理士の実 力を維持・向上する目的よりも、臨床心理士自身の利益養護を目的とする団体となっ てしまうであろう。

 もちろん構成員の生活を保障するといった利益を追求していけないと言う のではない。心理療法士の生活が安定して保障されることは、質のいい心理療法が提 供される一つの基盤であるから、そういう意味での利益擁護団体であることは必要な ことである。しかし利益を挙げることが主目的となり、実力を涵養するための研修が 形式的なものとなると、その団体は一種の家元制度の性格を強めていくことになる。 家元制度化すると、資格審査は形式的なものとなり、金銭やコネによる依怙贔屓や不 公平が罷り通るようになり、そこからいろいろな腐敗が出てくる可能性が生まれるの である。また次に述べるようなヒエラルヒー化とその固定化という弊害も出てくるこ とになる。すなわち、次の第六の点と第七の点は、この家元制度化と密接に関連した 問題点である。

 

 第六の疑問点は、審査委員の選出についてである。

 審査委員の任用は「本協会の運営理事会の推挙により、理事会においてそ の推挙の適否を審議し承認を得なければならない。」(審査委員任用規定、第四条)。

 これはいわゆる自己選抜の原理であり、古来最も腐敗しやすいと言われて いる原理である。つまり馴れ合い、依怙贔屓が生じやすい制度なのである。自分たち の仲間以外の視点や意見、チェックが入ることは不可能である。

 さらに不可解なのは第六条に「本協会の理事及び職員は当該委員任用の事 実及びそれに至る経過についてこれを他人に口外してはならない。」という規定であ る。こういうことをなぜわざわざ条文に入れる必要があるのであろうか。これは秘密 主義・閉鎖主義・権威主義であり、ギルド化・家元制度化をいっそう推し進める要因 となるであろう。

 

 第七の疑問点は、この制度内部における支配者と被支配者への階層分化で ある。つまり資格を与える側と与えられる側、審査する側と審査される側、研修する 側と研修される側とが、完全に階層分化して別のものとして扱われている点である。 支配の側は審査権と資格付与権を完全に握っており、形式的には厳しい基準を課すこ とが、その支配の構造を強化する働きをしている。

 これは中世のヨーロッパ都市における親方制度と同じ支配-被支配の原理に 基づいていることを示している。たとえば研修-更新制度の形式的な厳しさは、被支 配者すなわち一般の臨床心理士の側には多大の時間的・金銭的負担を強い、反対に支 配者すなわち研修を与え審査する側には権威と金銭的な収益とを与えることになる。

 しかし心理療法の世界においては、一定の資格をめぐって、そんなに厳密 な客観的審査というものはありえないのであり、審査する側とされる側との決定的な 区別などというものは存在しない。心理療法というものは療法家と依頼者との人格的 な関係であり、きわめて具体的で個性的な出会いによって成り立つものであるから、 それを客観的な方法で試験するということはありえないのである。客観的に試験する ことのできる知識があったとしても、そんなものは心理療法の実践の中ではほとんど 表面的にしか役立たない。審査する側が十分な実力を持っていない場合もありうるし 、逆に審査される側の人々が審査する人々よりも優れていることもありうるのである 。

 たいていの学問にせよ、職人の技能や競技の技量にしても、プロとアマ、 最高の名人と普通の専門家との間には隔絶した実力の違いが存在する。またそれらの 技量は多く客観的に比較することができ、実際に競技することによって優劣を明確に することのできる場合も多い。しかし心理療法の実力については、なるほど実力の違 いというものは存在するが、それは客観的に比較することが難しく、実際の場で競争 してみることもできない。それよりもむしろ依頼者との性格や性別年令による相性と か、人生経験の特徴による向き不向きなどの要素が大きな要素として介在してくる。 初心者が必死になって体当たりでやった方が、ベテランがやるよりもうまくいくこと さえ見られ

るのである。指導する者と指導される者とを絶対的に区別することはできな いのである。

 しかるにこの制度は資格を与える側と与えられる側との間の境界を制度と して固定化し、被支配階層に不当な負担を課する形になっている。思うにこれは、制 度が出来上がる過程でのさまざまな批判をかわすために取られた形式的な厳しさによ って、一層明確に現われてきた特徴なのであろう。

 

 以上七点にわたって、この制度の問題点を指摘した。これらはいずれをと っても重大かつ根本的な問題であるが、そのすべての問題点を今回の臨床心理士制度 が発足当初から多かれ少なかれ持っているという所に、問題の重大さと深刻さがある と言えよう。

 

 さて、以上のような問題点については、この制度を作った指導者たちも、 ある程度は認識し、かつ予想していたようである。『心理臨床学研究』7-3号の「巻 頭言」において、村山正治氏は次のように述べている。「しかし、よろこんでばかり もいられないだろう。資格制度の先進国アメリカでは、かつて一九四七年アメリカS 理学会会長当時、資格問題検討委員会を組織するように命じたカール・ロジャーズは 一九七二年には逆に資格制度に反対論を打ち出している。その要旨を筆者なりにまと めると次の四点になる。

 (1)資格認定制度は偽物やインチキから市民を守るためのものであるが、現 実には必ずしもそうなっていない。

 (2)資格所得者が臨床上の実力があることを必ずしも保証しない。それは、 試験や資格審査などを経たとしても、臨床家としての実力に厳密な評価をするのがか なり困難であること、スーパービジョンなども、質をチェックするよりも形式的な時 間数などで決めざるを得ないなどの事情もある。

 (3)職業団体として、利益養護団体になりやすい。どの業界でも同じことが 言えるが、クライエントの福祉のためというよりは、自己の職業の利益を守る団体に なりやすい傾向がある。」

 

 このようにロジャーズの反対論を紹介した上で、村山氏は「今後、財団法 人化、国家認定などの方向に進む過程で留意すべき点である。しかし、日本の社会的 状況では、資格制度がないために起こるさまざまなマイナスの方が大きいと思うので 私は賛成した。ロジャーズの指摘は資格制度が完備しているアメリカの社会で起こっ ている問題であり、まったく資格制度のない日本では当てはまらない。とはいえ、こ の指摘はこれから日本で資格制度を発展させていくときに忘れてはならない重要な点 であることは間違いない。」と結論している。

 

 こういう論じ方に私は大きな疑問を感じざるをえない。資格制度が完備し ているアメリカで起こっている問題は、日本においても資格制度が完備していくと起 こり得る、というより確実に起こることが予想される問題である。だから資格制度の ないときには当てはまらない(当たり前だ ! )けれども、資格制度ができたら出てく る問題について、作る当初から、それをいかに、どれだけ防ぐかという発想がなけれ ばならないはずである。しかし日本の資格制度には、そうした発想はほとんど反映し ていないと言わざるをえない。

 日本の場合には、作ることがすべてに優先していて、そのマイナス面につ いての危惧の念、歯止めの必要性の認識があまり見受けられない。それは経過措置と して、事実上臨床に携わっていた人々をいわば既得権者としてそのまま認めてしまっ た点に如実に現われている。これは制度を作るために既得権者の反対を鎮めるための 措置であろうが、しかしそれは確実にギルド化一利益団体化一への傾斜を強める作用 をするであろう。またそれは制度化を急ぐあまり、その審査を放棄したことを意味し ているが、そういう見え透いた欠陥を残してまで、制度化を急がなければならない理 由があったとは思えないのである。

 アメリカの創設者が反対論に転換せざるをえなかったという現実を百も承 知で制度化を急いだということは、本当に良心的に制度化を推し進める場合にはあり えないことであり、最初から利益養護団体の性格を持っていたという疑いを一層濃く している。

 最初の一般論で述べたように、心理療法の世界が野放しに近い状態で、実 質的に資格のない者が臨床に携わったり、法外の費用を要求したりする事実があった 限り、また正当な臨床心理士に一定の生活の保証をし、かつ患者の負担を軽くするた めにも、適正な資格制度が存在することが望ましいことは確かであろう。しかしその ためには厳正にして実質的に高い水準を保持することが第一条件にならなければなら ない。

 しかるにこれまで見てきたように、今回の日本における制度化は、いたず らに制度化を急いだために、一方では形式主義の弊害を最初から背負い込み、他方で は利益擁護団体化の危険を当初から含むことになった。

 これでは制度化そのものが制度化の最初の目的から逸脱した方向に進んで いると言わざるをえないのは、まことに残念なことである。危惧される弊害を承知の 上で、それに対する対処なしに、なぜ制度化のみを急ぐのか、不可解としな言いよう がない。

 これでは、遠からずして、ロジャーズと同じ道を歩むことに、すなわち制 度化そのものを後悔したり、否定的に評価せざるをえないことになりかねないであろ う。根本的な改変は、できた当初の方がやりやすいものである。今からでも遅くはな いので、抜本的な見直しをするように、関係各位の再考を促したい。