C・G・ユング研究

6 元型心理学派の研究

 

(3) ヒルマン氏の反権威主義

 

a ヒルマン氏の心理学的特徴

   ──反権威主義と外向型心性

 

 私はすでに20年ほど前に、次のような指摘をしたことがある。すなわち、ユング心理学には、たいへん革命的なところと、たいへん保守的なところがある。一方では既成のものを壊そうとするところがあるかと思うと、他方では既成のものを守ろうとするところもある。両方の傾向がバランスを取っているところがユング心理学の特徴である、と。(『ユング──人と思想』清水書院、1981年)

 人間の心のあり方の特徴として、一方では、あまりに硬直化してしまったものを壊そうとする傾向がある。この心の傾向は、たとえば、人が中年になって、自分の自我が硬直化していると感じたときに、その殻を破って新しい可能性を求めるという形で現われる。また青年が既成の体制に反発して、それを壊して新しい秩序を建設しようとするときにも現われる。このような傾向は人間の心の働きに普遍的に見られるものである。これは変化を求める心理でもあり、それはユングのタイプ論の見方を適用すれば外向型の心理の特徴であるとも言える。これは下手をすると、否定や破壊(反権威主義)を自己目的にしたり、アナーキズムや頽廃に道を開くことになりかねない。

 他方には、今までのあり方を守ろうとする保守的な心の働きも存在している。既成の秩序の方が、新しいあり方よりもよいと感じ、それを守ろうとする心理である。これは変化を嫌ったり恐がったりし、また変化によって心の傷が生じてしまうような人たちである。この心理は健全なものを守ろうとする傾向を持ち、革命や革新にありがちな乱れや崩れを嫌う。この傾向はタイプ論で言うと、内向型の心理に特徴的である。これは下手をすると心の硬直化を招き、必要な破壊や改革に抵抗することになりかねない。

 人間の心の健康にとっては、破壊と建設、外向と内向のあいだのバランスが必要であり、バランスが崩れて偏ってくると心の健康に問題が生じてくる。つまり上に述べた反権威主義や破壊、また逆に頑迷固陋に陥り、自分も不幸にするが、社会的にも弊害をまき散らすことになりかねない。だから心のバランスは大切だと、ひとまずは結論される。

 ところが、問題はそう簡単ではない。バランスが崩れている方が「心地よい」とか「心がよい状態にある」と感ずる人たちがいるからである。ときには、個人にとってはバランスが崩れている方が心の(表面的な)健康にとっては都合がいいという場合もありうるのである。たとえば、体制に反抗したり、権威にたてついたりしている方が、生き生きとしていて、一見健康だという人もありうるのである。

 しかし、そういう個人が多くなってくると、社会全体のあり方を不健康にするという問題が生じてくる。今の日本は、そういう人間があまりに多くなっているための弊害が目立つようになっている。たとえば、未成熟な子どもにまで大人と同等の人権を認めよという人権派と言われる人たちとか、大人と子どもを絶対的な平等の立場に置いて「子どもを指導するな」「育てるとか教えるという言葉は傲慢だ」「子どもは自分で育つのであり学ぶのだから、それを支援すると言うべきだ」と言って親や教師の権威を否定する人たちが、いわゆる学級崩壊の遠因になっていたりするのである。

 このように反権威主義や否定・破壊の方に偏っている心理は、歴史的に見ると、まず戦後の思想潮流の主流となり、1970年の全共闘運動とともに大衆化し、今の50代を中心に全国民的な広がりを持つに至っている。この反権威主義の流れに乗る形で、元型心理学派が日本ユング派のなかでも主流になっていると言える。

 

分析における崩しの思想の弊害

 元型心理学派の心理的特徴は、いわゆる「分析論論争」の口火を切ったヒルマン氏の「鏡から窓へ」の中に明瞭に表明されている。

 分析論論争については『ユング研究』1号で特集をしたので、ここでは詳しいことを省くが、元型心理学派の心性との関係で一つだけ指摘しておきたいことがある。

 破壊と建設という問題を考えると、分析の中では絶えず「脱構築」と「再構築」がなされている。分析が目指すものは、すでに行き詰まっている(そのことが意識されている場合もあば無意識の場合もある)心の構えを壊し、その代わりに新しい構えを再構築する営みである。再構築された枠組み(価値観、世界観、自我-自己の軸)は、当分のあいだは、個人がそれに基づいて生きていかれるものである。当分とは一年かもしれないし、十年かもしれないし、一生続くかもしれない。

 内向型の人間は、この新しい枠組みを、できるだけ長続きするものにしたいと思う。しかし外向型の人間は、あまりがっちりとしたものにしたくない、仮住まいのようなものにして、ときどきは変えたいと思う。

 特殊な人々は、枠組みそのものを否定し、枠組みとか権威というものがあれば、すべて否定し破壊したいと感ずる。破壊や否定の自己目的化である。しかし自分の構えを壊そうと思うのは各個人の必要が出てきたときのことであり、「破壊」を一般論として他人に押しつけるのは傲慢であると同時に、他人の個性の否定である。

 分析によって今までの自分の構えを破壊しようとするのは、自然な必要が出てきたときであり、他人が無理に働きかけて画一的な目標にするのはおかしいのである。壊すことや相対化することを、理念として主張するのは、非個性的な押しつけであり、一種の支配願望の現われである。

 

ヒルマン氏は裸の王様だ

 「元型的心理学」という名前を考え出し、学派を形成し、自らその学派の理論的指導者として自他共に認めるヒルマン氏は、まさに「崩しの思想」の名人である。

 彼は河合隼雄氏や樋口和彦氏ときわめて親しく、小川捷之氏が亡くなる前までは、小川氏が世話役として一時は毎年のようにスイスへの「ユングツアー」を組んで河合隼雄氏や樋口和彦氏も同行し、スイスでは必ずといっていいほど毎回のようにヒルマン氏の講義を聴くという形を取っていた。ヒルマン氏やグッゲンビュール=クレイグ氏は日本ユング派とは緊密な連携を保ってきた。

 以下、ヒルマン氏の反権威主義的な「崩しの思想」の特徴を明らかにする。

 ヒルマン氏が駆使するキーワード、perspective , re-visioning は、彼の「心的な構え」の特徴を明瞭に示している。perspective とか visionとは「視点」というほどの意味であり、彼は視点を変えることに大きな、と言うより決定的な意味を持たせている。

 彼は日本での講演のさいに、この perspective の意味について、如才なく日本の庭園を褒めながら、次のような例を出している。

 “私は日本である寺の庭園を見学した。そのさい、木の枝振りが、自分の一歩ごとに違って見えた。自分の位置が変わると、風景が違って見える。これは素晴らしい経験であった。”(この論点は、のちに元型心理学派のドイツ語の雑誌『ゴルゴ』に掲載された「鏡から窓へ」という論文の中に詳しく展開されている(『ユング研究』1号所収)。)

 その中で彼はたいしたことを言っているわけではない。彼の論点である「視点が変われば物事が違って見える」ということなど、当たり前のことである。しかしカリスマを持っているとして権威づけられている人の口から出ると、たいへんに意味深長なことのように感じられる。話し方もうまい、アジテーションがうまいのである。言葉の身振りが大袈裟で、はったりがうまい。上記の「鏡から窓へ」に対する批判に、マリオ・ヤコービー氏は「産湯とともに赤子を捨てるヒルマン氏の大袈裟な身振り」という題名をつけたが、的を射た批評だと思う。

 re-visioning という言葉にしても同様であり、ただ vision を変える、すなわち既成の枠組みをとっぱらって、違う角度から見ると、別のことが見えてくるということを言っているにすぎない。伝統的な見方や、決まり切った見方を相対化し、それらから自由になり、vision を組み替えろということを言っているだけである。

 このような人間は、ジャック・デリダの唱えた「脱構築」は得意だけれども、原理的に「構築」や「建設」のできない構えになっている。というのは、「構築」や「建設」をしても、ただちにそれを「脱構築」したり「破壊」「腐蝕」させなければならないからである。彼らは本能的に、あるいは無意識的に、「構築」や「建設」を嫌う心理を持っているのである。

 ヒルマン氏は何かを持っているように(服を着ているように)見せかけているが、じつは内容的には何も持っていない(服を着ていない)。つまり裸の王様である。本人のはったりと、日本のユング派が権威づけているために、見る者が「彼は服を着ている」と思いこまされているだけである。

 ヒルマン氏の大袈裟なはったりが、いかなる心理から出たものかを、次に明らかにしてみよう。

 

b ヒルマン氏は外向型人間の典型である

 

 まずヒルマン氏の物の見方が、ユングが述べている外向型人間の特徴にぴったり当てはまることを見ておこう。その特徴が明瞭に出ているのが、『ユング研究』1号に掲載した彼の「鏡から窓へ」である。

 これは「分析」という営みを、自分を見つめ反省するものとして捉え、それを鏡に喩えてナルシシズムだと批判し、いまや正しい道は「窓から外へ出ていく」ことだと結論している。この趣旨を見ただけで、ユングのタイプ論をよく理解している人ならば、外向型の典型的な心性を見てとることは難しくない。

 彼はこの論文を機に、自らも「分析」という営みをやめてしまった。彼は「分析」をロマン主義的なナルシシズムだとして否定し、代わりに「庭園を散策する」ような営みを対置する。彼のロマン主義批判にも、また庭園賛美にも、外向型人間の構えの典型が見てとれる。

 まずヒルマン氏は「分析のナルシシズム」をロマン主義だとして、ロマン主義の特徴を次の四点に整理する。第一は「愛の対象の理想化」、第二は「ブルジョア社会と内奥の自己との対立」である。この二つの特徴づけは、常識的であり、異論はない。

 ところが、第三の特徴づけは異様である。彼はロマン主義の特徴を「監禁」だと言うのである。彼の言葉をそのまま引用しよう。「面接室は、隠棲のための物理的な場であり、そこで分析における心的監禁が実行される。分析は私的世界の秘密の片隅をほじくりかえし、俗悪な趣味で人格のナルシシズム的な個室を飾りたてているのである。」(『ユング研究』1号、p.49)

 面接室を「監禁」と感ずる感覚は、まさに外向型人間の感じ方である。彼の感じ方を如実に表わす結論的な文章を引用しよう。

 「ロマン主義の面接室とそのエロスの主観主義から抜け出すには、その領域の向こう側へ逃げだし、ナルシシズムとロマン主義が除外していたもの、すなわち対象に、あるがままの理想化されない現実世界に、退屈で都会的な現実世界に向かうことである。自己反省の鏡から、窓を通して世界へと、心理学的な注意を向け直すことによって、対象リビドーは分析というナルシシズム的な密室の外にその対象を捜すことができるようになる。」(同、p.49)

 「自己反省から、窓を通して現実の中へ出ていけ」という主張こそ、外向型人間の典型的な構えであり、主張である。

 窓を通り抜けて、「世界の中へ」入るとどうなるか、それは日本の庭園を散策するという体験が教えてくれた、とヒルマン氏は言う。(同、p.52〜53)

 第一に、庭園には中心がない。「立ち止まって全体を見回すような中心的な場所がないことに気づく。」「中心はない代わりに、体の位置と姿勢に比例して焦点が移っていく。」(これこそまさに唯名論的な発想!)

 第二に「散策するにつれて、それぞれの景色は絶えず異なった見え方をする。」

 固定した視点や、決められた中心を求めるのは内向型の心理であり、それを相対化したり否定したくなるのは外向型の心理である。

 第三に、彼は「の中に」を推奨する。「の中へ」は内向型の心理かと思うと、中は中でも、彼の「中へ」は「外の世界の中へ」であり、「外へ」と同じことなのである。

 第四は、個性の観念もまた変化すると主張する。すなわち庭園の木々は「てっぺんを刈り込まれ、横に育つように促されるからである。」つまり木は一本だけで個性化するのではなく、枝を互いに向けて広げ、個々の個性は「共同体の中でのみ」個性である。

 横に他人とつながることによって、個性は本当の個性になれる。これもまた、きわめて外向的な見方である。ユングの言う「個性化」とは、一方では自己の内面に奥深く入っていき、自己の無意識と深く付き合うという要素を持っているし、また他方では他人と横のつき合いを深めるという要素ももっており、その両者を統合するところに成り立つ。しかしヒルマン氏の主張はそのうちの一方だけを強調し、他方を捨てよと言っているに等しい。

 ヒルマン氏の主要な主張や言葉が、すべて外向的・唯名論的な特徴をおびていることは明瞭である。

 

 

c ヒルマン『元型的心理学』の反権威主義の源泉

 

 私は『ユング心理学の方法』(みすず書房、1987)において、元型心理学派の総帥ヒルマン氏の著書『元型的心理学』に対して、次のように批判した。それはヒルマン氏の無内容な言葉による「脱構築」が、いかなる心理から出たものかを暴露している。この本は絶版になっているので、その部分をここに紹介する。

 

「 元型心理学派の元型理解」

(林道義著『ユング心理学の方法』みすず書房、1987年、p.144〜163、ただし文章を多少加筆・手直ししてある)

 

 ユングの元型についてさまざまな角度から論じてきたが、最後にいわゆる元型心理学派の元型理解について簡単にふれておきたい。私はユングの元型を理解するには、ユング自身の書いたものを十分に読みこんで理解するのが一番よいと思ってきたが、近頃ユングの思想は元型心理学派を学ばないでは――とくにそのノイマン批判を学ばないでは――よく理解できないと言わんばかりの主張をする人が現われので(16)、ここで改めて、いわゆる元型心理学派の元型理解がどの程度のものか、検討してみたいと思うのである。

 「元型的心理学」と言う用語はヒルマン氏が言い出したもので、その趣旨は、ユング心理学を言い表わすのに「分析的心理学」という呼び名では狭すぎる、元型こそユング心理学の中心的なアイディアなのだから、「元型的心理学」という呼び名の方がふさわしい、というものである。これだけなら、至極もっともな主張であって、私もこの学派の存在を知る以前からユング心理学は「元型心理学」と呼んでもよいと思っていたほどである。ただし、元型を重んじているから元型を正しく理解しているかというと、必ずしもそうとは限らないところが皮肉なところである。元型心理学派はいろいろなテーマについて論じており、そのすべてを取り上げることはできないので、本論の性格上、元型に関係した代表的な問題を二、三取り上げて検討してみたい。

もっとも私は元型心理学派のものをそう多く読んでいるわけではない。邦訳されているものを除けば、元型心理学派の雑誌『スプリング』などにのっている論文をあれこれ読んでいただけであり、また最近必要があって、ギーゲリッヒの論文とヒルマンの『元型的心理学』を読んでみただけである。正直いって、それ以上この派のものを読む意欲が起こらないので、この派について全面的に論ずる資格はないのである。しかし、ギーゲリッヒの論文は、この派の方法論的バイブルのように皆が引用しているわりには、あまりに欠陥の多いもので、どうしても批判しておく必要があると思いすでに取り上げた。もう一つ、ヒルマン氏の『元型的心理学』は小冊子ながら、この派の特徴がじつによく浮き彫りにされているので、その内容紹介をかねて、この書を取り上げ、私なりのコメントを加えておくのも、それなりに意味のあることと思う。(これを書いたときには、まだ翻訳が出ていなかったので、ここに引用するのは私による訳である。)

 

1 元型でなくイメージなり――唯名論的傾向

 

元型心理学派を名のる人々が元型をどうとらえているか、何より興味をそそられるところである。その点についてヒルマン氏は次のように述べている。「可想的な元型そのものと現象的な元型的イメージとを鋭く区別したユングと違って、元型的心理学は存在しない元型そのものについて思索することさえ厳しく拒否す。(17)」つまり「元型そのもの」などというものは存在していないので、そのようなものについて考えることさえ誤りだというのである。彼らにとって存在しているのは元型的イメージだけであり、イメージとは何か他のもの(元型そのもの)を表わしているとか、代表しているというものではなくて、それ自体で存在しており、「第一次的な事実」であり、何かへ還元できるようなものではない(18)、というのである。だから語ることができるのは「元型的なイメージ」についてだけだということになり、いたるところにイメージという言葉が頻出してくることになる。魂soulはほとんどイメージと同一視され、「魂を作る」soul-makingとか「イメージを造る」crafting imagesということが職人の仕事に喩えられ(19)、また精神病理学や心理臨床のやり方もイメージを中心に考えられる(「イメージに焦点をあてた療法」(20))。まことに「イメージ主義」と名づけたいほどイメージに関心が集中している。それに対して「元型」そのものについて語ることは、無意味どころか誤りであり、そのような無味乾燥なことについて語れば心がひからびてしまうと言わんばかりに、まったく無視される。他の個所でユングのカント的観念論を批判しているところを見ると、ユングの「元型そのもの」の想定は、カントの「物自体」と同じようにありもしないものについて勝手に概念を作り出したものだという批判がこめられているのであろう。

 しかし「元型そのもの」が存在しない、とどうして言い切ることができるのであろうか。あるいは、もう一歩進めて、存在していないということを、どうしてそう一生懸命になって言いたくなるのであろうか、というふうに問いを立ててみると、彼らの特徴が見えてくるのである。本書でも、また前著『無意識の人間学』でもくわしく論じてきたように、元型と言う概念は決して机上で作り上げた単なる仮説でなく、その概念に見合う内容があるからこそ必要となったのである。それではそれに見合う内容は何かと言えば、それは全人類に共通な心の働きであるというのが私の理解である。それでは、そのような一般的な抽象的な概念の仮説をわざわざ作って、何の役に立つのかという質問に対しては、次のことを指摘しておきたいと思う。

 ユングは人間の心の太古から受けつがれてきた本能的とも言える部分を大切にすべきだと考えていた。これはローレンツが現代文明によって人間の本能的な部分が危機に陥っていると警告しているのと軌を一にしており、ユングも人間の本能行動に対応するイメージとして元型を考えていたのである。つまりユングの元型の仮説は、単なる理論的な机上の仮説ではなく、人間の生き方、存在のあり方に関わる思想の一環として、人間が元型的部分を大切にしなければならないと説くために、必要とされた概念なのである。元型という概念に見合う心の働きを重要視していることと無関係ではないのである。

 もっとも、それだけのことなら、何も元型と言わなくても、元型的イメージと言っても差しつかえないではないかと言われるかもしれない。しかしそれなら、元型でも差しつかえないわけで、なぜ元型と言っていけないのかと逆に問いたくなるのである。こうなると日本人は「まあ、どっちでもいいではないか」ということになりがちであるが、それでも依然として、元型というものを想定したくなる人と、元型的イメージでなければいけないという人とに、どうしても分かれてしまうものであり、なぜそういう違いが出てくるのかという問題は残るのである。

 ここまで述べてくると、明敏な読者は気がつかれたかもしれないが、これはまさしくユングのタイプ論の問題なのである。つまりまず元型そのものという最も抽象的な概念を考え、その次にその中のいろいろな細分化された元型や元型的イメージを考える人と、そうした抽象的な総括的概念に違和感をおぼえて、存在するのはただ具体的な個々のイメージだけだと主張したくなる人とがいるのである。前者が内向型の人、後者が外向型の人である。これはユングの『タイプ論』の第一章の中で実念論と唯名論の対立として見事に描き分けられている。実念論者にとっては神のような「普遍」概念こそが最も生き生きとした実在と感じられ、個々の物など眼中にないのに対して、唯名論者にとっては個々の物や事件やその感受こそが生き生きとした最高の実在価値や生命価値をもっているのである。

 個々のイメージからなる世界こそすばらしいし、それのみが実在するものだと主張する元型心理学派の人々は、この唯名論者と同じ感覚で世界を見ているのである。ただし唯名論者が外界の世界について言っていることを、元型心理学派は内面のイメージ世界について言っているのである。そうだとしたら、元型そのものを認める人々こそ「元型心理学」の名にふさわしいのであり、唯名論的な人々は「イメージ心理学派」とでも名乗るのが、その本質に即した命名の仕方ではないであろうか。元型心理学派の人々がその名を名乗るのが、故意に人を欺こうとしているのでないとすれば、おそらく自分たちの唯名論的な片寄りを自覚化していないで、自らを普遍的な真理の体現者だと思いこんでいる証拠であろう。

 ヒルマン氏は自らの派の姿勢について、こころを実体化しないこと、それは実体ではなくパースペクティブであり、見方であり、いわば方法なのだと強調し、そして誇らしげに「元型心理学には秩序や法則を覆すような調子」があり、「暗い辛辣なスタイル」「器を、それが作られつつあるときでさえ壊そうとする絶えざる努力」があると書いている(19)。「魂」という言葉も、その含蓄を失わないために、定義をしないで自由に使うのだとも言っている。こういうところもまた、唯名論の先駆形態であるキュニコス派やメガラ派についてユングが指摘している特徴とよく似かよっている。その発想は反体制的で、辛辣な、ときには破壊的な、精神批判が横溢しているのである。

 おそらくユングの死後、後継者の中には、元型を何か実体として存在するかのように理解する者がいたのであろう。そういう実念論的な誤りに対しては、「実体は存在しない」という批判は有効であるし、必要であろう。しかし元型という概念さえ必要ないという唯名論的偏向に対しては、ユングが唯名論を批判したのと同じことを言わねばならない。つまり唯名論者は実念論者の言う「普遍」が実在しないと批判したが、しかしそうした概念に見合う心の働きは現実に存在しているのである。唯名論者のようにそういう心の働きまでも存在しないと言ってしまうのは間違いであろう。元型という概念はやはり必要なのである。

 このような偏った元型否定論になってしまうのは、ヒルマン氏が元型について理解するために必須の論文「心の性質についての理論的考察」(拙訳『元型論』所収)から少しも学んでいないからである。その論文でユングは「元型とは心の pattern of behavior だ」と捉え、その働きを本能行動に対応したものと捉えている。そのように捉えるならば、ヒルマン氏のように「元型は存在しない」などとは決して言えないのであるが、ヒルマン氏はこの論文から決して学ばないのである。

 

イメージについての唯名論的な理解

 元型心理学派は「イメージ」を特別に重要視し、つねにイメージから離れないことを要求する。しかしイメージをもたらす心の働きを否定してしまうと、それは唯名論的な誤りに陥ってしまう。たとえば、次のような言い方にははっきりと唯名論的な特徴が表わされている。

 「イメージはなにものをも代表するものではない。」

 「イメージは『想像的』な可視性における魂自身であり、最初の所与であって、イメージは還元不可能なものである。」(訳p.22)

 「イメージとは見られたものではなく、その見られ方である」

 「イメージはイメージしていく観点によって与えられ、イメージしていく行為によってのみ知覚される。」(訳p.22)

 

 このようにイメージのオンパレードだが、しかし奇妙なことにシンボルについては一言も述べられない。ヒルマン氏は恣意的にユングの言葉を拠り所にするが、自分たちに都合の悪いユングの言葉は無視する。シンボルもイメージの一種であり、ユングが最も重んじた関心事である。なぜ元型心理学派はシンボルを無視するのか。その理由は、おそらくイメージはそのまま受け取ることができるのに対して、シンボルは解釈を必要とするからであろう。解釈ほど元型心理学派の嫌うものはない。「そのまま」受け取るという構えとは正反対の心性だからであろう。

 ここまで考えると、元型心理学派とユングその人との決定的な違いが浮き彫りになる。ユングは「イメージをそのまま受け取る」と言っているけれども、完全な「アポケー」ということは不可能だということを知りつくしていた。「個人的誤差」による個性的な解釈が必ずつきまとうことをよく知っていたからである。そのことは、「個人的誤差」を「個人的等式」だの「個人的方程式」だのと誤訳する人々にはとうてい理解することのできない問題領域である。 

 

2 南欧型心性

 

 次にたいへん興味深いと同時に、この学派の心性の特徴をよく表わしているのが、自らを南欧型として位置づけているところである。もちろんユングの心理学を北欧型ないしドイツ型とし、それに対置して自分たちの元型心理学を「南」的と宣言しているのである。

「南」とは国で言えばスペイン、ポルトガル、イタリアあたりであり、ラテン系の民族、宗教改革以前の地中海文化が考えられている。元型心理学はここから始まった。だから「南=下」が彼らにとっては意識の世界であり、「北=上」は無意識の国である。つまり彼らにとって「影の国」は「アーリアン、アポロン、ゲルマン、実証主義、主意主義、合理主義、デカルト、プロテスタント、科学、個人主義、一神教」である(21)。これらは厳しく否定され、拒否される。ユングもまたこの文化圏に属するものであって、これらの傾向を少しでも示すと思われれば、容赦なく批判される。南欧的な心性の強烈な自己主張である。ヒルマン氏をはじめアメリカ人も多いが、もちろん「南」というのは象徴的な言い方であり(21)、彼らは心理的に自らを「南」に位置づけているのである。もっともカリフォルニアの人が多いらしくて、「カリフォルニア学派」(フロイトのウィーン、ユングのチューリッヒに対して)という呼び方もあるらしいが(22)、カリフォルニアは気候的にも地中海に似ており、「南欧」と同一化しやすいのであろう。

 ところで、ヒルマン氏が自らの学派の特徴を「南的」とわざわざ強調していることの意味を理解するためには、南欧と北欧の文化的差異についてある程度知っておく必要があるので、その点についてここで簡単に解説を加えておこうと思う。ただし、ことわるまでもないとは思うが、これはあくまでも一種の理念型であって、この図式に当てはまらない例を挙げようと思えばいくらでも挙げられる性質のものであり、あくまでも基本的な差異を浮きだたせるための大まかな説明にすぎない。

 北欧といってもノルウェーやスウェーデンを思い出されると困るので、ドイツ、オランダ、イギリスを中心としたプロテスタント諸国をイメージしてもらいたいが、北欧のイメージがどうしても暗くて厳格で道徳的で合理的で堅苦しい感じがするのに対して、南欧(ラテン民族)が明るくて開放的で情熱的で犯罪や堕落のにおいがする(というより、もっと正確に言うとそれを隠そうとしない)というように見えるが、それはあながち根拠のないことではないのである。カトリックよりは合理的で道徳的で厳格なプロテスタンティズムが北欧で支配的になったのは、それに適合的な精神的風土があったからであり、それが合理的な経済社会的発達と相互に影響し合って、独特の合理主義を生みだした。だからキリスト教時代になってからも、南がマリア崇拝に寛大であってなお母性的な性質をとどめているのに対して、ピューリタンはマリア崇拝を排除し、父性的な傾向をいっそう強めていく。

 音楽の世界でも歴史的に見ると同様の違いが認められ、それは旋律に対する多声(和音)音楽の違いとして特徴づけられる。もともと西洋の12音音階は厳密なハーモニーの原理をもとにしており、和音を形成する音階が厳密に倍々になっているなど、きわめて合理的な性格をもっている。それに対してメロディー(歌をうたう)をもとにした原理から発達した東洋やオリエントの音楽は5音音階から成ることが多く、旋律の美しさを誇っていて、合理的な理論でとらえられない非合理性をもっている。厳密に合理的な音楽理論は12音音階の西洋音楽にのみ特有のものである。もちろん南欧の音楽も12音音階を今では採用しているが、その性格は北欧にくらべると歌−旋律の要素が強い。北欧における多声(和音)音楽の発達は豊富な木材をもとにした中世における手工業の高度な発達と関係があって、楽器が豊富に多種類作られたことと相互に作用し合ったと考えられる。

 北の人から見ると南の明るい青い空、開放的な雰囲気は憧れの的であり、ニーチェやウェーバーはノイローゼ気味になったり、うつ病になったときなど、ローマやフィレンツェなどのイタリア都市を訪れると心の病いが癒されたし、ウェーバーは精神病ですべての公職を捨ててローマで療養中に「ローマの敷石には歴史が刻みこまれており、その一つ一つを眺めて、その上を歩くと、心が癒されるようだ」という意味のことを述べているくらいである。

 フロイトもウェーバーも、いや多くの北欧の人々がギリシア彫刻などの美術品を収集しているし、私がドイツ留学の折に尋ねると、私より上の世代の人々で、新婚旅行にイタリア、ギリシア、スペインに行ったという人は非常に多かった。今でも夏期休暇を南欧で過ごす人は多い。彼らにとって南欧は憧れの地なのである。北欧的な合理主義が現実の生命を切りきざんで無味乾燥にしてしまったと批判する生の哲学はドイツより起こったのであるが、生の哲学にふさわしい生き生きとした感性や直観は、むしろスペインのオルテガ・イ・ガセーや、フランスのベルグソンの方にふさわしいと感じられるのである。

 しかし方法論とか論理的厳密さや道徳的厳格さでは南は北にはかなわないところがあって、それが経済的政治的な力の差ともあいまって、南の人々の劣等感につながっていることもまた見逃せないところである。イギリスやドイツやフランスにはスペイン、イタリア、ギリシア(それにトルコやアフリカ諸国)からの出稼ぎ人があふれており、いろいろな社会問題を起こしている。

 ヒルマン氏はヨーロッパの合理主義を批判して、それを「自我」「存在論」「実証主義」「実体主義」「科学」「個人主義」「一神教」などの言葉で特徴づけている。つまり西洋合理主義は英雄的自我の産物であり、科学的実証主義の誤りに陥っており、ユングやノイマンの中にさえその名残りが見られ、無意識のうちに「自我」や「自己」の概念を実体化してとらえており、「元型」も実体として存在しているかのように思っている、と批判するのである。これも、もとはといえば、「自我」を不当に重視した結果であり、また無意識の中でも「自己」を一神教的に特別に高い支配的な地位につけたためである、というのである。つまり彼らは英雄的自我と西洋合理主義と一神教とを同一視して、まとめて否定してしまうのである。英雄神話を重視して英雄的自我の確立を人間の個性化の重要な一要素と考えたノイマンなどは言語道断だということになってしまう。

 しかし英雄的自我の意義を認めることは、必ずしも西洋近代の自我のあり方を肯定することではないであろう。ノイマンがギリシアとエジプト神話をモデルにして英雄的自我を評価したのは、むしろ西洋の歪んだ一面的な自我の発達を批判するためであったことは、すでに私が『意識の起源史』の「訳者解説」でくわしく述べたとおりである。どうやら元型心理学派の人々は「自我」というものに一般的に不信感をもっているようで、それよりも「直接に体験される想像の心的現実」の方が大切だと考え、禅の修業やニルヴァーナの道こそが元型心理学が達成したところに近いと主張している(23)。この点は、ユングが禅(一般に東洋哲学)に対して深い理解と共感を示しながらも、意識の立場を捨ててしまうことに対してははっきりと一線を画していたのとは、顕著な違いを見せている。

 元型心理学派は直接体験を重んじ(だからこそ「イメージ」とか「イマジネーション」が重んじられる)、「こころと世界の一致」という外向型に特有の楽観主義を示しているが(24)、これもまた自我一般に対する否定的な姿勢と無関係ではないであろう。彼らは西洋の歪んだ自我を否定せんとして自我そのものに否定的となり、一種の実感信仰に傾いているが、それでは産湯とともに赤子を捨てる危険があると言わざるをえないであろう。無意識と対立して一面的になった自我でなく、無意識に対して開かれている正しい自我の発達とその条件について考えるのがユング心理学の課題である。

 英雄的自我を一神教と同一視するのもおかしな話で、ノイマンは英雄の例を多神教であるギリシアやオリエントの神話から多くとっているのである。しかし、そんなことより、もっと重要な問題がある。元型心理学派が一神教を批判して「多神教的心理学」を主張するのは、「北欧の支配」に反対するという南欧的コンプレックスと密接に結びついた、一種のヒューマニスティックな価値観から出た主張であって、あくまでも意識的な次元での人間のあり方についての理想である。それをそのまま無意識を見るときの方法に当てはめるところに彼らの問題がある。

 すなわち彼らが「多神教」と言うとき、二つの異なった次元の事柄がつねに混同されているのである。ある場合にはそれは物事を見るときには多元論的に見るべきだという方法論――というより人間としてのあり方――に関する当為Sollenを意味しており、他の場合には無意識が多元論的な構造をもっているという存在Seinの性質に関する命題である。

 彼らはこの存在と当為を完全に混同して、無意識の世界(イメージの世界)は多神教的であり、また人格も多人格から成っているのであるから、一神教的な見方をしてはならないと言うのである。もし「多神教的」という用語によって、物事を見るときに多元論的に見るべきだということを意味しているのであれば、「多元論的」と言えばよいのであって、ことさらに「多神教的」という宗教用語を使う必要はないであろう。そして無意識世界全体の構造について言うならば、ユングが認識していたそれは完全に多神教的であって決して一神教的ではなかった。なるほどユングは「アニマ−アニムスの段階は多神教に当たり、自己のそれは一神教に当たる(25)」という言い方をしている。しかしそれはものの喩えであって、その意味するところは、アニマ−アニムスには多くの神々と同じようにありとあらゆる性質のものがあるのに対して、「自己」というのは「最高の」という感情と価値を伴うヌミノーゼを備えた単一の神(ないしはそれに当たるイメージ)でとらえられるものだということである。ユングは無意識界全体の構造が一神教的だなどとは決して言っていないのである。

 

ヒルマン氏の「多神教」理解の間違い

 そもそもヒルマン氏の「多神教」の理解には重大な間違いが見られる。彼は多神教においては神々が完全に対等 parity だと理解しているようであるが、しかし多神教においては、神々は完全に平等ではなく、おのずから上下の段階があり、機能のちがいもある。ギリシア神話ではゼウスは他の神々とは異なる特別な地位と力を持っているし、日本神話でもアマテラスはやはり特別の権威をもち、特別の尊敬を受けている。ところでユングの「自己」もまた他の諸元型とは違う特別に高い地位と評価を受けているが、決して他の神々を否定するユダヤ−キリスト教の唯一神のように他の諸元型を否定してはいない。むしろそれらを肯定し統合するものである。ユングの諸元型の世界は自己元型を頂点とする多神教の世界であって、決して一神教的なものではないのである。

 ヒルマン氏は「自己」だけを特別に高く評価することさえいけないと主張しているようであるが、しかしマンダラとか老賢者のイメージが他のイメージよりも高いとか神聖だと感じられるというのは、われわれがもっている心の真実、「心的現実」であって、そういう感じのものをユングは「自己」と名づけたのであるから、それが他のものより特別に高いものとされるのは当然のことなのである。特別に高いと感じられるものを「自己」と名づけた、だから「自己」は高いのだというのは一種のトートロジーであるが――だから形式論理学から見れば無意味な同義反復であるが――、しかしそれが「心的現実」であるという視点から見れば、「高い」とか「神聖」と感じられるものがあるということは意味のあることなのである。

 ヒルマン氏は西洋的な一神教を批判するに急なあまり、ユングにさえも一神教の名残りがあると見たが、むしろ主神を頂点としたヒエラルキーをもつのが多神教のパンテオンというものであり、したがってユングの諸元型の世界は一神教より多神教に近いのである。ある人にとっては、諸元型はそれぞれの価値づけをもった、その人なりの布置とヒエラルキーを形成しているのであって、完全に対等ということはありえないであろう。ヒルマン氏のイメージにあるらしい「神々の完全な対等 parity 」というのは、語の正確な意味での多神教ではないのである。

 このようにヒルマン氏の「一神教」「多神教」という用語の使い方には相当な混乱が見られるが、そんなことより、もっと大切なことは、無意識に対するときに、一神教か多神教かなどということはどうでもよいということである。どちらであろうが、あるがままを見ていけばよいのであって、はじめから多神教的に見なければいけないとか、一神教的に見てはいけないなどというのはユング心理学の方法とは異なる態度である。この問題に関する元型心理学派のユングやノイマンに対する批判は少々八つ当たり的なところがあり、冷静で客観的なものではなく、「北欧=プロテスタンティズム=一神教」に対するコンプレックスが多分に作用しているように見受けられるのである。

 

 以上、ヒルマン氏の著書を整理しつつ、その特徴を見てきたのであるが、元型心理学派の特徴を一口で言うならば、ユング心理学派の中にある教条主義や実体論的傾向を批判する点については十分に意義を認められるが、それに代わる積極的なものを提示することのできない構えになってしまっているのではないであろうか。彼らはなるほど、何かありそうに見えるスローガンを唱えるのは上手である。「実体ではなくパースペクティブだ」「物そのものではなく見方だ」「イメージ中心のセラピー」「soul-making」「多神教的心理学」等々(27)。しかしたとえば人格は多重であると言っても、ただいろいろあると言っているだけで、その相互関連やその法則性を探ろうとする姿勢はかなり弱いと言わざるをえない。つまり図式的に言えば、流動化させたり根こそぎにすることは得意だが、固定化させ根づかせることは不得意のようである。

 ヒルマン氏は、「神話は根拠づける」といったケレーニイを明らかに意識して「神話は根拠づけるのでなく、開く(28)」と言っているが、このもの言いには、彼らの心性がものの見事に言い表わされている。まさに「根づかせる」のでなく、流動化させる働きをこそ神話の中に読みとっているのである。おそらくセラピーの方法においても、その人の既存の構えを流動化させることを得意とするけれども、流動化それ自体を目的としてしまい、それに次いで来るはずの、新しい構えの再構築に対してはあまり強い関心をもって関わっていくことができないのではないかと危惧されるのである。

 このように見てくると、元型心理学派に対しては、ユングがフロイトに対してなしたのと同じ批判が当てはまることに気づかされるのである。つまりそれは批判の道具としては――腐蝕剤としては――有益であるが、破壊したあとのことに責任をもって関与することができるのかどうかという点で、危惧の念をもたざるをえないのである。そうした傾向をもっている点を承知した上で、その批判精神を学びとることが肝要であろう。

 元型心理学派全体について言えることは、彼らは男性性一辺倒だと理解した西洋文化に反発して、それを体現している(またはその名残りをひきずっている)と彼らには見えるノイマンを批判することで自分たちのアイデンティティを確立するという、心理的作業を行なっているように思われる。だからその批判が誤解であろうが何であろうが、彼らにとっては意味があるということになろう。批判すること自体が目的なのだから、その内容がどうしても粗雑になるという傾向も出てくるのではなかろうか。

 しかしわれわれ日本人は、彼らとは心理的課題がちがうのである。われわれは彼らとは逆に、ありすぎている母性(女性性)に対して父性や男性性を開発するという問題に、これから取り組んでいかなければならないのではなかろうか。その意味では、ノイマンから学ぶべきことは多いのであって、元型心理学派のノイマン批判に無批判に唱和してよいものではあるまい。まして、そのノイマン批判に問題があるとなれば、なおさらである。

 もちろん逆にノイマンの言っていることを、何でもありがたくおしいただけばよいというのではない。それは元型心理学派の言うことを何でもおしいただく態度と同様に間違いであろう。しかし、ノイマン批判が新しい時流だからノイマン批判をしないのは「日本のユング派としては問題がある」といった態度では、われわれ日本人の心理的課題をどう受けとめているのか、疑問に思われてならないのである。

 

(16) 渡辺学「ノイマン批判とポスト・ユンギアンの形成」、JAPAN JUNG CLUB NEWSLETTER,1986・3・15,No.9,pp.11-14.

(17) James Hillman,Archetypal Psychology,a Brief Account,Spring Publications,1981,p.13.

(18)  ibid.,p.6.

(19)  ibid.,pp.26-27.

(20)  ibid.,p.45.

(21)  ibid.,p.31.

(22)  ibid.,p.30.

(23)  ibid.,p.32.

(24)  ibid.,p.26.

(25)  Jung,G.W.,Vol.9-1,pa.427.

(26)  たとえば他にも、「情動」を「一神教」や「自我」と同列に扱ったり(マイナスに評価しているもの同士を結び付ける)(p.48)、西洋的自我が下降を認めないので「抑うつ」をマイナスとしか受けとれないといってその成長神話(進歩主義)を批判しているのは正しいが、それが英雄的自我一般がそうであるとか、キリスト教の救済が「上への再生」だからと言わんばかりのところ(pp.41-42)へ来ると首をかしげざるをえない。ユングもノイマンも英雄的自我の発達をまさに下降(地獄行、夜の航海)と関連づけて理解していたのである。

(27) ヒルマン氏がシンボルという言葉を絶対に使わず、そのかわりにメタファーという言葉を使っていることは大きな問題であり、おそらく「元型そのもの」でなく「元型的イメージ」にのみ関わるべきだという主張と関係があるものと思われる。ユング心理学においてシンボルという言葉のもっている重要な意味について彼らがどう考えているか、聞いてみたいものである。

(28) Hillman,op.cit.,p.20.