C・G・ユング研究

6 元型心理学派の研究

 

(2) グッゲンビュール『結婚の深層』の破壊衝動

 

 次に20年近く前に出版された本だが、元型心理学派の心性をよく示しているものとして、グッゲンビュール=クレイグ氏の『結婚の深層』(樋口・武田訳、創元社、1982年)を取り上げて、その発想の問題点を明らかにしてみよう。

 ただし、初めに公平のために言っておくと、グッゲンビュール氏の本の中では、この本はとくにマイナス面が強く出ていると思う。グッゲンビュール氏は『ユング研究』1号に掲載した「分析論論争」ではヒルマン氏を批判しているように、ヒルマン氏よりはかなり健全だと言うことができる。また同じ創元社から出された『心理療法の光と影』は学ぶところの多い本だったという記憶がある。

 グッゲンビュール氏は物事の影の部分、マイナス面を論ずるのが得意で、たとえば心理療法家にだって支配欲があるというようなことを正面から論ずるのが特徴である。それだけに若者や反権威主義的な心性を持った人たちには人気がある。

 しかし、一つ間違うと、破壊的な作用の方が強くなる危険を蔵している。『結婚の深層』には、健全な結婚を破壊するような危険な要素がかなり強く混じっており、その面はフェミニスト系統の結婚論にも悪い影響を与えている。そういう意味でも、この本のマイナス面をきちんと見定めておく必要すがあると思う。

 

 「幸福」対「個性化」?

 この本の原題は直訳すると「結婚は死んだ ─ 長く生きよ結婚よ」となる。あいかわらずこの派の人たちの言葉は「変わったことを言って人を驚かす」というところがあり、センセーショナルな大向こう受けを狙っている感じである。

 グッゲンビュール氏が言っていることは単純であり、要するに結婚には二種類がある。第一は「幸福を求める結婚」、第二は「救済すなわち個性化を求める結婚」。彼によれば幸福と救済は異なるもの、ほとんど対立するものであり、人間はすべからく「救い」-「個性化」を求めなければならない。

 このように、理想として「個性化」を掲げているので、いかにもユング心理学に忠実な立場かと思うと、じつはそうとも言えないのである。私の理解では、「幸福」と「個性化」を対立させる理解は、ユング心理学の立場ではないと思われる。ともあれ、最大の問題は、グッゲンビュール氏が「個性化」という言葉で、どういうことを意味しているかである。

 グッゲンビュール氏が「個性化」をどういう意味で使っているかと言うと、これがさっぱり分からないのである。彼の言うには、「個性化」とは「内なる神の火花」「との接触を促すもの」であり、「個性化の目標というものは、神(もしくは神々)に接近すること」である(邦訳、p.42)。「個性化の目標は魂の救済」だとも言われている(p.48)。彼の個性化の説明はユング派の公式的な説明を出ていない。

 そして、あいもかわらず「魂」が出てくるが、その「魂」とは何かがさっぱり分からないのが特徴である。

 「結婚」とは、この魂の救済のための過程であり、そうでない「幸福を求める結婚」はもう死んでいる、破産している、「幸せな家族」などというものも崩壊している、と言いたいらしい。「幸福を求める」ことは、ひどく軽蔑されている。

 そればかりか、彼は次のようなラディカルな(破壊的 ─ と言って悪ければ悪魔的な)結婚観を述べる。

 現代は結婚以外の場で救済を求める人々のために、独身生活の可能性を促進するには好機の時代である。そして、このことはまた結婚をもっと価値あるものにする働きをするだろう。独身者たちの社会的地位と物質的保証が改善されなければならないし、結婚外で子供をもうけることが可能となり、人々に受け容れられなければならない。つまりその[個性化としての結婚の]目標は、結婚というものを、男女間の強烈で継続的な関係と対話的な出会いの中に自己の救済を見出し得る特別な資質のある人々だけにとっておくことであろう。(p.63)(下線─林)

 これは20年も前の文章とは思えない、今日的な思想である。独身者の人権の保証、婚外子の承認、シングルマザー(という言葉はまだ当時なかったろうが)の承認、等々。

 そういう絶対的平等思想の陰に、しかし不思議な貴族主義が顔を覗かせている。すなわち「結婚を特別な資質のある人々だけに取っておけ」という主張である。

 

奇妙な選民意識

 たしかにユングは個性化ということは、誰にでもできることではなく、特別の資質のある人にしかできないと考えていたようである。それもまたエリート主義、貴族主義と言えなくはない。しかしそれはある意味では現実を客観的に言ったものだとも言える。誰でもが個性化の道を進むことができるわけではないことは事実である。

 しかし「結婚とは個性化と救済のためのものだ」と決めつけて、したがって結婚とは「特別の資質をもった」人だけのものだと言ってしまうのは、どこかおかしい。

 どこがおかしいかと言うと、「結婚とは個性化のためのもの」「幸福を求める結婚は破綻する」という命題。幸福を求めることが程度の低いことだと言うのは、結婚だけに当てはまることなのか、すべてのことに当てはまる命題なのか。どうも彼の言い方からは、「そもそも幸福を求めるという原理がよくない」と言っているように読みとれる。結婚だけでなく、すべての人間の営みについて、同様のことが言えるとすれば、すべての人間的な営みは「個性化のためのもの」でなければならず、すべての生活が「特別の資質のある人」にしか許されなくなってしまう。普通の人たちは結婚はおろか、生きていること自体ができなくなってしまう。まさか彼もそこまでは極論しないだろう。だから問題を結婚だけに搾って考えてみよう。

 この命題は、ユングの個性化の考え方とはまるで違うものである。ユングは、個性化の道を歩む人も、歩まない人も、同じように肯定していた。ちょうどモーツアルトの『魔笛』において、タミーノとパミーナの「上なる」カップルが「光の国」への参入を許されると同時に、俗物で失敗ばかりしているパパゲーノとパパゲーナの「下なる」カップルも参入を許されるように、個性化を進む人も幸福になるが、進むまい人も幸福になりうるというのが、ユングらしい考え方ではなかろうか。

 結婚を「特別な資質の」人々だけのものだと言い、個性化と関係する結婚だけを求めるという考え方は、ひどく差別的ではなかろうか。

 また「個性化」と「幸福」とを対立させる考え方も不自然だと思われる。ユングの個性化の考え方の中には、グッゲンビュール氏の言う幸福という要素も入ってくるはずだし、少なくとも入ってきて悪い理由はない。幸福な人は個性化ができないわけでもないし、個性化のためには不幸にならなければならないわけでもなく、不幸や苦しみ・悩みのない人が個性化をできないわけでもない。百歩譲って、幸福と救済が対立する概念だとしても、幸福を目標にする結婚だって、あっていいのではなかろうか。

 

子どもを除いた個性化?

 そして最後に最も疑問だと思われるのは、結婚における個性化はできるだけ広い親族と関係する方がいいと言いながら、親族の中に子どもが含まれていないことである。

 すなわち、彼はこう言っている。

 もし、我々が集合的無意識の概念を、C・G・ユングが理解したとおりに、真剣に受け取るならば、我々は、漠然とすべての人々の心と結びついているばかりでなく、特に最も近い親類の魂とも、最も遠い親類の魂とも結びついているのである。それをもう少し具体的に述べれば、我々の最も近い、あるいは最も遠い親類の魂は、我々の無意識の中に存在する。彼等は我々の一部であり、我々は彼等の一部なのである。

 直接の、あるいはもっと広い家族との接触を断ちきることは、何物かを抑圧することに他ならない。その家族の構成員は、つねにまだ我々の魂の中にいるのにもかかわらず、もはや我々の食卓にともに座ることをとおして家族のメンバーとして具体化されることがなくなるのである。(p.151)

 

 この部分にはまったく賛成である。しかしここで言われている「親類」とか「家族」の中に、どうやら「子ども」は含まれていないらしい。

 彼は「離婚」という章の中で、こう言っているからである。

 「我々は子供のために[離婚しないで]一緒にいるべきなのだろうか。

 子供には何の配慮も払うべきではない、というのが私の意見である。(p.168)

 その理由として、彼はこう述べる。

まず第一に、何が子供たちを心理的に傷つけ、何が彼等の助けになるかを正確に知ることは極めて困難である。

 

 これはとんでもない間違いである。当時でも人々は離婚が子どもたちにどれほどひどい苦痛と不幸とを与えていたかを知っていたが、とくに最近までの多くの追跡調査や子どもたち自身の証言・手記・手紙などによって、離婚が子どもに与えるマイナスについては明々白々になっている。グッゲンビュール氏もそのことを知っていないはずはないのに、離婚のマイナス面にことさらに目をつむるのは不自然である。もし本当にグッゲンビュール氏がこのように考えていたとするなら、それは臨床家としての怠慢であり、よほどの無神経か、なにか特別な心理のために無視したいかの、どちらかであろう。

 彼は、苦痛や不幸は子どもたちの個性化にとってマイナスとは限らないと理屈を言うだろうが、子どもたちの心理的な歪みや恨みつらみの深刻さは、人格の正常な発達にとってもまた将来の個性化にとっても、大きなマイナス要因になる可能性がきわめて高いのである。「子供には何の配慮も払うべきではない」というのは、離婚を正当化し、大人の都合を優先させるための詭弁である。

 グッゲンビュール氏は、最後の「あとがきに代えて」において「結婚していなくても子供を持つことは望ましい」という題名のもとに、「結婚によらない子ども」に対する法的処置を変え、社会的評価もよくし、経済的保証も与えるべきだと言っている。それは「子供が多くの人々の個性化にとって全く決定的な意味を持っている」(p.188)からである。「実に多くの個性化の道があって、それぞれが尊重されるべきなのである。」(p.187)「結婚していない親という個性化の道は、それゆえ、奨励される価値があるのである」(p.189)と言っている。

 ここで言われているのは、親の個性化にとって子どもが決定的な意味を持つということであり、それは親の都合を優先させた見方であり、子どもの立場に立った見方ではない。子どもの立場に立てば、結婚していない親の子は片親の子である可能性も高くなり、無条件に「奨励」すべきものとはならないはずである。

 片親の子が健全に育たないのは、ただ制度的に合法と認められないからであり、また世間の偏見のせいだと言わんばかりである。

 もし不完全な家族が、周囲から一般に、全く合法的で、正当なものと理解され、承認されるならば、父や母だけに養育される子供たちは、まちがいなくはるかに健康に成長することができるようになるだろう。(p.190)

 片親の子が健康に成長できないのは、ただ「周囲の理解と合法性の承認」がないせいだと考えられている。そんな馬鹿なことは絶対にない。私の父性と母性の研究が明らかにしたように、子どもの健康な成長のためには、健全な父性と母性の両方が必要であり、片親の子にはどうしても父性か母性のどちらかが欠ける傾向にあることは確かである。少なくとも、両方を適切に与えるには、親の側の優れた資質と良好な心理状態と大変な努力を必要としている。

 

 グッゲンビュール氏の語り口は、たとえば「幸福を目標とする結婚は社会の攻め道具だ」とか「男性性と女性性とは調和しない」だとか、「正常な性は無意味」だとか、一見ショッキングな言葉が並んでいる。こういう物言いは「ラディカル」だといって、若者や反体制的な人々に受ける。

 グッゲンビュール氏は欧米を中心として若者に人気があった。日本では新左翼的な人々に人気があった。その「悪魔的な」性格は、ちょうどユングがフロイトを指して「腐食剤」としては意味があると言ったのと同じ意味で、硬直化し化石化した既成の観念を破壊するには有効である。しかし健全なものを建設するためには役に立たないどころか、それを妨害する役割を果たしてしまうだろう。

 まだ自我を確立していない若者たちがこの思想にとりつかれると、よりよいものを作り出そうとするまえに破壊することにばかりに喜びを見出す歪んだ人格になる恐れがある。元型心理学派の思想は、そういう意味で「危険思想」なのである。

 

結論

 元型心理学派の心理的な構えは、反権威主義である。だからとくに同様の反権威主義的な心理的傾向の強い日本で大流行したのである。しかし元型心理学派はきわめて特殊な偏った心理の産物であり、ユング心理学を大きく歪めるものである。その大袈裟な言葉やはったりにだまされないで、その無内容を正しく見抜いていかなければならない。

 とくにグッゲンビュール氏の結婚論は、彼のどういう個人的心理的動機が関係しているかは知らないが、「幸福な結婚」や「子どもを大切にするという観点」を完全に否定するものであり、きわめて偏ったものと言わざるをえない。これが悪しきフェミニズムに利用されないように願うばかりである。