C・G・ユング研究

6 元型心理学派の研究

 

(1)ヒルマン氏の大マジック

(2)グッゲンビュール=クレイグ『結婚の深層』の破壊衝動

(3)ヒルマン氏の反権威主義

 

 日本において紹介・出版されている、ユング心理学の成果と称されるものの非常に多くは、元型心理学派のもの、あるいはその息のかかったものである。

 そのために、日本では、元型心理学派の理解の仕方や心の構えをユング心理学だと思いこんでいる人が多い。またユング心理学を勉強したいと思う人は、望むと望まないとにかかわらず、元型心理学派の息のかかった本を読んだり、セミナーに参加していることになる。他のものを知らされていないから、目の前にあるものがユング心理学そのものだと思いこまされている。またそのことの異常さにも気がつかない。

 しかし元型心理学派は偏った特殊な心性の産物であり、内容的にも疑問点が多い。それを承知で選び取っているのなら何も言うことはないが、それがユング心理学そのものだと思いこまされている人には、その偏りと危険とを知らせる必要があると思う。

 したがって、以下、元型心理学派の創始者にして代表とも言うべきジェイムズ・ヒルマン氏に主として焦点を当てて、その特徴と問題点とを明らかにしてみたいと思う。

(1)「ヒルマン氏の大マジック」は最近の著書『魂のコード』(鏡リュウジ訳、河出書房新社、1998年) を対象にしており、

(2)はグッゲンビュール=クレイグ氏の『結婚の深層』(樋口・武田訳、創元社、1982年)を対象にしており、

(3)「ヒルマン氏の反権威主義」は主として『元型的心理学』(河合俊雄訳、青土社、1993年) を対象にしている。

 

 

(1) ヒルマン氏の大マジック

  ──『魂のコード』の幻惑

 

 全米No.1ベストセラーというふれこみのジェイムズ・ヒルマン『魂のコード』を読んだ。アメリカでなぜベストセラーになったのか、その秘密を知りたいと思ったからである。

 読み進むにつれて、ヒルマン氏がマジシャンに見えてきた。大きな舞台にマジシャンの派手な衣装をつけてヒルマン氏が立っている。まばゆいばかりに交差する色とりどりの光線、耳を聾する音楽、ビキニの美女が闊歩する、マジシャンが大仰な身振りで合図すると、幕がはがされる、すると檻の中のライオンは跡形もなく消えている。拍手大喝采 !

 彼のマジックを引き立てているのが、多くの特別な人たちの伝記を博引旁証よろしく引用し、過去の多くの思想家を引き合いに出す。その膨大な紙数は、ほとんどが「こけおどし」であり、手品のように次から次へとカードやハンカチを出して見せているようなものである。こうしたものがもてはやされるということは、アメリカ人の心がいかに「自分の独自性」に飢えているかを示している。

 ヒルマン氏は大仕掛けの手品を見せるマジシャンである。つまり、ないものをあるかのように見せかける術を心得ている。ありえないことをできるかのように見せかける術である。

 読者は「ありえない」ことを、「ありうる」と思いこみたい心理を持っている。そこへ、その心理にマッチし、その心理を正当化してくれるマジックが、理論が、現われた。どうして歓迎されないわけがあろうか。

 

 

因果や必然性から解放されたい心理

 

 その心理とはなにか。それは因果や必然性から解放されたい心理である。

 『魂のコード』の帯には

 

人間の魂を「遺伝と環境」という因果の鎖より解き放つラディカルな名著

河合隼雄氏推薦

 

と書いてある。

 ヒルマン氏はこう語る。「人生とは、遺伝と環境の相互作用であると」言うが、「本当にそうであろうか」。そのように考えると、人生は犠牲者の物語になってしまう。

 

わたしたちは遺伝子のコード、先祖からの遺伝、トラウマを与える体験、両親の無意識、偶然の社会的条件などの結果にすぎなくなる。人生はそれらによって決定づけられるものではない。

 

 それとは違う本人独自の決定因があるはずだ。それをヒルマン氏は「どんぐり」と名づけた。「どんぐり」とは、その人の「もともとの形」「内なるイメージ」であり、「召命」、「運命」、「ゲニウス」、「ダイモーン」、「魂」等々とも呼ぶことができる。

 彼によれば、心理学が唱える「両親の力」は幻想である。子どもの性格が母親や父親の影響によって決まるというのは間違いだと言う。彼はこう批判する。

 

 親たることと両親の概念は倫理の改革主義者や心理療法家たちの頭の中でかつてないほど堅固なものとなってきている。「バッド・マザー」や「不在の父親」といったキャッチフレーズによって表現される「家族価値」という陳腐な言葉が「家族療法」の中に入りこんでいる。(p.92)

 

 人間の性格は「バッド・マザー」や「不在の父親」によって決定されるのではない。彼が本来持っている「どんぐり」によって決まるのだ。こう言われると、「バッド・マザー」や「不在の父親」を持っている人間はたしかに救われる気持ちになるだろう。

 

 ユングは子どもの心的障害は両親の心的障害のせいだと言っている。たとえば、

 

 義務教育を終えるまでの子供の神経障害と心的障害は、もっぱら両親の心的領域の障害に負っているのです。両親間の問題は確実に子供の心に反映され、病的障害を起こします。幼児の夢の内容は、その子供自身よりも両親に関係しています。(『ユング研究』9、p.15)

 

 これを読んで、誰もユングが宿命論を唱えたと思う人はいないであろう。ユングは子どもの心が両親によって「決定」されてしまうと言っているわけではない。ユングはわざわざ「義務教育までの子供」と限定している。

 子どもの心が両親によって、かなりの程度まで「決定」されることは、誰も否定しようがないのである。虐待やアルコール依存症などの心の病が世代間で連鎖のように影響していくことは今日ではもはや常識になっている。遺伝や親の心理の影響は否定しようのない事実である。

 だからこそ、心理療法等々の方法によって、その連鎖から自由になることが目指されるのである。

 両親によって「決定」されるからといって、それから解放できないということではない。むしろ解放されるためにこそ、どのような形で「決定」されるかを研究する必要がある。「決定」されること自体を否定してしまっては、それから解放される方法を研究することも否定されかねない。

 この発想は、ちょうど「母性本能」の存在を否定することによって、母性本能が壊れる原因を研究したり、母性本能を修復するための方策を研究することをも否定するフェミニズムに似ている。

 まさに、子どもへの親の影響いかんという問題そのものを否定してしまうのがヒルマン氏である。もちろんヒルマン氏も、理論的に問いつめれば、両親の影響を否定しないであろう。「ただし」と彼は言うだろう、「魂を失った人ほど、両親からの決定の度合いが強まるのだ」と。

 この問題は、理論的に考えられているのではない。むしろ、ある心理の所産なのである。すなわち人間の人生は現実の両親とかその他の環境の所産ではなく、各個人の「かけがえのない」「ゲニウス・ダイモーン・どんぐり」によって決定されるのだというメッセージである。

 その発想は、「他者から決定されるのではなく、自分独自の所与によって決まる」のだと思い込みたい心理によって決定されている。彼のメッセージは、理論的なものとして受け取られるべきではなく、心理的なものとして受けとらるべきである。

 彼の心理は両親や環境の影響を過小評価したいのである。その代わりに子どもの運命を「決定」するものとして「どんぐり」を持ち出す。各人は「どんぐり」を持っているのだから、両親等々の影響など、些末なものだと言いたいのである。この心理は、あとで述べるように、「永遠の少年」心理と密接に関係している。

 

発達論への反発

 

 ヒルマン氏の「どんぐり」理論に飛びつく人びとの心理を見事に表現しているのが「わたしというかけがえのない人間」(p.19)という言葉である。ヒルマン氏に喝采を送る人びとの心理の中には、この「他人とは異なる独自の人間としての私」という感覚が根強く横たわっている。彼らはとにかく「平凡」を嫌う。その人びとには、次のようなヒルマン氏の言葉が心地よく響く。

 

 わたしたちひとりひとりの魂は生まれる前から独自の守護霊(ダイモーン)を与えられている。それがわたしたちがこの世で生きることになるイメージやパターンを選んでいるのである。わたしたちの魂の伴侶、ダイモーンは、そこでわたしたちを導いている。しかし、この世にたどり着く前に、わたしたちは彼岸で起こったことをすべて忘れ、白紙でこの世に生まれ落ちたと思いこむ。しかし、ダイモーンはあなたのイメージのなかに何があるか、そしてそこにはどんなパターンがあるのかを忘れはしない。あなたのダイモーンはあなたの宿命の担い手でもあるのだ。(p.24)

 

 ドングリ・ダイモーン理論は「自分の個別性を生まれながらの権利として認めさせようと試みている」(p.97)。「母親が重要な役割を果たす」という見方は「神話」である(p.98)。なぜなら「母親がどんな性格を持っていても、母には母のダイモーンがあり、彼女の運命はあなたの運命とは別ものなのだ」(p.98)。

 「母親の運命はあなたの運命とは別ものだ」とは、あまりにも当たり前のことを言っているように見える。しかしその裏には、発達論的な見方に対する強烈な否定がひそんでいる。

 発達論は、子どもの心と両親の心の関係を重視する。必然的に子どもに対する両親の影響を重視する。それはユングにもフロイトにも共通する見方である。この「両親によって影響を受ける」「決定される」という見方が気に入らない人々がいる。

 「決定される」という言い方は、なにも百パーセント決定されるということではなく、「強く影響を受ける」という意味にすぎないが、彼らは文字通り「決定」されてしまい、変更不可能だという意味に受けとり反発する。そこから発達理論の応用であるノイマンの『意識の起源史』への拒絶反応が生まれる。元型心理学派のノイマン嫌いは、こうした心理の現われなのである。

 この心理を明確に現わしているのが、次のヒルマン氏の文章である。

 

 「どんぐり」という言葉で、わたしたちの視座の元型的中核を示すことができよう。それは、有機的で、時間に縛られた発達論的見方をひっくりかえし、人生を時間の流れとは逆方向に読むことをねらっている。(p.350)

 

 いったんどんぐりを元型的に想像するなら、あるいは元型的観念として想像するなら、どんぐりは自然の法則や時間のプロセスに制約されなくなる。(p.350)

 

「かけがえのない私」=「個別性」への憧憬 

 

 このような見方を支持しているのが、「私」の「個性」と「かけがえのない一人」であることへの、強い憧憬である。日本人なら、さしずめ「自分らしさ」と言うところだろう。この憧憬をヒルマン氏は次のように表現してみせる。

 

 氏(うじ)にも育ちにも帰せない何かが人生に介在する。わたしたちの感情自体、そして一人一人に運命的な出来事があることがその証拠だ。何億人もの人がいるなかで、生まれたばかりの子供や親戚、一卵性双生児ですら、あるいはそういう人々が同じ環境で同じ影響にさらされても、一人一人が驚くべき個別性を示す。(p.173-174)

 

 彼が言いたいことは、そして彼の読者が聞きたいことは、「自分は自分だ」「私はかけがえのない個別性をもった存在だ」「自分の人生は自分で作る」「自分の魂は自分で作る」「自分らしさを自由に生きたい」というセリフである。

 この心理は「平凡さ」を極度に嫌う。その心理をヒルマン氏は、次のように表現している。

 

 魂なき個人は西洋の文化の文学のなかに現われている。しかし、それですら、イメージを伴う。魂なきものはゴーレムとして、ゾンビとして、ロボットとして、実存的異邦人として想像される。いやしくも存在するということは、あるかたち、スタイルをもつことなのだ。人は魂に形を与えるイメージ、自分の籤のパターンを失うことはありえない。だれにでも、しるしはついている。わたしたち一人一人は、かけがえのない存在だ。魂にとって、平凡さなどという考え方は意味がないのだ。(p.319-320)

 

 どんぐり理論は、わたしたち一人一人が、なにか抜きん出ていると主張する。わたしたちに固有性(イーチネス)があるという事実がそれぞれの人を性格づけるユニークなどんぐりの存在を示している。(p.321)

 

 ここまで「自分らしさ」「かけがえのない私」「個別性」「個性」にこだわるのは、なぜなのか。その強い心理的憧憬はどこから来るのか。

 

「自分らしさ」を求める心理

 

 この心理がアメリカと日本でとくに強いのは、決して偶然ではない。アメリカも日本も、大量消費型資本主義が最も発達している国である。そこでは「新しい流行」を追って、皆が同じものを購買する。彼らは流行に乗り遅れないように、絶えず世の中の動きに気を配り、皆と同じ色とファッションに身を包み、同じ行動をする。この社会の価値観は「すべて新しいものは良いもの」である。新しい流行を求めて人々が次々に浪費をしてくれることが、好況の条件であり、企業が繁栄する基盤である。

 この心理は子どもたちの社会にも影響を与えて、少しでも他人と異なる「ユニークな」特徴を持っている者はいじめの対象になる。他人と異なるということ自体が「悪」なのである。全員が「低い」方に合わせることが要求されるので、「できる子」「いい子」「きちんとした子」はとくに嫌われ、いじめられる。

 大勢に合わせるという生き方に適応できる者はいいが、そういう「砂粒」のあり方に満足できない人々は、自分を「流行に流される砂粒」ではない、主体的で独自な存在だと思いたがる。その心理は現代社会の流行追従ムードに対する補償心理である。日本で「自分らしさ」という言葉が流行り、アメリカで「個別性」を掲げるヒルマン氏がもてはやされるのには、それなりの理由がある。

 「あなたは個別性を持っている」「誰でもどんぐりを持っている」というヒルマン氏のメッセージが熱狂的に迎えられるのには、そういう背景があってのことである。

 

 

ユングの元型論とは対極の心理

 

 この心理は、ユングが元型を発見したときの心理とは対極にある心理である。すなわちユングは西洋の個人主義のまっただ中にあって、個人がばらばらの砂粒に分解している状況から救済してくれるものとして、各個人に共通の心の部分、集合的無意識を発見したことを喜んだのである。

 もちろんユングは心の無意識的・集合的部分をそのままで肯定したのではない。個々人はそこから独自な個人として自立しなければならないけれども、しかしその部分とのつながりを断ちきることの危険も訴えたのである。

 時は変わって、現代の大量消費時代の集合的社会にあっては、むしろ意識的な集合性からの解放こそがわれわれの心の課題になっている。そうした集合性から逃れたいという心理につけこみ、「かけがえのない自分」を安易に売り込むのが、ヒルマン氏のマジックなのである。

 彼は、自分を規定してくる遺伝・両親・社会等々のすべての現実から解放され、「自分だけが持つ」「どんぐり」を拠り所にすべきだという甘い言葉で、何かすばらしい人生が可能になるかのような幻想をふりまく。

 それは辛く苦しい日常の中で、現実と対話し対決する必要をなくしてくれるかのようである。

 

「永遠の少年」心理

 

 もう一つ、「かけがえのない自分」を求める心理が存在している。それはいわゆる「永遠の少年」心理である。

 この心理を最初に見事に分析してみせてくれたのは、フォン・フランツ女史である。彼女の傑作『永遠の少年』は、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の中に、大きな問題をはらんだ心理が描かれていることを明らかにした。

 その問題とはこうである。ある種の人間は、極度に「大人」の世界を「汚い」といって嫌う。彼等は自分だけが「純粋」で、大人の汚れを拒絶しており、だから決して現実の社会に適応できないのだと信じている。彼らは

 

 いつの日か自分が世界を救うであろうという秘かな思いを抱いたり、哲学や宗教や政治、芸術などの分野で、自分が最後の決定的な発見や活動を行なうのだと信じていたりする。これは病的な誇大妄想にまで進行することもある。あるいは、自分の時が「まだ来ていない」という考え方のなかに、すでに誇大妄想の痕跡が顔を出しているといえるかもしれない。このタイプの男性は、なにかに束縛されることをひたすら怖れている。縛りつけられること、時間と空間のなかにすっぽり包まれてしまうこと、ただの一人の人間になりはてることが恐ろしくてしかたがない。(『永遠の少年』松代洋一・椎名恵子訳、紀伊国屋書店、1982年、p.9)

 

 このほかにも、「永遠の少年」心理の特徴としては、「人生に距離をおく」(条件付きで生きていて、いつでもこの世から去るつもり) 、「イカロスのように有頂天と墜落を繰り返す」、「重みや責任を嫌う」 (だから定職につかない) 、「現実逃避」、「冷酷と感傷」などである。

 この心理が、ヒルマン氏の「個別性」「かけがえのない自分」というスローガンにぴったり共鳴するのは、容易に見てとることができる。ヒルマン氏は時間に縛られた発達論的見方をひっくりかえしたいと述べていた。また「平凡さ」に対しても嫌悪を表明していた。それはフォン・フランツ氏が述べる

 

縛りつけられること、時間と空間のなかにすっぽり包まれてしまうこと、ただの一人の人間になりはてることが恐ろしくてしかたがない

 

という「永遠の少年」の特徴とぴったり一致している。ヒルマン氏の「どんぐり」理論が、「ただの人間でありたくない」という「永遠の少年」心理に訴えかけ、それと共鳴し合っていることは明瞭である。

 もちろんヒルマン氏は、自身のメッセージが「永遠の少年」心理を基盤にしていることを十分に意識している。彼はこう語っている。

 

 伝記についてのどんぐり理論は、プエル・エテルヌス、すなわち無時間性と永遠性を自らのうちにはらんでいる。しかしその一方で、不可視の世界とデリケートな関係をもつ永遠の少年の元型から生まれており、かつその言葉を語っているように見える。(p.356)

 

 ここには「永遠の少年」心理のプラス面だけが語られている。では、彼は「永遠の少年」心理のマイナス面、つまり現実逃避については、考えていないのであろうか。

 

 

「グロウ・ダウン」の欺瞞

 

 じつは彼は、そのように批判されることを初めから意識している。彼はフォン・フランツからヒントを得たのであろうが、「永遠の少年」を意味する「プエル」puer という言葉を持ちだして、「プエルとセネックス」(少年と老人)という論文を書いているくらいで、いわばこの問題の専門家と言ってもいい。当然「現実逃避の心理」だと批判を受けることは十分に予想がついていたと見える。『魂のコード』にはわざわざ「グロウイング・ダウン──この世への降誕」という一章をもうけて、現実への適応も大切だというポーズを示している。

 しかしいかにそのようなポーズを取ろうとも、全体の力点が「束縛」や「平凡」への嫌悪と、「個性」「個別性」「自分らしさ」へのこだわりにあることは否定しようもない特徴である。

 ここには「自分だけは特別な価値を持った人間なのだ」と思いたい心理、「自分の人生は決められていない」「自分の人生を自分で作っていかれるのだ」という「永遠の少年」心理が根強く反映している。

 このような心理は、たしかに適度に働くときには、その人の人生を切り開くのにプラスに働くこともある。ある程度の冒険に飛び込むことを可能にしてくれる場合もある。しかしその心理が人生を常にリードするときには、その人はつねに現実から背を向けた、単なる批判者、単なる皮肉な破壊者になりかねない。

 ヒルマン氏は「少年と老人」問題の専門家として、その危険を十分に承知しているはずであるが、この本では、その危険を防ぐどころか、かえって増幅しかねない言説に終始している。

 

「魂」とは何か

 

 結局のところ、題名にある「魂」とは、この高度消費型資本主義の中で、失われた心の中のなにか大切なもの、自分にしかない貴重なもののシンボルなのである。

 「魂」の中には、自分にしかない秘密の暗号 (コード) があるから、それを捜し出し、それを解読し、それによって自分の可能性を最大限に引き出せ、というのがヒルマン氏のメッセージである。それが「魂作り」soul-making という言葉の意味である。じつはごく平凡なことを言っているにすぎないのだが、それを大袈裟な仕掛けと大仰な身振りや言葉で言ってみせただけのものである。

 そのようなことは、つきつめればユングが「個性化」という言葉で言ったことと本質的には同じことなのだ。ユングの「個性化」とは、自分の無意識の中からある可能性を引き出し、それを意識に統合するプロセスである。ただしユングは「個性化」とは誰にでもできることではない、自分の無意識を意識化するという厳しい試練に耐えることのできる選ばれた人にしかできないと、今なら「差別」と批判されかねないことを正直に言った。それに対して、ヒルマン氏はそれが「誰にでもできる」という幻想を振りまくことで、ベストセラーになった。悪平等主義の大衆民主主義の国だからこそ、そのような言い方が受けるのである。

 このように見てくると、ヒルマン氏創設の元型心理学がアメリカと日本でもてはやされる理由も、おのずと明らかになったと思われる。両方の国において、元型心理学派は、一方では最も発達した大量消費型資本主義の中で「流されたくない」人々の「かけがえのない自分」を求める心理、およびそれと親和関係にある「平凡」を嫌う「永遠の少年」心理に依存しており、他方では大衆民主主義が最も発達している中で「誰でも魂作り」ができるという幻想を与えているのである。

 しかし、大量消費型資本主義の罠からも、また大衆民主主義の悪平等の危険からも、そう簡単に逃れられるものではない。自己の遺伝からも、両親という環境からも、また大衆資本主義社会の巨大な束縛からも、簡単に解放されうるという幻想を振りまくことの罪は大きいと言わなければならない。

 ヒルマン氏の『魂のコード』は、結局はただ「かけがえのない自分」「その自分が独自の魂を作っていくことができる」という言葉を繰り返すだけの、内容空疎なアジテーションである。どうやってその「かけがえのない魂」を作っていくのか、まったく分からない。

 なるほどヒルマン氏は、「かけがえのない魂の作り方など決まっていない」と言うだろう。なぜなら「魂」とは

 

まず第一に何らかの実態というよりパースペクティブ、何らかの事物というより事物を見る視点である (『魂の心理学』入江良平訳、青土社、p.21)

 

から、と。

 このように「プロセス」や「パースペクティブ」に価値を置く心理は、外向的なタイプの特徴であると同時に、「永遠の少年」心理の特徴でもある。

 ヒルマン氏の心理は、本質的に「永遠の少年」的であり、そこに開き直ることによって、「永遠の少年」心理のマイナス面から解放されるのではなく、逆にその中に閉じこめられる危険をはらんでいる。これを読んで「魂」教にかぶれた者たちは、ますますナルシシズム的な「永遠の少年」のマイナス面に安住してしまうのではなかろうか。