C・G・ユング研究

5 『ラピス』(日本ユング研究会「通信」) 掲載論集

 

5 ペルソナは元型か

 

はじめに

 

 ペルソナが元型であると言ったら、当研究会に入っている人たちは「えっ」と驚くであろう。少なくとも違和感を感ずるはずである。ところが日本でも世界でも、「ペルソナは元型である」と思っている人が意外に多いのである。とくに日本のユング派の指導者たちが「ペルソナ = 元型」説であると知ったときは驚いた。

 たとえば、「ペルソナが元型である」と考えている人は、

 河合隼雄『ユング心理学入門』(培風館)

 山中康裕『絵本と童話のユング心理学』(ちくま学芸文庫)

 織田尚生『改訂版 深層心理学』(放送大学教育振興会)

 大場登『ユングの「ペルソナ」再考』(新曜社)

 鈴木晶『フロイトからユングへ』(NHKライブラリー)

 C.S.ホール『ユング心理学入門』(清水弘文堂)

 A.スティーヴンズ『ユング』(講談社選書メチエ)

 A.サミュエルズ『ユングとポスト・ユンギアン』(創元社)

 

 なぜそんな誤りが広がったのかを調べていったら、なかなか興味深い、しかし重要な問題が浮かび上がってきた。

 

一 ペルソナは元型ではない

 

 まず念のためペルソナは元型ではないという理由を述べておこう。

 ユングがペルソナを丁寧に定義・説明しているのは二箇所である。一つは『タイプ論』の定義の「こころ」の中、いま一つは『自我と無意識の関係』の中である。

 『タイプ論』の中にはこう書かれている。(拙訳、p.498-499)

 人間は心の中に複数の人格を持っている。それはたいていたとえば家庭生活と職業生活の心的構えとして具体化されている。そのことをことわざでは「街では天使、家では悪魔」と表現している。この場合、「外的客体に対する関係・外的な構え」をペルソナと名づける。

 この外的な構えと同一化しすぎると、「自らの真の性格について」他人や自分を欺くようになる。つまり彼は「仮面をかぶる」が、この「仮面」は一方では自らの意図にそい、他方では環境の要求や意図にそうものである。環境の要求にそうようになるほど、彼は個性的でなくなり、集合的となる。この「仮面」、すなわち「この目的で前面に出される構え」を、「ペルソナ」と名づける。

 

 この『タイプ論』の定義は、かなり否定的に捉えられており、「他人や自分を欺く」という性質が強調されている。ところが『自我と無意識の関係』になると、「一方では自らの意図にそい、他方では環境の要求や意図にそうもの」というところがもっと強調されて、むしろ客観的中立的な定義となっている。

 「非常な苦労の末にようやく実現される、この集合的心の一切片を、私はペルソナと名づけた。ペルソナという言葉は、実際それにふさわしい表現である。というのは、ペルソナがもともと、役者のつける仮面で、役者が演ずる役を表わしているからだ。」

 「ペルソナの内容について言えといわれれば、結局のところ集合的無意識について言ったと同じように、それは普遍的であると言うほかない。」

 われわれはペルソナが個性的だと錯覚しているが、じつは「集合的心を表わす仮面にすぎない。」

 ペルソナとは「ひとりの人が、何ものとして現われるか」ということに関して、個人と社会との間に結ばれた一種の妥協である。

 「その人は名前を得、肩書きを手に入れ、職務を演じ、これこれの人物となる。」(松代・渡辺訳『自我と無意識』第三文明社、p.66-67)

 要するにペルソナとは、その人が演じている役割だということであり、したがってかなり集合的なものだとユングは言っている。

 ここで注目したいのは、ユングが「集合的心」と言っているのは、集合的意識のことなのか、集合的無意識のことなのかという問題である。私の判断では、それはほとんど集合的意識を指している。その証拠は今引用した部分である。すなわち

 「集合的無意識について言ったと同じように、それは普遍的であると言うほかない」

 ということは、この場合に言われている「集合的心」とは集合的無意識ではないと言っているに等しい。とすると、ペルソナとは集合的意識とほぼ重なる概念だということになる。つまりペルソナは大きく分類すると、無意識ではなく、意識の側に入れなければならないのである。

 ただし集合的意識というのは、たいていの場合、無意識性が強いのである。すなわち「無意識的」だと言える。ここいらへんから、ペルソナについての誤解が始まるようである。

 

二 さまざまな誤解

 

 さて、それでは、ペルソナを元型だと誤解している人たちは、どこをどう間違ったためにそういう誤解をしたのであろうか。

 

1 集合的な影響を受けているから

 

 まず第一に、ペルソナを集合的なものと理解して、「だから元型だ」と考える人たちがいる。

 たしかにペルソナは集合的な性質を持っている。官吏とか教員とか警察官といったあるグループに属する人たちは、同じようなペルソナを持っている。共通のペルソナを持っているとも言える。しかし持っているのはあくまでも個人であり、団体が持っているわけではない。だからペルソナはあくまでも個人の意識に属する性質である。

 その個人の意識はもちろん集合的意識の影響を強く受けている。ユングも定義しているように、集合的意識から切り取ったものによって各人がペルソナを形成しているからである。

 したがって「集合的な影響を受けているから元型」という理解は間違いである。

 集合的心から影響を受けて形成されても、形成されたものは「個人の意識」である。

 ペルソナとは個人的意識の領域に属するものである。ただしその「個人の意識」にも、個人的個性的な性格の強い意識と、集合的な性格の強い意識との違いは見られる。

 このように「レベルの違いがある」ということを言い出せば、何にでもレベルの違いはある。

 たとえば、「影」についても「集合的な影」もあれば「個人的な影」もあると言うことができる。

 しかし「ペルソナ」については、「元型的なペルソナもある」と言うのは間違いである。ただし「集合的性格のより強いペルソナ」と「個人的性格のより強いペルソナ」というレベルの違いは存在する。

 同じことは「自我」についても言える。個性的な自我もあれば、集合的性質を強くもった自我もある。

 要するに「集合的性格が強いから元型だ」とは言えないのである。

 

2 無意識だから

 

 ペルソナは無意識だから、という誤解も根強いようである。それはユング自身が、ペルソナと無意識的に同一化する危険について書いているからであろう。

 しかし、それはあくまでも無意的に同一化する「危険」があるということであって、つねに同一化しているわけではない。ペルソナを意識的に持っている人もありうるのである。

 

 次に、 自我は「自我コンプレックス」とも言われるようにコンプレックスであり、つまり無意識の影響を受けていると考えるならば、「自我の一面」であるペルソナが元型であってもおかしくない、と主張する人もいる。

 この場合は「自我コンプレックス」という表現の「コンプレックス」とはいわゆる無意識コンプレックスではなく、「複合体」という意味のほうであることを誤解しているのである。

 

 さらにペルソナを無意識と誤解する背景には、日本語の曖昧性という問題が横たわっている。すなわち日本語の「無意識」という言葉は二重の意味を持っている。

 一つは、無意識心理学特有の言葉としての「無意識」。その中でも意識に近い無意識と深い無意識の違いはあるが、ともかく現在は意識していないない部分であり、改めて意識しようとしても容易には意識できない部分と言える。 

 いま一つは、「意識していない」「普段は忘れている」が、改めて意識しようとすれば容易に意識できる部分。この例として私がよく出すのが「伝統的意識」である。普段は意識していないが、何かあると鮮明に意識される。

 これは正確に表現すれば「無意識的」とか「無意識性を持っている」と言うべき。ユングは「無意識」と「無意識性を持っている」とを厳密に区別していた。

 この区別が曖昧になると、ペルソナも無意識性を持つ(普段はあまり意識していない)から、「無意識の領域に属している」と誤解してしまう。しかしペルソナは無意識性を持つが、あくまでも意識の領域のものである。

 無意識性をもつということなら、自我だって無意識性を持ちうるが、それでも自我を元型だとは誰も言わないであろう。

 

3 パターンだから

 「元型を心の動きのパターンだと考えると、ペルソナは社会に適応する為の仮面だから、どこの社会でもある普遍的な心の振る舞いのパターンであり、だから元型と言うことも可能である」と主張する人もいる。

 ユングも後期になると「元型とは本能行動を導くパターン」「行動のパターン」つまり「型」と捉えるようになるが、それに照らしてみるとペルソナも「典型的な型」だからというものである。

 しかし、元型というのは、「型」「反応パターン」という意味にプラスして、それが「無意識」かつ「生得的」だという特徴がなければならない。 

 ペルソナは生得的ではない。ユングの定義によれば、「集合的な心から」各人が「切り取ったもの」である。

 元型は集合的無意識に属しており、そのパターンである。ペルソナは意識に属しており、そのパターンである。どちらもパターンだが、意識と無意識という決定的な違いがある。

 どちらも集合性もあればパターンでもあるので、似ている。それでつい同じものだと思いたくなってしまうのであろう。しかし意識と無意識をはっきりと区別しないといけない。

 元型とは「普遍的な型」プラス「無意識」「生得的」という特徴がなければならないのである。

 

4 本来の私とは違った存在だから

 もう一つ、大きな誤解は、「ペルソナは、本来の私とは違った存在である」という理解の仕方である。この誤解もかなり広く流布している。

 これはユングが「仮面」という言葉を使ったことと関係していると思われる。「仮面」と言われると、つい「本当の自分を隠すもの」と思ってしまう。しかし「面」と訳せば、「自分を隠す」というよりも、「ある役割を演ずる」ためのもの、という意味が前面に出てくる。ユングは本来こちらの意味でペルソナという概念を考えていたのではなかろうか。

 ユングがよくない場合と言ったのは、仮面が顔にくっついてしまって、それと同一化してしまった場合である。職業人として「面」をつけることは、むしろ必要なことと考えていたと思う。

 ペルソナは、仮面のようになって「本当の自分」とはかけ離れたものになりうるけれども、本当の自分を表わすこともありうる。決してつねに「偽物」だというわけではない。ユングはそのように否定的にばかり捉えていたのではなく、むしろ社会的な適応にとって必要なものとしても捉えていた。

 

5 人格化されるから

 次に、人格化されるものを元型と誤解する人もいるようである。

 たとえば、エレンベルガーの『無意識の発見』下巻、p.343には、人間の心は「意識的自我」と「下位人格」に分かれているとして、「下位人格」の例として「 ペルソナ、影、アニマ・アニムス、老賢者・太母、自己」が挙げられている。

 エレンベルガーの「下位人格」とは、どうやら無意識の中の人格化される内容を指しているようである。つまり彼はペルソナを無意識の中の人格と誤解しているようである。

 この誤解の背景には、無意識のイメージは人格化して現われる、というところから、逆に人格化して現われるものはみな無意識のイメージだという理解になってしまったようである。もちろんこの場合、「逆も真なり」とは言えない。

 

三 誤解の原因

 

 以上、さまざまな誤解のパターンを見てきたが、とにかくペルソナという概念は誤解を招きやすいと言えそうである。それぞれの誤解を正す中で、その原因も見えていると思うが、改めて誤解の原因を探ってみたい。

 さきに掲げた、誤解している人の表を見てみると、英語圏の人、または英語でユングを勉強した人ばかりだという特徴が見えてくる。もしかすると英訳に問題があるのかもしれない。

 調べてみたら、英訳では「ペルソナとは集合的心の一部だ」となっており、邦訳にもそういう訳があり、それによって「ペルソナは集合的だ」と誤解してしまったということが考えられる。

 さらに、「集合的」という表現に引かれて、ペルソナが「集合的無意識」と関係あると誤解してしまったという場合が考えられる。こうして「ペルソナは無意識だ」という誤解にまで到達したのではないであろうか。

 要するに、これらの一連の誤解のもとには、「ペルソナは集合的心の一部だ」という誤解があるとしか考えられないのである。

 

 この点について、もう少し詳しく考察してみよう。

 問題になるのは、『自我と無意識の関係』の第一部第三章である。この表題は

 Die Persona als ein Ausschnitt aus der Kollektivpsyche

となっている。

 Ausschnitt とは「切り取られたもの」または「切片」という意味である。辞書には「抜粋」「切り抜き」「一端」「断片」などという意味が出ている。要するに「もとのものから切り離されたもの」である。つまり、今はもとのものの一部ではない、という意味が込められている言葉である。

 したがってこの表題は

「集合的心から切り取られたものとしてのペルソナ」

または

「集合的心の切片としてのペルソナ」

と訳すのが適切である。

 ところが、英訳では Ausschnitt の部分が segment となっている。 segment というのは、辞書には「区切り」「区分」「部分」とあり、さらに生物の「体節」「環節」という意味もある。要するに今なにかの一部を構成しているという意味の「部分」である。もとのものから「切り離された」という意味はない。依然としてもとのものの一部をなしているという意味の言葉である。

 邦訳はどうかというと、松代洋一、渡辺学共訳は、第三章の表題だけはなぜか「部分」となっているが、本文のほうは「意識的人格は集合的心から、多少の差はあれ恣意的に切り取ったものなのである」「この集合的心の一断片を、私はペルソナと名づけた」と正しく訳している。

 しかし野田訳ではすべて「部分」「一部分」と訳している。これだと、現在でも集合的心の一部だと誤解されるであろう。ペルソナとはあくまでも個人が恣意的に切り取ってきて、自分なりに構成したものである。だから今は個人的であり、かつ意識的なのである。ユングも「非個人的で一般的な人類の根本特性が個人的意識に編入される」と述べているが、これはこの場合ペルソナについて言っているのである。ここからもユングはペルソナを「個人的意識」に属するものと考えていたことが分かる。

 個人的意識に属するものが元型だと理解されるというのは、まるで逆のものと誤解されているということになる。大誤解と言うべきである。

 

 以上のように、「ペルソナは元型だ」という誤解のもとを辿っていくと、どうやら英訳の誤訳に行き着くように思える。野田訳も一役買っているかもしれない。 

 もちろんそれだけが原因だと言うのではない。上で誤解のパターンを整理したように、いろいろなパターンの誤解がある。しかし「意識と無意識の混同」、「集合的意識と個人的意識の混同」が関係した誤解が多かったことを考えると、その混同と密接な関係のある英訳の間違いが、どこかで関係している可能性は高いと思われる。

  Ausschnitt を segment とか「部分」と訳したことの罪は大きいと言わざるをえない。