C・G・ユング研究

10 ユングは読みにくいか

 ──翻訳に関する佐伯禎明氏の見解への反論

 

 拙訳の新版『元型論』[増補改訂版]の一箇所の「誤訳」を発見したドイツ語学者の佐伯禎明氏が、それを題材にして論文を発表した。その論旨には首肯できない点があるので、ここに反論したい。

 

翻訳に必要な能力

 翻訳という仕事は、時間と気力と体力と根気とを極度に消耗する恐ろしい営みである。目も確実に悪くする。

 翻訳に必要な能力をためしに書き出してみると、次のようになる。

 

1 語学力。これは誰にも分かる理屈である。しかし最初にもってきたからといって、これが最も大切だというわけではない。

 

2 理解力。文章を理解する力。人の書いていることを理解する能力。それと国語力とでもいうべき能力、つまり日本語の能力、そして表現力。つまり翻訳とは当然ながら日本語で表現することだから。

 

3 一般的および専門的教養。つまり著者と同程度の教養の裏付けがないと、言っていることが理解できない。ユングの場合には宗教、神話、哲学、おとぎ話、その他さまざまな領域の教養が駆使されているので、前もって勉強していない領域については、翻訳の途中で一から勉強しなければならない場合もある。

 

4 集中力と根気。長期にわたってたいへんな集中力がいる。精神力および持続力が必要になる。間違いをしないように、緻密な注意力も必要である。

 

5 時間と体力の余裕。膨大な時間がかかる。ひとたび分からない単語が出てくると、調べるのに時間がかかる。この単語はキリスト教関係か、インド哲学か、ゲルマン神話か、オペラの登場人物か、という見当を付ける能力も必要になる。見当づけが悪いと、いたずらに時間ばかりとられる。

 体力もいる。「体力」の中には、「脳力」とでも言うものや、「目の力」とでも言うべきものも入る。つまりある程度以上に脳や目がよいことと、疲れないこと、疲れても回復が早いことが必要になる。

 そのためには、毎日の生活を規則正しくし、栄養に気をつけ、健康な体を保たなければならない。一度体調を崩して間をあけると、もとの調子になかなか戻らない。

 

6 良心。自分で分かる程度に理解してから訳すという程度の良心を持っていなければならない。自分でも分からない日本語にして平気だという神経の持ち主は、翻訳者としての良心に欠けている。

 

 これだけの条件が揃っていると自信のある人しか、翻訳という仕事をしてはいけないのである。

 

割に合わない仕事

 しかも、これらの条件がそろっていても、翻訳という仕事はじつに割に合わない仕事なのである。

 これだけの犠牲を払っても、必ず間違いがついてまわる。どんなに気をつけたつもりでも、本が出てから必ずいくつかの間違いが判明する。それもさんざん丁寧に校正をしても見つからなかった間違いが、本が出来上がってきてパラパラとめくっていると、パッと「見える」ものなのである。そういう経験を何度したことか。

 その上、分かりやすい間違いをするほど軽蔑される。ケアレスミスをすると、必ず軽蔑される。つまり誰でも分かるような間違いは「オレでもしない」と思われるので、簡単な誤植の類はとくに軽蔑される。しかし誤植をゼロにすることは不可能である。

 要するに翻訳というのは、割に合わない仕事なのである。だから利口な人は翻訳などはやらない。

 

「こんなすばらしい内容を伝えたい」

 と、これだけの要件を挙げてから言うのも気がひけるが、私がユングを翻訳し始めたのは、自分にこれらの要件が備わっていると思ったからではない。

 言ってみれば「若気の至り」「怖いもの知らず」「暴挙」であったと思う。

 その「暴挙」を、なんと冊数を数えたらユングを9冊、ノイマンを入れると11冊も翻訳してしまったのである。

 1982年から1995年まで、ほぼ毎年一冊のペースであった。ただし『タイプ論』のような大きなものは一冊に二年かかっている。それでも超人的なペースである。

 そんな割に合わない翻訳をどうして11冊もしたのかというと、最初は「こんなすばらしい内容を、少しでも多くの人に伝えたい」という一心であった。『元型論』『タイプ論』『ヨブへの答え』はそういう情熱がなければ、絶対に出来上がらなかっただろう。

 今まで分からなかった内容を理解できたときの感激、それを日本語にできたときの喜び、その喜びを読者と分かち合える喜び、これだけを支えに、私は気がついたら11冊も翻訳してしまっていた。

 

ユングは訳(わけ)の分かることを言っている

 ここで、ちょっと自慢話をさせてもらうと、私が『元型論』(初版、1982年)を訳すまでは、「ユングという人は訳の分からないことを言う人だ」というのが、大方のユング観であった。というのは、ユングの翻訳を読んでも、意味が分からなかったからである。翻訳者が理解できないまま、「直訳」とやらをやっていたからである。また翻訳者も、初めから理解できなくて当たり前と思っているから、それで良心の痛みを感ずることもなかったらしい。また読む方も、「ユングという人は訳の分からないことを言う人だ」と思っていたから、分からなくても当然だと思っており、「分からない方が有り難い」と感じる人たちもいたようである。

 たとえば、私がユングを初めて手がけたのは『元型論』であったが、それが出版される直前にこんな訳書が出た。読んで理解できる人は手を挙げてもらいたい。

 

キリスト教の世俗の貧困の誓いが世間の財貨から心をそらすように、精神の貧困は精神の偽りの富を断念しようと決めて、こんにちプロテスタント「教会」を名のる偉大な過去のみじめな残滓からだけでなく、異国のにおいのすべての誘惑からも遠ざかり、意識のひえびえした光をあててみれば世界の空虚が星までひろがっている場で内省に沈むのである。(秋山さと子訳)

 

 これが「直訳」というものである。訳者が意味も分からずに、ただドイツ語の単語を日本語に置き換えただけのものである。「直訳」がいかに意味不明の文章になるかの見本である。「直訳」と「意訳」については、あとでまた述べる。

 この部分は、私の訳ではこうなっている。(私の訳がよいという意味で持ち出すわけではない。ユングが何を言おうてしているか分かるという意味である。)

 

キリスト教がこの世における貧困を称揚したためにこの世の富が捨てられたように、精神的に貧しい者たちもまた精神的な富を誤りとして捨て去り、今日プロテスタント「教会」と呼ばれている、偉大な過去のけちな遺物から身を引くばかりか、異国風のあらゆる誘惑を絶ち切って、己れのうちに帰ろうとするのであるが、しかし己れのうちに帰ったところで、そこには意識の冷たい光の中にこの世の空虚がどこまでも広がっているばかりである。

 

 この私の訳も、あまり上手な訳とは思えない。しかしこれなら、まがりなりにも、ユングが何を言わんとしているかぐらいは理解できると思う。要するにユングが言いたいことは、プロテスタントがキリスト教を合理化し、無意識の産物である偶像崇拝を否定して、個々人の内面に帰っていったつもりでも、それは単なる意識の立場であり、そこには空虚しかない、という意味である。この部分の前後を含めて読めば、その意味が明らかになる。

 もし私に文学的才能があれば、もっと格調高い美しい文章にできたことであろう。しかしそれをやっていては、一生に一冊くらいしかユングの翻訳を出せなかったかもしれない。

 私はまた『元型論』において、徹底して訳注をつけた。こうしてユングという人は「訳が分からないことを言う」人ではなく、「訳が分かることを言っているのだ」ということが分かるようになったのである。私の『元型論』の翻訳の功績は、「ユングという人は訳が分かることを言う人だ」ということを明らかにしたことである。

 

意訳をすると間違いを発見されやすくなる

 原書の意味がよく分かっている人が意訳をすれば、必ず分かりやすい訳になるはずである。ところが、割に合わないことに、分かりやすくなればなればなるほど、間違いが発見されやすくなるのである。そこだけ「へんだ」と感じられるからであろうか。

 私も、苦心していろいろと調べたりして訳を改訂し、たいへん分かりやすくなったために、かえって間違いを発見された経験がある。旧版では不十分な訳だったために意味が分からず、間違いに気づかれなかったのに、よい訳にしたためにかえって間違いに気づかれたのである。

 すなわち、拙訳の『元型論』(増補改訂版)(1999年5月)の訳の間違いを発見し、それを学術論文として発表した人がいる。

 佐伯禎明「JUNGの読みにくさについての一考察 ─ある翻訳書を例に─」(『創価大学教育学部論集第47号』)(1999年12月)である。

 「ある翻訳書」とは拙訳の『元型論』(増補改訂版)のことである。佐伯氏の論旨は、「代表的なユング研究者であり、自分でも自信満々の訳者でも間違うところを見ると、ユングという人の書いたものはよほど読みにくいものだ」というものである。

 氏は拙訳の「訳者あとがき」を注の冒頭で引用し、この訳書の間違いを取り上げる理由をこう説明している。

 

 取り上げるのは『元型論』[増補改訂版](林道義訳、紀伊国屋書店、1999年5月刊)所収の「集合的無意識の諸元型について」の一部である。訳者の林氏は我が国の代表的なユング研究者の一人であり、実践にも長く携わってこられた。ユングの主要著作の多くを翻訳・紹介されているだけではなく、ユングに関するご自身の著書や論文も多数ある。同書の「訳者あとがき」には「元型論はユング思想の中核であると同時に、ユングの全業績の中で最もユングらしい独創的な理論である。この重要な理論を、私は『元型論』(一九八二年)と『続 元型論』(一九八三年)の二冊に分けて訳出した。このたび同じ紀伊国屋書店から両者を合本して徹底的な改訂をほどこし、さらに元型論として重要な論文を加え、索引も完備し、元型論についての決定版とも言える本書を出すことができるのは、無上の喜びである。この一六年間の研究の成果を新たに盛り込むことができたと同時に、以前は版権の関係上できなかった全集版から訳出できたことによって、この訳がいっそう充実したものになったと思う。」(下線は佐伯氏)

 

 このようにわざわざ下線をつけて強調されると、私がいかにも思い上がった人間であるかのような印象を与えることであろう。

 たしかに用心深い人は、謙虚さを疑われるような、このような高言を吐くことはしない。誰でも「間違いもあると思うから、ご教示をこう」などと書いている。私のような自信満々と見える「あとがき」は希有のものであろう。

 しかしこれだけの自負心と自信がなければ、500ページにものぼる困難な訳業はできないのである。また内容的にも、これだけの大言壮語に値するものであると私は思っている。なにしろ血のにじむような苦労の末に、ここまでの良質な訳を提供しえたのである。一つや二つの誤訳ぐらいをあげつらわれては、たまらない。10個くらいの誤訳がない翻訳などありえない。下手をすれば100個くらいの誤訳をたちどころに指摘できる翻訳もある。とくにユング関係の翻訳の質は低く、1ページに10個くらいの誤訳が見つけられるものはざらである。「ユングの訳しにくさ」を言うのなら、それらの訳を槍玉に挙げるべきであろう。

 

 しかし佐伯氏は、拙訳を俎上に乗せる理由として、この「あとがき」を次のように利用した。

 

 そうであってみれば、同書の訳文をここで検討の対象に選ばせていただいても不当の謗りは免れると思う。

 

 つまり「これだけ自信満々の訳書に間違いがあるということは、ユングを正しく読むことがいかに難しいかを証明している」と言いたいのであろう。

 私に言わせてもらえば、この言い分は方法論的に大きな間違いを犯している。500ページにものぼる訳書の中にたった一箇所間違いがあるからといって、「ユングが読みにくい」ことの証明にはならない。佐伯氏の立論の前提そのものが、そもそも方法論的に間違いであり、「不当の謗り」を免れないのである。

 しかし問題はもっと根が深い。問題は単にそうした形式的な方法論にとどまらないのである。

 

分かりやすくなったからミスを発見できた

 じつは氏が問題にしている箇所は、旧版と基本的に同じである。つまり私が表現上の直ししか加えていない部分である。佐伯氏は当然旧版も読んでいるはずである。私は旧版のときにも同じ間違いをしていたのである。氏はなぜ旧版のとき間違いに気づかなかったのであろうか。

 氏はユングに深い関心を持ち、上智大学で心理学関係の学生や大学院生とともにユングの読書会をし、当時未訳のユングの論文「心の本質についての理論的考察」をドイツ語で読み、訳文まで作っていたそうである(この論文は私が新しく訳し、『元型論』改訂版に収録した)。

 それほどまでにユングに深い関心を持っていた氏であるならば、『元型論』の旧版を読んでいないということは考えられない。ということは、氏も旧版のときは間違いに気がつかなかったということになる。ではなぜ新版が出たときに気がついたのであろうか。

 その理由は、新版ではその前後の箇所が文字通り「目に見えて」分かりやすくなったからであろう。

 その箇所は修道士クラウスの幻視に関する部分である。私は新版で、修道士クラウスが見た幻視を描いたという絵を苦心して手に入れ、カラーの口絵として収録した。また彼が描いた「輪」の絵も入れた。この作業によって、この部分の理解が飛躍的に正確になり、また「目に見える」形で分かりやすくなったのである。

 さらにこの幻視のカラーの絵については、「日本ユング研究会」の通信紙「ラピス」に詳しい解説をほどこし、それを幻視のカラーコピーとともに佐伯氏にも贈呈した。それだけの改訂がなされたことを知って、氏はこの部分を改めて読んでみたのではなかろうか。改訂版の全部を読んで拙訳の改訂ぶりを子細に検討したのではないであろう。もし全部を子細に検討したなら、改訂がどれほど徹底してなされているか、分かったはずである。

 つまり、氏が間違いを見つけることができたのは、拙訳が飛躍的によくなったことに助けられてのことであり、しかも私の好意によってクラウスの幻視について理解が進んだからとも言えるのである。氏が問題にしている箇所の前後は、改訂作業の中で、一番よくなった部分である。

 しかし氏は私の好意を逆手に取って、鬼の首でも取ったように、最良の訳書の中にも間違いを見つけたと自分を誇示しているかのようである。しかし他人の間違いを公表することは、そんなに褒められることなのであろうか。

 ましてそれが「論文」になるとは驚きを通り越して呆れるばかりである。佐伯氏は他人のあら探しをする暇があったら、ユングの本をまるまる一冊訳してみせてほしい。勝負したいなら、一冊の本を訳してみせて、自分の方が優れていることを証明したらいいのである。

 

他人のミスはよく見える

 さて、自分の間違いは、どんなに丁寧に校正したり、見直したりしても見つけられないことがある。ところが、他人の間違いはなぜか見つけやすいものである。

 同じことは、夢についても言える。自分の夢についてはなかなか意味が分からないことがある。しかし他人の夢については意外に意味が「見え」てしまうことがある。

 箱庭療法でクライエントが作った箱庭の意味がなかなか分からない場合にも、他のセラピストが見ると分かるという場合もある。

 面白い現象だが、翻訳については面白いとばかりは言っていられない。間違いを発見した人の中には、「間違いをするとはけしからん」と言って叱る人もいるし、世間に言いふらす人もいるからである。

 

間違いを見つけたときの態度

 間違いを見つけた人で親切な人は、たいていすぐに個人的に知らせてくれる。「えーっ、またやったか!」などと言って、指摘に感謝しつつ次の版のときに直す。間違いに寛大な人もいれば、咎めるような人もいる。自分で苦労したことのある人は当然寛大だが、翻訳をやったことのない人でも、苦労に対して想像力のある人は寛大である。

 間違いを公表する人は、たいてい競争心のある人である。対抗心があり、ひそかに「オレの方ができるぞ」と思っている。しかし現実に訳が出てしまったので、自分は出せない。いやまだ出ていなくても、ボロを出したくないので、自分では出さない。それでいて他人の訳にはケチをつけたがる。

 翻訳の世界は剣術の世界ではないのだから、道場破りをして有名な剣客をやっつければ評価が上がるというものではないと思うが、翻訳を剣術と間違えている人がいるようである。

 ちなみに、佐伯氏はユングの翻訳を出版していない。ユングの翻訳について論文を発表なさるほどに一家言を持っているのなら、一度ご自分でも訳してみせていただきたいものである。もし勝負したいなら、部分的にどちらが優れているかではなく、一冊の本全体でどの程度の翻訳を提供できるかで勝負してほしいものである。

 私は他人の間違いを見つけたときには、すぐにお知らせすることにしている。苦労を知っているので、個々の間違いをもったいぶって公表したりはしない。

 もっとも、私もかつて「ユング翻訳ワーストテン」を発表したことがある。しかし私が悪い訳と言ったのは、1ページに平均10箇所も間違いや不適訳があるというものばかりである。500ページの中に数カ所しか間違いが見つからないという訳とは、質がまったく違う話なのだ。

 

直訳がいいか意訳がいいか

 さらに佐伯氏は翻訳の本質に関する議論にまで進んでいく。すなわち直訳がいいか意訳がいいかという問題である。

 氏は原文の意味がよく分からない場合に、「翻訳者が取る方法は二つある」として、「一つは直訳に近い形でともかく訳すだけにとどめる方法」「もう一つは訳者の責任で解釈にまで踏み込んで明解な訳を提供するやり方である。」「この[後者の]方法は、うまくあたった時はよいが、下手をすると訳者の誤解に読者を道連れにする危険がある。前のやり方なら訳文も趣旨が曖昧なだけに読者に自分で考える自由を残すことができる。」と書いている。

 そうであろうか。「読者に自分で考える自由を残す」と言うと聞こえはいいが、本当に読者は「自分で考える自由」を持っているだろうか。そういう「自由」を持っているのは、ドイツ語の原文を持っていて、ドイツ語がよほど出来る人だけではないであろうか。たとえ直訳と言えども、日本語に直したものである。原文そのものではない。曖昧な文章を原語を参照しないで自分で考えたところで、なにか有意義なものが出てくる可能性は、普通の読者の場合ほとんどないのではないか。

 もしなんらかの有意義な考察ができる人がいるとすれば、それはドイツ語に堪能で、原文を持っている人にほとんど限られるであろう。そういう人にとっては、直訳は必要ない。直訳を読むくらいなら、原文を読んだ方がてっとりばやい。

 原文を読める人にとっては、意訳をしてある方が「なるほどそういう意味に解釈しているのか」とか「そういう解釈は違うのではないか」というので、よい参考になるはずである。意訳の方がよほど理解に資するのではなかろうか。

 

 問題は原文を参照できない人々である。翻訳を必要としている人の大部分はドイツ語のできない人たちである。この人たちのためになる訳は、できるだけ意味が通じて、できれば流ちょうな日本語になっていることであろう。

 氏は「こうして見てくるとユングの文章(ことに翻訳)はやはりだいぶ注意して読む必要がありそうだ」と結論している。そんなことは当然のことである。翻訳を全部信用できると思っている人がいたら、あまりにおめでたい人であろう。

 ユングの文章に限らず、およそ翻訳はすべからく「だいぶ注意して」読まなければならないことなど、あまりにも当たり前のことである。こんな平凡な結論を引き出すために、他人の翻訳のあら探しをして論文として公表する必要があったのか、私は今でも疑問に感ぜずにはいられない。

 

「直訳」というものはありえない ──翻訳とは解釈である 

 「意訳がいいか、直訳がいいか」という問題について、私の考えを述べておこう。

 私のように、翻訳する動機が「こんなすばらしい内容を伝えたい」であるとなると、意訳するしかない。直訳では、絶対に内容のよさも、著者の情熱も伝わらないのである。

 第一、直訳と言うけれども、純粋に「直訳」というものはありえないのである。なぜなら、翻訳とは解釈だからである。すなわち、訳すということは理解するということであり、理解するためには必ず解釈が入るのである。

 たとえば、一つのドイツ語の単語に当てはまる日本語はいくつもある。「いくつも」と言っても、まったく意味が違う単語が「いくつも」ある。そのうちのどれを選ぶかだけでも、訳者の理解と解釈が入る。ドイツ語を日本語に訳すときに、純粋な「直訳」というものはありえないのである。

 これがドイツ語を英語に直す場合には、直訳ということも可能である。ためしに独−英辞典とか英−独辞典を引いてみると分かるが、一つのドイツ語単語に一つの英単語が対応している場合が多い。だからドイツ語を英語に直すときには、極端な場合には、訳者が意味が分かっていなくて機械的に英語に置き換えても、読む人に意味が分かるということさえありうるのである。しかし日本語ではそういうことは絶対に起こらない。訳者が分かっていないで「直訳」をしたら、絶対に意味が分からなくなってしまう。

 「直訳」をしておけばボロが出ないし、そもそも「間違い」などということはまず起こらない。自信のない人や気の小さい人は「良心的」という名のもとに、「直訳」に逃げる。しかしそれは「理解」や「解釈」から逃げているにすぎない。「解釈」のない翻訳などというものはありえないのである。

 解釈をするしないで、訳がいかに違ってくるかという例を示してみよう。原文はエネルギー保存法則について述べている。もちろんユングの文章である。(以下の「直訳」は次の11で問題になっている『心的エネルギー論』の、岸・小出訳である。)

 …… dass eine Energie den Veraenderungen der Erscheinungen zugrunde liege, in eben diesen Veraenderungen sich konstant erhalte und schlieslich entropisch einen Zustand allgemeinen Gleichgewichts herbeifuele.

 この in eben diesen Veraenderungen sich konstant erhalte の箇所をどう訳すか考えてみよう。直訳する人は、こう訳した。「エネルギーが現象の変化の根底にあり、まさにこの変化においてエネルギーは恒常的に保存され……」

 この訳だと「この変化」の「この」が何を指すか、一旦前に戻って「現象の変化」を受けていることを確認しなければならない。流れるように読んでいくのが妨げられる。私ならこう訳す。「現象の変化の根底には、あるエネルギー[量]があり、現象がどんなに変化してもそのエネルギーは一定に保たれ……」。

 「この」をそのまま「直訳」するか、何をさしているか「解釈」して訳すかで、こんなに違いが出るのである。また「恒常的に保存され」という生硬な日本語よりも「一定に保たれ」の方が分かりやすいことは、誰の目にも明らかであろう。ともあれ、佐伯氏が一冊翻訳を出すとしたら「直訳」をするのだろうが、原文を読める人にしか役立たない訳を出して、読者に何を提供するというのだろうか。

 それでもまだ直訳がいいと言う人には、次のような「言葉の距離」という問題を考えてもらいたい。

 

言語の距離という問題

 言語学に「言葉の距離」という概念がある。その場合に、言語同士のへだたりを時間で表わす。たとえば、京都弁と沖縄弁との距離は三百年、ドイツ語と英語の距離も同じくらいだそうである。このくらいの距離だと、文法もあまり違わないし、単語もなまりの違い程度で、ちょっと慣れると聞き分けることができる。

 私がドイツに初めて行ったときに、ドイツ人から「グッドモーニング」と言われて、どうしてドイツ人が英語を使うのかとびっくりしたが、むこうは「グーテンモルゲン」と言っているのに、「グッドモーニング」に聞こえたのである。それほどに英語とドイツ語は近いのである。

 それに対してヨーロッパ語と日本語との距離は千二百年。まるでシステムが違うのである。共通点が少ないので、互いに習うのに苦労する。

 それほどに離れているヨーロッパ語を日本語に直すという作業には、直訳ということはありえないということである。翻訳とは解釈であり、解説である。訳者の理解力が出るものであり、理解力が試されるものである。その意味で翻訳とは意訳以外にはありえない。

 たしかに意訳には危険が伴う。意味を取り違えたら、読者を間違いの道連れにしてしまう。「だから意訳はいけない」と言う人もいる。「直訳をしておけば、意味の分からないところを直接原書に当たるだろうから、間違いの道連れにさせることがない」と言う人もいる。しかし私はそういう言い方は責任逃れだと思う。

 翻訳というものは原書を読めない人のためにするものである。原書に当たらなければ意味が分からないような翻訳は翻訳ではないと思う。言うならば、直訳というのは翻訳とは言えない。翻訳というものはすべからく意訳でなければならないと思うのである。

 ただし意訳をすると、とんでもない間違いを犯す危険がある。その危険の中で、必死に間違いをなくそうとして努力する。それが翻訳というものだと私は思う。たとえば、300頁の本の中で、ほとんどの部分の意味が分かりにくい直訳よりも、一箇所か二箇所間違いがあっても、他の大部分の意味がよく分かる意訳の方がよい訳だと私は思う。

 

道楽でなければやれない

 しょせん、翻訳などということは、道楽みたいなものである。道楽のつもりでなければできない。よほど暇があって、体力もあって、語学力もあって、しかもよほど原書に惚れていないと、手を出す勇気は出ないものである。

 それと、ちょっぴり蛮勇もないといけない。間違えたら恥ずかしいなどと、あまりに考えすぎる気の小さい人は、手を出せない。もっとも、蛮勇だけあって、能力と良心のない人が訳すと、読者に本代と時間を無駄に使わせることになる。難しいものである。

 私は今のところ、幸か不幸かあまりに忙しくて、この数年翻訳という道楽から遠ざかっている。いつの日か、またユングの翻訳をするようになるかどうかは、分からない。世間から引退したあと、翻訳をするエネルギーと時間が残っているものであろうか。