「治安の悪化」は神話か ──犯罪統計の読み方についての方法論的考察(1)

          (平成18年5月日初出)

 

治安悪化、過小評価の危険

 また子供が誘拐殺害された。平成18年5月に秋田県藤里町の小学1年生の男子が、自宅に帰りつく寸前にさらわれたらしい。その前にも一軒おいて隣の小学4年生の女子がきわめて似た状況で不審な死に方をしている。

 こういう事件が頻発するのに対して、なお「日本の治安は悪くなっていない」と主張するのだろうか。

 日本の左翼とクリスチャンの連合体は、「厳罰化」と「取り締まり強化」に反対している。とくに通信傍受法や監視カメラ、また今回は共謀罪にも反対している。その立場からすると、日本の治安が悪くなっているということを、なんとしても認めたくないのである。そこで、いろいろな詭弁を使って、日本の治安が悪くなっていないと主張している。

 そうしたインチキ論法が、こともあろうに『産經新聞』に掲載されたのには驚かされた。平成18年5月9日付の「正論」欄に載った作田明氏(犯罪心理学者・聖学院大学客員教授)の「風説にすぎない日本の治安悪化 なぜこの国は悲観論を好むのか」である。

 作田氏は、「日本の治安が悪化している」というのは「風説」「神話」「物語」にすぎず、それは一方ではマスコミが過大に騒いだ結果であり、また「わが国の社会の状況をできるだけ悪く、悲観的に描きたいという、日本人の強い願望」「被害者的、自虐的感情」のせいだと書いていた。さらに作田氏は「犯罪が誇大に報道され取り上げられる」ために「厳罰化の議論が活発となり、取り締まりが強化されることもしばしば生じやすい」と、厳罰化や取り締まりの強化が悪いことであるかのように論じている。

 その場合、作田氏が根拠としているのは、刑法犯の認知件数が2003年以降、刑法犯少年の検挙人員が2004年以降、それぞれ減少傾向にあるという「事実」である。しかし、これだけの根拠で「治安が悪化しているか否か」を論ずるのは、方法論的にあまりに杜撰である。そういう表面的な数字の上の「事実」だけで論じていい問題ではないからである。

 問題点は二つある。第一は2年や3年の数字上の推移では何も言えないということである。作田氏は「2003年以降」とか「2004年以降」と書いているが、統計が出ているとしても、2005年までである。2、3年の上下動はどんな統計にも見られる現象であり、問題は長期的推移である。(長期的推移については「犯罪・治安」の中で別に論じる)。

 第二の問題点、刑法犯の認知件数や検挙数という量的な資料だけで「治安の悪化」を論じていいのかという問題はさらに重要である。「治安」というのは、事件が何件起きたかという量的なこと以上に、事件の質が大きな問題となるからである。

 そもそも「治安」とは何であろうか。国民が犯罪に遭う確率、被害に遭う確率、危険度と言い換えてみよう。それに、「危険の実感指数」とでも言うべきものを付け加える必要もありそうである。

 被害に遭う危険度は、犯罪件数では図ることができない。同じ件数でも、一件当たりの人数が多ければ、危険度は増大する。また検挙人員が増えたか減ったかを持ち出すのはあまり意味がない。検挙率によって補正された数字を出して議論すべきである。最近は一人で(一件で)多くの人を殺す例も増えている。

 今までだと簡単には殺さない場合、例えば強盗に入っても縛り上げるだけであったのが、いとも簡単に殺してしまう。また幼い子供も含めて一家皆殺しという例もあった。また未成年者が痴情のもつれから殺す例も目立った。路上でのひったくり、オレオレ詐欺、不法金融など、新種の犯罪が次々に出てくる。今までの普通の用心では、ふせぐのは難しい。

 次に考慮しなければならないのは、場所や時間の限定がなくなっていることである。学校に押し入って大量殺人を犯すとか、真っ昼間に子供を誘拐して殺すという事件が最近は目立つ。私が子育てをした頃は、学校の行き帰りが危険だという実感はなかった。深夜の街や新宿の歌舞伎町などといった「危険」とされる場所や時間帯を避けていれば、そんなに危険に出会うことはなかった。誘拐事件はあったが、身代金目当てであり、今のように問答無用で連れ去りすぐ殺すというものではなかった。

 かつては犯罪を犯す、それらしい者、それらしい場所、それらしい時間帯、というものがあったのに、今はいつでもどこでも被害に遭遇する恐怖感がある。日常生活の奥深くにまで犯罪が入りこんできている感じである。普通の用心をしていれば防げるという場合と、それでは防げないという場合との落差は、非常に大きくなっているのである。表面的な数字には現れない体感危険度・恐怖感とでも名付けたいものは、現在の方がはるかに大きいのではないか。

 今までは田舎では鍵をかけなかった(都会でも鍵をかけないで「ちょっと買い物に」出かける人もいた)のに、今では鍵をかけることが奨励されている。空き巣や窃盗が、今までは皆無だった田舎にまで広がっているのである。中国や韓国からの「出稼ぎ」強盗・暴力スリ団の横行もバカにならない。それらは外国人の出入国の際の指紋採取によってかなりの部分が防げるはずなのに、これまで「取り締まり強化反対」を唱える左翼によって阻止されてきた。

 さらに言えば、マナーの悪さを注意したら、なぐり殺されたという事件も頻発した。万引きを「悪いこと」だと思っていない者の割合が高学年になるほど増えていたり(高校生で6割 ! )、窃盗などの「小さい」犯罪が増えたりした。また「キレる」という現象も頻発している。いわゆる「普通の少年」(不良行為などの徴候のない)が「いきなり」凶悪犯罪を犯すという例も増えている。犯罪の形態が予測困難になり、常識的に用心をしているだけでは防げなくなっているのである。

 こうした現象のすべてを含めて「治安の良し悪し」を評価するのでなければならない。単なる数字の多寡をもって証拠とするのは、方法論的に幼稚と言わざるをえないのである。

 作田氏は「治安悪化」を言うのは日本人の「被害者的、自虐的感情」のせいだと書いているが、逆に「治安は悪化していない」と言うのにも、ある種のイデオロギーが作用していないだろうか。作田氏が「厳罰化の議論が活発となり、取り締まりが強化されることもしばしば生じやすい」と書いているのは、語るに落ちたと言うべきである。作田氏は明らかに左翼やクリスチャンの主張に対して、いかにも学問的と思わせる詭弁を使って御墨付きを与えているのである。

 

統計批判に見せかけたデマゴギーの例

 治安問題を単なる数値だけで判断してはいけないということを述べたが、数値が無意味だというのではない。ただし問題は数値を見る場合に、いろいろな方法論的問題を承知していなければならない。正しい方法論によって見ないと、とんだ間違いを犯すことになる。

 少年犯罪の増加や凶悪化の問題について、広田照幸氏を批判する中で以前にも論じたことがあるが(本HPの「犯罪・治安」の中の「少年法 ──「青少年の凶悪化」をめぐって広田照幸氏を批判する」)、なお不十分なところがあった。とくに統計の意味を読み取る方法論について、十分に論じたとは言えなかった。しかし、この問題に関して、したり顔で幼稚な方法論を振り回す者が目立つので、方法論的思考とはどういうことかについて、特に論じておきたいと思う。

 広田照幸氏をはじめとする少年犯罪増加否定論者たちの特徴は、少年犯罪が増加・凶悪化しているという統計結果を、一見もっともらしい方法論的な分析と批判によって否定するところにある。それどころか、増加・凶悪化という統計結果は意図的な操作によるトリックで、そう見せかけ騙しているのだ主張している。

 例えば、私の手元に、統計の示し方について批判した一冊の本がある。一部で(反体制的で批判的な若者のあいだで ? )人気のある書物らしい。書名は示さない。というのは、著者の名前がカタカナになっているが、外国人ではなく、明らかに日本人が書いたものだからである。つまりペンネームであり、実質的に匿名である。私は匿名者とは論争をしない原則であり、論評もしないことにしている。ただし、この本の方法論的なデマゴギーは悪質だと思うので、あえて論評する。

 この著者を仮にP氏と呼ぶ。P氏は、警察庁が発表した犯罪白書によれば、最近凶悪な少年犯罪が増加しているとされるが、それは最近の10年間を切り取ったためにそう見えるだけで、戦後全体の統計を見ると、最近はごく少ない数値を示していると指摘する。すなわち、戦後全体の犯罪統計を通してみると、少年の凶悪犯罪は戦争直後から急増し、昭和35年から45年にかけてピークを示している。その数も、急増したとされる平成10年の1500件の三倍の4500件である。それを見ると、増えた増えたと騒いでいるのはマスコミと警察だけだと言うわけである。

 この者の統計操作の実例。

 まず図1(少年凶悪犯罪検挙人員)を示す(最近の10年のみ)(p.18)。

 次に図2(少年凶悪犯罪4種の戦後全体の推移)を示す(p.23)。

 殺人は他の犯罪に比べ少なく(多かったら大変ですが)、このグラフでは見づらいので、別に抜き出してみましょう。

      (図3)

 これはもう、一目瞭然。おおまかにいって、昭和40年代を境に、少年の凶悪度には著しい差があります。それに昭和50年代以降、統計上問題になるほどの目立った変化はありません。たった一、二件の残虐な殺人事件を、マスコミが大袈裟に騒ぎ立てることで、いかに大衆に誤ったイメージを植えつけることが可能か。情報操作の恐ろしさを、まざまざと見せつけられます。

  それでは強盗・殺人・強姦・放火の四種をすべて合計したグラフをお見せします。

   (図4)

  じつは、今回しょっぱなでご覧にいれたグラフは、これの右端10年分だけを拡大したものだったのです。呆れてものもいえません。こんな子供だましのトリックを使って、マスコミは、いまの少年たちが凶悪であるかのように臭わせ、大衆をダマしていたのです。

 最も少なかった平成2年と、最も多かった昭和35年では、件数の差は6.9倍にものぼります。というわけで、本日ここに戦後最もキレやすかった少年が決定致しました。グランプリは昭和35年の17歳、つまり昭和18年生まれで西暦2001年現在58歳の方々です。おめでとうございます。(p.24-27)

 ついでにいわせていただくと、テレビゲームでこどもがキレるというのもウソだとわかりました。昭和30年代には素晴らしく高性能なゲーム機など、存在しなかったはずです。食べ物をキレる原因とするのも無理があります。だったら、当時の給食でおなじみのクジラ肉や揚げパンは、ファーストフードより遙かに危険な食品だという結論になってしまいます。(p.27)

 この者は方法論的に批判をしているつもりのようである。全体の右端の10年間を拡大するという方法が「子供だましのトリック」だと断定している。また、かつては「高性能のゲーム機はなかったので」「テレビゲームで子供がキレる」というのも「ウソだと分かりました」と結論している。この推論は方法論的には無茶苦茶である。まるで論理とは言えない幼稚な推論である。

 まず、意図的なのか無知によるものなのか分からないが、犯罪数の全体の推移を示すグラフが、あまりにもいい加減である。犯罪数とは「犯罪認知数」なのか「検挙数」なのかが示されていない。「認知数」というのは、犯罪が起きたと警察が判定認知した数のことである。これは実際に起きた犯罪数に非常に近い。しかし、検挙数は当然それよりも少ない。ほぼ1990年ころまでは日本の警察は優秀なので、検挙率は6割であった、しかし1990年ころより検挙率は4割に落ち込んだ。

 犯罪数やグラフを示す場合には、その数値が「犯罪認知数」なのか「検挙数」なのかを明示するのでなければならない。しかし、このP氏は、その点を明示していない。そこで、私が検挙数によって首尾一貫した資料を示してみたい。

     (図5)

 検挙率による補正が必要。

 3 「犯罪認知数」と「検挙数」の違い。

 上の図は、じつは「犯罪認知数」を示している。○○年からの統計は「検挙数」によるようになっている。しかし1990年ころから、検挙率が6割から4割に落ち込んだのである。上記のP氏が昭和40年の凶悪犯の数4500件が平成10年の1500件の3倍だと言う場合に、彼は「犯罪認知数」と「検挙数」の違いを無視している。

 例えば、仮におおざっぱに平成10年の検挙率が4割だとすると、平成10年の犯罪認知数は3750件となる。昭和40年前後とほぼ同じ水準である(ちなみに昭和40年ころの数字は「犯罪認知数」である ? )。「3倍」という言い方こそ、人を欺くセンセーショナリズムではなかろうか。

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 前田雅英氏のグラフを示す。

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 はたしてそうであろうか。単純な数字だけを見ると、たしかに最近よりも格段に多かった時期がある。しかし単純に数の多い少ないだけを比較しただけで、何かを言えると思うのは幼稚である。比較ということは、いろいろな観点からなされなければならない。例えば、以下のような問題点を考察しつつ比較するのでなければならない。

 1 「凶悪」とは何か。「凶悪」と「無気味」の違いについて。

 2 「凶悪」以外の「軽い」(広田氏のいう「チンケな」)犯罪は重要ではないのか。

 3 「犯罪認知数」と「検挙数」の違い。

 4 過去10年を切り取ることには、どういう意味があるのか。何かを隠蔽しただけなのか、明らかにしていることはないのか。

 5 犯罪急増の原因は何か。

 6 急増した時期に共通点は見いだせるのか。違いはどこにあるのか。どの時期においても凶悪犯罪は少年が「キレた」結果か。「キレた」という言葉でくくっていいのか。

 7 犯罪者を生み出す家庭環境という問題意識の重要性。

 8 じつは戦後の少年犯罪者数のピークを示す世代は「戦中生まれ」世代なのだが、彼等の幼児期における家庭環境はどうだったのかという問題意識が必要である。

 

 これらの問題について、以下、順番に考察していこう。

 第一の「凶悪」の意味について考えてみよう。この問題については広田氏への反論でのべたが、単に「凶悪」のカテゴリーが同じだというだけで、異なる時期の凶悪犯罪を同じものだとして論じてよいのかという問題がある。すなわち「凶悪犯」とはカテゴリーとしては「殺人、強盗、放火、強姦」だが、違う時期の「凶悪犯」の数字を単純に比較して、「同じもの」として扱ってよいものであろうか。

 たしかに、これらの凶悪犯罪は甚大な被害をもたらす恐ろしい犯罪である。恐ろしいという点では共通している。しかし最近の凶悪犯罪は、それに加えて「異常」「無気味」「理解を絶している」という特徴を持っている。しかも、どこで起きるか分からないという恐怖感がある。すなわち、昭和40年ころの犯罪は、庶民の日常生活の場まで深く入りこんではいなかった。夜遅くに繁華街をうろつくようなことをしなければ、犯罪に遭うという危機感はそれほどなかった。私もそのころに子供を育てていたが、登校や遊びの中で危険に出会うという切迫した危機感は皆無であった。少し田舎にいけば、鍵をかけない家がほとんどであった。しかし、今は登校の途中であれ、公園であれ、学校の中であれ、殺される危険がついてまわる。しかも、その犯人がどういう動機からか理解不可能な場合が多い。「心の闇」と表現されるのは、あながちマスコミのキャッチフレーズとも言えない真実味がある。

 私は広田氏批判の中でこう書いた。

 広田氏は、「凶悪化」を単なる幻想だと言うが、しかし単に殺すのではない異常な殺し方について、何も感じないという人がいたら、その人は最近の凶悪犯罪について論ずる資格のない人だと思う。

 しかも、それらの異常な凶悪さが、決して孤立した現象ではなく、子供たちの日常のあり方とも繋がっているという問題がある。すなわち子供たちの「キレる」とか「自己チュー」という現象、また規範意識の低下は各種の調査で明らかだし、子供の窃盗・ひったくりなどが急激に増大し、いまや日本は外に出たら一瞬の油断もできないという国になるかもしれないという危機感を抱かされる状態にある。

 子供に注意したら殴られ、刺されるというこの国の状態の異常さ(恐ろしさ)と、凶悪犯の異常さ(恐ろしさ)とが、決して無関係だとは言えないところに、真の恐ろしさがあるのである。

 例えば、終戦直後の犯罪の多さには、貧乏だとか、食べるものがないからだという、理由・動機がはっきりしていた。したがって、どうすれば犯罪を避けることができるかも分かっていた。しかし、最近の犯罪には動機が分からない事例が増えており、それゆえどうしたらそれを避けることができるか分からないのである。

 要するに、単純に「凶悪犯」というカテゴリーに入れられた犯罪数の過多を比較しただけでは、「凶悪」の意味を理解したことにはならないし、比較したことにもならないのである。単に数字の過多から、今の少年犯罪が昭和40年頃の少年犯罪よりも「恐ろしくない」とか「重大ではない」と結論するのは、方法論的に欠陥があると言わざるをえないのである。

 こういう議論の仕方には、凶悪化とか質の変化を問題にしたくない心理が働いているのではないかと思われるが、その点については稿を改めて「犯罪統計と家庭教育」において考察する。

 

 2 「凶悪」以外の「軽い」(広田氏のいう「チンケな」)犯罪は重要ではないのか。

 少年犯罪増加否定論者たちの特徴の第二は、「凶悪」犯罪だけを重要視して、他の「軽い」犯罪を軽視するところにある。すなわち「凶悪」犯罪は全体として減少しているということを、ことさらに強調する。

 少年の刑法犯や非行は、「軽い」ものでも「普通」のものでも、きわめて重大な意味を持つ。それは「破れ窓」理論を引き合いにだすまでもなく、規範意識の崩壊を意味しており、彼等が大人になった場合には犯罪予備軍になるからである。

 では、少年の刑法犯は増えているのか減っているのか。次のグラフを見てもらいたい。少年の刑法犯は戦後一貫して増大しているのである。

 前田雅英氏のグラフを示す。

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 4 過去10年を切り取ることには、どういう意味があるのか。何かを隠蔽しただけなのか、明らかにしていることはないのか。

 次に、「少年犯罪増加否定論者」たちは、最近10年だけを切り取ることは、全体の趨勢を隠すための統計操作だと批判している。

 しかし、上で指摘したように、最近の10年間の少年犯罪数の推移は、過去の最大だとされた時期よりも大幅に少ないわけでもなければ、全体として減少しているわけでもない。最近の10年だけを切り取ることによって、「減少を隠蔽している」のでないことは明白である。

 では、最近10年間を切り取ることのプラスの意味はないのであろうか。もちろんプラスの意味はある。それはその10年間の最後の数年において、急激な上昇が見られることを示している点である。すなわち、現在の傾向として、少年犯罪が急上昇し始めたことを示しており、重大な警告を発している可能性があることを示している。

 最近10年間の統計を示すことは、単なるセンセーショナリズムではなく、社会の関心や不安を代弁しているという側面があり、また社会に対して警告を発するという意味もある。決して「権力による統計操作」ではないのである。

 

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