司法界を腐蝕させる人権主義の害毒 ──行刑法と人権擁護法案

  (『諸君!』平成17年8月号) (掲載時の表題は「父性なき人権擁護法案に「待った!!」」) 

 

 日本の司法が危うくなっている。政治家にも官僚(法務省)にも裁判官にも弁護士にも左翼的な人権主義が浸透し、犯罪者を裁き罰し更生させるという司法本来の姿が失われようとしている。

 現在の司法界の問題点を、五月二五日に公布された「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律」(以下「行刑法」と略称)と、目下法案提出をめぐって大きな議論の的になっている「人権擁護法案」を例にとって明らかにしていきたい。

 

前提から間違っている人権論議

 両法(案)が目指すのは人権擁護である。いずれの法(案)も、人権は誰に対しても、たとえ犯罪者(受刑者)に対しても、最大限に守られなければならないという前提から出発している。この前提がそもそも間違っているのである。

 犯罪を犯した者、罪を償っている受刑者に対しては、人権が多少とも制限されるのは当然のことである。こういうあまりにも当然のことが当然のこととして前提されていないのである。今回成立した行刑法などは、受刑者に対して、できるかぎり広範囲の人権を保障するための法律になっている。間違った前提の上に法律が作られた、または作られようとしているところに、日本司法界の危機がある。

 「犯罪を犯した者に対しては人権を制限してよい」という前提に立って、「では、どの程度の制限をしてもよいのか」という議論を冷静に理性的にする雰囲気と環境が存在していないことが最大の問題である。ましてや、「人権制限も刑罰の一つだ」という観点は皆無である。

 過度の虐待や差別をしてはならないことは当然であるが、しかし「過度」であるか否かの判定はたいへん難しい。刑務官の処置が過度か否かは、受刑者の態度や状況との兼ね合いによって判断されなければならない。一律に基準を決めることはできないのである。

 この問題を革手錠の使用を例に考えてみよう。名古屋刑務所での虐待事件をきっかけにして、革手錠は目の敵にされ廃止されることになったが、「なぜ革手錠が必要なのか」「なぜ厳しい態度が必要なのか」という問題を論じないまま、単純に廃止するのは大いに疑問である。

 

悪者にされた革手錠 ──感情的ポピュリズムの危険

 名古屋の虐待事件は、結果だけを見るとたしかに「虐待」と言えるものであり、刑務官が全面的に「悪い」と感じさせられる。すなわち

 二〇〇一年十二月十五日には受刑者が全裸にされて消防用ホースで強い圧力の水を肛門に吹き付けられ死亡。二〇〇二年五月二七日には受刑者が革手錠をされて保護房に収容され、心肺停止で死亡。その他いくつかの刑務官による傷害事件も革手錠の締めすぎによるものとされた。(革手錠とは、胴体を締めるベルトに手錠が固定されていて、受刑者が手錠をされたまま手を振り回して暴れることができないような構造になっている。)

 しかしこの「虐待」、そう簡単に刑務官が全面的に「悪い」とだけいって済まされない問題が潜んでいるのである。本当に刑務官の行き過ぎがあったのかどうか、「虐待」が起きたときの状況をきちんと検証する必要がある。事実を知るにつれて、じつは真相を突きとめるのはかなり難しいことが分かる。

 虐待が起きたというと、大部分のマスコミは、された受刑者には何の問題もなく(何の落ち度もない無垢の人間)、厳しすぎる刑務官だけに罪があるという論調である。

 しかし当時の報道を改めて読み返してみると、革手錠を使ったのにはそれなりの正当な理由があったことが分かる。たとえば、二〇〇二年五月二十七日のケースでは、受刑者が職員につかみかかったため革手錠をして保護房に収容したところ、数時間後に心配停止で死亡していた。同年九月二十五日のケースでは、受刑者が職員と面接中、激昂したため革手錠をして保護房に収容したところ、腹痛を訴え、腹腔内出血の疑いがあり、病院で手術を受けた。

 いずれのケースも、革手錠の使用自体が必要なケースである。問題はどの程度きつく締めたのかである。きつく締めすぎたのだとしたら、締めすぎたことが悪いのであり、革手錠そのものが悪いわけではない。ところが革手錠そのものが悪者にされている。

 なるほど、革手錠というものがあるかぎり、どんなに規制してもきつく締めすぎるという問題はいつかは起きる可能性があり、根絶することは難しい。というのは、手錠をされてもなお暴れる者がいるかぎり、きつく締めざるをえなくなる。だとしたら、締めすぎをなくすためには革手錠そのものを廃止すればよいということになる。この論理が勝って、革手錠は廃止されてしまった。革手錠がなぜ必要かという冷静な議論がなされる雰囲気ではなかったのである。

 行刑法が通る前に、すでに革手錠は廃止され、第二種手錠というものが使われることになった。しかしこれにはベルトがついていないため手を固定できないので、手錠をされたまま手をふりまわしてあばれることができる。制圧の必要があって手錠をするはずなのに、それでは制圧できないのである。もちろん足は自由であるから、暴れるのを止めることができない。革手錠が「悪者」にされ、それさえなくせば人権が守れるという短絡的な発想こそが問題である。

 革手錠の廃止に至る成り行きを見ていると、非常に危険な傾向が読みとれる。すなわち「悪者」に対する感情的な排除が先行し、本当の原因や問題点を冷静に突きとめて対処するという態度が欠けている点である。そういう感情的な排除の姿勢では、悪い面だけが槍玉に挙げられ、必要性についての議論ができなくなってしまう。一種の悪しきポピュリズムに落ちていく危険がある。

 

父性=厳しさの必要性を考慮した議論を

 じつは革手錠に象徴される厳しさの必要性は、今の刑務所で日に日に増しているのである。刑務官に文句をつけたり、詰め寄ったり、暴力をふるう受刑者は確実に増えている。それも十人、二十人の集団で取り囲み、圧力をかけるケースもある。刑務官に対するアンケート調査でも、暴力を受けたり恐怖を感じたことのある者は半数を超えている。受刑者の数そのものも増えていて、一人の刑務官が担当する受刑者が百人、二百人という状況であり、秩序を維持するだけで精一杯という現状である。暴力をふるう者に甘い顔をしたら、収拾がつかなくなる危険がある。革手錠に代表される厳しさは絶対に必要なのである。

 こうした視点に立った上で、革手錠の問題も考えるのでなければならない。その視点から考えるならば、次のような考察が必要になる。

 たとえば名古屋の場合、なぜ革手錠に過度に頼ったのか、という問題をきちんと調べてみなければならない。

 じつは名古屋刑務所の場合は特殊な例なのである。革手錠の使用頻度が名古屋だけ異常に多く、二〇〇二年一月から九月までの使用件数が東京・府中刑務所の二十倍以上の百五十八件だった。逆に言えば、他の刑務所では過度な行き過ぎはなかったということを意味しているのである。つまり革手錠があっても、虐待など起きないでやっていたというとである。

 つまりこうした明らかに行き過ぎと見られるケースについては、その原因を調べ対策を考えれば済むことなのに、革手錠そのものを廃止するとか、受刑者の待遇をよくするという飛躍した対応に短絡的に行ってしまうところに、現在の司法界が持っている危険な傾向が現われていると言える。

 では、いかなる考察が必要かという点について、名古屋の放水事件の場合を例にして考えてみよう。その受刑者は大声を上げたり、自分の糞尿を房内にまきちらしたりして、保護房に十一回収容された。こういう受刑者に対しては革手錠の使用が適切かどうか、適切でないとしたらどういう扱いが正しいのかを考えなければならない。ただ刑務官が「悪い」ことをしたということで済まされ、刑務官が「悪い」ことをできないように革手錠を廃止し、ただ受刑者の人権を大切にするための行刑法を成立させても、なんら問題の解決にはならないのである。

 

行き過ぎ(締めすぎ)はなぜ起きるのか

 一足飛びに「受刑者の待遇改善」とか「革手錠廃止」という結論に行く前に、刑務官の行き過ぎがなぜ起きるのかという問題をできるだけ学問的・客観的に研究しなければならない。

 たとえば、刑務官の行き過ぎを心理学的に見ると、どういう問題が出てくるかを例示してみるなら、次のいくつかの可能性が考えられる。

 第一に、その刑務官は病的なほどにサディスティックな傾向を持っていた可能性がある。

 第二に、その刑務官には自信がなく、受刑者に対する恐怖感が強かった可能性がある。そういう場合には過度に威圧的な態度になりがちである。

 第三に、面倒をかける受刑者に対する怒りの感情を抑えることができなかった可能性も考えられる。そうした感情は刑務官なら誰でも経験しているはずである。それを押さえて公正に行動する訓練がなされているはずであるが、そのたががなぜはずれたのかを調べる必要がある。

 第四に、その受刑者が精神病かその傾向があった可能性。そのことを刑務官が知らない場合には、その受刑者を過度なわがままとか、どうしようもないほど扱いにくい暴れ者として、力で制圧するしかないと思いこんでしまった可能性もある。名古屋の場合をはなれても、こうしたケースはかなり多いと推定される。その場合、刑務官に精神病についての知識と、対処する方法を教えておくことが必要になる。そういう問題意識が法務省なり矯正局の指導部にどの程度あったかを問題にすべきであって、単純に人権侵害か否かという観点だけで対応するのは不十分なのである。

 これらの中のいずれなのか、他の原因があるのか、きちんと調査研究した上で対策を考えなくてはならない。その場合、厳しさの必要性を認めた上で、問題を起こす受刑者の個別的な特徴を把握することによって、行き過ぎをできるだけなくす努力をする以外に方法はないのである。厳しさと行き過ぎの違いは紙一重であり、厳しさが必要であるかぎり行き過ぎ(人権侵害)をゼロにすることはできない。ゼロにしようとすることは現実性のない、いわば空想的な理想論である。その空想的な理想論を実現しようとすれば、その代わりに厳しさの原理そのものを減退させるしかない。

 その空想論に基づいて人権侵害を事実上ゼロにしようとして、問題を人権という一点に絞り、その観点から厳しさの原理そのものを少なくしてしまう方向で考えられたのが、今回の行刑改革である。

 

親も司法も父性の欠如

 もともと日本の刑法の量刑は軽すぎる。それに加えて判例がますます軽くなる傾向にあり、人を殺しても一人ならばとか、情状酌量が認められると絶対に死刑にはならない。

 判決が軽すぎる上に、よく執行猶予がつく。初犯ならばよほど悪質とみなされないかぎり、たいていは執行猶予つきとなる。こんな悪い奴でも執行猶予なのかというケースばかりである。

 たとえば、今話題をさらっている性犯罪を例にとってみよう。

 女性を監禁し性奴隷にするとか、少女を誘拐して乱暴したり殺してしまうという性犯罪が後を絶たない。新潟では九年ものあいだ少女を監禁していたという驚くべき事件があった。記憶に新しいところでは、昨年起きた小林薫による奈良県の悲惨な少女誘拐殺人事件がある。

 つい最近も小林泰剛が保護観察中にもかかわらず勝手に上京して住所を変え、何人もの女性を監禁していた事件が明るみに出た。この男は女性の首に首輪をつけて逃げられないようにしていたそうである。

 この男は何をして「保護観察つきの執行猶予」になっていたのか。二人の女性に対する暴行・傷害の罪である。しかも判決では「常習性」が認められながらの執行猶予であった。この執行猶予の判断が間違っていたことは、その後の小林の行動が証明している。

 執行猶予を流行のように付ける裁判官、というよりそうした判例を積み重ねてきた司法界の偽善こそ、問われなければならない。

 この首輪監禁事件の特徴は一口で言えば「父性の欠如」である。夫婦仲のよくなかった父親と母親がそれぞれ甘やかした。というより金だけ与えて、しつけを放棄していたと言うべきである。

 父親は息子と関わりを持たず仕送りだけをし、母親は息子をベンツで送り迎えし、多額の小遣いを与えていた。その上、元警察署長の祖父も甘やかした。父親は最初の事件に対して、千二百万円を出して被害者との間に示談を成立させた。家族がこぞって甘やかし、王子様に育ててしまったのである。

 それに加えて甘い判決(執行猶予と形式だけの保護観察)を与えた無責任な裁判官がいる。犯罪者に対する適切な罰と償いをさせるという刑法本来のあり様を逸脱していると言うべきである。

 小林に関わるどの人間も皆、父性の欠如を示している。親が甘やかして育てた上に、学校も地域社会も有効な関わりを持てず、司法も厳しさを示すことができなかった。父性の欠如のせいで道をふみはずす人間に対しては、厳しく叩き直すという姿勢が必要である。それをすべき最後の砦の司法までも甘い態度を取るのでは、犯罪を犯した者はいつまでも甘やかされるばかりである。

 

人権至上主義が産み出す悪法

 日本の治安が危うくなり、犯罪者が確実に増えているこの時になって、人権擁護法案とその姉妹編とも言うべき監獄法改正が出てきた。

 この両法案が密接に関連させられていたことは、行刑法案の段階で受刑者の苦情申し立てが人権擁護法案の「人権委員会」に提出するとされていたことを見ても分かる。

 両法とも、差別に反対し人権を守るための法律だと説明されているが、一方の人権を守れば他方の人権を犯すという矛盾をかかえた法律である。人権擁護法案の方は反対が多く容易には進まないでいるが、監獄法改正の方はまったく同じ危険性を持っているにもかかわらず行刑法としてすでに成立してしまった。以下、それぞれの法律について、内容に即して問題点を明らかにしておこう。(人権擁護法案の方は危険性が広く知られているので簡単に箇条書きにしておき、行刑法の危険性について詳しく論じたい。)

 人権擁護法案の危険性は次の諸点である。

 1 差別・人権侵害の概念が曖昧であり、恣意的に解釈される危険がある。「不当な差別的言動」を規制するとか(第四十二条)、「差別助長行為の差し止め請求訴訟」を起こすことができる(第六十五条)とされているが、「不当な」「助長」などという曖昧な言葉を使ったのでは、何でも「不当」「助長」だとされかねない。これで弾劾されるのでは、新たな人権侵害になってしまう。

 2 差別や人権侵害を審査する人権委員会の権限が強すぎる。たとえば、令状なしで立ち入り検査ができるとされている。これも人権侵害を引き起こす危険がある。

 3 人権委員会の委員に国籍条項がなく、外国人でもなれる。中国人・韓国人・北朝鮮人が委員になって、それらの本国の指令で動かされては、逆の人権侵害が起こりかねないし、意見を言う自由さえも侵されかねない。

 このように、人権委員会が外国人に牛耳られ、日本人の特定の意見を持った人たちが「差別的だ」などという理由で槍玉に上げられたり、圧迫を加えられることが充分に予想できる。部落解放同盟の強い後押しもあると言われている。

 この法案は日本人の感覚からすればあまりにも無茶苦茶な内容であり、常識の線を大きく越えている。どこか日本以外の国の思惑が反映されていると疑いたくなるような内容である。この法案はあまりの非常識ゆえに多くの国民が反対の声を上げているが、その陰に隠れて目立たないうちに進行し成立したのが行刑法である(五月一八日に成立、五月二五日に公布)。

 この行刑法は人権擁護法案と手を結びながら車の両輪として人権主義を進めるための法律である。しかしその内容と危険性については、国民の間でほとんど知られていない。以下、その問題点を具体的に明らかにしたい。

 この法律の制定は三年前の名古屋刑務所での受刑者に対する暴行事件を受けて、当時の森山眞弓法相が私的諮問機関である「行刑改革会議」を作り、その提言をもとに法案を作成した。この会議の提言は「国民に理解され支えられる刑務所」を目指して、受刑者の人権の保障や、刑務官の待遇改善などを提言した。

 

厳しさ=父性原理の後退 ──行刑法の問題点

 私はこの行刑法について四月五日の衆議院法務委員会において「参考人」として意見を述べた。

 その要旨は、

 第一に、受刑者の更生にとってマイナスになる危険を持っている、

 第二に、犯罪の抑止力を減少させる危険を持っている、

 第三に、刑務所内の治安を維持することが難しくなり、刑務官等の職員の人権を侵す可能性を持っている、

 第四に、犯罪被害者の感情や人権を守るという配慮が薄く、著しくバランスを欠いている。

 以上を要するに、「刑事施設の本来の目的を阻害する危険をはらんでいる」と言うことができる。

 これらのうち、とくに大きな問題点について、やや詳しく説明しておこう。

 第一の問題点は受刑者の待遇改善である。

 具体的な待遇改善策とは、刑務所内で子育てができるようにする、外泊できるようにする、電話使用の規制も緩める、医療も充実する、面会の機会も増やす、人権救済・不服申し立て制度も充実させる。もちろん更生の度合いが進んでいる者という限定がついてはいるが、なんとも至れり尽くせりである。

 行刑改革会議では「刑務所を学校や病院のようにする」のが理想だという意見も出たという。待遇をよくすればするほどに受刑者は更正するという思想が根底を流れている。その思想とは、犯罪を犯した者といえども優しく親切にしてやれば必ず罪を悔いて真人間になるという、ある種の宗教的な信念に基づいた考え方である。いわば母性的な思想と言うことができる。

 しかしそれは物事の反面しか見ていない。罪を犯す者の中には、貧しいとか不幸な境遇にあってつい罪を犯した者ばかりではない。わがままとか手前勝手から罪を犯す者もいる。こうした者には父性が不足しており、甘えや無規律の精神を持っている者が圧倒的に多い。とくに昨今ではこのタイプの受刑者が増えており、それに対しては相当に強い厳しさの原理が必要である。

 刑務所や少年院といった刑事施設の中では、規則を守らせ、規律正しい生活をさせ、秩序を維持すること自体が教育的な意味を持っている。一般社会でも教育の場においても厳しさが不足しているが、とくに犯罪を犯した受刑者には厳しさが必要である。

 ただ優しく待遇をよくすれば更生がうまくいくというものではないのである。父性原理の後退は受刑者の更生にもマイナスの面があることを考えなければならない。

 第二の問題点は、施設内部での治安の維持が難しくなることである。条件つきとはいえ、「外泊できるようにする」「電話使用の規制も緩める」「面会の機会も増やす」となっては、外部との悪意ある連絡も易々とできることになる。所内の犯罪防止という観点からも危険である。

 第三の問題点は、あまりに待遇をよくすると、犯罪の抑止力がますますなくなるという点である。

 待遇は今でもよすぎるほどであり、外国人にとっては日本の刑務所は「別荘」と感じられるほどなのである。これでは犯罪の抑止力にならないのは当然である。

 刑期が短いなど処罰が軽いことも合わせて、犯罪者を外国から呼び込む作用をしていることは否定できない。不当な虐待をなくすために始まったはずの法改正なのに、どうして待遇改善の話になるのか、理解に苦しむと言うほかない。

 外国人犯罪者に対しては、

1 本国に送り返して、本国の基準で処罰させる

2 本国並みの処罰と処遇を与える

等の処置が必要である。

 

「不服申し立て」制度への疑問

 待遇よりももっと深刻なのが「不服申し立て」制度が新設された点である。

 もちろん不当な扱いに対して不服を申し立てる権利は保障されなければならない。しかし逆にその権利を悪用して過度に申し立てを繰り返したり乱用することに対する歯止めが必要であり、また刑務官の側の主張も保障するのでなければならない。そのバランスが大切である。結論を言えば、行刑法ではそのバランスが著しく偏っているのである。

 第十二章「不服申立て」の最初の部分を引用する。

 

第一節 審査の申請及び再審査の申請

 (審査の申請)

第百十二条 次に掲げる刑事施設の長の措置に不服がある者は、書面で、当該刑事施設の所在地を管轄する矯正管区の長に対し、審査の申請をすることができる。

 一 第二十六条の規定による領置されている現金の使用又は第二十七条の規定による保管私物若しくは領置されている金品の交付を許さない処分

 二 第四十条第一項の規定による診療を受けることを許さない処分又は同条第四項の規定による診療の中止

 三 第四十四条に規定する宗教上の行為の禁止又は制限

 四 第四十七条第一項又は第四十八条の規定による書籍等の 閲覧の禁止又は制限

 

 その他、申請してもよい事項が延々と続く。ここで問題になっているのは要するにこういうことである。たとえば、外部の医者の診療を受けるとか、個人的に宗教儀式をするとか、書籍を読むなどといった受刑者に認められている権利を禁止することができると定められている場合がある。それは「刑事施設の規律及び秩序を害する結果を生ずるおそれがある」とか「矯正処遇の適切な実施に支障を生ずるおそれがあるとき」であると定められている。その禁止に対して苦情を言うことができるという趣旨である。

 もともと「規律や秩序を害する場合」とか「矯正に支障が起きる場合」という規定そのものが曖昧であり、どういうケースがこれに該当するのか判断すること自体が難しい。そして、その禁止決定に対して苦情が出ても、どういう基準で判定するかもはっきりしていない。

 いずれの側に対しても判断基準が明確にされないままに、「禁止してよい」「苦情を言ってよい」と言っているだけである。苦情は法務大臣に訴えることもできるが、こんな曖昧な規定によって裁ける法務大臣がいるはずがないのである。

 さらに問題なのはこれらの権利を乱用することに対する歯止めがないことである。施設側の決定に対しては受刑者が苦情を言う権利は保証されているが、逆に受刑者がその権利を乱用する場合を想定していない。これは片手落ちと言うべきである。

 たとえば、いわゆる人権派の弁護士が背後にいて、いちいち「人権侵害だ」「差別だ」と文句をつけ始めたら「しめし」がつかなくなり、刑務所内の秩序を維持することはきわめて難しくなるだろう。行刑法が施行される前でも情願件数が急増していたそうである。

 この第十二章は全体として善意の受刑者のみを前提にしているとしか考えられない。言うまでもなく、受刑者は善意の者ばかりではなく、悪用する者も出てくることは当然予想し、予防措置を取っておかなければならないが、そうした予防措置は規定されていない。

 さらに大きな問題は「不服申し立ての内容を刑事施設の職員に秘密にする」と書かれていることである。すなわち

 

第四節 雑則

(秘密申立て)

第百二十四条 刑事施設の長は、受刑者が、審査の申請等(中略)をし、又は法務大臣若しくは監査官に対し苦情の申出をするに当たり、その内容を刑事施設の職員に秘密にすることができるように、必要な措置を講じなければならない。

 

 こうした項目が置かれた理由として、法案の趣旨説明の中で「受刑者が、萎縮することなく審査の申請等をできるようにすべきであり、行刑施設の職員に内容を知られることなく、申し立てができる環境を整えるべき」だからと説明されている(第162回国会法務参考資料第5号53頁)。完全に内容の秘密を保つならば、告発された刑務官の側の「申し開き」「反論」または「証言」はできなくなってしまう。

 もし「苦情を送るまでは秘密にするが、その後の審査の過程で刑務官の弁明を聞く」というのであれば、そのことを明記すべきである。しかし刑務官の側の弁明する権利や機会については明記されていない。

 以上のように行刑法は全体として、受刑者の人権と待遇改善にばかり比重が偏り、いちじるしくバランスを欠いていると言わざるをえない。

 

人権擁護法案と行刑法の真の狙い

 私は衆議院法務委員会での参考人意見の結論として

「改正案は受刑者の人権を過度に尊重するという偏りが見られ、バランスを欠いているように思われます。この点について修正が必要だと考えます。すなわち、

1 受刑者の待遇を今以上によくしないようにする

2 受刑者の人権はある程度制限されるのはやむをえないという考えに立ち、理不尽な扱いや虐待を受けないように保障するという点に限るようにする

3 不服申し立て制度については、安易に利用することのないように、また刑務官の言い分も聴取できる保障をする

 以上の諸点について修正するのが望ましいと考えます。」

と述べたのであるが、この意見はまったく考慮されず、法案は衆参両院とも全会一致で可決された。

 あとで分かったことだが、法務委員会の討論はすべて終わっており、日程の最終に「参考人意見聴取」が置かれていたのである。したがって、我々がいくら意見を言っても、なんの意味もなかったことになる。これはまさしく国民を愚弄する仕打ちと言うべきである。

 この法律を作った人々は、受刑者の「人権」という言葉を使ってはいるが、じつは犯罪者への同情心から、犯罪者を大切に扱いたいという心理が働いているのではないかと推測したくなるほどである。「受刑者とは無垢で善意の人たちだ」「だから寛大に扱えば真人間になる」という前提である。

 驚いたことに、「刑務所を学校や病院のようにする」が彼らの合い言葉であり理想なのだ。まるで受刑者をお客様扱いである。相手は善人だという前提で物を考えるところは、ちょうど中国人や朝鮮人に対して「心から謝罪すれば許してくれる」と考えるのに似ている。

 こうした驚くような前提には、キリスト教や仏教の思想が色濃く反映していると感じられる。「罪人(つみびと)をこそ救わなければならない。罪人が一番可哀相な人であり、手をさしのべるべき存在である。」この考えが人権主義者たちの背景にある。

 個人が宗教的信念で生きること、その考えを衆に及ぼそうとすることは自由である。しかし「罪人が一番可哀相」という考えで国の制度を作ったらどうなるのか。他の「可哀相な」人たちとのバランスはどうなるのか。たとえば、犯罪被害者の感情とのバランス、暴れたり糞尿を垂れ流す受刑者の面倒を見る職員とのバランスはどうなるのか。それでも病院のように手厚く面倒を見てやれと言うのは偽善にすぎない。

 法律関係者ならば厳密な概念や論理性を重んずるはずなのに、彼らは「死刑は文明国にふさわしくない」とか「革手錠は国際社会から軽蔑される」といった言い方をする。「文明国」とは何か、「国際社会」とは何か、その実態も概念もまったく分からない曖昧な言葉である。じつは「文明国」も「国際社会」もイデオロギー用語にすぎない。「国際社会」とは世界の人権主義者で作られているサークルにすぎない。彼らは自分らが主張したい内容を「文明国」「国際社会」という言葉で飾っているにすぎない。

 こういう偽善的な人権主義者が両法を推進する表の立て役者になっている。彼らは偽の人権派である。なぜなら一方の人権を守ろうとすれば他方の人権が侵されるというようなザル法のごとき法律を真の人権派が出してくるはずがないからである。彼らの背後には、彼らをあやつり利用している勢力がいるとしか考えられないのである。

 この両法の真の狙いは、両法によって誰が利益を得るかを考えてみれば、おのずと見えてくる。人権擁護法案が成立すれば中国や北朝鮮の手先が活動しやすくするという絶大な効果が期待できる。彼らが法を犯して刑務所に入れられても、行刑法によって手厚くもてなしてもらえる。心身に傷を受けずに、すぐに出てこられ、再び活動できる。日本の後方攪乱を狙う勢力にとって、これほど「うまい」話はないだろう。この両法が出てきた今という時期は、中国や朝鮮半島の異常な反日に対する日本国民の批判の高まりと一致している。その隠れた意味は、中国や北朝鮮による後方攪乱である。

 人権擁護法案を部落解放同盟と近い関係の政治家や、中国や北朝鮮と関係の深い政治家が熱心に推進していることは、隠された関係があるのではないかということを推測させるに充分である。

 

刑務所内はすでに危機的状況

 すでに行刑法は公布され、受刑者の人権が最大限に保障されることになった。それによって何が起こるのか予断を許さない。刑務所の治安が確保できるのかきわめて疑わしい。今でも限界にきている刑務官の過労とストレスがもっとひどくなるのは火を見るより明らかである。破綻したときに、森山眞弓元法務大臣以下、議員全員はどう責任を取るのか。

 最近、私のところに「現役5年目の刑務官」から以下のような便りが届いた。

 「実際、先生がおっしゃってるようなことは、すでに刑務所で始まっています。

 例えば、工場で担当職員が受刑者20人程度から囲まれて脅迫されたり、10人程度から襲われたりと、荒れに荒れてます。名古屋事件以降はっきりと規律が崩れてきております。情願件数も半端じゃなく増え、本当に大変なことになっております。

 被害者の方が今の刑務所を見ると本当に激怒するのではないかと思います。

 我々、刑務官は被害者の代弁者ではないのですが、あまりに酷く、退職していく若い刑務官が後を絶ちません。

 今の刑務所では改善更生どころか、施設の規律秩序維持が限界です。それすらもぎりぎりのところまできています。そこに追い討ちをかけるように今回の法改正です。本当にどうなるのか正直言って怖いです。」

 心配していたとおりのことが起きているのだ。若い刑務官が辞めていく。刑務官になる直前の研修終了前に辞める者が多いそうだ。

 便りをくれた刑務官はこうも述べている。

 「刑務官というのは上意下達が徹底されていて、下の者は意見を言う場もありません。

 職員数が足りていないのに、受刑者の数だけが増え、厚遇し、一般職員の勤務状況は、悲惨です。夜勤・非番・夜勤・非番……と休みなく続き、精神的にまいってくる職員も多くいます。今後、刑務所はいったいどうなっていくのか本当に不安です。」

 このままでは、受刑者の人権ばかり考えて、刑務所の秩序維持さえもままならぬ事態になるだろう。

 後になって嘆いてもどうにもならない。人権というタテマエに押されて偏った法律を作ってしまったところは、男女共同参画社会基本法のときと同じである。あのときも男女平等というタテマエを信じて、事実上男女の区別を否定する内容の法律を全会一致で通してしまった。

 行刑法と両輪の関係にある「人権擁護法案」だけは、なんとしても阻止しなければならない。

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