五千万円恐喝事件の問題点

    (平成12年5月17日初出)

 名古屋市緑区の中学生が五千四百万円を脅し取られた事件で、名古屋地検は16日に「刑事処分が相当」という意見を付けたと報道された。この事件は少年犯罪の取り扱い方について、また少年法の改正の問題についても、考えなければならない問題点を多く含んでいる。以下この事件を振り返りながら、少年犯罪について考えてみたい。

 

被害少年の側の父性不在について 

 被害者の側に立って考えると、父の不在という事実が重く感じられる。父または父性を持った者が身近にいたなら、まず恐喝されている事実にもっと早く気がついただろうし、気がつけば加害者からわが子を守ったり、相手の親に話をつけるなり、学校や警察に相談したりできたはずである。家庭における父性的判断力と行動力の不在が被害を大きくした第一の要因である。

 母親は最初、子どもがお金を脅し取られているのを知っても、お金を渡せばいじめられなくなると期待して、渡すのを容認したらしい。最悪の判断であるが、そこに父性的な判断が欠如していたのだから、責めるのは酷かもしれない。

 父の果断な決断や行動力がないのを補おうとして、また自分ではその能力がないのを自覚して、母親は学校や警察に相談した。この場合、学校や警察が父性の役目をきちんと果たしていたなら、いじめの被害はもっと小さくて済んだだろう。しかし学校も警察も「被害の事実を話してくれない」(被害届けを出してくれない)ので、「手の打ちようがなかった」と言っている。

 この態度はあまりにも冷たい、またはあまりにも無能だと言わざるをえない。被害少年は必ず仕返しを恐れているので、「頼りになる」と信頼しなければ打ち明けないものである。信頼を得るためにどんな努力をしたのだろうか、あるいはどれだけ熱心にねばり強く説得したのだろうか。質問しても言わなければ、それで自分たちの務めは済んだという態度では、警察官や教師として失格と言わなければならない。

 父性の役目をしたのは、少年が暴力をふるわれ怪我をして入院していたときに、一緒に入院していた男性であった。この男性が少年の被害に気づき、加害少年を一喝して追い払い、被害を聞き出して一覧表に書かせ、警察に話させた。やる気になればできることをやらなかった関係者の怠慢は、厳しく責められるべきである。

 

加害少年たちには父性も母性も欠けていた

 つぎに、加害者の側に目を転ずるなら、父性も母性も問題があったと言わざるをえない。主犯格の少年の父親は「厳しかった」というが、それは「木刀をもって追いかけまわし、玄関でひどく殴った」という厳しさであった。そういう恐怖を与える厳しさでは、子どもの心を硬化させ悪化させるだけである。正しい厳しさとは、「何故悪いのかをきちんと説明し、悪いことは断固として悪いとする」厳しさである。それは自分が厳正に人生を生きている姿を示すという形で現われる。暴力で強制する厳しさでは、「暴力はいいことだ」と教えているようなものである。この少年が暴力で他人を脅すようになったのは、一つにはこうした父親の間違った厳しさが原因である。

 また父親は「子どものため、家族のために働いて、お金を稼ぐのが家族の幸せにつながると考えてきた」と語っている。この拝金主義が、子どもの金銭へのこだわりを生んだのかもしれない。

 他方、母親は少年のネコが車にはねられて死んだときに仕事に出ていて不在だった。少年は病院に電話したが、医師から「往診はできない、お母さんに車でつれてきてもらいなさい」と言われた。ネコは少年の腕の中で死んだ。

 母親が帰ってきたときに、少年は「お前はいなきゃならないときにいない。なんで今ごろ帰ってくるんだ」となじった。すると母親は「そんなことを言われたって、お母さん、仕事だったんだから」と答えた。

 「仕事」という錦の御旗を口実にされることが、子どもにとってどんなに腹立たしいかということが分かっていない。子どもから見たら、母親を「仕事」に取られたようなものである。母親は子どもと心を通わせるべきときに、子どもを突き放したようなものである。

 こうしてこの少年は金を脅し取っては、遊興に使うという日々を過ごすようになった。「お金」と「仕事」が少年の心を荒れさせたとも言える。父親は「お金」のために働き、母親は「仕事」のために働く。その谷間で子どもは寂しい心で孤独の日々を送る。これはいま日本中の家族の中で起きていることである。ということは、程度の差はあれ、この加害少年の予備軍が山ほどいるということを意味している。

 この事件の背後には、日本人の拝金主義とフェミニズムの「働け」イデオロギーとが、色濃く影を落としていると言える。父親の働きすぎと、母親の「働け」イデオロギーを反省し、もっと子どもの心と向き合うことを大切にしなければならない。でないと、この種の事件は決して後を絶たないだろう。

 

地域の「プロ」を活用せよ 

 中学生が五千万円もの多額の金額を奪い取り、遊びまくっているのに、周りの者たちが気がつかない、気がついても適切な手を打つことができないというのは、あまりにも異常である。奪われている少年の様子がおかしい(ひどい怪我をしているなど)周囲の大人が感づいていたにもかかわらず防げなかったということに、家庭や社会の機能が低下していることを思わずにはいられない。

 家庭の中で父性や母性が欠けているという事態に対して、それを補うものとして、必ず言われるのが「地域の力」「地域共同体の再生」ということである。育児に悩んでいる母親に対して、また徘徊している犯罪予備軍に対して、地域の皆が目を配り、力を貸せばよいという意見である。

 しかしこの意見は机上の空論だと私は思う。なぜなら都会ではすでに「地域共同体」は崩壊しており、それを再び再建することなど不可能なのである。それは「古きよき時代」への郷愁にすぎない。

 実際に「地域」で何かをするとして、誰が何をできるというのであろうか。そうした活動はボランティアに頼らざるをえないが、しかし育児にしても防犯にしても、また更正にしても、かなりの専門的な知識と経験を必要としている。気持ちだけはあっても素人だという人の手に負える仕事ではないのである。

 「地域」などという漠然とした実態のないものに頼るよりも、私はむしろ既存のプロの組織を活用することを提案したい。プロとは学校、警察、地域に置かれている各種の相談機関である。地方自治体には必ず児童相談所や教育相談所が置かれている。そこにはプロ(のはず)の職員が常駐して、子どもに関する問題について相談を受ける体制が整えられている。児童相談所に至っては、虐待などの事実があれば家庭の中にまで介入して子どもを保護する権限が与えられている。

 これらのプロの機関がこれまで十分に機能してこなかった。教師はサラリーマン化し、警察は「民事不介入」の姿勢をとり、下手に介入すると「権力的だ」と叩かれるので常に及び腰である。各種の相談機関の相談員はどういう基準で選ばれたのか分からない不適任者も少なくない。(選ぶ市町村の職員が素人のため、適切な専門家を選べない場合がある。)だから相談に行っても役に立たないので、誰も相談に行かないという、それこそ税金の無駄遣いという事例も少なくない。

 日本中では膨大な数の「専門家」が無駄飯を食っている、膨大な金額が無駄になっているのである。ここにメスを入れて、既存の組織を活用するだけで、日本全体の相談機能は飛躍的に改善されるはずである。

 要するに、この分野では、プロがプロとして十分に機能していないと言える。「地域」「地域」と言うけれども、地域にはすでにプロの組織があり、プロが存在しているのである。それだけのお金をかけているのに、それが有効に働いていないで、次々に重大事件が起こるのを防げないことこそ問題ではなかろうか。「地域」のプロ組織は半分死んでいると言っても過言ではない。真のプロを養成し、それを活用することをもっと真剣に考えるべきである。

Back to Top Page