原理主義の心理学的解明、そして日本の取るべき道

                   (平成13年8月18日初出)

                                          

 今回の米テロ事件にどう対処するかという問題は、当面の対応策とは別に、テロを産み出す土壌をなくすという観点から考える必要がある。

 テロの土壌をなくすといっても、経済的社会的な土壌(貧困や政治的不公正)をなくすことも大切だが、心理的な背景の解明もそれらに劣らず重要である。というのは、テロの背景には、単なる政治的・経済的な問題ばかりでなく、宗教的・心理的な問題が横たわっているからである。宗教心理学的な見方が必要なことは、テロリストもそれを支援しているタリバンも、イスラム原理主義を奉じていることを見れば明らかである。

 前稿で、テロの中心にいる人物に狂気が見られると分析したが、その周りにいる支持者や崇拝者たちの心理を分析することも、それにもまして重要である。一人の犯罪者だけでは重大犯罪は起こせない。その周りに集まる共鳴者たちの存在が手足の役割を果たすからである。

 今回のテロの首謀者がオサマ・ビンラディンだと仮定し、その共鳴者が実行犯だと仮定すると、その宗教的背景がイスラム原理主義であることは明らかである。少なくともオサマ・ビンラディンはアメリカ人全員が悪人だと断定し、テロによって殺してもよいといっているのだから、今回の犯人であるかないかにかかわらず、テロリストだと言っていいだろう。さらに彼らの宗教的背景がイスラム原理主義であることも明瞭である。(本日の新聞によると、アメリカの爆撃後のテレビ放送で、ビンラディンはテロがイスラム教徒によるものと認めた。)

 だからここでイスラム原理主義とは何かという問題について、ユング心理学の立場から解明してみることは、それにどう対応するかという問題について、なにがしかの寄与をすることができると思われる。

 以下、イスラム原理主義とは心理学的に見ると何者なのか、という問題について論じてみたい。

 

一 原理主義とは何か

 

 まず、そもそも原理主義とは何か。「原理主義」とは自分たちが名乗っている名前であり、客観的には「教条主義」Dogmatism と言う。「教条主義」とは、もとは宗教から出た言葉であり、原典(教祖の言葉)やその後教団として確立された教義 Dogma を字義通りに受け取って、その実行を例外を許さずに押しつける、という態度を表わしている。この態度は狂信的になることが多く、また恐ろしいほどの闘争性と攻撃性を伴うことも多い。したがって人間社会にとって非常に危険な性質を潜在的に持っていると言うことができる。

 教条主義はすべての宗教、主義につきもので、過去においてはキリスト教とマルクス主義の教条主義が有名である。前者は異端審問から魔女狩り、後者はスターリニズムとなって現象した。ユダヤ教の場合は律法主義という形を取っている。

 これらは必ずといっていいほど、個人崇拝を伴う。マルクス主義の場合はマルクスへの、スターリンへの、毛沢東への個人崇拝。イスラム教の場合はサダム・フセインへの、またオサマ・ビンラディンへの個人崇拝が強くなる。その個人崇拝をバックにして一定の考え方や行動を強制することになるから、他の思想や宗教を持つ人に対しては非常に排他的・抑圧的・支配的になる。

 そこで、「いったい原理主義とか教条主義はなぜ発生し、人間の心にいかなる作用を及ぼすのか」ということが問題となる。

 

二 原理主義の心理学的基盤 (元型的基盤)

 

 原理主義の心理学的背景を探るためには、そもそも「主義」というものについてユングが言っていることが参考になる。

 「主義」というものについて、ユングは次のように言っている。

 第一に、主義の内容はすべて元型的な性質を持っている。

 第二に、集合的意識と同一化した人間が、主義にとりつかれる。

 第三に、エロスを失った人間、ゼーレとの結びつきを失った人間が、主義にとりつかれる。

 (以下、ユングの言っていることを引用するが、一般の読者は読まなくてもよい。そのあとの解説だけ読めばよい。)

 

 第一の命題を表わす引用。

「神話や宗教、そして△△主義の本質的内容はすべて元型的な性質を持っている。」(『元型論』p.338)

 第二の命題を表わす引用。

「内面の事柄には少しも関心を持たず、自分たちの本能基盤からはるかに離れて集合的意識という混乱しきった世界に迷いこんでいる人々にかぎって、まさしくこの△△主義の影響を最も受けやすいのである。」(p.337-8)

「この△△主義とは個人的意識が集合的意識との危険な同一化に陥ったものにほかならない。」(p.354)

 第三の命題を表わす引用。

「教会とその母性的エロスが存在しなくなると、個人は無防備となってなんらかの集合的な△△主義とそれにつきものの大衆心理に身を委ねることになる。」(p.354)

「この△△主義こそゼーレの現実との失われた関連を補うためにひねり出された代用品にほかならない。」(p.355)

「個人的意識が集合的意識の観念や意見を好みそれと同一化すると、集合的無意識の内容は抑圧される。この抑圧は典型的な結果をもたらす。つまり抑圧された内容のエネルギー荷が高まって抑圧する要因のエネルギー荷にある程度近づき、それにつれて抑圧する要因の力も高まる。その負荷が高まれば高まるほど、抑圧の構えは狂信的な内容となり、それによって逆転が、いわゆるエナンティオドロミーが忍び寄る。集合的意識の負荷が大きくなればなるほど、自我は実際の重要性を失う。自我はいわば集合的意識の意見や傾向に吸収され、その結果、△△主義の虜になった大衆人間が生まれる。」(p.352)

 

 以下、それぞれについて簡単に解説する。

 第一の「主義の内容はすべて元型的な性質を持っている」について。

 原理主義の場合、とくに宗教の場合は、ここに言われている「元型的性質」とはすべて「精神元型」である。「精神元型」とは簡単に言えば「神の元型」だと思えばよい。(正確には「神」の半分を表わしているが、一般の読者は「神の元型」だと思っていてよい。つまり神のイメージとそれが命令する内容である。)

 原理主義者が信奉している信仰内容は、この元型的な神が命令する戒律や義務から成っている。元型的な神の像は圧倒的な権威と力をもって人間の心を捉えているので、神の命令は絶対の力をもって人々の思考や行動を縛る。

 「精神元型」は「意味の元型」とも言われているとおり、人間に対して生きている意味や社会的現象などの意味を指し示すので、その意味に感激したり、それによって「世界を理解できた」と思った人は、その宗教なり主義を信奉することになりやすい。これが次項に述べる狂信や憑依という問題につながっていく。

 

 第二の「集合的意識と同一化した人間が、主義にとりつかれる」とは、次のようなことである。

 「集合的意識」とは、ある範囲の人々に当然のこととして共通に持たれている観念や常識、習俗、風習などである。あまりにも正しい当然のことと思われているので、普段はあまり意識していないが、一朝事あれば絶対に正しいこととして皆が守ろうとする。

 このように、ある観念を絶対に正しいと思い込んでいる状態を、この観念と「同一化」していると言う。つまり原理主義者というものは、その宗教の教義や戒律を絶対に正しいと思い込んでおり(同一化)、したがって例外を許さない厳しさでその原理を守ろうとし、また他人にも強制しようとする。

 (『朝日新聞』10月6日夕刊によると、「米軍による報復攻撃に反対する意見広告を、千葉県の主婦らでつくるグループ『グローバル・ピース・キャンペーン』がニューヨーク・タイムズ紙に出す」という。9日に掲載、一面広告の予定だそうな。

 趣旨は「報復ではなく公正な裁きによる解決を訴える」という。

 じつにピントはずれのノーテンキな主張である。

 第一に、アメリカは報復などやるとは一言も言っていないのに、「報復でなく」と言ったら、お笑いものである。

 第二に「公正な裁き」というけれど、証拠を公開することは情報の出所をテロリストに教え、テロリストを利することになる。だいいち、テロリストを出頭させることがどうしてできるのだ。逮捕することさえできないだろう。

 こんなテロリストを利するばかりの非現実的な愚かな意見を日本人がアメリカの大新聞に出したら、それこそ国辱ものである。

 どんな場合にも「軍事行動はすべていけない」という一種の集合的意識を繰り返すのもまた教条主義であり、いわば「平和原理主義」に陥っている。一定の考えに憑かれているので、行動力はあるし、いかなる傷害をも乗り越えて自身を貫く強さを持っている。しかし彼女ら自身が教条主義的であり、その思考様式も行動様式もイスラム原理主義と同じに危険だということに気づくべきであろう。)

 

 第三の「エロスを失った人間、ゼーレとの結びつきを失った人間が、主義にとりつかれる」という点について。

 この場合の「エロス」とは、非常に広い概念で、人間どうしの関係性とか、現実との関わりとか、柔軟な心といった意味である。もちろん母性的、女性的な性質も含まれる。こういう性質が失われると、心が渇いてきて、闘争的・攻撃的になる。例外を許さない排他的で原理主義的な態度は、母性や女性性の欠如と関係があるとユングは言っているのである。

 

三 憑依と狂信への傾向

 

 原理主義が「精神元型」と深い関係があることを述べたが、さらに進んで、原理主義者がその「精神元型」に憑かれてしまうという事態が起こる。

 「憑かれる」とは、その元型的なイメージに心が占領されてしまい、乗っ取られてしまった状態である。つまり自分の主体的な自我や意志がなくなってしまい、元型的なイメージまたはそのイメージをこの世で体現している者の指示どおりに考え行動するようになる。こうなった状態を「憑かれた」という。ちょうど飛行機が乗っ取り犯人に乗っ取られた状態、あるいはインベーダーに頭脳を占領された状態である。

 こうなると「個人崇拝」を超えて、「同一化」してしまい、自分と神またはカリスマ的人物との区別がつかなくなってしまう。その人物の指示どおりに行動するようになってしまう。これをユング心理学では「自我肥大」といい、世間では「狂信」という。

 

四 影の投影

 

 この心理的状態に陥ると、人間は「集合的影」を他者に投影しやすくなる。

 「影」とは、マイナスの評価をされた性質であり、簡単に言うと「悪者」のイメージである。ある集団の人々が共通にマイナスだと思っている性質を「集合的影」と呼ぶ。この集合的影は、集合的意識と同じように半ば無意識だし、絶対に悪いものだと思い込んでいるので、他者に投影されやすい。すなわち現実に存在する人や集団がその性質を持っている「悪者」だと思い込んで攻撃するようになる。

 たとえばイスラム原理主義者の多くは、「悪い」性質をすべてアメリカまたはアメリカ人が持っていると考えるが、それは投影されたイメージにすぎず、アメリカ人のすべてがその性質を持っているはずがない。

 この投影が加わると、攻撃性がいっそう増大する。多くの国際紛争や民族紛争の背後には、必ずといっていいほど、この投影の心理が働いており、問題を複雑にし、こじらせている。 

 

五 憑依・狂信を引き起こす条件

 

 イスラム教という宗教の中に、このような原理主義に傾斜させるような要素がどの程度あるのか、また憑依や影の投影へと傾斜していく要素がどの程度あるのか、イスラム教を十分に研究していない私には決定的なことは言えない。父権的な一神教という性質が無視できない影響を与えるだろうことは予想できる。またエロス原理が欠ける傾向にあることも想像できる。

 しかし父権的な宗教や一神教は他にもあるので、それだけで原理主義になるわけでもなく、ましてや狂信的になるわけでもない。

 では、いかなる条件があれば、原理主義が憑依と狂信にまで進むのか。

 その条件として考えられるのは次の諸点である。

 

1 内向型の性格

 内向型は理念(原理)を基準にして考え、几帳面で理想主義的になりやすい。つまりもともと原理主義、教条主義になりやすい性格だと言うことができる。

 ただし、もちろん内向型だというだけでは、原理主義にはなっても、憑依にまで進むわけではない。そのためには「みじめな自我」というものがあり、それを補償するものとして、その「みじめな自我」をはるかに超える強大な人格と同一化するところまで事態が進まなければならない。

 

2 現実からの遮断、遮蔽

 なんらかの理由で日常的な生活の基盤から根こそぎにされ、毎日の仕事をして生活を維持するという基盤が失われると、妥協したり柔軟に考えるなどの現実性がなくなっていく。たとえば、長い期間にわたる亡命・難民生活を強いられる、あるいは戦乱の中に置かれると、非日常性が日常となり、心が空白になるために原理や教条が心を占領しやすくなる。

 

3 悪い境遇

 貧困や戦争などの劣悪な環境に置かれると、それから一足飛びに救われたいと願い、極端な思想や信仰に、また極端な救いの理論に引かれるようになる。たとえば、聖戦で死ねば天国に行かれるといった教義を信じやすくなる。これも「みじめな自我に対する補償」である。 

 

4 恨み、憎しみの感情

 親や家族を殺されたとか、家や故郷を奪われたという「恨み」や「憎しみ」という悪感情は、「原理」から外れる者への憎しみとなって向けられるという形で、「原理」が憎しみを発揮する道具になる場合がある。

 つまり憎しみを向ける相手がいないとか、だれが「悪い」のか単純に分からないという場合には、単純に「原理」からはずれる者に憎しみをぶっつけることになりやすい。

 この場合にキリスト教文明とイスラム教文明という対立で考えると、「みじめな」文明の側になった者たちの劣等感コンプレックスも作用しているであろう。それが集合的影を形成して、その恨みや憎しみを「アメリカ」といった特定の相手に投影するのである。

 

 以上をまとめると、

第一にイスラム教には原理主義になりやすい性格がある、

第二にアラブ世界にはその原理主義が憑依や狂信に行きやすい客観的な状況がある、と言える。

 ではその対策はと言えば、

いかにイスラム教に原理主義的な傾向があるからといって、イスラム教を変えよとか、ましてやなくせと言うことはできない。

 としたら、それが狂信へと行かせるような条件をなくすしか方法がない。

 すなわち、

 第一にアフガニスタンやパレスティナなどから戦乱をなくし、中立な政府を作って平和と経済的自立を保証すること、

 第二に、それによって人々に平和な日常生活を取り戻すこと、

以上の方策以外にありえない。

 すなわちテロを肯定する政権をうち倒したあとの国際的な共通認識と協力こそ重要である。間違っても、再びアメリカとロシアが影響力を競い合うということがあってはならない。

 長い目で見るかぎり、アメリカの武力行使が本当の成功だと言えるためには、戦後処理こそが最重要の課題となるであろう。幸いアメリカの戦略を見るかぎり、タリバンを打倒したあとの、戦後の政権の行方まで見据えたものになりつつあるようである。その新政権が真に中立なものになることを願うばかりである。

 そして領土的政治的野心のないことが明瞭な日本こそ、アフガニスタンの戦後復興と和解のために貢献することができるはずである。単なるアメリカの後方支援というお手伝いに甘んじていないで、真の解決のためにもっと世界の役に立つ道を進んで選ぶ気概を持つべきではなかろうか。

 

(10月17日に加筆)

国辱ものの平和原理主義 ──「報復反対」の米紙意見広告

 例のニューヨーク・タイムズ紙10月9日付けに、「米軍による報復攻撃に反対する」意見広告を掲載した、千葉県の主婦がテレビに出たのを見た。

 テレビでちらっと見ただけだが、この「主婦」は「ブッシュさんは子どもですよ、殴られたら殴りかえすなんて、子どものけんかと同じですよ」と楽しそうにへらへらと笑いながらしゃべっていた。

 私は思わず「お前の方が子どもだろう」とつぶやいた。5000余人を一瞬にして殺した空前のテロ行為を、子どもが「殴った」のと同じ次元で論ずるという神経に、しかもそれをへらへらと笑いながらしゃべる感覚に、私は開いた口がふさがらなかった。

 彼女らはイギリスやパキスタンなどの主要新聞にも同じ意見広告を載せると言っている。それを支援する団体もあれば、募金する人々もいる。多くの募金が集まれば、世界中にその意見をばらまくのであろう。日本人の恥のばらまきである。

 彼女らのような思考と行動を「平和原理主義」と言う。「戦争反対」とさえ言っておれば正しいことを言っていると思いこんでいる、「平和教」という名の教条主義である。

 

 同じ「平和原理主義」の人々が、「援助物資は運んでもいいが、武器弾薬はいけない」とか「陸上輸送はいけない」とか、「海外派兵での武器使用はいけない」と、昔と同じせりふをはいている。教条主義の特徴は、状況が変わっても同じ原則を主張しつづけるところにある。

 テロとゲリラ戦の組み合わせは、状況をはっきりと変えてしまった。

1 「市民」と「戦士」の区別はつかない。(ゲリラはつねに「人民」の中にかくれ、「人民」のふりをしている。おそらくビン・ラディンも「市民」の中にもぐっているのではないか。)(毛沢東が説いたゲリラ戦の基本は、「人民の海に隠れろ」である。)

 だから、彼等と戦おうとしてら、「市民の犠牲」は皆無にはできない。「市民」「人民」を楯にする戦術そのものが残酷なのであり、批判されるべきなのだ。

2 国境はなくなっている。つまり目に見える戦線はなくなり、「海外で戦うか、国内で戦うか」という区別はできなくなっている。だから「海外派兵は是か非か」という論争は無意味になっているのだ。「自衛のための戦い」が「国内でのみ戦う」こととイコールではなくなっているからである。

3 テロと戦うか戦わないかの二者択一しかありえない。

 ビン・ラディンとの戦いに加わらなければ、たしかにビン・ラディン一派の攻撃は受けないかもしれない。しかし将来なんらのテロも受けないと保証できるのか。げんに我が国は北朝鮮の「拉致」というテロを受け続けてきたのだ。

 現代の発達した巧妙なテロに対して、一国だけで戦うことは不可能である。国際社会とともに戦うことが必要になる。自国が被害者になったときにだけ「助けてちょうだい」と言っても、誰も相手にしてくれないだろう。

 だいいち、今回のテロ事件の被害者はアメリカ人だけではない。日本人も20人以上が死んでいるのだ。テロとの戦いは「アメリカへの支援」ではない。「ともに戦う」べき戦争なのである。

 言っておくが、憲法は「国際紛争の解決のための戦争」は否定しているが、無差別殺人と戦っていけないとは言っていない。これは「国際紛争」ではない。大量殺人者に対する防衛の戦いなのだ。

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