父性

9 田村毅氏への反論

 

 田村毅氏は執筆中の著書『父親不在と家族療法』の第一章をサイトに発表している。その中で彼は私の『父性の復権』を、アメリカのプロミスキーパーズと同様に、「父親が自信を持っていた時代へのノスタルジア」であり「過去のノスタルジアへの回帰」だと性格づけている。(プロミスキーパーズについてよく知りもしないで、これこれの性格だと決め付けるのも乱暴な話だし、何々と同じという批判の仕方も粗雑である。)

 

古典的な誤解

 私が提唱した父性を、田村氏は全体主義の時代に理想とされていたものだと誤解しているようである。このような誤解は今では滅多になくなった「古典的な誤解」だが、それを今でも彼は持ち続けているのだろうか。その誤解の上に立って、彼はこう言う。

 

 林道義らの言う父性があった時代には、それを有効化する社会的・家族的枠組みがありました。たとえば、昭和初期の全体主義的な社会では、個性よりも集団性によって社会が成り立っていました。天皇を頂点とするタテ系列を整備し、近隣社会では隣組、そして家族においては家長という役割を持たせることによって国全体の命令系統を整備する必要がありました。社会を構成する末端集団としての家族を統率する役割が父性だったのです。

 

 私が言っている「父性」は、全体主義の時代だけではなく、およそ家族というものが存在するかぎり、どの時代にも存在していたものである。私は、そういう普遍的な父性に根ざした、権威主義的でない、健全な権威に基づく父性を提唱しているのである。

 

 戦争が終わり、全体主義は民主主義にとって替わりましたが、人々の集団性を好む傾向は変わりません。「お国のため」が、「会社のため」に入れ替わっただけで、男性たちは一生懸命会社のためにつくし、生活の大半を家庭外で過ごしました。男性は家庭のそとに生きがいを求め、女性は銃後の守りとしてそれを内側から支えるという構造は戦前も、高度経済成長期も全くかわっていませんでした。家族は例外があるものの、基本的には男性が仕事をして、女性が家事・育児を担当するという役割分担のもとになりたっていました。そのような家庭で男性に求められていたのは、家族をまとめあげ、家族集団をリードしていく役割だったのです。

 

 戦後の家庭で男性に求められていたのが「家族をまとめあげ、家族集団をリードしていく役割」だったというのは間違いである。戦後の家族の中で「家族をまとめあげ、家族集団をリードしていく役割」を果たしていたのは母親である。父親は家庭内のことには関心を向けなくてもよい、あるいは向けてはならないとされ、情報も能力も奪われていた。だからこそ日本家庭の中では「父性の不足」が深刻になったのである。

 

 しかし、今の日本社会ではそのような枠組みが消失しています。1970年代以降、女性たちは家庭内ばかりでなく、家庭外にも生活の場と生きがいを求めるようになりました。1990年に入り、バブル経済が崩壊したおかげで男性たちにとって所属する会社や仕事のみに生きがいを求める生き方に限界が来ました。いい意味でも悪い意味でも個性が尊重される時代ですから、以前の家族に求められていた確実な集団性は解体の一途をたどっています。

 このような時代背景の中で、以前有効であった父性を復活させたところで、社会から無効化されることは目に見えています。父性とは、男性たちが自分自身に内在させていた属性ではないのです。家庭や社会の中で人々が語ることによって支えられ、共有されていたから存在したわけで、男性たちの中というよりは社会の人々の間に共有されていた価値観なのです。河合隼雄は、戦前のお父さんは立派だったというけれど、あれは父性として偉かったのではない、父親を偉く思わせるような仕組みが世の中にあったというだけだと述べています(河合隼雄「『父性の復権』などできない」文芸春秋97.10.)。

 

 私は「以前有効であった父性を復活させ」よ、などということは、ただの一度も言っていない。

 「父性とは、男性たちが自分自身に内在させていた属性ではない」と、どうして言い切れるのか。「父親を偉く思わせるような仕組みが世の中にあった」ということも確かに言えるが、しかしだからと言って、父性が内在化されていなかったという証拠にはならない。(この問題についてはくわしくは「1 河合隼雄氏への反論」を参照されたい)

 『父性の復権』を昔の権威主義的な父性の復活を狙うものだと誤解したい人々に限って、「昔は父性などなかった」と言う。そういう屁理屈の口火を切ったのが河合隼雄氏である。河合隼雄氏がどのような人々に理論的根拠を与え、バックアップしているか、金川欣二氏や田村毅氏の例を見ただけでも明瞭である。つまり河合氏は「父性」を「昔の権威主義的な父親像」と重ね合わせて見たい反権威主義者たちの理論的パトロンなのである。

 

 全体主義的な仕組みの中では、全体主義的な父性が働いていた。

 

  当たり前のことである。そういう権威主義的な父性を否定し、また戦後の父性喪失をも批判して、新しい「父性」概念を探っていこうというのが、私の『父性の復権』であった。

 

 今の家族には、そのような仕組みはありません。全体主義の時代に理想としていた意味での家族のまとまりは崩壊しています。

 

 当たり前である。そんなことは百も承知している。

 

 男性であること、父親であるということだけで無条件にリーダーの役割を担うことには無理が来ています。

 

 「男性であること、父親であるということだけで無条件にリーダーの役割を担う」べきだなどということを、私はただの一言も言っていない。むしろ逆にそういう姿勢をこそ、私は権威主義として批判したのである。

 

 逆に、そのような視点から父性を論じること自体が、父親不在という社会的な問題を作っているとしても過言ではありません。多くの男性たちは父性という幻想をいまだに捨てきれずにいます。というか、昔の幻想しか思い浮かぶものがないために、とりあえずしかたなく旧来言われていたよう父性を発揮しようとします。父性を支える仕組みがない世の中で父性を発揮しようとしたらどうなるでしょうか。

 実際、多くの事例がそれを物語っています。子どもが思春期にさしかかり、父親としてさまざまな問題に直面すると、それまで「不在」であったにもかかわらず、必要に迫られて父親を演じようとします。子どもを呼んでじっくり話し合おうとしますが、いう事を聞かない子どもに対して厳しく接しようとして叱りつけたり、学校に行きたくないという子どもの気持ちを無視して、学校に行くことを執拗に迫ったりします。しかし、このようなやり方では父親と子どもの溝は深まるばかりです。子どもにとって父親は遠い存在で、なんとなく恐いというイメージを持っています。そこで急に強いことを言われていても、その言葉に納得しないばかりか、父親への拒否反応をますます強めてしまいます。

 母親はそのような父親に冷ややかな視線を送ります。既に母親自身が子どもにたくさん説得してきて、そのようなやり方が無駄だということは悟っています。今まで父親らしいことはほとんどしてこなかったのに、急に子どもに問題が生じたからといって厳しく接しても、子どもの心は離れていくばかりなのに、と母親はつぶやきます。

 

 ここに描かれているような父親の関わり方こそ、私が「権威主義的」だとして批判したものである。田村氏は、私が批判しているものを私の主張だとして批判しているにすぎない。

 ここで挙げられている例は、「父性を支える仕組みがない世の中で父性を発揮しようとしたらどうなるでしょうか」という例ではなく、「権威主義的な父性を支える仕組みがない世の中で権威主義的な父性を発揮しようとしたらどうなるでしょうか」という例にすぎない。すなわち田村氏は、「父性」一般を「権威主義的な父性」とスリカエておいて、「権威主義的な父性」の欠陥をあげつらうことで、「父性」一般を批判できたと思っているにすぎない。

 

 以上、田村氏がいかに馬鹿馬鹿しい曲解をしているかは明らかである。なぜ彼はこんな簡単な誤解をしたのであろうか。それは彼が無意識のうちに持っている視点ないしイデオロギーの偏向のせいである。次にその点について明らかにしよう。

 

父性は「社会文化的な変数」か

 彼は、私には「父性が社会文化的な変数である」という視点が欠落しているとして、次のように批判している。

 

 これらの主張に欠落している重要な点は、父性が、社会文化的な変数であるということです。父性や母性という言葉によって与えられる特定の態度や機能は、時代や文化を超えて普遍的に存在するのではなく、あくまでその特定の社会の文脈に沿ったかたちで創られたひとつの価値観に過ぎません。したがって、それを支える社会的文脈から切り離された価値観は意味がありません。

 

 このように「父性」や「母性」が「社会文化的な変数だ」という見方そのものが、じつは特殊歴史的なもの(したがって社会文化的な変数)なのである。

 すなわち「父性」や「母性」という概念の中には、社会文化的に変化する部分と、通時的にあまり変化しない部分、つまり普遍的な部分とがある。

 しかるに田村氏は、「父性」というものは百パーセント「社会文化的な変数」だと考えているようである。

 『父性の復権』『母性の復権』において私はまず第一に「父性」と「母性」の普遍的な部分に注目して概念規定を行っている。それがたとえば「父性の条件」としての

(1)まとめあげる力をもっていること、

(2)中心となる理念をもって文化を継承すること、

(3)全体的客観的視点をもっていること、

(4)指導力(健全な権威)をもっていること、

(5)愛情をもっていること、

の5つである。

 この「父性の条件」は、いかなる時代のいかなる社会の家族でも、まがりなりにも持っていた特徴である。それがなければ、そもそも家族というものは続いていかない。

 この最も基礎的な本来の父性像を「復権」(復活ではない)させようというのが、私の「父性復権」論の骨子である。私はこれを全体主義的・権威主義的な父親像に対抗して、新しい父親像の基礎としてもう一度見直すことを提案したのである。また、戦後の役割分担が「父親は外で仕事」「母親は家事育児」という歪んだ分担になっていることに対して、父親も育児に積極的に関わるべきだという形で、反省と変更を求めたのである。

 このことを田村氏が理解できなかったのは、彼が「父性とは百パーセント社会文化的な変数だ」と考えてしまったからである。

 彼の言うようにすべてが「社会的な変数」だとすると、「父性」も必ず過去の社会の産物だということになる。だから「父性」と名のつくものはすべて、過去の全体主義的な「父性」の復活を目的にしたものだと思えてしまうのであろう。

 しかし、「父性とは社会文化的な変数だ」という田村氏がよって立つ視点も、じつは「社会文化的な変数」であり特殊社会的な視点である。というのは、それはフェミニズムに特有の見方であり、さらにさかのぼれば文化を「上部構造」と見るマルクス主義を起源としているからである。

 彼は「父性」の特殊歴史性を言うくせに、そのように言う自分の視点(イデオロギー)の特殊歴史性を意識化しえていない。その無意識に持っている枠組みは、必ず臨床にも悪影響を与えるであろう。無意識の枠組みが臨床に与える影響について、以下に述べることにする。

  

性役割の廃止か組み替えか

 田村氏は、私やプロミスキーパーズが「伝統的な(全体主義的・権威主義的な)父親役割に復帰する」ことを目指していると曲解した上で、こう批判する。

 

 伝統的な性役割を強化してもなかなかうまくいきません。うわべだけの父親復権はかえって父親の家庭内での孤立を深めてしまいます。むしろ必要なのは、そのような性役割からの解放なのです。

 

 私は「伝統的な性役割を強化」しようとも思っていないし、「うわべだけの父親復権」なども主張していない。ただ「伝統的な性役割」から解放された、新しい適切な性別役割分担を探っているだけである。

 しかるに、田村氏は、私が「家族や社会のシステムの中における性役割」を問題にしていないかのように歪めて描くのである。私は「家族や社会のシステムの中における性役割」を大いに問題にしている。男女のあいだの分業そのものは望ましいとして、その分業のよりよいあり方を探っているのである。その試みこそ、『父性の復権』であり、『母性の復権』であった。私は父性と母性の適切な分業を提唱しているのである。

 ところが、田村氏は、性別役割分担そのものの廃止を、「性役割そのものからの解放」を目標にしているのである。彼は「父親不在と母子密着のパターンが日本の家族の典型」だと捉えた上で、次のように述べている。

 

 父親不在と母子密着は表裏一体で、どちらが原因で、どちらが結果かということは言えません。性役割という社会システムの中で、必然的に生まれた家族システムのひずみなのでしょう。男性は家族から遠ざけられ、女性は家族に埋没し、方向は正反対ですが、その根底にある心理はおどろくほどにています。それは、家族に関わること、子どもに関わることへの迷いとあせりです。これらの不安を解消するために必要な意思疎通とコミュニケーションが絶対的に欠けているように思います。

 

 ここで彼が言っていることは、「父親不在と母子密着」という「家族システムのひずみ」は、「性役割という社会システム」から必然的に生まれたものだということである。つまり性役割そのものが悪いということである。

 彼はこの文章の直前にこう述べている。

 

 なぜ、父親は現われないのか。それは父親個人の問題ではなく、そうせざるをえないシステムが回っているのだということ

だと。

 この捉え方は一般的にはまったく正しい。しかし、彼はその悪玉としてのシステムを「性役割」一般に求めてしまった。この間違いは彼の実践する「家族療法」にも悪影響を与えずにはおかないであろう。

 

「家族療法」への悪影響

 田村氏の「家族療法」の考え方は、「性別役割分担」が夫婦の関係に悪影響を与えているという先入観によって規定されている。彼には、分担の仕方や中身に問題があるかもしれないという視点は希薄である。分担そのものに原因があるという見方である。

 たとえば、彼が示している症例の中で、その問題をはっきりと示している例が見られる。彼はいくつかの父親のパターンを示す中で、印象の強い例として「困惑する父親」というタイプについて、こう述べている。

 

 私の印象で多いのはむしろ「偽りの権威を持つ父」と「帰ってきた父親」の中間に位置するタイプです。子どもの問題に直面し、なんとか手助けしたい、家族に関わりたいとは思うのですが、本人、家族あるいは会社が持っている伝統的な父親役割のためになかなか思うようにいきません。理解しがたい子どものことをどうする術もなくただ手をこまねいている「困惑している父親」たちです。 (下線 林)

 

 このタイプは、私の言う「権威喪失」型の父親とぴったり一致している。田村氏は、このタイプが戦後日本の父性の大きな問題であることを正しく捉えている。しかし田村氏は、父親たちが「困惑」している原因を「伝統的な父親役割のためになかなか思うようにいきません」と捉えてしまった。そういう公式に囚われていては、本当の問題点を逸してしまう。このタイプの父親たちが困惑しているのは、伝統的な父親像に囚われているからではなく、まったく逆にその伝統的な父親像を捨てたあとで、なんの父親像も描けないからである。

 だから、父親たちが家族と関わることができないのは、単に「意志疎通とコミュニケーション」の能力が不足しているからではない。権威主義的な父親像を捨てたあとで、健全な権威をもった新しい父親像を持てないためなのである。しかも、現在子育てをしている30、40代の父親の中では、このタイプが圧倒的に多いのである。

 この点の認識が間違っているために、カウンセリングの内容にも影響が出ていることが推測できる。つまり治療者の先入観によって、うまくいかないケースが出てくることが予想される。治療者が持っている無意識の構えを、クライエントに押しつけてしまうからである。

 たとえば、なんらかの役割にこだわっているのではないのに、「伝統的な役割にこだわっている」と理解してしまうと、まったくの的はずれな前提に立ってカウンセリングを進めることになる。するとクライエントとの間にコミュニケーションがうまくいかなくなる恐れが多分にある。

 また、夫婦の一方が、父性なり母性なりの普遍的な役割に従おうとしており、他方がフェミニズム的な役割否定にこだわっているという場合に、治療者が後者にのみ共感を持ち、前者に否定的な考えを持っていては、夫婦カウンセリングは絶対にうまくいかない。前者とのラポール(治療者とクライエントの間の共感的な信頼関係)が成り立たないからである。

 このように、治療関係の中のコミュニケーションの可能性は、単なる共感能力やコミュニケーション能力だけの問題ではなく、いかに自分の無意識の枠組みを意識化し、その呪縛から逃れて、柔軟な心の構えをもっているかにも関わっている。固いフェミニズムの公式に囚われている田村氏は、この点で治療者として大きな問題を持っていると言わざるをえない。

 それと、もう一つフェミニズム公式主義の弊害として指摘できるのは、母性の問題について「母子密着」しか意識しておらず、「母性喪失」の問題をまったく意識していないということである。この点は私と田中喜美子氏との論争の最大の争点であった。この点については拙著『母性の復権』『母性崩壊』をよく読んで、母性についての正しい理解と現実認識を持ってほしいと思う。

 

エコロジカル・フェミニズムのジェンダー論の欠陥

 田村氏はエコロジカル・フェミニズムに立脚しており、その立場から家族療法、フェミニスト・セラピーを推奨している。

 そのエコロジカル・フェミニズム理論の欠陥をはっきりと示しているのが、「性役割と父親不在:家族システムにおける男性性という構築」という論文である。

 フェミニスト・セラピーとは「社会的構築であるジェンダーに注目し、女性性・男性性という束縛からの解放を目指す」ものである。これをとくに男性性に注目して考えると、男性が「自らが作り上げた男性中心社会の中で、男性の役割や男らしさという規範によって自らの自由な表現や行動が束縛されている」ことに気づかせ、「男性優位社会の中で、見過ごされてきた関連性、関係性、サポートなどの女性的価値観に注目することにより、価値観の変革を目指す」ことが目標となる。

 このように「女性的な価値を見直せ」というのがエコロジカル・フェミニズムの特徴である。こうした考え方は、今では「女性的価値」「男性的価値」というように分けて考えること自体が間違いだというラジカル・フェミニズムの考えが社会的・政治的に勝利したことによって、フェミニズムの中からはほとんど抹殺されている。

 エコロジカル・フェミニズムの欠陥は、ラジカル・フェミニズムの言うように「女性的価値」と「男性的価値」を分けて考えるところにあるのではなく、「女性的価値」の良いところばかりを強調して、「男性的価値」を単なる「自立性・分離性・独立性」という狭い価値観としてしか認識できていないところにある。

 したがって彼らは、単純化して言えば、男性が男性的な価値観を捨てて、女性的な価値観を持つようになれば、家族間の葛藤も解決されると考える。

もっとも、このように単純化することに対しては、当然、次のように抗議されるだろう。「男性的な価値観に価値を認めないわけではなく、男性的・女性的の両方の価値を認めているからこそ、「男性的及び女性的な価値観を備え持つアンドロジナスな生き方」を推奨しているのだ、と。

 しかし口ではアンドロジナスと言いながら、実際には男性が男性的な価値観を発揮することはマイナスとされ、女性的な価値観を受容することが問題解決の鍵だとされている。

 そのような考え方を示す箇所を、田村氏の記述の中から引用してみよう。

 

 筆者は思春期・青年期の子どもを含む家族の臨床の中で、父親が積極的に治療に関わるケースが以前より増えてきたものの、父親を治療システムに組み入れることに失敗したケース、治療システムには組み入れられても、問題解決のための十分な会話が成立しなかったケースに多く遭遇する。もちろん治療者の未熟性による部分も多いと反省するが、それ以前の問題として、父親不在の必然性が社会的あるいは家族のコンテクストに秘められているのではないだろうか。本論ではこれらの臨床事例をもとに以下の点を明らかにしたい。第1に、家族の性役割が、母子密着・父親不在という家族の機能不全と、治療システムにおける父親不在を生んでいるプロセスを明らかにする。第2に、その根底にある性役割という構築を男性および女性としての閉塞状況として明らかにする。第3に、男性の立場からジェンダーを脱構築し、問題の解決を図るフェミニスト・セラーピーの可能性について明らかにする。

 

 「男らしさ」の神話が家族と精神療法に関わることを困難にしている。男性性の規範は自立性・分離性・独立性への志向であり、親密性、関連性に対する抵抗である(Real, 1995)。事例2にも見られるように、子どもの問題に直面した際、父親は「突き放す」「甘えを断つ」など分離性の獲得による解決方法を指向することが多い。一方、母親は子どもを許し、受け入れるといった関連性による問題解決を好む。このように両親の見方が対立した場合、父親は子どもに関する情報量が圧倒的に少ないため、日常関わっている母親に決定権を委ねざるを得ない(Weiss, 1985)。父親はそれまでの親子関係の欠如の故、この抵抗を押し切ってまで子どもに関わろうとする動機づけと自信は持ち得ず、妻に優先権を与え自分は退くことになる。あるいは父親が権威性を発揮しても、幼少時からの親密性が欠如しているために機能せず、逆に子どもとの情緒的交流が遮断され、一層母子密着と父子関係の希薄さが強化されることになる。精神療法は、自己の問題解決能力の限界を認め、第三者である治療者に自己を開示し、援助を求めるという点において女性性に親和的であり、自立して、他人に依存せず、強くあらねばならないという「男らしさ」に反することになる。

 また、男性は感情を表に出してはならないと教えられてきた。この言語的非活発性の神話も、家族との交流や面接場面での感情表出をむずかしくしている。事例2の父親は息子のグチをもらすことに嫌悪を感じている。特に、不安など否定的な感情を表出することが男性は難しい(Weiss, 1985)。男性を精神療法に関わりにくくしている要因は、物理的・時間的な多忙さよりもこれらにある。しかも、家族療法の場合、家族の前でそれを行わうわけで、権威性や家族のリーダーとしての役割をくつがえすものである。

 

 事例1の父親は初回から参加し、妻や治療者と共に自己を語ることに比較的抵抗が少なかった。その結果、公と私におけるジェンダーのディスコースの存在を明らかにし(Weingarten, 1995; Allen, 1991)、非機能的な家族におけるジェンダーを脱構築することができた。つまり道具的役割(目的達成、力強さ、攻撃性)しか与えられていなかった父親は、家族との関わることに自信を深める中で、自分の男性としての物語の中に表出的役割(しなやかさ、包容力、感性)を受け入れることができるようになった。これは伝統的な男性的価値観に固執せず、男性的及び女性的な価値観を備え持つアンドロジナスな生き方であり、それは男性が、家族での役割を担うことへの自信回復のプロセスでもあった。

 

 心理療法一般について言うならば、私はこのようにセラピーの中で女性的な感受性や感情、関係を作り出す能力が大切であるということについては、ほとんど全面的に賛成である。

 しかし、実際に具体的なケースについて言うと、このような方法論が通用するのは、半分でしかないのである(半分とは、量的な意味ではなくて、概念的な意味である)。

 すなわち、「道具的役割(目的達成、力強さ、攻撃性)しか与えられていなかった父親」が「表出的役割(しなやかさ、包容力、感性)を受け入れることができるように」なり、「伝統的な男性的価値観に固執せず、男性的及び女性的な価値観を備え持つアンドロジナスな生き方」ができるようになった結果、家族のあいだにコミュニケーションが成り立つようになるという場合は、じつは私の用語で言うと、「権威主義的な父親」の場合だけなのである。(それも、「権威主義的な父親」が反省し、態度を改めることが前提であるが、そうなる確率はきわめて少ない。)

 その反対の、最近急増している「権威喪失」型の父親というのは、そうした「男らしさ」や「道具的役割」をすでに喪失しており、そのために子どもが必要な人格的発達をなしえていないというケースなのである。

 田村氏は、こうしたケースについてまったく認識を欠いている。賀茂氏がそうであったように、アメリカを中心とする文献に頼ったり、基本的な勉強を外国でしてきた人にかぎって、日本の現実にうといという傾向が見られる。外国で勉強してきた公式から外れる現象に対しては、「見れども見えず」ということになるらしい。

 そこで、そういう問題について述べている私の『父性の復権』に対しても、単なる家父長主義の復活を策するノスタルジアとしか理解できなくなってしまうのである。この種の人は必ずと言っていいほどに「権威」について書いてある章を理解していない。

 田村氏が男性性と女性性の両方の価値を認めると言うのならば、子どもの心理的発達や心理療法の中で、父性や男性性がどのような積極的な意味を持つのかを、具体的に示すべきである。

 男性性や父性というものは、単に「絶ちきる」「自立させる」「分離させる」という「道具的」機能だけでなく、その前に「秩序感覚」などの「構成力」を与え、精神的に鍛えて人格的な基礎を与えるという働きをするものである。この人格的な力を与えられてはじめて、子どもは自立できるようになる。子どもは母との関係を「絶ちきられる」ことによって自立するのではない。「父性とは切断」だという河合隼雄流の間違い(欧米的な父性観)に、田村氏もまた囚われている。このような問題に対する理解を深めないままに、ただ女性的な価値観を取り入れればうまくいくと思うのは錯覚である。

 そういう方法論では、権威主義的な父親からは拒否されるし、権威喪失型の場合にはなんの成果も上がらないという結果になるであろう。その問題をさらに詳しく検討してみよう。

 

「性役割」論への固執の弊害

 田村氏は二つの対立する症例を提出している。

1 「うまくいった症例」

2 「うまくいかなかった症例」である。

 具体的な内容はカットされているから分からないが、それでも彼の「考察」について大きな疑問を感じざるをえない。

 彼のまとめによれば、第二の症例がうまくいかなかったのは、父親が「男らしさ」の神話に囚われていたために、「親密性、関連性への抵抗」があったからである。このために夫婦とも「伝統的な性役割」から脱皮できず、とくに父親は治療関係の中に入ってこなかった。このことを田村氏は次のように具体的に述べている。

 

 精神療法は、自己の問題解決能力の限界を認め、第三者である治療者に自己を開示し、援助を求めるという点において女性性に親和的であり、自立して、他人に依存せず、強くあらねばならないという「男らしさ」に反することになる。

 また、男性は感情を表に出してはならないと教えられてきた。この言語的非活発性の神話も、家族との交流や面接場面での感情表出をむずかしくしている。事例2の父親は息子のグチをもらすことに嫌悪を感じている。特に、不安など否定的な感情を表出することが男性は難しい(Weiss, 1985)。男性を精神療法に関わりにくくしている要因は、物理的・時間的な多忙さよりもこれらにある。しかも、家族療法の場合、家族の前でそれを行わうわけで、権威性や家族のリーダーとしての役割をくつがえすものである。

 

 要するに、男性は「男らしさ」という「性役割の規範」に縛られているので、「弱み」を見せたり、「感情表出」をしたりということが不得意だから、そういう「男らしさ」の規範を「脱構築」しないと、治療自体もうまくいかない、と言っているのである。

 一見もっともらしい言い分ではあるが、私の体験から言うと(他の人たちの臨床を見ていると)、こういう理論(またはイデオロギー)を持っていると、まずセラピーというものはうまくいかないものである。

 どこがまずいかというと、まず、「弱み」を見せたり、「感情表出」をしたりということが不得意な男性は、なにも「性役割の規範」とやらに縛られているとは限らず、単純に不得意だという場合もあり、そういうふうに決め付けること自体が「予断」というものである。

 また仮に「性役割の規範」のせいだとしたら、そんなものは表面的な外皮にすぎず、うまくいけば面接の初回からでも簡単にはがれ、本当の自分が出てくるものである(もちろん面接者次第だが)。父親(被治療者)が「古い性役割の規範」に固執するのは、治療者がそこに追い込んでいる場合もあり(治療者と被治療者の相対的な関係)、被治療者の持っている「性役割の規範」を固定的に考えることは疑問である。

 もしそれでも「男らしさ」に固執する人だったら、その場合には夫婦や家族単位の治療にこだわる必要はなく、むしろ男性だけの面接の中で、「男らしさ」にこだわる彼の心のあり方をひとまず「受容」し、そこから出発するという方法も考える必要があろう。家族療法の中に入ってこないのが「伝統的な性役割」意識のせいだと捉えているのなら、その意識から見て入りにくい家族療法に固執するのを止めることからはじめるべきなのである。

 田村氏のような硬直した方法では、「男らしさ」を大切にしたい男性からは、単純に自分を否定されたと感じられ、反発を受けるばかりで、うまくいくはずがないのである。

 田村氏は「男らしさ」や「性役割」を「脱構築」することばかり考えいるが、その場合に男性に求められるのは「コミュニケーション」「関係性」「感情表出」といった「女性的価値」である。単純化して言えば、父親は男性的な価値から、女性的な価値へと転換せよと言われているような気持ちになるだろう。

 「伝統的な」「男らしさ」や役割を脱構築するのはいいとして、そもそも「男らしさ」「父親らしさ」という性役割分担は必要なのか必要でないのか、という問題が彼の場合考えつくされていないのである。すなわち、壊すばかりで、「よりよい役割分担を再構築する」という観点が欠けているのである。「権威性やリーダーとしての役割をくつがえす」のがよいと考えられているが、家族であれ、何であれ、およそ組織には健全な権威やリーダーシップは必要なのである。

 「権威」「リーダーシップ」そのものを否定してしまって、ただ女性的なコミュニケーション能力ができるようになっても、家族機能が回復されたことにはならない。家族というものは、コミュニケーション能力だけで成り立っているものではないからである。関係性が大切だと言っても、その家族にとってどういう関係がよいのか、上下関係はどういう意味でどういう形で必要なのか、などという問題は依然として残されているのである。

 

父性欠如に対する無力

 「鍛える」「精神力をつける」「秩序感覚を与える」「構成力をつける」という「男らしい」父親役割が欠けていた場合に、単純に「女性的な」機能を身につけたからといって、うまくいくようになったと思うのは錯覚である。

 すなわち、第一の「うまくいった例」も、父親が参加し、「伝統的な性役割」を「脱構築」し、家族と会話ができるようになり、子どもたちも父親に親近感を持つようになったそうである。それは結構だが、しかしそれだけで子どもたちの今後の人格発達がうまくいくとは限らないのである。すなわち父性本来の機能はどうなるのか、という問題が残されている。

 要するに田村氏には、「男らしさ」や「父性」の重要性についての認識が不足しており、女性的な価値を取り入れることが鍵であるかのような安易な考えに支配されている。

 難しいのは、男性が不得意な機能をどう取り入れるかと言う問題である。すなわち男性性を捨てて女性性を習得すれば事足りるというのではなく、本来得意でなければならない男性性や父性を損なうことなく、または権威主義的な間違った男性性を修正しながら、女性性をも取り入れるということが、いかにしたら可能かという困難な課題にわれわれは直面しているのである。

 これを簡単に一方から他方へとか、半々にすればよいという安易な方法論で臨むことは、問題をますますこじらせることになりかねない。そういう意味では、田村氏のフェミニズム公式主義は、心理療法の中ではきわめて危険な作用をしかねないのである。

 

アンドロジナスを理想にすべきでない

 ユング心理学では、この問題をとくに重視しており、それは「劣等機能の開発」と言われる問題である。ユングはこの問題をとくに『タイプ論』の中で詳しく論じているので、詳しくは拙訳『タイプ論』(みすず書房)を読むか、『心のしくみをさぐる・ユング心理学入門2』(PHP研究所)(近刊)を読んでほしい。

 要するに、基本は「劣等機能を優越機能にしようとしない方がいい」「劣等機能を劣等機能として認めて、その中でできるだけ洗練するように努めるのがいい」という考え方である。

 このこととの関連で言うと、このごろの「引きこもり」や「不登校」の子どもに対しても、「無理に学校に行かせない方がいい」とか「そっとしておく」という女性的な対応が一般的になっているが、そういう対応では絶対と言っていいほどに事態が改善されないことは、いまや誰もが認めるところである。

 それに対して、「引きこもり」の子どもたちを親から引き離して合宿させ、規則正しい生活をさせるという「父性的な対応」によって成功している例も報告されている。もともと父性が不足している「引きこもり」に対して、母性的な対応をしていても事態が改善されないのは、ある意味では当然なのである。健全な父性が不足しているという場合に対して、田村氏の方法論がいかに無力かを、よくよく認識してほしいものである。

 田村氏はアンドロジナス(男女両性具有)を理想と考えている。ちょうど斉藤学氏が「ミルクも出せる父親」を理想としているのに似ている。しかし、男性性と女性性が半々ずつあればうまくいくというものでは絶対にないのである。男性はあくまでも優越機能としての男性性の価値を認識し、それを保持しつつ、その上で女性性をも取り入れるという姿勢が大切であり、女性の場合も同様である。自分の優越機能の価値を十二分に自覚してその機能の優越性を保ちつつ、他の価値も取り入れるということが基本である。それを確認しないままに、ただ半分こイズムを主張するのは、かえってアイデンティティーを混乱させるだけで、非常に危険である。

 田村氏の場合は、アンドロジナスと言いながら、実際には女性的な性質しか評価されていないで、男性的な性質にはほとんど価値が認められていない。

 父性や男性性が子どもの人格にどのようなプラスの影響を与えるのかということを十分に認識した上で(もちろん母性や女性性についても同様)、ジェンダー論をもう一度考え直す必要がある。

 父性欠如の結果の子どもたちの心理的問題(とくにアパシーや境界例)については、従来の「受容」(女性的な感受性、関係構築)中心の心理療法理論では歯が立たないことは、現場の心理療法家の間では、すでに広く認識されている。今まで否定されてきた「指示的な」カウンセリング技法も含めて、新しい現象に対応できる技法の開発が求められているのである。

 性役割やフェミニスト・セラピーなどという古い枠組みにこだわっていたのでは、新しい事態に対応できないであろう。