父性

7 林紘義氏への反批判 ──「実弟の批判」とは何か ( 加筆 実弟の悪口雑言にあえて答える )

 

はじめに──「実弟の批判」について

 林紘義氏が私の「実弟」だとわざわざ宣伝したがる者たちがいる。たとえば、インターネット上では、氷見真一氏と金川欣二氏がその典型で、「実弟の批判」をリンクさせて紹介するにとどまらず、それがいかに正しく有効かを宣伝している。

 また氷見氏の私に対する批判、たとえば「社会ダーウィニズム」だという言い方は、林紘義氏の批判を真似ているだけのものである。金川氏にいたっては、自分に反論する前に「実弟」の批判に答える方が先だろうと述べている。

 このように「実弟」の批判を推奨したり、お手本にする輩がいるかぎり、その根もとを絶つ意味で、「実弟」の批判に断固反論することにした。

 と言っても、「実弟」氏の批判たるや、ただゴリラについて論ずるばかりで、最も大切な「権威主義と権威喪失」の問題や、「構成力」の問題には一言もふれていないという偏った批判である。それでも極端な歪曲を許すわけにはいかないので、以下に反論するものである。

 

「実弟の」批判は特別の意味を持つか 

 「実弟」が批判しているということに特別の意味を持たせたがっている者たちがいる。「実弟」が批判しているというだけで、なにか相手の弱みでも握っていそうに思えたり、的を射た批判になっているかのように「期待」したりするのであろう。

 しかし「実弟の批判」は内容的にはまったくなんの意味も持ち得ない。「実弟」だからという理由で、的を射た批判ができるという保証はないからである。ましてや彼が書いているとおり、35年間も私的にも公的にも没交渉で、まったく異なる思想的営みをしてきた者が、相手が実兄だからといって正しい理解をした上で批判できるはずがないのである。

 むしろ、おかしなコンプレックスや感情が入る分だけ、かえって相手に対する理解が曇らされ、歪められて、客観的な批判を妨げるというのが世の常である。じっさい林紘義氏の場合も同様に、客観的な批判とはほど遠い感情的な内容になっている。

 要するに「実弟」の批判といっても、ただ私の反対側の人間たちにとって「いい気味だ」と嬉しくさせる効果を持つだけで、内容的には特別の意味を持たない代物にすぎない。

 

「実弟」自身が「実弟」を宣伝する心理

 林紘義氏は私への批判の冒頭で、私が自分の実兄だとした上で、35年の沈黙を破って今批判をするのは、「彼の見解が余りに荒唐無稽で反動的なもの」になったからだと述べている。そう評価するのは勝手であり、それを批判の理由にするのも勝手である。

 しかしそのことと私が彼の「実兄」だということとは、何の関係もない。批判する理由の中に「実兄」だということを言う必要はなく、また必然性もない。「思想的に有害」だから批判するのならば、「実兄」だということとは関係なく、客観的に批判すればすむことである。

 それをことさらに「実兄」だということを強調するのには、客観的な内容以上に、「実弟」の批判を目立たせたいという心理が働いている。それによって、個人的に貶めたいという心理がいっそう満足されるわけである。それは金川氏や氷見氏らが「実弟の批判」を喜んで宣伝するのと同じ心理である。

 

これまで無視してきた理由

 汚い批判に対しては、私は原則として絶対に許さないという態度をとり、必ず反論するという態度を堅持してきた。ただ一つ例外として、「実弟」の批判には答えないという態度を取ってきた。それは次の理由からであった。

 一つは、兄弟で争うと、必ずそれを面白おかしく取り上げて騒ぐ者たちがいるからである。また個人的な暴露合戦になったり、泥試合になって、ますます世間を面白がらせるだけになる。林紘義氏を相手にすると、そうなる危険があると判断したので、今まで沈黙を守ってきた。

 いわゆる「骨肉相争う」ということは、私としてはなんとか避けたいという(紘義氏にいわせれば)「プチブル的」な感情を持っており、そういう感情もあって、今まで彼の批判を無視してきた。(彼は私のそうした性格を知っているので、反論などされないだろうとタカをくくって、言いたい放題を尽くしてきた。)

 

改めて反論する理由

 にもかかわらず、ここに「実弟」に対して反批判を発表する理由は次の二つである。

 第一に、ここまで私は『父性の復権』に対する汚い批判に対して徹底的に反論するのを原則にしてきた。それはすでに、河合隼雄氏、賀茂美則氏、妙木浩之氏、氷見真一氏、金川欣二氏、小林よしのり氏と、多くを数えている。

 彼らはすべて「反権威主義」という特徴を持っており、そういう心理を持っている者が「父性」という言葉にアレルギーを示すことが明瞭になった。

 この流れの中で、林紘義氏もまた同様の特徴を持っており、だからこそ反権威主義者たちの共感を呼ぶのである。

 しかし林紘義氏の批判は、それらの者たちの批判よりももっと程度が低く、もっと悪質な歪曲に満ちている。その悪質な批判に対する反撃の中で、林紘義氏だけを例外として除外すべきでないと考えた。

 第二に、すでに述べたように、「実弟」から批判されることが私にとってなにか打撃であるかのように喜んで宣伝し、「実弟」が何かもっともなことを言っているかのように推薦する汚い輩がいるかぎり、紘義氏の批判がいかに低劣なものであるかを明らかにしておく必要があると考えた。

 以下、彼の批判がいかに低俗なものかを明らかにしたいと思う。

 

一 故意に曲解した上での批判

 林紘義氏の文章を初めて読んだ人は、その偉そうな物言いと、人を罵倒する言葉の豊富さに驚かされることであろう。その文章のスタイルには、じつはお手本がある。すなわち彼はレーニンをこよなく尊敬し、レーニンの論争の仕方から学び、それを真似ているのである(彼には『レーニンの言葉』という著作がある)。ときどき「ハッハ!」などという合いの手を入れるのも、レーニンの文章によく出てくるものであり、彼は完全にレーニンを気取っているのである。今どき珍しい人種である。

 珍しいと言えば、彼はすべての論敵をマルクス主義の階級史観から論難し、その代わりにマルクス主義の公式を対置するという、シーラカンスのような人間である。青二才のときのままのマルクス主義の生硬な公式を40年間も振り回しながら棲息していられるのだから、日本という国は平和なものだ。

 彼は論争相手を「階級敵」だと規定しているので、どんなに下品な罵倒をあびせても、どんな汚い人格攻撃をしても許されると思いこんでいる。私に対しても、35年前からずっと「階級敵」だと罵倒し続けており、敵に対する攻撃だから、どんなに卑怯な手を使おうが、どんなに難癖をつけようが彼にとっては「正義」なのである。「階級的正義」をふりかざしているので、彼はつねに自信にみちあふれている。「礼節」などという「ブルジョア道徳」など捨てて顧みないのだから始末に悪い。

 林紘義氏は、相手の主張を故意に歪め、曲解しておいて、その歪めた像に対して罵倒をあびせるという手法を得意としている。

 たとえば、彼が今回、私に対して実行しているヨタモノの言いがかりとしか言えないような曲解の例を、いくつか示してみよう。これらは、拙著『父性の復権』を読んでいる人には、開いた口がふさがらないような歪曲であり、読んでいない人にも「まさかそんな馬鹿なことは言っているだろうか」と疑われるような馬鹿げた歪曲である。

 「そんなことは誰も言っていないよ」としか言えないような歪曲の例を次に挙げてみよう。これらはすべて「こんなことは私は絶対に言っていない」と断言できる内容ばかりである。これほどひどい、しかも大量のデッチ上げを受けた経験は初めてである。

 あまりに多いので、途中でウンザリした人は、読み飛ばしていただきたい。

 

(一、はじめに)

 彼[私のこと]は結局、“家父長主義”を復活させるのであり、その限り“封建主義”に逆戻りするのである。

 

 彼は生物学の分野から(つまり、生物的な意味での人間の本質として)、“父性”という概念を拾って来る、しかも恣意的に拾って来る。

 

 彼が問題にするのは、人間の男女の関係ではなくて、人間の雄と雌の関係である、あるいは雄と雌としての人間である。だから、彼の“父性”といったものは、人間の“男”のものではなくて、せいぜい人間の“雄”に特徴的なあるものである。

 

 これはある意味で、社会ダーヴィニズムであり、その一変種であろう(先回りして言っておくが、社会ダーヴィニズムは、ファシズムのイデオロギー形成に一役買ったのであり、その一部として入り込んだのである!)。

 

 彼は人間を動物として、本質的に見ているのであるが、これは彼のいやしむべき人間観を暴露するのである!

 

 彼の見解の根底は、人間は“父性”が優位であるゴリラの社会に学ぶべきであり、また人間の社会は“父性”を基軸に構成され、組織され、編成されなくてはならない、ということだけである。つまり人間はゴリラの段階にまで降りて行かなくてはならないというわけである。

 

 この本は、“封建主義”を、“父権主義”を(俗っぽく言えば“亭主関白”を)いくらか違った形でお説教するものであり、それはその意味では、“儒教主義”の復活であり、卑俗な階級道徳の押しつけである。

 

(わがまま犬を例に挙げている箇所について)

 つまり人間の子どもは犬と同じで、「自主性」を重んじるのではなくて、いわば“仕込まなくては”ならない、というわけである。彼は女性を差別するイデオロギーを公然と振りまくだけではない、子どもをもまた動物視して恥じないのである。彼は人間の子どもには人間の子どもとして、独自の成長の過程があり、犬を“仕込む”のとは本質的に異なった側面がある、というごく“簡単な”ことさえ洞察することができないのだ。

 

 つまり人類の未来は「子どもの育て方」次第であり、子どもが母性に基づいて育てられるなら、人類は破滅に向かって進む以外ないが、反対に父性に基づくなら、人類は救済され、輝かしい未来が待っているというのである。こうした見解は余りにばかばかしすぎて、論評する必要もないほどである。

 

(三、彼はいかに女性を蔑視し、偏見を振りまくか)

 彼は女性に対する、牢固として抜きがたい偏見の持ち主である、要するに女性は“感覚的”もしくは“情緒的”な存在であって、理性的な存在でなく、またそうした存在には決してなりえないという、“前近代”社会以来の――といっても、原始時代の共産主義社会以来ではなく、私有財産発生以来の――“女性観”の断固たる保持者であり、その意味では、まさに封建主義もしくは明治時代に典型的だった人間の生き残り、残骸である。彼は女性のもとに置かれた子どもは正常に成長できないと断言し、“父性”の影響を及ぼす必要性をるるとして説いている。

 

 幼児は成長とともに母親からも“自立”するのだが、それは別に父親が介入しなければそうならない、といったことではない。子どもは母親だけからでなく、父親からも、すなわち基本的に両親から“自立”するのであって、この本質的過程を何か母親だけからの自立の過程であるかに考えているところに、この“深層心理学者”の少しも深くない認識があるのだ。

 

 子供たちは父親から自立しない、あるいはその必要はない、そんな問題は一切考える必要はない、と事実上おっしゃるのである。

 

 もし父親の介入がなければ、幼児は母親から自立できないというなら、“母子家庭”には救いがないことになる。これは母子家庭に対する、あまりに無神経な偏見の主張であり、その意味では許しがたい側面を持っている。

 

(四、いわゆる価値観について)

  彼は人間として「対等」であるということと、何らかのことを他人に――大人であれ、子どもであれ――「教え」たり、「伝え」たりすることと少しも矛盾するものではない、という簡単なことさえ理解できないのであるが、それは彼が頭のてっぺんから爪先まで権威主義者、位階や「上下関係」を信奉する階級主義者であり(天皇制などもっとも好ましいものなのでしょう、というのは、それは絶対的、無条件的権威として押しつけることができるのだから)、とことんうぬぼれ屋の“世間知らず”である、ということから説明されるのだ。彼の理屈によれば、他人に何かを教えるためには「上下関係」がなくてはならないのだそうであるが、どうしてそうなのかは一切論証なしである(こんなことは到底、論証できることではないが)。

 

 彼の言う「本物の価値観」が徹底的に反動的で、排外主義的価値観、あるいはファシズム的価値観であっても、いっこうに構わないのである。重要なことは、とにかく価値観を持つことであって、それがどんな価値観か、ということではない、とおっしゃるのだ!

 

 このみじめなプチブルは、数多ある価値観の中で、どの価値観が「本物の価値観」すなわち真理であるかを断固として語ることができない、それで彼は、とにかく価値観を持つべきであり、それこそが重要である、と問題をすり替えるのである。もちろん、価値観を持つことは重要であろう、しかし価値観にもいろいろあろうというものだ。どんな反動的で荒唐無稽な価値観でも、価値観でありさえすればいい、宗教であろうと、ドグマであろと何でもいい、と彼はおっしゃるが、こうした論法で行けば、創価学会の価値観はもちろん、オウムの価値観さえも美化され、擁護されるであろう。

 

 「上下関係」や「権威」(もちろんここで言われるのは、ことの本質からして“問答無用の”権威、“暴君的な”権威である・・・)

 

(ナチスやオウム真理教と同じだと執拗に言っている箇所)

 彼の著書は十分にファシストがもてはやすものとなりうるであろう、すなわち「リーダーシップの欠如」、“強い”父性の喪失、秩序と文化的伝統のすたれ、倫理感の混乱の危機を強調し、これに代わって“秩序”、“権威”、“道徳”等々を説くのは、すべてファシズムのものでもあった。彼がこれを知らないのは、彼の無頓着や狭隘な独断的気質やうぬぼれによるのであって、単に無知によるものではない。

 

 彼にあっては、ドイツ・ファシズムの“英雄”や“指導者原理”や“超人”――超越的な力――の概念が、“父性”なのであるが、ドイツ・ファシズムのイデオロギーほどの徹底さや強烈さに恐怖する彼は、“超人”の代わりに“父性”といった矮小で、プチブル向きのもので我慢するのである。

 

 こうして、彼の思想は、男性秩序、男性的なもの、力強いもの、勇壮なもの、「秩序」や「権威」、指導性等々、要するに“力”を強調したファシズム的イデオロギーにぴったりと接近する。彼は自分の思想の客観的な位置や役割を自覚していない――できない――が、しかし我々はそれを知っているし、またその真実を暴露するのである。彼はこの社会の腐敗からの抜け道を「父性」に見出したというわけだが、これは同じように、この社会の頽廃からの抜け道を“オウム教”に見出した麻原とそれほど違っているわけではない。

 

 彼は「父性」という人類救済のメシア思想を世にもたらす、一人の救世主として登場するのであって、その点ではオウムの麻原に優るとも劣らないといとうわけである。

 

 もうこのくらいで十分すぎるだろう。きりがない。このような馬鹿げた曲解にいちいち付き合わされては、読む方もうんざりしてしまうだろう。

 

 これらの引用から、彼の批判の特徴がはっきりと浮かび上がってくる。なによりも第一の特徴は、私をナチスやオウムと同じだと見せかけたいという心理を強く持っていることである。

 そのために「父性」を生物的な特徴だけから論じており、だから「社会ダーウィニズム」(ナチス思想の一部)だと断定したいのである。

 これらの曲解の根底にあるのが、「林道義はゴリラを人間の理想にしている」という命題である。

 彼がゴリラの例に拒絶反応を起こすのは、じつはゴリラの「父性」と原初の人類の「父性」が共通だとすると、それは「父」が人類の最初から家族や社会の中心にいた、少なくとも重要な要素として存在していたということを認めることになるからである。それがなぜ紘義氏の気に入らないかというと、その命題がエンゲルスの「乱婚制→母権制→父権制」という命題に反するからである。

 彼がエンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』の正しさについてくだくだと長広舌をふるうのは、そのためである。しかし「父」の発生と「家族」の発生とは同時的であり、それが人類の発生とも重なるという仮説は現在ではもっとも信憑性のある仮説となっている。

 

 以上が紘義氏の論理構造である。すなわち、最初に私を貶めたいという心理があり、その心理を満足させるために、私を歪めて描くのである。

 

 そこで、以下の反批判においては、彼の論理的破綻を示すいくつかの論点を指摘するだけで十分であり、すべての論点に反論する必要を認めない。

 具体的には、

(1)私が「ゴリラを理想にしている」というのが、いかに馬鹿馬鹿しい言いがかりかという点、

(2)私が「生物的な」見方をしているというのがいかに悪質な歪曲であるかという点、

(3)「社会ダーウィニズム」というレッテル張りがいかに不当な攻撃であるかという点の、三点についてのみ述べる。

 この三点は密接に関連している。すなわち「ゴリラを理想にしている」ような見方は「生物的な」見方であり、「生物的な」見方だから「社会ダーウィニズム」だと見なされる、という形でつながっている。すべての間違いのもとは「ゴリラを理想にしている」という読み間違いから出発している。

 他の論点は個人的な問題に関わる部分と、私がマルクス主義(とくにエンゲルス)の公式に従っていないからけしからんと非難している部分だから、検討するに値しないので、ここでは問題にしない。

 

二 「ゴリラを理想にしている」は言いがかり

 

方法論への無理解

(この部分は氷見氏への反論の当該部分をより詳しくしたものである。)

 紘義氏は、私が「ゴリラを理想にし」「ゴリラの父性から学べと言っている」と批判している。あまりに馬鹿馬鹿しい言いがかりだが、一応彼の言い分に即して反論しよう。紘義氏がいかに私の言いたいことを(とくに方法論を)理解していないかは、次のような言い方の中にはっきりと表わされている。

 

 道義氏が言うような「父性的遺伝子」を言うなら、別にゴリラを持ち出さなくても、自然界、動物界に広く見られることであろう。つまり自分の母子や卵を“保護する”オスの行動は哺乳類だけでなく、魚類や昆虫にさえもいくらでも見られるのであって、なぜここで彼がゴリラを持ち出さなければならなかったか、理解に苦しむのである。別にゴリラでなくてはならない必然性は全くないし、また彼はこの必然性を少しも論証していないのである(できないのだ)。とするなら、ゴリラでなくて、どんな生物であろうと構ったことはないのは明白であろう。

 

 しかし私はきちんと方法論的な説明をした上で、シルバーバックの行動の中から「父性的行動」を方法論的に選択して提示している。

 すなわち、父親の育児行動のうち、乳幼児の身体的・生理的な世話をするような母性的な行動は「父性行動」とは呼ぶべきではないと、はっきりと断っている。すなわち「自分の母子や卵を“保護する”オスの行動」は「父性行動ではない」と明確に述べているのである。

 私は「どのような行動を父性行動と呼ぶべきか」という小見出を掲げて、わざわざ次のように方法論的な説明をしている。

 

 ゴリラの父性行動が人間の父性行動に似ていると述べたが、ここでどのような行動を父性行動と呼ぶべきかを考えてみたいと思う。山極氏のみならず、たいていの霊長類研究者は、父性行動という言葉を非常に広い意味で使っている。山極氏は「オスが身体の接触をつうじて幼児と親密な交渉をもつこと」、すなわち「幼児を抱き上げてなめる、臭いをかぐ、頬ずりをする、毛づくろいをする、運ぶ、食物を与えるなど、授乳以外の母親が行うすべての行為が含まれている」としている。

 このように、研究者たちが「父性行動」と呼ぶ場合には、たいていの場合に母親が行う育児行動も含まれていることが多い。しかしそれは母親の代わりの行動、ないしは母親を助ける父親の行動と言うべきであって、母性とは異なる父性独自の行動とは言いがたい。したがってそれは「父性行動」と呼ぶよりは、「父親による母性行動」と呼ぶ方が適当であろう。山極氏自身も、母系社会と父系社会とでは、父性行動が異なっていると述べている。つまり母系社会をつくる種では、父親の父性行動は母親の代理か母親の育児を助けるだけの性質しか持っていないが、非母系社会をつくる種では、父親は母親と同じ育児行動をするのでなく、父親独自の子どもとのかかわり方を持っているのである。

(中略)

 そこで非母系的な類人猿社会で見られる父性行動を、ここで改めてまとめてみると、次のような特徴を持っていることが分かる。

(1)母子を外敵等から防衛・保護し、かつ食物を確保してやる。

(2)家族的なグループの統合の中心となり、けんかを仲裁し、内部の和をはかる。

(3)乳児に対する母性的な世話はしないが、離乳後の幼児の相手をして遊んでやり、その中でその種特有の行動様式を教え、他の子どもたちと対等のつきあいをさせて社会化させる役割を担う。

(4)子どもは両親のなわばり防衛に協力するが、やがて父親によって集団から追われて他の集団の異性と結びつき、新しいペアをつくる。したがってインセスト(近親婚)の可能性は少なくなり、外婚の傾向が強まる。

 この特徴を一口で言うならば、類人猿の父性行動とは、家族的な集団を統合し、保護し、子どもの相手をしながら発達のための刺激を与え、適切な時期に独立させてインセストを回避すること、と表現することができる。このようにまとめてみると、人類の父性とゴリラなどのペア社会をつくる類人猿の父性とが、非常に似ていることが分かる。

(『父性の復権』p.17〜19)

 

 このように私は、シルバーバックの親としての行動のうち、

「父親による母性行動」の部分と、

「父親独自の(母親には見られない)子どもとのかかわり方」

とを区別すべきだと言い、

「非母系的な類人猿社会で見られる父性行動」を4点にまとめて、ゴリラのオスにのみ特有の行動パターンを摘出することによって、方法論的に論述を進めている。

 「別にゴリラでなくてはならない必然性は全くないし、また彼はこの必然性を少しも論証していないのである(できないのだ)」と述べる紘義氏が、このあたりの方法論をまったく理解できていないのは明瞭であろう。

 

「遺伝」に関する曲解

  ──「遺伝子の中に取り込む」とはどういう意味か

 続いて紘義氏は私の進化論理解を批判しているが、それは「劣等化批判」の最も極端な例になっている。

 彼は私の『父性の復権』の中から次の箇所を引用して批判する。

 

 おそらく初期人類は、このチンパンジーやボノボの、オス同士の敵対関係を和らげ協力を可能にするという性質を遺伝子の中に取り込み、それとゴリラなどの父性とを結合することに成功したのであろう。こうして人類はなわばりを解消してオス同士の連帯を強め、その連帯は約束ないしは契約によって保証されるようになっていった。すなわち外婚制と父たちの認知によって配偶者が配分され、父同士のヨコの関係と世代というタテの関係が制度化され構造化される。こうして父性の登場と、家族を中心とした人類社会の形成とは密接なつながりを持っていたのである。

 

父性の進化論的・遺伝的根拠

 このように見てくると、人類の父性は決して人類史の中の比較的新しい文化的な発明品などではなく、類人猿の時代にまでさかのぼる遺伝子的な根拠を持っていたと言うことができる。

 人類の家族と社会の特徴は、ゴリラの父性と、チンパンジーやボノボの持っていたオス同士の連帯とを、うまく結合させた点にあったのである。どちらの要素も人類が初めて発明したものではなく、類人猿の中にすでに存在した遺伝子的な特徴であった。それらを組み合わせたことが人類の発明であり、それによって家族と、家族を基盤にしたさまざまな社会制度が生まれたと言うことができる。(p.21〜2)

 

 この文章に対して紘義氏は次のように批判する。

 

 彼の知恵は、人間はゴリラの父性とチンパンジーの父性をうまく自分の遺伝子の中に「取り込む」ことができたとか、両者のすぐれた遺伝子を組み合わせることを「発明した」とかいったたわいもないものだが、しかし人類はいつ、いかにしてそんな器用で、お利口なことができたのであろうか。

 

 もし人類がゴリラから分岐し、進化したのでないとするなら、人類はどこかでゴリラに出会い、何万年かを“共生”し、教えを乞い、学んだというのであろうか、それはいつの時代、どんな状況でそうしたというのであろうか。・・・いやこれは、全く奇妙な、不合理な理屈ではないのか!

 

 道義氏のドグマは、人類がまるで自分の意思でもって、ゴリラやチンパンジーの性格を「取り入れる」ことができたり、両者の結合を「発明する」ことができたかに、つまり人類がまるで合理的な意思をもって歴史を選択し、発展させてきたか[のよう]に徹頭徹尾主観的に、したがってまた恣意的に描くのである。

 

 私の言っていることを全体として理解する姿勢を持っていさえすれば、私が「人間はゴリラの遺伝子を取り込んだ」とか「ゴリラにどこかで出会って学んだ」などという、馬鹿馬鹿しい事を言っているのでないことは明瞭である。

 

 人を批判するときには、対象にする文章の前後に、それに関する説明がないかどうか、丁寧に読んでみることが、基本の作法である。その基本の手続きさえ踏んでいれば、彼はとんでもない曲解を免れることができたはずである。

 

(以下、「以上のことが理解されれば」までの部分は氷見氏への反論とまったく同じである。) 

 すなわち、彼が引用した文章のすぐ前の頁で、私は次のように言っている。

 

 しかしゴリラなどのペア型の類人猿の父性が、そのまま人類の父性へと受けつがれたというのではない。ペア型社会は、オス同士が敵対関係になるという特徴を持っている。つまりメスを取りあってオス同士が争う傾向にあるからである。したがって単にゴリラ型の父性を受けついだというだけでは、人類の父性は成立しない。なぜなら人類の家族は家族同士の協力や父同士の連帯を通じてより大きな社会へとつながっているからである。家族ないし父同士の連帯が成り立つためには、男性同士の対立関係が解消されていなければならない。(p.20〜21)

 

 これを受けて、「人類はゴリラ型の父性と、チンパンジー型の挨拶・連帯行動を受けついだ」という内容になっているのである。

 すなわち私が言っていることは、人類がゴリラと分かれたときにゴリラ型の父性という遺伝子を取り込み、チンパンジーと分かれたときにチンパンジー型の連帯行動という遺伝子を取り込んだ、という意味である。

 

 それは次のような理解を前提にしている。すなわち、生物の進化は、先行する形態の中から、生存に有利な遺伝的性質をもらい、それに他の新しい遺伝的性質を加えるという形で進行するという理解である。つまり遺伝的性質は人類なら人類という種が成立したときにすでに最初から備わっていて、途中で獲得するという確率は非常に少ない(皆無とまでは言えないと思うが)と理解しているのである。

 以上の理解の上に立って、私は「ゴリラ型の父性的遺伝子」という言葉を使っている。すなわち、その意味は、人類が生きてきた途中でゴリラの遺伝子をもらったというのではなく、「人類が生まれたときにゴリラ型の父性の遺伝子を取り込んだ」という意味である。

 ところが、そんなことは分かり切っていると思って、次の頁では「型」という言葉を抜かしてしまった。たしかに用心深くない態度ではあった。しかし前後の趣旨を理解すれば、「人類はゴリラ型の遺伝子と、チンパンジー型の遺伝子を取り込んだ」という意味であることは明瞭である。人間が「ゴリラを見て学ぶことによって自分の意思で遺伝子の中に取り込んだ」などというナンセンスなことを、私は一言も言っていないのである。これほどの曲解は見たことも聞いたこともない。

 

 以上のことが理解されれば、私が

 

どちらの要素も人類が初めて発明したものではなく、類人猿の中にすでに存在した遺伝子的な特徴であった。

 

と述べるときの「類人猿」という言葉も、現存するゴリラやチンパンジーを意味しているのではなく、それらと人類が分かれた直前の「類人猿」を意味していることは明瞭である。

 紘義氏は「発明」という言葉を、「人類が自分の意思で発明した」という意味にとって、からかっているが、それは比喩的に使われている言葉であり、誰も「自分の意思で発明した」などという馬鹿馬鹿しい意味に取る人はいない。彼は「徹頭徹尾」私を劣等なものに描きたい心理を持っているだけなのである。

 

三 「生物的な見方」は重大な歪曲

 ここまで来れば、後は簡単である。私が人間のオスとメスという生物的な見方しかしていないというのが、いかにひどい歪曲か明らかである。私は「父性」という性質と、「挨拶・連帯」という性質について述べている。それは制度化されたり慣習化されて、すでに高度な文化になっているのであり、単なるオスの本能行動ではない。遺伝子について述べているというだけで、単純に「生物的な見方だ」と断定するのは、方法論的に正しい態度ではない。

 しかし彼はなんとしても私に「生物的な見方」を押しつけたい。なぜなら彼は私を「社会ダーウィニズム」の持ち主だと言い張りたいからであり、ひいてはナチスやオウムと同じだと言いたいからである。そのとき彼の中には、ただ私に「悪者」という汚名を着せたいという心理だけが駆けめぐっているのである。

 

四 「社会ダーウィニズム」というレッテル張り

 そしてついに彼は最終的な結論に行き着く。「社会ダーウィニズム」というレッテルである。これによって彼は私を「右翼反動」のファシズム的な「悪玉」として弾劾できたと思い込むのである。

 結局、彼を突き動かしているのは、私を「反動」という名で呼び、「家父長主義」「封建的」「ファシズム的」というレッテルを貼りたいだけである。彼の長大な論文は、あげてその心理のために奉仕しているだけの、空疎な張り子の虎である。

 このなさけない心理的動機が「実弟の批判」の正体である。動機が低劣だから、内容も低劣にならざるをえない。

 氷見氏は、紘義氏の論文をこう評価している。

 

 しかし、一番ラディカルなのは、何と言っても著者の実弟によるこの大論文でしょう。マルクス=エンゲルスそのままかと思うような左翼用語満載の文体や、人格攻撃てんこ盛りの内容に一瞬たじろぎますが、理屈の芯の部分は結構真っ当なことを言っているように思います。まだ斜めにしか読んでいませんが。

 

 斜めにしか読んでいないで、どうして「理屈の芯の部分は結構真っ当なことを言っている」と言えるのか。氷見氏が「真っ当」だと評価して真似をした「遺伝」と「社会ダーウィニズム」の部分こそ、いま検討したように、理論的・方法論的に最も低俗な部分である。

 

 以上、「実弟の批判」というものが、いかに客観性を欠いた歪んだものになるかという見本である。