父性

5 金川欣二氏への反論

  ── 反権威主義者の権威主義

 

 

 金川欣二氏のホームページに掲載されている「父性創造論」と、公民館での講演記録「“理想”の家族という幻想」において、私の父性論に対する批判がなされている。その批判は戦後日本で増殖してきた反権威主義の危険な本質を典型的に示しており、また反権威主義者特有の権威主義を露骨に表わしている。

 

 金川欣二氏のHPに掲載されている「父性創造論」における私への批判は次の一文に集約されている。

 

 林道義の(父権)復興論は社会の保守化と軌を一にしていて、何ら新しい提案でもないし、やみくもな強い父親幻想はむしろ危険である。

 

間違いのオンパレード


 こんなに短い文章の中に、間違いが四つもある。

 

 第一に私の「父性の復権」論は「父権復興」論とは似ても似つかぬものである。

 「20年も前に河合隼雄が批判した」という「父権復興」論とは、まったく異なるものである。

 

 第二に「保守化と軌を一にして」いるという批判の仕方。

 こういう批判の仕方は「保守は悪いものだ」という前提に立っているが、「保守」はそれ自体で悪いものではない。

 

 第三に、私の『父性の復権』には新しいオリジナルな内容がいくつもある。「なんら新しい提案ではない」というのは、私の本の内容をまったく理解していない。

 

 第四に、私は「やみくもな強い父親」などということをまったく主張していない。これは「相手を歪めて貶める」というやり方である。 逆に私は「やみくもな強い父親」を否定している。

 

 以下、これらの諸点について、少し詳しく反論しておきたい。

 

「父性」と「父権」の混同


 金川氏は「父性創造論」の冒頭に、次のような河合隼雄氏の『中空構造日本の深層』からの一節を掲げている。

 

 「父権復興」を叫ぶ人々は・・・・かつてわが国において存在した父性をそれに用いればよいという認識に立っていると思われる。それは相も変わらず「古きよき時代」を懐かしむ老人の感傷と結びつき、「父よあなたは強かった」という時代の父性を復興しようとする態度につながっていくのである。

 

 この一節を掲げるのは、金川氏の頭の中に、これが私に対する批判になっているという認識があるからであろう。つまり私の『父性の復権』が、河合氏がそこで批判している「父権復興」論と同じだと見せかけたいのであろう。

 私の『父性の復権』『父性で育てよ!』の趣旨が決して「強い父の復活」を求めるものではなく、逆にスパルタ教育を批判して、徳による感化(真の権威)を求めるものである。「父権の復興」とは似ても似つかぬもの、というより正反対の原理を主張している。

 したがって、彼が最後に私の父性論を「仕事と愛情の両面で厳格な意見を持つ 」「家長タイプ」と分類しているのは、根本的に間違っている。私の言っている「父性」とは、「厳格な意見」によって支配し命令する封建的な家長とは正反対のタイプである。

 このように私の言う「父性」を「父権」と思ったときに、金川氏の間違いが始まった。私の理想の父親を家長タイプと見誤ったために、『父性の復権』を悪い意味での「超保守的」なものだと誤認することになった。

 しかし、その一方で金川氏は『父性の復権』が封建的な父親を推奨するものではないということを分かってもいるようなのである。

 その証拠に彼はこう書いている。

 

 しかし、この本を誤解してしつけというのが命令と暴力による強制だと思い込む父親や威厳が大切だという封建的な価値観にすがりつく父親が出てくるかもしれない。

 

 このように金川氏は「しつけというのが命令と暴力による強制だと思い込む」ことや、「威厳が大切だという封建的な価値観」は、「誤解」だと認識している。すなわち私の言う「父性」が過去のいわゆる「父権」という意味ではないことを承知している。

 彼が言うような馬鹿な誤解の責任を私が取らなければならない謂われはないが、それはともかく、それが「誤解」だと氏が認識していることは重大である。つまり金川氏は私の言う「父性」を「父権」と取るのは「誤解」だと認識しているのに、私の「父性」を「父権」だとして批判しているからである。これほどに混乱している例もめずらしい。 

 

「復権」と「復興」の違いも分かっていない


 「復権」を「復興」と言い換えるのも、程度の低い批判者たちの常套手段になっている。このことはすでにあちこちで何度も書いたので、またかと思われる人もいると思うが、大切なことなので、ここでももう一度書いておく。

 私は『父性の復権』の「あとがき」に次のように書いている。

 

 「父性の復権」と言うと、過去に父性のあった時代が実在したかのように受け取られるかもしれないが、あくまで復権であって復興ではない。過去に健全な父性が十分にあった時代などは存在しない。しかし高いもの、必要なものという観念はあった。今はそういう観念さえも失われてしまっている。だから父性の健全な権威と権利を復活しなければならないという気持ちを「復権」という言葉にこめて私は本書を書いたのである。

 

 これほど明瞭に「復興」ではなく「復権」だと書いているのに、いつまでたっても「父権復興」論と一緒にするというのは、私にはどうしても理解できない。人の本を批判する場合には、きちんと読んでからにしてほしいものである。

 

古くさい冷戦構造の座標軸

──「保守は悪いもの」というサヨク的公式主義


 金川氏は『父性の復権』を「父権復興」論と受け取って、超保守的な本だと性格づけ、その線にそって次のように述べる。

 

 行間から著者の超保守ぶりが見て取れるし、論調も渡部昇一に似た部分がある。渡部昇一などは自分では服も出せない、ご飯も作れない、身の回りのことは何もできない超甘えんぼだというのが定説で、そんな人間に権威を語る資格はないのだ。99年に評論家の江藤淳が自殺したが、いつもは国家を論じている人が妻の病死で精神的にも弱ってしまった、というのでは困る。

 家に帰れば「風呂、飯、寝る」だけの、妻に母性を求め続けるような、甘えが見られるような“父性”ではやっぱり困る。

 昔の父親がよかったと言われるが、家庭に背を向けて威張ってるだけという人も多かったのである。

 

 金川氏は、私が渡部昇一氏に論調が「似ている」とした上で、渡部昇一氏が甘えん坊だという「定説」を持ち出す。どこかのカルト集団の教祖的な人物ではあるまいに、「定説」を根拠にして「超甘えんぼ」と他人の悪口を言うとは、およそ学者の名に値しない批判のやり方であろう。

 また江藤氏の自殺を「妻の病死で精神的に弱った」ためと言うが、それはフェミニズム系統の人間がよくやる「妻に依存していたため」式の単純で低俗な見方しかできないことを示している。江藤氏の自殺は、そんなに軽々しく単純に批評できるような問題ではない。他人の人生や死に方については、それ相応の敬意と礼節をもって慎重に論ずべきものである。

 それはともかく、私は「超保守」の代表的人物の「定説」上の特徴と「似ている」から、私は「超保守」なのだそうだ。「保守」と「超保守」の違いはどこにあるのか分からない。わざわざ「超」をつけるのは、「特に悪い奴だ」ということを強調したいがためであろう。私は自分が「保守」だと言われようが「超保守」と言われようが、なんら痛痒は感じないが、そのようなレッテルを貼って相手を葬ろうとするのは、戦後左翼の常套手段であった。

 ここには「保守は悪いもの」という「超」公式主義が見られる。「保守」対「革新」という対立図式を作っておいて、「保守=悪」「革新=善」という図式を作ったのが、冷戦構造の中でのサヨクであった。その公式主義をいまだに引きずっているのが金川氏である。古くさくなった冷戦構造の座標軸によってしか物事を見られないという意味では、金川氏の方こそ超保守的と言わなければならない。

 

矮小化批判、劣等化批判


 このように、相手を矮小なもの、劣等なものに描いておいて、その虚像を批判するという卑劣なやり方を、私は「矮小化批判」「劣等化批判」と名づけている。金川氏の批判もまたこの方法によってなされている。

 

 相手を歪めたり、矮小化して批判する典型的な例が、次の一文である。

 

 林道義は調子に乗って『父性で育てよ!』という本も出していますが、優しい父親でなぜだめなのか?と言っていますが、これって昔のスパルタ教育の再現になりかねませんし、休日はゴロゴロしている父親が急に怒り始めても「何、一人でいきまいてるの」と馬鹿にされるのがオチです。

 

 『父性で育てよ!』のカバーの帯の文句(「『やさしい』『物分かりのいい』父親はダメなのか?」)しか読んでいないのではないか。同書の中で私は「やみくもな強い父親像」を批判し、「徳」による感化を推奨して、石原慎太郎氏の「スパルタ教育」を批判している。また「休日はゴロゴロしている父親が急に怒り始める」などということはいけないと批判しているのである。「やみくもな強い父親幻想」など一度もふりまいたことはない。

 こういういい加減な読み方で批判されたくないものである。ともかく、まずきちんと読んでからに欲しいとしか言いようがない。

 

 さらに彼はこうも言っている。

 

 もっと調子に乗って『主婦の復権』とかいって、今の主婦は家庭の機器が揃っているのに手抜きをしている、みたいなことを書いて顰蹙をかっています。

 

 調子に乗っているのは君の方だろう、と言いたくなるような軽薄ぶりである。『主婦の復権』は、「今の主婦は家庭の機器が揃っているのに手抜きをしている、みたいなことを書いて」いる本と性格づけるのは、まったく本質を理解していない、アンフェアな要約の仕方である。

 他人の本を批評するときには、まずできるだけ客観的に特徴をつかんでから、的を射た批評をすべきである。他人の本の内容を歪めて貶めるとは、どういう人格の持ち主であろうか。

 

私の父性論の新しいところ、独自なところ  


 私の父性論が「何ら新しい提案でもない」と言うが、これもまた矮小化批判である。

 私の父性概念の独自なところ、新しいところはいろいろあるが、とくに重要な点としては次の四点を挙げることができる。

 

1 父性の定義として「家族をまとめあげ、理念を掲げ、文化を伝え、社会のルールを教える」という特徴を挙げた点。このように明瞭に定義した人は今までにいない。

 

2 中でもとくに父性の「構成力」について明らかにした点。この点は私の臨床経験の中から、子育ての中で父性の性質として重要な働きをするものとして発見されたものである。

 私のアラ探しに熱心な氷見氏でさえ、構成力の箇所については「さすがに専門家だけある」と感心している。学者であるはずの金川氏には、その価値を理解する能力もないらしい。

 

3 父性喪失の病理を明らかにした点。これまで権威主義の病理については分かっていたが、権威が喪失した場合の病理についてはあまり明らかにされていなかった。無気力症状や(人格崩壊的)自害型の心の病との関連を明らかにしたのは、これまで皆無だと言っていいほどの新分野の開拓である。

 

4 リーダーシップについて明らかにした点。構成力との関係で、父性とリーダーシップとの関係を明らかにした。これは日本の政治や経済等々の分野における問題点の認識に大きな意義を持つ。

 

 これだけの重要な内容を理解できないままに、「新しいものはない」と言い切るのは、理解してから批評しようという態度が初めからないことを示している。

 

反権威主義者の隠された権威主義


 それに対して金川氏の創造的なところ、独自なところはどこにあるのだろうか。

 彼は「自分なりに考える」と言って、父性について考察しているが、その中身はフロイトと河合隼雄氏からの借り物ばかりである。

 「創造する」と言いながら、中身は引用、借り物ばかりというのでは、なさけない。

 このことは、金川氏が、じつは隠れた権威主義者であることを示している。彼はほとんどまったく河合隼雄氏の権威に依存している。これは反権威主義者がたいていは一つの権威を否定しているだけで、ひそかに他の権威に依存するという法則的な傾向を、金川氏が共有しているために起きたことである。

 このような「反権威主義者の権威主義」について最初に指摘したのが、フロムの『自由からの逃走』であった。それについては『父性の復権』の中で十分に論じたので、ここでは繰り返さない。

 

 

神話や幻想を創造せよという自己矛盾


 金川氏の「父性創造論」は、彼が講演の中で言っていることと矛盾している。彼は話の中でこう言っている。

 

 父性にしろ、母性にしろ、子供にしろ、家族にしろ、神話にすぎません。いいえ、幻想といった方が当たっているかもしれません

 

 つまり彼は「父性」は「神話」であり「幻想」だと認識しているのに、それを「創造」せよと言っていることになる。

 つまり彼は話の中と、「父性創造論」とでは、相反する矛盾したことを言っているのに、両方をホームページ上に出している。これをどう解釈したらよいのか、理解に苦しむ。

 

理想否定者は理想を創造できない


 金川氏は「理想」というものによほど恨みでもあるのかと思うほどに、「理想」を目の敵(かたき)にしている。

 もちろん世の中、理想どおりにいかない場合の方が多い。しかしだからと言って、理想を追求していけないという理由にはならない。

 彼は理想の設定の仕方や、追求の仕方が間違っている場合(滑稽な場合)(理想とすべきでないものを理想にしている場合)をからかって、理想そのものを否定できたと思いこんでいる。たとえば、話の中でこう言っている。

 

 さて、最初に思い浮かぶのが僕の下宿していた家族のことです。僕の家はどちらかというとかなり夫婦喧嘩の多い家庭でしたが、この下宿先の家族は初めてみた幸せな家族でした。

 裕福だし、二人の子供らは賢いし、夫婦円満で小さな喧嘩もみたことがありません。ただ、三五をすぎているのに二人とも結婚していません。「お姉ちゃんはあまりにも家が快適なので結婚する気にならないのだ」などと弟さんは話しています。あまりにも快適すぎて、家を出ていこうということにならない、なんて少し逆説的に感じてしまいます。

 日本の“理想”の家族であるべき皇室は、未だに後継者が決まらず、むしろ一番不幸に見えてくるような気がします。

   (中略)

 雅子様は“理想”の皇太子妃なのですが、あれだけ優秀な人の一番大切な仕事というのが皇室の遺伝子を後世に伝えることという、“理想”とはまるで異なる仕事といえます。

 

 彼は皇室を持ち出してまで、「理想」とされているものを貶めようとしている。さらにこうも言っている。

 

 考えてみれば、“理想”的な人間なんてありえないのに、“理想”の家族を追求しようといっても無理があります。

 僕らはいろいろな欠点がありますし、後悔すべきことも多々あります。感情的になってしまうこともあるし、逆に冷静になりすぎて困ることもあります。

 田中角栄も総理大臣になっていなかったら、立身出世の模範として後生に名前を残したかもしれません。棺桶の蓋を覆うまで、人の人生は分かりませんし、その後、子孫がどうなるかまでは責任が持てません。

 “理想”の家庭とか“理想”の親とかを考えること自体がナンセンスで、むしろ、そのギャップに悩む人を増やすだけ、罪深いと考えられます。

 “理想”って難しいですね。オウム真理教の人たちだって、“理想”境を作ろうと思っていたのでしょうし、ヒトラーだって一種の“理想”境を目指していたのでした。“理想”がないと生きられないし、“理想”だけでは暮らしていけません。

 厳しく育てて規律正しい子になるかもしれないし、反発してまるで逆になることもあります。楽しく育てて、明るい子になることもあれば、無責任で調子者が育つかもしれません。甘やかせて非行に走る子供もいれば、他人に優しい子になるかもしれません。悪い親でも反面教師になることさえあります。

 

 このように、理想の追求の仕方がおかしいとか、理想を追求して失敗した例ばかりをことさらに並べるのは、なんとかして「理想」というものの権威を貶めたいという心理が働いているからである。

 良いもの、高いものを否定したいという反権威主義の心理を典型的に示している。

 

反権威主義の無原則主義


 ところで、彼が提唱する「創造すべき父性」は「理想」ではないのか。それは「理想」を設定していることにはならないのか。彼によれば、ならないらしい。というのは、彼の言う「創造すべき父性」とは、なんらの原則も持たない、抽象的な「臨機応変」でしかないからである。

 反権威主義者がなにか積極的なものを提唱しようとすると、必ず馬脚を表わすものである。

 金川氏の結論は、反権威主義者が陥る典型的な論理的破綻を示している。

 

 彼はこう書いている。

 

 最初から“理想”の親があるのでは決してないということです。そんな“理想”を追うよりも毎日が大切です。(下線筆者、以下同じ)

 

 そして、僕らは、特に父親は子供たちとの日常を大切にすることが重要だと思います。

 

 母性とか父性とか家族というものの原型や“理想”がどこかにあるのではなく、むしろ、こうして複雑になった現代社会を、家族とは何かと考えながら、一人の人間として子供たちに向き合っていくことが大切だと思います。

 

 下手な理想や教育方針なんか持つよりは、子どもの状況に合わせて臨機応変に対処する態度の方が、お互い窒息状態に陥ることから防いでくれるのではないでしょうか。毎日変化する、それが人間なのです

 

 私たちに必要なのはそうした、理想や幻想を追うことではなく、毎日の実践をきちんとすることだと思います。

 単純すぎる結論かもしれませんが、気楽に考えて生きていきましょう!

 

 彼が結論として言っていることは「毎日の日常を大切にする」「一人の人間として子供たちに向き合っていく」「臨機応変に対処する」ということだけである。

 こういう言い方は、ある種の人間たちには受ける態度である。すなわち、ある種の人間たちとは、すべての原理・権威・理想を否定したい「崩しの思想」の持ち主たちである。

 人間は「毎日変化する」けれども、無原則に変化するにまかせていいわけがないのである。変化する中で、人間として最低限持たなければならないモラルやマナーの原理原則を持って、筋を通して生きていかれるようにするのが、子育ての本筋というものである。「人間は変化します、終わり」という、ごく抽象的な当たり前のことを言うことは、何も言っていないに等しいのである。

 「一人の人間として」といった最も抽象的で無意味な原理を示すことは、なんの原理も示さないに等しい。しかしなんの原理原則もなしに、「臨機応変に対処する」ことはできないのである。「一人の人間として」対処するためにも、自分なりの原則が必要になるのである。そういう原理原則を提示することが父性の大切な役目なのである。金川氏は「父性の創造が必要だ」と言いながら、肝心の「原理原則を提示する父性」というものがまったく分かっていないようである。

 

 父性とは理想である。日常をそのまま肯定しては父性は成り立たない。

 理想を否定しながら父性を創造せよと言い、原理も示さないで抽象的な「臨機応変」を説く。これだけの支離滅裂な自己矛盾、自己破綻をきたしている例は滅多にないだろう。

 金川氏には「父性」というものがまったく分かっていない。

 金川氏の「理想否定論」は、反権威主義者に特有の、「よいもの」を破壊したいアナーキズムに通ずる、破壊衝動の産物である。こうした反権威主義こそ、戦後日本を道徳的崩壊に導いた元凶である。

 

あとがき


 金川氏は、私の反論が出る予定であることを知って、「あとがき」を付け加えた。それは私の反論の内容を勝手に予想して、その仮定の反論に対して反論したり、弁解したり、牽制するという、滑稽な内容になっている。

 相手の反論が出てから対応すればいいのに、先走って何かを言いたくなるとは、よほど慌てふためいているのだろうか。

 

反論が必要かどうかは、こちらが決めることだ


 最初に金川氏はこう書いている。

 

 僕への反論(「金川“欽”二氏への反論」と書いてある)も出るようなので(僕のようなものを相手にするほどお暇ではないと思うが)楽しみにしている。ただ、その後、出された多くの著作には興味がないので、読んでないと批判されても困る。同じように僕の批判をするのに他のエッセーも全部読んでくれ、とは言わない。

  答えがない、という批判も出ると思うが、林道義さんが求めるような答えはない。それほど単純ではない。

 

 「楽しみにしている」というのが強がりであることは、そのあとで私の批判を予想してそれに反論してみたり、弁解したり、牽制したりしていることを見れば明らかである。反論が出る前に「反論の必要がない」と牽制する人には、初めて出会った。

 

 反論が必要かどうかは、批判された側が判断すべきことである。しかるに金川氏は牽制のつもりか、自分のエッセーは「反論など要するものではない」と書いている。

 すなわち

 

 もっと注意深く読めば、僕のエッセーは反論などを要するものではない。書いていることは感性も知性も大切だということにつきる。バランス感覚が必要だと力説しているのであって、一方的な、旧勢力に都合のいい話ばかりではダメだと話しているのである。

 

とか

 

 個人的に反論される必要はない。

 まず、実弟からであろう。

 

と、私の反論を他にそらそうとしたり、斉藤学氏や私の実弟の批判を紹介して、そちらを批判してくれ、自分を批判してくれるなと、懇願しているかのようである。論争とは基本的に個人対個人がするものである。私「個人」を批判しておいて、「個人的に反論される必要はない」とは何という言いぐさであろうか。

 おそらく、私に対する批判を出した時点では、私が彼のホームページを見るとも思わなければ、それに対してまともに反論するとは思ってもみなかったのであろう。今ごろになって、批判されると知って、戦々恐々として怖れている様子が手に取るように分かる。反論されると知って「反論の必要はない」と言う身勝手な言いぐさは、聞いたことがない。

 反論を予告されて、その前に予想反論したり、弁解したり、牽制したりするとは、よほど批判されることを怖れているらしい。なさけない男である。反論を怖れるくらいなら、初めから批判などするな。

 

見え隠れする階級史観


 内容的に、金川氏が「あとがき」で言っていることから分かったことは、彼が左翼的革命政党と同じ立場に立っているということである。すなわち子どもたちの問題行動は「家庭のせいではなくて、社会のせいである」という立場である。あるいは社会的な弱者の立場の家庭に問題があるからだという立場である。だから私のように家庭のしつけや教育に問題があるという立場の人間を、ことさらに特別な特権階級であるかのように描き、家庭のあり方にメスを入れることに対して牽制している。たとえば、

 

  問題は社会の変革を一歩一歩進め、その中で、両親が自分の家庭に見合った答えを一つ一つ見つけていくしかないのである。母性も父性もバランスが大切なので、しかもそのバランスは微妙なものなので、正解は一つではない。

 

と書いているが、こういうのを悪しき相対主義と言うのである。そこには「原理原則」や「基準」としての「父性」という問題がまったく分かっていないことが示されている。金川氏は「自分の家庭に見合った答え」を見つけることと、一般的な指針や原則が必要だということとを対立させて考えている。これこそ、反権威主義者に特有の間違った発想である。

 原理原則を提起しているのに対して、個々の家庭での父性と母性のバランスについて具体的な「答えは一つではない」という命題を対置するというのは、まったくのスリカエである。

 

 彼はさらにこう書いている。

 

  21世紀に向けて社会は大きく変化している。その中で、「父性の復権」という言葉で全ての家族をくくって考えるようなことだけはしてはいけない。子育てが楽しくなるような社会を作る方向で大きく動かない限り、責任を家庭に押しつけてはいけない。

 イジメがあるのに、イジメをするような子どもを作る親が悪いとかイジメに耐えられない子どもを作る親が悪いとか言っていても始まらない。イジメのあるような社会になってしまっていて、それは日本社会の病巣みたいなもので、父性とか母性を云々して責め合っていては解決にはならない。父性を強調して、強いリーダーシップを求めて、それが石原都知事のようにただのスタイルであったり、弱者を冒涜するようなものであってはならない。

 

 「父性の復権」という言葉で「すべての家庭をくくる」とか、「責任を家庭に押しつける」とか「親が悪い」と責めているとか、そういう発想の次元でしか理解していなかったのかと、改めてその理解の浅さに驚かされた。私は「被害者(または加害者)を責める」だの、「家庭を責める」だのという次元で考えているのではない。客観的に問題の原因はどこにあるかを研究しているのである。大学院まで出た学者が、「かわいそうな親をかばう」「弁護する」程度の発想で、論争に参入してほしくないものである。

 

 さらに金川氏の発想には、階級史観が色濃く陰を落としている。たとえば、

 

  林道義さんのようにインテリで社会的な地位も名誉も高く、お金持ちで問題のない家庭は少ない。しかし、他のどの家庭もリストラや借金などの多くの問題を抱え、共稼ぎを止めていい環境にはない。問題のある父親がいることは確かだが、それが今の教育問題の全てではない。

 林さんの論点には「知的生活の方法」などという本を出せばお金も入って知的な生活が送れますよ、というような人々と似たような、日本の普通の家庭とは違った雰囲気がある。そんなに立派な家庭ばかりではない。汗して労働し、日々の生活に苦労している人たちばかりである。大上段に「父性の復権」と言われても、戸惑うだけである。歓迎するのは責任を家庭に押しつけたい行政や出版社ばかりである。

 学校では管理が想像以上に進んでいる。子どもたちも管理されている。親が勤める会社も同様だ。これ以上、「父性」といって管理主義的な傾向を強めるのは危険だ。

 

 どうして「父性の復権」が「大上段」なのか分からない。金川氏が「大上段」なものと理解しているというだけのことである。「父性」という問題は、恵まれた豊かな家庭をもっている人(それは天然自然に与えられたものではなく、苦労し努力して獲得してきたものだ)に対してであろうが、「汗して労働し、日々の生活に苦労している人たち」「リストラや借金などの多くの問題を抱え」た人たちに対してであろうが、区別なく当てはまることである。ことさらに階層分化の視点を持ち込むような論点ではない。

 「父性」論が管理を強めるようなものだというのも、大きな事実認識の間違いである。今の学校で管理が強まっているという認識は、古臭いサヨクの決まり文句にすぎない。今の学校は、生徒に「来て下さい、来て下さい」ともみ手をして媚びており、「学ぶ」ための最低限必要な「秩序」さえ維持されていない。

 「学力の水準を落としていい」とか「指導してはいけない」と文部省が率先して方針を打ち出しているために、「学力崩壊」や「学級崩壊」が起きているのである。

 もし悪い意味の「管理」だと思われる状況があるとすれば、それは子どもたちの秩序感覚がなくなり、学校に必要な秩序を自主的に守れなくなっているので、学校側が「しめつけ」を必要とするようになってしまっているからである。それは本来なら家庭で済ませているべき「しつけ」がなされていないので、学校が混乱したり、「しめつけ」という望ましくない方法に頼らざるをえなくなっていることを示しているのである。外見的に見て「管理が強くなっているか否か」という現象だけ見て、嘆いていても始まらないのである。根本の原因を見誤ってはならない。

 左翼的な人間たちは、二言目には「社会の病理」などという抽象的な訳の分からないもののせいにするが、現代の家庭のあり方に問題があることはあまりにも明瞭なのである。

 

 金川氏のような悪しき相対主義や反権威主義こそが、戦後の教育を混乱させ、家庭での人格教育(しつけ)を不可能にしてきた元凶である。