父性

4 氷見真一氏の「道義リンクス」への反批判

 

はじめに

 このHPの作り手に関して、読み手が知りうる情報は、自称「氷見真一、1966年生まれ、メーカー勤務の一児の父」であり、本人を確かめる情報はいっさい書かれていないため、匿名と言っても過言ではない。

 匿名批判の通例に漏れず、その批判の仕方はきわめて卑怯卑劣なものであり、その内容も恐ろしく独断的かつ幼稚なものである。

 とくに「『父性の復権』を読む」というコーナーにおける、拙著『父性の復権』に対する批判は、理論的水準の低いものであり、かつ屁理屈を使って難癖をつけているだけのものである。

 「道義リンクス」もきわめて偏向した姿勢で編集されている。好意的批評にはケチをつけ、程度の低い悪意ある批評に好意的コメントをつけるというように、徹底して『父性の復権』を貶めようという編集方針である。

 このような程度の低いものは、本来ならば相手にすべきではない。

 では何故そんな人物の言説をわざわざ取り上げるかというと、彼の心理構造とやり口とが、戦後日本の精神を堕落させ空洞化させてきた反権威主義を典型的に体現しているからである。したがってこの人物の言説を分析することによって、戦後日本の反権威主義という心理の問題点を浮き彫りにすることができるだろう。

 

氷見氏の態度に対する批判

 『父性の復権』への批判に答える前に、この「道義リンクス」を出している氷見氏の態度の中で、「特に」望ましくない点を二点、指摘しておきたい。

 

羊頭狗肉

 第一に氏は『フェミニズムの害毒』についても批判したいようで、リンクスの冒頭において「(林道義が)男女の平等の役割分担を批判したり、フェミニズム運動のごく一部の傾向を指してフェミニズム全体を批判してみたり」と述べ、いずれ『フェミニズムの害毒』の読書ノートで批判すると言っている。

 これはあまりにも非良心的な歪曲である。私は「男女の平等の役割分担を批判した」ことは一度もないどころか、逆に「男女の役割分担」を否定するフェミニズムを批判し、「男女の役割分担」はあって当然だが、それを「平等なものにせよ」と首尾一貫して主張しているのである。

 また「フェミニズム運動のごく一部の傾向」だけを批判したのではなく、フェミニズムの主要な傾向をほぼ網羅して批判している。しかもそれらのフェミニズム各派の中で最も代表的かつ典型的なものを取り出して批判している。「ごく一部」しか批判していないというのは、重大な歪曲である。

 このことは、この手の反権威主義的な人間の特徴を、すなわち「悪者」とみなした相手に対してはどんな歪曲や不正確なレッテルを貼っても、とにかく「悪く」見せかければよいという態度を、典型的に示している。

 しかも、このように歪曲し、いかにも程度の低いもののように見せかけておいて、いつまで待っても具体的内容的な批判を出さないのも、欺瞞的である。「出す」と公言してからすでに4カ月以上が経っている。

 氏が具体的批判を出さないうちに、私のフェミニズム批判はすでに次の4冊になっている。

  『主婦の復権』(講談社、1998.4)

  『フェミニズムの害毒』(草思社、1999.8)

  『母性の復権』(中公新書、1999.10)

  『母性崩壊』(PHP研究所、1999.11)

「道義リンクス」と銘打つホームページを作るほどの「追っかけ」なら、もっとしっかり「追っかけ」てもらいたいものだ。

 もし「時間がない」などという弁解を言うとしたら、それは甘えである。これだけのふれこみをもって始めたのだから、「やる」と言ったことをやるのは社会的義務であろう。

 

彼は何を楽しんでいるのか

 第二に彼は「まえがき」の最後に「でも、せっかくですから楽しくやりたいと思っています。その程度の遊びは大目に見てやって下さい」と書いている。

 これも甘えである。彼が私に対する批判を「楽しく」やれるのは、私を愚弄して、権威を落とすことができたと思えたときであろう。しかし私からの反論を受ければ、他人に対する批判を「楽しく」などやれないことが分かるだろう。

 ところで「大目に見てやって下さい」とは誰に向かって言っているのだろうか。そんな言い方は、読者に対してにせよ、相手の私に対してにせよ、甘え以外のなにものでもない。「大目に見て下さい」と言うのは、どこか気が咎めるから言うのであろうが、その気が咎めることをしておいて、「咎めないで下さい」と頼んでいるようなものである。まさにマザコン的な人格未熟というべきである。

 私は私に対する批判を「楽しく」やることなどは許さない。徹底的に反批判する。

 

『父性の復権』に対する氷見氏の批判への反論

 

総 論

 氷見氏は「(『父性の復権』には)論理の飛躍や論証不足が多く、敢えて意図的にしたと思われる誤用や誤認すら含まれていたので、整理するのにとても骨が折れました。ポキポキ」と書いているが、氏の言う「論理の飛躍や論証不足、誤用や誤認」とは、氏の理解力が不足しているために、そのように思えたというだけのことである。総じて私の『父性の復権』に対する批判の多くは、父性というものを理解できないマザコン的「フェミ男くん」(フェミニズムに媚び、それと一体化し、フェミニズムのたいこ持ちになっているかのような男性、とくに若い男性)に特有のメンタリティーを示しているが、氏の批判にもまったく同じ特徴が見られる。

 氏の批判の仕方は、『父性の復権』論の権威を落とすことに使命感を燃やし、そのためにはどんなアンフェアな批判も辞さないというやり方である。 以下逐一、氏の批判がいかにアンフェアで、程度の低い理解力に基づいているかを明らかにしていきたい。

 さて、氷見氏はまず、「父性の根拠と、その危ない論法」と題して、私がゴリラの父性行動と人間の父性とを比較して考察している部分を取り上げる。

 

1 引用書物が1点だけだと頼りないか 

 氏はまずこう書き出している。「まず、この部分の論証に彼が引用している文献は、たったの1点、霊長類学者・山極寿一氏による類人猿の父性行動の研究書のみ。それだけでも頼りない感じです」と書いている。何故1点だけだと「頼りない」のであろうか。氷見氏は引用文献がたくさんズラッと並べてあると「安心」して頼れるとでも思える人間なのだろう。参考文献の数で判断するとは、なんと権威主義的な精神であろうか。

 私が山極氏の本を選んだのは、分かりやすくかつ優れた研究だと判断したからであり、また内容的に一冊で十分だから、いろいろと並べなかっただけのことである。そもそも新書というものは、専門家が一般向けに分かりやすく書くという暗黙の了解があり、高度な専門的知識を披瀝する場ではない。

 もし進化論について、もう少し詳しい私の見解を知りたかったら、この末尾に「資料」として引用するので、興味ある人は読んでほしい。

(拙著『ユング思想の真髄』朝日新聞社、1998.8、p.136〜141)

 

2 「ゴリラの父性行動」=「恣意的に切り取った独断」か

 次に氷見氏は、

「林氏は、山極氏の記述したゴリラの父性行動から恣意的にある一部を切り取って、それを『父性行動』と呼んでいるのですが、さて、なぜそう呼ぶ方が『適当』であるのか。それは林氏の独断以上のものではない訳ですが、彼はこれを前提に論を先へ進めてしまいます」

と批判している。

 しかし私は山極氏の記述を「恣意的に切り取って」はいない。きちんと方法論的な説明をした上で、シルバーバックの行動の中から「父性的行動」を方法論的に選択して提示している。

 すなわち、シルバーバックの親としての行動のうち、

「父親による母性行動」の部分と、

「父親独自の(母親には見られない)子どもとのかかわり方」

とを区別すべきだと言い、

「非母系的な類人猿社会で見られる父性行動」を4点にまとめている(p.18)。

 その場合、決して両者を「恣意的に」分けたのではなく、ゴリラのオスにのみ特有の行動パターンを摘出することによって、方法論的に論述を進めている。氷見氏は、そういう方法論的な手続きを理解できない人物であるらしい。

 

劣等化批判というアンフェアな批判法

 このような方法論的な論述の意味を理解できないのか、故意に見ないようにしているのかは分からないが、氷見氏の批判のやり方は、私が「劣等化批判」と名づけているものに当てはまる。すなわち相手の内容を実際以上に劣等なものとして理解したり描いたりして批判するという方法である。この方法を取る人間の特徴は、相手をとにかく劣等なものに見せかけたいという破壊心理を持っており、その裏には劣等感コンプレックスがひかえていることが多いということである。

 氷見氏の批判は、以後くわしく見るとおり、すべてこの「劣等化批判」の類型に当てはまっている。

 

3 「遺伝子の中に取り込む」とはどういう意味か

 続いて氏は私の進化論理解を批判しているが、それは「劣等化批判」の最も極端な例になっている。氏は次のように述べている。

 「『父性』に関する進化論的な根拠についての林氏の主張も、科学的な根拠は薄弱、悪く言えば『電波系』のお話です。」として、私の『父性の復権』の中から次の箇所を引用している。

 「おそらく初期人類は、このチンパンジーやボノボの、オス同士の敵対関係を和らげる協力を可能にするという性質を遺伝子の中に取り込み、それとゴリラなどの父性とを結合することに成功したのであろう。」(p.21)

 この文章に対して氷見氏は次のように批判する。

「遺伝子の中に取り込み...って、どうやって? 思わず目が点になりましたね。大体、獲得形質(生まれながらに持ってはいなかったが、成長し生活する中でその個体のものとなった性質)は遺伝しない、というのは、生物学の常識でしょう。他の動物を見て学んだことなんて、なおさらです。もしここで述べられているような、異なる類人猿の『父性』の結合が仮になされていたとしても、それはあくまでも遺伝とは関係なく、社会的に成立したことでしかありえないし、その成立過程を立証することは不可能でしょう。」

 これは「劣等化批判」の典型である。彼は私の文章を次のように理解(曲解)した。

「人間はゴリラとともに生活しているうちに、父性的な遺伝子をもらった。そのもらい方は、学ぶという方法によってである。」

 そこで「そんな獲得形質の遺伝みたいな馬鹿馬鹿しいことを言っている」と批判することになった。

 私の言っていることを全体として理解する姿勢を持っていさえすれば、私がそんな馬鹿馬鹿しい事を言っているのでないことは明瞭である。彼が引用した文章の前の頁で、私は次のように言っている。

 「しかしゴリラなどのペア型の類人猿の父性が、そのまま人類の父性へと受けつがれたというのではない。ペア型社会は、オス同士が敵対関係になるという特徴を持っている。つまりメスを取りあってオス同士が争う傾向にあるからである。したがって単にゴリラ型の父性を受けついだというだけでは、人類の父性は成立しない。なぜなら人類の家族は家族同士の協力や父同士の連帯を通じてより大きな社会へとつながっているからである。家族ないし父同士の連帯が成り立つためには、男性同士の対立関係が解消されていなければならない。」(p.20〜21)

 これを受けて、「人類はゴリラ型の父性と、チンパンジー型の挨拶・連帯行動を受けついだ」という内容になっているのである。

 すなわち私が言っていることは、人類がゴリラと分かれたときにゴリラ型の父性という遺伝子を取り込み、チンパンジーと分かれたときにチンパンジー型の連帯行動という遺伝子を取り込んだ、という意味である。

 それは次のような理解を前提にしている。すなわち、生物の進化は、先行する形態の中から、生存に有利な遺伝的性質をもらい、それに他の新しい遺伝的性質を加えるという形で進行するという理解である。つまり遺伝的性質は人類なら人類という種が成立したときにすでに最初から備わっていて、途中で獲得するという確率は非常に少ない(皆無とまでは言えないと思うが)と理解しているのである。(獲得形質の遺伝という個人レベルの話でなく、社会的大量的に遺伝的性質が新しく獲得される確率をかなり高く評価したのがアーサー・ケストラーである。後述の私の他の著作からの引用を参照のこと)

 以上の理解の上に立って、私は「ゴリラ型の父性的遺伝子」という言葉を使っている。すなわち、その意味は、人類が生きてきた途中でゴリラの遺伝子をもらったというのではなく、「人類が生まれたときにゴリラ型の父性の遺伝子を取り込んだ」という意味である。

 ところが、そんなことは分かり切っていると思って、次の頁では「型」という言葉を抜かしてしまった。たしかに用心深くない態度ではあった。しかし前後の趣旨を理解すれば、「人類はゴリラ型の遺伝子と、チンパンジー型の遺伝子を取り込んだ」という意味であることは明瞭である。人間が「ゴリラを見て学んだことが遺伝子の中に取り込まれた」などというナンセンスなことを、私は一言も言っていない。これほどの曲解は見たことも聞いたこともない。

 要するに氷見氏の批判は、言葉尻をとらえてケチをつけることを「楽しんで」いるだけの幼稚なものである。

 

4 「社会ダーウィニズム」というレッテル貼りはファッショ的である

 以上に続いて氷見氏は次のような暴論を吐いている。

 「ついでに言ってしまうと、進化論をこのような社会行動(動物行動学を含め)に適用することが、骨相学〜犯罪人類学などと結びつきのちにナチズムを支える優生学思想を生んだということは覚えておいていいと思います。ここで展開されているのは、社会ダーウィニズムの焼き直しであり、その先に連なっているのは選別・差別の思想です。ここから、『父性/母性の欠如した男性/女性は、遺伝的に劣った存在である』などという民族浄化まがいの言説までは、あと一歩です。」(下線筆者)

 この部分は暴論を通りこして、どちらがファシストかと言いたくなるほどの、言葉の暴力と言うべきである。まさに「風が吹くと桶屋が儲かる」式のこじつけを、しかも何回も繰り返して、その結果私がナチズムやファシズムときわめて近い位置にいる(「あと一歩」)と印象づけようとしている。

 私は進化論を社会行動に適用などしていないし、骨相学〜犯罪人類学と結びつけてもいないし、「のちにナチズムを支える」優生学思想を生みだしてもいないし、もちろんそのような可能性は皆無である。

 どんな言説に対してであれ、「焼き直し」「その先に連なっている」「形を変えた」などという言い方を重ねていけば、どんな罪状でも押しつけることができるだろう。このやり方は、「悪者」のイメージを押しつけてユダヤ人を迫害したナチスとまったく同じ、ファッショ的な宣伝方法である。

 

5 構成力と父性の関係

 次に氷見氏は、「構成力」の部分を「専門だけあってその論証にも説得力があります」と唯一褒めてくれているが、ただし「構成力」を「父性と結びつける必然性は何もない」と言う。内容を理解できていない人間に褒められるというのも、複雑な気持ちである。

 「構成力」と「父性」の関係は、私が「構成力」という概念を発見した経緯をたどれば、簡単に理解できるはずである。箱庭や風景構成法を使った実験で、構成力がないという結果が出た被験者の多くは父親がいないか、いても父性のない父親が多かった。また父親がいなくても、母親に父性がある場合には、構成力が発達していた。これほど確かな結びつきの証拠はなかろう。少なくとも「結びつける必然性は何もない」と断定することはできないはずである。

 また氏は「構成力は生理学的な発達に関係しているらしい」ので、その発達と父親ないしは父性とは関係ないと言いたいらしい。私は「構成力」が「生理学的発達」と関係しているなどとは一言も言っていない。言っていることは、十歳前後で急に出てくる、ということである。それまでも潜在的に発達していたものが、そのころに使えるようになり表面に出てくるのである。それを「生理学的な発達」と関係あると理解したところに、氏の理解力の低さが露呈している。

 

6 「愛情」を笑う人間とは?

 次に氏は、「父性の条件」を取り上げるが、その内容についてはまったく何も言わない。ケチのつけようがないからか? いや、じつは「父性の条件」を自分が持っていないので、論じたくもないのであろう。

 ただ一つ、

 「愛」とは(笑)

と書いている。「愛」を笑うのは、本当の愛を知らない人間だけである。

 

7 反権威主義者の権威オンチ

 『父性の復権』の中で、「健全な権威」と「権威主義」とを区別し、「権威主義」は弊害があるけれども「健全な権威」はむしろ必要で大切なものだということを明らかにしたところが、一番大切な箇所である。

 「健全な権威」がなくて、すなわち父性喪失で育つと、子どもは無気力になり、規範意識が欠け、けじめのない人間になってしまう。もちろんモラル感覚やルール感覚にも欠けてくる。

 ここのところが、反権威主義者にはとくに理解できない箇所である。案の定、氷見氏は「健全な権威、って何?」と題して、「権威」というものに対するまったくの無理解をさらけ出している。

 たとえば、『父性の復権』の中の「権威」の定義

「権威とは、その持ち主が能力や人格の上で他人より優れているがゆえに、他人を自発的に心服させ、また従わせる力のことである。」(p.122)

に対して、

「要は、『権威ある人』の言うことについては、その内容如何ではなく、その人への信頼ゆえに従う、という意味ではありませんか。」(下線筆者)と言い換えておいて、

「権威に盲従するという『悪しき権威主義的態度』への萌芽は、既にして『権威』についてのこうした定義づけに内在していると思いますが、どうでしょう」と書いている。

 これも劣等化批判の典型である。意図的に劣等な意味へと言い換えておいて、「これでは権威主義と同じではないか」とからかう態度である。

 私の文章を素直に読んで、この定義が「権威ある人」に「内容如何にかかわらず」盲従することだという意味に取る人は、よほど性格のねじれた者か、権威アレルギー者だけである。

 「内容如何にかかわらず」一旦尊敬したら、いつまでも尊敬しつづけるなどという主体性のない人間を前提にものを考えているのは氷見氏くらいのものであろう。

 普通の判断力を持った人間ならば誰でも、相手がたとえふだん尊敬している人でも、おかしな内容のことを言ったら、疑問を持つし、尊敬や信頼も薄らぐし、その人の権威もなくなる。自発的心服とはそういうことである。

 氷見氏は、「権威ある人」というものを、どうやら固定的に捉えているらしい。権威というものは流動的なものであり、持ち主の言動によって変化するものである。

 こんな当たり前のことも理解できないのは、じつは彼が私の言っていることを、できるだけ馬鹿馬鹿しいものに描きたいという心理を持っているからである。動機が不純だから、どこまでいっても正確な理解というものができないのである。

 特徴的なのは、彼が「権威喪失者」の病理には一言もふれていないことである。「健全な権威」がなくなると、どんな困ったことになるかという問題は、彼が絶対に見たくないことなのである。

 

8 最も混乱している「規範」理解

 「父性」や「権威」を理解できない人間は、当然「規範」とか「ルール」ということも理解できない。彼の

「5 規範と『規範意識』のあいだに」

という部分は、無茶苦茶な読み間違いやいいがかりに満ちている。

 たとえば、私が

「時代によって変化しない基本的なルールはきちんと守らせるという原則はあくまでも貫かなければならない」

と書いたのに対して、彼は

「時代によって変化しない基本的なルールとは何なのか。そんなもの本当にあるのか」と書いている。

 「時代によって変化しない基本的なルール」とは、たとえば、「殺してはいけない」「他人のものを盗んではいけない」「他人を傷つけたり、暴力をふるってはいけない」などといった基本的な規範を意味している。これはモーセが与えた十戒にも、仏教の戒律にも記されているように、人間社会が続くかぎり普遍の道徳ではないであろうか。それに対して、「そんなもの本当にあるのか」というのは、よほどこの世の道徳・ルール・秩序を破壊したい心理を持っていないと出てこないせりふである。

 その他、理不尽ないいがかりを挙げていったらきりがないので、あと二つだけ例を挙げよう。

 まず彼は、私がしつけの基準として「他人に迷惑をかけない」というだけでは不十分で、その他にも「礼儀やマナー」「美しい・美しくない」とか「その場にふさわしいかどうか」「品位」といった基準を与える事が必要だと言っているところに対して、こう批評している。

 「はてさて、他人に迷惑をかけないとか、他人を傷つけないという考え方は、無原理無原則なんでしょうか。それは公共性の最も基本の部分ではないかと思うのですが。」

 このコメントがいかに見当はずれなものかは、説明の必要もないであろう。彼は私が「他人に迷惑をかけない」という基準を否定していると受け取っているのである。小学生にも劣る理解力である。だいいち、「時代によって変化しないルールがあるのか」と聞く者が、よくも「公共性の最も基本の部分」などという言葉を書けるものだ。言葉の意味も知らずに発言するとは、恐ろしいことである。

 また「美しいって誰が決めるの?」と質問するが、私の言っていることは、美しい基準を誰か独裁者が決めて押しつけるというようなことではない。「美しいかどうか」という基準もありうる、ということを子どもたちに意識させよと言っているのである。こんな説明をしなければならないとは、小学生を相手にしているのかと錯覚してしまう。

 もう一つ例を出そう。校則についての私の議論に対して、彼はこう言っている。

 「校則が必要なら、どんな校則でも守らなければならないってことになるんでしょうか。それではまるで軍政ですね。」

 私は「規則だから」という理由で規則を押しつけるのはよくない、その規則の必要性を納得させなければならないと言っている(p.22o〜223)。私が講演などでいつも強調していることは、本当のルール教育とは、そのルールが必要かどうか、どういう意味を持っているのか、考えさせることだということである。私の『父性の復権』を読んで「軍政」を思い浮かべる人が何人いるだろうか。こういう不当な悪口を平気で文字にするというのは、匿名批判の弊害と言うべきだろう。

 

9 父性と父親との関係について

 最後に彼は、私が「父性は必ずしも父親だけが持つものではない」、母親にも他の人にも必要なものだと述べているところをつかまえて、それは「男女役割固定論のアリバイ作り」だと批判する。

 「男女役割固定論のアリバイ作り」とはどういう意味か、普通の人には理解できないと思う。これはフェミニストたちの隠語みたいなものである。その意味は、もし「父性は父親だけのもの」と言うと、男女の役割を固定させることだと批判されるので、そんなことは考えていないというアリバイに、私が「女性だって父性を持てる」と言ったと言うのである。

 ここにはフェミニストや反権威主義者たちの、いらだちが見える。彼らは、「父性」という言葉だけでも不愉快で攻撃したい。もし私が「父性は父親だけのもの」と言ったなら、それ「差別」だ「役割の固定化だ」と批判できるのに、私が「父性は父親だけのものではない」と言うので、威勢よく批判できない。彼らにはそれがいらだたしいのである。

 そこで、「父性は父親だけのものではない」という言い方は、批判をかわすためのアリバイ作りに言っているにすぎない(それは本心ではない)と言いたいのである。このようなことを言っている書評を氷見氏は「最高によく書けた書評」だと持ち上げる。馬鹿馬鹿しい。私はそんな小手先細工をするような人間ではない。もともと私は男女役割分担は必要だし正しいことだと主張しているのだ。役割分担論者だと批判されても痛くもかゆくもない。

 「父性は父親だけのものではない」というのは、何のためでもない。そのとおりだから、そう言っているまでのこと。しかしまた、父性は父親が体現するのが適当だというのも、本当のことである。その理由として私は、父親の方が平均して体力があるし、子どもから見て距離感があるし、抽象能力が優れているからだと書いた。

 男性の方が抽象能力が優れていると言うと、フェミニストたちが金切り声を上げて「差別だ」と抗議することは当然予想していた。実際に抗議してきたのは、女性のフェミニストよりも、フェミ男くんたちであった。(女性たちは意外に男性の方が抽象能力があることを認めているのかもしれない。)

 たとえば、氷見氏は、私が「私の見聞によれば女性よりも男性の方が抽象能力はすぐれていると思う」と書いたのに対して、これは「言うまでもなく偏見(笑)であって、・・・噴飯ものの推論です」と書いている。笑うべき偏見だそうだ。

 では質問しよう。もし「男性と女性の抽象能力がまったく同じだ」という意見を言う人がいるとしたら、それは偏見ではないのか。それにはどういう「科学的根拠」があるのか。男性と女性の抽象能力に差があるという意見も、ないという意見も、科学的根拠がないという点ではまったく対等である。一方の意見が偏見だと言うのなら、他方の意見もまったく同様に偏見のはずである。一方が他方を「偏見だ」と笑うことなど絶対にできないのである。

 断っておくが、抽象能力の優劣は人間としての価値にはなんの関係もない。

 終わりの方で氷見氏は「育てる」ことは「女性の生物学的な特性ではない」と断定しているが、そんなことがどうして「科学的に」言えるのか。それこそ証明ぬきの非科学的な信念にすぎない。第一「育てる」ということで、哺育を考えているのか、広義の育児を考えているのかも明らかにしないで、「育てる」ことが「女性の特性か否か」を論ずること自体が無謀かつ非科学的というものである。

 

結 論

 批判には二通りがある。

 一つは相手の欠陥を正しくついている批判。たとえば、相手の論理に欠陥があるとか、相手の事実認識が間違っているところを指摘するような批判がそれである。

 いま一つは、相手に欠陥がないのに欠陥をねつ造したり、相手の主張をねじ曲げた上で、その虚像に向かって批判するという場合。これを私は「狭小化批判」または「劣等化批判」と名づけた。

 氷見氏の批判はすべて、この「劣等化批判」そのものである。「読書ノート」と銘打っているので、いかにも客観的なように思えるが、実態は悪意ある誤解や歪曲に満ちており、恐ろしく偏向したアンフェアな批判である。

 それどころか、私が主張していることの正反対の性格づけさえしてみせる。すなわち、「権威に盲従せよ」「社会ダーウィニズム」「優生学を生んだ思想」「科学的な根拠の薄い電波系のお話」「軍政」「単なる恐怖政治」という言葉が並ぶ。それらはすべて、そのままを私が言っているとは言えないので、必ず「の焼き直し」とか「あと一歩」「悪く言えば」「まるで・・です」というアリバイ言葉をつけている。つまりそういうアリバイになるごまかし言葉をつければ、どんな罵詈雑言でも言っていいという態度である。

 そうしたアリバイ言葉をつけなければならないということは、じつは私が「社会ダーウィニズム」などでないことを百も承知しているのだが、それでも彼はそれらのレッテルを私に貼りつけたいという心理を持っていることを示している。

 彼はなぜ、かくも不当な方法によって私の権威と信用を落としめたいのであろうか。個人的な感情は別としても、彼の主要な動機は反権威主義である。権威あるものをとことん落としめるのが、その目的である。

 この精神的傾向は、じつに戦後50年のあいだ日本社会にはびこり、すべての思想や制度、慣習の中にしのびこみ、またそれらを崩壊せしめた元凶である。「良いもの」「美しいもの」をすべて破壊したいという心理である。その精神的な傾向を氷見氏はじつに典型的に体現した人物である。

 その精神の特徴はただ破壊し、崩し、決して創造しないところにある。それは決して建設的な批判ではなく、また相手の欠陥を正しくついた適切な批判でもなく、単なる破壊衝動を満足させるもの、単なるルサンチマンとコンプレックスのはけ口でしかない。

 しかし不純な動機しか持たない批判の行き着いた先は、己の精神の卑しさを露呈し、自らの信用を失墜させただけである。

 

 

資料:他の著作で、私が進化について述べている箇所からの引用

(拙著『ユング思想の真髄』朝日新聞社、1998.8、p.136〜141)

(これを読めば、私が進化論について何を考えているか、個々人における「獲得形質の遺伝」などという水準のものでないことは明瞭であろう)

 

<<遺伝と先験性

 さて以上で明瞭になったように、人間の意識の発達は目的論的に規定されていて、生得的なパターンによって導かれるし、そのさいの意識の経験もまた目的論的な元型的パターンによって規定されている。要するに意識の発生も、その後の経験も、すべて生得的なものによって制約されていると言えるのである。

 しかしユングはその命題とは相容れない命題をも述べている。すなわちユングは元型が人類の長い間の経験の集積であるとも述べる。元型は「生得的なものだ」という命題と、「祖先たちの経験の集積だ」という命題とは互いに矛盾して、両立しえない。いや、じつは一つだけ矛盾しない場合がある。それは「祖先たちの経験が遺伝子化して元型になった」という場合である。そうなると、元型や元型的イメージ、元型的反応パターンは、人類の歴史の中のどこかで遺伝子の中に入りこんだということになる。はたしてそうであろうか。

 今日のユング派の中では、経験が遺伝するというラマルク説は否定されているから、「元型は祖先たちの経験の集積だ」というユングの説は科学的根拠がないと簡単に片づけられている。いかに白人がジャングルの中を走りまわって足の裏が厚くなり、真っ黒に日焼けしても、生まれてくる彼の子どもは色は白く足の裏は柔かいであろう。このことを考えると、ユングの言う「経験の集積」ということは科学的根拠の薄い仮説だということになろう。

 しかしユングが言っている「経験の集積」は、ラマルクの考えていた「獲得形質の遺伝」とはまったく異なる。ラマルクが考えていたのは、個々の経験が遺伝するということであったのに対して、ユングの「経験の集積」というのは、人類に大量的に存在している同じ類型の経験が遺伝子化するという事態である。個々の経験がすぐ次の世代に遺伝することはまずありえないが、しかし大量的につねに存在している経験ならば遺伝子化する可能性を否定しきることはできない。事実そういうことは可能であるどころか、そう考えないと生物の進化はありえないと主張したのがアーサー・ケストラーである。彼の『機械の中の幽霊』には、生物の大量的な経験の遺伝子化が可能であるということが、次のように理論的に証明されている。

 ケストラーはダーウィン以来の正統派の進化論者が、生物を環境によって支配される本質的に受動的な存在と見ていると批判し、そのような見方では進化を十分には説明できないとして、生物の側からのイニシアティブに基づく進化、という仮説を提出した。つまりケストラーは生物が「適応」という受動的な「反応」をするだけでなく、もっと積極的に環境に働きかけ、新しい技能や性質を作り出していくという性向によって進化するものと捉えたのである。

 (中略)

 この主張は今西錦司氏の「主体性の進化論」とも通ずるものをもっている。今西氏は生物の進化が環境によって決められると言うダーウィン説に反対して、環境とは独立に変わりうるという考え方を示した。ラマルクの獲得形質の遺伝についても、「およそ獲得形質の遺伝のないところに、進化はありえない、とまで極論できるのではないか」と述べている。氏は生物の側の主体性に注目して進化を考えているのである。この考え方に、生物の経験という観点を入れると、一層進化を説明しやすくなると思われる。つまり先立つ種の中で不都合をなことを解決しようとして、一定の方向の進化が起こるのではなかろうか。

 ところでユングが遺伝子の中に「経験が集積する」という場合には、同じ種の中で遺伝子の変化が生ずると考えていることになるから、ケストラーや今西氏の理論が想定している種から種への進化という事態とはかなり異なっている。しかしケストラー・今西理論を援用して、同一の種の中でも遺伝子が変化するということが言えるであろうか。それは理論的には可能であるように思える。しかし理論的には可能だとしても、その確率はどのくらいなのであろうか。私にはその数字を出す能力がないが、心の反応パターンの一つが遺伝子化する確率は非常に少ないということは確かであろう。しかもその反応パターンはいくつもあって、それらが一つ一つ遺伝子の中に取りこまれるのは、恐ろしく可能性の低いことである。ましてやそれらの反応パターンが全部まとめて一度に遺伝子化することは、ほとんどゼロに近い確率しかないであろう。

 そうであるとすると、ケストラー・今西説はユング説の援用にはならないことになる。それでは「祖先たちの経験の集積」という言い方は誤りであるかというと、私は必ずしも間違いとは言えないと思う。というより、その表現は正確ではないが、そこには正しい直観が示されているように思える。なぜならそこには経験の先取りという問題が含まれているからである。

 非常に不思議なことではあるが、私は現在の人類が出現したときに、すでに本能的および元型的な反応パターンはできあがっており、遺伝子化していた可能性が高いと思う。すなわち、人類は最初からすでに、その後の経験を前もって知っていたかのように、その後の経験に適合的な原パターンを目的論的に持っていたというわけである。ユングも「原イメージ」の「発生は少なくとも種の始まりと一致している」と述べている。このことは不思議ではあるけれども、しかし生物界の進化はすべてそのような形でなされてきたのである。たとえば鳥が空を飛ぶようにできているのは、初めから空を飛ぶのに適したように生まれた。魚は泳ぐのに最も適した体型と仕組みをもって初めから生まれたのである。人間の心の働きも決して例外ではなく、最初から元型的反応パターンを備えていたと考えられる。これが経験の先取りである。

 このようなことが可能になるためには、経験の「予習」ということがなければならない。すなわち問題の種の直前の種において、必要な経験が未熟な形ないしは「下手な」形で経験されていて、その経験が生かされて、より「上手な」対応方法が生まれたと考えることができる。たとえば、五億年前のカンブリア紀には海の中に奇妙な形の生物が非常に多く生存していた。それらは海の中をいろいろな方法で泳いでいたが、しかし今のような魚の泳ぎ方をしていたのは、ただ一つピカイアという生物だけであった。これは体は小さく、何一つ強力な武器もなく、身を守る殻や刺もももっていなかった。ただ一つ今日の脊椎にあたる脊索というものをもっていて、そのために今日の魚(またはうなぎ)のような泳ぎ方ができた。結局生き残って、今日の魚の祖先になったのは、このピカイアであった。つまりカンブリア紀の海の中で、いろいろな生物の形態の実験が行なわれ、海の中という環境での経験が予習された結果、魚という海の中の経験にふさわしいパターンをもった生物が生まれたのである。>>

 

付論  氷見氏の「人格攻撃」について

(平成12年7月4日)

 

 氷見氏は平成12年6月26日付けで、私の反論に対する論評を出した。

 まず氏は内容についてこう述べている。

 

「なお、内容的には敢えて検討または反論するに値する点はありませんでしたので、当方記事は一切修正・追記致しません。読者の皆さんが比較対照の上ご判断下さればと思います。」

 

 あれほど詳細な私の反批判に対して、まったく何も言うことがないはずはない。何も言えないということは、一切弁明も反論もできないことを白状したも同然である。

 

 ただし、その前の部分で、私に対する中傷を行っているので、それは看過することのできない問題である。

 

「まあ何というか、見も知らない人に対してよくもこれだけ勝手に決め付けて人格攻撃ができるものだなーと感心するばかりです(笑)。これって精神分析なんですか?是非同業の方の見解をお伺いしたいところです。」

 

 私は氷見氏に対する人格攻撃は一切していない。「人格攻撃」とは、他人の人格に対して不当に中傷・誹謗をしたり、名誉毀損に当たる言葉を投げつける行為を言う。私の反批判の中には、そのような誹謗・中傷や不当に人格を傷つけるような箇所は一箇所もない。「人格攻撃」をしていないのに、「人格攻撃をした」と宣伝することこそ、不当な人格攻撃だと言うべきである。

 

 なお私は氷見氏に対して「精神分析」などをしたことはない。私はただ氷見氏の「マザコン的な甘え」を指摘したが、「精神分析」というほど大げさなことではない。

 

 私がしたという「人格攻撃」として思い当たる箇所は、次の内容だけである。すなわち第一に、

 

 氷見氏の、他人に対する批判を「遊び」として「楽しく」やるという態度、しかもそれを「大目に見てやって下さい」と甘える態度を、私は「マザコン的な人格未熟」と批判した。

 

 この批判に不満ならば、氷見氏のやるべきことは、堂々と「マザコン的な人格未熟ではない」と反論することである。それをやらないで、ただ「人格攻撃だ!」と言うだけでは、なんの反論にもなっていない上に、ただ私を「人格攻撃する人間」として印象づけようとする卑怯なやり方でしかない。

 

もう一箇所は、

 (劣等化批判という)「方法を取る人間の特徴は、相手をとにかく劣等なものに見せかけたいという破壊心理を持っており、その裏には劣等感コンプレックスがひかえていることが多いということである」というところ。

 

 以上の二点とも、氷見氏がなぜ他人を不当に歪めて劣等化批判をしたのかという疑問に答えるための人物批評であり、不当に人格を傷つけた誹謗や中傷ではない。

 

 なお、氷見氏は私が「見も知らない人に対して」(人格攻撃をした)と書いているが、私は氷見氏が書いたことに対して反論したまでのことである。 自分は好き勝手に書いておいて、いざ反論されると「見も知らない」のに「勝手に決めつけた」としか言えず、挙げ句の果てに「同業者」に助けを求めるなど、甘ったれるのもいい加減にしろと言いたい。

 

 それとも、「見も知らない」というのが、彼の個人的なことを指しているとしたら、私をはじめ読者が彼を「見も知らない」のは当然である。というのは彼は自分に関する個人的情報も何も出していないのだから。

 

 もし自分について十分に知った上で批判してほしいのなら、私は氷見氏が自分の実在を証明する情報や、経歴、身分、今までに書いたものなどを明瞭に提出することを要求する。

 

 自分に関する情報を堂々と出して発言することは、サイトを出す人間、特に一定の個人を対象にしたリンクスを作って「批評」しようとする人間の最低限のマナーである。自己紹介もしないで他人を批判するのは、暗闇から攻撃しているような卑怯な行為である。

 

 ついでに言えば、「道義リンクス」という名前のつけ方も、ずいぶんと失礼なやり方である。ふつうは「林道義リンクス」と名づけるはずなのに、なぜ姓を削除して名のみにしたのか、理解に苦しむ。いわゆるファーストネームで呼ぶのはよほど親しい近親者か、それとも相手を不当に貶めたい者のすることである。「見も知らぬ他人」からファーストネームで呼ばれるいわれはないし、また不愉快である。

 

 このように氷見氏のサイトは、いろいろな意味で、マナーやモラルに反していると言わざるをえない。