父性

3 妙木浩之氏への反論

    ─ 「父=撹乱者」というイメージの欺瞞性

(『父性で育てよ!』(PHP研究所)p.175-188)

 

 反権威主義の立場からの父親論の典型が妙木浩之氏である。彼は「権威」と聞いただけで拒絶反応を起こすような、権威アレルギーの持ち主のようだ。彼の動機は、以下でくわしく分析するように、権威主義だとレッテルをはって、父性論を貶(おとし)めることである。だからこそ、父性論に反感を抱くいわゆる人権派や反権威主義の人々が、彼の『父親崩壊』(新書館)をことあるごとに推奨するのである。

 

父性論を貶めるレトリック

 彼は父性論を貶めるために、次のような欺瞞的なレトリックを使っている。その例をいくつか示してみよう。

 第一の例。彼は父性論が出てきたのは、「純粋に右翼的思想の発想から」と「自分が家族のなかで認められていないことがどうにも気に食わない」という個人的な嘆きからだと言っている(『論座』1998年1月号、120頁)。「純粋に右翼的思想」とは何なのか、私にはぜんぜん分からないが、とにかく悪い印象を与えようとしていることは確かであろう。「自分が家族のなかで認められていないことがどうにも気に食わない」というのも、次元の低い動機から父性論が出されているという印象を与えようとしている。

 父性論に関心を持つ人たちは、そんな次元の低い動機からではなく、日本社会のあり方にとって、また子どもたちの教育にとって父性がどのように必要かを考えているのである。もっと積極的に父親の役割を探し求めているのである。

 第二の例。父性を求める人々を「古きよき時代への回帰派」だと性格づけ、それに対して「舟に乗りながら、その舟を修繕する」ことを対比させる(同上頁)。あたかも父性論者たちが、「舟に乗りながら、その舟を修繕する」ことを考えないで、ただ過去にこだわり、過去に回帰することを求めている時代錯誤で愚かな人間たちだと印象づけようとしているかのようである。たちの悪いレトリックを使うものである。

 私を含めて、父性について考えている人々の大部分は、昔に戻ろうなどとは考えていない。今の社会で、父親のよりよいあり方を探求しているのである。我々の目は過去にではなく、現在と未来に向いている。その意味では、誰であれ「舟に乗りながら、その舟を修繕しようと考えている」のである。

 第三の例。妙木氏は「父性の復権」が語られる文脈を考えなければならないと言う。そしてその文脈とは、「今まで庇護社会のなかでもっとも良質な恩恵を受けていた人」の「不満」だと言う(同上、127頁)。

 もってまわった言い方でなく、彼の言いたいことを明瞭に言えば、「父性の復権」を望んでいる人間は、要するに特権的な地位にいた人々だということであろう。そういう恩恵を享受してきた人々が、今までの温床が失われつつある不満から、父性論を唱えているのだと言いたいようである。なにか意図的に、「父性の復権」を語る人間を、「特権階級」と結びつけて見せようとしているようである。

 父性を求めているのは、そんな狭い範囲の人々だけではない。父性論に共感している人々は、非常に広い階層・年齢層の人々であり、とくに30代、40代の子育て中の若い父親、母親たちである。私のところにくる手紙も、30、40代の人々からが一番多い。特権階級と思われる人たちからのものは決して多くない。講演を聞きにくる人たちも、千差万別である。

 私が父性について述べるときには、つねに、右翼の人であれ左翼の人であれ、およそ人間にとって大切なこととして語りかけてきた。私の父性論は経済的に裕福であるなしにかかわらず、同様に受けいれられている。一部の偏った人たちに支持されるくらいで、「社会現象」と言われるほどの支持を得たり、話題になったりするはずがないのである。

 以上の例から分かるように、妙木氏は父性論に対して公平に評価しようという態度ではなく、初めから「悪玉」と判断した上で、それをさらに「悪く」描いてみせるという方法を使っている。なぜそうまでして「父性復権」論を叩かなければならないのであろうか。

 

「権威」へのアレルギー反応


 では、最初の「悪玉」だという判断は、どこから来たのであろうか。よく読んでみると、どうやら「父性復権」論が「権威」と「リーダー」を求めているところに、拒絶反応を起こしているようである。

 妙木氏は「日本で父性が語られるときに、一種の権威が必要だという側面が強調されるのはなぜでしょうか」と問い、その答えとして「思うに『父親=権威』と結びつけやすい理由の一つは、歴史的なものです。つまり、モデルとしての父親像を探してみると、明治期の父親ぐらいしかイメージが浮かばないということです」と結論している(同上、125頁)。

 さらに「戻るべき地点が、父親が強かった時代であり、それぐらいしかモデルがないからだとすると、父親の復権を主張している人が考えている戻るべき父親像、つまり『父性』は、明治天皇のような強い父親的なリーダーでしょうか」、とすると、「父親の権威論は、昭和初期の危機感のなかでつくられた統帥権」かその後の危機のときに繰り返されてきた「リーダー待望論」に近い、と述べている(同上、126頁)。

 間違いだらけの文章である。間違いの第一は、妙木氏が、「父性の復権」を「強い父親の復活」という意味で理解している点である。「父性」が「強い父」とイコールでないことは、拙著『父性の復権』を一読してみれば、あまりにも明らかである。

 間違いの第二は、彼が「強い父親=父親の権威」と捉えている点である。つまり彼は「権威=強さ」と捉えていることになる。

 彼の理解している「権威」とは、私の言葉では「権威主義」のことである。明治時代から戦前の父権的な家族制度のもとで、父親は権威主義の上にあぐらをかくことも可能であった。しかしそれは本当の権威ではなかった。権威とは拙著でも述べているように、その持ち主が人格や識見、能力がすばらしいがゆえに、自然に周囲の尊敬を集め、指導力を発揮するというものである。こういう意味での権威は、不況のもとでも、好況のもとでも、政治の分野でも、経済の分野でも、学校や家庭の中での子どもの躾にとっても、いついかなる場面でも、およそ人間の社会集団のあるところでは、そしておよそリーダーシップの必要なところには、必ず存在していなければならないものである。

 しかるに妙木氏は権威と名のつくものはすべて「悪いもの」だという前提から出発している。権威には望ましくないものと、望ましいものとがあるという、区別の必要をまったく感じていないようである。彼の「権威」に対するスタンスは、ただ拒否的なだけで、よく見定めて対応するという態度が見られない。非常に公式主義的で、固い姿勢と言わざるをえない。言ってみれば、彼の「権威」に対する態度そのものが不健康なのである。だから「父性の復権」という言葉を聞くと、単純に「権威主義の復活」と即断したり、昔の明治天皇や明治期の父親しか思い描けないのであろう。

 こうした反権威主義の人間が父親はどうあるべきかを考えると、どうなるかの典型が、彼の「父親=撹乱者」論である。

 

「父親=撹乱者」論の欺瞞性


 彼は「父親はどうあるべきか」について固定観念を持ってはいけない、固定観念から自由になれと言っている。そして「子どもが一定のパターンにはまり込んでしまうのを撹乱する」のが父親の役目だと言っている(『父親崩壊』163〜4頁)。父親が撹乱することによって、子どもが「フィードバックの可能性を知る」ことができるのだそうである。

 この言い方は、秩序を壊しさえすれば、自動的に新しいよい秩序が生まれるかのように言う人々と同じ精神構造を示している。秩序や権威をやみくもに拒絶したい心理の持ち主が、えてしてそういう言い方をする。しかし秩序を壊したからといって自動的によい秩序が生まれるのでないのと同様に、撹乱したからといって、子どもが自動的に判断力を持てたり、必要な人格を持てるわけではない。

 子どもがフィードバックの可能性を持つためには、それまでに相当の人格的な成長をとげていなければならない。そのためには親や社会が最低限必要な基本的な教育を与えていなければならない。人間として最低限必要な秩序感覚とか人格的な基礎を与えることがなくて、真空の中に放りだして、「自由」を与えても、子どもは何をしていいのか分からないで、ただ欲望を満たそうとするだけである。

 妙木氏は、父親のあり方について、何かプラスの定義を与えることができないで、ただ消極的な「撹乱者」という定義しか与えることができない。それは反権威主義者の限界を典型的に示している。彼らは積極的に何かを提示することが本質的にできないのである。

 しかも、自分では固定した観念から自由なつもりでも、じつは「撹乱者」という定義そのものが、父性についての力ずくの固定したイメージなのだということに、妙木氏は気づいていない。「撹乱」というのは河合隼雄氏の「切断」と同様に、力ずくのイメージなのである。父親は「切断」したり「撹乱」したりしないでも、自ら模範を示すことによって、子どもに自然のうちに人格的な力をつけさせて、自立する力を与えることができるのである。

 

単純な情報社会決定論

 ─ 妙木氏の「心理経済学」の本質


 妙木氏の理論が、健全な古典的家庭を崩壊させたいという隠れた動機を持っていることを、明瞭に示しているのが彼の「心理経済学」である。

「心理経済学」とは、経済によって人間の心が決定されるという、ひどく単純なものである。『父親崩壊』の中の説明を読んでみると、「心理経済学」とは要するに人間の心も経済学の法則によって動いているし、また心の領域も経済社会の動向によって決定されるというものである。すべての心理的現象や家族形態を経済から直接的に説明してしまう。

 たとえば近代の古典的な家族は産業時代の家族形態だが、情報時代になると家族の中にいろいろな情報が入り込んでくるので、その家族形態は維持できなくなる。なぜなら、情報型社会では、情報を持っている方が強いので、親より子どもの方が強い。親子の勢力関係は逆転しやすい。だから父親の権威などというものは、簡単になくなってしまう、と言いたいのであろう。

 その方法論は、左翼やマルクス主義の中でさえとっくの昔に破綻している素朴唯物論にすぎない。たしかに単純だから分かりやすい。一見もっともらしい見方である。鷲田小彌太氏が「分かりやすい」と褒めそやしたほどである。しかし人間の行動がすべて経済によって左右されるなどというのは、現代日本社会に特有の拝金主義の反映でしかないであろう。今や日本社会では、その拝金主義に対する反省が始まっているのである。今後ますます日本人は経済に左右されない本当に人間らしい心を持った生き方を模索していくはずである。またそうでなければならない。時代の進む方向に背を向けている時代錯誤は、どちらであろうか。

「心理経済学」によって彼の言いたいことは、要するに「情報社会になったから」家庭の中に情報がどんどん入ってくるので、子どもの方が力が上になり、家庭の既成の秩序が壊れたのだ、と言いたいのである。そして彼は既成の秩序など壊れた方がいいのだと言いたいのであろう。

 しかし彼の理解の仕方は根本的に間違っている。多くの情報が入ってくるからといって、それによって自動的に家庭のアイデンティティーが壊れるのでは決してないからである。もともと家庭の価値観がしっかりしていないから、情報過多に対して対応しきれないのであり、情報過多そのものが家庭崩壊の原因なのではない。父親に権威があり、家庭の価値観が確固としていれば、どんな情報が入ってきても、びくともするものではないのである。

 妙木氏は人間の主体的選択というものをまったく度外視している。親は子どもにとって望ましくない情報をシャットアウトすることもできるし、しなければならないときもある。情報社会になると、情報をたくさん持っている子どもの力が大きくなり、自動的に家族の力関係が変わり、家族形態が変わらなければならないかのように言うのは、自分の心理的願望を客観的必然であるかのように言うという、すりかえである。

 彼の心理的願望とは、健全な古典的家族形態が壊れてほしいというものであり、彼は幸せな家族に対する隠された破壊衝動を持っているのである。妙木氏の唱える「心理経済学」とは、そういう隠された心理的な動機に、いかにも客観的な学問的粉飾をほどこしているにすぎない。

 

極左フェミニズムの悪影響


 妙木氏もまたいわゆるラディカル・フェミニズムの思想的影響を強く受けている。ラディカル・フェミニズムとは、全共闘の影響を受けながら、その全共闘でさえも女性差別があるとして、独自の運動を展開してきているが、しかし彼女らはむしろ全共闘のマイナス面を拡大してしまったところがある。そのマイナス面とは、プラスの価値をすべて引きずりおろしたり、否定するという心理を持っているところである。彼女らは家族愛とか母性愛を「女性を支配するためのイデオロギー」だとして否定し、総じて「愛」によって成り立っている「近代家族」を否定する。妙木氏もまたじつは背後に近代家族などはなくなってもよいという思想をひそませているのではなかろうか。

 極左フェミニストたちの母性否定、家族愛否定は、今では他のほとんどのフェミニズム各派に伝染し、「愛という名の支配」などのキャッチフレーズによって、それと知らずに女性大衆のあいだに浸透している。その思想に感染している女性は非常に多い。社会現象とも言える不倫ブームも、女性たちが家族をないがしろにすることによる家族の崩壊現象も、深いところでその思想の影響を受けているのである。とくにこのごろでは、未婚の母(シングルマザー)を礼賛する風潮があったり、「子どもはほしいが夫はいらない」(つまり子どもにとって父親は必要ない)という女性を持ち上げたりするフェミニストもいる。健全な家庭を崩壊させようとするアナーキーな危険思想と言うべきである。この点については拙著『主婦の復権』で詳しく分析しているので、是非それを読んでほしいと思う。

 ラディカル・フェミニズムという名の極左フェミニズムの特徴は、家族が崩壊しようがモラルが崩れようがいっこうに構わない、なぜならその混乱の中から何かよいものが生まれてくるだろうから、と主張するところにある。彼女らは無責任に「秩序」と「権威」を全面否定し、かわりにノーテンキな楽観主義をふりまく。その影響を受けた者たちは、父親が子どもに「あるべき姿」を与えようとしてはいけない、父親が「ありのままの姿」を見せれば、子どもも「ありのままの姿を見せる」ようになり、自動的に問題が解決すると言わんばかりの理論を展開する。

 妙木氏もラディカル・フェミニズムの強い影響を受けており、その参照している本はほとんどすべてフェミニストの書いたものである。したがって、その思想の性格上、プラスの積極的な処方箋を与えることはできないので、ただ破壊したり否定したりすることをプラスのように見せかけるという手品を示すことしかできない。結論としては、せいぜい「父親について語るためのオープンな場」が必要だと、もっともらしいお説教をするのが関の山である。

 彼らの決定的な欠陥は、「ありのまま」になったり、「撹乱」されたりした子どもは、けっして自動的には人格や自我を持つことはできない、ということが分かっていないところである。「撹乱」された子どもが、適切なフィードバックをすることができるためには、すでに相当な人格的力量を必要としているのである。その自我や人格をどのようにして造ってやるのかが問題になっているのだ。その問題になると、またしても彼らは、「何も押しつけてはいけない」「あるべき姿」に押し込めるな、と主張する。ただ親のありのままを見せていれば、子どもは自分の力で、なんとかなる、と言いたいらしい。

 ここには、戦後、毎日のように繰り返されてきた自由放任の楽観主義的教育観が、飽きもせず示されている。しかし実際には、そのようにして自由放任で育てられた子どもこそが、いじめ、不登校、その他のもっとひどい人格崩壊を示しているのだ。価値も模範も何も与えなければ、子どもは無気力になるか、放埒になるしかない。しかし子どもに「あるべき姿」を与えてはいけないと言う。それでいて無気力にもなるなと言う。言ってみれば、彼らは「無気力になれ」と言いながら、同時に「無気力になるな」と言っているようなものである。これは、妙木氏がどうしても避けなければならないという、ダブル・バインドを与えているに等しい。そういう矛盾に陥ってしまうのは、そもそも「あるべき姿」を与えてはいけないという間違った考えを持っているからである。正しい態度は、「あるべき姿」や高い価値を模範として示す、しかし強制はしないで子ども自身に選ばせる、という態度である。

『父性の復権』に対するヒステリックな批判、たとえば「新保守主義」だとか「保守的イデオロギーにすぎない」とか「道徳教本」だとか「戦前の強い父親の復活を願う」といった種類の批判の背後には、必ず極左フェミニズムの思想がひかえている。彼(彼女)らの「父性復権」論に対する反発は、健全なもの(プラスの価値)に対するほとんど本能的・感覚的な拒絶反応である。

 今「父性復権」論を歪めて「悪玉」のイメージを押しつけようとしている者たちは、斎藤学氏や伊藤公雄氏や妙木氏をはじめとして、全員フェミニズムと近親関係にある者、というよりフェミニストそのものと言ってよい人々である。