父性

21 脳科学応用の方法論的問題

           (平成19年12月24日初出)

 

  私はわりあい早くから脳科学をさまざまな社会現象に適用したり、とくにフェミニズムの根本的な間違いを指摘するのに応用してきた。なかでも男女の脳構造の生得的な違いを無視した「男女まぜこぜ」教育論に対しては非常に有効な反論になってきた。

 これがフェミ・左翼には相当な痛手だったと見えて、反論しようとする者が出ている。といって、私に対して名指しで反論するのではなく、いわば搦め手から権威を落とそうという作戦である。

  例えば、宣伝してやることもないので書名は挙げないが、ある脳科学を扱った本に、「脳が分かればすべてが分かるなんて嘘ですよ」ということを、くだくだと述べただけの、つまらない本がある。

 この本の冒頭で、私がこれまでに「面白い」とか「有益」だと推薦した脳科学関係の本三冊が、「すべて脳から説明できる」とする間違いの典型として頭から否定されている。しかも、その否定の仕方はきわめて非学問的である。すなわち内容に即した証拠を挙げないで、ただ悪い例として否定しているだけである。

 「脳が分かればすべてが分かる」という間違いを犯している典型として槍玉に挙がっているのは、

1 澤口俊之・南伸坊『平然と車内で化粧する脳』(扶桑社)

2 森昭雄『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版)

3 アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社)の三冊である。

 ここで名指しされたも同然の三冊の本は、偶然なのかどうなのか、ちょうど私が推薦している本である。しかも、いずれも左翼(崩しの思想)やフェミニストにとって都合の悪い内容である。 これら三冊の本が「すべて脳から説明できる」という単純な間違いを犯しているとすると、私もまた同じ馬鹿げた過ちを犯していると言われたに等しい。こういう悪質な誹謗に対しては、きちんとした方法論的な反論をしておく必要がある。

 まず結論を先に言うと、これらの本は「すべて脳から説明できる」ということを主張してはいない。これらの本が「すべて脳から説明できる」と主張しているというのは、一種のデマゴギーであり、単なる悪宣伝にすぎず、とうてい学問的な評価とは言えない。

 では、これら三冊の本は何を主張しているのであろうか。

 そのことを明らかにする前に、まず確認しておかなければならないことがある。それは「すべてを脳から説明する」ということと「具体的な何かを脳から説明する」ということとは、まったく違うということである。すなわち「命題」には「全般的命題」と「限定的命題」(と仮に名づける)の区別がある。「全般的命題」とは一般的普遍的に当てはまることを求める命題、「限定的命題」とは限定された条件のもとで「ある事柄について」のみ当てはまると主張する命題のことである。

 「すべてを脳から説明する」といった「全般的命題」は馬鹿げているが、ある心の性質なり行動なりを脳の特徴や構造から説明することは十分に可能であるし有益である。人間の心の現象をなんでも脳から説明できるというのも間違いなら、そもそも心を脳から説明すること自体ができないというのも間違いである。「脳から説明する」ということ自体は、必要な限定をつけ、方法論的な配慮を十分にした上でならば、十分に可能なばかりか、むしろ有益な知見を提供できる場合がある。「限定的命題」は経験科学的な命題であり、検証可能である。

 では、これら三冊の本は、「脳がわかれば心がわかる」という「全般的命題」を主張しているのか、それとも「脳についてこれこれのことが分かると、心のこれこれの性質が説明がつく」という「限定的命題」(経験科学的な命題)を主張しているのか、改めて吟味してみよう。

 まず澤口俊之・南伸坊『平然と車内で化粧する脳』は、今まで存在しなかった「車内で化粧する」という恥知らずな行動がなぜ起きるのかという具体的問いから出発して、日本人の脳(モンゴロイドの脳)の特殊な性質を解き明かしていく。

 日本人(モンゴロイド)はアフリカのニグロイド、欧米のコーカソイドに比べて最もネオテニー化が進んでいる、すなわち前頭前野が未発達で産まれてくる。したがって、前頭前野を発達させるための社会的仕掛けを必要としている。恥の感覚もその一つである。「恥」は高度な精神性であり、成熟した人格を必要としている。それを発達させるための仕掛けがゆるんでいることが、「車内での化粧」や「イチャつき」「しゃがみこみ」といった「恥の感覚を欠如した」現象として現れている、というのが、この本の主張である。

 このように、この本は脳科学からなんでも説明しようとはしていない。ある共通性の見られるいくつかの現象について、脳科学から見るとこう言えるということを言っているだけである。「車内での化粧」を脳科学だけで説明できるとも言っていない。したがって、別の脳科学者が「そんなことは言えない」と反論することも可能ならば、他の要因を原因として挙げることも可能である。

 確かに題名を見ると、「何々する脳」となっているので、なんでも脳だけから説明できると豪語しているように誤解される。しかし題名というのは出版社がつけるものである。売れる題名をつけることが売れ行きに、ひいては社の生き残りに直結しているので、内容とは多少ずれた題名をつけることはいくらでもある。題名に騙されてはいけない。

 次に森昭雄『ゲーム脳の恐怖』は、ゲームをやっているときの前頭前野の状態を調べた研究である。具体的に言えば、α波とβ波がどのくらい出ているかを測定した。結論を言うと、ゲームをやっているときはβ波の水準が下がり、α波と同じ水準になっている。ゲームを止めると元に戻る人はいい方で、重症になると止めても元に戻らない。そういう人は脳の状態が痴呆症と同じになっているという。

 著者の実験によれば、幼児期あるいは小学校の低学年からテレビゲームをしていた人は、前頭前野のニューロン活動がひどく低下し、もの忘れが多く、時間感覚がなく、学業成績は悪く、学校を休みがちという「ゲーム人間」になる傾向が認められた。ゲーム中毒は幼児期に形成されるというのである。

 この研究から著者は以下の結論を導き出している。すなわちゲームは、人間を人間たらしめている前頭前野の活動を停止せ、発達させない作用をする。集中力が低下し、もの忘れがひどくなる。その結果、激情を抑制できないキレやすい人間や、自分の頭で考えられない人間になってしまう。

 この研究は、「脳からすべてを説明しよう」としているのではなく、ゲームを長時間やると、脳にどういう影響を与えるかということを具体的に調べたものである。この本に対して、「心をすべて脳から説明しようとしている」と批判するのは、まるで見当はずれと言うべきである。

 この研究に対して、いろいろと批判がなされてきたが、いわゆる「ゲーム中毒者」の脳波を調べることによって何か有意義な結果が出てきたり、必要な警告がなされる可能性は否定できない。脳波を調べて、とくに幼児期からやっている者に弊害が出るという警告については、真剣に受け止めるべきである。もし研究に欠陥があるというなら、さらに正しい方法によって研究を進めるべきだという結論にこそなれ、研究そのものを否定する理由にはならない。脳波を調べて問題提起すること自体は間違いではないのである。あくまでも経験科学の範囲内で、さらに精緻な研究を重ねていくことが望ましいのである。

 最後にピーズ夫妻『話を聞かない男、地図が読めない女』はきわめて限定的に思える題名がついているが、じつはかなり包括的な内容である。男性と女性では行動様式や感情や心理において統計的に有意な差があるという前提から出発している。他方で男女では脳の構造や働きにも統計的に有意な差がある事実に注目する。そして両者の差に関係があるのかないのかを研究していき、結論として前者の差が後者の差に由来するものだという結論に達している。

 この研究はたしかに「人間の心を脳から説明」しているが、それは「男女の行動や能力の差は、男女の脳の具体的なこれこれの構造や働きの違いからきている」というあくまでも経験科学の範囲内での限定的な研究であり、反証可能な命題であり、「そもそも心はすべからく脳から説明がつく」という形而上学的な命題を主張しているのではない。

 

 以上、三冊の本の内容に即してみてきたように、これらの本は「脳が分かればすべてが分かる」などという全般的包括的な主張をしているのではない。これらの研究はいずれもテーマを限定した上で、できるだけ実証的に証明しようとしているものである。こうした経験科学的な研究に対して、形而上学的な批判を加えることがいかに見当はずれか理解できるであろう。批判をするならば、同じ土俵に立って、経験科学的実証的に反論するのでなければならない。

 以上の論点は、脳科学を応用するさいの方法論に関する大切な問題を含んでいる。今後も現れうる問題なので、このさい十分に参考にし、頭に止めておいていただきたいと思う。

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