父性

15 マザコン的エセ父性論

 ──鈴木光司『父性の誕生』の自信過剰

 

 鈴木光司氏は自らを「文壇最強の子育てパパ」と名乗って、しきりに父性や父親について発言している。また政府の諮問機関「少子化への対応を推進する国民会議」の委員にもなっている。小説『リング』シリーズがベストセラーになったりして、若い世代に人気があることから、その発言はかなりの影響力を持っているものと思われる。

 その鈴木氏が最近『父性の誕生』(角川書店) という本を出した。この題名の意味は、「今までの日本には父性はなかった、これから誕生させなければならない」ということで、自分が父性を誕生させるのだと言わんばかりの、大変な自信、というより大言壮語である。

 しかしその内容を読んでみると、ずいぶんと程度が低く、父性「論」でないばかりか、「エセ父性論」とさえ言うべきものである。

 

「なかった」は証明できない

 まず第一に、方法論的に言うと、何かが「なかった」ということを証明することは不可能である。鈴木氏は「過去の日本には父性がなかった」証拠をいろいろと提出している。たとえば、特攻隊などの日本軍の戦争のやり方に対する批判だとか、戦後の父親たちのだらしない様子を描いて見せる。

 過去の父性にも現在の父性にも問題があったということは、私がつとに述べてきたとおりである。私の父性論は日本人の父性が不十分だという問題意識から出発している。しかしだからといって、「日本人の父性一般」がなかったと言うのは、どうであろうか。

 逆に「こんな立派な父親もいた」という例を出すことはいくらでも可能である。

 一般的に言うと、父性なくして育った人、自分にも父性のない人たちにかぎって、「日本には父性はなかった」とか「父性はない」と主張するものである。なぜかというと、父性不足で育った人は、父性に対して感受性がないので、父性のある人に出会っても、父性を感じることができず、結果として「父性のある人はいない」と結論しがちだからである。だから父性のない人間にかぎって、「日本には父性がなかった」と主張するのである。

 

「なかった」とも「あった」とも、どちらの証拠も限りなく提出できる事柄について、彼はどうしてこうも「なかった」ことにこだわるのであろうか。

 

 彼は

 

過去の男だけをモデルにするのではなく、自らの意志で、新しい「父性」を獲得しなければならない。(p.34)

 

と言っているが、どうしてこのように「新しい獲得」とか「創造」とか「誕生」という言葉にこだわるのであろうか。

 過去を否定し、新しい創造や誕生を自らの手でなしとげたいと思うのは、じつは一種の父親コンプレックスのなせるわざである。

 

「誕生」は父親コンプレックスから誕生した

 彼が「誕生」という言葉を使うのは、過去を否定したいからであり、自分が未来を新しく創造したいからである。過去を否定したいとは、父親を否定したいということである。彼は自ら語っているように、弱々しく覇気がなかった父親を否定し、強い父親になりたかった。そういう否定的な父親コンプレックスが、彼に「誕生」という言葉を言わせるのである。「強い男」へのあこがれは、また彼の母親のものでもあった。ここには、後に述べるように、母親コンプレックスもまた関係しているのである。

 

体験主義の落とし穴

 いま指摘したように、彼は自分の人生や父親、母親のことを多く語っている。本の半分は自分のこと (というより成功談であり自慢話) である。それはともかく「自分の体験から」父性について語った本というふれこみである。

 「体験から」と言われると、内容に重みがあり、地に足が着いていると思われそうである。彼もそうした印象を狙っているのであろう。

 しかし体験をそのまま語っても、何か価値あることを言ったことにはならない。その体験に「反省」という営みが加わり、また客観的な社会現象と付き合わせるという作業を経ていなければならない。そうでないと、その体験談もただの主観的なひとりよがりになってしまう。

 彼は自分の体験を絶対の基準のように語っている。そこにはなんら「反省」という精神活動は加えられていない。

 

見え見えの母親コンプレックス

 「反省」という営みができないのは、彼が自分のコンプレックスをまったく自覚していないからである。だから彼はコンプレックスが言うとおりに考え行動するので、その考えには偏りがつきまとい、それを偏りだとは自覚できないのである。

 彼は

 

 僕にはコンプレックスというものがない。こう言いきれる人間は珍しいのではないかと思うが、コンプレックスもなければ、ストレスもない。なぜだろうと考えるに、良心から愛されて育ったという自覚が第一にある。特に母親は、僕のすることに信頼を以って見てくれていた。(p.173)

 

 僕の場合母親から囁き続けられた「筋肉隆々とした男の腕にぶら下がって生きていきたい」という言葉が、活動の原点になっているとしたら、それもまた大きな意味のコンプレックスなのだろうか。(p.181)

 

と書いているが、「大きな意味」も「小さな意味」もない、コンプレックスそのものである。このコンプレックスによって彼の「父性」つまり「理想の父親」像が決定されている。彼の理想の父親像には、「家族を守る」強い父親像が中心にいる。

 第五章「新しい父性とは」の第一は「危険に立ち向かう」である。格闘技を身につけ、家族を守るために悪者と戦うというイメージらしい。次の項目は「育児はカッコいい」であり、妻が働いているあいだ二人の娘の世話をした話が自慢として語られている。こういうところがフェミニストに人気のある理由であろう。

 この二点とも、強い母親コンプレックスからくる特徴である。「強い父」への憧憬は、弱い実父に対する母親の補償的な願望を取り込んだものであることは、すでに述べた。

 もう一つの育児パパの賛美は、彼の母親がワーキングウーマンだったことを知れば納得がいくであろう。母親への心理的サポートから、彼は一貫してフェミニズムや「働く女性」に対して親和的であり、その背後には強い母親コンプレックスが存在している。

 そのコンプレックスは、彼の過剰なまでの自信の裏付けになっていると同時に、偏りや偏見のもとにもなっている。しかし彼はそのプラス面ばかりを自覚して、決してマイナス面を自覚していない。彼は

 

僕には母親に愛されて育ったという自覚があり、僕自身母を愛していたから母の言葉はプラスとして作用した(p.181)

 

と書いていて、プラスに作用したと思いこんでいるようである。しかし「母に愛された」という男性が、しばしばナルシシズム的な自信過剰に陥り、自分の偏りを自覚できないことがある。こうしたマイナス面については、彼はまったく自覚していないようである。

 

マザコンと自信過剰および偏見

 マザコンの男性、とくに母親に溺愛され、母親から「○○ちゃんは偉くなるよ」と言われて育った息子は、過剰な自信を持つが、それに見合う能力がない場合にはその期待に押しつぶされて、道を誤ることがある。しかしある程度の能力があり、チャンスに恵まれると、大きなことをなす場合もある。「怖いもの知らず」だからである。しかし大きなことをするといっても、その仕事には大きな偏りがつきまとう。それは、そのようなことを息子に言う母親が夫に対する不満を抱いていて、その不満からくる偏りを無意識のうちに注入し、息子が無意識のうちに受け継いでいるからである。

 たとえば、フロイトも母親から「ジークムントは将来偉くなる」といつも言われて育った。彼はたしかに偉くなったが、その学説には性理論への偏りという特徴が消えなかった。

 鈴木光司氏も、母親から、いつも「弱い父にかわって強くなれ」というメッセージを受けて育ったので、その父性理論においても「強さ」への偏向が見られる。その「強さ」もとくに肉体的な強さに偏っている。しかも、それでいて、母親の人生を肯定したいという心理が働いており、したがって「働く女性」を弁護し、保育所を正当化するフェミニズム的な思想がいつも顔をだす。「強い父親」論と、フェミニズムへの追従とは、彼の書くものにおいて、いつも不協和音を奏でている。

 たとえば、彼は大家族を否定し、核家族でいいと言う。そして核家族は進歩であり、「自分を縛っていたものから自由になった」形態だと言う。 そのような核家族の正当化は、彼の母親が大家族の中で苦労しているのを見たという体験から出されている。つまり彼の理論はつねに母親の側に立った体験によって直接的に規定されており、それに客観的な反省を加えたことによって出てきたものではない。ところどころにデータやグラフを挿入してもったいをつけているが、それは自分の理論に都合のよいデータを恣意的・意図的に使っているにすぎない。

 このように彼の言うことは、単に自分の存在形態を肯定するための理屈の域を脱していない。

 

 

「常識の嘘」という嘘

 彼の理論の偏りは、第六章「子育て、常識の嘘、ことわざの嘘」と第七章「シングル家庭にとっての父性」において、如実に現われている。

 たとえば、「常識の嘘」として「父親と母親の価値観が違っていても大丈夫」と言っている。というのは、夫婦というものは文化の違う者同士が一緒に暮らすことだから、価値観が違って当たり前。「二つの文化のぶつかり合いを、お互いに認め合いながら交わす会話は、子供にとっても大いに刺激になる。」(p.156)

 これだけの理由から、一足飛びに「夫婦の価値観が違っても大丈夫」という一般的な命題へと飛躍する。「文化の違い」と「価値観の違い」を同一視していいのかとか、どの程度の違いなら許容範囲かとか、「ぶつかり合い」が子供に対してよい影響ばかりを与えるのかとか、そういう考察はほとんどない。ただ自分の成功の体験から、一般論へといきなり飛躍する。これがマザコンによって育てられた自信過剰の息子の特徴である。こういう偏った一般論を自信満々に説教して、彼は読者にこの命題を信じなさいと言うのだろうか。

 彼は常識やことわざが本当かどうかを疑えと言いたいらしい。でも、自分の言っていることは絶対の真理であるかのように言う。まるで異教の神を信ずるな、わしという神を信ぜよ、と言っているかのようである。

 私が『母性の復権』で述べたように、いま子育てをしている世代の女性たちは、「文化人」や「専門家」の言を信じやすく、公式主義に陥りやすい。その人たちに対して、もう一つのフェミニズム的な公式を押しつけているのが、鈴木光司氏である。

 

 次に彼は「三歳児神話をぶち壊せ」とフェミニストばりのアジテーションをぶつ。三歳児神話の根拠はピアジェの研究だが、それは「三歳までに基礎ができる」という研究で、「母親がそばにいなくてはいけない」とは一言も言っていないそうだ。どうせどこかのフェミニストのあやしげな理論を借りたのであろう。冗談じゃない。幼少時に母親の関わりがいかに大切かという客観的な研究は山ほどあり、ピアジェの研究だけではない。その主要な一端は拙著『母性の復権』に紹介してあるから、きちんと読んでもらいたい。

 さらに彼は保育所を手放しで賛美するが、その根拠はフェミニストがさんざん言い古した屁理屈でしかない。「保育所ではプロが育ててくれる」(そのプロがプロと言えないような者もいるとか、プロが虐待するという現実を知らないのか) 、「保育園育ちはたくましい」(弱肉強食に勝利した者にとっては。しかし、いじめっ子になる場合もある、そのいじめっ子は母親の愛情が不足している場合が多い) 、「家庭で母親がストレスをかかえながら子育てをするより、数段恵まれた環境だ」(どうしてストレスを抱えた場合とだけ比較するのか) 、等々。保育所に対するじつに一方的な正当化であり、偏った弁護論である。

 

 「三歳児神話」は、あくまでも「神話」に過ぎない。根拠もなく、人々に信じられている事柄だ。畏れることはない。母親を縛る、こんな神話からは自由になってほしい。(p.164)

 

 乳幼児期の子どもに対する母親の影響に関する研究を、彼はきちんと勉強した上で発言していない。この言葉は母親コンプレックスが言わせているにすぎない。

  

宮台真司氏の片親家庭賛美への同調

 鈴木氏が宮台真司氏と対談したときに聞いた話として、宮台氏の大学で「なぜ片親家庭の子どもは素敵な子が多いのか」というテーマで討論がなされたという。そういうテーマそのものがすでに偏見を前提にしているということはまったく問題にもされない。「片親家庭の子どもは素敵な子が多い」という命題そのものが客観的なものではなく、「片親家庭の子ども」を元気づけるための企画にすぎない。そういう企画をするのは自由だが、それをそのまま肯定して、それを前提に論を組み立てるのは、少なくとも客観的な議論の仕方とは言いかねる。

 そのことよりも驚かされるのは、「片親家庭の子どもが素敵」だという理由である。

 

 たとえば、

片親家庭の母親はキャリアウーマンであると同時に誰かの恋人だから、子どもは母親に女を感じることが多い。母子家庭の母親は束縛がないだけに、その気になればどんどん性を楽しめる。(p.168)

 

 たとえば、

父親や母親のいない子はある種のダメージを被るが、家族の既成概念から隔たっている部分があるから、むしろ子どもがちゃんと育つという気がする(p.169)

 

 たとえば、

片親家庭の子は、家庭というものは自然にあるものではなく、自分が意識的に作っていくものだ、では自分はどんな家庭を作りたいのかと真剣に考える機会がそれだけ多いだろう。(p.169-170)

 

 万事がこの調子である。ある命題にとって都合のいい理屈だけを拾い出し、都合の悪い事実にはほおかむりする。仲間にだけ、あるいは利害関心の同じ者だけに通用する勝手な屁理屈である。

 私が何度も引き合いにだす、「離婚家庭の子どもの心理的な困難」と、それが十年、二十年、ときには一生続くという深刻な問題はないものとされている。

 

でたらめな父性論

 以上見てきたように、鈴木光司氏の父性論は、父性論の隆盛に便乗して自分を売り込もうとするものにすぎず、支離滅裂の寄せ集め理論である。それは単純な「強い父」のイメージに加えて、マザコン的なフェミニズムによって味付けをしただけの、いい加減な理論である。

 それは自分の人生や体験を正当化したいという心理によっても動機づけられている。自分の人生が成功だという思い上がりを前提にし、自分の体験を正しいものとする前提に立っている。父性はこれから「作られる」のだと言い、その模範または先鞭をつけるのが自分だと言わんばかりである。題名からして思い上がりのこの本は、父性について真面目に考えようという人たちを愚弄するものであり、また無益な迷いへと誘うものでしかない。