父性

14 「多様な父性」「多様な父親」論の落とし穴

 

 「多様な」という言葉をやたらと使いたがる人びとがいる。なんでも「多様な」という言葉で肯定したがる。「多様な家族」論がいかに危険なものかについては、すでに私は『フェミニズムの害毒』の中でくわしく論じたことがある。「多様な」という言葉を最も使いたがるのがフェミニストたちだという事実を見れば、この言葉がどういう種類の人間に好まれるかが分かる。

 たとえば、フェミニストたちは「フェミニズムなどというものは存在しない」「フェミニズムにもいろいろあるので、フェミニズム・ズと言うべきだ」と、「多様なフェミニズム」論を主張している。

 その論理は、フェミニズムを批判している人間に対して、それは「一つの」フェミニズムにしか当てはまらないとして、批判をかわせたと思いたい心理を表わしている。

 「フェミニズム・ズ」という言い方をする人間は、じつは抽象的な思考法のできない人間にすぎない。私がフェミニズムを批判するときには、「いろいろある」フェミニズムの中から、それらに共通する特徴を抽出しているのである。だから私の批判は大部分のフェミニズムに当てはまっているのである。

 

 父性についても「多様な父性」を認めよと主張する人びとがいる。

 たとえば、『朝日新聞』平成12年12月24日付の読書欄の「スペシャリテ」というコラムで山崎浩一氏はこう書いている。ちなみに彼の役目はJ・M・マッソン著『良い父親、悪い父親』(安原和見訳、河出書房新社) の「紹介」のはずである。しかし彼はこの本の内容としては、ただ動物の「多様な父性」を紹介しているものだとしか「紹介」しない。「紹介」に便乗して彼は自分の主張をすべりこませる。彼の主張とは、こうである。

 

 ただしその父性とは、たとえば「父性の復権」などと声高に唱えられるようなステレオタイプな代物ではない。父親としてどのように子育てに関わるのか──つまり「多様な父性を意識的に選択できること」こそが、ヒトの雄だけに与えられた "特権" とも言えるのだ。(実は母性だって同じことだと思うのだが)

 

 彼は『父性の復権』をきちんと読んでいないだろう。もし読んでいれば、「声高に唱える」だの、「ステレオタイプな代物」という言い方は少なくともできないはずだからである。ここには彼の感情、もっとはっきり言えば反感しか表現されていない。題名だけ読んだか、言葉を聞いただけで、反発する精神の典型を見る思いである。

 

 それはともかく、肝心の彼の主張

 

「多様な父性を意識的に選択できること」こそが、ヒトの雄だけに与えられた "特権" とも言えるのだ。

 

というのは正しいであろうか。

 これは言い換えると、「父性にもいろいろある」ということである。つまり「父性」という言葉は単数で使ってはいけないのであり、「父性ズ」と複数で使わなければいけないという主張である。

 私が『父性の復権』で「父性」というものの重要性を訴えて以来、私たちがこれまで討論してきたのは、「父性とはどういうもので、どうあるのが望ましいか」という問題である。父親のあり方が子どもに重大な影響を与えるものだという認識の上に立って、そのよりよいあり方を考えてきているのである。父親のあり方が子どもに対して大きな、ときには致命的な影響を与えるという事実に根ざした研究なのである。それは「声高に唱える」とか「ステレオタイプ」と言った物言いとはおよそかけ離れた営みであった。

 しかし「多様な父性でいいんだ」と言ったとたんに、「父性とはどういう内容であるのが望ましいのか」という問題意識は投げ捨てられて、あっというまに「なんでもいいんだ」という次元に飛び越えていってしまう。少なくともそういう危険がある。ある、というより、危険が一杯だと言うべきである。 

 そもそも、「多様な」という言葉が好きな人びとというのは、たいていは私が「崩しの思想」と名づけた思想の持ち主である。つまり「父性」とか「権威」とか「秩序」という言葉そのものにアレルギーを起こして、反発したい人びとなのである。彼らは「必要な秩序」や「必要な権威」までも否定してしまうという危険をはらんでいる。

 

 

 この人たちの共通の欠陥として強調しておきたいのだが、彼らは抽象的な思考法というものがまったく理解できないという特徴を持っている。すなわち「多様な父性」とか「父性にもいろいろある」と言うけれども、「父性」という言葉を使うかぎり、「父性」としての共通の性質はあるのか、ないのかという問題意識がまったく認められないのである。「父性」という言葉を使うかぎり、「父性」としての共通の特徴を抽出しているのだという発想がまるでないのである。だからそういう頭の人間が「いろいろある」と言ったとたんに「なんでもあり」になってしまい、「父性」でさえなくなってしまう。父親でなくても、誰でもできることだとなってしまう。あげくのはてには「父親などいらない」とさえ言う人もいる。

 

 「望ましい父性」をめぐって、どの「父性」の捉え方がより正しいのかを検討するのが、研究や討論の目的である。「父性」は複数あり、何でもよいのだということであれば、「よりよいもの」をめぐって研究や討論する必要はなくなってしまう。

 多様な父親のあり方の中で、どれがより望ましいのかと追求することこそが「ヒトの特権」ではなかろうか。そういう営みなしの「多様性」の強調は、レストランで好きなメニューを選ぶのと同じ「好み」の問題にすりかえられてしまう。

 彼が言う「意識的選択」という言葉はいかにも魅力的に響く。しかしその言葉は「おいしそうな決まり文句」にすぎず、じつは何も言っていないに等しいのだ。なぜなら「意識的」とはどういうことなのかはっきりしないからである。

 そもそも「意識的」という言葉を安易に使ってほしくないものである。「意識的」とはどういう意味なのか、そのことについて彼が本当に考えぬいて使っているとはとうてい思えない。

 「意識的選択」ということは、よほど訓練された高度な「意識」を前提にしなければ不可能である。責任と良心を持ち、成熟した高度な判断力をもった意識にして初めてできる仕事である。そういう高度な意識なしの「意識的選択」は、結局は「好みの問題」となり「なんでもあり」にしかならないのである。 (哲学に関心のある人は、ここに唯名論的な誤りを見出すことができるだろう。唯名論も批判精神は旺盛だったが、結局は否定しかできないで、なんら建設的な役割を果たすことができなかった。)

 

 ところで、彼が紹介するはずだったマッソン著『良い父親、悪い父親』についても、少しだけふれておこう。

 この著者は「良い父親」とは子育てに関わる父親だと主張している。だからこの本のもとの題名の「皇帝ペンギンの抱擁」つまり皇帝ペンギンの雄が二ヶ月間絶食をして卵を抱きつづけるという事実が、著者を感動させる。そのように我が身を犠牲にして子育てに尽くす父親が「良い父親」だというわけである。

 私はこういう考え方は間違いだと主張してきた。もちろん父親が子どもを可愛がり抱擁し、子育てに関わることはよいことである。しかし父親独自の役割を考えないで、ただ保育を手伝う雄が立派だという見方は疑問である。

 動物には各動物の進化の過程というものがあり、適応のパターンがある。それを一律に人間に模範にせよというのは、方法論的に疑問である。ましてや自分の価値観に照らして、この動物の父親は「人間よりよほど立派」だとか「悪い」とか価値判断するのはおかしい。

 つまりこの著者の方法論には疑問が残る。しかし人間の子育てについて言っていることには、多くの真実が含まれている。たとえば、

 

 人間は、裸の子どもをひとりずつ産む唯一の哺乳類である。また、子どもは極端に晩成型で、ほかのどの動物よりも子どもでいる期間が長い。そのため、ぬくもり (人間の体温) 、安心感 (ふれあいやなだめる声) 、保護 (害意のある動物や人間からの) 、食物、清潔さ、避難所、衣服、教育、けがや病気の手当が必要だ。

 

 人間は幼児とひとつ寝床で眠るように進化してきた

エポック博士のように「どんな理由があろうと、子どもを親のベッドに入れないのが賢明なルールである」などというのは間違っている。

 

 その他

 

 人間は乳児が空腹を訴えればいつでも授乳するように進化してきた

 

 人間は赤ん坊の泣き声にただちに反応するように進化してきた

 

 人間は (とくに父親は ! ) 毎日子どもと遊ぶように進化してきた

 

 人間は子どもを連れて異動するように進化してきた

 

などの命題が並んでいる。

 どれをとっても、私には全面的に共感し、賛成することばかりであった。

 もちろんこられの命題には、それぞれに説明がついている。それをここにすべて書き写す余裕はないので、くわしくは本書を読んでいただきたい。

 

 さて、話は変わって、もう一つ「多様な父親」を推奨する本を取り上げてみたい。1999年4月に発行された、木原武一『父親の研究』(新潮社) である。これは私の『父性の復権』に刺激されたのか便乗しようとしたのか知らないが、『父性の復権』を強く意識して書かれたことだけは確かである。なぜなら「プロローグ」の最後に次のような一節が見えるからである。

 

 世上には、父親はどうあるべきか、父親としての権威や役割、いわゆる「父性」をどう回復すべきかといった議論があるが、私はそのような事柄には関心がない。あるべき父親像を考えることは、要するに、あるべき人間像を考えることであって、理想の人間がありえないのと同様に、理想の父親もありえない。さまざまな人間が存在して、それなりに全うな人生を送っているのと同じように、さまざまな父親が存在し、それなりに父親としての役割を果たしているにすぎない。父親になったからといって、人間が一変するはずもない、立派でない人間が突如として「立派な父親」になれるはずもない。

 そもそも、「立派な父親」とか「父性の復権」は幻想にすぎない。父親もひとりの悩み多き、不完全な存在であって、父親としての権威をふりまわして、家族を総合したり、文化を子孫に伝えたりしていると思い込むのは偽善にすぎない。父親に必要なのは「父性」や権威ではなく、わが子に対するゆたかな感受性であり、新しいひとつの生命に対する驚きの感情であり、それをひたすら慈しむ心である。これが親あるいは父親の基本条件であり、これに付随してさまざまな営みが親子のあいだに展開するにすぎない。(下線- 林)

 

 ちょっと皮肉を言えば、「関心がない」ことについて、わざわざどうしてこんなに強い口調で書かなければならないのか。それはじつは強い関心のある証拠ではないのか。

 まあ、それはともかく、ここにはある種の文学研究者の屈折した心が正直に吐露されている。この種の文学研究者は、この世の既成の権威や秩序や理想に反抗し、批判することに使命感さえ持って、「理想」を説く人間を揶揄するのを商売にしている。それはそれで存在価値があると私は思っているので、そういう言説を否定するつもりは毛頭ない。しかしその手の人間はえてしてそういう批判精神を自分のコンプレックスのはけ口にしたり、相手かまわずつっかかったりする癖を持っている。悪い権威だけでなく、健全な権威までも含めた権威一般を否定するとなると、それは歪んだ批判精神と言わざるをえない。

 木原氏が『父性の復権』をきちんと読んでいないことは明瞭である。ただ「父性」の定義のところだけを読んで (あるいは紹介の記事を読んだか、また聞きして) 反発しているだけであろう。そのことは「父親としての権威をふりまわして、家族を総合したり、文化を子孫に伝えたりしていると思い込むのは偽善にすぎない」という、「父性の復権」論に対するきわめて不正確にしていい加減な理解から推測することができる。もしきちんと読んだ上でこんな理解しかできなかったとしたら、木原氏の理解力は出来の悪い小学生並みということになる。(「権威」を「ふりまわす」ものとしか理解しないのは、権威についての章を読んでいない証拠である。また私は家族を「総合」ではなく「統合する」と言っている。)

 

 木原氏は「べき」という議論の仕方がお嫌いのようである。しかし私が父親の理想像を描いたのは、なにも理想どおりの人間がいると考えているからではない。理想の父親像を描いてみることによって、それに一歩でも近づく努力をすることが、子どもの健全な成長にとって必須のことだからである。 (もっとも「健全」という言葉がすでに木原氏の気に入らないであろうが。)

 彼は「偽善」という言葉を使っている。しかし「さまざまな人間が存在して、それなりに全うな人生を送っているのと同じように、さまざまな父親が存在し、それなりに父親としての役割を果たしているにすぎない」という言い方の方がよほど偽善であり、読み手に媚びた言い方である。このごろの世の中では「いろいろな人がいていいんだ」とか「多様な」という形容詞がもてはやされる。「多様な何々」という言い方さえしておけば、「いいことを言う寛大ないい人」と思ってもらえる。

 たしかに「さまざまな人間がいる」し「さまざまな父親」がいる。しかしそのすべてが「まっとうな人間」であって「それなりに父親としての役割を果たしている」とは言えないのが現状なのである。誰もがまっとうに生きていれば、こんなおかしな世の中になるはずがないのである。

 父親としての役割を果たしていない父親が多いからこそ、私が明らかにしたような「父性不足」からくる心の病や犯罪が蔓延しているのである。「多様な父親」論は「父親としては失格な父親」をも肯定しかねないからこそ、危険な落とし穴だと言っているのである。

 戦後民主主義の中で、「いろいろあっていいのよ」という母性的な価値観ばかり言ってきたからこそ、いまになって父性欠如が深刻になっているのである。ちなみに復活した学校での道徳教育の中でも、「命を大切に」とか「友達と仲良く」「個性を大切に」という母性的道徳ばかりが教えられ、「社会のルールの大切さ」とか、家族をまとめていく大切さ、日本文化のすばらしさを教えてこなかった。こうしたことのツケがいまになって出ているという大きな問題を彼は少しも感じていないようである。

 

 木原氏は「立派な父親」を否定したあとで、「父親に必要なもの」として何を対置するのかと思うと、「わが子に対するゆたかな感受性」「新しいひとつの生命に対する驚きの感情」「それをひたすら慈しむ心」という超一般論である。彼は「これが親あるいは父親の基本条件」だと言っている。

 そういうものは人間として持っているのが望ましい特質であり、またとくに母親が持っているとよい性質である (そういう意味では、彼の父親の理想像は、母性的な父性イメージとも言うことができる) 。もちろん父親も人間であるかぎり持っている方がよい特質である。しかしそれは父親だけにとくに要求される独自の性質ではない。

 父性像として、こういう一般論しか対置できないところに、「多様な父親」論の本質が露呈しているのである。

 彼の父親像は、「父性」の権威とか秩序感覚を養う役割だという言い方に対する感情的な反発を背景にして、それを否定するために「豊かな感受性」とか「ひとつの生命にたいする驚きの感覚」を持ち出したにすぎない。しかし、それでは父親の役割について、何かを考えたことにも、参考になることを言ったことにもならないのである。

 彼は「父親もひとりの悩み多き、不完全な存在」だと言って、「父親としての権威をふりまわす」者が「人間とは不完全な存在」であることを忘れているかのような言い方をする。自分はいかにも謙虚だと言っているように聞こえるけれども、そういう当たり前のことをことさらに説教する人間にかぎって、じつは度し難い思い上がりを内に秘めているものである。というのは、わざわざそういうことを言うのは、「父性」とか「権威」の必要性を唱える人間は、人間が不完全なものだということを理解していない単純な人間だと見ているという、思い上がりが表わされているからである。

 木原氏は、その著書で紹介している「さまざまな父と子の関係」から、父親とは何かについて考えてみたいと言っている。しかしそこで紹介されている父は、幸田露伴とか森鴎外とか、ミルとかシートンといった特別に「立派」で偉大な父ばかりである。

 そういう例から何も学ぶものがないとは言わない。しかしそういう特別な例をいくら見せられても、「普通の」父親が日常生活の中でどうしたらよいのか、あまり参考にならないと私は思う。最も大切なのは、父親が日常の感覚的な次元で子どもの心に深い影響を与えているという自覚であり、その意味では、日常生活の中での普通の父親のあり方が決定的に重要だという意識である。

 すなわち私が秩序感覚、現実感覚、美的感覚の三つの基本感覚と言っているものをどう子どもに身につけさせることができるのかという問題こそ、父親のあり方を考えるときに重要視されなければならない。木原氏の父親論は、そういう現実的な次元から目を遠くにそらす作用をする。特別な人間を育てたいのなら、参考にするもよい。しかし私が大切だと思うのは、また今の社会でとくに不足しているのは、「普通の社会人」として必要な人格にまで育てるということの難しさと必要性である。そういう現実的な問題をないがしろにして、いくら「立派な」父親を「研究」しても、地に足が着いていないと言わざるをえないのである。

 「立派な父親」を持ち出しているのは木原氏であって私ではない。私は「普通の」父親が父親としての「普通の」役割を果たすことを説いているだけである。