父性

13 「男らしさ」について考える

 

  ──「男性学方法論序説」として『東京女子大学比較文化研究所紀要』第60巻 (1999年1月) に発表したもの

 

一 男性学成立の必然性

 

 自らを含む一定規模の集団の特徴を学問の対象にするという営みは、自らに対する問題意識が生じたときに始まる。男性自身が「男性である」という存在形態に問題を感じたとき、男性学が始まった。

 男性が男性であることに問題を感じるというとき、その感じ方に大きく分けて三通りがあった。

 第一は自らを加害者として意識し、その加害の性質や原因や構造について考察する場合。これは多分にフェミニズムによって影響されており、フェミニストから加害者として告発されて、それをもっともと感じた男性によって始められた。これはたとえば家父長制の支配構造の研究とか、支配機構としての家族の研究、その中での男性の役割の研究という形をとる。

 第二は、被害者としての自覚から始まったもの。これは男性すべてが加害者なのではなく、男性の中でも、弱い立場の者、抑圧されているもの、「男性」としてのメルクマールに合致しない者は、男性支配体制(家父長制)の中でむしろ抑圧される側であるという自覚から出発している。たとえば「男らしさ」は窮屈な鎧になっているので、「男らしさ」を捨てよう、そのために「男らしさ」とは何かを研究しようという姿勢となる。これも多分にフェミニズムの影響下にあり、フェミニズム的女性学と連携する傾向にある。

 このように男性の弱さが意識化されると、現実社会の中で「弱い立場」や「被支配」の中に置かれている男性の認識・自己認識が進み、支配・抑圧している男性に対する分析も進むことになる。この分析はじつはフェミニズムの対象でもあり、両者は手を携えて男性の支配体制を批判するようになる。ここから近代家族への批判も出てくる。すなわち公の働く場所と私の場所である家庭との分離は「男は外へ働きに」「女は家で家事を」という性別役割分業を固定化し、男性の女性支配を強化したとされる。

 この視点から見ると、仕事人間と化した現代の男性は、性別役割分業を固定化して女性に対する父権的支配を強化するばかりか、自らもまたその関係の中でエコノミックアニマルとして人間性を奪われているとされる。

 その結果、エロス(関係づけという広い意味での)が男性から奪われ、男性に残されたエロスは身体的セックス的に矮小化され、その視点が女性に投影されて、女性の身体が商品化される。こうして女性に対する男性支配が、男性自身のあり方をも一面化し歪めるという面が意識化されていった。

 被害者としての観点からはまた、男性の中でのマイノリティーの権利回復という観点からの研究が出てくる。たとえば同性愛者や性転換志望者、異性恐怖症者を遺伝的・発生学的および心理学的に研究する必要性が考えられる。

 以上、加害者意識と被害者意識から出発した男性学は、男性の持つ問題点が社会体制や社会構造に規定されているという面を強調する。ただしその問題点が男性自身や社会の「間違った」ないしは「わるい」意識と関係を持っていることも指摘される。しかしまたその意識は客観的な制度や体制から規定されているので、ここにすぐれてマルクス主義的な上部構造と下部構造の関連いかんという問題が出てくる(はず)である。もっともフェミニズムや従来の男性学の中では、まだこの問題性は十分に自覚されているようには見受けられない。いずれにしても、この二つの視点は、男性が加害者になるにせよ、被害者になるにせよ、その原因を男性の外に見ている(もちろん男性の主体的意識のあり方との関連で)という特徴を持っている。

 

 それに対して、第三の立場は、弱さを男性の内に見るという特徴を持っている。この見方は、「男性とは強いもの」という従来の常識(家父長主義に影響された見方)を覆して、「男性とは本来的に弱いものだ」という事実を指摘することから始まる。

 たとえば、女性と比べて男性の方が弱い、または耐性がないと解釈せざるをえない現象が数多く報告されている。すなわち自閉症は男性が女性の三、四倍にもなるし、数々の遺伝病は男性の方が圧倒的に多い。また男性はストレスにも弱く、心筋梗塞など虚血性疾患や脳出血の可能性も多い。離婚した男性の死亡率は女性の三・一六倍、犯罪者の自殺も女性の四倍、一般の自殺者も男性の方がどの年代でも多い。

 とくに多いのが「性同一性障害」である。彼らは自分を女性だと感じ、または女性になりたいと思い、女装をしたり性転換手術を受けたいと強く願うまでにいたる。そこまで極端でなくとも、「男性であること」に違和感を持ったり悩んだり、「男」になりきれないで苦悩している男性がいる。

 このような男性の「脆弱性」の原因としては、大きく分けて三種類の次元の異なる問題を考えなければならない。

 第一は胎児のときに男女に分かれるにさいして、女の子は母体の中の女性ホルモンをそのまま浴び続ければいいのに対して、男の子の場合には、母体に特殊な変化が起こり、母体が男性ホルモンを出して胎児に浴びせなければならない。この転換がうまくいかないと、あるいは十分になされないと、外見は男性だが心理や性格は女性的だという存在として生まれてきてしまう。このような「男性」はとくに「性同一性障害」に悩むことになる。これはいはば生物学的な弱さである。同性愛者や性同一性障害者の中には、胎児のときに母体が強烈なストレスにさらされて、男性ホルモンの供給が十分になされず、そのために男性性(その概念および定義については後述)が十分に発達しなかった例が、第二次大戦の激しい爆撃にさらされたドイツに見られる。

 第二の場合は、生まれてから比較的早い時期(二、三歳と言われる)までに、心理的な刷り込みに似た「性同一化」がなされるが、それがうまくなされないと、自分の性に同一化できない男性が生まれることになる。これはよく言われる「性別役割」が学習によってなされるというよりも、もっと根源的なプロセスであり、遺伝と環境の接点におけるプロセスである。この問題はアメリカのマネーやストラーらによって研究されたが、それによると「自分は男である」「女である」という基本的な性の自己認識が成立するのは、三歳ころまでで、男子は母からの脱同一化と父への同一化をなしとげる。これは「中核的性別自己同一性」core gender identityと呼ばれ、三歳ころまでを臨界期として不可逆的(訂正不可能)であり、その意味で刷り込みに似ている。(この研究については渡辺恒夫編『男性学の挑戦』新曜社、の中に渡辺氏によるすぐれた紹介がある。)

 第三は、いわゆる性別役割の学習に関わる問題であり、文化的に規定される性別意識や性別役割行動(いわゆるジェンダー)の次元に関わる。この学習がうまくいかないと、それぞれのジェンダーの役割に同一化できないという問題が生じる。これは人格形成期における男性モデルの喪失ないしは混乱によって引き起こされる。とくに現代では家庭の中に父親が不在で(日本では苛酷な労働慣行のため、アメリカでは離婚の増加のため)母親だけと接触している男子は、男性としてのモデルが欠けているために、男性としてのアイデンティティーを獲得するのにつねに困難を感じている。しかも幼稚園、保育所、小学校では先生が圧倒的に女性ばかり (日本の小学校の約8割が女性教師である) という環境の中で、男子はますます「男になる」ことに困難を持たざるをえない。この問題は社会的な環境によってつよく影響される問題であるので、純粋に内的な問題とは言えない。しかし他方ではこれはアイデンティティーの獲得に関するすぐれて内的心理的な問題でもある。(性同一性障害については、心理臨床家及川卓氏によるすぐれた研究が積み重ねられている。)  

 

 以上で、男性が男性であることに問題を感ずる代表的な場合を挙げたが、もちろんこれは意図的に単純化して分類したものであり、じっさいにはこの三つの層が相互に浸透し合っている。またとくに性別役割については、最近では必ずしも既成の性別役割を学ばなくてもよいという考え方が増えてきて、むしろ既成の性別役割を学んだ方が差別されるという様相さえも呈していることも考慮に入れる必要がある。また性別役割そのものを否定する考え方も強くなっている。

 それはともかく、要するに男性という存在自体がこれらの問題を内包しており、その問題意識から男性学が成立するという必然性を持っていると言うことができる。従来の日本の男性学を自称するものは、以上のような問題意識から、主として男性の弱さを対象とし、研究してきたといえる。そしてその目標として、男性としての特徴をなくし(男女の違いをなくし)、「人間として」または「個として」の存在形態を追求する傾向にある。たとえば「男らしさ」ではなく「人間らしさ」と「自分らしさ」を理想とする考え方が優勢である。

 しかし男子が自我のアイデンティティーを獲得する場合に、単に「人間として」とか「個として」のアイデンティティーだけで十分かどうかは、慎重に吟味する必要がある。すなわち人間としてのアイデンティティーを獲得することと、男性としてのアイデンティティーを獲得することが、なんらかの重要な関係を持っていることが考えられるからである。

 

 男性としてのアイデンティティーの獲得が重要な問題を持っているとすると、獲得の目標としての男性性ないしは「男らしさ」の概念が重要になってくる。今までの男性学ないしは男性論の中では、とくに日本の場合、「男性性」とか「男らしさ」は否定されるべきものと考えられてきた。はたしてそれでいいのかどうかも、よく考えてみなければならない問題である。

 

二 従来の男性学の特徴

 

 今までの男性学の特徴は、フェミニズムの強い影響下にあって、性的な違いをなるべく「ジェンダー」(社会的・文化的に規定された性別役割)とみなして否定しようとし、したがって男性としての独自の特徴や役割規定をも否定しようという傾向を強く持っている。

 

1 性別役割分担の否定

 

 まず彼らはフェミニズム同様に、男性は外で仕事、女性は家で家事と育児、という性別役割分担は近代家族に特有のものであり、歴史的に見て普遍的なものではないと主張する。したがってそうした性別役割分担を廃止して、女性も外で仕事をもつようにし、男性も家事と育児を半分ずつ担うようにすべきだとされる。

 このような考え方の学問的根拠とされるものは、男女の違いはすべて歴史的社会的に「作られたもの」だという理論である。

 しかし男女の違いの中で、歴史的社会的に「作られた」部分は、そんなに多くはないという研究がある。すなわちさきに紹介したストラーらの研究によれば、ある個人が持っている「性別役割分担」の意識は、単純に社会的に「作られる」のではない。その前に遺伝的に規定される性別感覚とでも言うべきものがあり、さらに乳幼児期における刷り込みに似た性同一化の働きがある。それらを前提にしているので、その後に来る第三期の性別役割の学習も、単に子どもがもっぱら受け身に性別役割を受けとるというものではない。子どもの側には、自ら選んでいくという一種の主体性が備わっているのである。

 すなわち人間には「自分は誰であるか」という自己了解と自己同一性を求めるア・プリオリな動機があり、それはさまざまな集団に自己同定することによって、満たされていく。とくに最初期においては、自分が男性の側か女性の側に属するのかという問題は、乳幼児が自己同定するさいのおそらく最も重要なメルクマールであろう。この同定によって、子どもは人生最初のアイデンティティーを得ることができる。つまり性別役割というものも、単純に「親や社会などの外から与えられ、学習させられる」というものではなく、外から与えられるものを主体的・選択的に選んで身につけるという側面があるということである。

 では、その選択を決定したり、影響を与える基準は何かと言えば、それは遺伝的に与えられた性別分類の情報である。その第一は身体的特徴であり、第二は心理的特徴である。たとえば男の子はチャンバラごっこをして遊び、女の子はオママゴトをするという違いは、今までの女性学や男性学では、もっぱら親や周囲の人々からの学習によるものとされてきた。しかしチャンバラとオママゴトの違いは、男子と女子が生得的に持っている心理的な違いから来ている可能性もある。(たとえば男の脳と女の脳ははじめから異なっているという研究がある。)その点の認識ぬきで、すべてを社会的に規定された現象と解釈するのは科学的とは言えないであろう。たとえば攻撃性についての男女の違いは遺伝的なものである可能性が高い(この問題については後述する)。

 そのように「歴史的に作られたもの」論は、じつは近代思想に特有の男女同型論に基づいており、もともと男女の違いはなく、違いはすべて「作られた」ものだという考えに基づいている。しかし男女の違いはすべて「作られたもの」だというのは、あまりに乱暴な見方であり、しかも「作られたもの」がすべて悪いということもありえない。そもそも文化とはすべて「作られたもの」だということを考えてみれば、そういう批判の仕方がいかに間違っているかは明らかであろう。なんでも「作られたもの」だとか、「神話」だといった批判の仕方は、非科学的だというだけでなく、無批判な精神を育ててしまうという意味でも、非常に危険である。(この問題については拙著『主婦の復権』講談社、とくに第四章のp.223-234を参照されい。)

 

2 「男らしさ」の否定

 

 次に注目しなければならないのが「男らしさ」の否定である。

 「男らしさ」を批判し、「男らしさからの解放」を主張しているのは、最近台頭してきた「メンズリブ」を名のる人々である。彼らによれば、父権制のもとでは男性は「男らしさ」の鎧をまとい、「強い」「たくましい」「くじけない」「感情を見せない」男として、戦って競争に打ち勝つことを求められる。それができない男は軽蔑され、落伍者とみなされる。「男らしさ」に適応できない男性はみじめな状態に置かれる。

 このように批判する者たちは、「男らしさ」とは鎧であり、仮面であり、無理をしているとみなす。したがって、それを捨てて「男らしさ」から解放され、「自分らしさ」を持てば、男性は人間として解放されると考えられている。

 たとえば伊藤公雄氏は、アメリカのメンズリブが男性性を確立する、またはし直すことを目指していることを批判して、彼らが男性性という「ひとつ」の性のあり方を「固定的に考えすぎているように見える」として、それに対して「『男性性』『女性性』から自由になる道は、現状の『男』『女』という固定的イメージから、個々人の固有性・複数性へ向かって、自己を解放していく道以外にない」と述べている。(『<男らしさ>のゆくえ』新曜社、p.187)

 また中村正氏は「男らしさ」は社会の中の「支配的な価値」であり、近代社会は「ある特定の男らしさ像をつくりだす」。アメリカではとくに男らしさはつねに戦争とのかかわりで形成されるが、一般に「企業、学校、科学と技術、戦争などすべての制度にわたって男らしさの比喩が入り込んでくる」。それに対して「男と女に二項対立的に配分されている『らしさイメージ』をこえ」「男らしさから自分らしさへと再構成する」ことが求められる。(『「男らしさ」からの自由』かもがわブックレット、p.52-55)

 しかし「男性性」とか「男らしさ」という言葉を使い、それを目標にする人たちが、すべて男性性を「ひとつ」の性として固定的に捉えているとは限らないであろう。一人ひとりの男性が目標にする「男らしさ」のイメージにしても、一方では「強い」「勝つ」「たくましい」「がまん強い」などという攻撃性や支配性を強調したイメージもあれば、「正義」「公正」「克己」「努力」「誠実」などといった精神性を強調したものまで、じつにさまざまである。「男らしさ」や「男性性」を目標にする人が、すべてそれを固定的に考えたり、性別支配の道具にしているとみなすのは、あまりに公式主義的な見方と言うべきである。

 現代日本の男性論の主流は、このように「男らしさ」そのものを否定してしまい、「男らしさ」の中身を吟味するという姿勢にならないところにある。そしてその場合に、「男らしさ」をことさらに悪く、すなわち攻撃的で横暴で支配的なものとして描くという特徴も持っている。 

 最初から「男らしさ」や「男性性」を悪いものと決め付けているだけで、それがそもそも人間にとって (とくに男性にとって) 一般的にどういう意味を持っているのか、それが現代において特殊にいかなる意味を持っているのかというように、方法論的に考察するという視点を欠いている者が多い。もし男性性が男性にとって必要なものならば、それがいかにして歪んだものになってしまったのかという問題意識が生ずるはずであるが、初めから「悪い」ものと決めてかかっている傾向が見られる。

 アメリカの男性論が、さまざまな傾向をはらみながらも、男性性の必要性についてはおおむね肯定的であるのに対して、最近のフェミニズムの影響下にある日本のメンズリブの主張は、なんでも差別や抑圧という視点から見て、産湯とともに赤子を流してしまうような、不健全なニヒリスティックな傾向を持っている。

 彼らの特徴は、男女の違いをなくすことを理想としているところにある。つまり素朴な男女同型論の立場に立っていて、その立場から「人間らしさ」と「自分らしさ」さえあれば十分だと論じている者が多い。これは「らしさ」の両極分解的思考法である。この両極分解的思考法はしかしきわめて危険な問題をはらんでいる。

 というのは、「人間らしさ」と「自分らしさ」の両極端のあいだの中間の「らしさ」、たとえば「男らしさ」「女らしさ」、さらに「先生らしさ」「政治家らしさ」「父親らしさ」「母親らしさ」などといった具体的な「らしさ」を捨ててしまうのは、ひとつには反権威主義的な精神の産物であるが、それをやっていくと結局は「人間らしさ」と「自分らしさ」も内容空虚になって消えてしまうからである。「人間らしさ」も「自分らしさ」もじつはそれらの具体的な「らしさ」によって内容を与えられて初めて存在することができる。

 集団についても同じことが言える。「人類」と「個人」という観点だけでやっていかれると思うのは錯覚である。家族とか会社、地域社会、学校、民族、国家と、いろいろな単位の組織があって、初めて「人類」も「個人」も生きていくことができる。それらの中間の「らしさ」や組織原理を否定したり軽視したりするのは間違いである。そうした組織や「らしさ」は個人にとって面倒であったり、葛藤のもとであるから、そうしたもの(たとえば「男らしさ」)を捨ててしまえば、たしかに「楽」である。しかし「楽」であることを最優先したら、それによって失われるものが出てくる。社会にとって必要な枠や基準というものが存在する。あるいは言い換えればいろいろなレベルでの単位というものである。社会はいきなり個人が単位となって作られるものではなく、いろいろなレベルの単位の積み重ねによって成り立っている。

 ところが、そうした社会的に規定されている単位やその中での人間のあり方を、ストレスや重荷だから捨ててしまえば「楽」になるからといって、簡単に捨ててしまうという解決方法しか思いつかないというのは、精神の頽廃を示すものである。その方向を進めると、若者のアイデンティティーの獲得がますます困難になり、社会という原理に適応できない者が増えてしまう。この場合の「社会に適応できない」ということの意味は、現代の特殊な社会に適応できないという意味ではなく、社会一般、つまり社会生活一般に適応できないという意味である。

 

 このように精神の頽廃とも言うべき状態に行き着いた思想の背後にあるのは、男性も女性も人間として同じになれば平等になれ幸せになれるという思想である。男性は「男らしさ」を否定し、女性は「女らしさ」を否定する。したがって彼らは男性が女性と同じように家事をし、子育てをするようになるのを理想とする。それに対応して、女性は男性と同じように外に出て働くのが理想となる。

 

 それに対して、男女の違いを前提にした上で、支配・被支配関係でない分業を考えようという立場がありうる。この立場からは、支配関係でないような男性性と女性性の概念を積極的に立て直そうという立場が出てくる。その視点から見た場合に、男性性の概念はどのように作ることができるか。

 

三 男性性(男らしさ)概念の必要性

 

1 二項対立思考の必要性

 

 男性性(男らしさ)概念が人間にとって必要かどうかという問題を考えるためには、そもそも二項対立が人間という種にとってどういう意味を持っているかを考察しておかなければならない。なぜなら男性性とは女性性と対をなす概念だからである。多くのフェミニストは男性性(男らしさ)と女性性(女らしさ)という区別を否定するために、そうした二項対立的な思考法そのものを否定する。

 しかし二項対立的な思考法は人間が生きていくために絶対に必要なものである。二項対立とは意識の立場に立った思考法であり、それに対して無意識の立場からは二項対立は存在せず、すべては融解しあい、そもそも区別ということ自体が存在しない。人間が文化を形成して生きていくためには意識を鮮明にし、物事の区別を明確にするという形をとってきた。これはいはば左脳的な営みではあるが、人間の文化形成にとっては絶対に必要なことである。この営みを最大限に発達させたのがいわゆる近代社会であり、その最先端が科学技術である。

 問題なのはその合理主義的な営みによって排除される領域が出てくることである。それが右脳的な分野、二項対立的な思考から漏れてしまう部分である。たとえば本能の領域や芸術などの創造的な領域である。人類は現在、この合理的な部分と非合理的な部分との対立を、どう調和させることができるかという課題に直面している。

 その場合に、単純に二項対立を否定してしまっては、文化そのものを否定することになりかねない。文化そのものを否定しないようにしながら、二項対立的な方法に問題があるならば、そのマイナス面が出ないようにその使用範囲を限定し、その方法によって排除されてきた非合理的な面を再生させることが必要である。

 

2 生物にとっての二項対立の必要性

 

 生物一般にとっても、また生物の中の人間種にとっても、二項対立は絶対に必要なものである。生物にとっては雌雄の区別は生き残っていくための優秀な戦略であることが解明されている。人間にとっても男性と女性が分業するという方策は、単に生殖と保育の次元にとどまらず、生活全般にわたって有効な戦略であった。 

 生活全般にわたる男女の二項対立を有効に機能させるためには、単に物理的な分業を成立させるだけでなく、精神的な態度においても対照的な性質の配分を必要としている。たとえば生物一般においても、雄と雌のどちらかが(たいていは雄が)積極的で攻撃的になる。それは性(セックス)における積極性と戦う必要を、どちらかの性(雄か雌)が背負わなければならなかったからである。 

 男性性(男らしさ)と女性性(男らしさ)の二項対立も、根本的には、こうした生物としての二項対立的な戦略の一環として捉える視点が必要になる。つまり男性性(男らしさ)と女性性(男らしさ)とは、男性と女性の理想を概念化したものであるが、そうした精神的な態度としての理想は、本来的には二項対立を理想的な形で機能させるために必要となったものである。

 たしかに現実においてはそれが一方の性による他方の性の支配や抑圧に利用され、それによって理想が歪められている面が多く認められるが、だからといって、二項対立そのものを否定するのは間違いである。

 

3 アイデンティティー獲得にとっての二項対立 

 

 男性‐女性という二項対立の中にあって、男性がアイデンティティーを獲得するためには、自分を男性としてのメルクマールに同定しなければならない。そのメルクマールは単なる身体的な特徴だけではなく、すぐれて精神的・心理的な特徴としても設定されている。そのメルクマールはもちろん社会的歴史的にそれぞれの社会で決定されている。男性(女性)はそのメルクマールの範囲内で、「自分らしさ」を獲得し、「自分」としてのアイデンティティーを確立していく。

 つまり社会の価値観が安定している場合には、「男らしさ」「女らしさ」と「自分らしさ」とは対立するのではなく、「自分らしさ」は「男らしさ」「女らしさ」の範囲内に入っている。ところが「自分らしさ」が「男らしさ」の範囲内から大きく逸脱する者にとっては、「自分らしさ」を持とうとすると、「男らしさ」が抑圧的に感じられる。この最も程度の高いのが、いわゆる性同一性障害である。

 その場合に、彼が「男らしさ」の定義に疑問を持ってその概念を変えようとするか、「男らしさ」そのものを否定してしまおうとするかの違いが出てくる。「男らしさ」そのものを否定してしまえば、彼個人にとっては「楽」であるし、実行もしやすい。しかしその道は二項対立の否定につながる道である。 

 さらに、男性性の必要性に関して見逃すことのできない重要な問題として、自我アイデンティティーを確立するためには、模範が必要であるという事情がある。人間は自我(言い換えれば自分らしさ)を確立するためには、その社会が持っている「人間らしさ」や「男らしさ」その他の模範を自分の中に取り込みながら、それを少しずつ修正して、自我を確立していく。まったく模範のない真空の中では人間は自我を確立することはできない。その意味で男性には男性的な模範が必要である。

 その場合、模範として「男らしさ」「女らしさ」は必要ない、と「人間らしさ」だけでよいという意見もあるが、模範のあり方としてはやはり二項対立的な模範が必要になる。というのは、すでに述べた生物としての二項対立の必要性があるからである。

 もちろんその場合に、「男性は必ず男性としてアイデンティティーを獲得しなければならない」と言うと、それができない男性個人にとっては可哀相なことになる。あるいはもっと極端に言うと、差別したことにならないか、という問題が出てくる。しかしその問題は、男性性を目標としてはっきりと規定しながら、絶対的な支配原理にしないという方向で解決することが可能である。

 これまで日本人が持ってきた「男らしさ」の中には、現代的な感覚から見ると肯定しがたい内容があることは確かである。たとえば、「男は絶対に勝たなければならない」とか「男は泣いてはいけない」ということを「男らしい」と考えるのは、考えものである。しかしだからと言って、「男らしさ」のすべてを否定するという態度は間違いであろう。「男らしさ」の内容をよく吟味して、必要ならば改訂しながら、もう一度男性の精神的なあり方の目標として立て直すことが必要だと思われる。

 

四 男性性の積極的な定義の必要性

 

 「男らしさ」は男性支配のための概念だけでなく、また男性を縛って窮屈にし抑圧するというだけのものでもなく、男性自身の理想や目標として、したがって男性的なアイデンティティーを確立するときのモデルとして掲げることが可能であるし、また必要でもある。

 これまで人類は男性性ないし男らしさの定義をいろいろな形で行なってきたが、それを理想的な形で示すことは可能である。ただしそれをすると、すぐにフェミニズムから「それは家父長的な社会によって作られた片寄った理想だ」という批判が出てくることだろう。しかし、家父長的な社会によって作られた観念の全体が家父長制度によって直接的に規定されているわけではなく、その中には特殊家父長主義的な観念と同時に、いかなる社会にあっても通用するような観念要素も含まれているはずである。その男性性の観念の中のいずれの部分が特殊歴史的すなわち家父長主義的で、いずれの部分が普遍的なものかを類別していく作業が、これから必要になるであろう。

 「男性性」や「男らしさ」の観念を見直す場合に、大切なことは、精神的な性質に注目することだと思われる。私はかつて「男性性」の定義として、「精神的な強さ」と「精神的な高さ」を提示したことがある(渡辺恒夫編『男性学の挑戦』新曜社、1989年)。ただし、その中では、そのいずれが特殊歴史的なもので、いずれが普遍的なものかという類別は行なっていない。それを参考までに、簡略化してここで述べておく。この中のどれを今後の男性性の概念の中に取り入れていくべきかを考えていかなければならない。

 男性性の概念にとって必要な要素は、つぎのとおりである。

 まず「精神的な強さ」の第一の要素は、客観的な判断力である。すなわち感情や目前の欲望・利益に惑わされないで、事態をあるがままに把握する能力。これはニーチェやウェーバーが推奨したsachlichな精神的態度にあたる。またそのためには具体的にものを越えて高いところから全体を把握する能力も必要になり、そこから論理的・抽象的な思考も発達する。

      

 「精神的な強さ」の第二は克己、すなわち自分をコントロールする能力であり、目的のために感情や欲望を抑える能力である。たとえば通過儀礼において「沈黙」が課されるのは、この能力が試されているのである。これは苦痛や欠乏に耐える能力であり、もっと一般的に言うと、目的のために最適の手段を整える能力である。ウェーバーがこれを「目的合理性」と呼んだように、理性や合理性を増大させていく原理である。

 第三は構成力であり、これはそのときどきに必要なルールや体系を自ら作り出し、またそれを維持し守る能力である。これは文化を創造し、継承していくことと関係がある。(「構成力」の概念については『父性の復権』で詳しく論じてある。) またこの要素が必要になるのは、男性が攻撃性を持っていることに対して、それをチェックするものが必要になるからである。

 つぎに「精神的な高さ」とは、人間界をはるかに超越した超個人的な精神的ないし霊的な存在を想定し、それを基準にして人間のあり方を考えるという精神的な構えである。たとえばその典型的なものとして、超越的倫理的な神を信じ、その神の倫理的要求に答えようとする態度を挙げることができる。また抽象的な理念、たとえば正義、公正、誠実、仁・義・礼・智・信などといった高い徳を求める精神的態度である。

 この男性性の概念から「男らしさ」の理想として、「強さ」「強き(悪しきもの)をくじき、弱き(正しきもの)を助ける」「正しいことを主張する勇気」「潔さ(利己主義を捨てる)」「全体のための自己犠牲」「公正にメンバーを扱う」などといった性質が考えられる。

 以上が、男性性の内容であるが、男性性と言うからには、その対概念として女性性の概念を念頭に置いているはずである。したがってここで女性性の概念についても簡単に素描しておきたい。

 男性性が攻撃性をプラスに使うために必要になるのに対して、女性性は優しさ、包容性、慈愛といった性質を理想にすることができる。 

 また男性性が物事を分離分解してsachlichに見るのに対して、女性性は物事を分解しないで全体としての関係性の中で見ようとする。つまり関係づける能力にすぐれており、広い意味でのエロス(=関係性)の性質を持つ。感情・情緒・感覚・直観等の感性(具体性)の面ですぐれており、したがって身体性とのつながりも強い。

 この女性性の概念から「女らしさ」の理想として「やさしさ」(感情など感性の洗練)「うつくしさ」「関係づけのうまさ」(コミュニケーション・社交性)などが考えられる。

 このような「男性性」「女性性」の定義を出すと、フェミニストの側から、「男性の側から作られた二項対立」だとか、「カビのはえたような古くさい父権的概念」だという批判が出てくることが予想される。

 しかしそのように公式主義的な批判は、二つの意味で間違っていると思われる。第一に、「作られた文化」はなんの根拠もなしに作られるはずがないという意味で、百パーセント恣意的な創作物というものはありえない。男女の身体的、生理的、心理的な生得的相違を基盤にしている。第二に、たとえば「和服文化」とか「女らしい立ち居振る舞い」といった美意識は、単純に男性だけの勝手な美意識から「作られた」もので、そこには女性の主体的な参加がなかったかのように考えるのは、過去の女性たちに対して失礼であろう。「女性的な美しさ」の観念は、当時の女性たちも一緒になって「作ってきた」のであり、女性はただ男性の好みを押しつけられるだけの受動的な存在であったのではない。女性性の概念にしても同様であり、それは単純に男性からの一方的な押しつけによってでき上がったものではない。そう言うと、フェミニストの中には、父権的な社会では男性の意識が支配的であり、女性は全体としてそれに従わざるをえないと反論するものがいるであろうが、それはちょうどマルクス主義における下部構造決定論のような荒っぽい議論である。たとえ支配的な意識の存在を認めるにしても、それに対抗する意識(の主体性)との弁証的な角逐の内容を無視するのは間違いである。 

 上記のような女性性の定義を見て、腹の立つ女性は、無意識のうちに男性と同じになりたいと思っていて、自分が男性的とされる側から排除されたような気持ちになるからである。その背後には、無意識のうちに男性的なものの方がすぐれていると思いこまされていた、心の構えが潜んでいる場合もある。

 以上のような批判の他に、このような定義に対する反論としては、すぐに女性の側から、そうした精神的性質は女性もまた理想として持つことができる、または持つべきだから、 男性性の内容にすべきではなく、人間一般の理想にすべきだという意見が出ることと思われる。そういう抗議に対しては、つぎのように答えることができる。女性がそうした性質を女性性の理想として持ちたければ持つことは自由である。人間一般の理想として考えたければ、考えることは自由である。女性が持ってはいけないなどとは言っていない。それと同じように、男性性を男性が自分たちの理想として掲げるのに文句を言ういわれはない。また女性が「女らしさ」の定義の仕方に反対だと言うのであれば、自分たちの女性としての理想を出すことは、たいへんに望ましい。しかし再度言うが、女性性そのものや「女らしさ」そのものを否定したり、人間一般の性質へと解消してしまうのは、間違っていると思う。

 さて、もう一つ、男性性の定義にとって重要なのが、攻撃性をどう捉えるかという問題である。「男らしさ」を否定する人たちは、攻撃性を「男らしさ」の最も「悪しき」性質だと考えている。しかし攻撃性は男性にとって(場合によっては女性にとっても)非常に大切な性質である。アンソニー・ストーが研究したように(『人間の攻撃性』晶文社、1973)、攻撃性は人間の積極性と関係があり、攻撃性をすべて否定してしまうと、人間の積極的な活動原理が成り立たなくなる。とくに男性の場合には、その性的行動は生物一般の雄の攻撃性と関係があり、また競争という原理ももちろん攻撃性と関係がある。競争という原理をなくしてしまうと、種としてのヒトの質が決定的に低くなってしまうかもしれない。その問題性は、社会主義国の競争否定の結果、社会がひどく停滞してしまい、国として崩壊するか、競争原理にたつ市場原理に転換しなければならなかったことを見ても明瞭であろう。

 「男性らしさ」の内実から、競争や攻撃性をすべて排除すべきだと考えるのは間違いであろう。しかしもちろん、攻撃性や競争原理を野放図に認めよと言うのではない。競争や攻撃性をいかに生産的な方向に向けるか、そしてそれをいかにフェアーに、ルールの枠内で行なうかということこそ、人類が苦心してきたし、これからも最も重要な課題となるであろう。男性性の定義の中には、競争しつつも協調していかなければならない男性同士が、どのようにして無差別な攻撃性を回避し、和らげるべきかという、人類史的な問題が最重要な課題として入れられなければならない。

 以上の男性性の定義は、もちろん参考程度に提出したすぎず、これが最終的で絶対に正しいという意味で述べたのではない。むしろ今後検討していかなければならない問題の、一つの具体的イメージの例として挙げてみたものにすぎない。

 

五 女性性との関係をどう捉えるか

     ――両性具有という理想の問題点――

 

 男性性・女性性という概念の必要性を認める人でも、それらが男性と女性に固定的に割り振られることに反対し、男性が女性性をも持ち、女性が男性性をも持つことが必要だと説く人たちがいる。いわゆる両性具有を理想と考える人たちである。

 この人たちは男性が女性的な性質を持ち、女性が男性的な性質を持つことを理想としている。彼らはいわゆるクロスオーバーをして、男性も女性も男女両方の性質を持つべきだと考えている。この考えを徹底させていけば、男女の違いはなくなる方向に行くであろう。この考えは正しいであろうか。私は正しくないと考えている。どこが正しくないかというと、男女の違いというものを無視しているからである。

 男女の違いをなくせばなくすほどよいと考えている人たちは、男女の違いがすべて社会的文化的に「作られたもの」だと考えている。しかし男女の違いは遺伝的な部分においても、また最初期(二、三歳までの乳幼児期)の「刷り込み」にも似た基礎体験(父母の違いの原体験)によっても、本能的・身体的・生理的な次元で、一定の所与として与えられている(この問題については脳生理学や精神分析学の分野で研究が積み重ねられている)。その上に、性別役割分担についての特殊歴史的な観念が付け加わるのである。

 男女の違いはこの三段階を経過して現実のものとなるのであり、個々の特徴がどの段階に由来するのかを確かめた上で、対処するのでなければならない。たとえば男女の色の好みは、単に第三段階の文化的規定性だけによるのか、それとも第二段階の原体験によるものか、どちらかを見定めるという姿勢が必要である。もし第二段階によって規定されているものだとしたら、最近のフェミニストたちのように、「男子は暗色系統の色、女子は赤色系統の色と決め付けないで、男子が赤い色、女子が青い色を着てもいい」などと簡単に決め付けることは危険だということが分かる。その種の「相互乗り入れ」を安易に機械的にやると、男子も女子も性的なアイデンティティーを持つことに困難を感ずることになりかねない。

 男性性と女性性の相互乗り入れの問題は、それぞれが男性性と女性性を確立した上で、自分に欠けている面を「取り入れる」という形で進めるべきものである。その場合に参考になるのが、ユングの「優越機能」と「劣等機能」の概念、および「補償」という概念である。

 ユングは人間が自我を形成するときに、一面化という事態がどうしても避けられないと考えた。自我=意識というものは、一種の狭隘化と集中であり、言ってみれば自分の得意な心的機能によって勝負するようなものである。不得意な機能は捨てられ、ますます劣等になる。(この場合とくに注意しておくと、「劣等」という言葉は価値が劣等だという意味ではなく、ただ下手だとか、機能的に劣っているという意味であり、価値中立的である。)こうして自我が発達するにつれて「優越機能」と「劣等機能」の対照が顕著になっていく。

 この傾向は男性性と女性性のあいだにも起こりうる。すなわち男性性を開発し発達させていく男性は、男性性が優越機能になり、女性性は劣等機能になる。反対に女性の場合は女性性が優越機能になり、男性性が劣等機能になる。これはいけないことではなく、むしろ必要なことであり、望ましいことである。

 もし誰かが男性性も女性性も同じように獲得したいと思って、両方を同時に同じくらい発達させようとしても、そんなことは不可能なだけでなく、おそらく神経症などの心的疾患につながったり、よくても正常な自我を発達させることができなくなってしまうのが関の山であろう。

 もちろんユングは劣等機能をそのままで放っておいてよいとは言っていない。いったん優越機能が確立したら、つぎに(人生の後半期に)劣等機能の見直しとも言うべき仕事をしなければならないと言っている。それがユングのいわゆる「個性化」という課題である。その場合に気をつけなければならないのは、劣等機能を優越機能にしようと考えないことである。優越機能は優越機能としてあくまでも確保しつつ、劣等機能をなるべく洗練させ、発達させるという心構えが望ましい。その反対に、男性性も女性性も対等で同じくらいあるという両性具有を、いきなり理想とするのは間違いであるばかりでなく、人間の心にとって危険である。それをしようとすると、心の基準点としての羅針盤が狂ってしまい、心の秩序の中心がなくなってしまうという危機に陥ることさえありうる。優越機能と劣等機能を逆転させたり、まったく対等のものと扱うことは、むしろ人格のバランスを欠く結果となり、心の健康にとって望ましくない。(「優越機能」と「劣等機能」という言葉は誤解を招きやすい。この概念の詳しい内容についてはユング『タイプ

論』拙訳、みすず書房、を参照せよ。もし「優越機能」と「劣等機能」という言葉も反発を感ずる人は、かわりに「得意機能」「不得意機能」という言葉を使うとよい。なお「個性化過程」については拙著『ユング思想の真髄』朝日新聞社、第二部第六章を参照されたい。)

 

おわりに

 

 男性論はフェミニズムの主導のもとに成立した。したがってそれは第一にフェミニストの女性が自らあるべき姿を構想したときに、それに見合うパートナーのあるべき姿をイメージし、それから現実の男性がいかにはずれているかを論じるものが多かった。

 それを受ける形で、男性自身が、女性と同じように父権性によって抑圧されていると認識した場合が、第二、三の型の男性論となる。その特徴は男性としての特徴を否定する傾向にあり、たとえば「男らしさ」を否定し、それから「解放」されることを目標にする。第一、二、三のどの型も、男女の違いをなくす方向を目指しており、また自分の内面のあり方としても、心の中の男女両性具有を理想とする場合が多い。今後は男性自身の手で男性論が展開されるべきだが、その場合にも、男性独自の特徴と価値を見失うことのないように、しかしだからといって女性性の価値を否定することなく、その価値も認めて、それと協力調和の関係を持つことができるような形で男性性を考えていくことが望ましい。

 なお精神史の中における男性性の歴史については、拙稿「精神史の中の男性性」(拙著『ユング心理学と日本神話』名著刊行会、1995年、所収)を参照していただきたい。