父性

10 テレビで言えなかったこと、言い足りなかったこと

(NHK教育テレビ「シリーズ 今 父親を考える」に出演した感想)

 

はじめに ── この番組の問題点・反省点

 平成12年(2000年)の6月から8月にかけて、NHK教育テレビで三回にわたって「シリーズ 今 父親を考える」が放映された。

 この番組は多くの父親、母親、子どもたちの生の声を中心に組み立てられており、今まで比較的抽象的な「父性」について論じてきた私が、具体的な問題に対する私の処方や考えを示すよい機会と思い、ゲスト出演を引き受けた。

 三回を通じての感想としては、「父親について考える」という番組の趣旨は時宜を得たものであるし、大切なテーマだと思うが、私としては専門家としての知見を生かしてもらえなかったという不満が残った。

 一回目(生放送)は母親や子どもの不満を出してもらうという趣旨であり、あまり出番がない感じであった。

 二回目(録画)は「父親の言い分」という趣旨であったが、父親たちに対する私のアドバイスの部分は番組の趣旨に会わないと考えられたのか、ほとんど削除されていた。

 三回目(生放送)は4時間半も時間があったのに、発言が不当と思われるほどに制限され、結果的には自分の考えを十分に話すことができず、専門家としての見方が生かされなかった。

 その原因は一つには司会者の問題がある。

 司会者は母親たちのとりとめもない個人的な話を制止することなくえんえんと続けさせた一方で、私の発言を途中で、しかも失礼な言葉遣いで制止した。司会者は私が発言することが不当であるか余計であるかのような態度で、「もうやめましょうね」という言い方をした。こんな失礼な司会者に遭ったのは初めてである。私が話した時間は、母親一人の話した時間より短かったと思う。何人もの母親の長話をさせておいて、私のそんなに長くない話を途中でやめさせなければならない理由があったのだろうか。他のゲストとのバランスを考えたというのであれば、「すみませんが時間がありませんので」というような言い方をすべきであったと思う。

 司会者が、出演者の話を聞くことを優先して、専門家の発言を重視していなかったとしか考えられなかった。

 次にゲストの数を増やしたのに、ゲストの発言機会を全体として減らしたので、一人一人の発言は極端に制限された。

 (ただし、事前の打ち合わせでスタッフから「ゲストは指名されなくても適宜手を挙げて発言してもよい」と言われており、私は自分からやや強引に手を挙げて発言したので、他のゲストよりは多く発言できた。) 

 第三に何のためにゲストを呼んでいるのか、意図がよく分からなかった。専門家としての発言を期待しているのか、出演者の父親・母親・子どもたちと同じレベルで共感しておしゃべりする役目なのか、よく分からなかったし、話す機会も十分には与えられなかった。この問題での専門家と言えるのは私一人であり、とくに三回目で新参加した二人は、どういう役割を期待されているのか理解できなかった。

(山田氏も江川氏も、わざわざ私の発言を取り上げて批判した。ゲスト同士の討論の場ならいくら批判してもよいし、私にも反論の機会が与えられるだろう。しかし「ゲストに一言ずつ」という場合に、あとで発言する者が前に発言した者を批判するのは、ルール違反というかマナー違反である。相手には反論の機会は与えられないのだから。こういう場合には自分の考えを積極的に述べるにとどめるべきであろう。あるいは批判が出た時点で急遽司会者が私に反論を求めるという方法もありえた。)

 

 以上のようないくつかの理由のために、問題が深められないままに番組は中途半端な内容になってしまい、問題意識の高い視聴者ほど途中で見るのをやめてしまったという人が多かったようである(反応の一部が「ご意見紹介」コーナーに載せてあるので参照されたい)。我慢して最後まで見た人も、不満の残るものになってしまったようである。

 

 このような問題点のために、私が番組の中で話すことができなかったことや、舌足らずだったことについて、ここで少し丁寧に補足しておきたいと思う。

 

(1) 「友達のようなお父さん」をめぐって

 この話題についてじつに印象的だったのは、子どもたちが一様に否定的だったことである。とくに「友達のような」の意味が、「絶対に平等」という意味に理解していた子どもは一人もいなかった。子どもたちは「友達のよう」の意味を「話を聞いてくれる」とか「気楽に話せる」といった、コミュニケーションの取れるという意味で「よい」と考えていることが明らかになったと思う。

 「友達パパ」が「友達」になってしまい、「パパ」の部分が消えてしまうことへの批判も聞かれた。「親も子も平等」とか「上下関係の否定」という意味で考えている子どもはいなかった。

 それに対して大人の方はどうかと言うと、父親たちは「どういう父親像がいいか」迷い悩んでいる姿が浮き彫りになったと思う。しかし母親たちは、アンケート調査から、なんと8割以上が「尊敬される権威ある父親」を望んでいることが分かった。また子どもも6割以上が「尊敬される権威ある父親」を望んでいる。

 これらの結果から、今まで言われてきた「物分かりの言い父親」や「友達のような父親」という理想が、じつは一部の教育評論家や教育学者のイデオロギー宣伝に乗せられていたという側面があったことを改めて感じさせられた。

 その点について、私は「友達のような父」を求めるときに、子どもたちと大人ではズレがあると指摘、「大人が絶対平等」という意味で使うのはイデオロギーの影響があると発言した。

 もちろん一定の思想がもてはやされるのは、単にイデオロギーの影響だけで起こる現象ではなく、その背景に戦後民主主義のはきちがえの「絶対平等思想」や「反権威主義」の流行という問題がある。

 この私の発言に対して、山田昌弘氏はすぐに批判して、「友達パパ」はイデオロギーのせいではなく、社会が豊かになったせいだと、訳の分からない説を主張していた。

 しかし、親子が絶対に平等だなどという観念論を主張する人は、今ではごく少数になっている。また実際にそういう思想で子育てをしているインテリの子どもにかぎって、無気力や閉じこもりになっている。「子どもの自主性にまかせています」という親の子どもは、肝心の自主性が育っていないものである。

 自主性とは、放任によって育つものではなく、親の側の相当な努力や働きかけ、親子の角逐を通じて発達していくものである。自主性も育っていない子どもに向かって「自主性を重んじてやるから好きなようにせよ」と言っても、子どもの方は何をしていいか分からずに、結局は期待に負けて引きこもるしかなくなってしまうのである。

 大人のイデオロギーから出た「友達パパ」理想は、すでに破綻していると言っていい。それはその間違った理想の犠牲者である無気力や引きこもりになった子どもによっても示されているし、また健全な子どもはむしろ正しい意味の権威が必要だと言っていることからも明らかである(後述のアンケート参照)。

 

(2) 叱り方について

 子どものしかり方は、じっさいに子育てをしていて、最も難しいことの一つである。世の親たちは、日々この問題で悩んでいる。

 私は専門家としてのアドバイスをしようとしたが、第二回目は録画だったために編集時点でカットされ、また第三回目は何度か手を挙げたが司会者によって無視されてしまった。

 番組の作り方が、専門家の意見を生かすという観点がなかったり、専門家の価値を理解していなかったりしていたという不満が残る。

 叱るという問題の例として、子どもが部屋を汚くしていることに対して強く叱ったけれども結果が思わしくなかったという例と、子どもが万引きをしても叱らなかったという例が紹介されて、第二回目と第三回目で取り上げられた。この二つの事例とも、心理療法の専門家から見たら典型的な思春期の心理が関係しており、そういう立場からのアドバイスが必要なケースである。

 第一の例は、高校生の子どもが部屋を片づけない、掃除もしないのに対して、父親が再三きれいにするように言ったが聞かない。そこで期限をきめて、「それまでに掃除をしなければ、ちらかっているものを捨てる」と宣言した。それでも掃除しないので、ちらかっているものを捨ててしまった。捨てたものの中には教科書や大切なものも含まれていた。それ以来娘は口をきかなくなり、三年間断絶の状態となった。

 このようなケースは思春期の子どもによく起こる現象である。思春期というのは自分なりの自我を作っている時期なので、他人から干渉されたり、侵入されることをひどく嫌う。自分の部屋は自分の心のシンボルになっていて、部屋に侵入されることは心の中に侵入されることと同等の心理的な意味を持っているのである。

 また自分なりの自我を作っている時期は、自信がないので、親とのあいだに内容的な深い話し合いを避けるようになる。

 こういうときに、自信のない親は不安になって、よけいに干渉したくなったりするものである。しかしこの時期は子どもを信じて見守るより他にないのである。

 親が子どもにしてやれることは、それまでの間に基本的な「人間への信頼感」を与えること、そして感覚的な次元での秩序感覚、現実感覚、美的感覚を与えておくことである。その基礎ができていれば、それを基にして子どもは自分の力で自分なりの自我を形成することができる。

 思春期になった子どもが不登校になったり、引きこもったりするのは、自分なりの自我を作るという作業に対して力量がないために負けてしまって逃げているのか、またはその作業をしている創造の最中なのかは、外から見てもなかなか分からない。というより、結果を見てみないと、どちらだったか最終的には言えない場合が多い。

 いずれにしても、それまでその子にどれだけの力量がついているかによって決まると言ってよい。

 このケースでは、幸い不登校とか引きこもりにはならないで、ただ部屋をちらかしていて、どんなに父親が強く言ってもきかないという形を取っていた。これは「反抗」の相当に強い形であり、無気力どころか、むしろこの子のかなり強い力量を示している。

 ただし、心の状態が整理のつかない混乱を示していて、その状態からすると「きれいに片づける」気持ちにならないのであろう。その気持ちに逆らって片づけるのは、自分の心に忠実でなくなってしまうのである。

 このような状態にあるのは、子どもにとって悪い状態ではなく、成長の一つの過程と見ることができる。こういう場合には、親は普通の場合の常識や感覚から「よい・悪い」を判断するのではなく、その混沌から何が出てくるかを辛抱して見守るという態度が必要になる。

 もちろん、常識の立場から「片づけよ」と言うのは、決して悪いことではない。いやむしろ必要なことである。子どもの自我が形成されていく過程で、子どもが「常識」とか「世の中のルール」や「マナー」からあまりにはずれたときには、「常識」の側からプレッシャーをかけることは必要である。それは、たとえうるさがられても、しなければならない。子どもはうるさがるけれども、心のどこかではそれが正しいことを認めているものである。このプレッシャーがないと、子どもの自我があまりにも世間の常識からはずれたものになってしまい、結局子ども自身が苦労するはめになる。

 父親が「世間」を代表して「常識」を主張することは大切なことであるが、しかしそれを実力行使してまで押しつけるのは疑問な場合が多い。このケースは、子どもの方も「悪い」ことは承知で「汚く」しているのであるから、何か心理的な理由があると考えて、実力行使はしないで「待つ」という態度をとってみるのがよかったと思われる。

「待つ」といっても、もちろん何も言わないというのではなく、「片づけろ」とときどき言うことは、むしろ必要なのである。

 

万引きのケースについて

 このケースについてはそもそも「叱る」方がいいかどうかがテーマであった。

 一般的に言うならば、叱る場合に、ただガミガミと怒るのは下策である。「叱る」場合には、必ず前もって原則を示しておかなければならない。幼少時から原則や「家の決まり」を作って守らせるという訓練をしておくのが望ましい。

 小学生中学生くらいの子どもの場合には、「悪い」ことをする子どもは、「悪い」ことを承知でやっている場合と、「悪い」とは思っていない場合とがある。このごろは「悪い」とは思っていない場合が急速に増えている。

 「悪い」ことを承知でやっている場合には、頭ごなしに怒鳴ってもかまわない。むしろ気迫をこめて叱る方がよい。しかし「悪い」と思っていない子どもに対して、頭ごなしに叱っても逆効果である。その場合には、叱ると同時に、「なぜ悪い」のかをよく説明しなければならない。ただし説明しただけで叱らないのもよくない。叱ることと説明とを同時にしなければならないのである。

 万引きには、大きく分けて三種類がある。第一は貧乏で買えない子の場合。このケースはこのごろではほとんどなくなっている。これは罪の意識を伴っており、本人は十分に罪を自覚していることが多いので、叱るといっても、暖かい態度で静かに言い聞かせるだけで十分である。

 第二は心理的なものが絡んでいる場合。「心理的」といっても、本人にとっては無意識の心理であるという場合が多い。「甘えたい」とか「叱られたい」(これも甘えの一種)、すなわち愛情不足などの不満がある場合など。この場合も本人には「悪い」という意識がどこかにあるが、「叱る」というよりは心理的な問題点を取り除くのが先決である。強く「叱る」と逆効果になったり、他の症状を引き起こす場合があるので、繊細な扱いをしなければならない。

 第三は「遊び」「ゲーム」感覚で実行する場合。これに対してよく「ゲーム感覚でやっているんだからたいした罪ではない」と考える人が多いが、それは大きな間違いである。このケースこそ、強く叱らないといけないのである。というのは、このケースは「悪い」という意識が薄く、罪意識も欠けている。「ゲーム」感覚だから弊害が少ないと思うのは間違いである。これは善悪の区別がおろそかになっているのであり、「盗む」という行為を「悪」と感じない感覚になっていることを示している。これは今の日本社会で、子どもたちのあいだに「他人の物を盗む」ことにたいする感覚的麻痺が進行していることと表裏一体をなしている。これは日本社会全体の秩序や治安にとって、由々しい事態だと思われる。

 たとえば、番組の中のアンケート調査によると、父親の8割が「嘘をつくことはいけない」と思っているのに、「嘘をついてはいけない」と思っている子どもは38.6パーセントにすぎなかった。ここには道徳の世代間伝達が途絶えつつあることを示している。われわれが子どものころは「嘘は泥棒の始まり」と言われたものだが、今は嘘も泥棒も「悪い」ことではなくなりつつある。「嘘をついてもいい」という子どもたちの感覚と、いま子どもたちのあいだで「盗む」ことに対する感覚的麻痺が進行していることとのあいだには、必ず関連があると思われる。

 このように「盗み」と「遊び」の境界が曖昧になっているのは、「いじめ」と「遊び」の境界が曖昧になっていることとも通じている。「盗み」や「いじめ」が「遊び」感覚でなされることに対しては、大人は断固として「ノー」という態度を示さなければならない。

 ゲーム感覚の万引きに対しては、強い態度で叱ることが必要である。

 

(3) 権威について

 非常に興味深かったのは、スタジオに来ていた父も母も子どもたちも、「権威」という言葉を「命令的」「家父長的」な意味にとっている人がほとんどいなかったということである。ほとんどの人たちが、「信頼」「安心感」「尊敬できる」「リーダーシップ」という意味に理解していた。

 またアンケート調査でも、母親の83パーセントが「父親には権威が必要」だと考えいることが分かった。もちろん母親たちが求める「権威」が「封建的な権威」や「家父長的な権威」であるとは考えにくいので、私の言う「健全な権威」を求めていると理解してよいであろう。これはこの番組の大きな収穫であったと思う。これを見ても日本人のあいだで「健全な権威」と「権威主義」の区別がなされるようになっていることを示していると思われる。これは「権威」と言ったら「悪いもの」という雰囲気であった数年前には考えられないことであり、私の「父性の権威」という主張がかなり浸透してきている証拠だと思われる。

 

(4) 母親の役割について

 最後の一時間で、「父親の権威」と母親の態度の関係について話し合うことになった。ところが、ここでもまた司会者が「共働き」の女性のフェミニズム公式主義的な話をえんえんと続けさせ、肝心の「母親の役割」についての討論が深められないという事態が生じてしまった。

 このコーナーでの番組制作者の意図は、母親の側からたとえば「母親が父親を尊重せよ」とか「母親は父親の悪口を言ってはいけない」と言うのなら、「尊敬できるような中身を持てと言いたい」などという意見が出て、それでも母親は父親を立てたり、支えたりする必要があるのか、といった議論に発展することだったと思われる。しかし残念なことに、ここでもフェミニストの女性が男女平等だというような話をえんえんとしてしまい、テーマをめぐっての的を射たやりとりがなされなかった。

 この問題について私が言いたいと思っていたのは、次のようなことである。

 第一回目に、母子の輪に入っていくことができないで、排除されていたり、無理をしてギャグをいって馬鹿にされたり、ペットと仲良くする父親の例が出ていた。なんとか母子の輪に入ろうとして、かえってうとんじられる父親の悩みを象徴していると思う。

 こうした場合は、母親の責任が大きいと思う。母親は子どもと同じ話題に入れることを自慢にしたり喜んでいる(父親をのけものにして平気でいる)のは浅薄であると思う。

 母子が子どもの話題を優先して話しているのではなく、夫婦が中心になって「大人の話」をすべきである。その話題に子どもを引きこむ、大人の話題に対して子どもに興味を持たせる、興味を持てなくても聞いていることが大切である。

 ともに食事をする時間には夫婦の会話を中心にして、そこに子どもが加わるという形にすべきである。あるいは大人として子どもの話を聞くという形が大切である。大人は子どもを「大人にする」という観点を持つ必要がある。つまり「子どもの話題に合わせる」という形で子どもに媚びるのではなく、子どもが「大人の話題に入る」という形をとるように仕向けなくてはいけない。

 

「立てる」とはどういうことか

 次に、母親が父親を「立てる」という問題であるが、たしかに、まず父親自身の人格が立派でなければ、立てようがない。まず父親自身が尊敬に値する人格になる努力をしなければならない。

 しかし子どもにとっての父親のイメージは、百パーセント父親だけの人格によって決まるわけではない。母親の見方や情報によって、子どもの父親イメージが左右されるのも事実である。母親がことさらに父親の悪いところばかりに注意を促すか、よいところに注目して「立てる」かの「出入り」は大きい。当然、父親のよいところについて多く情報を得ている子どもは、父親からのよい影響を得やすいであろう。

 もちろん逆の場合もまったく同じことが言える。父親は母親のよいところを子どもに伝え、母親を「立てる」ことが望ましい。子どもによい影響を与えられるように、夫婦がお互いに「立て」合うことが必要だと思われる。

 「立て合う」と言うと、なにか子どもを「だます」ことであるかのように誤解する人がいるが、「立てる」ということは虚像を伝えたり、嘘の情報を伝えることではない。

「よいところ」というものは自分では言えないものであり、隠れていたり、気がつかれない場合もある。それを本人の代わりに言ってあげるという行為であって、決して「ない」ものを「ある」ように言いくるめることではない。