父性

1 河合隼雄氏への反論

(2) トリックスターとしての河合隼雄氏

     ─ 創造なき「父性創造論」

 

はじめに

 拙著『父性の復権』がベストセラーになって以来、日本中で父性論議がまきおこり、父性の見直しや、父性の内容についての建設的な議論も盛んに進められている。そういう中で、心理学者・教育学者として権威をもつ河合隼雄氏もまた、積極的に父性論議に参加し、発言を繰り返している。しかしその発言は、父性の内容について建設的な示唆を与えるものではなく、むしろ混乱させたり、ときには正しい方向を見失わせるものである。

 河合隼雄氏の父性論の骨子は単純であって、「日本には父性はなかった、だから新しく創造しなければならない」というものである。そのことを河合氏が(私の知るかぎり)最初に主張したのは『文藝春秋』平成9年10月号の「『父性の復権』などできない」という評論の中である。それに対して私は『諸君!』同年12月号に「河合隼雄氏への反論・『父性の復権』はできる」を書いて反論した。(「父性 1河合隼雄氏への反論・(1)父性なき教育論の偽善 ─『父性の復権』はできないのか」)

 ここでは『現代』(平成12年5月号)に掲載された河合隼雄氏の「父性創造論」を批判し、さらにそこに現われた彼の言説の本質を明らかにしたい。

 

河合隼雄氏のトリックスター的性格

 河合隼雄氏は「新しい父性を創造しなければならない」と言う。では「新しい父性」の中身を示してほしいと誰もが思うが、内容を積極的に提示する段になると、とたんに凡庸になるのがトリックスターの本質である。

 トリックスターとは、もとは「いたずら者」「詐欺師」「悪漢」と言う意味だが、人類学や神話学において、神話やおとぎ話の中の独特の性質をもった登場人物を指す言葉となった。すなわち、権威や秩序を壊したり、境界や常識を破ったり、要するに既成の約束ごとをことさらに破ってみせるイメージである。

 しかもそうした常識破りを、とくにトリックすなわち言葉のすりかえや、ごまかし、詭弁(きべん)、言葉の二重の意味を使った意味の転換、などを使って行うところが、トリックスターの特徴である。

 トリックスターは既成の常識や秩序が硬直化し、人々を不当に縛るようになっているときには、批判的な威力を発揮して、束縛を解く働きをする。お話の中では、トリックスターは悪い神や君主をあざむいて、人間や民衆に文化や利益をもたらす。神から火を盗んで人間に与えたプロメテウスがその典型であるが、日本の「一休さん」や「きっちょむさん」の「とんち」もトリックスターのプラス面を表わしている。

 このようにプラスの働きをするトリックスターは、その性質が「英雄」に近づいていると言うことができる。ただし、本当の英雄になるためには、トリックスターという性質を捨てて、指導性とかリーダーシップ、建設とか構成という秩序作りといった性質を持てるように変身する必要がある。

 その変身ができないで、突然権力の座につくと、強い権力を使って破壊ばかりしたり、破壊ができないとなると無能な指導者になり下がってしまう。その典型が都知事になった青島幸男氏であった。彼は芸能人として活躍していたときには、権力の矛盾に対する批判を笑いにまぎらして提出し、トリックスターとして大いに人気を博していた。しかし都知事に当選したとたんに、指導者に変身することができず、まったくの無能ぶりをさらけ出したのである。

 もっと悪い場合には、トリックスターがその「だます」という性質を自分の自己弁護のために使ったり、よからぬ目的のために使う場合もある。するとトリックスターは「詐欺師」や「悪漢」の方に傾いていくことになる。

 河合隼雄氏も今までは「よい」トリックスターとして、硬直化した常識をやぶったり、発想の転換によって面白いヒントを与えたりして活躍してきたので、そのファンも多く、人気も高かった。しかし最近は悪い意味での「ごまかし」が多くなってきたと感じられる。

 

やはり野に置けトリックスター

 河合隼雄氏のトリックスターぶりが「とんち」を示して民衆の役に立つという性質から、「すりかえ」や「ごまかし」を使った悪いトリックスターに変わってきたのは、氏が政権と仲良くなったことと関係があるのかもしれない。数年前に氏が「行革」の委員になり、改革案を提出した直後に、「国が変わるということはすごいことです」とその場に立ち会った感激を述べたことがあるが、そのとき「行革で国が変わる」と思った国民はあまりいなかったのではないか。その後も日本が変わったとは誰も感じられないのではないか。そのとき河合氏も「行革で国が変わる」とは考えていなかったと思う(彼はそんなに馬鹿ではない)が、自分の政権への参加ぶりを弁護する必要を感じて、そんなたいそうな感想を述べたのではないであろうか。

 最近では、小渕前首相の私的諮問機関「21世紀日本の構想懇談会」の座長となって「英語公用化論」を提案したが、それが多くの批判をあびると、「議論を起こすことが目的」だと言い逃れをしている。攪乱はトリックスターのすることであり、首相の諮問機関はたとえ「私的」といっても公的な意味をもち、それなりの重みをもって受け取られる責任ある機関である。それが意味のある建設的な提言をすることができないで、議論を起こすことが目的だったかのような言い方をしていいのだろうか。それは「ごまかし」言葉を使ったトリックスターの言い逃れであり、責任感をもったリーダーの自覚とはほど遠い発言である。提案をした者は、批判を受けたら、自分の提案の正当性をきちんと主張すべきである。

 人は権力の中に入ったなら、トリックスターでいてはいけない。建設的な発言のできるリーダーとしての自覚を持たないといけないのである。しかし権力の中に入っても、河合氏は依然としてトリックスターとしての言動しかできないようである。

 トリックスターでいつづけるかぎり、人は政権に近づいてはいけない。「やはり野に置けトリックスター」である。政治に近づくのなら、トリックスターという性質から脱皮した方がいい。でないと、「トリック」を「ごまかし」という悪い意味で使わざるをえなくなる。

 

詭弁家(ソフィスト)としての河合隼雄氏

 河合隼雄氏の「トリック」は、昔から彼のあらゆる言説の中に登場している。私はかつてその論理の詭弁性を全面的に批判した(「C・G・ユング研究 4 河合隼雄氏のシンボル解釈への疑問」)が、河合氏が最近発表した「父性創造論」は依然として詭弁の産物である。

 雑誌『現代』(講談社)の平成12年5月号で、河合氏は「日本人よ、いまこそ『父性』を創造せよ」という評論を発表している。この文を読むと、父性について明瞭になるどころか、ますます訳が分からなくなること必定(ひつじょう)である。なぜなら、そこで河合氏は相も変わらずトリックスターとして発言しているからである。

 河合氏の言説の特徴は、言葉を少しずつ言い換えていって、いつのまにか別の意味にしてしまうところにある。たとえば、その評論の初めに氏は最近の世間を驚愕させた事件にふれ、こう述べている。

 

「このような事件が起きると、声高に『父性の回復』が叫ばれますが、日本人はもともと強い父性など持っていなかったのだと、実は私は考えています。」

「一口に父性といっても、そのあり方は様々です。もっとも厳しい父性は、善と悪を妥協の余地なく判断する力を持っていますが、日本には昔からそんな厳しい父性は存在しません。」

 

 この短い文章の中に、河合流の言葉のすりかえとごまかしが、しっかりと織り込まれている。

 河合氏はまず「父性」を「強い父性」と言い換える。そして父性にも様々あると言いながら、次に「もっとも厳しい」西洋的キリスト教的な「父性」と言い換える。そしてそんなものは昔の日本にはなかったと言う。

 「父性」というものを「強い」とか「厳しい」と思っている人は、この言い換えに気がつかない。しかし「父性」には、河合氏自身が認めているように、いろいろあるのであり、「強い」とか「厳しい」というイメージとは違う父性もあるのである。たとえば、私が定義している父性は、「人格的に子どもの模範になり、人格の力で家族をまとめ、文化を伝え、規範を教える」というものだが、ここには「強い」とか「厳しい」とか「押しつける」というイメージはまったく存在していない。私は価値を「提示する」と言っており、価値を「押しつけるのは権威主義だ」と批判している。

 「家族をまとめる」「文化を伝える」「規範を教える」という意味の父性がなかったという社会はありえない。もしあるなら、その社会は堕落して崩壊するか、他の社会にとってかわられてしまっただろう。

 このように、「父性」の定義次第で、「昔から父性はあったかなかったか」の判断が逆になるのである。河合氏のようにヨーロッパ流の「善と悪を妥協の余地無く判断する力」が日本になかったのは、誰でも知っている当たり前のことである。しかし河合氏の手にかかると、いつの間にか「父性」一般が日本になかったかのように思わせられてしまう。

 そして父性の「復活」とか「復権」と言うこと自体が間違いだとされてしまう。正しくは「河合氏の定義する父性は存在しなかった」し「そのかぎりで復活という言い方は間違いだ」と言うべきである。定義しだいで、父性は存在したとも言えるし、復活と言っても、復権と言っても正しいはずである。「父性の復活」という言い方すべてが間違っているのではないし、「父性の創造」という言い方すべてが正しいわけでもない。言葉の遊戯、というより詭弁はやめにしてほしいものである。

 では河合氏は、どういう内容の父性を創造したいのか。

 

河合流、新「父性」?

 「日本文化の中で日本独自の父性を作り出すべし」という河合氏のかけ声は、日本人の自尊心をくすぐる。なにかよさそうなものができそうな気にさせられる。私は父性にも母性にも日本人特有のものなどない、人類に共通だと思うが、とにかく河合氏がどんな父性を作り出そうとしているのか、聞いてみよう。

 氏は日本人が創造すべき父性の内容を決して正面から論じない。トリックスターはいつでも搦め手(からめて)から発言する。氏は「創造すべき父性」のヒントになる人物を紹介する。それは外国で活躍する音楽の指揮者であったり、エジプトでコプト教徒の住む町に入り込んでいる人であったりする。その人々がどういう意味でヒントになるのかについては、ただ彼らが国際的に活躍しながら「日本が好き」だと言っていることと、「アグレッシブでない」ということしか言われていない。これではまったくの無意味・無内容である。

 「これをヒントにして、お前たち、日本的な父性を作れ」と言われても、普通のお父さんたちは途方に暮れてしまうだろう。ただ煙にまかれたような気持ちになるだけである。

 こういう特別な(非日常的な)人の例をいくら示されても、日常生活の中で父親が何をしたらよいのか、まったく分からない。では河合氏は父親がどう振る舞ったらよいと考えているのだろうか。

 

具体的な父親像は権威主義的

 その疑問に答えるかのように、次の小見出しは「父親は家庭でかくあるべし」である。その答えは、我が家で「絶対にやらなければならないこと」「絶対にやってはならないこと」を厳しく教えることだそうである。子どもに対しては「動物の訓練と同じようなところがあって、いちばん初めにガツンと勝つことが大切なんです」「なんでも自由はよくない」「我が家ではこれは絶対ダメというルールが必要」

 トリックスターが体制側の人間として発言すると、急に平凡になり、ごく当たり前のことしか言えなくなるという見本である。ごく当たり前のこと、すなわち「絶対にやらなければならない」ことと「絶対にやってはならないこと」を厳しく教えなさいということは、別に日本人でなくても、世界中共通の父性ではないだろうか。

 こういう当たり前のことを言ってみたが、それではあまりに平凡だと思ったか、河合氏は平凡でないことを付け加える。いわく「そのルールはちょっとくらい変なほうがいい」「バカなことで怒るのが父親だ」と。こういうちょっと意表をつくようなことを言いたくなるのが、トリックスターたるゆえんである。

 しかし河合氏の描く「バカなことで怒る父親」という理想の父親像は、じつは権威主義的な父親像である。意味もなくバカなことで威張るというのは、これまでの日本的な横暴な権威主義的父親像であり、一種のダメオヤジである。これは河合氏が日本的なダメオヤジに媚びているにすぎない。

 もっとはっきり言うならば、「父親は立派でなければならない」という意見に対して、「バカでもいい」「ちょっと変でもいい」と言うことによって、河合氏は日本社会にはびこっている反権威主義に媚びているのである。トリックスターとしての河合氏が日本でもてるのは、このように戦後精神の反権威主義的な土壌に合っているからである。(その反権威主義という歪んだ精神は、以下で反論する賀茂、妙木、氷見の諸氏に典型的に見られる)

 もっとも、好意的に解釈するなら、「へんなこと」や「バカなこと」を言う父親の方が、子どもが反発して自立しやすいとでも考えているのかもしれない。これは河合氏の「父とは切断する者である」というヨーロッパ的な定義と通じている。(しかし「切断」とは、まだ子どもの力がついていないときに無理に自立させようとする間違った考えであり、子どもの人格をきちんと育ててやれば、切断などしなくても、子どもは自然に自立していくものだということについては、すでに前論で十分に論じた)

 結局、河合隼雄氏の父性論は、理念を示そうとするときには無意味無内容であり、具体的なあり方を示そうとするときには権威主義的な像を示すことしかできていない。しょせんトリックスターとは批判するときは鋭いが、積極的建設的な提言をするという父性的能力は発揮できないものなのである。