フェミニズム批判

 

7 教えてあげよう人気の秘密

── 「女性の自立」は自明の前提か

  ( 『中央公論』平成12年12月号 )

── 広田照幸氏「なぜ林道義氏は人気があるのか」(『中央公論』平成12年10月号) への反論

 

 『中央公論』平成12年10月号の「<研究>お父さんのためのフェミニズム講座」は、現今のフェミニズムをめぐる情勢を見事に反映(または先取り)している。

 興味深いことに、どの論者も、意識するしないにかかわらず「自立」をめぐって論じているが、これは決して偶然ではなく、「自立」が今やフェミニズムをめぐる中心的な論点になりつつあることを示しているのである。

 

 「働け」イデオロギーから「自立」イデオロギーへ

 

 広田照幸氏は「なぜ林道義氏は人気があるのか」と私の人気の理由を分析している。しかしどうも私のフェミニズム批判をよく理解しないで「分析」しているために、見当はずれの批評になっていると思われる。

 私のフェミニズム批判のうち最も人気があり、最も共感を得たのが「働け」イデオロギーへの批判であった。

 フェミニストたちは「男女平等を妨げているのは女性に経済力がないからだ、したがって女性は働いて経済力をつけねばならない」と考えて、「女性が働くことが何にもまして価値のあることだ」と宣伝してきた。

 こうしたフェミニズムの思想はどこかおかしいと感じていた人々は、私の命名した「働け」イデオロギーという言葉を聞いたとたんに、「そこがおかしかったのだ」と納得したのである。

 フェミニズムのイデオローグたちは、「働け」イデオロギーなど浸透していないとしきりに弁解している。田中喜美子氏がそうだったし、今回の山田昌弘氏がそうである。問題は浸透しているか否かではない。それがフェミニズムの拠り所になっている根幹のイデオロギーであることは間違いのない事実である。

 しかるに私の批判によって「働け」イデオロギーへの疑問が強まってきたために、フェミニストたちは戦略を転換せざるをえなくなってきた。いわく「働くなどということはそれ自体価値のあることではない」「大切なのは自立だ」「働くことは自立のために必要なだけだ」と。フェミニストたちは「働け」イデオロギーの代わりに、「自立」イデオロギーを前面に掲げるという作戦へと方向転換しようとしている。

 これまでフェミニズムの思想にとっては、「働く」ことと「自立」とは切っても切り離せない車の両輪のようなものだったはずである。ところが、ここにきて、フェミニズムのイデオローグ(というより追随者)の山田氏も広田氏も口を揃えて「自立」を絶対の価値であるかのように前提にして議論を進めている。

 山田氏は自分の「パラサイト・シングル」論がフェミニズムから批判されているかのように言っているが、しかしパラサイト論はじつはフェミニズムの根幹の「自立」イデオロギーを前提にした議論なのである。

 

 子供は自分の手で育てたい

 

 広田氏は私の人気の秘密を分析して、第一に「性別役割分業を肯定したがっている人々」が「今やマイノリティになった自分たちの立場を正当化してくれるものとして、林氏の議論を歓迎しているのである」と述べている。いかにも私の人気が一部の「没落しつつあるマイノリティ」に依存しているかのように見せかけたいらしい。

 この見方は「意識調査」なる統計数字を根拠にしている。この「意識調査」という名のアンケート調査は、とくにフェミニズム系統の社会学者や心理学者が好んで根拠にしたがる。しかし、その統計的な「意識調査」なるものが、まったく当てにならないのである。というより、論拠にするには、あまりにも問題が多いのである。

 たとえば、広田氏は「NHKの意識調査」を持ち出す。いわく「女性は結婚したら家庭を守ることに専念すべきと答える人の割合は、73年の35%から98年の13%へと減少し、結婚して子供が生まれても仕事を続けるべきと答える人の割合が、20%から46%へと着実に増加している。大勢的にはフェミニストの主張の勝利である。」

 このように、「専業主婦を一生続けるべきか」それとも「子どもが生まれても仕事を続けるべきか」と二者択一を問えば、「働き続けるべき」と答える女性が多くなるのは、時代の風潮として当然の結果である。設問そのものが「一生専業主婦を続けるか否か」を問うものであり、「否」と答えるしかないように設定されている不公正なものである。

 それはともかくとして、その「家庭を守ることに専念すべき」「子どもが生まれても働き続けるべき」と答えた女性たちは、それほどの確固とした信念でそう割り切っているのであろうか。

 私はそういう問題で悩んでいる女性たちに面接する機会が多い。女性たちによく話を聞いてみると、家庭に入った女性も仕事を続けている女性も、そう単純に割り切っているわけではないのである。

 子どもが生まれたのを機に仕事をやめる女性は依然として多い。彼女たちは本当は仕事を続けたいが、子どものために家庭に入ったのだと言う。この人たちはアンケート調査には「家にいるべき」と答えるだろうが、「べき」断固たる信念をもって家にいるわけではない。

 また私は仕事上「働く女性」たち(編集者やジャーナリストや公務員)とも話す機会が多い。私の専門がカウンセリングや心理療法なので、仕事上の話だけでなく、「人生」についても心を開いて話してくれることが多い。つまり本心を語ってくれるのである。すると、信念をもって仕事に打ち込んでいると見える女性でも、案外心はゆれているものであることが分かる。

 とくに目立つのが、子どもを自分の手で育てたいという気持ちが強いことである。フェミニズムは「保育所でも大丈夫」とキャンペーンをはっているが、多くの働く女性たちはそれを信用していない。ほんとうに自分の子どもが虐待されていないか、正しい世話をしてもらっているか、長時間保育でいいのかなど、つねに不安を持っている。何よりも、彼女たちは子供と一緒に過ごす時間を持ちたいと思っている。

 広田氏は「おそらく、集団保育でも親のもとで育てても、長い目で見ると、そのこと自体は、その後の子供の人生に大した影響を与えないはずである」と無責任な楽観論を述べているが、「子どもを自分の手で育てたい」という気持ちは階層や年齢にかかわりなく、日本の母親たちの切なる願いであるし、私はそれは正しい直観に基づいていると思う(拙著『母性崩壊』を参照)。

 だからこそ、日本における就労形態のM字型カーブは依然としてはっきりと見られる。女性たちは「一生専業主婦を続ける」人生も、「一生働き続ける」人生も、どちらも望んではいないのである。そのことを示す統計もグラフも発表されているのに、広田氏はそういう統計は無視している。

 はっきりしているのは、女性たちが本心で望んでいるのが、「自分の手で子どもを育てる」ことだということである。ところが、その気持ちに応えないばかりか、「女性の自立」に反する「悪」として攻撃してきたのがフェミニズムなのである。

 子育てや介護を家族の中でしたいという気持ちは、階層や年齢によって大きく異なるものではない。どの階層や年齢にも共通した気持ちなのである。もちろんそれが実際に実現できるかどうかは、階層や年齢によって異なってくるが、しかし本心の願いは階層によって異なるわけではない。

 しかも、その家族的な気持ちを大切にしたいというのは、なにも日本人だけの現象ではない。ドイツには家庭介護、ノルウェーには家庭育児に対して、公的な介護や育児に支払われるのと同じだけの(または何割引きかの)補助金が支払われるという制度がある。日本のフェミニストたちは、その制度をかたくなに否定してきているのである。こういうところにフェミニズム不人気の一つの重大な理由がある。

 

 心を読めない社会学者

 

 社会学の限界は、統計数字ばかりに頼っているために、こういう人間の切なる心を読みとることができないというところにある。それどころか、統計数字を自分のイデオロギーの宣伝のために悪用する人もいる。

 広田氏は統計数字を恣意的に操作して、性別役割分担を肯定する人たちと、それを代弁する私を「歴史の時計を逆向きに動かそうとする」マイノリティだと断定する。その断定の背後には、「性別役割分担を肯定する」ことと、「一生専業主婦をやる」こととを同一視するという間違いがひそんでいる。

 しかし私が主張していることは、「母性や子育てと対立しないで働ける社会システムを作れ」「M字型就労方式を否定しないで、理想にし、それを実現できる社会システムを考えよ」ということである。そして「専業主婦」だから自立していない、「働いている」女性だから自立しているというような単純なものではない、と言っているのである。つまりは「自立」イデオロギーから解放されるべきだというのが私の主張の根幹である。

 広田氏はフェミニズムに対して「近未来社会のデザイン」を明確に提示せよと提案している。しかしフェミニストはデザインを明確に出している。すなわち、女性は皆働いて、育児は保育所に任せるというデザインである。私も明確にデザインを出している。すなわちM字型の就労形態である。これが私の真の人気の秘密である。私の人気の秘密について分析するのなら、私の提案が多くの人々の心に響いている核心を掴んでからにしてほしいものである。

 広田氏は自分が当事者ではないような顔をして、自分ではデザインを提出しないで、他人に求めている。この問題は女性だけの問題ではなく、フェミニストだけが答えるべき問題でもなく、国民全員の大問題のはずである。広田氏はいつから「偉いコメンテーター」になったのであろうか。

 広田氏は、私を「消えていきつつある階層や後ろ向きのノスタルジーの代弁者」のように描き、「一部」の人々を代表しているだけのように見せかける。私が「女性は一生専業主婦を続けなさい」とでも言っているのなら、その分析は正しい。しかし私は一生家の中にだけいたくない、外に出て活動したいという女性の気持ちも十分に理解している。しかし他方では「自分の子どもを自分の手で育てたい」という気持ちも痛いほどよく分かる。また、母性不足で育った子供の心の病いも数え切れぬほど見ている。だからこそM字型就労方式の価値を訴え続けているのである。この、ある意味では「新しい」主張を、単純に「古い」「後ろ向きの」考えだと誤認していくら「分析」してみせても、私の人気の理由を正しく掴むことはできないし、私の人気を衰えさせることもできないであろう。

 広田氏が「分析」を間違えたのは、背後に「自立」イデオロギーという「前提仮説」を持ち、そこから専業主婦という存在を否定したいという隠された心理を持っているからであろう。

 

 「自立」イデオロギーへの疑問

 

 じつは10月号の特集の最後の秩父啓子氏のルポは、その問題に対する興味深い大切な問題提起である。秩父氏は、今まで当然のように前提にされてきた「自立」という言葉の意味を問うている。

 秩父氏はまず「家父長的な家族システム」を批判して、「『主婦』という役割のなかで女性たちは、むしろ情緒的な収奪をさえ、受けてきたのではないか」と言う。この「関係の中」での「二人一組の自立」というシステムからドメスティックバイオレンスの問題も出てくるというのである。

 秩父氏のようにDVに取り組んでいる人から見ると、「家父長的な家族システム」の中の病的な共依存の問題が浮かび上がってくるのであろう。ただし私に言わせれば、「二人一組の自立」は「家父長的な家族システム」と必然的に結びついた思想ではない。むしろ夫婦が対等の民主主義的な夫婦にこそ当てはまる考え方だと思う。

 それはともかく、問題はその先にある。家父長的な家族が陥りやすい病的な共依存を逃れようとした結果、「男性をモデルにした」「自立」に引きずられてしまった。しかしそれは殺伐とした「個」=「孤」という、「裸足の自立」になってはいないか。こういう問題を秩父氏は提起しているのである。「情緒性の回路をも組み込んだ新たな『自立』のイメージを提示することが、フェミニズムこそに求められているように思う」という言葉は、私が主張してきたことと一致しているし、私は大賛成である。

 男は敵ではなく、共に依存し合い共に協力し合っていくべき存在であるということに、ほとんどの女性たちが気づいているのに、フェミニズムの思想の表面にはなかなか現われてこなかった。ようやくそのことを明瞭に堂々と語る人が現われてきたのは喜ばしいことである。

 依存そのものが悪いわけではない。病的な依存が悪いだけである。人間は依存し合い、立て合い、協力し合わなければ、生きていけない。分業そのものが悪いわけではない。自立そのものがいいわけでもない。専業主婦を「依存」だとバッシングしたり、「働く女性」を自立していると理想化するのではなく、どういう依存と自立の組み合わせがいいのか、もっと冷静に議論ができないものか。そういう問題を秩父氏は提起しているのだと私は理解した。

 これはパラサイトそのものが悪いわけではないという問題にも応用できる。山田氏のように「自立」と「楽」を対立させ、無条件で「自立」をよいものとする観点だけから、パラサイト現象を論評するのは狭すぎる。

 山田氏は「自立、自立」とフェミニズムのイデオロギーに無条件に依存して論じているが、山田氏自身がフェミニズムへのイデオロギー的依存から「自立」するのが先決問題であろう。

 秩父氏が感覚的に捉えている「自立」神話への疑問を、私は「専業主婦」をめぐる議論の中で論じてきた。「専業主婦」という存在には、この問題が鋭くに現われているからである。

 すなわち、「専業主婦だから自立していない」と言えるのか、「経済的自立イコール自立」なのか、「対等な二人で一組の自立」というものもありうるのではないか、「家族単位の自立」というものも考えるべきなのではないか、等々。

 「自立」を叫ぶフェミニストが、じつは専業主婦である自分の母親に家事育児を依存しているという例も非常に多いのである。このように、「自立」という問題は一筋縄ではいかない、なかなかに難しい問題をはらんでいるのである。

 

 歴史的趨勢は「こころ」が決める

 

 広田氏はこうした「自立」をめぐる困難な問題をまったく自覚していない。じつに楽天的に「自立」を唱いあげている。

 そして「自立」に疑問を呈する私を「歴史の時計を逆向きに動かそうとする」と非難する。

 35年前にも、私はマルクス主義者たちから、同じ言葉を浴びせられたことがある。私が「ソ連や中国などの社会主義国はやがて自由市場になり、資本主義社会になるだろう」と言ったところ、「歴史の必然は資本主義から社会主義へであり、歴史の歯車が逆転することはありえない」と。

 しかしマルクス主義者たちが望んだ「歴史的必然」は起こらないで、反対のことが現実となった。歴史の方向は頭の中で考えられた観念的な「歴史的必然」ではなく、人々の心の向きによって決まるのだ。

 「歴史的必然」とは、自らの願望を客観的であるかのように見せかけたいマルクス主義者が考え出した欺瞞的な言葉である。現在の左翼やフェミニストたちが使う「歴史の趨勢」とか「歴史の時計」という言葉も同じ。

 広田氏は私のフェミニズム批判をきちんと読んでいないのではないか。私は『フェミニズムの害毒』の中で、フェミニズムの「歴史的必然」という概念を方法論的に明瞭に批判している。

 すなわち落合恵美子氏が「家族変動論」に依拠して、歴史は「家族単位」から「個人単位」に向かっていると「予言」したのに対して、それは人間の「こころ」を見ていない間違いであると指摘した。歴史の方向とは、希望的観測に「科学的」粉飾をほどこした「歴史の趨勢」にそって動くものではない。人々の心が望む方向に動くのである。このことの重要な意味をもっと深刻に理解してもらいたい。でないと、フェミニズムは大衆から取り残されることになる。

 今、人々はフェミニストの主張の行方を興味深く見つめている。選択すべき道は二つ。一つは「自立」と個人単位を大切にする道。いま一つは「家族」を大切にする道。

 「自立」の道を歩んでいる女性たちは、はなやかに見える。家事や子育てという面倒なことから解放され、収入は自分のために使い、やれ海外旅行だのおしゃれだのと浮かれている。そして老後は年金や介護保険に頼ればいいと言う。こちらを魅力的だと思う後輩たちは、結婚などという「損」なことはしたくないと思うだろう。

 はたしてそう都合よくいくものかと思う後輩たちもいる。家族などいらない、老後は社会にまかせると言うけれども、社会はそんなに豊かなの? 家族は面倒だけど、温かさや楽しさや安心感もあるんじゃないの? と。

 人々が結局どちらを選ぶのかは、先輩たちの人生を見て決めることである。歴史の進む方向は、人々の主体的な選択の結果として現われる。フェミニストたちに都合のいいように、予め決まっているわけではない。

 歴史の動く方向についての対立点は、明瞭に出されている。介護や子育てを「社会化」して「外注」するのか、介護や子育てを家族の中ですることを重んじ、それを援助するのか。対立は明瞭になり、議論ははっきりと噛み合っている。

 広田氏は私と田中喜美子氏との論争は噛み合わなかったと言っているが、それは理解不足というものである。噛み合った上で、尖鋭に対立しているのである(『家族破壊』徳間書店、平成12年7月、第4章で林-田中論争の総括をしている)。噛み合わせないで問題をそらせているのは広田氏のほうである。

 私は広田氏が無条件の前提仮説としている「自立」「家族の多様化」という言葉が隠し持っている偽善と弊害とを明瞭に批判している(『主婦の復権』161〜168頁、『フェミニズムの害毒』46〜47頁、89〜96頁)

 その批判に答えることもしないで、「自立」や「多様な家族」を当然の前提に議論をするのでは、なんの前進もない。相手の議論をきちんと読んだ上で、相手の論点に噛み合わせて議論をしてほしいものである。