フェミニズム批判

 

5 林-田中論争

  資料2 真実を歪める卑劣な批判

 (初出『諸君!』平成11年9月号、のちに『フェミニズムの害毒』の7章)

 

 田中喜美子は『主婦の復権』について最初から口をきわめてののしっていたが、さきにも述べたとおり、『主婦の復権』を直接的に批判する本さえ出している。『「主婦の復権」はありうるか』である。私はそれまで彼女らを名指しで批判したことは一度もなかったが、にもかかわらず拙著だけを批判の対象にして一冊の本を書くとは、よほどの動機があるにちがいない。

 じつは投稿誌『わいふ』の組織は「株式会社グループわいふ」であり、田中が取締役社長である。さらに田中は『ファム・ポリティク』の編集長として選挙のさいには『わいふ』会員に特定の候補者を推薦し、また育児の通信講座「ニュー・マザリング・システム」を主宰している。株式会社や通信講座であるからには、利益を上げなければならない。そのためにはお客を獲得しなければならない。お客とは「不満をもっている主婦」である。

 ところが、最近、不満をもっている主婦が減ってきたところに、私の『主婦の復権』が出た。その内容は「専業主婦は歴史的に進歩的で人間的だ」という内容であり、主婦の不満を煽らなければならない田中の立場とは正反対の主張をしている。だから「主婦よ自信をもて」と呼びかけた『主婦の復権』は、田中たちにとってはこの上なく都合の悪い営業妨害である。そこで拙著に対する攻撃が開始されることになったのである。

 批判はいくらしても自由である。しかし批判は公正で論理的なものでなければならない。ところが彼女らの批判は、フェミニストの批判の仕方がいかに汚い卑劣なものかを典型的に示している。

 

許しがたい嘘と中傷

 

 内容的な反論に入る前に、田中喜美子の卑劣な人格的中傷の仕方を明らかにしておかなければならない。

 前章 (資料1) に対する反論として発表された田中喜美子の文章 (『諸君!』1999年8月号) には唖然 (あぜん) とした。田中が汚いやり方をするとは予想していたが、ここまでひどい中傷をするとは、さすがに想像できなかったからだ。

 反論の冒頭の小見出しに「闇討ち論争はご免だ」とあり、その冒頭で田中は私によって2度「驚かされた」と書いている。

 

嘘を武器にした中傷

「驚かされた」第1回目は『信濃毎日新聞』での私との4回の「論争」のときだとして、田中はこう書いている。

 

 1回目の掲載が終わったあと、林氏は私に、次の原稿は12字9行分減らしてほしいと、要求されてきた。活字になった二人の文章を数えてみたら、自分のほうが9行分少なかったからだという。

 

 これを読んだ人は、「えっ、林という人は、第1回目から双方の原稿の字数を数えて、相手の方がたった9行多いから次は少なくせよと要求する、そんなケチなことをする人なの?」と思うことだろう。田中はなぜ「驚いた」のか、明言していない。しかし読む人の多くは「林という男はこんなにケチくさい、いやな奴なのか」と感じることであろう。

 さて、冒頭にこれだけ「事実」を堂々と書いてあると、これが嘘だと思う人はまずいないだろう。しかし彼女の言っていることは真っ赤な嘘なのである。

 事実はこうである。私は彼女に対して、直接にも間接にも、なんの要求もしたことはない。だいいち第1回目が掲載された時点では、私は原稿の長さについてなんの問題意識ももっていなかった。担当記者の申し入れどおり、当然、相手も依頼どおりの行数で書いているはずだと思い込んでいた。

 彼女の原稿がつねに依頼の行数を超えていることに気づいたのは、3回目が掲載された時点で、一人の読者から「毎回、田中氏の方が分量が多くて、不公平だ」という指摘を受けたからである。そこで担当記者に電話で問い合わせたところ、彼は田中の方が分量が多いことを認めた上で、4回目については、規定の枚数を守るように田中に申し入れたそうである。しかしそれでも彼女の4回目の原稿は、前3回のどれよりもかなり多かった。それで困った担当者は、私に対して「少し分量を増やしていいです」と言ったのである。

 さて、読者の中には、「対立する二人の主張を並べて掲載する場合には、両者の原稿の分量を厳密に同じにすべきなのは当然ではないか、林が公平にするように要求するのは当然だ」と言う人もいることだろう。「余分に書いた田中が悪いのだ」と。そういう批判を当然予想して、田中はこう自己弁護している。

 

 私は新聞社の依頼どおり、きっちり3枚半で書いている。驚いて担当者に尋ねてみると、林氏の文章は改行が多く、それを追い込んでいくうちに9行分減ってしまったのだそうな。そんなことは私の責任ではない。

 

 これがすべて真っ赤な嘘なのである。こんな短い文章の中に、重大な嘘が3つも含まれている。

 第1に「きっちり3枚半で書いている」が嘘である。1回目の彼女の原稿は明らかに「3枚半」を10行ほど超過している。掲載された記事の行数を数えてみればすぐにわかるはずの嘘をどうしてこうも堂々と発表することができるのか、常識ではとうてい理解できない人格である(なお、こまかいことだが、担当記者の依頼は「3枚(1200字)」であり、「3枚半」ではなかった)。

 第2に、担当者が言ったとされていること(私の文章の改行を追い込んで行数を減らした)も大嘘である。担当者は私の文章に何一つ手を加えていない。改行を勝手に改めるなどという失礼なことも絶対にしていないのである。

 第3に、したがって担当記者はそんなことを彼女に言うはずがないのである。事実、担当記者に電話で確かめてみたが、「原稿に手を加えるはずもないし、行数を縮めてもいない、したがってそんなことを田中さんに言うはずがない」と言っていた (なお、私が原稿の長さについて電話したのは、3回目が掲載された後であることも、彼が記憶していたので確認することができた)。

 これが事実である。田中の言っていることが嘘の積み重ねであることは明白である。嘘を言っておいて驚いたふりをするとは、見事な演技力である。虚飾のために「アメリカの大学に留学した」などと経歴を偽る人はいるが、相手の人格を傷つけるために嘘を言うとは、まことに恐ろしい人格である。

 この件では証人 (担当記者) もいるし物的証拠 (掲載紙) もあるからいいようなものの、もしこれが証拠のないことだったら、「先に嘘を言って傷つけた方の勝ち」という結果になったかもしれない。

『平気でうそをつく人たち』(ペック著、草思社) という本がベストセラーになったり、テレビのワイドショーなどで嘘についてしきりに話題になったりしているが、他人事だと思っていた。しかし気がついてみると自分が嘘の被害者になっていた。恐ろしい世の中になったものである。

 

闇討 (やみう) ちをしたのは田中の方だ

 次に、田中は「驚かされた」第二の例として、私が田中の講演の内容を明るみに出したことを挙げている。田中はそのことを「闇討ち」と呼んで、いかにも私が「卑怯な人間」であるかのように見せかけようとしている。

 とんでもない、「闇討ち」をしていたのは彼女の方である。相手のいないところでさんざん悪口を言っておいて、その相手にはその内容を隠そうとする。そういうやり方をこそ「闇討ち」と言うのである。私は田中の「闇討ち」を暴露し批判した方である。

 私は田中が講演をした公民館に、私を批判した田中の講演テープを借りたいと申し入れた。市民には貸し出されていることを知っていたからである。すると公民館の係員は田中の承諾をもとめた。田中は承諾しないで、林への批判はこの本に書いてあると言って、私を批判した本を私に送りつけてきた。しかしその内容は講演の内容とはまるで違っていた。結局彼女は講演の内容を闇に葬りたかったのだ。

 その闇の中での所業を白日 (はくじつ) のもとに引き出したのが、本書6章である。

 田中は「 講師の承諾なくひそかに入手したテープを使い、それを武器に相手を攻撃するというやり方が、フェアな論争をめざす人間の態度であろうか」と書いている。私はフェアな論争を目指すからこそ、田中のアンフェアな「闇討ち」をあばきだし、批判したのである。

 田中は講演テープの貸し出しを「きっぱりと断った」と言っているが、批判した当の相手から批判内容を知りたいと申し出られたら断るべきではないし、断ったと言って威張ることでもない。公の機関で講演した内容を秘密にしたいとか、闇に葬ることができると考えるのは、虫がよすぎるというものである。

 講演とは、書物を刊行するのと基本的には同じ公的な行為であり、その中からどこを誰が引用しようが、文句を言える筋合いはない。私はプライベートな会話を盗聴して公開したわけではないのである。市民には貸し出しているテープを私には隠そうとする方がおかしいのではないか。

 なお、この問題は著作権とは関係がない。著作権が関係するのは、断りなく盗用したり、勝手に複写してテキストに使うなどという場合であり、私がしたように「誰それが書いたこと、言ったこと」と明記して一部を引用すること (これは批判に答えるためには不可欠のことだ) は、正当な行為であり、けっして「闇討ち」でも「アンフェア」でもない。自分のアンフェアな闇討ちを棚に上げて、相手を「闇討ち」となじるとは、田中喜美子という人間はどこまで厚顔無恥 (こうがんむじょく) なのであろうか。

 

人格破綻 (はたん) の徴候

 嘘をつくことによって相手の人格を傷つける、闇討ちをしておいて相手が闇討ちをしたと非難する、こんな非常識な人格はけっして正常とは言えない。このような人格は精神病理学の用語では「ヒステリー性格」と呼ばれている。その特徴は、E・クレペリンによれば、「饒舌 (じょうぜつ) 、想像力、欺瞞 (ぎまん) の傾向、むら気、エゴイズム、法螺 (ほら) 、中心に立ちたい欲求」などであり、K・ヤスパースによれば「いつも何かの役割を演じ、どこへ行っても人の関心を引きたがる」、つまり自己顕示欲が強い、などの性格を挙げている。さらにヤスパースは「はじめは意識して嘘をつく」が、そのうち「自分でも本当と思いこむ『空想虚言』にまで発展する」と述べている (『臨床心理用語事典』1、小川捷之編、至文堂、p.284〜285)。

 またC・G・ユングもヒステリー患者の特徴を「自分の罪や劣等性を相手が持っていると言って、相手を非難する」「嘘による現実の歪曲、“格好だけ”や見栄っぱり、はったりやいかさま」そして「自分の嘘を自分で信じこむ」「空想虚言」だと述べている (『現在と未来』松代洋一編訳、平凡社、p.57〜58)。

 これらのヒステリー性格の特徴の中に、田中の人格的特徴がいくつもはっきりと見られる。

 まず第1は「嘘による現実の歪曲」「自分でも本当と思いこむ『空想虚言』」である。田中の嘘は、自分で承知した上での意識的な嘘なのか、自分でも本当と思いこむ「空想虚言」なのかは断定しがたい。前者ならば彼女の道徳的水準がきわめて低いことになる。後者ならば彼女は病的だということになる。もし田中が、「担当者が林の文章の改行を少なくした」ということを勝手に思い込み、その空想を自分でも信じてしまっているのだとしたら、「空想虚言」の可能性が高い。

 第2に、自分が闇討ちをしておいて、相手がしたと非難したことは、「自分の罪を相手のものとして非難する」に当てはまる。さきに言ってしまった方が勝ちと考えたのか、あるいはその場だけ有利になることを考えて、あとのことは考えていないのか、いずれにしても正常な人格とは言いがたい。

 第3に、たとえば講演の中で私をばか扱いして「 ほーんとに学者ってのはしょーがないですね。ここへ連れてきたいです!」と自分の優位性を誇示している。これは「“格好だけ”や見栄っぱり、はったり」「自己顕示欲」に当たる。

 私が経験したり知りえたりした田中喜美子の人格的特徴はこの三つであるが、これだけで充分である。田中喜美子は人格破綻の徴候をはっきりと示している。平気で嘘を言って人を貶 (おとし) めるような人格の人間が、乳幼児の母親の通信講座をもって子育てについてのアドバイスをしたり、カウンセラー養成講座を開設したり、政策を提言する女性の会を作ったり、女性を政治家にするための活動をしていることに、私は大きな危惧の念を抱かずにはいられない。田中は乳幼児の育て方について、またカウンセリングについて、どれだけの専門的な勉強や研究をしてきたのか、どんな資格をもっているのか、私は知らない。しかし、すでに指摘した保育所についての発言や、このあと指摘する育児についての発言を見る限り、とんでもない偏った間違いを多く犯している。

 明々白々の嘘をついて他人を攻撃するなど、これほどの人格破綻を示している田中が、育児や政治という重要な分野で指導者としての役割を演ずることによって、大きな弊害が生じているのではないか、また今後生じる可能性があると、私は声を大にして警告しておきたいと思う。

 

名前を茶化す非礼かつ卑怯なやり方

 さて、『「主婦の復権」はありうるか』に対する反論に入ろう。

 田中喜美子はその本の冒頭で、私の「道義」という名前を取り上げて、

 

 名は体をあらわすというけれども、「道義」の名前どおり、林さんは道徳的な方なのである。

 いま、「道徳的」であるということは、ほとんど天然記念物的希少価値になっている。

 

とまずそのことを褒めるふりをする。「天然記念物」と言われたから褒められたのかな、大切にされるのかなと思ったら、まるで逆だった。それは「道徳的=古い」という図式をもちだす伏線なのである。次に彼女はこう述べる。

  しかしどうしてか、そうした感覚を備えている人々の発言は、奇妙に古くさい。(中略) 私たちがある言論を『古い』と感じるということは、それが人々が生きている現実から遊離して、誤った事実認識の上に行われているからではないか、と思う

 

  この本の最大のマイナスは、林さんが主婦の生きている現実をほとんど知らないまま、筆をふるっておられることにある。

 

 田中は私が「古い道学者的な人間」であると見せかけようとして、「道徳的」→「古い」→「事実誤認」というレッテルを貼るために、私の名前を前面に出すという作戦をとった。こういうやり方は、社会的訓練を経ていないある種の女性が陥る通弊である。論争をするときに、相手の名前を道具に使うなどということは、社会的訓練を経た人間、正常な人権感覚をもった人間は絶対にしない。それは相手の人格に対するアンフェアな侮辱になりかねないからである。

 人間の名前には、親の願いや期待はもちろん、本人のさまざまな思いや感情がかかわっている。本人がその親の希望を快く感じ誇りに思っている場合もあれば、逆に不快に感じていたり迷惑に思っている場合もある。名前には複雑な思いや感情がこもっているものである。名は体を表わす場合もあるし、名とは似ても似つかない、名前とは正反対の人間になっている場合もある。本人がどういう思いをもっているかを知らないままに、名前について批評することは、知らないあいだに相手を傷つけるかもしれないのである。だから社会性を身につけた大人は他人の名前を公式の場で批評するなどということはしないし、ましてや論争の道具に利用するなどという非礼かつ卑怯

な真似はしないものである。

 田中は論争のマナーやルールを心得ていないというだけではなく、相手の人格や人権を尊重していないと言わざるをえない。はじめから読者に、自分の論争相手に対するマイナスの先入観をうえつけ、自らの論を有利にすすめようという戦略しか頭にないのであろう。

 

「事実誤認」というデッチ上げ

 

「現実を知らない」という宣伝

 内容に入ろう。

 この本の批判点はただ一つ、「林道義は現実を知らないで発言している」という点だけである。彼女らの戦略は、「林は主婦についての現実を知らないままに、空論をもてあそんでいる」と見せかけることである。事実や現実を重視するのなら、どうして私が提起した事実(たとえば離婚した親の子どもたちがどれほど傷ついているか ― 20年後にまで悪影響が出ている)を無視することができるのか。そして、「現実を知らない」はずの私の発言に対して、専業主婦たちからどうしてこれほどの反響があるのか。各種の新聞や雑誌で「専業主婦特集」をするたびに、新記録と言えるほどの反響が寄せられている。現実を知らない発言が、専業主婦たちの琴線 (きんせん) にふれるはずがないではないか。

 田中らは、私の発言はすべて「事実誤認」に基づいていると主張している。「事実誤認」など一つもありはしない。私が捉えている「主婦の現実」と、『わいふ』に寄せられる投稿から感じられる「主婦の現実」とが、まるで違っているというだけの話である。ところが田中たちは、自分の理解している「現実」だけが「本物の現実」で、私の捉えている現実は事実ではないと言う。ずいぶんと思いあがったものである。田中はふたことめには、「23年間『わいふ』の編集をやってきて、主婦たちのことはわかっている」と言う。しかし逆に言えば、23年間も同じことをやってきたために、現実を偏って見るようになってしまったのでないだろうか。しかし彼女にはそういう謙虚な反省はまったく見られない。

 もし私に「事実誤認」があるのならば、「事実誤認」をもとに組み立てられている私の本はすべて根拠を失い、捨てられる運命にある。逆に言えば、彼女らの言う「事実誤認」が「事実誤認」でないことを論証すれば、彼女らの批判は根拠を失うことになる。彼女らの言う「事実誤認」が本当に「事実誤認」なのかどうか、調べてみようではないか。

 

フェミニズムに影響力はないという奇妙な自己弁護

 田中がまず槍玉 (やりだま) に挙げる第一の「事実誤認」とは、「主婦が『自信喪失』したのは、『フェミニズム』のせいである」という命題である。

 私はフェミニズムの「働け」イデオロギーが、職業について働いていない(けっして働いていないわけではない)専業主婦たちを憂うつにし、自信を失わせていると指摘した。それが事実と合致していることは、『主婦の復権』によって自信を取リ戻したという読者からの手紙がたくさん来ていることからも明らかである。これが「事実誤認」だと言うのならば、田中は次の二つのことを証明してみせなければならない。

(1)フェミニズムは専業主婦批判をしていない。

(2)もししていても、その批判は影響力がない。

 しかし(1)については、フェミニズムが専業主婦批判をしてきたことは誰の目にも明らかである。では(2)だが、その批判は影響力をもっていないであろうか。大きな影響力をもって専業主婦たちを悩ませているというのが、私の判断である。悩まされてきた多くの主婦たちの訴えを私は聞いてきた。私はたんなる机上の空論をもてあそんでいるわけではないのである。それに対して田中は、「 幸か不幸か、フェミニズムにはそんな『偉大なる影響力』は、ない」(p.13) と言いきる。しかしそれについての論証はなされない。「フェミニズムには影響力はない」と御託宣を下して終わりである。これでは私が「事実誤認」をしているということの証明にはなっていない。「事実誤認」を批判するのなら、御託宣ではなく、事実をもって証明してみたまえ。

 考えてみれば、「影響力がない」という弁護の仕方は奇妙である。ずいぶん歯切れが悪い。なぜ堂々と「フェミニズムは悪い影響など与えていない」と言いきらないのか。まるで「影響力がなければ、どんな悪いことを言ってもいい」と言っているかのようである。

 だいいち、フェミニズムにたいした影響力はないというのは、事実とはちがっている。フェミニズムの悪影響は世の隅々にまで行き渡っている。たとえば、さきにも述べたとおり、いまの女子高校生や女子大学生の中で、「私は専業主婦になりたい」と言うと、いっせいに驚きと軽蔑の嵐に会う。それほどまでにフェミニズムの「働け」イデオロギーは若い女性たちのあいだに浸透しているのである。この若い女性たちの「働け」イデオロギーは、じつは母親である専業主婦の中にも「働け」イデオロギーに影響された者がいて、「自分はできなかったけれども、あなたたちは職業をもちなさい」と日々言いつづけていることも影響しているのだ。

 もう一つ事実を挙げよう。あるテレビで、子どもを放置したり虐待して殺してしまった「ヤンママ」数人にインタビューしていたが、全員が同じようにこう言っていたのが印象的であった。「母としてよりも女として生きたい」と。この言葉は天野正子がその著書で書いたのをはじめ、ここ20年来フェミニストたちが機会あるごとに発言してきたフレーズである。「ヤンママ」たちは、この言葉がフェミニズムのキャッチフレーズだということを知らないだろう。しかし言葉だけは一人歩きして、確実に若い女性たちに影響を与えているのである。これでもいまの日本においてフェミニズムにはたいした影響力はないと言い逃れるのか。

 

解釈と事実認識を混同

 さて、私が犯している第2の「事実誤認」とは、フェミニストの「議論の背後には、楽で幸せな者としての主婦へのジェラシーが潜んでいる」という命題だそうだ。

 この命題は事実に関する命題ではない。私の解釈、判断、意見の部分である。つまり心理学的な解釈であり、それが間違いだというのなら、別の解釈を対置させたらいいだけの話である。判断に関する命題を、事実認識に関する命題であるかのように扱うのは、悪質なすりかえである。そもそも「ジェラシーが潜んでいる」ということについては、「事実であるかどうか」を決めることなどできないのだ。つまり反証可能性のまったくない事柄について、事実誤認かどうかを決めることは不可能である。私は「事実」問題として、ジェラシー云々を言ったのではない。それは私の診断である。その診断に文句があるのなら、別の診断を示してみたまえ。どちらの診断が正しいかは読者が判断するだろう。

 

事実をごまかしているのは田中の方だ

 第3の「事実誤認」とは、「根拠のないアジテーションに影響されて、多くの主婦が家庭を捨て、外で働く道を選択した」という命題であり、それは田中喜美子が「最大の事実誤認として」指摘したいことだそうだ。

 この私の文章に対して田中は、「日本人は、思想や、理念や、イデオロギーにおどらされて、平穏無事な日常生活をかなぐり捨てるような気質を持ってはいない」と言い、「主婦たちとて同じこと」、彼女たちはフェミニズムの影響など受けていない、と結論する。その証拠にと彼女は図を示してみせて、日本人の女性はずっとM字型の就労形態を示している、したがって子どもをもつ日本の女性たちはフェミニズムの宣伝にもかかわらず、「働く女性」にはなっていない、と言っている。

 ここには、「事実に」関する田中得意のごまかしが使われている。1970年から1995年までにM字の真ん中の低いところが10パーセントも上がっているのに、田中は「基本的にM字のまま」だから、「日本の女性」は「社会に出て『働く』ことよりも、いまなお子どもを生み、自分の手でその子を育てる道を選んでいる」と結論している (p.24)。しかし10パーセントというのは、実数にするとたいへんな数である。実際には30代の女性の有業人口は、その25年間で数10万人という規模で増えている。この数字は「多くの主婦が外で働く道を選択した」という私の認識がけっして事実誤認でないことの、なによりの証拠ではないのか。

 

M字型就労形態への賛否を問うているのだ

 さて、第4と第5の「事実誤認」の部分を書いたのは、鈴木由美子だそうだ。

 第4の「事実誤認」とは、私が「フェミニストは主婦の再就職に反対している」と認識していることだそうだ。これは「突拍子もない」事実誤認だと断定されている。

 他人の書いたものを読むときには、どういう意味で言われているのかを、正確に読みとるべきである。私が言っているのは、母性を重視しながら女性が働くためにはM字型就労形態が理想であるから、われわれはそれが有利になるように運動すべきなのに、「現在の」フェミニストたちの「大部分」はM字型就労形態に反対しているという事実を述べたものである。そのことを言うために、「再就職」という言葉を使った。

 それに対して鈴木由美子は、「過去の」フェミニズムが主婦の再就職に反対するどころか、それを要求してきたという事実を対置して反論したつもりになっている。しかし私は、過去のフェミニズムが女性の再就職に反対したなどとはひとことも言っていない。第一、私は女性の再就職一般について言っているのではなく、M字型就労形態に関して「再就職」という言葉を使っているのである。

 現在のフェミニストのほとんどがM字型就労に反対していることは、フェミニズムが一律に「保育所拡充」を唱えていることからも明らかである。これは「乳幼児の母親も働ける社会」を目指しているものであり、M字型就労の否定を意味している。つまり、現在のフェミニズムは、子育てのときはいったん仕事をやめて、子育てが終わったら仕事に戻るという「再就職」型を否定しているのだ。それに対して私は「乳幼児の母親は働かなくてもいい社会」が理想だと言っている。私の言っていることは、絶対に「事実誤認」などではない。もし、私の言っていることが「事実誤認」だと言うのならば、M字型就労に賛成しているフェミニストが半数以上いることを証明

してみたまえ。実際にはほとんどいないだろう。

 

勝手に言いかえて罪をなすりつける手口

 次に、鈴木由美子が槍玉に挙げる第5の「事実誤認」とは、「女性は他人にそそのかされて行動する」という命題だそうだ。これを見て、こっちがびっくり仰天した。そんな命題を私はただのひとことも言っていないからである。その証拠に、この命題にだけは引用頁が書かれていない。私が言った言葉ではないから引用頁が書けないのだ。これはデッチ上げなどという生易しいものではなく、冤罪 (えんざい) である。

 こんな命題を、どうして私が言っていることにされたのかと思って読んでみたら、要するに私の「フェミニズムが主婦に悪影響を与えている」という言説を勝手に言いかえたものだということが分かった。

「フェミニズムが主婦に悪影響を与えている」という命題が、どうして「女性は他人にそそのかされて行動する」と同じ意味になるのだろうか。こんな乱暴な同一化は、何度も言いかえを繰り返しているうちに、少しずつ意味を変えていかない限り、不可能である。すなわち次のように、何度も言いかえをしなければならない。

「主婦が悪影響を与えられている」→「主婦とは影響を与えられる (主体性のない) 存在だ」→「女性とは影響を与えられる存在だ」→「影響を与えられた者は、かならずそのように行動する」→「影響を与えるとは、そそのかすことと同じである」→「女性は他人にそそのかされて行動する」。

 このように5回も言いかえないと、「女性は他人にそそのかされて行動する」という命題に辿りつかない。これがデッチ上げでなくて何であろうか。

 私は「悪影響を与えられている」とは言ったが、影響を与えられた人たちが、全員そのように行動するとは言っていない。影響を与えられてそのとおりに行動する人もいれば、その影響について悩んでいる人や、いったん影響を与えられてもやがて批判するようになる人もいるし、考え方には影響を与えられても行動にまではいたらない人もいる。

 ところが鈴木由美子の手にかかると、「影響を与えられる」と言っただけで、「そそのかされて行動する」という意味にされてしまう。このやり方ならば、誰にでも、どんな罪でも着せることができるだろう。

 鈴木由美子の書き方はじつに感情的である。私が「主婦はフェミニズムから悪い影響を受けている」と言っているところを読むと、ただちに「連想」が働いて、妻が夫になにか提案をすると「どうせ、樋口恵子あたりがテレビで言ってたんだろ」という反応をされた話を思いだす。そしてそれに対する反感まで私にぶっつけてくる。私がそういう反応をした当の夫であるかのように、だ。いままで経験した腹立たしさに目がくらんで、人の言っていることを客観的に読みとることもできなくなっているのである。

 鈴木は私が「主婦は外からそそのかされて悪くなった」という発想に終始していると批判しているが、こういう言い方も、私が主婦をばかにしているように見せかけるためのすりかえである。私は悪影響を与えているフェミニズムを批判しているのであり、その悪影響に対して主婦が主体性をもって接していないとか、そのまま全員が影響されているなどと言っているわけではない。批判の矛先は君たちフェミニストなのだ。ところが田中と鈴木は堂々と反論するかわりに主婦たちに向かって、「あなたたちは主体性がないといってばかにされているんですよ」「林はあなたたちを子ども扱いしているんですよ」と自尊心をくすぐる言い方をして、自分たちへの矛先をかわし、批判には「私たちの影響力なんてない」とごまかす。フェ理屈によって問題の本質をすりかえ、ごまかすテクニックだけは発達している。じつに汚い、卑劣な論争の仕方をするものである。

 

姑息な目くらまし

 私を批判するために田中らのとった作戦は、私の『主婦の復権』が「事実誤認に基づいている」と見せかけるというものであった。彼女らは私が「常識」を知らないようなので教えてつかわす、としてデータなどを使って「常識」を詳細に解説してくれている。それだけのために一冊の本を書いてしまう、そのエネルギーに私は感心させられた。しかし感心したとたんにわれわれはだまされているのである。

 そんな「常識」は私も先刻承知である。私の本はその「常識」とやらを知らないから生まれたのではない。訴えたい現実があるからこそ書かれたのである。

 ところが「事実誤認」とやらをデッチ上げておいて、そこに注意をもっていき、肝腎の私が論じている現実から注意をそらすというのが、彼女らの狙いなのである。その証拠には、彼女らは、私が中心的に論じている「働け」イデオロギーについても「母性」についても、噛み合うような反論をまったくしていない。『「主婦の復権」はありうるか』という本は、問題の中心から目をそらすようにさせるための、姑息な目くらましである。この本について東京ウィメンズプラザ館長の佐藤洋子が書いた書評を、前出の『諸君!』の論文の中で田中が引用しているが、「 女子大学の教師に向かって、この『常識』ともいえるこれらの内容を、改めて説明しなければならないことに、私は密かな絶望を感じないではいられないのだ」ということである。「女子大学の教師」とはもちろん私のことだが、この書評こそ、「事実誤認」という目くらましに見事に引っかかった(ふりをした?)好例である。

 田中らが「林はこんなことも知らない」と言ったのに対して、書評をする者は、私の本もよく読んでみた上で、本当に私が知らないで言っているのか、または田中らが「事実誤認」と言っている方が間違いなのかを正確に判断し、発言すべきである。

 しかし佐藤洋子はそういう面倒な手続きをとらないままに、軽率にも田中らの判断をそのまま信じて、私を弾劾 (だんがい) していることになる。それとも、きちんと私の本と読みくらべた上で判断を下したとでも言うのか。それなら、佐藤の読みとりの理解力は相当に劣っていると言わざるをえない。いずれにしても、東京ウィメンズプラザ館長の地位にある者が、公平な精神をもっていないか、あるいは読解力のないことに、私の方こ

そ絶望を感じないわけにはいかないのである。

 

間違った現実認識

 田中は私が主婦たちの現実を誤認していると批判した上で、自分たちの現実認識を披露する。田中は最初にこう豪語する。

 

いささかうぬぼれじみるが、首都圏で暮らしている30代、40代の日本の主婦たちの暮らしの現実を、『わいふ』の編集部ほどよく知っている人々はないと思う 」(p.49)。

 

 しかし、これはうぬぼれではなく、はったりである。自信ではなく思いあがりである。なぜなら『わいふ』編集長の田中はけっして現実を正しく理解していないからである。

 田中はふたことめには「『わいふ』編集長」をもちだして、主婦のことはなんでも分かっているかのように言っている。しかし田中は本当の現実をまったく分かっていない。いや見たくない現実を見ないようにしていると言うべきか。

 

『わいふ』では現実を把握できない

 田中は『わいふ』への投稿を23年間見てきたから、自分は主婦たちの現実をよく知っていると主張している。しかし投稿だけで現実を把握できるわけがないのである。たとえば『猫』という雑誌があったとして、そこへの投稿だけを見て「人間とは猫好きな存在である」と結論する人はいないだろう。

 投稿ばかり見ていると現実を把握しそこなうのには、2つの理由がある。

 第1の理由は、雑誌というものは、その性格が決まってくると、読者や投稿者の性格も偏ってくるからである。しょせん『わいふ』は本質的には同人誌である。偏りは免れない。第2の理由は、色眼鏡で見ていると大切な現実を見落とすからであり、また見る目、感じる心をもっていないと、目の前に現実があっても見落とし、現実を間違って解釈するからである。2、3の例を挙げてみよう。

 田中は私が引用した『朝日新聞』の「ひととき」欄の投稿の中から、「見落とせない言葉」を発見した。その投稿を私は、けっして豊かではないであろう主婦が生活の中でいかに「ゆとり」を見いだしているかという意味で引用した。その中から田中が取りだしたのが、「(専業主婦の)私は、夫や子どもたちの休みの日は忙しい」という部分である。この部分を評して田中は「家にいるとき、母親が『忙しい』のは、もちろん彼女が子どもたちの小間使い役に徹しているからだ」(p.68〜69) と断じている。そして「林氏が望む主婦役割とは、実にこの小間使い役なのだ」と決めつける (p.67)。

 田中という人はどうしてこうも、人間と人間の関係を物質的・機能的な次元でしか見ることができないのであろうか。家族のみながいる休みの日に主婦が忙しいというと、主婦は家族の小間使い役だからだと決めつける。主婦を貶めるための言葉を発見する名人である。どうしてこうも主婦の仕事を貶めなければならないのだろうか。

 なるほど主婦の中には、子どもを甘やかす小間使い役になってしまっている人もいるかもしれない。しかしみながそうだとは限らないだろう。家族との「つきあい」のために忙しい人もいるはずである。家族と心の交流をする、たとえば子どもと一緒に料理を楽しんだり、家族でスポーツをしたり、団欒をセットしたり……、そういう心の交流をアレンジするのも、主婦の役割であり、またやりがいのある仕事ではないだろうか。

 そういう心の面を見ないで、主婦とは小間使いをしているものだという「物質的な」見方をするだけでは、本当に主婦の現実を理解しているとは言えない。

 次に田中が挙げている「不満をもった主婦」の例を見てみよう。

 

「子育てって何よこれ」と思い出したのは、長女が生まれて一か月たつかたたないかでした。おきまりの密室育児。実家も遠く、友人も遠く、加えて本当は仕事をしたいという思い。半径10メートル以内の行動

 どこにも行けず、誰にも会えず、何もできず。天気が晴れていることさえ自分には何の関係もないと思うと情けなく腹立たしく、大声をあげながら道を髪振り乱して走りたいと何度も思いました。

 子どもを持つ喜びはもちろん私にもあります。ですがそれと引き換えに失ったものがどれほど多いか。育児の幸せが得られたのだから私は満足しなければならないのでしょうか。

 いえ、やはり私は満足できない。(p.83) (下線筆者)

 

 これについて田中は、こうコメントしている。

 

 ここで注意していただきたいのは、この人のむなしさ、腹立たしさが、まったくフェミニズムとは無関係だということである。この文章にはフェミニズムの影はどこにもない。(p.84)

 

 このコメントには、「とにかくフェミニズムとは無関係」ということを強調して、フェミニズムを免罪 (めんざい) したいという心理が見え隠れしている。「フェミニズムの影はどこにもない」と言うが、じつはこの女性の投書ほどフェミニズムの悪影響を丸出しにしたものはないのである。「おきまりの密室育児」「本当は仕事をしたいという思い」「(子どもと) 引き換えに失ったものがどれほど多いか」、これらの言葉はまさにフェミニズムの影響をはっきりと示している。もちろんこの女性は、フェミニズムという言葉を好きでないかもしれないし、自分ではフェミニズムの影響など否定するかもしれない。それでもその心理のあり方ははっきりとフェミニズムの刻印を帯びているのである。

 この女性が、次のような思想をもった編集長から、なんの影響も受けていないはずはないのである。田中は10年前にこう書いている。

 

女は、その本来の愛の力を取り戻すために、孤独なマイホームに閉じこめられた、妻役割、母親役割から解放され、外に向かってはばたかなければならないのである。この点に関して、私は一点の疑いも持っていない」(『エロスとの対話』新潮社、p.226) (下線筆者)。

 

 この下線部分と、さきの投稿女性の文章の下線部分をくらべてみれば、それがいかに同じ心理と思想を表わしているか明らかであろう。これらはフェミニズムに特有の心理と思想を表現しているのである。「フェミニズムの影はどこにもない」とはとうてい言えないはずである。

 そのような投稿から、田中は、いまどきの若い女性たちは「何を選ぶにしても、それは自分のためであり、他の誰のためでもない」という意味を汲みとっている。対するに、私はこの投書の中に、これまで何度も述べてきたように、「子育てだけ」では満足できない「青い鳥コンプレックス」を感じるし、また根深く進行している「母性喪失の病理」を読みとることができる。同じ投書からも、なにを感じとるかで大きな違いが生ずるのである。

 

見る目、感じる心がない

 もう一つ例を出そう。さきにも述べたが、小中学校の先生たちと本音で話していると、よく出てくるのが、「いじめなどの問題行動を起こす子どもは、かならずといっていいほどに、保育園育ちです」という言葉である。また保母の中には園児を虐待する者がいるという事実もあるし、保母の質が低下しているという声もよく聞く。田中がもちあげる「保育の専門家」の中にも、保育の落第者がいるのである。

 こうした「現実」は『わいふ』には投稿されない。『わいふ』だけでなく、そんなことを発言しようものなら、たちまち「差別だ」と集中攻撃される。田中もやはり、私がちょっと保育園を問題にしただけで「林氏は保育園に異常な敵意を見せる」(『諸君!』1999年8月号) と攻撃する。私は保育園そのものに「異常な敵意」を見せたことはただの一度もない。ただ保育園にありがちな弊害を正当に指摘しているだけである。田中は育児の「現実」について、過干渉にしか目がいかなくて、母性不足の問題を認めたくないらしい。現実を目の前にしても、見る目も感じる心もないのである。

 また離婚によって子どもたちがどれほど不幸な境遇に落とされているかという「現実」も、彼女は必死になって見ないようにしている。離婚によって子どもたちの心に空洞が生じている、また、親が離婚した子どもたちの犯罪を犯す率や心の病にかかる率は、そうでない子どもたちよりもはるかに多いという現実について、私は『主婦の復権』で指摘したが、それについては堅く沈黙を守っている。

 その現実はたとえばアメリカでは、離婚後の子どもに与える影響を十五年も追跡調査した研究 (ウォラースタイン、ブレイクスリー著『セカンドチャンス 離婚後の人生』草思社) の中に詳細に実証されている。この現実はアメリカだけでなく、日本でも同じである。たとえば法務省の『保護統計年報』によれば、昭和54年から平成9年まで、「二号観察」 (少年院を仮退院した者) の居住状況は、受入者 (同居者を示す) が「父のみ」の者が約10パーセント、「母のみ」が約20パーセントとなっている。全体の中での一人親をもつ子どもの割合が3パーセント (『平成7年国勢調査報告』総務庁統計局編、日本統計協会) であることを考えると、この数字のもつ意味の重大さがわかるだろう。つまり、一人親の子どもは重い犯罪を犯す(少年院に入る)確率が10倍も高いということなのだ。「愛が消滅したから離婚した、子どもとはつながっている」と簡単にかたづけていい問題ではないのだ。田中はなぜか離婚のマイナス面という「現実」に面と向かうことを避けている。

 田中は子どもをめぐる「現実」としては、ただ過保護・過干渉の問題しか見ていない。そして母性不足・母性解体という「現実」の方を懸命になって否定しようとする。公平に見ればどちらにも弊害があるのだが、しかし私はとくに母性喪失の方が弊害が大きいと言っているのである。それは母性喪失の中で育てられた子どもの方が人格の解体の度合いが大きいからである。

「問題は (保育園に) 預けられた子が何を言っているかということよりも、その子がどんな人間として育っていったかということにある」(『諸君!』1999年8月号) と言っているが、なにを言っているかもたいへん重要である。「保育園で淋しかった」という証言はけっして誘導尋問の結果出てきたものではなく、切実な心の叫びなのである。「その子がどんな人間として育っていったか」についても、保育園育ちの方が攻撃性が強くなる、がさつになる、他害的になると、証言している関係者も多い。保育園とは、田中が「大きな望みをかけている」ほどに理想的なところではないのである。田中は保育園についての「現実」を見誤っていると言わざるをえない。

 

独善的な因果解釈

 田中らの現実認識の問題点を明らかにするのに、見逃すことのできないのが『「主婦の復権」はありうるか』の第2章である。

 この本は、知っていることや言いたいことをずらずらと並べているので、論理の筋道をたどるのに苦労する本である。その上、1行ごとに間違っていると言えるほどに批判すべきことばかりであるが、いちいち批判していてはキリがない。そこで、田中らの中心的な論理の筋を抽出し、それを分析し批判したいと思う。

 田中らの言う「現実」は、次のような因果の連鎖から成り立っている。

 

 (1) 主婦の仕事は生産的でなくなった。

 (2)生産的でなくなった主婦は、子育てにのめりこみ、生きがいを子育てに見いだした。

 (3) 子育ては「密着育児」になり、過干渉になり、子どもを甘やかすようになった。

 (4)そのため子どもから「生きる力」が失われた。

 (5) 子どもの「生きる力」を養うためには、保育所に預けるのがよい。

 

 このように、田中らの因果論は、「主婦の仕事は生産的でなくなった」という「現実認識」から出発している。それを大前提にして、次に「そういう主婦たちのエネルギーが子育てに注がれ、密着育児の弊害を生み出している」という「現実認識」となる。いかにももっともらしいが、これもまた、典型的なフェ理屈である。最初の大前提に賛成してしまうと、「主婦は暇だから子どもにかまいすぎる」「だから子どもは保育所に預ける方がよい」という一方的な結論になる。そういう一方的な結論はおかしいと思えるが、どこでごまかされたかを見やぶるのは案外むずかしい。

 

主婦は生産的でなくなったか?

 まず第一に、大前提とされている「昔の主婦は生産的であり、現代の主婦の仕事は生産的でない」という命題を検討してみよう。

 田中の意見によると、主婦の歴史を見ると、サラリーマン家庭の家事は、生産的な側面を急速に失ってきている。昔は食事を作るのも、洗濯をするのも、衣服を作るのも、みんな自分でやった。いまはそれらの仕事を電気器具がやってくれるし、食事でさえも買ってくればすむ時代になった。主婦の生産的な仕事はほとんどなくなってしまった。

 この「現実認識」を田中は大前提として最初にもってくる。ところが、この大前提がおかしいのである。というのは、田中らは「生産的」という言葉を物質的な意味でしか使っていないからである。食事や衣類を自分で作っていたという意味で「生産的」という言葉が使われている。

「生産的」という言葉をそのような意味に限定してしまうと、現代の主婦は生産的でないことになり、私が「主婦の生活は生産的である」と言ったのは間違いだということになってしまう。私は物を作るという意味だけで「主婦の生活は生産的」だと言ったのではない。むしろ精神的な意味に重点をおいて「生産的」と言っているのである。

 たしかに私は「食料が加工され、衣服も作られ」とも言っているので、そこだけ抜きだして引用すると、いかにも物質的な加工を生産的と言っているかのように見せかけることができる。しかし私は続けて「住居も整えられ、人間的な愛情が育まれ洗練され、子供が育てられる。これほどに人間的な生産の場がほかにあろうか」と言っている。私の専業主婦論の全体の趣旨は、主婦の仕事が家庭のマネージメントにあり、家庭の運営、家政の専門家だという点にある。その他にも、芸術を生みだしたり、趣味ですばらしい作品を作ったり、エッセイや本を書く人もいる。けっして生活に必要な物を作る仕事がなくなったら、生産的でなくなるというものではないのである。一言半句を抜きだしてケチをつけないで、言っていることの本質的な意味を理解してほしいものである。

「生産的」という言葉を、そのように精神的な意味で理解するならば、現代の主婦が生産的でないとはけっして言えないであろう。怠惰な主婦や遊び歩いている主婦は別として、教養を積み、趣味を豊かにし、家政を工夫して営み、子どもを愛情をもって育て、社会問題に関心をもって勉強したり運動したりしている主婦たちは、精神的な意味できわめて生産的な生活を送っていると言うことができる。

 彼女たちはけっして暇をもてあましていないし、エネルギーのはけ口がないために子どもにのみエネルギーを注ぐ、という状態にあるのではない。そのような現象は下手なエネルギーの使い方をしている一部の主婦の例である。一部の悪い例を、全体の傾向であるかのように言うのは間違いである。暇をもてあまして「小人閑居 (しょうじんかんきょ) して不善をなす」のは主婦だけではないし、逆に職業についている人たちが不善をなさないわけではない。

 主婦の生活の悪い例には、別の型もある。それは家政を軽視して、「働きたい」願望が強く、そのために子どもにエネルギーを注げないという主婦たちである。この人たちは、一見「密着育児」のためにイライラしているように見えるが、しかし実態を調べてみると、ぜんぜん「密着」などしていないのである。「子どもに正しく密着できない」病とでも言うべき状態なのである。子どもからリビドー (心的エネルギー・心的関心) が引きあげられている感じである。

 田中は、「家事や育児がもともと嫌いな女性もいる」と、嫌いなことが遺伝的な性質であるかのような言い方をしている。しかし家事や育児が嫌いなのは、育てられ方に原因があることの方が多いのである。

 また田中は「母性欠如」が問題なのではなく、「過干渉」が問題なのだと言っているが、それは現実を正しく見ているとは言えない。問題にすべきは両方であり、それはどちらも「母性の異変」という問題なのである。

「母性の異変」が起きているのは、現代の母親たちに暇ができすぎたからだという見方は、あまりに単純で、あまりに表面的にすぎる。「母性の過剰」にせよ「母性の喪失」にせよ、それは本能的なレベルでの母性の異変である。どちらも自分の子ども時代に母性が不足していたことに対する反動として起きているのである。すなわち自分の母親の母性不足の程度がそれほど極端でない場合には、自分の子どもにだけは愛情を注いでやりたいという形で現われるし、もっとひどい母性欠如で育てられると自分も母性喪失になり、子育てがいやでいやでたまらなくなるのである。

 このように母性の問題はさまざまな現われ方をしているし、原因も一つではない。単純に主婦に暇ができたせいにするのは、あまりにお手軽な因果論である。

 こんな一方的な因果論を操って、偏った現実認識に導いていくのは、たんに理解力が乏しいというだけではなく、もっと隠された理由があるのではないだろうか。隠された動機は、因果論を逆にたどってみると見えてくることが多い。つまり結論からさかのぼって見るという方法である。

 田中の結論は「子どもにとって保育園は生きる力を与えてくれる理想の場だ」というものである。彼女はこれを言いたいのだ。保育園は働く女性にとって、必需品である。そういう利害から保育園神話が唱えられている。「保育園では生きる力が育まれる」と。

 それを言うためには、母親の手で育てると甘やかされるので「生きる力がなくなる」ことにしなければならない。母親が育てると甘やかすのは、母親が暇なせいにしよう。暇になったのは、家庭の中に生産的な仕事がなくなったせいにしよう。

 このように、逆にたどってみると、大前提とされた命題の意味が浮かび上がってくる。それは保育園神話を正当化するための「作られた現実認識」だったのである。

 以上で、田中らの「現実認識」や「育児論」なるものが、いかに意図的に歪められたものであるかが明らかになったであろう。こんなおかしな内容の本と、田中の素人育児論を書いた本とが、『朝日新聞』でほめられ、紹介されている。いわゆるフェミニストの仲間褒めであろうが、田中のいい加減な素人育児論の弊害が明らかになったとき、どう責任をとるというのであろうか。

 さきにも述べたが、田中らは「NMS (ニュー・マザリング・システム)」という子育てに関する通信講座を主宰している。自らが母性喪失者である上に、「母は盲目だから、自分では躾をできない」などという「理論」をもっている者が、子育ての指導をするとは恐ろしいことである。田中らは、なんでも商売にしてしまう。こんなところに相談に行かないように、私は世の母親たちに声を大にして警告したい。