フェミニズム批判

 

5 林-田中論争

  (4) 林-田中論争は「泥仕合」であったか

 

 雑誌『中央公論』平成12年10月号に広田照幸氏の「なぜ林道義氏は人気があるのか」という評論が掲載された。

 私による「フェミニズム・バッシング」が人気を博しているが、その人気の理由を探ろうという趣旨である。

 バッシングという言葉には、「不当に叩く」「感情的に叩く」というニュアンスがこめられているので、私のフェミニズム批判に対して使うのは不当である。私はきわめて公平にかつ論理的にフェミニズムを批判しているのであり、それに対して「バッシング」という言葉を使うこと自体が、私に対する不当なバッシングである。

 それはともかく、広田氏の論旨は、私の人気の秘密を「没落しつつある専業主婦などのマイノリティが自分たちの立場を正当化してくれる」として歓迎しているからだと分析している。

 このような見方がいかに間違っているかについては、同じ『中央公論』平成12年12月号(11月10日発売)に反論「教えてあげよう人気の秘密 ─ 女性の「自立」は自明の前提か」を載せるので(本ホームページの「フェミニズム批判 7」)、それを読んでいただきたい。

 ここで取り上げるのは、広田氏の評論の前書き的な部分についてである。そこには「泥仕合を超えて」という小見出しのもとに、三つのことが書かれている。

 第一は、拙著『父性の復権』『母性の復権』について、「論証には成功していない」が、その理由は「科学的」粉飾がほどこされているものの「隠れた前提仮説や過度の一般化などによって強引に展開された、イデオロギー的主張にすぎない」からだと述べられている。

 第二は、「父性」「母性」という言葉に問題があるので、「父性」「母性」を死語にして、「もっとニュートラルな概念で子供の世話の問題を議論すべき」だと述べられている。

 第三に、林─田中論争について、「ウソをついただのつかないだのというつまらない泥仕合が展開され、論点がかみ合わないままに終了した」と述べられている。

 この三点とも私は間違っていると思うので、以下検討してみたい。

 

「フェミ男くん」のイデオロギー的言辞

 第一の批判は、「フェミ男くん」と呼ばれるフェミニズムの手先になっている若い男性たちに典型的に見られる党派的な言辞である。彼らの偏ったイデオロギーから見たら気に入らない理論に対しては、どんなに適切な論証をしていても、必ず「論証が不十分」だと感じられるのが常である。それなら具体的にどこが不十分かを言うべきである。それを具体的に言わないままに、「不十分だ」と宣伝するのは、卑怯というものである。

 「父性」について具体的に批判してきた者たちについては、彼等のほうこそ論証が不十分だったとして、すでに完全に論破した(このHPの「父性」のコーナー参照)。「母性」については、批判してくる実力と自信のある者がいないのか、正面から批判してくる者がほとんどいない。影で悪口をいいふらしているだけらしい。たとえば、「あの本は母性神話信奉者の本だから読んではいけない」とか「林道義は母性神話信奉者だから、講演を聴いてはいけない」といった噂をふりまいている。

 広田氏も、私の論証のどこがどう問題があるのかを具体的に示すべきである。

 広田氏は私の『父性の復権』『母性の復権』を「イデオロギー的主張にすぎない」と言うが、具体的論証ぬきでそういう言い方をすることこそ、「イデオロギー的主張」と言うべきである。

 

「父性」「母性」を死語にしたがる心理

 第二に彼は「父性」「母性」を死語にして「もっとニュートラルな概念」を使えと言っているが、この考えもまた「フェミ男くん」特有の主張である。彼らは男女の違いをできるだけなくせば、人間は幸せになれると信じこんでいる。

 彼は私が「父性」について「基本的には父も母も両方が持たなければならない」と言った言葉をタテにとって、「子供の世話をする人間一人ひとりに、規律と情緒的つながりの両面があるべきだし、それが当たり前だと思う」と述べている。

 この主張もフェミニズムに特有の「半分こイズム」である。「男も父性と母性の両方を持つべきだ」「女性も父性と母性の両方を持つべきだ」、そうなればもはや「父性」「母性」という言葉そのものがナンセンスになり、不要になる、というわけである。

 この考えは、斉藤学氏が、「乳房を持った父親」という気持ちの悪い表現で言おうとしたことに通じている。つまり彼は父親も母性を持つべきだということを、そういう言い方で表現したのである。

 このような主張が人気を博する時代である。

 しかし父親が持つ「慈愛」と母親が持つ「慈愛」とでは性質が違うのではないかという問題意識は、彼らには出てこない。「規律」を教えるのにも、母親と父親とでは違いがあるのではないかという、誰もが感じている問題は、論じられない。私はそこのところを問題にしているのである。

 ユング心理学の用語を使えば「優越機能」と「劣等機能」という問題である。「優越」とか「劣等」という言葉は現代人には差別的な響きをもって受け取られるので、「得意」「不得意」と言ったほうが言いであろう。

 つまり男性に「父性」と「母性」を半分ずつ持てというのは不自然だし、女性に「父性」と「母性」を半分ずつ持てというのも不自然なのである。父親は「規律」を教える方が得意だし、母親は「情緒的つながり」の方が得意な人が多い。そういう違いをすぐに「社会的・文化的に作られた」と言うのは、性急なジェンダー還元主義である。少なくとも、そういう違いが現にあることを前提にして、分業をして悪い理由はさらさらないのである。

 つまり広田氏のように「子供の世話をする人間一人ひとりに、規律と情緒的つながりの両面があるべきだ」という言い方をするほうがよほどイデオロギー的な主張にすぎないのである。

 子どもを育てるのに、父と母がまったく同じような人間となり、同じような態度と反応を示すべきだとなったら、子どもは神経症になること請け合いである。そういう観念論で物を考えるところが、フェミ男くんの若さというものである。父と母は違っているほうが子どものためにはいいのである。

 

「泥仕合」にしたがる心理

 さて、広田氏は、私と田中氏の論争は「泥仕合」だった上に「論点がかみ合わなかった」と言っている。

 この二つとも間違いである。

 まず彼は「泥仕合」という言葉の意味を知らないか、故意に間違えて使っている。「泥仕合」とは、論争の双方が汚い手を使うことを言う。つまり両方が泥をぶっつけ合うという意味の言葉である。

 私と田中氏の論争においては、私は汚い手はいっさい使っていない。相手に対して明瞭に嘘を言って人格的に貶めようとしたのは、もっぱら田中氏のほうである。つまり「泥を投げて」いたのはもっぱら田中氏だけである。私はそれが嘘だということを論証したにすぎない。

 さらに言葉遣いも田中氏のほうはたいへんに下品なケンカ言葉を多様したが、私のほうはそうした汚い言葉を使わなかった。

 要するに「泥を投げた」のはもっぱら田中氏のほうであり、私はもっぱら「泥を投げるのはよくない」と反論しただけである。このような論争を「泥試合」と呼ぶのは、単に不公正であるばかりか、私に対して「泥仕合をする汚い人間」だという印象を押しつけたいという邪(よこしま)な意図があることを示すものである。

 

「嘘」かどうかは「つまらない」問題ではない

 また広田氏は「ウソをついただのつかないだのという、つまらない泥仕合」と言っている。どうして「ウソをついたかどうか」が「つまらない」問題なのであろうか。

 タダの嘘ではない。相手の人格を貶めるための嘘は、名誉毀損であり、論争におけるルール違反であり、まさに犯罪である。このような犯罪に対して、よくもまあ「つまらない」問題だと言えるものである。そう言う者の正義や倫理の感覚はどうなっているのであろうか。

 「泥仕合」でもないのに「泥仕合」と言い、「つまらない」問題でもないのに「つまらない」と言う。これは誰の目にも明らかなように、論争の当事者を共に貶め、共に葬り去ろうという意図を持っていることを示している。

 私と田中氏の論争は、フェミニズムやフェミ男くんたちから見ても、田中氏を弁護したり味方することができないくらいに、田中氏の論理は滅茶苦茶であったし、道徳的にも嘘によって人格攻撃をするなど、きわめて低劣なものであった。

 フェミニズムを代表して論争すればするほど、馬脚を表わすので、フェミニズム陣営としても困っていたというのが、真相ではないだろうか。だから田中氏はフェミニズム陣営から見放されたのである。

 フェミニズム陣営は田中氏を見捨てようとしている。しかし彼女だけを切り捨てるのでは悔しいので、ついでに林道義も切り捨てたい。そこで両方とも葬り去る方法として「泥仕合」だという言い方が出てきたのである。

 

「論点がかみ合わなかった」も嘘 

 さらに「論点がかみ合わないままに終了した」というのも嘘である。私と田中氏の論争は見事に論点がかみ合っていた。専業主婦をめぐっても、母性をめぐっても、大切な問題点はかみ合い、見事に正反対に対立していた。たとえば「幼児虐待」に関して、彼女は「専業主婦の密着育児が原因」と言い、密着させないように、母親は子どもを保育所に預けて働けば解決すると言った。私は「正しく密着できない」ことに問題があるので、「密着それ自体はむしろ必要」であり、「母性を回復する手だてを考えるべきだ」と言った。

 このように、この論争ははっきりとかみ合い、それを通してフェミニズムの問題点がじつに明瞭になった。

 「泥試合」といい「かみ合わなかった」という言い方の中には、論争そのものを貶め、その中で暴露されたフェミニズムのうさんくささに蓋をしたいという心理が働いている。

 

 この論争のうち、私の論文は拙著『フェミニズムの害毒』(草思社)の中に収録されているが、書店の店頭から消えてしまい、簡単には手に入らないという苦情も届いているので、林─田中論争の「資料」として、次にアップすることにした。

 

 なお、本ホームページの「犯罪・治安」の中の「少年法 ──広田照幸氏批判」の中で広田氏を批判しているので参照されたい。