フェミニズム批判

 

5 林-田中論争

  (3) 公正感覚欠如の怖さ

    ──『ニッポンの論争・2000』の高杉裕子氏の場合

 

 これまでの言論界には、客観性とか公正というものへの「畏れ」があった。もっと正確に言うと、公正に反することへの「畏れ」のようなものがあった。著しく公正に反する言説を許さない「空気」のようなものがあったと思う。それがこのごろ急速に失われつつあると感ずるのは私だけであろうか。仮に「客観性喪失」とか「公正への畏れ喪失」と名づけておくそうした現象は、フェミニズムが関係してきたときに、とくに強く感じられるのである。

 そうした「公正喪失」現象の極め付きが現われた。

 私と田中喜美子氏の論争は意外と注目を集めているらしい。論争中に一方的な援護射撃をしたのは論外だとしても、客観的な論評という形も出始めている。

 香山リカ氏がいち早く「これだけは言わせて」(『創』1999.11)で取り上げたが、最近この林−田中論争を正面から詳細に取り上げた評論が発表された。高杉裕子「専業主婦論争」(日本論争史研究会編『ニッポンの論争・2000』夏目書房)である。

 この高杉氏の評論は客観的な紹介とはほど遠い、信じられないほどに偏った内容であり、きわめて党派的な歪曲に満ちている。

 こうした、客観性をまったく捨てた評論は評論の名に値しないが、そうしたエセ評論が論争を扱う書物の中に現れること自体が、単なる単発的な現象ではないことを示している。それは背後に大衆的な規模での公正感覚の喪失を感じさせるし、なによりも公正ということに対する編集部の感度の鈍さを感じさせる。

 

『ニッポンの論争・2000』の編集への疑問

 いやしくも「論争史研究」を名乗る組織ならば、最低限心を配らなければならないことは、論争を客観的に捉え、紹介することではなかろうか。さらに求めるなら、論争をフェアなものにし、論争の質を高めるために役立つような配慮が、編集方針の中に現われることが望ましい。できることなら、論争がフェアに行われるように育てていこうとする意識を持ってほしいものである。

 論争の内容を高め、フェアに行うことは、市民社会の成熟にとってきわめて大切なことである。民主主義の根幹にかかわる重大事だと言ってもいい。もし『ニッポンの論争・2000』の編集に関わった日本論争史研究会なる組織がそういう意識を持っていたならば、高杉氏のような極端に偏った論稿を十分にチェックできたはずである。このような程度の低い党派的な原稿を載せているということ自体、『ニッポンの論争・2000』という書物の信用性を疑う十分な理由になる。

 

公正感覚の欠如はとくにフェミニストたちに顕著

 こうした客観性と公正感覚の欠如は、とくにフェミニストたちに顕著な現象である。そのことは「(2)画一的な援護射撃の意味」においても明らかにしたが、この高杉氏の評論も、表向きは中立のようなふりをしているが、内容的には明らかにフェミニズムを批判する私を「叩く」ことを目的としている。公正であることを目指してしないどころか、逆に意図的に不公正であることを目指しているのである。

 普通の感覚があれば、論争を取り上げる者は、客観的で中立であるように努力し、少なくともその客観性を疑われないように気をつけるものである。たとえば、さきほど挙げた香山氏の評論でも、双方の主張を一応は公平に紹介しなければいけないという姿勢を示している。それは物書きとしての節度である。もしそうした節度を持っていない者がいたとしても、「公正であることを求める公衆の眼」を意識して、最低限のモラルを守らないと、物書きとして信用を失い抹殺されはしないかという恐れは持っていたものである。 しかるに高杉氏の評論には、「公正であることを求める公衆の眼」というものがまったく意識されていないのである。それはなりふりかまわぬ党派的な偏りを露骨に示し、意図的に偏ったイメージを与えようとしている(私に不利な情報をことさらに盛り込んでいる)。それどころか一方的に私を「個人攻撃する」悪者とみなして「許しがたい」と宣告を下している。

 そこには、私の相手方についても少なくとも同じ非難が当てはまりはしないか、という問題意識そのものが欠けており、公正に両者について検討してみなければならないという意識がまったく見られない。

 そのこと自体も恐ろしいことだが、それよりもっと恐ろしいことは、自分が偏っていると見られないだろうかという「畏れ」や、「もし偏りが見抜かれて指摘されたら困る」という「畏れ」がかけらもない点である。

 これほどのルール感覚・公正感覚の喪失は、高杉氏個人の問題とは決して言い難いであろう。こうした偏った評論を編集者たる「日本論争史研究会」がチェックできないで、堂々と掲載されたということは、言論界の大きな問題として捉えるべきである。という以上に、この『ニッポンの論争・2000』という書物が全体として信用できないことを意味しているのである。

 以下、この評論を取り上げて、それがいかに党派的で不公正なものかを論証し、そのアンフェアな党派性がフェミニズムの体質といかに深く関わっているかを明らかにしてみようと思う。

 

1 高杉裕子氏の露骨な党派性・不公正


 さきほど私は「この高杉氏の評論は、信じられないほどに偏った内容であり、決して客観的な紹介ではなく、きわめて党派的な歪曲に満ちている」と書いた。まさかそれほどひどいものを、いやしくも「日本論争史研究会」を名のる組織が編集している本に載せるだろうか、「それは当事者の林センセイのひがみ、または被害妄想ではないのか」と言う者が必ず出てくるものなので、まずその偏りを客観的に指摘しておこう。


(1)「林が先制攻撃し、田中が反撃した」という構図は事実に反しており、まったく逆である

 高杉氏は『諸君!』平成11年6月号の私の論文をもって「以後五カ月にわたる林と田中の壮絶バトルの先制攻撃であった」と書いている。しかし先制攻撃をしたのは田中氏の方である。私の6月号の論文は田中氏の「先制攻撃」(前年9月の大宮公民館での個人攻撃、および同年3月の『「主婦の復権」はありうるか』の出版)に対する反撃にすぎないし(次の7月号論文は前から予定していたもので田中氏とは関係ない内容である)、次の9月号の論文は田中氏の『「主婦の復権」はありうるか』と8月号の攻撃に対する反論である。この論争においては、つねに田中氏が先に攻撃し、私は終始一貫それに反論する立場であった。

 私が「先制攻撃」し、田中氏が「反撃」するという構図は、『諸君!』誌上の四回の討論だけを見て、『諸君!』誌上に私の方が先に発表したという形式的な意味でのみ言えることである。高杉氏は明らかに事実を歪めていると言うことができる。

 (ここで、「『主婦の復権』自体がフェミニズムに対する先制攻撃ではないかと理屈を言う者がいると思うが、高杉氏が問題にしているのは私と田中氏個人の論争であり、私とフェミニズム一般の論争ではない。『主婦の復権』はフェミニズム批判を含んでいるが、田中氏個人を名指しで批判している箇所は一箇所もない。)


(2)私だけが個人攻撃したように描いている

 高杉氏は、私が田中氏を「嘘による現実の歪曲」「ヒステリー性格」と評したのを「田中自身への集中攻撃のオンパレードである」と言い、「林の程度を超えた個人攻撃にはまったく辟易する上、許しがたい」と書いている。このような歪曲による個人攻撃こそ「許しがたい」ものである。

 まず「オンパレード」という表現は、そうした攻撃がたくさんある場合に使われる。しかし私の田中氏への人格批判はこの一点のみである。「オンパレード」という表現は、読者に私の論が個人攻撃に満ちているかのような誤った印象を与える、きわめて不当な表現である。私が田中氏の性格にまで言及したのは、田中氏が度はずれた嘘による人格攻撃をしたことに対して、それは人格破綻による以外にありえないということを指摘せざるをえなかったからである。

 次に「林の程度を超えた個人攻撃」という主観的判断が示される。「程度を超えて」いるという評価は、高杉氏個人の主観的判断だから、他人が文句を言ってもはじまらない。しかしその「程度」の基準は誰に対しても公平に適用されるのでなければない。同じ基準で見れば、田中氏の方が私よりははるかに個人攻撃のやり方が「度を超えている」。理論的内容以外の人格攻撃に属する罵詈雑言や喧嘩言葉の種類と回数では、田中氏の方がまさにオンパレードというほどに圧倒的に多いからである。というよりも、その種の喧嘩言葉を私はほとんどまったく使っていない。

 といって、回数を数えてみろと言っても、高杉氏には通用しないだろう。なぜなら高杉氏は、田中氏の個人攻撃を見逃すどころか、「鮮やかに喝破した」と評価し、それを個人攻撃だとは考えていないからである。この点にも、高杉氏の偏りが明確に示されている。


(3)田中氏の個人攻撃や嘘については一言もふれていない

 すなわち、高杉氏は、田中氏の私に対する「過去の暴露」と「革命を夢想した」という個人攻撃には「辟易」もしなければ、「許し難い」とも感ずることなく、「鮮やかに喝破した」と賛美する。高杉氏は私を攻撃した田中氏の下品な罵詈雑言による「個人攻撃」や、田中氏のまさに「真っ赤な嘘」を「許しがたい」とは感じない。これは基準を相手によって変えていることを意味しており、評論家としては落第である。


(4)田中氏の「楽屋話」を丁寧に紹介

 高杉氏は、田中氏が私を貶めるためにデッチ上げた「楽屋話」の内容を紹介し(これはその「楽屋話」がいかにも事実のように思わせるという効果がある)、私の反論の内容は紹介していない。これも著しく公正を欠いた扱い方である。

 さらに高杉氏は、田中氏が私を「勝手なすりかえ」「言い換えによるデッチ上げ」「言いがかり」と批判していると具体的に紹介するが、私が「田中氏こそすりかえとデッチ上げをしている」と反論していることには一言もふれない。

 こうした公正の欠如は、この例に限らず、すべての論点にわたっている。


(5)田中氏が「不毛な論争」に「ウンザリ」して「サッサと終止符を打った」というのは、事実として間違っている

 論争の場合に「終止符を打つ」とは、次に反論をすることをやめた方について言う言葉である。

 田中氏の最後の論は内容的に新しいことがまったくなく、ただの罵倒だけであると判断して、私の方が「ウンザリ」してやめたのである。これ以上いくら繰り返しても「不毛」だと判断して「終止符を打った」のは私の方である。田中氏は絶対に自分の方からやめようとはしなかった。私の論が発表されると、ただちに反論をもって『諸君!』の編集部を訪れて、掲載を要求するという繰り返しであった。

 だいいち、高杉氏は田中氏が「ウンザリ」したかどうかが、どうして分かるのか。こういう主観的な判断を勝手に挿入するところが、客観性の欠如なのである。それとも高杉氏は田中氏にだけ取材したとでも言うのであろうか。

 林−田中論争は、内容的にはとっくに勝負はついている。すなわち高杉氏が取り上げていない決定的な内容的対立は、子育ての問題点についてである。今の日本の子育ての問題について、田中氏が「甘やかすこと」「密着育児」にありと言うのに対して、私は逆に「密着できない母性解体にあり」という見方である。ところが「密着育児と言われているケースを調べてみると、母親が密着などしていない場合が多い」という私の現実認識については、田中も「これはほんとうのことだと思う」と認めたのである。それなのに依然として「幻想がはびこりすぎている」とか「林の現実認識は間違っている」と同じ歌を歌っているにすぎない。このように理論的内容にはまったく新しい主張がないので、バカバカしくなってやめたのは私の方である。

 しかるに田中氏の罵倒言葉や個人攻撃にばかり注目する高杉氏は、論争に勝ったのは田中氏の方だと判断したらしく、私が「懲りずに」すぐに次の「解体する母性崩壊」(『中央公論』11月号)という持論を展開しているとあきれたふりをしている。「懲りずに」という言葉は、「負けたのに」とか「あれほどやられたのに」という意味で使う言葉である。これは論戦の勝ち負けを罵倒言葉の勝ち負けと混同した判断と言うほかない。

 

2 論戦の内容についての理解があまりにおそまつ 


 次に、高杉氏の評論の特徴は、個人攻撃の次元にばかり目がいっていて(その見方も偏っていたが)、内容についての言及がほとんどない点である。内容について論ずるとなると、ただこう結論するだけである。「これまでの『主婦論争』を振り返ってみる時、林道義の主婦救国論が決して林のオリジナルな説ではなく、経済政策の転換点ごとに執拗に繰り返し現われる説であることがわかるだろう。」

 このように「昔からある説と同じものにすぎない」という「にすぎない」論は、相手の価値を落とすときに「昔から繰り返し」使われてきた方法である。たしかに共通点にのみ注目すれば、たいていのことは「昔も今も同じだ」ということになってしまう。しかし私の専業主婦評価は、これまでにはなかった要素を持っている。それは次の三点である。


(1)近代家族の歴史的評価

 第一は、フェミニズムが近代家族を歴史的に見て否定的に評価してきたのに対して、逆に歴史的にみたときにこそ評価できる点があることを示した。すなわち、歴史的に見て初めて家族の中に「余裕」をもった人間が現われたということである。もちろん、その余裕を下手に使っている者も多い(『主婦の復権』の第一章「醜い主婦」の項を参照)が、しかしその余裕を上手に美しく使っている者も多い(同、「美しい主婦」の項を参照)。総じて言えることは、専業主婦のメリットは、有意義に使いうる「余裕」を手に入れたと言うことができる。こうした近代家族に対するプラスの歴史的評価を含んでいる点が、従来の主婦論とは決定的に異なる点である

 高杉氏は、小見出しに「林道義の『主婦の復権』」と掲げながら、『主婦の復権』を読んでいないのではないか。その内容については一言も言及していないし、ましてや内容への理解などまったく示していない。


(2)家族単位で見ている点

 第二に、私はこの「余裕」という問題を単に主婦個人の生き方の問題としてではなく、家族全体の「余裕」という問題として捉えている。家族の中の一人に余裕ができると、その余裕は家族全体を潤す可能性がある(もちろんだからといって、夫が苛酷な労働を強制されてよいというものではなく、私は『反進歩の思想』以来30年間、働きすぎの日本的労働形態を批判してきている)。今までの主婦論争では、ほとんどすべて女性個人の生き方の問題としてしか論じられてこなかったが、私の専業主婦論の特徴は家族単位で考えている点であり、この点が従来の主婦論と異なる点である。


(3)母性と保育所の問題

 第三に、私は専業主婦の問題をとくに育児との関連、すなわち母性との関連で論じている点であり、保育所批判と関連させている点である。母性の強調というと、「昔からある」「女性を母性に閉じこめる」説と同じではないかと言うだろうが、しかし「昔からある」情緒的な母性賛美ではなく、とくに乳幼児にとっての母性の必要性を科学的実証的研究と臨床経験をふまえて提出した点が新しい点である(この論点はのちに『母性の復権』(中公新書、1999年10月刊、で詳しく論じている)。この実証的な研究に基づいて、三歳までに保育所に預けるのは望ましくないとフェミニズムを批判し、母の手元で育てられる専業主婦を評価している点にも、私の専業主婦論の独自性がある

 この問題、とくに保育所の評価の問題が林−田中論争の大きな争点であったが、高杉氏はこの論点にまったくふれていない。とくに私は『フェミニズムの害毒』(1999年8月刊)の中で特別に一章を設けて、田中の手放しの保育所賛美の危険性を批判しているが、それも読んでいないようである。

[なお、その直後に私は『母性崩壊』(PHP研究所、1999年11月刊)の中で再度田中氏を批判している。p.132以下の「田中喜美子氏の間違いだらけの子育て論」、およびp.159以下の「母性崩壊者の危険な育児助言」参照]


 以上の三点は、それぞれ切り離し、かつ形式的に見れば、たとえば「母性」問題とか「家族」問題というように表現すれば、昔から論ぜられてきた問題だとされてしまう。しかし私の説はそれらの問題点の論じ方も評価も今までにはなかったものであるし、とくにそれらの諸点を専業主婦論と関連させたものは今までにほとんど存在していない。

 これらの見方は私のオリジナルと言っても決して過言ではない。高杉氏の「決して林のオリジナルな説ではなく」という言葉は、なんとかして私を過小評価したいという心理を表わしているだけで、決して私の説を慎重に吟味した上での評言ではない。

 高杉氏は論争を客観的に読みとる能力もなく、論争を内容的に論ずる者としては完全に不適格者である。


 ただし、公正中立に対して無神経な高杉氏でも、公正なふりをしなければならないという意識を、ただ一度だけ示している。高杉氏はこう言っている。

(1)「別に田中を擁護するつもりもないし(実際に会った時はかなり居丈高な態度だナという印象を持った)」

(2)「単に体制内で発言している田中をフェミニストとみなすこと自体疑問ではあるが」

 これで中立を装うことができると思うのは、世間をなめているとしか言いようがない。どんなに中立に見せかけても、今まで私が分析してきたとおり、高杉氏の極端な党派性はあまりにも明らかである。これは単に公正らしく見せるためのアリバイ作りにすぎない。

 高杉氏が田中氏に有利に書こうとしていることは、たとえば、私に対する個人攻撃を「見事に喝破」と評価するところなどに、明々白々に現われている。


  以上を要するに、高杉氏の論争評には公正さはみじんもなく、それどころか公正さを疑われたら自身の評論そのものの信用が失われるという「畏れ」さえ欠けている。こうした党派性丸出しの言説は、かつてのマルクス主義の中に見られた病根である。たとえば、「プロレタリア芸術」「プロレタリア文学」の名のもとに、芸術や文学を圧殺したり、学問的真実を歪曲したりした。冷戦構造が消えたいま、そうした精神構造はサヨクのなかには少なくなったが、同じ精神構造を持った人間たちがいまフェミニズムの周辺で増殖しているようである。

 

3 高杉氏のフェミニズム認識の低水準


 高杉氏は私に対して「そのあまりに程度の低いフェミニズム認識には恐れ入るしかない」と書いている。では氏のフェミニズム認識はどの程度のものなのか吟味してみよう。


(1)「そのあまりに程度の低いフェミニズム認識には恐れ入るしかない」

 相手に対してマイナスの評価を公にするときは、きちんとその根拠を書くべきである。もし紙数の関係でこの評論の枠内では根拠を書けないというのならば、そうした主観的判断を書くべきではない。そういう物書きの禁欲、物書きとしての最低限のルール感覚を、彼女は喪失している。

 私のフェミニズムの「隠された動機」の評価は、フェミニズムを低く評価しているとは言えるが、低く評価しているから程度が低いとは言えない。むしろ本当の動機を喝破したとも言える。「フェミニストたちの隠された動機」として「幸せな家庭を破壊したいという動機」と「男性を支配したいという動機」を挙げる私の認識は、誰も言いたくても言えなかった真実をついたものとして、非常に多くの人々に共感され評価されている。

 そもそも、いやしくも私のフェミニズム認識を批評したいと思うのならば、一言半句を捉えて批評するのではなく、私がフェミニズムについての認識を全面的に論じている箇所くらい読んでから論ずべきである。私はまず『主婦の復権』の第二章において、専業主婦に対するフェミニズム各派の理論を総括しており、そこには私のフェミニズム認識がかなり詳しく書かれている。また『フェミニズムの害毒』の「序章」には、フェミニズム全体に共通の理論が体系的に総括されている。私のフェミニズム認識を問題にするのなら、少なくともそれらを読んでからにすべきである。

 高杉氏の批評は、自分たちに対する低い評価を、「低い認識」として否定したい心理が見え見えである。問わず語りに、自分がフェミニズムに心理的に深くコミットしていることを白状している。心理や感情が先に立った議論だから、客観的な理解をないがしろにして、相手に対する「劣等」宣告ばかりが先走るのである。


(2)「単に体制内で発言している田中をフェミニストとみなすこと自体疑問」

 では高杉氏のフェミニズム認識はどの程度かといえば、上の文がそれを示している。これを見ると、高杉氏は「フェミニズムとは本来、体制外的な思想である」という理解を前提にしているようである。体制の外にいる者でないと、高杉氏からはフェミニストとは認めてもらえないらしい。それでは、大部分のフェミニストはフェミニストでなくなってしまう。なぜならフェミニズムの中心的思想である「働け」イデオロギーは、まさに体制としての資本主義にとって、この上なく都合のいい思想だからである。

 「働け」イデオロギーによって働く女性が増えれば、女性ばかりでなく男性の賃金は下がり、資本家や経営者にとってこれほど都合のいいことはない。「働け」イデオロギーはまさに体制にとって都合のいい思想なのである。体制内で物を言っているのは、田中喜美子氏にかぎらない。女性に「働け」「働け」とアジっている大部分のフェミニストは体制内存在なのだ。フェミニズムというものはもともと体制内的な思想なのである。その中にわずかに半体制的な思想がまじっているというにすぎない。

 その証拠には、いまやフェミニストたちは大挙して官庁や自治体やジャーナリズムの中に入りこみ、数々の審議会の委員になり(その代表が公安調査委員会の委員になっている岩尾寿美子氏や山口県の副知事になっている大泉博子氏である)、体制化している。

 そういう者たちに比べたら、田中氏の方がよほど「体制外」的である。というのも、田中氏は、選挙で共産党を支持して活動した体験記を『わいふ』で取り上げているからである。もっとも、高杉氏から見たら、共産党も体制内政党に見えるのかもしれない。

 要するに、高杉氏の「フェミニズム=体制外の思想」という認識は、事実によって反論されている。高杉氏のフェミニズム認識は事実として著しく間違っていると言える。

 

4 客観性感覚と公正感覚をなくさせる思想


 田中喜美子氏にせよ、高杉氏にせよ、フェミニズムの側に立つ人間にかぎって、なぜこうも公正感覚に欠けた人間が多いのであろうか。これは何かフェミニズムという思想の体質と関係があるのではなかろうか。

 私の見るところ、フェミニズムの公正感覚の欠如は、フェミニズムが依然として「恨み、つらみ」の次元にとどまっていて、それを十分に意識化し、客観化することでその次元から脱却しえていないことと関係がある。

 「恨み、つらみ」の心理が強いと、攻撃したい欲望に、「公正でなければならない」という気持が負けてしまうのである。というより、手段を選ばぬ方法で「憎らしい相手」をやっつけたいと思うものである。

 もちろん公平に見て、その次元を脱却しているフェミニストも多くいることは確かである。しかしそういう良識あるフェミニストのコントロールが、十分に行きわたっていない印象を受ける。というより、そういう良識を持っている人でさえ、フェミニズムの陣営に入っている者を批判することをはばかる空気があるのではなかろうか。

 しかし、そうしたエセ・フェミニストや程度の低いフェミニストを断固排除する勇気を持たないと、程度の低い次元でフェミニズムというものが理解されてしまうのではなかろうか。頭脳も人格も劣等、ただ負けん気だけが強い(喧嘩言葉だけは豊富で多彩)という人間がのさばるようでは、その運動の未来は暗い。

 高杉氏のような程度の低い論説を、フェミニスト自身で批判できるようになったとき、フェミニズムは真に成熟したと言うことができ、本当の意味で広い支持を得られるようになるであろう。

 

5 男性文化否定の産物


 フェミニストの中にフェアプレーの精神がなくなっているのは、一つにはフェミニストたちが男性文化を否定していることと関係がある。

 男性中心の文化はたしかに消えていかなければならない。これからは男性も女性も対等の立場で文化を創っていくべきである。その点で反対する人は、今どきでは滅多にいないと思う。

 ただし、男女共同参画の文化を創るという場合に、今までの男性的な文化を全面的に否定し、捨ててもいいのかと言う問題が出てくる。男性文化の中で培われてきたプラスのものを評価し、生かしていく道を考えるべきだというのが、私の立場である。しかしこの問題については、おそらく意見が真っ向から対立するものと思われる。それは男性的文化をどう評価するかという問題でもある。そもそも、過去の文化=男性文化と自動的に決めつけることも考えなければならない。

 この問題について詳しく論ずる場ではないので、ここでは要点だけ述べておく。

 男性的文化は戦いと競争の文化という性質が強かった。それだけに戦いや競争をいかに公正に行うかという問題意識が強くなった。またそのためのルール作りもさかんに行われた。もちろん実際にはそのルールをいかに合法的または非合法的に破るかという競争も生まれた。しかしそこにはある種の「歯止め」もあり、公正でなければならないという精神もまた男性文化の産物なのである。

 男性文化を否定するあまり、この公正感覚を捨てて顧みない女性たちが多く出てきていることも確かである。彼女たちは「不公正だ」と批判されても痛くもかゆくも感じないだけに始末が悪い。いわば確信犯である。というより、意識的にルールをやぶり、汚い手で攻撃することを武器にしている。田中喜美子氏や高杉裕子氏はまさにその典型である。こういう手合いをフェミニストたちが自身の手で批判できるかどうかに、フェミニズムの未来がかかっていると私は思う。

  

6 境界を超えたい思想の危険


 話をもとに戻そう。

 高杉氏は最後に、「打開策」として、ドイツの女性たちの集団保育の例を挙げて、次のように結論している。

 「こうした共通の立場からの女同士の発信は、主婦と働く女という経済的分断を解体する一つの示唆になりうるだろうし、さらには同性愛者たちの相次ぐカミングアウトの中にも、現存の社会体制の矛盾や規範、母性、結婚、自然観等の枠をすんなり超えていくための回答が、隠されているような気がしてならない。

 あえてフェミニズムという言葉を介さなくとも、女と男がそれぞれの窮屈な枠組みを超えて、自由で対等な人としての生を謳歌することこそ、真に目指すべき方向ではないであろうか。」

 ここには、「規範、母性、結婚、自然観」という「窮屈な枠組み」を「すんなり超える」ことが最大の価値のように語られている。ここには境界というものが必要だったり大切だったりするという問題意識のかけらも存在していない。ただ枠さえはずして「自由」になれば、幸せになれると言わんばかりの単なるアジテーションが手放しで語られている。

 たしかに「境界を超える」というトリックスター的な視点は、社会の硬直化を批判する有力な手段である(この問題については拙訳、ユング『元型論』紀伊国屋書店、の「訳者解説」の中の「トリックスター」の項を参照されたい)。しかしその態度が日常的なものになって社会を支配したら、社会というものは成り立たなくなってしまう。「枠組みというものは必要なのだが、これが硬直化したときに人間を不当に縛り不幸にする」という見方が「枠組み」に対する正しい視点である。そういう視点に立たないで、ただすべての枠組みが窮屈でマイナスだという感覚でしか考えられない者は、単なる破壊的な思想に堕するしかない。

 「境界」を超えることがプラスの意味をもつのは、「境界」の必要性について十分に考えぬいた者にとってだけである。そういう手続きをぬきにして、ただ「境界を超える」ことだけを賛美するのは、必要な社会秩序をも破壊してしまうという意味で非常に危険な傾向である。