フェミニズム

 

5 林-田中論争

  (2) 画一的援護射撃の意味

     ──田中喜美子氏周辺のファッショ的空気

 

 (1)で論じた私と田中喜美子氏との論争は、フェミニズムの本質を知る上で貴重な資料となる、ある副産物を生み出した。すなわち、この間に、『主婦の復権』を批判する批評、または『主婦の復権』を批判する田中喜美子氏への援護射撃を意図する批評がフェミニストたちによって立て続けに発表された。

 そうした論評は私が知りえただけでも、次の6つを数えた。(赤字は参考)

 

平成10年4月20日 『主婦の復権』出版


1 平成10年8月5日付  杉原里美「『ひととき』に見る主婦像」(『朝日新聞』記者が書くコラム「私の見方」)


平成10年9月1〜7日 『信濃毎日新聞』紙上での林-田中論争

 

2 平成10年9月5日付  小林登美枝「専業主婦のあり方は」(『信濃毎日新聞』「女の机」欄)


平成10年10月17日 田中喜美子氏、大宮公民館で『主婦の復権』を批判


平成11年3月31日 田中喜美子・鈴木由美子『「主婦の復権」はありうるか。』出版


3 平成11年4月30日付  佐藤洋子氏が『「主婦の復権」はありうるか。』を賛美(『週刊読書人』2283号書評欄)


平成11年5月1日 『諸君!』で私が田中喜美子氏に反論


4 平成11年5月17日付 『「主婦の復権」はありうるか。』を紹介(『朝日新聞』家庭面「読む」欄)


5 平成11年6月17日 小林真彦「現実を無視した林道義氏のフェミニズム批判」(『週刊金曜日』「論争」欄)


平成11年7月1日 『諸君!』8月号で田中喜美子氏が私に反論

平成11年8月1日 『諸君!』9月号で私が田中喜美子氏に反論

平成11年9月1日 『諸君!』10月号で田中喜美子氏が私に反論


6 平成11年9月4日付  竹信三恵子「男たちの主婦論争」(『朝日新聞』「探求・記者の目」欄)


 このうち、2、3、4、5、6が田中喜美子氏への露骨な援護射撃であり、すべて私と田中喜美子氏の論争中に発表された。(このうち、1、2、4、6は公器としての新聞のコラムを私物化する形でなされた。)この表を見れば、『主婦の復権』に対する包囲網がしかれ、一斉に攻撃が開始された感じがよく現われている。しかもそれらはすべて、すりかえ、ごまかし論理(私の言うフェ理屈)を使った汚い攻撃であった。フェミニストと論争したら、この程度のことが起こるとは覚悟していたが、覚悟していたからその不当性が少なくなるというものではない。

 このように『主婦の復権』を批判する人間を、多くの者が必死になって援護射撃するという行為は、逆に言えばいかに『主婦の復権』が問題の急所をついており、フェミニストたちにとって痛い批判であったかを示すものである。

 これらの論評はフェミニストの議論の仕方がどれほど党派的でファッショ的であるかを明瞭に示している。一人や二人ではなく、同じ内容の援護射撃をする者が少なくとも五人も現われたということは、相手を攻撃するときにフェミニストたちが徒党を組み、ファッショ的戦略を取ることを如実に示すものと言うことができる。

 以下において、それぞれがいかに党派的ファッショ的な援護射撃であるかを示すことを通じて、フェミニストの恐ろしい本質を明らかにしたい。(1についてはすでに『フェミニズムの害毒』の中で批判している。)

 

1 小林登美枝氏の場合


 『信濃毎日新聞』の文化欄は、平成10年9月に専業主婦問題をめぐって紙上討論を企画した。企画者の意図は、『主婦の復権』を出版した私と、主婦の投稿誌『わいふ』の編集長田中喜美子氏とを対決させようというものである。

 討論のテーマは「専業主婦を考える」であり、最初のリードにはこう書かれている。

 「飯田市出身の東京女子大教授、林道義さんの書いた『主婦の復権』が話題を呼んでいる。優しい心と母性をもって子どもを育て、家族の命と健康を守る専業主婦こそ、最も人間的で進歩的な形態だという内容。女性の社会進出が進む中、フェミニストなどからの反発も強い。専業主婦をどう考えたらいいのだろう? 子育て、夫との役割分担、自立とは・・・など、考えの異なる二人にテーマごとに寄せてもらった。」

 このような趣旨で、

(1)「子育て中は家にいるべきか?」(9月1日)

(2)「夫婦の役割分担は必要か?」(9月3日)

(3)「外で働くことが自立につながる?」(9月4日)

(4)「家族の中での幸せとは?」(9月7日)

の4つのテーマについて田中喜美子氏と私のあいだで、意見がたたかわされた。

 9月4日には、第1回目の内容についての反響も載せられた。投書の比率は3対1の割合で私の支持が多かった。

 翌日の9月5日に、小林登美枝氏は毎週土曜日に掲載している「女の机」欄で、「専業主婦のあり方」と題して、私の『主婦の復権』を取り上げて、次のような批判を書いた。短い文なので、全文を引用する。(ちなみに、『信濃毎日新聞』の「女の机」欄は匿名であり、「K」という署名でほぼ毎週土曜日掲載、約20年間続いているコラムである。)

 

小林登美枝「専業主婦のあり方は」

     (『信濃毎日新聞』 平成10年9月5日「女の机」)

<< 子育て中は家にいるべきか?と、専業主婦のあり方への意見が問われている。

 妻であり母である女にとって、この命題は、なんとも悩ましいものである。わたしもこの闇を生きてきた。

 一個の自我をもち、社会のなかになにほどかの自分の場をもって生きてゆこうとする女にとって、結婚の形式いかんにかかわらず、子産み、子育ては生涯を決定するほどの大きな問題である。世に子をもつ女性のすべてが有夫とはかぎらず、主婦とはかぎらない。

 家族のありようも、かつての日の絵に描いたような形でなく、多様な変化を見せている。

 家庭の食卓に家族が首よせあうという風景は、すでに失われている。

 マイホームのこんな解体現象にたいして、「父性の復権」とか「主婦の復権」とかいう本が世評を呼んでいるという。著者林道義先生はいうまでもなく男性であり、だからこそ「父性の復権」を唱えられた心情のほどは了解するにやぶさかではない。それにしてもベストセラーの勢いにのって、「主婦の復権」までいきまいてくださるというのは、大きなお世話と言いたい。いまどきの心ある女性たちは、いつも指示待ちで控えているような、主体性に欠けた女ではない。

 専業主婦であることの価値を、はたからどう説いてもらっても、肝心な女性自身の主体的な選択の方向がどちらをむくことになるのか。

 「父の役割は家族を統合し、理念を掲げ、文化を伝え、社会のルールを教えることにある」(「父性の復権」)とか。そんな「健全な権威を備えた父」のどかりと鎮座する家庭の社会的条件が、はたして今の時代にどこにでもあるだろうか。

 両性の合意のみに基づいた夫婦の夫はボロボロに働き、妻は子どもの教育費捻出にあえぎ、子ははやくから競争社会の激流にもまれている。

 もっと時代の現実をふまえた、説得力のある論議をお願いできないものだろうか。>>

 

 一見して、筆者が拙著をまったく読まないで書いていることは明瞭である。おそらく手に取って見ることもなく書いているのではないか。というのは、『主婦の復権』の扉にはこう書かれているからである。


<< この本の半分を書いたも同然なほどに助けてくれた

          主婦である

       妻・千恵子と娘・有子に

     悩みを打ち明けてくれた多くの主婦たちに

       悩んでいる全国の主婦たちに

          この本を捧げる >>


 これを見ただけでも、この本が単に男性が主婦のことも知らないで、机上の空論をもてあそんでいるのではないことが分かるはずである。私は専業主婦である妻や娘との共同研究として、また多くの専業主婦たちの言い分を代弁するものとして、『主婦の復権』を書いたのである。ましてや、本文を少しでも読んでみるならば、主婦たちの現実の悩みを取り上げる内容になっていることは明らかである。

 ところが小林氏は、「それにしてもベストセラーの勢いにのって、『主婦の復権』までいきまいてくださるというのは、大きなお世話と言いたい。いまどきの心ある女性たちは、いつも指示待ちで控えているような、主体性に欠けた女ではない。

 専業主婦であることの価値を、はたからどう説いてもらっても、肝心な女性自身の主体的な選択の方向がどちらをむくことになるのか。」と書いている。「はたから」という言葉が示すとおり、男性が専業主婦のことに口出ししたことに対する、たいへん感情的な反発である。「いきまく」とか「大きなお世話」とは、とうてい冷静な批評とは言い難い。こういう言い方は公器である新聞の紙面を、自分の感情で私物化するものである。

 「大きなお世話」とか「はたから」説いているという捉え方は、主婦の問題は女性の専門領域だから、男性は口を出すなという意味である。偏狭な縄張り根性からでないと、こういう発言は出てこない。

 しかも男性が専業主婦について論ずると、どうして専業主婦を「いつも指示待ちで控えているような、主体性に欠けた女」として扱ったことになるのであろうか。この一言からも、小林氏が『主婦の復権』を読まないで批評していることは明瞭である。

 小林氏は最初に「わたしもこの闇を生きてきた」と書いている。こういう言い方は、「自分はこの問題で苦労し悩んできたので、発言する資格のある者だ」と誇示し、男が口を出せる問題ではないから口を出すなという意思表示である。男性排除的な物の言い方である。こういう態度は、男性を抑圧者として意識していた昔の古いフェミニストによく見られたタイプである。

 こういう男性排除的な態度では、いつまでたっても男性と女性の対立図式でしか物を見られないという、古いタイプのフェミニズムから抜け出せないであろう。なぜ冷静に、「男性が専業主婦の問題について論ずるようになったとは、大進歩だ」と評価した上で、その内容に異論があるのなら、冷静に理論的に反論できないのであろうか。小林登美枝氏という人は、なんと狭い了見の持ち主であろうか。

 小林氏の唯一の内容的な批判点は、私が「現実をふまえていない」という点だけである。彼女はこう書いている。

 「両性の合意のみに基づいた夫婦の夫はボロボロに働き、妻は子どもの教育費捻出にあえぎ、子ははやくから競争社会の激流にもまれている。もっと時代の現実をふまえた、説得力のある論議をお願いできないものだろうか。」

 小林氏の「現実」とは、夫も妻も子もたいへんなのだということだけらしい。そのことを告発していない論は、すべて「現実をふまえていない」ことにされてしまう。

 私が拙著で問題にした現実は、専業主婦がフェミニズムによって迷わされ、悩まされ、自信を失っている、という現実である。そのことが子育てにも重大な悪影響を与えているという現実である。人の訴えている現実について、きちんと正面から向き合って、その問題について論ずるべきである。

 人の本について批評する者は、相手の本をきちんと読んでから、相手が問題にしている現実について議論してもらいたいものである。私としては「もっと相手の議論に即した批評をお願いしたいものである」としか言いようがない。

 小林氏の議論の仕方は、相手が「ある一群の現実」について論じているのに対して、「別の一群の現実」を論じていないと言って文句を言っているようなものである。「違うテーマについて論ぜよ」と言っているに等しい。

 じつは、このパターンの批判が、公器を私物化しつつ、この後繰り返し私に対して投げつけられることになる。田中喜美子氏への援護射撃はすべて同一のパターンになっている。単なる偶然の一致であろうか。

 

2 佐藤洋子氏の場合


 佐藤洋子氏は『週刊読書人』平成11年4月30日号において、田中喜美子・鈴木由美子共著『「主婦の復権」はありうるか。』を書評して、その中にこう書いている。(ちなみに佐藤洋子氏は「東京ウィメンズプラザ」館長・東京女性財団理事長であり、『朝日新聞』家庭部OGである。)

 「主婦について特に新しい記述はない。しかし、それはこの本をおとしめていっているのではない。少なくとも女性の生き方の変化についてこの二十年余り多少の関心を持ってきた人間なら、いまや常識とも言える内容が、この本には丁寧にデータも含めて書き込まれている。1999年という時代に、女子大学の教師に向かって、この「常識」ともいえるこれらの内容を、改めて説明しなければならないことに、私は密かな絶望を感じないではいられないのだ。」

 これがいかにピントはずれの批評であり、単に田中喜美子氏らの「林道義の事実誤認」という宣伝の線に沿った党派的なものかについては、すでに『フェミニズムの害毒』の中で反論した(247〜8頁)ので、ここでは繰り返さない。要点だけ述べると、田中喜美子氏らの批判は、私が常識とも言える事実を知らないと見せかけて、内容的な私の批判に一切答えないという戦略を取った。そのこと自体、フェミニストたちが理論的に答えられないことを自ら証明したことになった。ここでは佐藤洋子氏が「林は現実を知らない」という合唱に加わったことを確認しておこう。

 

3 『朝日新聞』平成11年5月17日の家庭面「読む」欄の書評


 この書評欄は無記名であり、フェミニズムの本を優先して書評することで目立っている。この欄は私の『主婦の復権』は決して取り上げなかったが、『主婦の復権』を批判した本はさっそく取り上げた。

 「『主婦の復権』を唱えた本が話題になっているが、その妥当性を、主婦の投稿誌『わいふ』の編集長らが検証した労作だ」とした上で、『主婦の復権』に対して「主婦の現実を知らない」と「反論」していると紹介している。

 「20年以上、多くの主婦の声に接してきたという体験に根ざしたリアルな主婦論」という言い方にも、「田中喜美子らは現実を知る者」、「林道義は現実を知らない者」という図式をちらつかせている。

 田中喜美子氏を援護射撃する者たちが、「林道義は現実を知らないで発言している」という見せかけを作ろうと、やっきになっている様が見てとれる。

 

4 小林真彦氏の場合


 小林真彦氏は『週刊金曜日』平成11年6月11日号の「論争」欄に投稿して、私を批判している。その題名「現実を無視した林道義氏のフェミニズム批判」から分かるように、まったく同じパターンの批判である。

 その書き出しはこうである。「『諸君!』(文藝春秋)など、読めば嫌な気分になるだけなので普段は読まないのだが、苦行をする思いで6月号の一部を読んでしまった。反フェミニストを繰り返し訴えているらしい林道義氏という人の『こんなバカやってるフェミニズム』という記事である。」

 普段読まないようにしている『諸君!』を、彼はなぜその号の私の論文だけ読んだのでろうか。そこには田中喜美子氏に対する批判が書かれていたからではないのか。彼は特別に田中喜美子氏への批判を「苦行をする思い」までしても、読まなければならない理由があったらしい。こういうことは田中喜美子氏となにか深い関係があるか、特別の関心を持っているのでないと起こらないものである。

 つまり彼の私への批判もまた、田中喜美子氏への援護射撃だということを示しているのである。

 彼は私の「現実無視」を批判するはずなのだが、実際に指摘されている私の「現実無視」は、次の点だけである。

 「たとえば、林氏は、家事がタダ働きであることに触れずにおいて、主婦が『夫に従属している』『食べさせてもらっている』『自立していない』と感じるのはフェミニズムのせいだ、などと見当違いな暴言を吐く。それは家事に賃金が払われていないという現実によるもので、フェミニズムのせいではない。」

 小林氏の言っていることは、私が「主婦はタダ働きで、賃金をもらっていない」という「現実」を無視しているということだけである。これだけで「現実無視」というタイトルをつけるところに、不自然なものが感じられる。無理矢理に私が「現実を無視している」ことにしてしまいたいかのようである。

 私はこの批判に対して、反論を投稿した。私が反論したことは、主婦はタダ働きなどしていない、生活費をもらっている理屈だし、それ以上に夫より自分のためにお金を使っている主婦が多い、というのが「現実」だという点。

 それと、小林氏が私の主張を反対にねじ曲げたという点である。すなわち、彼は私が「苛酷な労働慣行の中で生きろ」と言ったと言っているが、そんなことは言っていない、むしろ私の年来の主張は日本の苛酷な労働慣行を改めるべきだという点である。

 彼はさらに「林氏の言うところをまとめると以下のようになる。弱い立場にいる人間は強い立場にいる人間に対して戦略を使わず話し合え、だがその話し合いの結果どこで折り合いをつけるにしろ、さらに強い立場にいる人間の既得権益を侵害してはならない、と。」と結論しているが、これもひどいすりかえである。私はそんなことは絶対に言っていない。

 これほどまでに批判したい相手を歪めて悪く描き、攻撃した例を私は知らない。よほど田中喜美子氏を批判されたことに対して反撃したい心理が作用しているのであろうか。

 総じて、小林氏の議論は、「賃金を払えば夫婦が対等になれる」という馬鹿馬鹿しくて話にならないようなものである。大学院生ともあろう者が、賃金を払う方が力関係で優位に立つことぐらい考えられないとは、そのあまりの幼稚さにはあきれるばかりである。最近の大学院の程度が落ちているのか、それとも指導が悪いのか、指導教官の顔が見たいと私は正直思った。

 それ以上に驚いたのは、年配者ならいざ知らず、若い者が依然として「男が悪い」「男が支配者だ」「それは金銭関係で妻がタダ働きしているせいだ」などという古くさい公式でしか、現実を見られないことである。

 要するに、こうした幼稚な理屈を使って小林氏がしたことは、ただ田中喜美子氏への援護射撃でしかなかったことは明瞭である。

 

5 竹信三恵子氏の場合


 『朝日新聞』家庭部デスクの竹信三恵子氏は、平成11年9月4日付「探求・記者の目」欄に「男たちの主婦論争・当事者が一歩踏み出して」と題して、次のような文を書いた。前もって注意を促しておくと、同年9月2日に発売された『諸君!』10月号には、私を批判した田中喜美子氏の論文が掲載されている。それに注意を引きつけるかのように、9月4日にこの文が発表された。


<< 主婦をめぐる論議が、目立っている。

 一昨年来、宮台真司・東京都立大学助教授が「専業主婦廃止論」を、作家の鈴木光司さんが著書『家族の絆(きずな)』などで父親の育児参加の大切さを述べ、それぞれ主婦による育児独占の弊害を指摘した。一方、「子供には家にいる母が必要」と、「主婦の復権」を唱える林道義・東京女子大学教授に、主婦の投稿誌『わいふ』編集長の田中喜美子さんらが『"主婦の復権"はありうるか』を出版して反論。今年夏、月刊誌『諸君!』では、4回にわたり二人の論争が続いた。

 今回の論議の特徴は、担い手のほとんどが男性、男性を主な読者層とする雑誌が舞台、など、「男性主導」の形で進んでいる点だ。内容も、専業主婦の子供への影響をめぐる「教育論」「母性論」が中心。1950年代に始まったかつての「主婦論争」で、女性たちが、自身の生き方をからめて活発に論議したことを考えると、様変わりだ。

 当事者のはずの女性・主婦の声が聞こえてこないのは、なぜなのか。

 第一次主婦論争の背景には、朝鮮戦争の特需による好景気で女性の職場進出を促す機運もあった、といわれる。しかし、今回の論議は、産業構造の転換でリストラが横行し、「妻や家族を一人で養いきれない」という声が、男性の間から聞かれ始めた中で始まった。変化は男性に起こり、主婦はむしろ、それを見守る側なのだ。

 この気分に拍車をかけるのが、専業主婦の年金を他の働く男女が負担する仕組みを導入した1986年の年金改正だ。

 生活クラブ生協発行の情報誌『生活と自治』6、7月号は「私が専業主婦でいる理由」という特集を組み、「どんな職業に就くかを選ぶのと同じように、職業を持たないことを選択したのが専業主婦」との読者の声を紹介している。しかし、改正は、こうした「個人の自由な選択」が、結果として他の層の経済的負担を増やす、という構造を作ってしまったからだ。

 今回の論議への数少ない女性参加者である田中さんは「主婦全盛の70年代に比べ、今、子連れの主婦を迎え入れてくれるのは、幼児英才塾などの教育産業くらい。密室に近い家庭での孤独な子育てはつらいが、外に出ようにも、子持ちの女性には、単調で極端に安い賃金の仕事しかない。出口は見えにくく、論争で正当性を主張するどころではない」という。

 本紙家庭面には、主婦たちから「失業率が5%に迫る中で子持ちの女に仕事はない。批判されても出ていく場所などない」「『主婦の復権』などとおだてられても、孤独な育児のつらさは解消されない」との二つのタイプの投書が寄せられる。「男たちの論争」のどちらにもさめた目を向け、沈黙を続ける「当事者たち」の姿がうかがえる。

 しかし、環境の激変の中で新しい動きも芽生えている。神奈川県の藤本裕子さんらは、今年5月、『月刊お母さん業界新聞』を創刊。「お母さんたち、甘えないで」「支援される母からアクションを起こせる母へ」との辛口の呼びかけで、全国に5万部の読者を獲得した。

 主婦として子育てにかかわった経験を生かし、地域の専業主婦の母親を中心にミニコミを始め、会社組織にまで発展させた藤本さんは「大企業に限界が見え、母や妻はこうでなければという圧力が減った今は、お母さんにとって逆にチャンス」と説く。

 「子供の誕生会ひとつとっても、お母さんの企画力はすごい」という藤本さんのねらいは、自信をなくした母親たちに自分の力を再認識してもらい、身近な商店街での起業など、新しい地域づくりを担ってもらうこと、という。

 「男性による主婦論争」を越え、主婦が自分を自力で定義し直し、踏み出していくこと。それが、必要な時期にきているのかもしれない。(竹信三恵子) >>


 記者の書くものが中立公正でなければならないことは言うまでもないが、この記事は観点も内容も驚くほど偏っており、信じられないような党派性を示している。以下、どこに問題があるか、逐一指摘してみたい。

 

(1) 記者としての姿勢が中立公正を欠いている諸点


1 一方を有利にする形で論争を紹介している点

 論争の途中で論争を紹介すれば、その時点で雑誌に掲載されている論者の論がより多く読まれることになり、その論者に有利に作用する。

 というのは、論争というものは、一方の論が発表された時点では、今発表している論者の論の方が説得力があるように見えるからである。つまり同時的に反論ができない側が不利になるという事情がある。論争の途中で論争に注意を促す行為は、欲すると否とにかかわらず、その時点で論文を発表している側を有利にする行為となる

 具体的には、9月4日の時点では、9月2日に雑誌『諸君!』10月号が発売されており、その号には田中喜美子氏の私への批判が掲載されている。記事を見てこの論争に興味を持った読者は、10月号の田中論文だけを読む可能性が十分にある。この点の不公平さについて、いやしくもデスクにまでなっているジャーナリストが、なんの配慮もしていないということは、およそ考えられないことである。こうした場合には、論争が一段落したのを見定めてから論評するといった配慮が必要である。これはジャーナリストとして常識に属する心構えであるが、竹信氏にはそうした心構えを持っていないのであろうか。

  

2 「女性が当事者」という言い方は男性に対して排除的・差別的である点

 竹信氏の記事の趣旨は、<論争の当事者である女性・主婦があまり論争に参加していないので、主婦の参加を呼びかける>というものであると理解しされる。しかし、主婦が参加せず「沈黙を守っている」という認識は後に述べるように事実としても間違っているが、それはともかく、そもそも男性が主婦問題の当事者でないという認識は間違っているだけでなく、男性に対して排除的・差別的である。

 主婦問題については、男性も女性も当事者のはずである。しかるに、主婦・女性のみを当事者と考えるのは、家庭の問題は女性の領域という、これまでフェミニズムが批判してきた考え方となんら変わりがない。男女共生が叫ばれているこの時代に、論争の担い手が男か女かにこだわること自体、すなわち「男の領域」「女の領域」と縄張りを決めること自体が、大きな問題だと思われる。

 専業主婦という形態が家族、とくに子どもにとってどういう意味を持っているかという問題は、父親である男性にとってもまさに「自分の問題」であり、男性もまた当事者である。男性であるというだけで「当事者」からはずすというのは、重大な差別である。

 家庭や家族の問題に対して、男性が自分の問題として「当事者意識」をもって活発に発言するようになったことは、「男女平等」「男女共同参画」という観点からも大きな進歩だと思いうが、竹信氏は男性が論争に参加することのプラス面をまったく評価していない。

 要するに竹信氏は男性と女性の関係を対立構造で見ていて、女性の発言が少ない(これは後述するように事実に反しているが)ことを慨嘆しているだけで、男性の発言が多いことを評価しえず、公正な意味での男女平等の立場に立っていないと言わざるをえない。

 

3 主婦を蔑視する特権意識  

 主婦に対して、「自分で定義し直し」「一歩踏み出していくことが必要」だと言うのは、一段高い立場から物を言う思い上がった不遜な態度である。

 「自分で定義し直すことが必要」という言い方は、主婦が今までは「自分で」定義していなかったとか、間違った定義をしていたという認識を前提にしている。「し直せ」というのは、暗に筆者の定義が前提としてあって、それに比べて今の定義が不十分または間違っていると考えているのでなければ出てこない言葉である。これは非常に思い上がった言葉だと言わざるをえない。

 「一歩踏み出していくことが必要」という言い方も、主婦たちが「一歩踏み出していない」という認識を前提にしている。そういう言い方は後に述べるように事実としても間違っているばかりか、主婦を蔑視した見方である。こういう主婦を見下す態度は、竹信記者の特権意識からくるものと思われる。

  

4 田中喜美子氏だけを優遇した記事である点

 記事の中で、論争の一方の当事者である田中喜美子氏の意見のみを取り上げて発表させている。

 現在進行中の論争を取り上げて、論争の一方の当事者にのみ発言させるのは、著しい差別と言わざるをえない。

 しかも田中喜美子氏の発言内容は、論争における氏の発言と一致している部分があり(「密室に近い家庭での孤独な子育てはつらいが、外に出ようにも、子持ちの女性には、単調で極端に安い賃金の仕事しかない。出口は見えにくく、論争で正当性を主張するどころではない」という箇所は、田中氏の主張「母は子育てには向いていない、母は外に出て働くべきだ」を基にしている)、その意味でも論争の一方の意見のみを発表させたということになりる。

 母の手で子どもを育てるべきだという私の主張と明らかに対立する意見だけを、さも客観的な意見であるかのように、さりげなく発表させている。ここには、一方的な意見を上手に押しつける世論操作の手法が見てとれる。

 内容にもまして重要なのが、発言が取り上げられるという事実そのものである。読者から見ると、発言が引用されるだけでも、その人に対する信用と権威が与えられる。少なくとも、その発言を記者が正しいと認めているという意味が与えられる。

 なお、田中喜美子氏の意見は談話と思われるが、それは田中氏に対しては取材をしたことを意味している。しかし私にはまったく取材はなされなかった。進行中の論争を取り上げておいて、論争の当事者の一方にだけ取材をして意見を発表させることの不当性は明らかである。

 また田中喜美子氏の私への批判の書『「主婦の復権」はありうるか。』のみを挙げて、私の著書『主婦の復権』を挙げていないことも、公正の原則に反している。

 以上のように、公器であるべき新聞の紙面を使って、論争の一方の当事者のみを取り上げ発言させたのは、中立公正であるべき記者として、あってはならないことである。

  

5 年金問題について偏った意見を主張

 目下論争中で決着のついていない「主婦の年金」問題について、一方的な見方を述べている。主婦の年金は「他の働く女性が負担する」とか「他の層の経済的負担を増やす」と述べて、「働く女性」にとって不公平だと主張しているが、それは個人単位思想に基づいた一つの考え方にすぎない。他方には家族単位に基づいた考え方もあり、「世帯単位では不公平にはなっていない」という計算も出されている。

 要するに、この問題については争論中であり、社会的なコンセンサスは得られていない。竹信氏は一方的に「働く女性」「個人単位思想」の立場からの意見だけを主張しているが、これは大いなる偏向と言える。

 

6 投稿の引用が一方的で結論誘導的である

 竹信氏は、寄せられたという投書の二つのタイプを次のように紹介している。

   本紙家庭面には、主婦たちから「失業率が5%に迫る中で子持ちの女に仕事はない。批判されても出ていく場所などない」「『主婦の復権』などとおだてられても、孤独な育児のつらさは解消されない」との二つのタイプの投書が寄せられる。「男たちの論争」のどちらにもさめた目を向け、沈黙を続ける「当事者たち」の姿がうかがえる。

 これは「二つのタイプ」ではなく、一つのタイプである。つまり専業主婦であることを不満に思っていたり、嫌だと感じている主婦が、外に出ていきたくても行けないという意味の投書である。こういう専業主婦というあり方に否定的な投書しか来ていないかのように見せかけるのはフェアとは言えない。専業主婦を肯定したり、積極的に意義を見出している投書も必ず来ているはずである。私のところには賛成も反対も多くの手紙が来ている。大新聞である『朝日新聞』の家庭面に、専業主婦に対して否定的な投書しか来ないということは絶対にありえない。げんに後述するように、「あなたならどうする」欄には、賛否半ばする投書が二千通も来たそうではないか。竹信氏が投書を意図的に「専業主婦に対して否定的なもの」だけを選んだという疑いを私は捨てきれない。

 竹信氏は、「当事者」である主婦たちが「男性たちの論争」に「さめた目を向け」ているという構図を描いているが、それは偽りである。実際、私のところには、「熱い」内容の投書がたくさん来ている。竹信氏のような投書の紹介の仕方は、主婦たちのすべてが冷めた目を向けているかのように思わせるという意味で、世論操作的である。

 もし本当にこの種の投書しか来ていないとしたら、『朝日新聞』の家庭面はあまりにも一方的な考えをもった読者しか読んでいないということになる。そんなことは絶対にありえない。統計学的に考えてもありえないし、後述する「あなたならどうする」欄への投書の傾向から見てもありえない。

 私は竹信氏が一方的な投書だけを使うことによって、「主婦は冷たい目を向けている」という自分の偏った結論を本当らしく見せかけたという疑いを強く持っている。

 

 以上の諸点は新聞および新聞記者の中立公正の原則に著しく反していると言わざるをえない。

 

(2) 事実認識の間違い、または事実関係を歪めている諸点


1 論争の内容紹介が、著しく事実に反している

 宮台真司氏・鈴木光司氏の意見と私の意見の対立の構図が歪められて描かれています。

 すなわち、宮台・鈴木両氏が「父親の育児参加の大切さを述べ、それぞれ主婦による育児の独占の弊害を指摘した」、一方「子供には家にいる母親が必要」と「主婦の復権」を唱える林道義教授、と書かれている。こうした対立構図の描き方は、はっきりと事実に反している。

 「父親の育児参加の大切さを述べ、主婦による育児の独占の弊害を指摘」しているのは私もまったく同様であり、その点については意見の対立はない。むしろ父親の育児参加が必要であることについての社会的な論議を起こしたのは、拙著『父性の復権』(中公新書)によるところが大きいと言える。しかし竹信氏が述べる論争の対立構図では、私が父親の育児参加に反対しているかのような印象を与えてしまう。

  

2 論争の全体像を正しく把握していない

 (男性と女性の論争参加の実状を正しく把握していない) 

 「論争の特徴」として「担い手のほとんどが男性」「男性を主な読者層とする雑誌が舞台」と書かれているが、これは事実に反しています。

 まず「男性を主な読者層とする雑誌が舞台」と竹信氏が判断したのは、雑誌『諸君!』での論争を念頭に置いてのことであろうが、論争は非常に多くのメディアで行われており、それに参加している論者は、男性も女性もともに多いと言うべきである。「担い手のほとんどが男性」というのも、したがって大きな間違いである。

 具体的に言うと、男性では、竹信氏の挙げている宮台、鈴木両氏は主婦問題ではわずかに触れている程度で、竹信氏が挙げていない伊田広行、小谷野敦両氏の方が拙著『主婦の復権』に対して賛否両論の立場から論文を発表して全面的に論じている。(『論座』1999年9月号)。自分の社が発行している雑誌でなされた論争も知らない(または調べがついていない)とは、杜撰と言われても仕方ないであろう。

 つぎに、女性たちも多く意見を発表している。たとえば、この一年間で私が関わっただけでも、『信濃毎日新聞』『岡山新聞』、女性雑誌の『クロワッサン』『婦人公論』『マフィン』などが主婦問題の特集を組み、そこには多くの女性論者が登場している(男性はほとんど私だけ)。女性の参加が少ないとか、「声が聞こえてこない」というのは、まったくの認識不足である。「記者の目」はどこを見ているのか、と言われても仕方ないであろう。

 この事実を見れば、「男たちの主婦論争」というタイトルがいかに偏った印象を与える不当なものかは明らかである。

 総じて竹信記者の記事を書く姿勢において、事前の調査や取材が不十分ないしは偏っていたことは、隠しようのない事実と思われる。

 要するに、竹信氏は「論争の全体像を正しく捉えていないあるいは描いていない」と言わざるをえない。

    

3 主婦たちは「沈黙」していない

 「当事者」の主婦が「沈黙」しているというのは重大な事実誤認である。

 竹信氏は「主婦の声が聞こえてこない」とか「主婦たちは沈黙を守っている」と書いているが、それは事実に反している。一見そのように見えるのは、主婦が「論者」としては登場させてもらえないからである。主婦たちから見たら、竹信氏のように、大きな紙面をもらって自分の主張を書ける記者は特権的な人なのである。

 かつての主婦論争においても、表舞台で論じたのは、やはり特権的な女性や男性たちであった。一般の主婦たちは、せいぜい投稿や投書という形でしか参加できなかったのである。

 今でも事情は同じである。主婦たちは投書でしか意思表示ができない。そういう不利な条件の中でも、彼女たちはこの問題について強い関心を持ち、さまざまなメディアを通じて活発な意見表明をしている。

 げんに、上記の新聞や雑誌が専業主婦問題で特集を組んださいには、それぞれ新記録かそれに近い多くの投書が寄せられたそうである。またあるテレビでも専業主婦の問題が話題となり、多くの投書がきたということである。

 それよりも特筆すべきは、『朝日新聞』においても、平成10年の末に「あなたならどうする」欄で「専業主婦の憂うつ」という特集を連載して意見を募集したときには、なんと約2000通もの投書が殺到した。これだけの数の主婦たちの声を「沈黙」の一言で片づけるとは、驚くべき暴挙である。

 再度言うが、立派な意見を持ち、その意見を表明したい主婦たちは無数にいる。しかし彼女たちは意見を発表する場が与えられていないのである。「一歩」どころか、何歩でも前に踏み出したい主婦は無数にいる。しかし場が与えられていないのである。すでに多数の投書という形で一歩踏み出している主婦たちの行動を「沈黙」の一言で片づけておいて、竹信氏が「主婦よ、一歩前に踏み出せ」と言うのは欺瞞であり、また自らは特権的な地位にいて主婦たちを見下す思い上がりと言わざるをえない。

 

結論 

 以上で明らかにしたように、竹信記者の「記者の目」の記事は、

@「中立公正」の原則を著しく逸脱しており、主婦に対して侮蔑的であり、

 男性に対して差別的である、

A事実関係を間違って捉えていたり、事実の調査研究が杜撰であり、多くの 重大な事実誤認を基にしている、

の二点の理由で許し難い偏向記事と言うべきである。

 この二点は、記者としての基本的モラルに反しており、記者の資格がないと言われても仕方ないほどの重大な欠陥と言える。

 しかも当該記事は、論争を扱いながら論争の一方の当事者のみを有利にする効果を持つ、きわめて偏ったものである。

 論争について記事を書く記者には、一方を有利にしないような配慮がつねに要求される。竹信記者の記事において、そうした必要な配慮がなされていないどころか、一方に対する明らかな援護射撃になっていることは明瞭である。これは記者としての良心とモラルに反する行為と言わざるをえない。

 竹信氏は駆け出しの記者ではなくてデスクだが、デスクになるまでの間に、こんな基本的な教育もされていなかったということは、信じられないことである。

 

田中喜美子氏への援護射撃の共通点

 さて、以上、田中喜美子氏への援護射撃の実例をいくつか見てきて分かったことは、それらに共通の特徴があるということである。

 第一は、すべて「現実を知らない」というパターンの批判をしている点。こういう批判の仕方は、「現実や事実に基づいていないなら、読むに値しない」と思わせて、初めから読まないようにし向けるという働きをする。肝心の内容へと関心が向かないように、また議論が起こらないようにしてしまう。議論そのものを封じ込めるという、じつに卑怯なやり方である。

 第二に小林登美枝氏と小林真彦氏とは、ともに「ないものねだり」をしている点において、共通の発想法が見られる。すなわち小林登美枝氏は自分が認識している「現実」を私が問題にしていないと批判し、小林真彦氏は私が「苛酷な労働慣行を最初の論文で糾弾しなかった」と批判した。自分の偏った現実認識にこだわり、別の現実を見ようとしない偏狭さは、ある種の狂信的な思想や信仰を持つ人たちに特徴的である。

 第三に、竹信三恵子氏の「男たちの主婦論争」への違和感の表明(男性は当事者でないという理解の仕方)と、小林登美枝氏の「はたから」男性が「いきまく」のは「大きなお世話」だという言い方とは、共通の男性排除的な感覚を示している。これは田中喜美子氏が自分をつねに『わいふ』に20年以上もかかわってきた者で、主婦の現実について特別に知っているとひけらかすことにも通じている。

 第四は、『朝日新聞』家庭部が関係していることである。竹信記者は家庭部のデスク。東京ウィメンズプラザの館長・佐藤洋子氏は『朝日新聞』家庭部のOG。「読む」は『朝日新聞』家庭面に掲載される。杉原里美氏も『朝日新聞』家庭部記者である(いずれも当時)。『朝日新聞』家庭部が組織的に『主婦の復権』をなんとかして貶めようとやっきになっている様が見えてくる。

 以上のすべての共通点を合わせて見てみると、ここに登場する人たちの表現方法も内容もすべてが相呼応しているということが明らかになった。こういうことは決して偶然の一致としては起こりえないことであり、彼女らが裏で何らかのつながりを持っていなければまず起こりえないことである。

 ここまで見てくれば、竹信記者の記事も、前四者ほどに露骨なものではないが、このパターンにそった田中喜美子氏への一連の援護射撃の一環であることは明白であろう。というより、「記者の目」という客観的な論評を装っているがゆえに、なお悪質で効果的な一方的援護射撃だと言うことができる。

 以上見てきた事実から明らかなように、フェミニストたちは自分たちが占領しているメディアを駆使して、私の『主婦の復権』を批判した田中喜美子氏を党派的に援護射撃してきた。これはさまざまなメディアを使って非人道的なプロパガンダを繰り広げ、国民を間違った道へと導いたファシズムのやり方を思い出させる、恐ろしい方法だと言わざるをえない。多くの人々が一斉に同じことを言って、ある人やその人の意見を悪く歪めて宣伝するという手口は、「言論の自由」を悪用してファッシストや共産主義者が使った民主主義に敵対する方法である。この手口に現われたフェミニストたちの精神構造はファッシズムのそれにそっくりであり、とくに田中喜美子氏の周辺にその傾向が強いことを、ここでとくに警告の意味をこめて指摘しておきたい。