フェミニズム批判

 

6 自著自薦

 

 

  (2)『フェミニズムの害毒』草思社、平成11年(1999年)8月刊

       

内田樹氏の書評への反論

         (平成14年11月22日加筆、12月17日加筆)

 

特徴

タイトルどおり、母性と家族を破壊せんとするフェミニズムを果敢に批判した書。タブーであったフェミニズム批判を解禁にしたところに意義がある。

 

注目点

1 「序章」の中で「働け」イデオロギーを中心にしたフェミニズムの理論体系を図示している。この図はフェミニズムの本質を明らかにするのに役立つだろう。

2 フェミニスト特有の屁理屈を「フェ理屈」と名づけて、その詭弁を具体的に論破している(2章)。

3 フェミニズムの近代家族批判と個人単位論の間違いを方法論的に明らかにしている(3章)。  

4 「男らしさ」「女らしさ」を文化的産物だという理由で否定するフェミニズムに対して、「男らしさ」「女らしさ」の必要性を、文化とは何か、アイデンティティーとは何かという観点から説き明かしている(5章)。

5 田中喜美子氏への反論は、フェミニストの論争の仕方がいかに汚いかを暴露している(6章、7章)。

 

目 次


序章 フェミニズムの変質

 

1章 理想を見失ったフェミニズム

女子大生の専業主婦願望

理想を間違えているフェミニズム

フェミニズムの理想が歪んだ原因

 

2章 母性への攻撃

「母性」問題に集中するフェ理屈

病理現象としての母性喪失

 

3章 家族への攻撃

「近代家族」批判の背後にある思想

「多様な家族」論のごまかしと危険

落合恵美子の家族変動論の欺瞞

伊田広行の革命戦略としての個人単位論

家族単位を守れ

シングル・マザー礼賛はアナーキズム

 

4章 保育園神話の危険度

金属バット子殺し事件の教訓

保育園のマイナスを隠蔽するフェ理屈

田中喜美子の無責任な保育園賛美

保育所拡充は少子化対策になるか

 

5章 「ジェンダー・フリー」は危険思想

「男らしさ」「女らしさ」は必要だ

フェミニズム偏向教育を許すな

東京女性財団の危険な傾向

 

6章 主婦を惑わすカルト的勧誘

主婦の不満を煽って誘う

カルトと同じ手口

隠された動機は家庭破壊!

反論になっていない反論

 

7章 真実を歪める卑劣な批判

許しがたい嘘と中傷

「事実誤認」というデッチ上げ

間違った現実認識

 

終章 真の男女平等のために

 

 

内田樹氏の書評への反論

         (平成14年11月22日初出)

 

 書評というのは、ときに暴力と化する。どんなに読み間違いをされても、どんな見当はずれの批評をされても、著者には訂正する機会も抗弁する機会も与えられない。つまり切り捨てご免の世界である。いや、正確に言うと「の世界であった」。書評を載せる媒体が新聞、雑誌、本しかなかったときには、ほとんど百パーセント反論の機会は与えられなかった。

 インターネットが登場して、書評がネット上でもなされるようになり、

またそれに対する反論もネット上では可能になると、少し事情が違ってきた。

 もっとも、自分に対する書評がどこでなされているか、すべてを目配りすることは不可能であり、とくに私は無精なので、まったく関心も持たなかった。

 ところが、ネット上で出された書評が本になり、評判になっていると聞いた。内田樹『ためらいの倫理学』(冬弓舎)である。わざわざ送ってくれた親切な人がいたので読んでみたら、びっくり、間違いだらけの書評である。数えてみたら、7箇所か8箇所も間違いが見つかった。これほど多くの読み間違いをされたまま放っておくわけにもいかない。

 著者はそれらの読み間違いをもとにして、私のことを「気負っている」「怒りにわなわなふるえている」「冷静さを忘れて感情的になっている」「フェミニズムに対してルサンチマンがたまっているのであろう」「気の毒である」と評している。きわめて主観的・感情的な評言である。これを読むと、いかにも私が大人げない人物のように印象づけられるだろう。

 私は自分を「大人げないことはない」と抗弁するつもりはない。いや、むしろ「大人げない」部類に入ると自覚している。腹が立つ相手には怒る、正義感も強いし、悪いと思った奴にはどんどん批判する。内田氏は「すぐ怒る」「正義の人」が嫌いだと書いているので、私のことも生理的に違和感を感ずるのであろう。

 そういう人間から嫌いだと思われるのは、人間性の違いなので、いたしかたない。しかし本の内容を勝手に読み間違えて、それをもとに勝手に批評されたり勝手に「気の毒」だとか「痛々しい」などと同情されるのは、私は大嫌いである。

 したがって、以下、内田氏の読み間違いを指摘し、あわせてなぜそうした重大な読み間違いが起きたのかについても若干の考察を加えてみたい。

 

第一の間違い

 内田氏は、私が「フェミニズムに反対」と公言している、と書いている。私はフェミニズムそのものに反対と言ったことは一度もない。男女の平等という意味でのフェミニズムのもともとの意図には賛成だと「公言」している。私は一貫してフェミニズムの間違いや行き過ぎを批判しているだけである。この点については「あとがき」をもう一度よく読んでもらいたい(本HPの「プロフィール」の中にも収録してある)。

第二の間違い

 私のフェミニズム論を「まるで専門違いのところに踏み込んで」と書いているが、これも大間違い。私がフェミニズムに関わらざるをえななったのは、『主婦の復権』の冒頭にも書いてあるとおり、私が専門としているセラピーやカウンセリングをしてあげた専業主婦たちが、あまりにもフェミニズムに悩まされ、自信を失い、迷わされているのを知って、その根源を批判しなければならないと思い、始めたことである。私の著書は『父性の復権』『母性の復権』をはじめ、すべてそのようなセラピーの実践の中から(現実の問題に関わる中から)問題意識を感じて研究した成果ばかりである。『フェミニズムの害毒』にしても、専門と密接に関わっている。私の専門と実践とをよく理解もしていないくせに、「まるで専門違い」というのは無責任な批評と言わなければならない。

第三の間違い

 私が「怒りにわなわなと震えている」とか「冷静さを忘れて感情的になっている」というのは間違いである。私は怒ってはいるが、「わなわなと震えて」はいないし、「感情的」になってもいない。内田氏は「怒る」と必ず「感情的」になると思い込んでいるのではないか。冷静な怒りというものもありうるということを知らないようだ。

 私がたとえば田中喜美子氏に対して「汚い」とか「フェアでない」と怒ってみせたのは、彼女がいかに「けしからん」かを第三者に訴えるためであり、別に感情的になり「わなわなと震えて」いるのではない。いわば戦術である。本当に怒って感情的になっていたら、あのような論理的な論争はできないものだ。その程度のことが見分けがつかないとは、読みとりの能力が劣っているとしか言えない。

第四の間違い

 「よほどフェミニズムに対してルサンチマンがたまっているのであろう、気の毒である」というのも、まったくの間違い。私はこれまでの人生の中で、フェミニストからいじめられたり、つるし上げにあったりしたことはない。ルサンチマンなどはかけらもないと言っていい。ましてやヒステリックなエセフェミニストとはまったく付き合ったこともないし、話し合ったこともない。要するに何の接点もないのである。

 私が一部(大部分?)のエセフェミニストに腹を立てているのは、私憤の要素はまったくない。完全に公憤である。(「公憤」だとなると、内田氏はもっと嫌いなようだが、その問題は読み間違いとは別の問題なので、あとで述べる。)フェミニズムが普通に真面目に生きている人たちを攻撃し、被害を与えていることに対する怒りである。

第五の間違い

 内田氏は、私のフェミニズム「について」の言説が、フェミニズム「に対して」の言説だと勘違いしている。彼は私のフェミニズム批判が、フェミニズムと対話を試みているものと勘違いし、そんなことは不可能であり、かえって彼らの論理構造と同じ「教化」と「説得」になっていると批判している。

 私は歪んだフェミニストたちを教化・説得しようと思ったことはないし、彼らと対話できるなどという幻想を持ったことは一度もない。マルクス主義であれ、フェミニズムであれ、あるいは宗教であれ、イデオロギーを持つ者との対話などは不可能である。

 ではなぜ彼らを批判しているのか。それは彼らに悩まされている人たち、被害を受けている人たちに、フェミニズムの間違いを知らせ、被害を受けないための対策をとり、自信を回復できるようにするためである。

 内田氏は「批判」と「教化」を同一視しているようだ。その上で「正面から論争」(批判)すると、相手の「批判と教化」の論理構造と同じになる危険があると批判している。(そういう批判の仕方もかなり正面からの批判ではないか、と思うが)少なくとも、私の批判は相手に対してなされたものではなくて、第三者へのメッセージだという意味で、内田氏の批判は的はずれである。

第六の間違い

 私は自分では「インテリ・リベラル」ではないと思っている。もっともこの概念は、その意味が必ずしも明瞭ではないし、他人がそう見るのを「間違い」だと言うわけにもいかない。あくまでも主観的な評価であり、客観的なものではないから、「自分としては違う」としか言えないのだが。はっきり言っておくが、私は「リベラル」などという訳の分からないものではない。

第七の間違い

 私と田中喜美子氏の論争が「どんどん話のスケールが小さくなっていって」「行数がどうだとかこうだとか、あまり大の大人が口にするようなレヴェルのことではないことが論じられていた」と批評されている。

 こういう批評の仕方はよく日本人が他人を「大人げない」と見せかけるためにするやり口である。どこが間違っているかというと、論じられている「題材が小さい」ということと、論じられている「問題が小さい」ということとが混同されているのである。

 たしかに行数が何行多いか少ないかは、馬鹿馬鹿しいほどに小さい問題である。しかしその「小さい」ことを取り上げて田中喜美子氏は私が「嘘つき」だという証拠として提出したのだから、私の人格に対する重大な名誉毀損ということになる。

 私がその「証拠」とやらが事実として間違いであり、彼女のほうが嘘を言っていると反論したのは、決してちっぽけな問題でもなければ、「大人の口にするような問題ではないバカバカしい問題」ではないのである。

 この問題は人間の名誉と尊厳に関わる重大な問題だと私は理解している。もっとも、人間の名誉とか尊厳などちっぽけなことだと言うのなら、話は別である。それは価値観の違いであるが、それならそれで、題材が小さいこととは別の問題として、論じてもらいたい。

第八の間違い

 これは私への読み間違いではないが、私への読み間違いと関連するので、ここで取り上げる。

 内田氏は「正義の人」は公憤だから、「歯止めなく怒る」と書いている。 「正義の人は歯止めなく怒る」という命題は不当な一般化である。

 私は正義は大切だと考えている。正義が廃れたらこの世は闇だと思っている。また公憤もよくする。だから内田氏の分類によると「正義の人」に入るだろう。

 だが、その怒りに歯止めがないとか際限がないということはない。一般論としても、正義の人が必ず「感情的に怒り」「歯止めがない」ということは言えないだろう。少なくとも私については間違いである。

 また「正義」を主張する人が、「自分が間違いうる」ということを自覚していないとは限らない。自分が間違いうるということを自覚した上で「正義」を主張することだってありうる。

 内田氏の「歯止めなく『正義の人』は怒る」という不当な一般化は、それこそ「正義の人」(として彼が体験したマルクス主義者とフェミニスト)に対するルサンチマンの産物ではないか。

 「正義の人」として彼が体験したのが、マルクス主義者とフェミニストだけだったのが、彼の不幸であり、物の見方を(少なくとも「正義の人」に対する見方を)公正にできなくなった一つの原因になっていはしないだろうか。

第九の間違い

 これも私に対する読み間違いというより、世の中に対する読み間違いであるが、内田氏は、私が言っていることが「日本のインテリ・リベラルおじさんの常識」だと言っている。これも認識が決定的に間違っている。日本人の「インテリ・リベラルおじさん」は圧倒的にフェミニストである。それも歪んだラディカル・フェミニズムの支持者が多い。私の主張を支持する人は少数派にすぎない。

 

 以上で内田樹氏の読み間違いを指摘した。一冊の本に対して、これほど多くの読み間違いをした例はあまりないのではないか。しかも彼は自信満々であり、自分が読み間違いをするのではないかという恐れや用心をまったくといっていいほど持っていない。もしそうした恐れを持っていたのなら、他の私の発言(他の著作)を多少とも参照したろうに、そうした痕跡は見あたらない。

 彼は自分の言いたいことを一言で言えば「自分の正しさを雄弁に主張するよりも、自分の愚かさを吟味できる知性の方が、私は好きだ」(あとがき)ということになると書いている。「愚かさ」の中には当然「読み間違い」も入っているはずである。しかし自分の愚かさを自覚しているはずなのに、内田氏は自分が読み間違いをするかもしれないという恐れと謙虚さを持ち合わせていないらしい。

 

「ミイラ取りがミイラに」?

 自分が間違っているかもしれないという謙虚さの欠如は、次の箇所に最も明瞭に現われている。

 林はそこで踏み誤っている。

 カール・ポッパーが『開かれた社会とその敵』で書いているように、ある種のイデオロギーは「それを批判することがただちに批判者の知的・道徳的に劣等性の証明になる」という反論不能の構造を持っている。そのようなイデオロギーには異論との「対話」の回路がない。あるのは「批判」と「教化」の会話だけである。

 フェミニズムはマルクス主義からその構造を受け継いだ。だからフェミニズムと正面から論争するものは、(林の場合がそうであるように)つねに相手の論理構成を反転させた「批判」と「教化」の言説を語ってしまう危険にさらされている。

 現に林は「フェミニズムに反対するものは知的・道徳的に劣等である」というフェミニズムのロジックを「不当だ」と批判しているうちに、いつのまにか彼自身が「フェミニズムに賛成するものは知的・道徳的に劣等である」という不当前提に立って議論し始めている。これでは「ミイラ取りがミイラ」である。

 

 こういう批評を私は暴力であると感ずる。相手を一つの鋳型に無理矢理当てはめて、断罪する。しかも相手がその鋳型にはまっているという証拠も挙げず論証もしない。したがって相手は反論できない。これは批評としてのマナーに反しているだけでなく、思い上がった杜撰な批評と言わなければならない。

 内田氏が言っていることは、「批判と教化の言説を語っている相手を正面から批判すると、こちらも必ず(つねに)批判と教化を語ってしまう」(危険にさらされている)ということである。

 私は、「批判と教化」の論理を語っている者を批判する者が、必ず「批判と教化」の論理で語るとは限らないと思っている。ただしそのためにはある「禁欲」という条件が必要だと思うが、それを言い出すと長くなるので、ここでは「必ず」ミイラ取りがミイラになるとは限らないということだけを言っておこう。

 ここで問題にしたいのは、内田氏の「ずるい」語り口である。彼の文章は多分意図的に曖昧にされている。たとえば、(林の場合がそうであるように)という挿入句がどこにかかるのか不明瞭である。もし「語ってしまう」にかかるのであれば、私はすでに誤りを犯していることになる。「危険にさらされている」にかかるのであれば、私はまだ誤りを犯していない。もっともこの引用文の冒頭で「林はそこで踏み誤っている」と言い、最後で「ミイラ取りがミイラ」だと言っているのだから、私はすでに誤りを犯してしまっているという趣旨であろう。

 私は「批判」はしているが「教化」の言説はしていない。私はフェミニストを教化できるなどとは毛頭考えていないし、フェミニストを教化するために論じているのではない。フェミニストによって自信を失わされている人たちに自信を取り戻してもらうために書いている。この姿勢は『フェミニズムの害毒』全編に貫かれている。もし私がフェミニストを教化しようとしていると言うのなら、どの箇所がどのような意味で「教化の言説」なのか、具体的に指摘すべきである。具体的証拠なしにそう断言するのは、単なる断罪であり、公正な批評ではない。

 また彼は、私が「フェミニズムに賛成するものは知的・道徳的に劣等である」という「不当前提に立って議論し始めている」と批判している。はっきり言うが、私は「フェミニズムに賛成するものは知的・道徳的に劣等である」という前提に立って議論したことは一度もない。もしそうだと言うのなら、具体的にきちんと引用して、この箇所がそういう議論の仕方だという証拠を提出すべきである。これほどの重大な批判を、引用もなく、言いつのっていいと思っているとしたら、批評家としての公正さも良心も持ち合わせていないと言わなければならない。

 しかし彼は他の論者を批評するときには、必ずといっていいほど、きちんと引用をした上で批判をしている。私を批判するときだけ、なぜそれほどに杜撰なのであろうか。

 その秘密は、「父」に対する彼の心理の中に見出すことができる。

 

「父と兄」への媚びと軽蔑

 いま引用した箇所に続いて、彼はこう書いている。

 

 私はそんな林にかなり同情的である。痛々しいとさえ思う。

 それは「日本のインテリ・リベラルおじさん」は「日本の宝」だと私が思っているからである。

 皮肉ではなく私はそう思っている。誰が何と言おうと、この人たちが戦後日本を支えてきたのである。私のような人間が好き勝手なことをして生きてこられたのは、(うちの父や兄に代表される)この「インテリ・リベラルおじさん」たちの忍耐と勤労の成果を私が収奪してきたからである。そういう人たちにあまり力まれては困る。

 

 「この人たちが戦後日本を支えてきた」という、ごく当たり前のことを言うのに、彼は「皮肉ではなく」とか「誰が何と言おうと」となぜ力まなければならないのか。その断言は、他人に対してではなく、自分自身に対して発せられているのではないか。つまり自分の心の中に存在するある種の反対をねじふせるための気負いではないのか。

 彼は自分が「好き勝手」をしていられるのは、「父と兄」の成果を「収奪」してきたからだと言っている。だから正面きっては馬鹿にできない。しかし彼の心の中には「父と兄」へのひそかな軽蔑が存在している。自分を「知性」の高みに置いて、「知性」という点では劣る者を下に見る心理がある。「痛々しい」などいう言葉は、自分を高みに置き、相手を下に見る心理なしには出てこない言葉である。

 この軽蔑心は、「父」と同等と見なされた者に対する批判の中にも顔を出す。すなわち「父」と同世代の私に対する批判のさいに、論拠も証拠も出さないで、ただ結論し断罪するという態度の中に現われている。それで済むという見くびった態度にはっきりと現われているのである。

 この心理は漱石が見事に描いてみせた「高等遊民」のそれである。「父」「兄」のおかげで生活している彼らは、正面きっては「父」「兄」を批判できない。しかし心の中ではひそかに「実業」に携わる人を軽蔑しているのである。

 だから、「父」「兄」たちに「力まれると困る」のだ。なぜならそうなると「父」「兄」を正面から批判しなければならなくなるからである。

 こういう見くびった態度を取っておきながら、「林たちの世代に対するエール」だなどと言うのは、ずるいごまかし以外の何ものでもない。

 

戦略の違いではなく、人生観の違いだ

 以上のような多くの誤読や杜撰な批判を前提にして、彼はこう結論している。

 

 私は林と大筋で意見を同じくするが、戦略はだいぶ違う。

 

 おじさんたちがあまりイデオロギー的に先鋭化することを私は好まない。「フェミニズムですか……うーむ、あれもあんまり過激なのは困るね」くらいのところで止めておいてほしい。フェミニズムを批判する暇があったら、妻と親しんだり、子供たちと遊んだり、学生の相談にのってあげたり、困った人を助けてあげたり、「システム」から落ちこぼれそうな人を支えてあげたりしているほうがよいと思う。田中喜美子の本を怒りながら読むよりは、『虞美人草』でも読んだ方が林自身の精神衛生にもまわりのみんなのためにもよいと思う。そういう等身大の穏やかな営みをつうじて、家族と地域社会と職域の集団を支えてゆくのが「おじさんの道」だろうと思う。

 

 ちがう。何かが違う。

 違いはどこにあるのだろうか。彼は戦略の違いだと言うが、戦略の違いではなかろう。人間性の違い、人生の生き方の違いではないのか。決定的な違いは実践をどのくらいしているかである。内田氏は「学生の相談にのってあげたり、困った人を助けてあげたり」しなさいと言っている。しかし彼はどの程度それを実践しているか、率直に言って疑わしいと思う。なぜなら、彼の言説の中に、その実践を反映する影も形もないからである。

 それよりなにより、最も問題なのは、彼が「こういう生き方をしなさい」と説教していることである。ずいぶんと押しつけがましい説教である。生き方についてお説教されるいわれはない。

 誤解のないように言っておくが、私は彼の言っている生き方を否定しているのではない。じつは彼の言っている「おじさんの道」すなわち「妻と親しんだり、子供たちと遊んだり、学生の相談にのってあげたり、困った人を助けてあげたり、「システム」から落ちこぼれそうな人を支えてあげる」ことを、それもそれらのすべてを、私は長いあいだ、何十年も実践してきた。それもかなり深入りして。

 だからこそ、そういう実践を邪魔し、破壊する田中喜美子氏をはじめとするエセフェミニストどもに腹が立つのである。まともに真面目に暮らしている専業主婦に対して悪罵のかぎりをつくす輩に腹が立つのである。ジェンダーフリーを掲げて日本文化を破壊するフェミニストどもに腹が立つのである。だから私はその偽物ぶりを世間に明らかにしなければならないと考えたのである。

 その結果は、「まわりの人たちの精神衛生を悪くした」かというと、まったく反対で、『主婦の復権』のときもそうだったが、この本についても「よく言ってくれた」とか「これで救われました」という手紙がたくさん来たのである。「救われた」という反響はものすごく大きかった。それほどにフェミニズムは女性たちの、とくに専業主婦たちの精神衛生に悪いのである。

 内田氏は私の言っていることが「日本のインテリ・リベラルおじさんの常識」にすぎないが、その程度の常識を語るのに「これほど気負わなくてはならないというのがいささか問題だ」と評している。ごく当たり前の常識を言うのに、わなわなと震えるほどに気負っている大人げない人物という描き方である。状況認識が根本的に違うとしか言いようがない。私は本当ならば常識のはずの考え方とは正反対の意見が社会を覆い、国の政策を決めているという事態に対して、警告を発しているのである。由々しき事態だからこそ厳しい言い方になる。「たいしたことでもないのに、口角泡を飛ばしている」わけではない。自分にとって常識だということと、社会の多くの人たちにとって常識かどうかは違うのである。こんな「常識」も分からない人間に批評をしてもらいたくないものだ。

 内田氏の言う「おじさんの道」を口だけでなく本当に実際に実践したら、世の中の矛盾やごまかしや不正に対して怒りがこみあげてこないはずがないのである。とくにフェミニズムがその「道」を破壊している現状に腹が立たないはずがないのである。内田氏はいまどきのジェンダーフリー運動がどれほど社会を毒しているか、ご存知ないのだろうか。腹を立てている人間を上から見下ろして偉そうなことを言えるのは、本気で実践をしていない証拠である。

 悟りすました顔で「そんなに怒るのは大人げないよ」と言えるのは、傍観者的な態度が染みついた「高等遊民」だけであろう。漱石を読むことを勧めるのなら、漱石の「高等遊民」に対する痛烈な批判からも学んでほしいものだ。ついでに、父性の欠如から生まれた現代の高等遊民=無気力青少年について解明した『父性の復権』をも読んでみてほしいものだ。

 それと、マルクス主義が嫌いなら「綱領化」などというマルクス主義の発想と切っても切れない言葉を使わないことだ。「おじさんの道」にはふさわしくない言葉だ。「綱領化」「体系化」なんぞという言葉を使うようでは、まだマルクス主義の呪縛から完全に脱しきっていないと言うべきだ。

 内田氏は「あとがき」の中で、「どうかあまり怒らないでほしいと思う。ピース」と書いている。

 こういうことを書くということは、自分の書いた批評が相手を怒らせるかもしれないと承知している証拠である。怒らせることを承知で書いておいて「怒らないでほしい」とは、幼児的な甘えとしか言いようがない。

 事実、私は怒りを感じた。なぜだろうか。それは彼が社会の病理、人間の病理に対して真剣に正面きって取り組むことをせず、逆にそうする者を茶化しているからである。

 「そんなにムキにならなくても」と冷静さを装えば、「ムキになっいる」ように描かれた者より高みに立てたと錯覚できるのであろう。

 いやしくも学問の世界に身を置き、一度でも論戦を体験している者なら、こんな恥ずかしい「あとがき」は書けまい。自らの学者としての未熟さを露呈しているだけの話だが、甘ったれるのもいい加減にしろと言いたい。

 他人を批評するのだったら、その人から怒られることくらい覚悟してやるべきだ。その程度の覚悟もなくて他人の批評をするのは、甘え以外の何物でもない。

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